李陵詩を踏まえた魏の詩
こんばんは。
昨日、郭遐周「贈嵆康詩三首」其三に、
蘇武「詩四首」其一の一句「四海皆兄弟」がまるごと取り込まれていることを指摘しました。
ですが、別れの場面という両作品共通の文脈は視界の外に置いて、
あれは『論語』顔淵篇からそれぞれ直接引用したものだと見る人もいるでしょう。
私自身も二割方はまだ疑問を残していると言いました。
郭遐周は本当に、蘇武の詩を知っていて、その中の一句を取り込んだのでしょうか。
そこで、「贈嵆康詩三首」の其一、其二についても見てみたところ、
其二の結びにいう次の句に目が留まりました。
言別在斯須 別れを告げるのは、ほんのわずかな時間の出来事で、
惄焉如調飢 憂えて思い焦がれる気持ちは、まるで朝食前の空腹のようだ。
下の句は、『毛詩』周南「汝墳」にいう、
「未見君子、惄如調飢(未だ君子を見ず、惄として調飢の如し)」を用いています。
一方、上の句は、『文選』巻29、李陵「与蘇武三首」其一にいう、
「良時不再至、離別在須臾(良時は再びは至らず、離別は須臾に在り)」、
「長当従此別、且復立斯須(長く当に此より別るべし、且く復た立ちて斯須せん)」を想起させます。*
特に、李陵詩の「離別在須臾」と、郭遐周詩の「言別在斯須」とは、
一句を構成する語の組み合わせ方がよく似ていて、
しかもこうした表現が認められるのは、意外にも現存する漢魏詩ではこの両者のみです。
こうしてみると、郭遐周「贈嵆康詩三首」其二は、
前掲の李陵「与蘇武」詩を踏まえたものと判断してよいでしょう。
そして、昨日見たとおり、其三には蘇武詩の一句がそのまま見えているのでした。
郭遐周はほぼ間違いなく、いわゆる蘇李詩を踏まえてこの別れの詩を作ったと見られます。
もしそうであるならば、魏の時代、すでに蘇李詩は成立しており、
しかも広く人々の間に流布していたということになります。
なお、更に少し前の建安詩においても、蘇李詩を踏まえたと見られる事例は少なくありません。
このことについては、こちらの論文№28、著書№4のp.258―264で論じています。
もしよろしければ、そちらをご覧いただければ幸いです。
ただし、『文選』巻29所収の李陵「与蘇武三首」及び蘇武「詩四首」蘇李詩と、
それ以外の蘇李詩との区別の問題は、未だ解明できていません。
2021年5月2日
*戴明揚『嵆康集校注』(中華書局、2014年)p.96は、「且復立斯須」のみを挙げ、「離別在須臾」には言及していない。
蘇武詩を踏まえた魏の詩
こんにちは。
応瑒「闘鶏詩」をきっかけに、「兄弟」という語を含む漢魏の詩歌を検索していて、
郭遐周という人の「贈嵆康詩三首」其三のある辞句に目が留まりました。*1
本詩の初めから6句を以下に示します。
離別自古有 離別は古来あるものだ。
人非比目魚 人は比目の魚ではないのだから。
君子不懐土 君子は土地にしがみついたりはしないものだ。
豈更得安居 どうしてこれ以上安穏とした暮らしをむさぼるものか。
四海皆兄弟 四海の内はみな兄弟だという。
何患無彼姝 かの忠義の人がいないなどと何の心配をすることがあろうか。*2
注目されたいのは、この第5句「四海は皆兄弟なり」です。
というのは、同一句が『文選』巻29、蘇武「詩四首」其一に見えているから。
この辞句は、『論語』顔淵篇に、
子夏が司馬牛を慰めて言う次の部分を踏まえています。
死生有命、富貴在天。
君子敬而無失、与人恭而有礼、四海之内、皆為兄弟也。
君子何患乎無兄弟也。
死生には運命というものがあり、富貴を決めるのは天である。
