曹植作品の伝播
こんばんは。
昨日、ほとんど手探り状態で、曹植と嵆康との接点を、
曹植の異母弟であり、嵆康の妻の祖父である曹林に求めました。
もとよりこれは、たしかな根拠を示せるような推論ではありません。
ただ、曹植の作品は、その死後ようやく流布するようになったのに、
曹植の死後、それほど時が経過していない段階で、
嵆康の作品の中に、曹植作品の影響が色濃く認められる部分があることを、
どういうわけなのか、従前から不思議に感じていたところ、
曹林という人物に注目することで、
この疑問が少しく氷解してくるように感じたのです。
ここで改めて、曹植の名誉回復と、その作品の伝播に関して、
『魏志』巻19・陳思王植伝に拠って記しておきます。
景初中詔曰、
陳思王昔雖有過失、既克己慎行、以補前闕。
且自少至終、篇籍不離於手、誠難能也。
其収黄初中諸奏植罪状、公卿已下議尚書・祕書・中書三府・大鴻臚者皆削除之。
撰録植前後所著賦頌詩銘雑論凡百餘篇、副蔵内外。
景初(明帝の最末期 237―239)中 詔して曰く、
「陳思王 昔は過失有りと雖ども、既に己に克ち行ひを慎しみ、以て前闕を補ふ。
且つ少(わか)きより終に至るまで、篇籍 手を離れざるは、誠に能くすること難きなり。
其れ黄初中(文帝期 220―226)の諸々の植の罪状を奏せる、
公卿已下 尚書・祕書・中書の三府・大鴻臚に議せらるる者を収めて皆之を削除せよ。
植の前後に著す所の賦・頌・詩・銘・雑論凡百餘篇を撰録し、内外に副蔵せよ。」
なお、曹植の影が映じている嵆康の作品が、いつ作られたのか、
また、曹林と嵆康との交流がいつ頃から始まったのか、
私には把握できておりません。
2021年7月1日
曹植と嵆康との接点(承前)
こんにちは。
昨日、曹植と嵆康との間には、
特徴的な表現の共有が認められることを指摘しました。
その上で、もしかしたら二人は、
何か直接的な縁で結ばれていたのかもしれないとも推測しました。
結論から言えば、
二人を繋いだのは嵆康の妻の祖父、曹林ではないかと私は考えます。
曹林は、曹丕・曹植らの異母兄弟で、
曹植とその文才を競ったという曹袞(?―235)の同母兄です。
(こちらの雑記をご参照ください。)
曹林の孫娘については、かつて前掲の雑記でも言及しました。
また、曹林の人物像については、こちらでも述べたことがあります。
そこで、曹植・曹林・嵆康の三人について、一覧表にまとめてみました。
これによって見れば、
嵆康が、曹林の孫娘と結婚したのは、
曹植が名誉を回復し、その作品集が編まれ、内外に副蔵された
景初年間(237―239)頃から、およそ十年余りが経過した251年頃のことであり、
もし仮に、曹林の年齢を、曹植と同じだとするならば、
曹林と嵆康とが義理の父子となったのは、
二人がそれぞれ60歳、28歳の頃だと推定されます。
学識・人柄ともに優れた円熟期にある教養人の義父と、
傑出した才能と高潔な人格とを併せ持つ若き知識人とが意気投合し、
その談論の中で、曹植の生涯とその作品が話題に上った可能性は十分にありますし、
曹植の独創性あふれる表現に、二人が強く惹かれたであろうことも想像に難くありません。
先人の詩精神に強く共鳴し、
その共振の表れとして先人の表現を踏まえる、
というのではない、もっと直接的な言語継承の経路が、
曹林を通じて、曹植と嵆康との間に開かれていたのかもしれません。
2021年6月30日
曹植と嵆康との接点
こんばんは。
曹植の「名都篇」(『文選』巻27)に、
「鳴儔嘯匹侶(儔に鳴じ、匹侶に嘯く)」という句があります。
「鳴」や「嘯(うそぶく)」といった動詞が、
「儔(とも)」や「匹侶(なかま)」を目的語としていることに、
あまり見慣れないような感じを受けて立ち止まりましたが、
この表現について、李善は特に注してはいません。
他方、これとよく似た表現が、
同じ曹植の「洛神賦」(『文選』巻19)にも、
「命儔嘯侶(儔に命じ侶に嘯く)」と見えています。
