竹林七賢の先人たち
こんばんは。
毎日亀のような歩みで読んでいる曹道衡『魏晋文学』から、*1
ほとんど竹林の七賢かと思わせられるような後漢の人々の逸話を教えられました。
この指摘を手引きとして、自分なりに確認したことを記しておきます。
たとえば、汝南の袁閎は、党錮の獄が起った延熹(158―167)の末、
世俗との関係を断ち切り、戸を閉め窓を塞いで、賓客との面会を拒絶しましたが、
頭には頭巾もかぶらず、身には一重の衣もはおらず、
足には木の草履、食事はハジカミのみの粗食だったそうです(『風俗通義』愆礼)。
また、大切にしていた母親が亡くなった際には、所定の服喪に従わず、
当時の人々の中には、彼を「狂生」と呼ぶ人もいたそうです(『後漢書』巻45・袁閎伝)。
ですが、後にこうした振る舞いが市民権を得てからでしょうか、
西晋の皇甫謐(215―282)撰『高士伝』(『太平御覧』巻508、698)や、
魏の周斐撰『汝南先賢伝』(『太平御覧』巻556)には、慕わしき人物として記されています。*2
同じく『風俗通義』過誉篇に記された、
桓帝期(146―167)頃の人である、河内の趙仲譲は、
高唐令に任命されると、身分を隠して任地に赴き、視察の後、数十日でふっと立ち去りました。
この逸話は、東平相となった阮籍の行動(『晋書』巻49・阮籍伝)を想起させます。
また彼は、時の大将軍、外戚の梁冀(?―159)に従事中郎として仕えた時期、
ある冬の日に庭の中に坐り込んで皮衣を脱いで虱取りをし、
終わると一糸まとわぬ姿で寝転がったといいますが、
これも『世説新語』任誕篇に記された劉伶の逸話を彷彿とさせます。
後漢の袁閎や趙仲譲は、
精神の根底に儒家思想があるということにおいても、
『晋書』本伝に「本(もと)済世の志有り」と評された阮籍と共通するものを持つと言えます。
竹林の七賢は突如出てきたわけではなくて、その先蹤者たちがいたということ、
そうした生き方をしないではいられない状況が、すでに後漢後期からあったということに、
今更ながらに気づかされました。
2021年5月15日
*1『曹道衡文集』(中州古籍出版社)巻四所収『魏晋文学』第一章第二節「魏晋的社会状況和思潮」p.162を参照。
*2 王利器『風俗通義校注』(中華書局、1981年)p.160~161を手引きとした。
西晋宮廷歌曲と曹植
こんばんは。
本日、曹植「与陳琳書」の訳注稿を公開しました。
この断片的書簡文に着目したのは、
『宋書』楽志二を読んでいる研究会の中で、
成公綏による西晋王朝の「雅楽正旦大会行礼詩」に、
この曹植の文章が踏まえられている可能性が指摘されたからです。
成公綏の当該歌辞で、曹植のこの書簡の影響が認められる部分は以下のとおりです。
登崑崙 上增城 崑崙山に登り、その一角にある増城に上って、
乘飛龍 升泰清 飛ぶ龍に乗り、天空に駆け上る。
冠日月 佩五星 日月を冠とし、五星を身に帯びて、
揚虹蜺 建彗旌 虹を掲げ、彗星の旗を立てる。
披慶雲 蔭繁榮 慶雲を敷き広げ、繁茂する草木を恵みで被いつつ、
覽八極 游天庭 世界の果てまでも見て回り、天帝の宮殿に遊ぶ。
この一節は『楚辞』の影響が濃厚な部分ですが、
「日月を冠し、五星を佩び、虹蜺を揚げて、彗旌を建つ」は、
『楚辞』の中にも明らかにそれとわかる出典を見出すことはできませんでした。
ところが、曹植の「与陳琳書」には、これと非常によく似た発想の辞句が並んでいます。
この林香奈氏のご指摘に、目の前がぱあーっと明るくなりました。
これに限らず、西晋王朝の宮廷歌曲の歌辞には、
曹植作品の表現が、かなり多く用いられていることが確認されています。
西晋の宮廷歌曲の歌辞を作った人々は、
なぜ曹植の言葉をこれほどまでに多く用いているのでしょうか。
すぐには解明できないにせよ、この疑問符を頭の片隅に置いておこうと思います。
2021年5月14日
連れ立って飛翔する鳥
こんばんは。
阮籍「詠懐詩」に見える「翺翔」の語、
昨日挙げた2例以外に、ひとりで飛ぶのではない次の詩句があります。