君子は敬虔な姿勢で落ち度がないようにし、人に対して恭順で礼儀正しくすれば、
世界中の人々は、みな兄弟となるのだ。
君子は、兄弟がいないなどと何の心配をすることがあろうか。
郭遐周の詩は、「四海皆兄弟」に続く「何患無○○」も、前掲の『論語』を踏まえています。
また、その三句目「君子不懐土」も、『論語』里仁篇にいう、
「君子懐徳、小人懐土(君子は徳を懐ひ、小人は土を懐ふ)」をひねったものです。
ですから、「四海皆兄弟」の典拠として、『論語』が真っ先に挙げられるのは当然でしょう。*3
それでも、郭遐周の詩は八割がた、蘇武詩を念頭に置いているだろうと私は判断します。
なぜならば、この詩が離別を詠ずるものだからです。
前掲の『論語』顔淵篇には、この要素がありません。
他方、蘇武の詩は、李陵との離別を背景に設定して作られたものです。
(実際に蘇武が作ったわけではないことは、今は措いておきます。)
郭遐周は、嵆康との別れに際して、
蘇武が李陵に送った別れの詩を踏まえた詩を贈ったのでしょう。
2021年5月1日
*1 引用は、『詩紀』巻18所収テキストに拠った。
*2 『毛詩』鄘風「干旄」に「彼姝者子、何以畀之(彼の姝なる者は子、何を以てか之に畀(あた)へん」、毛伝に「姝、順貌。畀、予也」、鄭箋に「時賢者既説此卿大夫有忠順之徳、又欲以善道与之。心誠愛厚之至(時に賢者は既に此の卿大夫の忠順の徳を有するを説(よろこ)び、又善道を以て之に与へんと欲す。心は誠に愛は厚きの至れるものなり)」と。戴明揚『嵆康集校注』(中華書局、2014年)p.97の語釈に導かれた。
*3 前掲の戴明揚『嵆康集校注』p.97に、“『論語』:「子夏曰:『四海之内、皆兄弟也。』”と。
第三人称で詠ずる詩
こんばんは。
昨日言及した応瑒の「闘鶏詩」(『藝文類聚』巻91)の中に、
「兄弟は戯場に遊び、駕を命じて衆賓を迎ふ」という句がありました。
この「兄弟」とは、曹丕・曹植ら兄弟を指すのでしょう。*1
ただ、応瑒と曹氏兄弟との関係性から言って、
「兄弟」という語が用いられていることに少しく違和感を覚えました。
応瑒は、曹操に召されて丞相掾属となってから、平原侯(曹植)の庶子となり、
後に、五官中郎将(曹丕)の文学に遷っています。(『三国志』魏書巻21・王粲伝)
曹植が平原侯となったのは建安16年(211)、
同年、曹丕は五官中郎将・丞相副となり、建安22年(217)に太子となっています。
すると、応瑒から見て、曹植や曹丕は上司に当たるような存在です。
そうした二人を、「兄弟」という語で呼んでも不都合はなかったのでしょうか。
「兄弟」という語は、詠み人知らずの楽府詩(古楽府)には割合よく見かけます。
たとえば、「相和・鶏鳴」(『宋書』巻21・楽志三)に、*2
「兄弟四五人、皆為侍中郎(兄弟四五人、皆 侍中郎と為る)」、
「相逢狭路間(相逢行)」(『玉台新詠』巻1)に、
「兄弟両三人、中子為侍郎(兄弟両三人、中子は侍郎と為る)」、
「艶歌行」(『玉台新詠』巻1)に、
「兄弟両三人、流蕩在他県(兄弟両三人、流蕩して他県に在り)」、
「古上留田行」(『文選』巻28、陸機「豫章行」李善注)に、
「兄弟有両三人、小弟塊摧独貧(兄弟両三人有り、小弟は塊摧して独り貧し)」のように。
こうしてみると、この語は割と類型化された文脈上に登場するようです。
一方、応瑒「闘鶏詩」の「兄弟」は、これとは違ってリアルな兄弟を指すようです。
そして、その言葉で眼前の兄弟二人に向かって呼び掛けているのではなく、
第三人称でその存在を淡々と指示しているようなスタンスです。