こちらにも、『文選』李善注は特に何も語釈を施してはいません。
ということは、こうした表現は、先行作品を踏まえたのではない、
曹植独自のものだと言えるかもしれません。
それが、嵆康「贈秀才入軍詩十九首」其二(『詩紀』巻18)に、
「鴛鴦于飛、嘯侶命儔(鴛鴦 于(ここ)に飛び、侶に嘯き儔に命ず)」
と踏まえられています。
今、踏まえられている、と思わず書いてしまったのですが、
おそらく、そう言ってもよいだろうと思われます。
現存する作品を見る限り、
この表現は、曹植以前には見当たらず、
それ以降の時代においても、用例が極めて少ないから、
つまり、それほどありふれた表現ではなさそうだと言えるからです。
このほかにも、
曹植の「責躬詩」(『文選』巻20)にいう、
「遅奉聖顔、如渇如飢(聖顔を奉ぜんと遅(ねが)ふこと、渇するが如く飢うるが如し)」が、
嵆康「贈秀才入軍五首」其三(『文選』巻24)に、
「思我良朋、如渇如飢(我が良朋を思ふこと、渇するが如く飢うるが如し)」と、
踏まえられている事例を認めることができます。
(このことは、すでにこちらの学術論文№43で言及しています。)
これらは、必ずしも偶然の類似とは言い切れないのではないか、
二人は何らかの直接的な縁で結ばれていたのではないか、と思えてなりません。
このことについては、明日につないで考察します。
2021年6月29日
陳寿祺「三家詩遺説攷自序」
こんにちは。
昨日触れた陳喬樅の父、陳寿祺による「三家詩遺説攷自序」には、
『詩経』解釈の四つの流派、すなわち斉・魯・韓の三家詩及び毛詩について、
その研究史の一端が次のように記述されています。
漢伝詩者四家、魯斉韓、並立学官、元始之世、始置毛詩博士、不久旋廃。
後漢賈逵嘗受詔撰斉魯韓詩与毛氏異同。集攷三家詩、自景伯始。惜其書不伝。
宋王伯厚詩攷、所緝三家遺説、止取文字別異、缺漏甚多。
寿祺案、両漢毛詩未列於学、凡馬班范三史所載、及漢百家著述所引、皆魯斉韓詩。
異者見異、同者見同、緒論所存、悉宜補綴、不宜取此而棄彼也。
今稍増緝以備瀏覧、猶有未能具載者、他日当別成一篇、使学者有所攷焉。
嘉慶二十有四年己卯仲春、福州陳寿祺識於三山之遂初楼。
漢代、『詩経』を伝える者に四家があった。
「魯詩」「斉詩」「韓詩」の三家詩は、並びに学官を立て、
元始(前漢・平帝、1―5)の世になって、始めて「毛詩」博士が置かれたが、
それほど長く続かないうちに、間もなく廃止された。
後漢の賈逵(30―101)は、かつて詔を受けて斉・魯・韓詩と毛詩との異同を著した。*1
三家詩を集めて検討するのは、景伯(賈逵の字)より始まったのである。
ただ惜しいことにその書物は伝わっていない。
宋代の王伯厚(王応麟、1223―1296)による『詩攷』は*2、
収集する三家の遺説が、文字の異同を取り上げるに止まり、欠落や遺漏が非常に多い。
わたくし寿祺が考えるに、
両漢代において、「毛詩」は未だ学問としては認められておらず、
およそ司馬遷『史記』、班固『漢書』、范曄『後漢書』に記されているところ、
及び漢代の諸々の著述に引かれているところは、みな「魯詩」「斉詩」「韓詩」である。
異なるものはその異なるところを示し、同じものはその同じところを示し、
議論のあるところはすべて補い綴り合せるべきであって、
こちらを取り上げてあちらを捨て去るというのはよろしくないのである。
今 少しずつ蒐集を増して、もって皆様のご閲覧に備えたが、
それでもまだ、具体的に詳しく載せることができないものがあるので、
他日、必ずや別に一篇を完成させ、学ぶ者に、これをもとに考究していただきたい。
嘉慶二十四年(1819)仲春、福州の陳寿祺が、三山(福州)の遂初楼に記す。
両漢時代、三家詩が主流であったとは初めて知りました。
陳氏父子による『三家詩遺説攷』には、
様々な書物に引かれた三家詩が幅広く渉猟され、考証が加えられていますが、
そうした調査の裏付けがあってこその、この見解なのでしょう。
