考証学者との距離
こんばんは。
先にこちらで言及した、
曹植「名都篇」に見える「寒」という調理法について、
黄節『漢魏楽府風箋』巻十五所収「名都篇」箋にも引かれている、
朱蘭坡『文選集釈(選学叢書)』巻十七「名都篇」を確認してみました。
『周礼』天官冢宰・漿人の鄭玄注に、「涼、今寒粥也(涼とは、今の寒粥なり)」といい、
同じく天官冢宰・膳夫の注で、「涼」と「䣼」とを通じて用いるテキストがあり、
『広雅』釈器に「酪・酨・䣼、漿也(酪・酨・䣼は、漿なり)」とある、
ということが指摘されています。
この一連の説明によると、「寒」は、冷製スープのようなものだと言えそうです。
朱蘭坡『文選集釈』には、その前の句の「臇」についても詳しい考証が見えています。
考証学者のこの細かさには、正直なところ、そこまでしなくてもと感じることも多いです。
様々な文献を渉猟した結果が、常識とそれほど大差なかったりする場合もあります。
ただ、現代風のいい加減な語釈をして大きな誤解をすることは、
こうした研究成果をきちんと踏まえることによって回避できるかもしれません。
なんにせよ、自分が一番ものを知らない人間であることはたしかなので、
これからも古人の著作から教わるという姿勢を持ち続けます。
ただ、古人だからといって、絶対視する必要はないとも思っています。
それは、今人の先行研究に対して、全面的に寄りかかることがないのと同じです。
2021年4月26日
それぞれの事情
こんにちは。
先に、成公綏の「晋四箱歌十六篇」第六篇を取り上げて、
『易』と、西晋王朝の成立を上天に告げる文章の語句とが対を為すことを指摘しました。
その際、成公綏によるこの歌辞が、
これほど濃厚に王朝への忠誠心を含んでいることに少なからず驚かされたのでしたが、
では、この成公綏という文人はどのような背景を持つ人物なのでしょうか。
『晋書』巻92・文苑伝(成公綏)には、次のようなことが記されています。
成公綏は幼い頃から聡明で、儒教の経典に広く通じていたが、
元来が寡欲な人柄で、極貧生活の中でも安らかな心持を保っていた。
辞賦に優れた才能を持っていたが、世の中に広く知られることは求めなかった。
西晋王朝の時代となって、重臣の張華に見出され、博士、秘書郎、中書郎を歴任し、
張華とともに詔を受けて詩賦を作ったり、賈充らと法律を策定したりした。
泰始九年(273)、43歳で亡くなったことからすると、
成公綏という文人は、その二十代、三十代を、
魏が西晋に簒奪されてゆく過程の中で過ごしたことになります。
もしかしたら彼は、
弱体化した魏王朝の有り様をなすすべもなく眺めつつ過ごし、
次の西晋王朝が成立してから、張華の推挙に応じたのかもしれません。
貧しい、とても有力な家柄の出ではなさそうな彼としては、
似た境遇から身を起こした張華からの推挙はうれしいものだったかもしれません。
とはいえ、西晋王朝に仕えることを、彼自身がどう思っていたかは不明です。
その「鸚鵡賦(序)」(『太平御覧』巻764・924)に、次のようにいいます。
小禽也。以其能言解意、故為人所愛、育之金籠、昇之堂殿。然未得鳥之性。
鸚鵡(オウム)は小禽である。
その、よく話し、言葉の意味を理解できるという能力によって人間に愛玩され、
人はこの鳥を金籠の中で育て、長じては御殿の堂上に上らせる。
けれども、この鳥はいまだ鳥の本性を全うできていない。
鸚鵡はこの時代、割合よく賦に詠じられる題材ではありますが、
そうした小さな存在に目を留め、それを「未だ鳥の性を得ず」と表現した彼の心中は、
必ずしも自身のあり様に満足しきっていたとも言えないように感じられます。
(ただし、この作品の成立年代や背景などはすべて未詳です。)
新しい組織への対し方、距離の取り方には、人それぞれの事情がある。
