「何嘗・艶歌何嘗行」と曹丕(保留)

過日、「何嘗・艶歌何嘗行」の中に、
曹植に対する曹丕の心情が読み取れるのではないか、と述べました。
けれども、これは保留とします。

この作品を読んだのは、『宋書』楽志の共同研究で担当したのがきっかけでしたが、
その会合で、本詩を夫婦の物語として解釈する先行研究があることを教えられ、
そちらの方がよい、少なくともその捉え方が可能であることは確実、
いや、自分の読みが大間違いだったのではないか、
と思い直すに至りました。

自分の中で、曹丕と曹植との関係性を見直すという課題がずっと流れていて、
その意識から強いバイアスを受けたのだろうと思い至ります。
これは、本当に気を付けなければなりません。

とはいえ、先行研究を見ないうちに試みた解釈は、
どんなに突飛なものであっても、そこに何らかの種が眠っているかもしれません。
それは、人が行ったそうした解釈であれ、自分のそれであれ、同様です。
そう思うので、しばらく保留としておきます。

先日の通釈とは別に、こちらに改訂版の通釈を載せておきます。
(共同研究では訓み下しや語釈を付けていますが、こちらでは省いています。)

2025年12月22日

「何嘗・艶歌何嘗行」と曹丕(再び)

「何嘗・艶歌何嘗行」がもし曹丕の作だとするならば、
これは、弟曹植に対する曹丕自身の声が直接聴き取れる資料だと言えます。

これを曹丕作とする最も早い選集は、『楽府詩集』巻39です。
この北宋末の郭茂倩から降って、清朝の朱乾『楽府正義』巻8も同様で、
近年の、たとえば黄節『漢魏楽府風箋』巻12も、余冠英『三曹詩選』も同じです。
ですから、上述のような視点から本作品を論じる先行研究が、
もしかしたら既にあるかもしれません。

(以下、もし既に考察されていたら、贅言を要しないことではありますが)

曹丕はとかく、弟曹植を冷遇したことに目が向けられがちです。
けれどもその兄弟像は、西晋王朝以降に作られたものである可能性があります。*1

実際、『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く『魏略』等には、
本当のところは少し違っていたのではないかと感じる記述もあります。*2

そんな中、曹丕本人が弟に向けて語った言葉があるならば、
これに基づいて、曹氏兄弟の間柄を更に新たに捉え直すことができます。

2025年12月19日

*1 津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年3月)、津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)を参照。
*2 このことについては、柳川順子「曹氏兄弟と魏王朝」(『大上正美先生傘寿記念三国志論集』(汲古書院、2023年)を参照されたい。

「何嘗・艶歌何嘗行」の成り立ち

このところ、行ったり来たりしながら考察してきた「何嘗・艶歌何嘗行」、
本日、やっとひととおりの通釈を終えました。
こちらをご覧ください。

改めてこれを通覧し、気づいたことがあります。
それは、前半の「艶」の部分と後半の「趨曲」とで作風が異なっていることです。
前半の「艶」は、古楽府に常套的なフレーズの綴り合せですが、
後半の「趨」に入ると、急転直下、内容が固有の具体性を帯びてきます。

ところで、これと同じく「艶」と「趨」とから成り立つ「大曲」に、
詠み人知らずの「白鵠・艶歌何嘗行」があります。

これと多くの辞句を共有している古楽府に、
『玉台新詠』巻1所収「古楽府詩六首」其六の「双白鵠」があります。

そこで、晋楽所奏「大曲」の「白鵠・艶歌何嘗行」(『宋書』楽志三)と、
『玉台新詠』所収の「双白鵠」とを照らし合わせてみたところ、
晋楽所奏「白鵠・艶歌何嘗行」で「趨曲」と括られている後半の辞句が、
『玉台新詠』所収の「双白鵠」には見当たりません。

両者間で重ならないこの部分は、
「大曲」の編者によって追加されたと見るのが妥当でしょう。
そして、その追加部分の大半は、
『玉台新詠』巻1「古詩八首」其七に由来するものです。*

