曹丕「大牆上蒿行」と曹植詩

曹植「当車以駕行」の第一句「歓坐玉殿」は、
類似句が『焦氏易林』巻3「萃之晋」に、
「安坐玉堂、聴楽行觴(玉堂に安坐し、楽を聴き觴を行(まは)す)」と見えます。
ただ、これは宴席を詠じる言葉として特に珍しいものでもないように感じ、
漢籍リポジトリ(https://www.kanripo.org/catalog)で、
他の用例にも当たってみたところ、
曹丕「大牆上蒿行」(『楽府詩集』巻39)に、
「排金鋪、坐玉堂(金鋪を排し、玉堂に坐す)」とあるのに遭遇しました。
曹丕のこの楽府詩も、特にその後半が宴席風景を描写するものです。

曹植は、兄のこの楽府詩を知っていたのではないか。
ふとそう感じたのは、この「大牆上蒿行」という楽府題に既視感を覚えたからです。

それは、曹植の「当牆欲高行」(05-32)です。

「大牆上蒿」と「牆欲高」とでは、一見それほど似ていないかもしれません。
けれども、「蒿」と「高」とは、同じ響きを持つ字ですし、*
「上」と「欲高」との意味の近さも目に留まります。

「大牆上蒿行」という楽府題は、
『楽府詩集』巻36、瑟調曲に引く『古今楽録』によると、
劉宋の王僧虔「大明三年宴楽技録」に瑟調曲のひとつとして著録されています。
だから、『楽府詩集』は曹丕の本作品を広義の相和歌辞の瑟調曲に収載するのでしょう。

一方、曹植「当牆欲高行」の方は、
『楽府詩集』巻61に、雑曲歌辞のひとつとして収載されています。
そこには、本詩に続いて、同じ曹植の作品が、
「当欲遊南山行」「当事君行」「当車已駕行」と並んでいます。

本歌が判明している「当来日大難」(05-20)以外の、
本歌が不明な替え歌が、ここに一括して収められているような感があります。

その本歌が不明な「当牆欲高行」ですが、
もしかしたら「大牆上蒿行」に由来するものなのかもしれません。
もしそうであるならば、曹丕のかの楽府詩と同源だということになります。
可能性としてはそれほど高いわけではありませんが。

曹丕「大牆上蒿行」と曹植「当牆欲高行」とでは、内容がまるで異なっていますが、
楽曲が活きていた時代であれば、それは問題になりません。
むしろ、どう違うか、興味深いところです。

不確実なことから出発して暴走してしまいました。
あくまで思いつきとして記しておきます。

2025年10月9日

*『広韻』ではありますが、「蒿」と「高」とはともに下平声06豪韻に属し、「蒿」は「呼毛切」、「高」は「古労切」とそれぞれの音が反切法で記されています。声母は異なるけれども、韻母は同じ、かなり近似する音だと見られます。

宋本『曹子建文集』

昨日から、曹植「当車以駕行」(05-35)の訳注作業に入りました。

ここまでの訳注稿では、基本的に丁晏『曹集詮評』を底本とし、
必要に応じて、当該作品を収載する類書や諸々の作品集との異同を記してきました。

ところが、ふと思い立って宋本『曹子建文集』を開いてみたところ、
本作品は、題名から本文から丁晏『詮評』との間にかなりの異同があって、
これまで、宋本との校勘をそれほど重要視してこなかったことに恥じ入りました。

丁晏の『曹集詮評』は、明万暦休陽程氏刻本十巻を底本としています。

現代の私たちは、丁晏の目睹できなかった宋本を容易に見ることができます。
それなら、この恩恵に浴しないわけにはいかないでしょう。

今手元にある『宋本曹子建文集』(国家図書館出版社、2021年)の、
劉明氏による「序言」には、次のように記されています。

宋代の十巻本系統の曹植集で今に伝わるものには二種あって、
ひとつは『四庫全書総目』にいう「南宋嘉定六年本」で、四庫全書本はこれに拠る。
もうひとつは瞿氏鉄琴銅剣楼旧蔵、現上海図書館所蔵の宋刻本『曹子建文集』で、
これは、国内外の孤本である。

