鶏が飛んだわけ

こんにちは。

曹植「闘鶏」詩には、次のとおり、飛翔する鶏が描かれていました。

長鳴入青雲  長く鳴き声を上げて青雲に入り、
扇翼独翺翔  翼で風を起こしてひとり空高く飛び回った。

この飛ぶ鶏について、先日(2021年5月10日7日)疑問が残ると述べました。

もしかしたらこういうことかもしれない、という考えが浮かんだので、
本日ここに記しておきます。

きっかけは、曹植「升天行 二首」其一に見える一句、
「翔鵾戯其巓(翔鵾 其の巓に戯る)」の「翔鵾」に対する語釈でした。

まず、「鵾」は、「鶤」字の別体。

この「鶤」について、『爾雅』釈畜に「鶏三尺為鶤(鶏の三尺なるを鶤と為す)」とあり、
つまり、「鶤」とは、大きな鶏のことだと説明されています。

また、『説文解字』鳥部(段玉裁注本で四篇上)には「鶤、鶤鶏也」とあり、
「鶤」は、鶤鶏(鵾鶏)と同じものだと説明されています。

では、鶤、すなわち鶤鶏(鵾鶏)とは、具体的にどのような鳥なのでしょうか。

『淮南子』覧冥訓に、
「過帰雁於碣石、軼鶤鶏於姑餘(帰雁に碣石に過ぎ、鶤鶏に姑餘に軼(す)ぐ)」、
その高誘注には、「鶤鶏」とは、鳳凰の別名だとあります。

『文選』巻2、張衡「西京賦」に、
「翔鶤仰而不逮、況青鳥与黄雀(翔鶤すら仰ぎても逮ばず、況んや青鳥と黄雀とをや)」、
その薛綜注は、「鶤」を「青鳥」「黄雀」と対比させて大いなる鳥であるとし、
李善注に引く『穆天子伝』には、「鶤鶏飛八百里(鶤鶏は飛ぶこと八百里)」とあって、
この鳥に対して郭璞は、「即鵾鶏、鵠属也」と注しています。

以上を要するに、
大型の鶏を意味する「鶤」は、
別名を鶤鶏(鵾鶏)といい、それは、神聖なる霊鳥、鳳凰だとされたり、
ハクチョウにも似た、天がける大型の鳥とされたりしています。

このような言語上のイメージの集積が、
曹植「闘鶏」詩において、空高く飛翔する鶏となったのでしょう。

ところで、曹植の描く鶏は、声を長く伸ばして鳴いていました。
これも、闘鶏における勝利者宣言を意味するのみならず、
鵾鶏の持つイメージが、それに重ねられている可能性があるかもしれません。

『楚辞』九辯(『文選』巻33、宋玉「九辯五首」其一)にいう、
「雁廱廱而南遊、鵾鶏啁哳而悲鳴(雁は廱廱として南に遊び、鵾鶏は啁哳として悲鳴す)」とあり、
ここでの「鵾鶏」は悲しげな声を上げています。

また、張衡「南都賦」(『文選』巻4)には、
悲しげな音楽を描写して「寡婦悲吟、鵾鶏哀鳴(寡婦は悲吟し、鵾鶏は哀鳴す)」とあります。

これらが記憶の片隅にひっかかっていて、
曹植「闘鶏」詩に描かれた鶏に、そこはかとない悲哀を感じたのだろうと思います。

2021年5月24日

教員としての喜び

こんにちは。

今年も、演習科目で、白居易と元稹との交往詩を読んでいます。
今日、前回の振り返り課題をまとめていて、非常にうれしくなりました。
回を追うごとに、調べ方が深くなっているからです。

たとえば、白居易「寄元九」詩(『白氏文集』巻九、0407)に見える次の句、

況随白日老  況んや白日に随(したが)ひて老い、
共負青山約  共に青山の約に負(そむ)けるをや。

この「青山約」の意味を保留としていたところ、
ある学生は、前回、授業中に紹介したサイト「寒泉」をさっそく利用し、
(今、図書館が使えませんから、ネット上で調べたのですね。)
次のような調査・考察をしていました。

・「青山約」が「奇元九」詩以外で使われている例を調べたところ、……
・「青山」で調べてみると、「白髪」と対となっていることが多い傾向がうかがえる。
・「青山」の意味には、①青々と木の茂っている山。②墓地という意味がある。
・以上のことを考え合わせると、「青山約」には、②の意味が強く出ているのではないか。