さて、「何嘗・艶歌何嘗行」は、
「白鵠・艶歌何嘗行」と同様の成り立ちをしているのでした。
すると、「何嘗・艶歌何嘗行」もまた、
その「趨」の部分は、前半とは別系統の作品群に由来するのかもしれません。
それが曹丕の作品であった可能性は十分にあるだろうと思います。

2025年12月18日

*柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.345―346を参照されたい。

 

「何嘗・艶歌何嘗行」と「置酒・野田黄雀行」

先日来読んできた晋楽所奏「何嘗・艶歌何嘗行」は、
比較的近い劉宋の時代、一説に曹丕の作だとされていました。

特に、昨日示した部分には、詠み人知らずとは思えない具体性があって、
しかもその歌辞の内容は、曹丕と曹植との兄弟関係を彷彿とさせるものでした。

けれども、この作品には、
劉宋の王僧虔「大明三年宴楽技録」以外、
これを曹丕の作だと明示する、隋唐以前の資料がありません。
『文選』李善注や『藝文類聚』にも、この作品は引かれていないようです。

ですから、以下に述べることはあくまでも想像の域を出ないものです。
ただ、何か切り捨てられないものを感じるので、ここに書き留めておきます。

「何嘗・艶歌何嘗行」は、晋楽所奏「大曲」の中の一曲で、*
これに続いて記載されているのが、曹植の「置酒・野田黄雀行」です。

曹植のこの作品は、かつてこちらで述べたとおり、
「大曲」の編者(おそらくは張華)は、曹植の悲運を悼んで、
この歌辞を「大曲」に組み入れたものと考えられます。

そして、「何嘗・艶歌何嘗行」がもし本当に曹丕の作であるならば、
この二篇の歌辞は、兄弟相互の関係性を追想させるように配置されています。
すなわち、まず兄の曹丕から弟の曹植への戒めを暗示する歌辞、
次いで、曹植とその腹心の者たちの悲劇を想起させる歌辞と楽曲とが、
隣り合わせに並べられているということです。

もしこの二篇の歌曲が連続して演奏されたなら、
魏王朝を弱体化させる遠因のひとつともなった曹氏兄弟の悲劇は、
これを聞く西晋王朝の人々にかなり具体的に思い起こされることとなったでしょう。
そして、現王朝における司馬氏兄弟の悲劇にも当然思いが及んだでしょう。

「大曲」の編者は、こうしたことをあらかじめ思い描いて、
「何嘗・艶歌何嘗行」から「置酒・野田黄雀行」への流れを設けたのではないか。
そのような妄想をかきたてられました。

2025年12月17日

*「大曲」の編者とその編成の動機については、柳川順子「晋楽所奏「大曲」の編者」(『九州中国学会報』第62巻(2024年)を参照されたい。

「艶歌何嘗行」と曹丕(承前)

『宋書』楽志三所収の古楽府「何嘗・艶歌何嘗行」には、
後半部分に次のような辞句が見えています。

少小相触抵     小さな頃からお互い身近に触れ合って、
寒苦常相随     苦しい日々の中、いつも相連れ立っていた。
忿恚安足諍     憤り恨んでも、諍いを起こすほどのことがあろうか。
吾中道与卿共別離  (それなのに)わたしは道の途中でお前と互いに離別した。
約身奉事君     心身を引き締めて君主にお仕えせよ。
礼節不可虧     礼節を欠くことがあってはならぬ。

これは、詠み人知らずの歌辞としては内容が個別具体的で、
誰もが共鳴する最大公約数的な心情に基づくとは言い難いように思います。

却って、たちどころに想起させられるのが曹丕と曹植との間柄です。

少年期の二人は、一族の兄弟たち共々、親密な間柄であったと見られます。*
けれども、父曹操の後継ぎ問題をめぐって、二人の間には緊張が高まっていきました。
また、曹操の晩年に当たる時期、曹植には不埒な行動が目立つようになります。
(『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝)

こうした史実は、前掲の歌辞が示す内容とよく重なりますから、
これを曹丕の作とする史料(王僧虔「技録」)があることにも納得させられます。
あるいは、少なくともこの部分は曹丕の作品に由来する可能性もあるように思います。