すなわち、『文選』巻23にも収載されている、
「昔日繁華子」に始まる、楚の安陵君と魏の龍陽君という二人の寵臣を詠じた詩に、
「願為双飛鳥、比翼共翺翔(願はくは双飛の鳥と為り、翼を比べて共に翺翔せんことを)」
とあるのがそれです。
この表現は、まず『文選』巻29「古詩十九首」其五にいう、
「願為双鳴鶴、奮翅起高飛(願はくは双鳴鶴と為り、翅を奮ひて起ちて高く飛ばんことを)」
を彷彿とさせますし、
古詩と作風の近い蘇武詩(『文選』巻29、蘇武「詩四首」其二)にも、
「願為双黄鵠、送子倶遠飛(願はくは双黄鵠と為りて、子を送りて倶に遠く飛ばんことを)」
とあったことが想起されます。
また、成立時期は不明ですが、
舞曲歌辞「淮南王篇」(『宋書』巻22・楽志四)にも、
「願化双黄鵠還故郷(願はくは双黄鵠に化して故郷に還らんことを)」と見えています。
こうした流れを汲む表現パターンは、
阮籍よりも前、すでに建安詩に散見します。たとえば、
曹丕「於清河見輓船士新婚別妻」詩(『玉台新詠』巻2)に、*
「願為双黄鵠、比翼戯清池(願はくは双黄鵠と為りて、翼を比べて清池に戯れんことを)」、
同じく曹丕「又清河作」(『玉台新詠』巻2)に、
「願為晨風鳥、双飛翔北林(願はくは晨風の鳥と為りて、双飛して北林に翔けんことを)」、
そして、曹植「送応氏詩二首」其二(04-04-2)にも、
「願為比翼鳥、施翮起高翔(願はくは比翼の鳥と為りて、翮を施べて起ちて高く翔けんことを)」
とあったのでした。
前掲の阮籍「詠懐詩」の詩句は、こうした流れの中から浮かび上がってきたものでしょう。
ただ、そのありふれた言葉にそこはかとない不吉さが漂うように感じるのは、
その連れ立って飛ぼうとする二人が寵臣だからでしょうか。
漢魏詩の常套的表現に、
阮籍が新たな意味を付与する例は少なくありませんが、
この詩に見える連れ立って飛ぶ鳥の表象も、そのひとつと言えるかもしれません。
2021年5月13日
*『藝文類聚』巻29では徐幹の作とする。
「翺翔」する阮籍
こんばんは。
一昨日、建安詩において「翺翔」という語は、
現実から軽やかに放たれるという文脈で多く用いられていると述べました。
これを具体的に示せば次のとおりです。
『藝文類聚』巻28に引く陳琳詩に、
間居心不娯、駕言従友生 間(閑)居して心は娯しまず、駕してここに友生に従ふ。
翺翔戯長流、逍遥登高城 翺翔して長流に戯れ、逍遥して高城に登る。
劉楨「公讌詩」(『文選』巻20)に、
遺思在玄夜、相与復翺翔 遺思 玄夜に在り、相与(とも)に復た翺翔す。
輦車飛素蓋、従者盈路傍 輦車は素蓋を飛ばし、従者は路傍に盈つ。
同じく劉楨「贈五官中郎将四首」其一(『文選』巻23)に、
昔我従元后、整駕至南郷 昔 我 元后(曹操)に従ひ、駕を整へて南郷に至る。
過彼豊沛都、与君共翺翔 彼の豊沛の都に過(よぎ)りて、君と共に翺翔す。
ここで注目したいのは、いずれの「翺翔」も仲間とともにあるということです。
ところが、おそらくはたった一人で「翺翔」するのが阮籍です。
その「詠懐詩」には三首の用例がありますが(其十二、三十五、六十三)、*
其三十五(世務何繽紛)に、
時路烏足争、太極可翺翔 時路 烏(いづく)んぞ争ふに足らん、太極 翺翔す可し。
其六十三(多慮令志散)に、
多慮令志散、寂寞使心憂 多慮は志をして散せしめ、寂寞は心をして憂へしむ。
翺翔観彼沢、撫剣登軽舟 翺翔して彼の沢を観、剣を撫して軽舟に登る。
其三十五は、周りの者たちとの煩わしい関係を振り切っての「翺翔」を、
其六十三は、鬱屈した現実世界から脱出する飛翔を詠じています。
ここに、仲間たちのいる気配は感じられません。
曹植作品における「翺翔」はどうなのでしょうか。
なお、この語に特定しての用例は、
意外なことに、阮籍のあと梁代までふつりと途絶えます。
「翺翔」ではない、他の表現による飛翔はあるのだろうと思います。
また、この時代の作品は多くが失われていることを念頭に置かなくてはなりませんが。
2021年5月12日
*作品の順次は、黄節『阮歩兵咏懐詩注』(中華書局、2008年)に拠った。