そうした当たり前のことを、成公綏に気づかされました。
2021年4月25日
知識人と大衆
こんばんは。
曹道衡『魏晋文学』第一章第二節「魏晋的社会状況和思潮」に、*
王莽新に抵抗したのは、赤眉ら農民軍以外に、地方豪族らがいたこと、
豪族たちは、農民にも役人に対しても、一定の影響力を持っていたことが述べられ、
その事例として、次のような記事が列挙されています。
赤眉軍をその徳でもって退却させた樊宏(『後漢書』巻32・樊宏伝)。
また、隠者の逢萌は、北海太守の招きに応じなかったために捕えられそうになったところ、
当地の人民たちがこれに抵抗して彼を守ったこと(同巻83・逸民伝)。
更に、黄巾賊から、県境に侵入しないことを丁重に約束された儒者の鄭玄(同巻35・鄭玄伝)。
こうした知識人と民衆との幸福な関係は、
今の時代からすると、非常に新鮮に感じられます。
また、少し前の中国で吹き荒れた文化大革命のことも想起されます。
曹道衡先生は、抑制のきいた筆致で、
光武帝が名士たちを集めたのは、彼らの名声を慕ったのみならず、
彼らが一般人民に対して持っていた影響力を考慮に入れたためである、と論じておられますが、
もしかしたら、先の時代のことが意識の底にあったかもしれないとひそかに思いました。
何も分かっていない者の不躾な想像です。
2021年4月24日
*『曹道衡文集』(中州古籍出版社、2018年)巻四に収載。
阮籍の不服従
こんばんは。
今日も『宋書』楽志所収の楽府詩について。
王朝が主催する公的な宴席で流れる楽曲の歌辞には、
『易』『書経』『詩経』といった儒教の経典に出る語が散りばめられています。
そして、これはこの種の楽府詩に限定されることではありませんが、
対句においては、基本的に同等の古典に由来する語を配置するのが普通であって、
それを踏み外した作品は、自分のような者から見ても、少し下手なように感じられます。
王朝の威信をかけた場で演奏される楽曲の歌辞なのですから、
当然、立派な典故を踏まえた対句が並んでいるはずだと思って読んでいると、
時々、一見そこから外れたように見える辞句に出会うことがあります。
たとえば、昨日と同じ成公綏による「晋四箱歌十六篇」の第六篇に見える次の対句、
德光大 德は光大にして(皇帝の徳は広く輝きわたり)、
道熙隆 道は熙隆す(その治世の道が盛大に興る)。
「德光大」は、『易』坤卦彖伝に見える次の辞句を踏まえています。
坤厚載物 徳合无疆 坤は厚く物を載せ、徳 无疆に合す。
含弘光大 品物咸亨 含弘光大にして、品物 咸(みな)亨(とほ)る。
ところが、対を為す「道熙隆」については、『易』に釣り合う出典が見つかりません。
おかしいなあと思って調べてみたところ、*
『晋書』巻3・武帝紀に記す、
西晋王朝が成立した泰始元年(265)の冬十二月丙寅(17日)、
武帝司馬炎が魏からの受禅を上帝に告げる文章の中に、次のとおりありました。
昔者唐堯、熙隆大道、禅位虞舜。舜又以禅禹、邁徳垂訓、多歴年載。
昔 唐堯は、大道を熙隆し、位を虞舜に禅(ゆず)る。
舜も又以て禹に禅り、徳に邁(つと)めて訓を垂れ、多く年載を歴(へ)たり。
大いなる「道」と「熙隆」とが一緒に用いられているので、
前掲の成公綏の歌辞は、これを念頭に置いた表現であることほぼ確実でしょう。
『易』と、禅譲を上天に報告する文章とを同等に置いている。
その王朝に対する服従のあり様に、そこまでなのかと驚きを禁じ得ません。
これに対置させてみると、阮籍の不服従の重みが想像できるようです。
彼は、いずれ西晋王朝を立てることになる司馬氏の庇護下に生き延びた人物ではありますが、
その不埒とも見える型破りの行動が、どんなに強い思い切りを要するものであったか、
親友とも死別し、独自の道を歩んだ彼の孤独を思います。