そうした趨勢の中で、後漢の鄭玄はなぜ『毛詩』を選んで解釈を付したのか、
経学の素人から見るととても不可思議に感じられます。
この時点では、『毛詩』が唯一、後世に残る『詩経』になろうとは、
誰にも予想されていなかったでしょう。
2021年6月28日
*1 『後漢書』巻36・賈逵伝に「(帝)復令撰斉魯韓詩与毛詩異同」と。
*2 王応麟『詩攷』は、津逮秘書所収テキストが叢書集成初編に収載されている。
父子二代にわたる仕事
こんにちは。
またしばらく間が空きました。
校務が立て込んでも時間を作って毎日の気づきを記したい、
と思いながらそれが継続できないのはなぜか、考えてみました。
それは、こんなことをやって何か意味があるのか、
もっと言えば、誰かの役に立っているのか、
などとふと思ってしまうからです。
自分は雑草と同じで、勝手に地面から芽吹いた存在なのですから、
誰かのために役立つことなどを夢想しないことです。
気づきの意味無意味を問わないことです。
さて、かつて何度か言及したことがある、
『三家詩遺説攷(考)』(王先謙編『清経解続編』巻1118―1166)について、
先日新たに知ったことがあるので、ここに記しておきます。
これまで私は、その著者を陳喬樅と記してきました。
参照したその記述の中に、「喬樅謹案(喬樅謹んで案ずるに)」とあったので。
ところがこれは、彼の父、陳寿祺から二代にわたる研究の成果でした。
その巻頭、陳喬樅「魯詩遺説攷自序」の中にこうあります。
喬樅幼承庭訓、稍長治三家詩、先大夫因出所撰三家詩遺説、命卒其業。
喬樅 幼くして庭訓[家庭教育]を承(う)け、稍(やや)長じては三家詩を治む。
先の大夫[父親]は因りて[そこで]撰する所の『三家詩遺説』を出して、
其の業を卒(を)へんことを命ず。
この自序の末尾には、「時道光十有八年戊戌(1838)秋九月」と記されています。
一方、その前に置かれた、父陳寿祺による「三家詩遺説攷自序」には、
「嘉慶二十有四年己卯(1819)仲春」と見えています。
父から受け渡された仕事を、その子は約二十年の歳月をかけて完成させた、
ということを、本書の巻頭部分から知らされました。
書名を記している部分は修正しました。
ただ、陳喬樅という名が明記されている部分の引用についてはどう記したものか、
修正の仕方は統一できていません。
2021年6月27日
素直でない遊仙詩
こんばんは。
本日読み始めた「遠遊篇」は、過日見た「遊仙」と違って、
仙界へ遊ぶということが、現実否定と分かちがたく結びついています。
そのことが顕著な句として、たとえば、
瓊蕊可療饑 美玉の蕊は、飢えを癒すことができる。
仰首吸朝霞 首を上方へ伸ばして、朝の霞を吸い込もう。
崑崙本吾宅 崑崙山はもともと私の住まいである。
中州非我家 中原の帝都など私が家ではない。
また、本詩の結びは次のとおりです。
金石固易弊 金石は元来が壊れやすいものだ。
日月同光華 私は(そんなものには拠らず)日月とともに光り輝きたい。
斉年与天地 天地と等しい永遠の歳月を渡ってゆくのだ。
万乗安足多 万乗の車を動かせる天子なんぞ、どうして見上げるに足るものか。
これらの表現は、
『楚辞』九章・渉江にいう次の句を中核に踏まえています。
登崑崙兮食玉英、与天地兮同寿、与日月兮同光。
崑崙に登りて玉英を食し、天地と寿を同じくし、日月と光を同じくす。
ただ、その直後にある、
「中州非我家(中州は我が家に非ず)」や、
「万乗安足多(万乗 安んぞ多とするに足らんや)」は、
曹植によって新たに付け加えられた言葉です。
そして、その付け加えられた言葉によって、
遊仙が、長寿を祈願するだけの遊仙には終わらなくなるのです。
このことは、すでに矢田博士氏によって論じられています。*1
加えて、こうした曹植の遊仙詩が、
阮籍「詠懐詩」と同じ構造を持つことを指摘しておきたいと思います。*2
2021年6月21日
*1 矢田博士「曹植の神仙楽府について―先行作品との異同を中心に―」(『中国詩文論叢』9号、1990年)を参照。