「闘鶏詩」は、曹植、応瑒、劉楨の作品が残っているのでしたが、
劉楨も、かつて応瑒と同じく平原侯曹植の庶子でした。(『三国志』魏書巻12・邢顒伝)
そうすると、この三人の作は同じ機会に作られた競作である可能性もありますが、
それにしては、応瑒の詩はその詩作のスタンスがどこか冷やかです。
考察の見通しも何もない、あるのは印象だけですが。
2021年4月30日
*1 林家驪『阮瑀応瑒劉楨合集校注』(河北教育出版社、2013年)p.62も、曹丕・曹植兄弟二人を指すとする。
*2 以下、出典は最も古いものを挙げた。この時代の詩歌を網羅的に集めた逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1984年第2次印刷)でのページ数を挙げれば、「相和・鶏鳴」p.258、「相逢狭路間(相逢行)」p.265、「艶歌行」p.278、「古上留田行」p.288である。
闘鶏観戦と物寂しさ
こんばんは。
昨日、曹植「闘鶏」(05-04)を読み始めました。
この詩は、古くは『藝文類聚』巻91に収録されていますが、
そこには、劉楨や応瑒の、同じ題目の作品もあわせて収載されています。*
そこで目に留まったのが、応瑒の詩の最初に見える次のような句です。
戚戚懐不楽 びくびくと恐れつつ心中は楽しまず、
無以釈労勤 疲労を解きほぐすすべもない。
兄弟遊戯場 兄弟(曹丕・曹植ら兄弟か)は遊戯場に遊び、
命駕迎衆賓 御者に命じて馬車の準備をさせ、賓客たちを迎えにいかせた。
曹植の詩の冒頭にも、次のようにあります。
遊目極妙伎 目を遠くへ遊ばせて、舞踊の妙技を眺め尽くし、
清聴厭宮商 耳を澄ませて、飽きるほどに音楽を聴き尽くした。
主人寂無為 主人は、ひっそりとした心持ちで何もすることが無く、
衆賓進楽方 賓客たちは楽しみの方法を進言した。
両詩とも、この後に闘鶏の場面の激烈な描写が続くのですが、
その前に、こうした物寂しい心情描写が置かれていることに意表を突かれました。
これはどういうわけなのか、心にとめておこうと思います。
なお、もう一人の劉楨の詩には、こうした要素は認められません。
応瑒や曹植のような表現は、当時として一般的であったとも言えないようです。
2021年4月29日
*三者を比較する論が、鈴木修次『漢魏詩の研究』(大修館書店、1967年)p.602~603、p.634~635に見えているが、ここに書き留めた部分は取り上げられていない。
電脳泣かせの表現
こんばんは。
古代漢語は、電脳に高い適応性を持つ言語だと思います。
語尾が変化したりすることもない、一語一語がブロックのような言語ですから、
たとえば、ある文字や辞句を、テキストの集積の中から探し出すのは比較的容易です。
近年、膨大な中国古典のデータベースがネット上で利用できるようになって、
いわゆる典故表現の出所を突き止めるのはとても楽になりました。
ただ、そうした電脳をもってしても、
なかなかその真意にたどり着けない表現というものがあります。
作者の頭の中で、古典の辞句が十分に消化されている場合、
その古典の辞句が、ほとんど原型を留めずに用いられていたりするのです。
たとえば、先日来取り上げている成公綏「晋四箱歌十六篇」の第七篇に、
すばらしい治世の結果を歌う次のような表現があります。
宇宙清且泰 天下は清らかにかつ安らかに治まり、
黎庶咸雍熙 民たちはみな和らぎ、のびのびと暮らしている。
この下の句「黎庶咸雍熙」について。
この一句は、『尚書』堯典にいう「黎民於變時雍」をまず踏まえています。