2025年12月16日

*彼らの少年時代については、柳川順子「曹氏兄弟と魏王朝」(『大上正美先生傘寿記念三国志論集』(汲古書院、2023年)で考察している。

「艶歌何嘗行」と曹丕

今日も昨日の続きです。
「艶歌何嘗行」を曹丕の作とする説に、
思わずそうかもしれないと納得しかけた理由について。

この楽府詩の中に、次のような辞句が見えています。

但当在王侯殿上  但だ当(まさ)に王侯の殿上に在り
快独摴蒲六博   快く独(た)だ 摴蒲・六博し
対坐弾碁     対坐して弾碁すべし

「摴蒲」は、すごろくに似たボードゲームです。
日本の奈良時代に流行した「かりうち」がこれに当たるそうで、
奈良文化財研究所で復元されています。
https://www.nabunken.go.jp/research/kariuchi.html

また、「六博」「弾碁」も、宴席で楽しまれたゲームです。

この二つのゲームは、
魏の文帝曹丕の「与朝歌令呉質書」(『文選』巻42)に、
かつて共に楽しんだ南皮での游宴の一コマとして、
「弾碁間設、終以六博(弾碁 間〻設け、終るに六博を以てす)」と、
並べて書き記されています。

また、『世説新語』巧藝篇にはこうあります。

弾棊始自魏宮内、用妝奩戯。*
文帝於此戯特妙、用手巾角払之、無不中。……
 弾棊は魏の宮中で、化粧箱を用いて遊んだことに始まる。
 曹丕はこの遊びに特に巧みで、ハンカチの角で碁を払えば常に的中した。

文帝曹丕が弾棊の名手であったことは、
彼自らがその『典論』(『魏志』巻2・文帝紀裴松之注に引く)に、

余於他戯弄之事少所喜、唯弾棊略尽其巧、少為之賦。
余は他の戯弄の事に於いて喜ぶ所少なきも、
唯だ弾棊のみは略(ほぼ)其の巧みを尽くし、少(わか)くして之が賦を為す。

と述べているとおりです。

このように、曹丕はこうした遊びの名手でした。
だから、これらの遊びを人生の楽しみとして挙げる本詩が、
曹丕の作だと言われれば、そうかもしれないと納得させられたのです。

けれども、当時の多くの人々がこれらの遊びに興じていたはずで、
曹丕のみがそれを楽しんでいたわけではないはずです。
やはり、『宋書』楽志に記されているとおり、
「何嘗・艶歌何嘗行」は詠み人知らずとするのが妥当でしょうか。

2025年12月15日

*ただ、この遊びが魏王朝に発祥するものであるかは未詳で、『世説新語』劉孝標注に引く傅玄の「弾棊賦叙」は、その始まりを前漢成帝の頃としている。

 

「艶歌何嘗行」の作者(承前)

昨日述べたとおり、
晋楽所奏「何嘗・艶歌何嘗行」には、
それを詠み人知らずとする説(『宋書』楽志三)と、
魏の文帝曹丕の作とする説(王僧虔「大明三年宴楽技録」)とがあります。

この曹丕の作とする説を目にしたとき、私はさもありなんと納得しました。

そのように納得した理由を問われれば、
そのひとつとして、この「艶歌何嘗行」が持つ表現的特徴があります。
この楽府詩は、既にある作品を寄せ集めたような部分がひときわ目立ちますが、
それは、曹丕の別の作品にも認められる特徴なのです。

このことを「何嘗・艶歌何嘗行」について端的に示せば、

まず、「但当飲醇酒、炙肥牛(但だ当に醇酒を飲み、肥牛を炙るべし)」は、
晋楽所奏「西門行」(『宋書』楽志三)にいう「飲醇酒、炙肥牛」とほぼ同じです。*1

また、「長兄為二千石、中兄被貂裘、小弟雖無官爵……
(長兄は二千石為り、中兄は貂裘を被り、小弟は官爵無しと雖も……」と、
兄弟三人の羽振りの良さを畳みかけるように詠じている部分は、
清調曲「長安有狭斜行」(『楽府詩集』巻35)にいう
「大子二千石、中子孝廉郎、小弟雖無官爵、衣冠仕洛陽
(大子は二千石、中子は孝廉郎、小弟は官爵無しと雖も、衣冠 洛陽に仕ふ)」と、
発想がたいそう似通っています。