孤本というものの扱いには詳しくありませんし、
何でも古ければ古いほど正しいと信じているわけではありませんが、
重要視すべきテキストであることには違いありません。

同じ宋代に成った『楽府詩集』とは、
関係の近さを感じさせるものが認められるかもしれません。

公開済みの訳注稿電子資料の[曹植の全作品テキストと校勘]で、
宋本との校勘によって改めるべき内容が出てきたら、
これから随時修正していきます。

2025年10月8日

雅俗の拮抗

曹植「当事君行」の中に、次のような句があります。

朱紫更相奪色  朱と紫とが互い違いにその色を奪い合い、
雅鄭異音声   雅楽と鄭声(俗楽)とはその音を異にしているものだ。

これは、『論語』陽貨篇にいう、

悪紫之奪朱也。   紫の朱を奪ふを悪むなり。
悪鄭声之乱雅楽也。 鄭声の雅楽を乱すを悪むなり。

を踏まえた表現であることは間違いありません。
ただ、曹植は『論語』の趣旨をそのまま踏襲しているわけではないようです。

『論語』は、朱色や雅楽を正統とした上で、それを乱す紫色や鄭声を憎んでいます。

ところが曹植詩では、その雅俗両者の関係が対等であるように見えます。

そして、その「雅鄭異音声(雅鄭 音声を異にす)」は、
次に示す、傅毅「舞賦」(『文選』17)にいう、
「鄭雅異宜(鄭雅は宜しきを異にす)」を響かせている可能性があります。

傅毅の「舞賦」は、次のような趣旨のことがその初めに書かれています。

宴席での出し物として俗楽系の舞踊を勧めた宋玉に対して、
楚の襄王から「如其鄭何(其の鄭を如何せん)」との疑念が示されます。
それに対する宋玉の答えが、前掲の「鄭雅異宜」です。
傅毅は宋玉の口を借りて、それぞれ用途が異なる雅俗の共存を説いているのです。

傅毅は後漢時代前期の人ですが、
この頃から、古詩・古楽府をはじめとする軟派な宴席文芸は、
知識人社会の中に、表舞台に立つ正統派文学と共存しながら展開していきます。*

曹植は、このような文学的潮流の中にあって、
前掲のような辞句を自然に口にするに至ったのではないでしょうか。
(彼が独自に創り上げた詩想であると見るよりも)

こうした雅俗の並立する後漢時代の文化的情況を捉えてこそ、
建安文学の位置も明確になると考えています。

2025年10月7日

*このことについては、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)を通して論じています。ご笑覧いただければ幸いです。

訳注の難しさ

本日、「当事君行」(05-34)の訳注稿を公開しました。
この作品に感じた訳注の難しさを記しておきます。

まず、典故を踏まえた表現である場合、その出典の示し方です。

先日来考えてきた「百心可事一君」という辞句の出典は、
結局、『説苑』談叢にいう「一心可以事百君、百心不可以事一君」を挙げました。

というのは、続く句「巧詐寧拙誠」に近似する句が、
同じ『説苑』談叢の前掲文のすぐ上に「巧偽不如拙誠」と見えているからです。

『説苑』貴徳にも、一字違いで「巧詐不如拙誠」とあります。
ですが、曹植が詩作に当たってわざわざこの貴徳にある句を拾ったというよりは、
もともと談叢の句が貴徳のそれと同じであった、
あるいは(現行の)談叢の句を見た曹植が、それに手を加えたのかもしれない、
と考えた方がよいように思いました。

語釈に示す出典は、できることならば作者の目睹したものを挙げたい。
彼の手と目がたどった道筋が見えるものならば、と思います。

もう一点、この作品で難しいと感じたのは、通釈です。

当時広く流布していた言葉を寄せ集めた感のある本詩は、
そのことわざめいた言葉と言葉との間に奇妙な余白があるため、
直訳するとおかしな日本語になるところが少なくありませんでした。

また、日本語と漢語とでは本質的に構造が違いますから、
漢語で表現されている内容を過不足なく日本語で言い表そうとすると、
逐語訳ではどうしても日本語として不自然なことになります。

漢語のどの言葉の意味を、日本語のどの部分が受けているか、
それを説明することはできるつもりではありますが、
直訳というには程遠いものとなります。

訳注は、たいへん地味な作業ですが、面白いです。

2025年10月6日

 

広く流布する辞句(承前)

昨日の続きです。

『晏子春秋』内篇問下にいう「一心可以事百君、三心不可以事一君」は、
同一の句が、同書の外篇上にも見えています。
このいずれもが、梁丘拠(斉の景公の臣下)の問いに応えた晏子の科白の中にあります。