「黎庶」は、人民大衆をいい、『尚書』に見える「黎民」に同じです。
更に、一句の中の「咸雍熙」の部分は、
同じ『尚書』堯典にいう「允釐百工、庶績咸熙」を踏まえているでしょう。
更に、「雍熙」という語は、
後漢・張衡「東京賦」(『文選』巻3)に「百姓同於饒衍、上下共其雍熙」と見えています。
これらの古典は、作者成公綏の内臓の一部くらいになっていたかもしれません。
そうした語句が混然一体となって融合し、前掲の表現として浮かび上がってきたのでしょう。
もちろん、十分に自身の血肉となった古典語を、
敢えて出典がそれと分かるようなかたちで引用する場合もあります。
典故表現と言われるそうした修辞技法は、中国の古典文学には広く認められるもので、
それはまだしも辞書やデータベース検索でなんとかたどることが可能です。
こうした表現技法は、当時の人々にとってはごく当たり前の、
また、やり取りをする人と人との間では極上の楽しみでもあったのでしょうが、
これは、現代人との間を隔てる壁ともなっています。
他方、上述の、特に原型を半ば溶解させたような表現は、
人のリアルな頭脳が、電脳の網をどこまで振り切ることができるか、
現代人に挑んでいるようにも感じられます。
2021年4月28日
困難な訳注、楽しい読書
こんにちは。
本日、曹植「名都篇」(05-09)の訳注稿を公開しました。
先の「白馬篇」の公開から、25日もかかってやっとひととおりの完成です。
(もっとも、完成には程遠いものばかりで、だから「訳注稿」です。随時修正していきます。)
訳注は(かつて言ったことがありますが)、
一番、自身の持てるものが露骨に現れる作業です。
場合によっては、一本の論文を書くことよりも困難であり、
また他の研究者への貢献度も、論文より高い場合が多いかもしれません。
そのようなわけで、体力気力が落ちている時にはなかなか困難な作業と感じられます。
けれども、ここで踏ん張っておくと、何より後で自分がそれに助けられます。
だから、時間がかかってもやるべき作業です。
ところで、大学では教員の業績評価というものが行われます。
かつて、『白氏文集』(明治書院、新釈漢文大系)のある冊がやっと完成したとき、
この訳注は、一本の紀要論文よりも点数が低く、愕然としたことがあります。
相対的に、他の分野では、翻訳と注釈にそれほどの労力を要しないのかもしれず、
だから、中国古典文学におけるこの作業の重要性が理解されなかったのだろうと思います。
そもそも多種多彩な分野の学術的業績をひとつの尺度で図ることは不可能でしょう。
かくして、人の評価とは距離を置く、道家的な考え方に一層親近感を覚えるようになりました。
訳注の作業は、できるだけ朝の一番よい時間帯に行うようにしています。
一方、夕方のひととき、読み進めるのを楽しんでいるのが平賀周蔵の漢詩です。
つきつめて語釈をすることは、今は保留して、描写された江戸期の宮島を想い描きます。
楽しむにはちょうどよい距離感です。
2021年4月27日
考証学者との距離
こんばんは。
先にこちらで言及した、
曹植「名都篇」に見える「寒」という調理法について、
黄節『漢魏楽府風箋』巻十五所収「名都篇」箋にも引かれている、
朱蘭坡『文選集釈(選学叢書)』巻十七「名都篇」を確認してみました。
『周礼』天官冢宰・漿人の鄭玄注に、「涼、今寒粥也(涼とは、今の寒粥なり)」といい、
同じく天官冢宰・膳夫の注で、「涼」と「䣼」とを通じて用いるテキストがあり、
『広雅』釈器に「酪・酨・䣼、漿也(酪・酨・䣼は、漿なり)」とある、
ということが指摘されています。