こういうレポートに出会うと、教員をやっていてよかったと感激します。
学生たちがそれぞれに、ひとつずつ目の前の世界が明るく開けていく体験をしている、
そのことに立ち会うことができることこそが、教員の喜びです。

この科目も含めて、今期担当している授業はすべて選択科目です。
特に、この演習科目は、本命は別にあって受けてみたという学生が多いと聞きます。
そういう、ちょっと脇道へ行ってみようか、という姿勢がいいです。
自分から、興味本位で触れたものには拾い物があります。

なお、以前この詩に訳注を付したとき(こちらの著書№3)、
私は前記のことに気づけていませんでした。

考え直す必要があると思っています。

2021年5月23日

教員としての所感

こんにちは。

教員としての無力感を覚えることが少なくない昨今、
これを打破せよとばかりに、教え方の勉強会が学内でも盛んに行われます。

教え方にすばらしい技能を持っているかと問われれば、私は黙り込むほかありません。
長年、自分の至らなさに苦い思いをかみしめながら試行錯誤してきました。

ただ、今朝ふと振り返って思ったのですが、
教育というものには、
こちらの熱意や技術だけではどうにもならない部分があります。
それは、相手あってのことですから。
何かを受け取る用意のない人には、どんな言葉も届かない、
その視点が、昨今の教育技術論には抜けているのではないかと思ったのです。

これを学べば、こんな能力が身につく、とか、
この資格を取得すれば、こんな有利なことがある、などと言われて、
果たしてその学ぶ内容に知的好奇心を感じるものだろうか。
自分ならますます嫌になるだろうと思います。

これはどういうことだろう、なぜだろう、
と考えることそれ自体がものすごく面白いことなのです。
そういう、疑問符でいっぱいの人には、ちょっとした一言も響くはずです。

『論語』衛霊公篇にある次のフレーズ、

子曰、不曰如之何如之何者、吾末如之何也已矣。
  先生がおっしゃった。
  「どうしよう、これをどうしよう」と言わない人には、
  私は彼をどうしようもないなあ。

これも、そういうことが示唆されているのだろうと思います。

打っても響かなかった高校時代の私ですが、
孔子という人は、教育者としてすごい人だったのだ、
とおっしゃった国語の先生の言葉が、なぜか深く印象に残っています。

2021年5月21日

日月を連ねる

こんにちは。

先日こちらでも言及した曹植「与陳琳書」の中に、
「連日月以為佩(日月を連ねて以て佩と為す)」という句があります。

表面上これに似た辞句が、昔のノートに記されていました。
(五言句型を為すという点で目に留まったものです。)

『漢書』巻21・律暦志上にいう、
「日月如合璧、五星如連珠(日月は璧を合するが如く、五星は珠を連ぬるが如し)」、
また、これとほぼ同一の、『桓譚新論』(『太平御覧』巻329)にいう、
「日月若合璧、五星若連珠」がそれです。

更に調べてみると、この対句は他の書物にも散見するものでした。*
『宋書』巻27・符瑞志上、司馬彪『続漢書』天文志上、
『旧唐書』巻33・暦志二、同巻79・傅仁均伝、『新唐書』巻25・暦志一にも、
ほとんど同一の対句が見えています。

『漢書』の記述は、前漢太初元年(BC104)の出来事、
『桓譚新論』は周の武王、『宋書』は堯、『続漢書』は三皇のことについて、
『旧唐書』『新唐書』では、いずれも暦法をめぐる説明や論駁の中に、
前掲の対句が、ほとんど形を変えずに見えています。

ということは、「日月如合璧、五星如連珠」は、
ある固有の歴史的事件に対してのみ用いられる辞句ではなくて、
ある特別なめぐり合わせで現れる、天文上の現象を指して言うのでしょう。
なお、『文苑英華』巻3・天象三には、「日月如合璧賦」三首が収録されています。

以上に述べたことは、中国の天文学に詳しい方々には常識なのかもしれませんが、
自分への覚書として、ここに記しておきます。

先に示した曹植「与陳琳書」の辞句、
あるいは、それとの関連性がほの見えた成公綏による宮廷歌曲の歌辞と、
ここに記した表現との影響関係については、もう少し精査する必要があると思います。