高翔する鶏
こんばんは。
先週末の続きです。
本日、曹植作品訳注稿「05-04 闘鶏」の修正をしました。
「長鳴」は、闘鶏の勝者を意味するという説明と、それに伴う通釈の訂正です。
その上で、鶏が「翼を扇ぎて独り翺翔」することへの疑問が残りました。
3世紀の鶏は空を飛べたのでしょうか。それはないでしょう。
同時期の劉楨や応瑒の「闘鶏詩」には、そうした描写は見当たりません。
現存資料を見る限り、別の文字に作るテキストがあるわけでもないようです。
ならば、曹植が闘鶏を見て、このようなイメージを持ったと考えるほかないでしょう。
そこで、曹植作品における「翺翔」という語の使われ方を縦覧してみたところ、
「闘鶏」以外では、以下の7例を拾い上げることができました。
(巻次はすべて丁晏『曹集詮評』に拠ります。)
巻1「節遊賦」に「歩北園而馳騖、庶翺翔以解憂。」
北園に歩みて馳騖し、翺翔して以て憂を解かんことを庶(こひねが)ふ。
巻3「離繳雁賦」に「感節運之復至兮、仮魏道而翺翔。」
節運の復た至るに感じ、魏(たか)き道に仮りて翺翔す。
巻3「酒賦」に「爾乃王孫公子、遊侠翺翔。」
爾(しか)して乃ち王孫公子は、遊侠翺翔す。
巻5「遊仙」に「翺翔九天上、騁轡遠行遊。」
九天の上に翺翔し、轡を騁(は)せて遠く行遊す。
巻6「冬至献襪履頌」に「翺翔万域、聖体浮軽。」
万域に翺翔し、聖体は浮き軽し。
巻8「釈愁文」に「趣遐路以棲跡、乗青雲以翺翔。」
遐(とほ)き路に趣きて以て棲跡し、青雲に乗りて以て翺翔す。
巻10「平原懿公主誄」に「魂神遷移、精爽翺翔。」
魂神は遷移して、精爽は翺翔す。
こうしてみると、曹植作品における翺翔という語は、
現実の重圧から軽やかに解き放たれるような場面で多く用いられているようです。
このような意味での用例は、他の建安詩人たちにも認められます。
(それが、闘鶏と結びついているところに曹植の独自性があるわけですが。)
そこから更に、魂の飛翔という意味をも帯びることになるのでしょう。
その明確な例は、最後に挙げた「平原懿公主誄」です。
「闘鶏」における「翺翔」を、
鶏の魂が飛翔したものと捉えたのは、
あながち的外れでもなかったかもしれません。
2021年5月10日
闘鶏の勝者
こんばんは。
昨日、曹植作品訳注稿の「05-04 闘鶏」を公開したのですが、
ひとつ、間違った解釈をしてしまっていたことに先ほど気づきました。
根拠となる文献を確認した上で、近日中に訂正をしますが、
なぜ誤ったかということをも含めて、ここに書き記しておきたいと思います。
間違っていたのは、一首の末尾の方にある「長鳴入青雲(長鳴して青雲に入る)」です。
私はこれを、戦いに負けた鶏が鳴き声を上げたのだと捉えていました。
というのは、本詩の語釈にも示したとおり、「入青雲」というフレーズが、
王粲や曹植の他の詩において、悲しげな鳴き声とともに詠じられていたからです。
また、この句に続く「扇翼独翺翔(翼を扇ぎて独り翺翔す)」に疑問を持ったからです。
鶏が空を飛び回ることはないだろう、とすると、これは想像上のことか、
それなら、負けた鶏の魂が空を飛翔しているのだろうか、
などと妄想に妄想を重ねていたのでした。
しかしながら、趙幼文は、『尸子』や『春秋左氏伝』襄公21年の杜預注に拠って、
闘鶏では、勝った者がまず鳴き声を上げるということを指摘しています。*
これに従うべきだと思い直しました。
仮に、長く鳴き声を上げて飛翔するものが鶏それ自体でないにせよ、
それが敗者の魂であるとは限らない、
勝者のそれかもしれないということに今気づきました。
ただ、そこはかとなく寂しさが漂うように感じるのはどこから来るのだろう。
2021年5月7日
*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.2を参照。
インドネシアからの示唆
こんばんは。
「異文化としての日本」という耳慣れない科目名の授業を担当しています。