更に、「上慚滄浪之天、下顧黃口小兒
(上は滄浪の天に慚ぢ、下は黃口の小兒を顧みる)」は、
晋楽所奏「東門行」に見えている「上用倉浪天故、下為黄口小児
(上は倉浪の天を用ての故に、下は黄口の小児の為に)」とよく似ています。*2

これに通ずる作風が、曹丕の「燕歌行」(『文選』巻27)にも認められます。
その特に顕著な部分を示せば、次のとおりです。

「不覚涙下霑衣裳(覚えず 涙下りて衣裳を霑す)」は、
「古詩十九首」其十九(『文選』巻29)にいう「涙下沾裳衣」にほぼ同じ、

「明月皎皎照我牀(明月 皎皎として我が牀を照らす)」は、
同じく「古詩十九首」其十九にいう
「明月何皎皎、照我羅床幃(明月 何ぞ皎皎たる、我が羅の床幃を照らす)」に酷似し、

「牽牛織女遥相望(牽牛 織女 遥かに相望む)」は、
「牽牛星」と「河漢女」との隔絶を詠じた「古詩十九首」其十と、
「古詩十九首」其三の「両宮遥相望(両宮 遥かに相望む)」とを合せたものです。

これらは、いわゆる典故表現とは異なって、
基づいた漢代の古詩を、ほとんどそのまま持ってきて綴り合せています。

「何嘗・艶歌何嘗行」を目にしたとき、想起したのは曹丕のこの作品でした。

けれども、楽府詩そのもの、特に宮廷音楽に組み入れられた歌辞には、
前述のようなパッチワーク的手法がよく用いられています。*3
そうすると、やはりこれは詠み人知らずの歌辞と見るのが妥当でしょうか。
わからなくなってきました。

2025年12月14日

*1「西門行」本辞(『楽府詩集』巻37)は「醸美酒、炙肥牛」に作る。
*2「東門行」本辞(『楽府詩集』巻37)は「上用倉浪天故、下当用此黄口児」に作る。
*3 柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.345―346を参照されたい。

「艶歌何嘗行」の作者

西晋王朝で演奏された「大曲」(『宋書』巻21・楽志三)の中に、
「何嘗」という語に始まる、「艶歌何嘗行」という楽府題の歌辞があります。

『宋書』楽志三では、これを「古詞」(詠み人知らず)としていますが、
『楽府詩集』巻39では、これを魏の文帝曹丕の作としています。

『楽府詩集』は、『古今楽録』に引く王僧虔「大明三年宴楽技録」に、

「艶歌何嘗行」、歌文帝「何嘗」・古「白鵠」二篇。

とあるのに基づいて、この楽府詩を曹丕の作だとしたのでしょう。

“古「白鵠」”とは、「白鵠」という語に始まる古楽府「艶歌何嘗行」で、
「何嘗・艶歌何嘗行」と同じく、「大曲」の中に含まれています。

「何嘗・艶歌何嘗行」は、
文帝曹丕の作か、詠み人知らずか、どちらなのでしょうか。

南朝劉宋の王僧虔による「技録」は、
西晋末の永嘉(307―312)の乱により離散した宮廷音楽が、
劉裕(宋の武帝)によって北方から奪還、復元されて成った記録です。

楽団の離散から大明三年(459)まで約150年の開きがありますので、
王僧虔の「技録」は、西晋の宮廷音楽を完全に再現するものではありません。
とはいえ、最も近い時代の記録として尊重すべきでしょう。

他方、『宋書』楽志は、王僧虔「技録」よりは成立が降りますが、
梁の沈約が、当時において目睹し得る文献をよく吟味して編んだ歴史書で、
魏晋の宮廷音楽の実態を最もよく伝える第一級資料です。*