2021年4月23日
*台湾の中央研究院による漢籍電子文献で検索しました。自力ではたどり着けなかった文献です。
楽府詩の押韻
こんばんは。
これは、音韻学の分野では疑問に値しないことなのかもしれませんが。
『宋書』楽志二に収録された楽府詩(歌詞)を読む研究会で、
時々、異なる声調にわたって押韻しているのかと疑われるような事例に遭遇します。
現代中国語に四声(四つの音調)があるように、
古漢語にも、平声・上声・去声・入声の四つの声調がありますが、
たとえば唐代の定型詩では、この声調の枠を越えて押韻することはないと聞きます。
ところが、この原則に合致しない事例が、上記の楽府詩群には割合よく見られるのです。
(以下の話は、こちらの韻目表をあわせてご覧いただければと思います。)
たとえば、西晋の「食挙楽東西箱歌十二篇」の第十一篇は、
偶数句末に「塵・鄰・秦・仁・民・震・人・賓・陳・鈞・珍・身・新」という字が並びますが、
隋代に成った韻書『切韻』の系譜を引く、北宋初期の韻書『広韻』によると、
「鈞」は上平声18「諄」、「震」は去声21「震」、他はすべて上平声17「眞」の韻です。
(上平声とは、分量の多い平声を上下ふたつに分割した、その上という意味です。)
このうち、「眞」「諄」の韻は、
唐代の定型詩(近体詩)でも通用され、
『広韻』にも「同用」と記されている、実質上ほぼ同じ響きの韻と見られるものです。
これら、「眞」「諄」の韻に属する上記の文字はすべて平声です。
ところが、その間に挟まれた「震」韻は去声であり、これだけが異質です。
押韻を、同じ平声のものだけに限定し、声調の異なる「震」のみを除外すると、
一首の脚韻が全体として整わないということになるでしょう。*
更に、次のような事例もあります。
成公綏による「晋四箱歌十六篇」の第八篇です。
本詩は、第一句に「命」、
偶数句末に「聖・盛・政・聖・仁・鈞・潤・儁・胤・昆」という字が並びます。
このうち、「命」は去声43「映」、「聖・盛・政・聖」は去声45「勁」で、
この「映」「勁」の両韻は、『広韻』でも同用と記されている、実質上同じ韻です。
ここまでは何の問題もありません。
換韻して、続く「仁」は上平声17「真」、「鈞」は上平声18「諄」、
「潤・儁」は去声22「稕」、「胤」は去声21「震」、
そして「昆」は上平声23「魂」です。
このうち、「真」と「諄」の韻、及び「震」と「稕」の韻は、
それぞれ相互に『広韻』で同用と記される、実質上は同じ響きの韻と目されるものです。
他方、「魂」韻は、同じ平声の「真」「諄」韻と同用ではありません。
けれど、これら三つの韻はすべて、古詩においては通押する、近い響きを持つ韻です。
(ここまでは問題ありません。問題はここからです。)
もし声調が同じであることを押韻の条件とするならば、
この楽府詩の後半部分の押韻は、
「仁・鈞」「潤・儁・胤」「昆」の三つに区分されることとなり、
すると、最後の「昆」だけがぽつんと取り残されることになってしまいます。
ここは、声調が(平声と去声とで)異なってはいても、
「仁」以下「昆」に至るまで、すべて押韻していると捉えるべきでしょう。
『宋書』楽志二に採録されている歌辞は、
その当時、歌われていたことが確実であるものばかりです。
声調は、楽曲のうねりの中に埋没してしまうものなのかもしれません。
ならば、声調は度外視して、韻の響きにのみ注意が向けられても不思議はありません。
2021年4月22日
*于安瀾『漢魏六朝韻譜』(河南大学出版社、2015年)魏晋宋譜・真諄臻(p.175)に、去声の震韻が平声の真韻と通押している例として、張華「武帝哀策文」(『藝文類聚』巻十三)を挙げる。この文章は特に音楽に乗せられたものではなさそうだ。すると、この時代の詩文における押韻は、基本的に声調にはそれほど注意を向けない、緩やかなものだったとも考えられるだろうか。