留学生や、外国からおいでになった、あるいは海外経験の豊富な先生方から話を聞き、
日本人学生も留学生も一緒になってディスカッションをする中で、
「日本」を外側から、ひとつの異文化として見直そう、という趣旨の科目です。
毎年、留学生の顔ぶれが変われば、聞ける話も変わります。
前回の授業では、インドネシアからの留学生が次のような話をしてくれました。
インドネシアには、300以上の民族集団が存在し、
語彙や文法の異なる、700以上の言語が併存している。
国民の義務としては、必ずいずれかの宗教に帰依することが求められる、と。
様々な文化が共存する中で、その紐帯となっているのが宗教であること、
しかも、その宗教は、複数ある中から選ぶのだということに心底驚かされました。
ある宗教に帰依すると、排他的になるのが常かと思っていましたが、
少なくともこの国では違うんですね。
神と個々人との関係が絶対的に大事なのであって、
人と人とが争うなんてナンセンス、という考えになるのでしょうか。
様々な異文化が共存している状態が当たり前で、
たとえば、各地域のイスラム教の礼拝施設を見せてもらうと、
それぞれの民族集団が持っている文化に根差した様々な外観をしていて、
言われなければそれがモスクだとは分からないくらいに土地に溶け込んでいました。
なお、公用語はインドネシア語ですが、
それを母語とする人々は比較的少数だそうで(多数派が牛耳ったわけではない)、
公用語となったのは、文法体系などがシンプルで学びやすい言語だからだろうとのこと。
未来へのヒントを惜しげもなく分け与えられたような時間でした。
思えば、これは旧中国における統治方法と一脈通ずるところもあるかもしれません。
前近代の中国と、その周辺地域との緩やかな関係性に近いものを感じます。
(強大な文明が中核にあるという点では中国は独特ですが。)
この科目は、こうした授業が必要だと思ったから自ら担当者となって作りました。
もとより、学術的な専門性という観点は敢えて持たない教養科目です。
再編後の教育課程からは消えますが、これが最後となる今学期、
学生たちの変化を丁寧に見守っていこうと思います。
2021年5月6日
同時代作品の援用
こんばんは。
共同研究で読んでいる『宋書』楽志二の、
成公綏の楽府詩「晋四箱歌十六篇」中の数篇の訳注を終えました。
西晋王朝の宮中で、元旦に歌われた雅楽の歌辞です。
書いてある内容は理解できるにしても、
踏まえている経書や先行作品があるようなないような、
そのあたりのところがはっきりしない表現が多くて往生しました。
明らかにそれとわかるような典故表現ではない、ということは、
すでにそうした発想が常識となっていたことを意味するのかもしれません。
そうした中で、少し引っかかっているのが、
同時代の文人の表現を援用したかと思われる辞句が散見することです。
たとえば、次の句に見える「仁風」という辞句について。
播仁風 仁愛あふれる風を広く吹きわたらせ、
流惠康 民への恵みをゆきわたらせる。
為政者の民への働きかけを風に喩えること、
そして、その為政者の働きは仁徳を基本とすることは、
当時の政治思想、及びその文学的表現においては常識に属することです。
ただ、「仁風」と熟した語句が、
皇帝の民に対する恵みと対句で用いられている例は、
同時代の応貞「晋武帝華林園集詩」(『文選』巻20)にいう、
「玄沢滂流、仁風潛扇(玄沢 滂く流れ、仁風 潛かに扇ぐ)」くらいでした。*1
(ただし、文字どおりの「管見の及ぶ限り」です。)
応貞のこの詩は、西晋王朝が成立してほどない泰始四年(268)、
武帝司馬炎の主催する、華林園での宴に参列した際に作られたものです。
(『文選』李善注に引く干宝『晋紀』及び孫盛『晋陽秋』)
この宴に招かれた群臣の中に、成公綏がいた可能性はないでしょうか。
もしそうならば、彼は同僚の応貞が作った詩の辞句を覚えていて、
宮廷雅楽の歌辞作成にそれを織り込んだのかもしれません。
いや、やっぱり、「仁風」と恵みとの対句は常識的な発想でしょうか。
応貞の詩と、成公綏の楽府詩との前後関係も不明ですし。*2