このように、資料が伝わった沿革だけを見てくると、
『宋書』楽志の示すとおり「古詞」が妥当と判断されるのですが、
そう言い切るのに少しく躊躇を覚えるのは、
この楽府詩が、いかにも曹丕を彷彿とさせる要素を持っているからです。
(続きます。)

2025年12月13日

*このことについては、柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)第五章第一節・第二節を参照されたい。

曹植「駆車篇」の不可解さ

曹植の「駆車篇」について、不可解さの落穂ひろいです。

たとえば曹海東氏が説くように、
本詩を、明帝の封禅に従う曹植が作成したものだとすると、*
一句目の「駑馬」が、皇帝一行の描写にはそぐわないように感じられます。
それに、先に言及した『魏志』高堂隆伝や『宋書』礼志三を見る限り、
明帝は封禅を行うには至っていないようです。

曹植は、明帝の太和3年(229)、38歳のとき、
雍丘王から東阿王に転じました。東阿は、泰山の東方に位置します。
本詩に詠じられた泰山の光景は、曹植自身が実際に目にしたものなのかもしれません。
ただ、泰山という特別な山に自由に赴くことができたのか、わかりません。

ところで泰山は、五岳の頂点に君臨する山であり、
天下を統一した王者が、天にその功の成ったことを報告する場所であり、
他方、死者の魂が帰っていくとされている場所でもあります。
そうした泰山の持つ様々な要素が、本詩には分散的に現れています。
また、黄帝について、王者としてよりも、その登仙の方に目が向けられています。

本詩のこの捉えどころのなさはどこから来るのでしょうか。
曹魏は天下を統べたのではないから、結局、封禅は行われなかった、

そのことと関わっているのかもしれません。

泰山の頂から「呉の野を望む」というのも、
見果てぬ夢に終わりそうな天下統一を思えばこそなのかもしれません。

2025年12月12日

*曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.260~261。

曹植「駆車篇」と明帝の詔

今日も前日からの続きです。

曹植「駆車篇」における不可解さのひとつとして、
その中盤に出てくる「歴代無不遵、礼記有品程」があります。

この句が指し示す具体的な内容については、
先日こちら(2025.12.02)で推測を述べたところですが、
では曹植はなぜ、ここでこのようなことを言い出したのでしょうか。

その理由が、昨日示した明帝の詔との照合によって見えてきたように思います。
すなわち、明帝自らが『史記』封禅書を引用して詔に記した
「其儀闕不可得記(其の儀は闕けて記すを得可からず)」に対する、
曹植なりの返答と捉えることができるのではないでしょうか。

曹植詩のその後に続く句にいう「封者七十帝」も、
明帝の詔にいう「封禅者七十餘君爾(封禅する者は七十餘君のみ)」に同じです。
これは事実(概数)を記す部分なので、一致するのは当然だとはいえ、
そのような事柄を持ち出しているところに目が留まります。

また、曹植詩にいう「唯徳享利貞」は、
明帝の詔に見える謙遜の辞「吾何徳之修、敢庶茲乎
(吾は何の徳の修むるありてか、敢へて茲を庶(へが)はんや)」に対して、
これに応じ、励ましているようにも捉え得ると考えます。

さらに、曹植詩の中盤に見える「東北望呉野、西眺観日精」について。
なぜ「東北」「西」なのか、不思議でならなかったのですが、*
もし本詩が洛陽の明帝を意識しながら作られたものだとするならば、
泰山は、その「東北」に位置し、「西」は、泰山から見て日没の方角となります。
つまり、「明帝から見て東北の位置にある泰山に登って呉の平原を見渡し、
泰山から西のかた太陽を遠く眺めやる」と解釈できるのではないか。
これはあくまでも想像の域を出ない推論ではありますが、
本詩の中に、もし明帝の視座を置いてみるならば、
少なくとも前掲のごとき奇妙な方角にも、一定の妥当性が生まれます。

(以上のことは、まだ確証がないので訳注稿には反映させていません。)

2025年12月11日

*『藝文類聚』巻42に引くところは「車北望呉野」に作りますが、これも意味が通りません。

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