この一連の説明によると、「寒」は、冷製スープのようなものだと言えそうです。
朱蘭坡『文選集釈』には、その前の句の「臇」についても詳しい考証が見えています。
考証学者のこの細かさには、正直なところ、そこまでしなくてもと感じることも多いです。
様々な文献を渉猟した結果が、常識とそれほど大差なかったりする場合もあります。
ただ、現代風のいい加減な語釈をして大きな誤解をすることは、
こうした研究成果をきちんと踏まえることによって回避できるかもしれません。
なんにせよ、自分が一番ものを知らない人間であることはたしかなので、
これからも古人の著作から教わるという姿勢を持ち続けます。
ただ、古人だからといって、絶対視する必要はないとも思っています。
それは、今人の先行研究に対して、全面的に寄りかかることがないのと同じです。
2021年4月26日
それぞれの事情
こんにちは。
先に、成公綏の「晋四箱歌十六篇」第六篇を取り上げて、
『易』と、西晋王朝の成立を上天に告げる文章の語句とが対を為すことを指摘しました。
その際、成公綏によるこの歌辞が、
これほど濃厚に王朝への忠誠心を含んでいることに少なからず驚かされたのでしたが、
では、この成公綏という文人はどのような背景を持つ人物なのでしょうか。
『晋書』巻92・文苑伝(成公綏)には、次のようなことが記されています。
成公綏は幼い頃から聡明で、儒教の経典に広く通じていたが、
元来が寡欲な人柄で、極貧生活の中でも安らかな心持を保っていた。
辞賦に優れた才能を持っていたが、世の中に広く知られることは求めなかった。
西晋王朝の時代となって、重臣の張華に見出され、博士、秘書郎、中書郎を歴任し、
張華とともに詔を受けて詩賦を作ったり、賈充らと法律を策定したりした。
泰始九年(273)、43歳で亡くなったことからすると、
成公綏という文人は、その二十代、三十代を、
魏が西晋に簒奪されてゆく過程の中で過ごしたことになります。
もしかしたら彼は、
弱体化した魏王朝の有り様をなすすべもなく眺めつつ過ごし、
次の西晋王朝が成立してから、張華の推挙に応じたのかもしれません。
貧しい、とても有力な家柄の出ではなさそうな彼としては、
似た境遇から身を起こした張華からの推挙はうれしいものだったかもしれません。
とはいえ、西晋王朝に仕えることを、彼自身がどう思っていたかは不明です。
その「鸚鵡賦(序)」(『太平御覧』巻764・924)に、次のようにいいます。
小禽也。以其能言解意、故為人所愛、育之金籠、昇之堂殿。然未得鳥之性。
鸚鵡(オウム)は小禽である。
その、よく話し、言葉の意味を理解できるという能力によって人間に愛玩され、
人はこの鳥を金籠の中で育て、長じては御殿の堂上に上らせる。
けれども、この鳥はいまだ鳥の本性を全うできていない。
鸚鵡はこの時代、割合よく賦に詠じられる題材ではありますが、
そうした小さな存在に目を留め、それを「未だ鳥の性を得ず」と表現した彼の心中は、
必ずしも自身のあり様に満足しきっていたとも言えないように感じられます。
(ただし、この作品の成立年代や背景などはすべて未詳です。)
新しい組織への対し方、距離の取り方には、人それぞれの事情がある。
そうした当たり前のことを、成公綏に気づかされました。
2021年4月25日
知識人と大衆
こんばんは。
曹道衡『魏晋文学』第一章第二節「魏晋的社会状況和思潮」に、*
王莽新に抵抗したのは、赤眉ら農民軍以外に、地方豪族らがいたこと、
豪族たちは、農民にも役人に対しても、一定の影響力を持っていたことが述べられ、