ところが、『晏子春秋』外篇下に記された故事では、
孔子が斉の景公に謁見した際、晏子に会わない理由を問われ、

晏子事三君而得順焉、是有三心。所以不見也。
晏子は三人の君主に仕えて従順でいられた。これは三つの心があるということだ。
だから(そんな心根に一貫性のない者には)会わないのだ。

と孔子が答えたところ、
これを景公から伝え聞いた晏子がこう言うのです。

不然、嬰為三心。三君為一心。故三君皆欲其国之安、是以嬰得順也。
そうではない、私(晏嬰)に三つの心があるというのは。
三君はひとつの心であった。
もとより三君はみなその国の安定を望んでいて、だから私は従順にお仕えできたのだ。

これと同じ内容の故事は、同書外篇下にもう一条見えていて、
そこでは、晏子の科白がこのようになっています。

嬰聞之、以一心事三君者、所以順焉。以三心事一君者、不順焉。……
私はこう聞いております。
ひとつの心で三人の君主に仕えることは、従順だとされる所以である。
三つの心でひとりの君主に仕えるのは、従順ではない、……と。

孔子と晏子が登場する同じ故事は『孔叢子』詰墨にも見えますが、
そこではそれに続けて晏子と梁丘拠とやりとりが記され、
そこに晏子の次の科白が出てきます。

一心可以事百君、百心不可以事一君、故三君之心非一也、而嬰之心非三也。
ひとつの心で百人の君主に仕えることはできるが、
百の心でひとりの君主に仕えることはできない。
もともと三人の君主の心はひとつではなく、私の心は三つではないのだ。

そして、この晏子の言葉を聞いた孔子が、晏子に感服するという筋書きになっています。
これはまるで、『晏子春秋』外篇下の記事に、同内篇等の記事を合体させたような外観です。

以上の記事を縦覧すると、こうまとめることができるでしょうか。

『晏子春秋』の外篇下に記された故事は、
「一」と「百」の対比ではなく、「一」と「三」の対比を為しています。

同書の内篇及び外篇上では、「一」と「百」、「一」と「三」の対比が混在しています。

一方『孔叢子』は、「一」と「百」の対を諺のように持ち出して、
それを、『晏子春秋』外篇下に見える「一」と「三」の対に対応させています。

それぞれの書物・篇の関係性については無知のままですが、
いずれ霧が晴れる日も来るかと思い、まずは覚書きを記しておきます。

「一心可以事百君、三心不可以事一君」を、
『詩経(魯詩)』曹風「鳲鳩」の伝として記す諸本があることは昨日記しましたが、
そちらの系統と、晏子をめぐる上述の故事との関係については待考です。
(すでに先行研究があるのかもしれませんが、未見です。)

2025年10月5日

広く流布する辞句

曹植「当事君行」の中に、
「百心可事一君(百の心で一人の君主に仕えることはできない)」という句があります。

この句について、黄節『曹子建詩註』巻2は、
『晏子春秋』内篇問下にいう「一心可以事百君、三心不可以事一君」を挙げ、*1
丁晏『曹集詮評』巻5は、『風俗通』過誉に引く伝に、*2
「一心可以事百君、百心不可以事一君」とあるのを挙げています。

出典の指摘として、どちらがより適切なのだろうと思って調べてみたところ、
これとほぼ同一の辞句が、他にも次のような文献に見出されました。

『孔叢子』詰墨に、晏子の言葉として「一心可以事百君、百心不可以事一君」、
『説苑』談叢に、「一心可以事百君、百心不可以事一君」、
『説苑』反質に、「一心可以事百君、百心不可以事一君」、
『列女伝』母儀伝「魏芒慈母」に、「一心可以事百君、百心不可以事一君」と。

これらのうち、
『晏子春秋』・『孔叢子』は、晏子の言動に連なるものです。

『説苑』反質・『列女伝』・『風俗通』は、「魯詩」の伝として記されています。

『説苑』談叢に記されているものは、いずれか判然としません。

ほとんど同じ辞句が、複数の文献に散見するというだけでなく、
ほぼ同一の句が、かたや晏子に、かたや「魯詩」の伝に連なることに興味を引かれます。
晏子と「魯詩」と、どういうわけでこのような辞句を共有しているのでしょうか。
あるいはこの問題に論及した先行研究がすでにあるかもしれません。