2021年5月19日

*台湾・中央研究院の漢籍電子文献資料庫によって検索した。

 

オンライン学会のよさ

おはようございます。

先週末、オンラインで開催された九州中国学会大会に参加しました。
これがとてもよかったので感想を記しておきます。

この学会の大会は、昨年度もオンライン開催でしたが、
発表に対する質疑応答は、文字の書き込みによって行われました。

今年は、リアルタイムの発表と質疑応答で、まずこれが予想外によかった。
やはり、時間的な制約の中でやり取りされる言葉には力があります。

他方、昨年度のように文字で記された質疑応答は、
内容に濃い密度があり、特にその分野の研究者には有益だっただろうと思います。

もし可能ならば、
リアルタイムの質疑応答を設けながら、
その後しばらくは質疑応答コーナーへの書き込み閲覧を開放する、
という複合的な開催方法が実現できれば最高だなあと思った次第です。

更に、リアルタイムの発表に先立って、
一定期間、発表資料の提示があればなおよかったと思います。
(一部の発表ではこれが為されたようですが、私にはよくわからなかった。)

以上は、もとより恩恵を受けるだけの者のわがままな感想ですが、
提案をすることは、設定や運営をしてくださった方々への感謝の表明でもある、
と私は思っています。

大会の最後に、新谷会長が名残惜しいとおっしゃったこと、同感でした。

ところで、オンライン学会には、リアルな対面式の学会にはない気安さがあります。
それは、発表者の話にまっすぐ向き合っているという実感からくるものです。
リアルな学会では、顔見知りの方々にご挨拶したり、そのタイミングが合わなくて疲れたり、
あるいは、知らない人たちばかりの中で所在なく過ごしたり、がつきものですが、
オンライン学会にはこれがありません。
ここから始まるリアルでフラットな学術交流があってもよい、
(そのためには、会員相互が自由に連絡を取り合える基盤が必要です)
それを後押ししてくれる側面を、オンライン学会は持っていると思いました。

2021年5月17日

文意の取れない書簡文

こんばんは。

先日、訳注を公開した「与陳琳書」ですが、
単語レベルではなんとか理解できても、実はその文意が取れません。
「翠雲」「北斗」「虹蜺」「日月」といった天上界のものを身にまとうこと、
そうした服飾が美しいと言っているところまではわかるのですが、
なぜ、それを「帝王」が身につけないと言っているのか、そこが理解できません。
(そのため、「望殊於天、志絶於心矣」は、苦肉の策であのような解釈をしています。)

この曹植作品を念頭に置いていた可能性のある、
成公綏の「雅楽正旦大会行礼詩」(『宋書』楽志二)では、
西晋王朝の初代皇帝、武帝(司馬炎)の壮麗な姿を歌い上げるのに、
「日月」「五星」「虹蜺」「彗」「慶雲」を身におびるといった表現がなされています。
こうした表現は、成公綏のこの歌辞に限らず、他の作品にも散見するものです。

だから当然、「帝王」は天上界のものを身につけるのだと思っていました。
ところが、曹植の文章にはそれとは逆のことが書いてあります。

それならば、この「帝王」は、一般的にいう「帝王」ではないのか、
もしかしたら、魏王となった曹操を指して言っているのか、とも考えたのですが、
曹植作品において(同時代の他の文人の作品においても)、
この語がそうした用いられ方をした例を見出すことができません。

この書簡文の全文が残っていれば、あるいは解明できるのかもしれませんが、
断片しか残されていない今、未詳とするしかないでしょうか。

2021年5月16日

 

竹林七賢の先人たち

こんばんは。

毎日亀のような歩みで読んでいる曹道衡『魏晋文学』から、*1
ほとんど竹林の七賢かと思わせられるような後漢の人々の逸話を教えられました。
この指摘を手引きとして、自分なりに確認したことを記しておきます。

たとえば、汝南の袁閎は、党錮の獄が起った延熹(158―167)の末、
世俗との関係を断ち切り、戸を閉め窓を塞いで、賓客との面会を拒絶しましたが、
頭には頭巾もかぶらず、身には一重の衣もはおらず、
足には木の草履、食事はハジカミのみの粗食だったそうです(『風俗通義』愆礼)。
また、大切にしていた母親が亡くなった際には、所定の服喪に従わず、
当時の人々の中には、彼を「狂生」と呼ぶ人もいたそうです(『後漢書』巻45・袁閎伝)。
ですが、後にこうした振る舞いが市民権を得てからでしょうか、
西晋の皇甫謐(215―282)撰『高士伝』(『太平御覧』巻508、698)や、
魏の周斐撰『汝南先賢伝』(『太平御覧』巻556)には、慕わしき人物として記されています。*2