その事例として、次のような記事が列挙されています。
赤眉軍をその徳でもって退却させた樊宏(『後漢書』巻32・樊宏伝)。
また、隠者の逢萌は、北海太守の招きに応じなかったために捕えられそうになったところ、
当地の人民たちがこれに抵抗して彼を守ったこと(同巻83・逸民伝)。
更に、黄巾賊から、県境に侵入しないことを丁重に約束された儒者の鄭玄(同巻35・鄭玄伝)。
こうした知識人と民衆との幸福な関係は、
今の時代からすると、非常に新鮮に感じられます。
また、少し前の中国で吹き荒れた文化大革命のことも想起されます。
曹道衡先生は、抑制のきいた筆致で、
光武帝が名士たちを集めたのは、彼らの名声を慕ったのみならず、
彼らが一般人民に対して持っていた影響力を考慮に入れたためである、と論じておられますが、
もしかしたら、先の時代のことが意識の底にあったかもしれないとひそかに思いました。
何も分かっていない者の不躾な想像です。
2021年4月24日
*『曹道衡文集』(中州古籍出版社、2018年)巻四に収載。
阮籍の不服従
こんばんは。
今日も『宋書』楽志所収の楽府詩について。
王朝が主催する公的な宴席で流れる楽曲の歌辞には、
『易』『書経』『詩経』といった儒教の経典に出る語が散りばめられています。
そして、これはこの種の楽府詩に限定されることではありませんが、
対句においては、基本的に同等の古典に由来する語を配置するのが普通であって、
それを踏み外した作品は、自分のような者から見ても、少し下手なように感じられます。
王朝の威信をかけた場で演奏される楽曲の歌辞なのですから、
当然、立派な典故を踏まえた対句が並んでいるはずだと思って読んでいると、
時々、一見そこから外れたように見える辞句に出会うことがあります。
たとえば、昨日と同じ成公綏による「晋四箱歌十六篇」の第六篇に見える次の対句、
德光大 德は光大にして(皇帝の徳は広く輝きわたり)、
道熙隆 道は熙隆す(その治世の道が盛大に興る)。
「德光大」は、『易』坤卦彖伝に見える次の辞句を踏まえています。
坤厚載物 徳合无疆 坤は厚く物を載せ、徳 无疆に合す。
含弘光大 品物咸亨 含弘光大にして、品物 咸(みな)亨(とほ)る。
ところが、対を為す「道熙隆」については、『易』に釣り合う出典が見つかりません。
おかしいなあと思って調べてみたところ、*
『晋書』巻3・武帝紀に記す、
西晋王朝が成立した泰始元年(265)の冬十二月丙寅(17日)、
武帝司馬炎が魏からの受禅を上帝に告げる文章の中に、次のとおりありました。
昔者唐堯、熙隆大道、禅位虞舜。舜又以禅禹、邁徳垂訓、多歴年載。
昔 唐堯は、大道を熙隆し、位を虞舜に禅(ゆず)る。
舜も又以て禹に禅り、徳に邁(つと)めて訓を垂れ、多く年載を歴(へ)たり。
大いなる「道」と「熙隆」とが一緒に用いられているので、
前掲の成公綏の歌辞は、これを念頭に置いた表現であることほぼ確実でしょう。
『易』と、禅譲を上天に報告する文章とを同等に置いている。
その王朝に対する服従のあり様に、そこまでなのかと驚きを禁じ得ません。
これに対置させてみると、阮籍の不服従の重みが想像できるようです。
彼は、いずれ西晋王朝を立てることになる司馬氏の庇護下に生き延びた人物ではありますが、
その不埒とも見える型破りの行動が、どんなに強い思い切りを要するものであったか、
親友とも死別し、独自の道を歩んだ彼の孤独を思います。
2021年4月23日
*台湾の中央研究院による漢籍電子文献で検索しました。自力ではたどり着けなかった文献です。