2025年10月4日

*1 黄節の引くところでは、「三」を「百」に作る。
*2 「伝」とは、陳寿祺撰・陳喬樅撰・馬昕臻点校『三家詩遺説考』魯詩遺説考巻二之四(中華書局、2024年)p.273―275によると、『詩経』曹風「鳲鳩」に対する「魯詩」の伝であるという。

古詩と古楽府との関係

昨日触れた「古詩八首」(『玉台新詠』巻1)其六「四坐且莫諠」は、
その内に、古楽府に見える辞句を多く取り込んでいました。

これとは逆に、古楽府が古詩の辞句を取り込んだ事例もあります。

たとえば「西門行」は、その本辞(『楽府詩集』巻37)も
晋楽所奏「大曲」の「西門行」(『宋書』巻21・楽志三)もともに、
「古詩十九首」(『文選』巻29)其十五「生年不満百」から多くを摂取しています。*1

古詩と古楽府との関係性について、
長い間、古楽府が古詩に展開したと見るのがほぼ定説でした。

特に先鋭的な論述として、たとえば白川静は、
「民衆の歌謡」が「新しい文学を生む母胎となる」とし、
古詩は、古楽府を母胎として生まれたのであり、
「古詩から楽府が生まれること」は「ありえない」としています。*2

詠み人知らずの楽府詩である古楽府の中には、
たしかに「民衆の歌謡」との呼称にふさわしいものが多くあります。
ですが、そうではないものもまた少なくありません。

他方、古詩諸篇を精読すれば、
それを一括して後漢時代末の作と見なせないことは明白です。

古楽府を一括して民衆のものとし、
古詩を一括して無名の知識人の作とする、
このある意味わかりやすいレッテルは一旦はがし取って、
個々の作品分析から精査し直した方がよいと私は考えています。

如上の論は、すでに過去の自分が提示したものですが、
今もなお、前掲の定説に依拠した研究は少なくないように思い、
敢えて昔のものを持ち出して紹介する次第です。

2025年10月3日

*1 論の詳細は、昨日紹介した拙論を参照されたい。
*2 白川静『中国の古代文学(二)』(中公文庫、1981年)p.132―133を参照。

詩歌相互の影響関係

『玉台新詠』巻1「古詩八首」其六「四坐且莫諠」は、
昨日取り上げた「古艶歌」との間に明かな類似点が認められます。*

四坐且莫諠  一座の皆様、しばらく静かにして、
願聴歌一言  どうか私の歌うことに耳を傾けてほしい。
請説銅鑪器  銅の香炉について、お話しさせていただこう。
崔嵬象南山  それは南山のように高々と聳えていて、
上枝以松柏  上の枝は松柏をかたどり、
下根拠銅盤  下の根は銅盤に拠っている。
雕文各異類  彫刻を施した文様には様々な種類があって、
離婁自相聯  それらはくっきりと刻まれて連なり合っている。
誰能為此器  誰がこのような器物を作ることができるかといえば、
公輸与魯班  それはかの公輸班や魯班のような名工だろう。
朱火然其中  赤い炎がその中に燃え、
青煙颺其間  青い煙がその間から立ち昇る。
従風入君懐  煙は風に従ってあなたの懐に入り込むが、
四坐莫不歓  一座の皆様は、誰もがそれを喜ばれることだろう。
香風難久居  だが、香しいそよ風はなかなか久しくは留まらず、
空令蕙草残  あとには空しく香草を残すことになるのだ。

本詩と「古艶歌・南山石嵬嵬」との類似性は、
まず、本詩の「崔嵬象南山(崔嵬たること南山に象(に)たり」に顕著です。
「上枝以松柏(上枝は松柏を以てす)」の「松柏」「上枝」も、「古艶歌」に見えています。
「誰能為此器、公輸与魯班(誰か能く此の器を為す、公輸と魯班となり)」は、
「古艶歌」の「誰能刻鏤此、公輸与魯班(誰か能く此を刻鏤せん、公輸と魯班となり)」とほとんど同じです。

では、どちらがどちらに影響を与えたのでしょうか。

実は、前掲の「古詩」には、
昨日挙げた「古艶歌」以外の作品にも類似表現を見い出せます。

たとえば、「豫章行」(『楽府詩集』巻34)にいう、
「上葉摩青雲、下根通黄泉(上の葉は青雲を摩し、下の根は黄泉に通ず)」は、
「古艶歌」の「上枝拂青雲(上枝は青雲を拂ふ)」と酷似していますが、
この両者があわさって、前掲「古詩」にいう、
「上枝以松柏、下根拠銅盤(上枝は松柏を以てし、下根は銅盤に拠る)」
になったのではないかと見られます。