2021年5月5日
*1 「仁風」の用例として、曹植「娯賓賦」(01-17)に「聴仁風以忘憂兮(仁風を聴きて以て憂を忘る)」とありました。
*2 その後、成公綏の楽府詩は、泰始5年以降の成立だとわかりました(『宋書』楽志一)。ということは、応貞の詩の方が先行しています。
現代日本人の病
こんにちは。
昨日に続き、まだ一昨日見た映画「ブータン 山の教室」の余韻の中にいます。
半ばいたたまれない気持ちで見たシーンで、強く印象に残っているのが、
主人公をふもとの町まで迎えにきた村の若者の態度と科白です。
主人公である、やる気のない新任教員は、
若者と食事をともにするときも電子機器を手放しません。
そんな相手に対して、「先生はそれの名手ですね」といった風な言葉をかけます。
その目には、皮肉めいた意地悪な光など微塵も宿っていません。
静かに微笑んで、淡々としたものです。
また、もう一人の同行者の若者は、
旅の安全を祈願して、石を積んで神に祈り、主人公にもそれを促しますが、
やる気のない新任教員は、そんな神など信じてはいません。
すると、それを咎めるでもなく、「では私が代わりに」と石を積んでいくのです。
彼ら山の人々はなぜここまで純粋かつ強靭でいられるのか。
それは、山の精霊たちとともにあるという実感からではないかと思います。
(精霊という言葉は正確ではないかもしれませんが、人間を超えた存在という意味です。)
ひるがえって自分はどうか。
授業で学生たちにうまく言いたいことが伝わらなかった、
今年もゼミ生はだれもいないのではないか、
同僚に誤解されたのではないか、などといちいち憂えています。
要するに、考えても仕方がない他人の心に、勝手に振り回されているのです。
これは多かれ少なかれ、現代日本に生きる人間はみな罹っている病かもしれません。
あの山の人々のように、
自身を大いなる存在の中に置いて生きることができたなら。
思えば、これは中国の道家思想と共鳴しあう考え方だとふと気づきました。
2021年5月4日
天地の精霊に捧げる歌
こんばんは。
『宋書』楽志二所収の宮廷歌曲の歌辞に語釈を付けていった後、
一日の終わりに平賀周蔵の漢詩を読むのがこのところの日課になっています。
『宋書』楽志所収の楽府詩が典故表現を連ねていることは当然として、
今日は平賀周蔵まで典故をまるごと用いた詩を詠じていました。
「華表松(鳥居の松)」という詩が、
『捜神後記』所収の、次のような故事をまるごと踏まえるものだったのです。
丁令威という人が、仙術を学んで、鶴に姿をかえて故郷に戻り、
華表(街の標識)のあたりに飛び戯れていたところ、
若者に矢を射かけられ、空高く飛び去っていったという話です。
漢学の素養豊かな平賀周蔵にとって、
「華表」といえば、丁令威が彷彿として浮かび上がる。
それを踏まえて詩を作ることは一種の知的遊戯であったでしょう。
ただ、今日の私は、少し虚ろな心持ちでこの詩を読みました。
というのは、昨日、「ブータン 山の教室」という映画を見てしまったから。
この映画の中で、土地の歌を歌う女性が言った言葉が忘れられません。
(主人公に、どういうわけで毎日歌を歌っているのか聞かれて。)
「私は歌を天地の精霊、万物に捧げています。」
(更に、歌を捧げるとはどういうことなのかを聞かれて。)
「鳥は鳴くのに誰がどう思うかなんて考えないでしょう。私もそれと同じです。」
あまり正確な記憶ではありませんが、このような趣旨の言葉でした。
また、別の歌で「純粋な心」という言葉が繰り返されていたことも印象に残りました。
時代が下ってからも、先人の言葉によりかからず、
自身が眼前にあるものから直接素手で何かを掴みとってきたような詩は、
そこに天地の精霊が降りてきていたのかもしれません。
その言葉が生まれる瞬間、小さな自我は消え去っていたのではないでしょうか。
自身の言葉が、人間を超えた崇高ななにものかに捧げられる。
人が歌うというのは、本来このようなものであったのか、と打たれました。
2021年5月3日