当たり前は記されない
こんにちは。
やっと先が見えてきた曹植「名都篇」の訳注稿、
語釈において意外と手こずったのが、料理の内容やその調理法についての説明です。
膾鯉臇胎鰕 鯉を膾(まなす)にし 胎鰕を臇(あつもの)にし、
寒鼈炙熊蹯 鼈(すっぽん)を寒にし 熊蹯(くまのてのひら)を炙(あぶ)る。
まず、料理の素材として並んだ語のうち、「胎鰕」は未詳です。
これと対を為す「熊蹯」、またその上に並ぶ「鯉」「鼈」は他の作品でも見かける語ですが、
「胎鰕」は、辞書や類書などでも大抵、曹植のこの「名都篇」が用例に上がります。
『文選』五臣注の劉良注、
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)、
あるいは『漢語大詞典』(漢語大詞典出版社、1990年)はこれに語釈を施していますが、
それだって、何か根拠となる一次資料が示されているわけではありません。
更に、「寒」という調理法の説明にも困りました。
『文選』李善注は、前漢の桓寛撰『塩鉄論』散不足での用例に加えて、
後漢の劉煕撰『釈名』釈飲食の説明を挙げ、「寒」「韓」が通じることを付記して、
その調理法が韓の国由来のものであることを示しています。
ですが、肝心の具体的な調理法は不明です。
なぜ、「寒」という料理について具体的な説明が為されないのか。
それは、漢魏の時代、「寒」はあまりにも当たり前の語句であったため、
わざわざその調理の実態を示す必要はないと判断されたのではないかと想像します。
思うに、「寒」という調理法に、この字本来の意味が含まれないはずはないでしょう。
「寒食」という語で示される風習があることから推し測られるように、
これは今でいう冷製のようなものかもしれません。
あまりにも当たり前のことは、文献に足跡を残さないものなのかもしれません。
なお、「寒」と「膾」とを対句で用いる例は、
曹植「七啓」(『文選』巻34)にも次のとおり見えています。
寒芳蓮之巣亀 芳蓮の巣亀を寒にし、
膾西海之飛鱗 西海の飛鱗を膾にす。
こちらの李善注には、「寒、今〓[月+正]也(寒とは、今の肉の炒り煮である)」とあり、
続けて前掲の『塩鉄論』『釈名』を同様に引いています。
2021年4月21日
「侍太子坐」解題への追記
こんばんは。
丁晏『曹集詮評』を底本とした曹植作品のテキストファイルを作成し、
少しずつ、諸本に当たって文字の異同を確認する交換作業を進めていますが、
地味な作業の中、時々拾い物をすることがあります。
昨日も『初学記』巻10に引く『魏文帝集』に目が留まりました。
曹丕が太子に立てられたのは建安22年(217)ですが(『魏志』文帝紀)、
実はそれ以前、すでに曹操の後継者と定められていたようで、
このことを示すのが、その『魏文帝集』の記述です。
喜び勇んでノートに書いたのですが、念のため確認をしたら、
すでにこちらの雑記に、津田資久氏の論文に教わったこととして記していました。
曹植作品訳注稿「04-02 侍太子坐」の解題に、本日このことを追記しました。
新しい収穫が何もない日もあれば、
天啓のような光がたくさん降ってくる日もあります。
何もない地味な日々を、くさらずに焦らずに、丁寧に踏みしめていきたい。
2021年4月20日
古詩を取り込んだ楽府詩
こんにちは。
昨日紹介した、阮籍「詠懐詩」其六十四が踏まえた可能性のある、
曹植「送応氏詩二首」其一について。
その末尾にいう「念我平常居、気結不能言」は、
訳注稿にも示したとおり、『玉台新詠』巻1所収「古詩八首」其七を踏まえています。
今、その全文を挙げれば次のとおりです。
01 悲与親友別 親友と別れるのが悲しくて、