*2 このことは、すでに2020年12月1日の雑記に、先行研究とともに記しています。
素直な遊仙詩
こんにちは。
本日、曹植「遊仙」詩の訳注稿を公開しました。
この詩は、過日取り上げた「仙人篇」と一部の語句を共有しています。
「鼎湖」「九天上」のふたつがそれで、
「遊仙」詩では、これらの語が次のように用いられています。
蝉蛻同松喬 蝉が脱皮するように世俗から離脱し、赤松子や王子喬とともに、
翻跡登鼎湖 足跡を翻して、黄帝が昇天した鼎湖から仙界へと昇ってゆくのだ。
翺翔九天上 九天の上に飛翔し、
騁轡遠行遊 馬車を自在に操って、遠方まで自由気ままに天がけてゆく。
この詩が先に見た「仙人篇」と異なっているのは、
「鼎湖」から登仙し、「九天の上」に「翱翔」しているのが、
この詩の詠じ手その人と見られる点です。
「鼎湖」とは言っていても、黄帝のことを詠じているわけではなく、
あくまでも登仙の描写として、たとえで用いられた固有名詞であるにすぎません。
「仙人篇」では、「見ずや」という語により、それが客体化されていました。
そして、「鼎湖」から登仙したのは「軒轅氏」すなわち黄帝だと明言されていました。
自らを黄帝になぞらえ、しかも「ご覧なさい」と言って、自身を指す、
という解釈の可能性を全否定はできませんが、
その直前にいう「潜光養羽翼、進趨且徐徐」と考え合わせると、
少し文脈の流れがギクシャクするように感じるのですが、どうでしょうか。
「光を潜めて羽翼を養ひ、進趨 且(しばら)く徐徐たらん」とすることそのものが、
仙界に遊ぶことを意味するのだという考え方もあるかもしれません。
ちょっとまだ揺れています。(先日の繰り返しになってしまいました。)
そういう分からなさを多分に含む「仙人篇」と比べると、
今回読んだ「遊仙」詩には、読者を混乱させるような屈折は見当たりません。
堅苦しく退屈な現実を脱出して、のびのびと羽を伸ばして仙界に遊ぼう、
そう素直に詠じているように感じられます。
こうしてみると、本詩の成立年代を、彼が自由を謳歌していた建安年間とすることも、
まったくありえない見方でもないように思います。*
2021年6月19日
**趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.265は、「遊仙」詩を、曹植が自由を奪われた黄初年間に繋年している。
曹植詩の浮揚感
こんばんは。
このところ、曹植の遊仙詩を少しずつ読み進めていて、
強く感じるのはその表現が発する浮揚感です。
たとえば、「仙人篇」にいう「駆風遊四海(風を駆りて四海に遊ぶ)」、
ごくありふれた表現のように見えますが、
「風」を車に見立て、それを「駆」って世界中を天がけるといった表現は、
現存する先秦漢魏晋南北朝詩では、他に見当たりません。
その「七哀詩」に見えていた、
「願為西南風、長逝入君懐(願はくは西南の風と為りて、長く逝きて君が懐に入らんことを)」にも、
前掲「仙人篇」の句と同質の、しなやかな能動性を感じます。
以前、曹植がその「闘鶏」詩の中で、
本来は飛ばないはずの鶏を飛翔させていることに言及しました。
この詩は、建安年間の作だとみてほぼ間違いありません。
すると、こうした資質はすでに二十代の頃からあったと言えるでしょう。
肌感覚で大気の浮揚を感じ取り、
天空に向けて思いを解き放つその詩想が、
ほんとうに曹植に固有のものだとは現時点では言い切れません。
ただ、今はその魅力に牽引されて、
彼の遊仙楽府詩を読み進めていこうと思います。
2021年6月18日
曹植「仙人篇」考(承前)
こんばんは。
昨日の続きで曹植の楽府詩「仙人篇」の末尾について。
最後の一句「与爾長相須」を、
私は軒轅氏から曹植に向けられた言葉として捉えました。
その理由のひとつは、訳注稿の語釈にも示したように、
「爾」は、対等の間柄で使われる二人称だと私は認識しているからです。*
黄帝軒轅氏に対して、「爾」と呼びかけるのはややぞんざいに過ぎないでしょうか。