同じく『風俗通義』過誉篇に記された、
桓帝期(146―167)頃の人である、河内の趙仲譲は、
高唐令に任命されると、身分を隠して任地に赴き、視察の後、数十日でふっと立ち去りました。
この逸話は、東平相となった阮籍の行動(『晋書』巻49・阮籍伝)を想起させます。
また彼は、時の大将軍、外戚の梁冀(?―159)に従事中郎として仕えた時期、
ある冬の日に庭の中に坐り込んで皮衣を脱いで虱取りをし、
終わると一糸まとわぬ姿で寝転がったといいますが、
これも『世説新語』任誕篇に記された劉伶の逸話を彷彿とさせます。

後漢の袁閎や趙仲譲は、
精神の根底に儒家思想があるということにおいても、
『晋書』本伝に「本(もと)済世の志有り」と評された阮籍と共通するものを持つと言えます。

竹林の七賢は突如出てきたわけではなくて、その先蹤者たちがいたということ、
そうした生き方をしないではいられない状況が、すでに後漢後期からあったということに、
今更ながらに気づかされました。

2021年5月15日

*1『曹道衡文集』(中州古籍出版社)巻四所収『魏晋文学』第一章第二節「魏晋的社会状況和思潮」p.162を参照。
*2 王利器『風俗通義校注』(中華書局、1981年)p.160~161を手引きとした。

西晋宮廷歌曲と曹植

こんばんは。

本日、曹植「与陳琳書」の訳注稿を公開しました。

この断片的書簡文に着目したのは、
『宋書』楽志二を読んでいる研究会の中で、
成公綏による西晋王朝の「雅楽正旦大会行礼詩」に、
この曹植の文章が踏まえられている可能性が指摘されたからです。

成公綏の当該歌辞で、曹植のこの書簡の影響が認められる部分は以下のとおりです。

登崑崙 上增城  崑崙山に登り、その一角にある増城に上って、
乘飛龍 升泰清  飛ぶ龍に乗り、天空に駆け上る。
冠日月 佩五星  日月を冠とし、五星を身に帯びて、
揚虹蜺 建彗旌  虹を掲げ、彗星の旗を立てる。
披慶雲 蔭繁榮  慶雲を敷き広げ、繁茂する草木を恵みで被いつつ、
覽八極 游天庭  世界の果てまでも見て回り、天帝の宮殿に遊ぶ。

この一節は『楚辞』の影響が濃厚な部分ですが、
「日月を冠し、五星を佩び、虹蜺を揚げて、彗旌を建つ」は、
『楚辞』の中にも明らかにそれとわかる出典を見出すことはできませんでした。
ところが、曹植の「与陳琳書」には、これと非常によく似た発想の辞句が並んでいます。
この林香奈氏のご指摘に、目の前がぱあーっと明るくなりました。

これに限らず、西晋王朝の宮廷歌曲の歌辞には、
曹植作品の表現が、かなり多く用いられていることが確認されています。

西晋の宮廷歌曲の歌辞を作った人々は、
なぜ曹植の言葉をこれほどまでに多く用いているのでしょうか。

すぐには解明できないにせよ、この疑問符を頭の片隅に置いておこうと思います。

2021年5月14日

連れ立って飛翔する鳥

こんばんは。

阮籍「詠懐詩」に見える「翺翔」の語、
昨日挙げた2例以外に、ひとりで飛ぶのではない次の詩句があります。

すなわち、『文選』巻23にも収載されている、
「昔日繁華子」に始まる、楚の安陵君と魏の龍陽君という二人の寵臣を詠じた詩に、
「願為双飛鳥、比翼共翺翔(願はくは双飛の鳥と為り、翼を比べて共に翺翔せんことを)」
とあるのがそれです。

この表現は、まず『文選』巻29「古詩十九首」其五にいう、
「願為双鳴鶴、奮翅起高飛(願はくは双鳴鶴と為り、翅を奮ひて起ちて高く飛ばんことを)」
を彷彿とさせますし、