02 気結不能言 気は結ぼれてものを言うこともできない。
03 贈子以自愛 そなたに、どうかご自愛くださいとの言葉を送ろう。
04 道遠会見難 道は遠く、お会いすることも難しくなるだろう。
05 人生無幾時 人の一生はいくばくもなくて、
06 顛沛在其間 その短い間には思いがけない挫折が待ち構えているものだ。
07 念子棄我去 繰り返し念頭に浮かび上がるのは、そなたが私を捨て去ってゆき、
08 新心有所歓 新しい心持で、親密な友に巡り会うのだろうということだ。
09 結志青雲上 世に出て、青雲の志を実現されたあかつきには、
10 何時復来還 いつかまた帰ってきてくれるだろうか。
相手に対する思いの濃密さ、距離の近さに少しく違和感を覚えるような詩ですが、
当時の中国の士人たちにとってはこれが普通だったのでしょうか。
それはともかく、「気結不能言」という句は、
別に、『宋書』巻21・楽志三所収の「艶歌何嘗行・白鵠」にも見えています。
ただ、この晋楽所奏の「艶歌何嘗行・白鵠」は、
この楽府詩の原型と見られる『玉台新詠』巻1所収の古楽府「双白鵠」に、
前掲の古詩「悲与親友別」や、
『文選』巻29所収の蘇武「詩四首」其三の句などが流入して成ったものと見られます。*
このような理由により、
曹植「送応氏詩二首」其一の語釈に、
晋楽所奏「艶歌何嘗行・白鵠」を挙げることはしませんでした。
2021年4月19日
阮籍「詠懐詩」と曹植詩
こんばんは。
昔のノートを見ていて拾い物をしました。
阮籍「詠懐詩」其六十四*と曹植「送応氏詩二首」其一との間に、
影響関係があるのではないかというメモ書きです。
まず阮籍詩の全文を示せば次のとおりです。
01 朝出上東門 朝に上東門を出て、
02 遥望首陽基 遥かに首陽山の麓を望む。
03 松柏鬱森沈 松柏は鬱蒼と繁茂し、
04 驪黄相与嬉 コウライウグイスは嬉しそうに鳴き交わしている。
05 逍遙九曲間 屈曲する黄河のほとりをのんびりとぶらつき、
06 徘徊欲何之 行きつ戻りつしてどこへ赴こうとするのか。
07 念我平居時 我が往年の日常を思えば、
08 鬱然思妖姫 憂悶が頭をもたげて妖姫が思われる。
第1・2句は、以前にも触れたように、漢魏詩には常套的なものです。
前掲の曹植「送応氏詩」の冒頭にも、類似する句が次のとおり見えています。
(曹植の本詩全体については、こちらの訳注稿をご覧ください。)
歩登北邙阪 歩みて北邙の阪を登り、
遥望洛陽山 遥かに洛陽の山を望む。
そして、それ以上に注目されるのは、阮籍詩の第7・8句に似た句が、
同じ曹植「送応氏詩二首」其一の結びにも、次のとおり見えていることです。
念我平常居 我が平常の居を念ひ、
気結不能言 気は結ぼれて言ふ能はず。
阮籍詩の第7句「念我平居時」は、
曹植詩の「念我平常居」とほとんど重なり合っています。
前掲の冒頭二句、そして結びの句が、揃ってこのように似ているのですから、
これは明らかに、阮籍が曹植詩を踏襲したと見てよいでしょう。
両詩とも同じように、
ひらけた場所から遠くを眺めやり、
眼下に広がる情景を描写した後に、
苦い思いとともに過去を振り返る、という構成を取っています。
阮籍詩にいう「妖姫」は、何を指しているのか未詳ですが、
この詩が、曹植「送応氏詩二首」其一を念頭に作られたものだとすると、
そこから解明への糸口が探し出せるかもしれません。
2021年4月18日
*作品の順次は、黄節『阮歩兵咏懐詩注』(中華書局、2008年)に拠った。
『焦氏易林』と歴史故事(再び承前)
こんにちは。
今日も昨日の続きを少しばかり。
『焦氏易林』巻2、「賁」之「升」にこうあります。
随和重宝 随侯の珠や和氏の璧といった貴重な宝物は、
衆所貪有 大衆が貪欲に所有しようとするものだ。*1