けれども、もし曹植がほんとうに黄帝に対して君呼ばわりしているのであれば、
それはまたそれで、考察に値する新しい興味が浮かび上がります。
それはともかくとして、
前掲のような解釈をしてみた、もうひとつの理由はこういうことです。
前掲句のごとく「君をいつまでも待っているよ」と言っているのは、
その前の句にある「九天の上を徘徊する」者だろうと見るのが自然でしょうが、
その「徘徊九天上」は、「不見軒轅氏、乗竜出鼎湖」の直後に出てきます。
すると、「九天の上を徘徊する」のは、
「竜に乗って鼎湖を出でた」「軒轅氏」と捉えるのが妥当ではないでしょうか。
そうでないと、ひどく慌ただしい構成になるように思います。
「軒轅氏」の昇天に対して、「不見(御覧なさい)」と人々に注意を向けさせた者が、
今度は一転して、自身も空高く昇天していき、前掲のようなセリフを言うことになるのですから。
類似する表現が、「遊仙」(『曹集詮評』巻5)にも出てきます。
曹植の他の遊仙詩をも広く読んでいけば、また違った結論にたどり着くかもしれませんが、
今は、仮に上記のように通釈しておきます。
この楽府詩「仙人篇」には、ほかにもまだ釈然としないところがあります。
それも、多くの作品を読み、時を重ねていけば、いつかは解明できるかもしれません。
(今はわかる、曹植「七哀詩」と晋楽所奏「怨詩行」との関係も、十年ほど前は未解明でした。)
2021年6月15日
*このことは、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.428に論及しています。ただ、もっと広く調査すれば、あるいは反証も見つかるかもしれません。
曹植「仙人篇」考
こんにちは。
すっかり間が空いてしまいました。
昨日、曹植「仙人篇」の訳注稿を公開しました。
いくつか残した不明瞭な点も含めて、ここで振り返ってみます。
本作品の成立年代について、
多くの注釈者は、黄初年間(220─226)と推定しています。
すなわち、曹丕が魏の文帝として君臨し、曹植を含めた弟たちを冷遇した時期、
曹植の年齢で言えば三十代前半に当たる年代です。
この推定は妥当だと私も考えます。
というのは、たとえば次のような句が見えているからです。
潜光養羽翼 輝きを隠し、羽翼を休ませて元気を養い、
進趨且徐徐 しばらくは立ち居振る舞いを緩やかに控えよう。
このような発想に至った具体的契機が示されているわけではありません。
ただ、こうした退却志向は、曹操が存命中の建安年間には認められないものです。
本詩を、曹丕によって自由が奪われた時期の作だと見る説には、説得力があると判断されます。
本詩のこの句より前、曹植は言葉を敷き連ねて仙界への飛翔を詠じています。
すると、仙界に遊ぶことが、前掲の二句にいう「光を潜める」ことと重なるでしょうか。
つまり、遊仙を、現実からの逃避と同義だとしているということです。
曹植以前に、こうした発想の遊仙詩はほとんど見出せません。*
ただし、「羽翼」という語が、飛翔ということを直に連想させるため、
前掲の二句を、仙界への飛翔と同一視することには少しくためらいを感じています。
では、その二句に続く次の四句はどう捉えるべきでしょうか。
不見軒轅氏 見ずや 軒轅氏の、
乗竜出鼎湖 竜に乗りて鼎湖を出づるを。
徘徊九天上 徘徊して九天に上り、
与爾長相須 爾と長く相須(ま)たん。
最後の一句「与爾長相須」について、
多くの注釈者は、その主体を「徘徊して九天に上る」者だと捉え、
その者と、本詩の前半で仙界に飛翔している詠じ手とを同一視しています。
そして、「爾」は、「軒轅氏」のことを指すとしています。
本当にこのような解釈でよいのか。
これとは別の見方をすることも可能なのではないか。
この続きは明日述べます。
2021年6月14日
*矢田博士「曹植の神仙楽府について―先行作品との異同を中心に―」(『中国詩文論叢』9号、1990年)に指摘する。