古詩と作風の近い蘇武詩(『文選』巻29、蘇武「詩四首」其二)にも、
「願為双黄鵠、送子倶遠飛(願はくは双黄鵠と為りて、子を送りて倶に遠く飛ばんことを)」
とあったことが想起されます。

また、成立時期は不明ですが、
舞曲歌辞「淮南王篇」(『宋書』巻22・楽志四)にも、

「願化双黄鵠還故郷(願はくは双黄鵠に化して故郷に還らんことを)」と見えています。

こうした流れを汲む表現パターンは、
阮籍よりも前、すでに建安詩に散見します。たとえば、

曹丕「於清河見輓船士新婚別妻」詩(『玉台新詠』巻2)に、*
「願為双黄鵠、比翼戯清池(願はくは双黄鵠と為りて、翼を比べて清池に戯れんことを)」、

同じく曹丕「又清河作」(『玉台新詠』巻2)に、
「願為晨風鳥、双飛翔北林(願はくは晨風の鳥と為りて、双飛して北林に翔けんことを)」、

そして、曹植「送応氏詩二首」其二(04-04-2)にも、
「願為比翼鳥、施翮起高翔(願はくは比翼の鳥と為りて、翮を施べて起ちて高く翔けんことを)」
とあったのでした。

前掲の阮籍「詠懐詩」の詩句は、こうした流れの中から浮かび上がってきたものでしょう。
ただ、そのありふれた言葉にそこはかとない不吉さが漂うように感じるのは、
その連れ立って飛ぼうとする二人が寵臣だからでしょうか。

漢魏詩の常套的表現に、
阮籍が新たな意味を付与する例は少なくありませんが、
この詩に見える連れ立って飛ぶ鳥の表象も、そのひとつと言えるかもしれません。

2021年5月13日

*『藝文類聚』巻29では徐幹の作とする。

「翺翔」する阮籍

こんばんは。

一昨日、建安詩において「翺翔」という語は、
現実から軽やかに放たれるという文脈で多く用いられていると述べました。
これを具体的に示せば次のとおりです。

『藝文類聚』巻28に引く陳琳詩に、
 間居心不娯、駕言従友生  間(閑)居して心は娯しまず、駕してここに友生に従ふ。
 翺翔戯長流、逍遥登高城  翺翔して長流に戯れ、逍遥して高城に登る。

劉楨「公讌詩」(『文選』巻20)に、
 遺思在玄夜、相与復翺翔  遺思 玄夜に在り、相与(とも)に復た翺翔す。
 輦車飛素蓋、従者盈路傍  輦車は素蓋を飛ばし、従者は路傍に盈つ。

同じく劉楨「贈五官中郎将四首」其一(『文選』巻23)に、
 昔我従元后、整駕至南郷  昔 我 元后(曹操)に従ひ、駕を整へて南郷に至る。
 過彼豊沛都、与君共翺翔  彼の豊沛の都に過(よぎ)りて、君と共に翺翔す。

ここで注目したいのは、いずれの「翺翔」も仲間とともにあるということです。

ところが、おそらくはたった一人で「翺翔」するのが阮籍です。
その「詠懐詩」には三首の用例がありますが(其十二、三十五、六十三)、*

其三十五(世務何繽紛)に、
 時路烏足争、太極可翺翔  時路 烏(いづく)んぞ争ふに足らん、太極 翺翔す可し。

其六十三(多慮令志散)に、
 多慮令志散、寂寞使心憂  多慮は志をして散せしめ、寂寞は心をして憂へしむ。
 翺翔観彼沢、撫剣登軽舟  翺翔して彼の沢を観、剣を撫して軽舟に登る。

其三十五は、周りの者たちとの煩わしい関係を振り切っての「翺翔」を、
其六十三は、鬱屈した現実世界から脱出する飛翔を詠じています。
ここに、仲間たちのいる気配は感じられません。

曹植作品における「翺翔」はどうなのでしょうか。

なお、この語に特定しての用例は、
意外なことに、阮籍のあと梁代までふつりと途絶えます。
「翺翔」ではない、他の表現による飛翔はあるのだろうと思います。
また、この時代の作品は多くが失われていることを念頭に置かなくてはなりませんが。

2021年5月12日

*作品の順次は、黄節『阮歩兵咏懐詩注』(中華書局、2008年)に拠った。

1 30 31 32 33 34 35 36 37 38 83