相如睨柱 藺相如は、和氏の璧を手にして柱を睨みつけ、
趙王危殆 趙王の命運は危機的状況だ。
後半3・4句目は、藺相如のいわゆる「完璧」の故事を踏まえたものです。
秦の昭王は、趙の恵文王が和氏の璧を手に入れたことを聞きつけ、
それと十五城とを交換しようと持ち掛けてきました。
この交渉のために秦へ出向いたのが藺相如です。
藺相如は、秦王が和氏の璧を取り、十五城を引き渡すつもりがないのを見ると、
璧に瑕疵があると欺いてこれを奪還し、柱に撃ちつける身振りを取って強気の交渉に出ます。
『史記』巻81・廉頗藺相如列伝は、この一連の経緯を活写して、その中にこうあります。
相如持其璧睨柱、欲以撃柱 相如は其の璧を持ちて柱を睨み、以て柱に撃たんと欲す。*2
この場面は非常に劇的で、漢代画像石にも割合よく描かれているところです。*3
この他、『史記』廉頗藺相如列伝に見える劇的な表現として、
たとえば藺相如が秦王から和氏の璧を奪還した後の様子を次のように描写しています。
王授璧、相如因持璧却立、倚柱、怒髪上衝冠、謂秦王曰……
王は璧を授け、相如は因りて璧を持ちて却きて立ち、柱に倚り、
怒髪上りて冠を衝き、秦王に謂ひて曰く……
「怒髪上衝冠」に類似する表現は、
たとえば『史記』巻86・刺客列伝に、荊軻が刺客として秦へ出発するのを見送る一同の様子を描写して、
「士皆瞋目、髪尽上指冠(士は皆目を瞋(いか)らせ、髪は尽く上りて冠を指す)」と、
また、『史記』巻7・項羽本紀に、鴻門の会に乱入した樊噲の様子を描写して、
「瞋目視項王、頭髪上指、目眥尽裂(目を瞋せて項王を視、頭髪は上に指し、目眥(まなじり)は尽く裂く)」とあります。
更に、後漢時代に上演されたことが確実な「鼙舞歌」の、
その忠実な祖述作品であると判断される曹植「鼙舞歌・孟冬篇」にいう、
「張目決眥、髪怒穿冠(目を張りて眥を決し、髪は怒りて冠を穿つ)」も想起されます。*4
要するに、これらは激情が最高潮に達したところで出てくる類型的な辞句で、
こうした表現は、口頭によって上演されるような文芸ならではと見ることができそうです。
また、藺相如の「完璧」の故事が演劇的であることは、
その会話を主体とする文体に、繰り返しが認められることからも推し測られます。*5
しかも、それが漢代画像石に描かれていることも、
この故事が語り物か演劇として上演されていた可能性を示唆しています。*6
『焦氏易林』は、こうした漢代の文芸をごく自然に吸収して成ったものなのでしょう。
曹植もその同じ空気を呼吸していたのだと思われます。
(ことによっては『焦氏易林』を愛読していたとも想像されます。)
2021年4月15日
*1「所」字、叢書集成初編所収の『焦氏易林』は「多」に作り、「別本作所」と注記する。今、この別本に従っておく。
*2 劉銀昌「『焦氏易林』詠史詩探析」(『渭南師範学院学報』第26巻第1期、2011年1月)に、『焦氏易林』が『史記』のこの表現を直接用いていることを指摘する。
*3 張道一『漢画故事』(重慶大学出版社、2006年)p.98―101、長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)p.90を参照。
*4 柳川順子「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として―」(『中国文化』第73号、2015年)(こちらの学術論文№39)を参照されたい。
*5 宮崎市定「身振りと文学―史記成立についての一試論―」(『宮崎市定全集5』岩波書店、1991年。初出は『中国文学報』第20冊、1965年4月)を参照。
*6 柳川順子「漢代画像石と語り物文芸」(『中国文学論集』第43号、2014年12月)(こちらの学術論文№38)を参照されたい。