前掲「古詩」とその他の作品とが類似表現を共有する例として、

たとえば「従風入君懐(風に従ひて君が懐に入る)」は、
前漢末の班婕妤の作と伝えられる「怨歌行」(『文選』巻27)にいう
「出入君懐袖、動揺微風発(君の懐袖に出入して、動揺して微風発す)」を思わせます。

この他、詩歌ではありませんが、前漢末の劉向「薫鑪銘」(『藝文類聚』巻70)には、
先にも言及した「上枝以松柏、下根拠銅盤」を想起させる
「上貫太華、承以銅盤(上は太華を貫き、承くるに銅盤を以てす)」という句が見えており、
また、「朱火然其中、青煙颺其間(朱火其の中に然え、青煙其の間に颺がる)」に似た、
「朱火青煙(朱き火に青き煙)」といった句も見えています。

このように、あるひとつの作品に、複数の作品の影響が認められる場合、
それらの関係性はどのように捉えるべきでしょうか。

それは、この「あるひとつの作品」は「複数の作品」から表現を摂取して成った、
と、このように捉えるのが最も妥当だと私は考えます。

今ここで挙げた具体的作品を例に言うならば、
『玉台新詠』所収「古詩八首」其六は、
「古艶歌」、「豫章行」、班婕妤「怨歌行」、劉向「薫鑪銘」等々、
様々な作品が同時に見渡せる地点(つまりかなり時代が下ってから)に立ち、
それらから幾つかの表現を摂取し、綴り合せ、ひとつの詩歌に織りあげたものである、
というふうに捉えるということです。

前述の大原則は、かなり汎用性の高い分析方法だという実感を持っています。
建安詩と漢代詩歌との関係性も、この方法を用いて比較的精度の高い推定が可能です。

2025年10月2日

*拙論「漢代古詩と古楽府との関係」(『日本中国学会報』第62集、2010年。『漢代五言詩歌史の研究』創文社、2013年に収載)を参照されたい。

本歌と詩人の替え歌

昨日取り上げた曹植の「当欲遊南山行」について、
黄節は、次に示す「古艶歌」(『藝文類聚』巻88)との共通点を指摘しています。
(この詩歌の訓み下しは、本詩訳注稿の余説をご参照ください。)

南山石嵬嵬  南山には、巨石がごつごつと聳え立ち、
松柏何離離  松柏のなんと盛んに連なり合っていることか。
上枝拂青雲  上の枝は青い大空を払うほどに伸び、
中心十数囲  中心の幹は十数囲もあろうかという太さだ。
洛陽発中梁  洛陽から棟木に充てる木が求められ、
松樹窃自悲  松の樹はひそかに逃れられぬ定めと自らを悲しんだ。
斧鋸截是松  斧や鋸でこの松を切り倒し、
松樹東西摧  松の樹は東と西とに打ち砕かれてしまった。
持作四輪車  それでもって四輪の車を作り、
載至洛陽宮  伐採した木を載せて洛陽宮に届ける。
観者莫不歎  これを見物する者は誰もが感嘆の声を上げて、
問是何山材  「これはどちらの山の材木か」と問う。
誰能刻鏤此  誰がこれに彫刻を施せるかといえば、
公輸与魯班  公輸や魯班のような名工である。
被之用丹漆  これに深紅の漆を塗り被せ、
薫用蘇合香  焚き染める薫りは蘇合香。
本自南山松  もとは南山の松であったが、
今為宮殿梁  今では宮殿の梁である。

たしかに黄節の言うように、
曹植「当遊南山行」とこの「古艶歌」との間には、
太い幹をもつ巨木、それで乗り物を作ること、匠の技への言及など、
いくつかの類似する要素が認められます。

けれども、両者のテーマは異なっていて、
「古艶歌」は、南山で切り出された巨木が都の宮殿の梁となったこと、
曹植「当欲遊南山行」は、個々人の特性を活かす人材登用の重要性を説いています。

では、両者はまったく無関係だと言い切れるでしょうか。

楽府詩の制作において、
その本歌がまだ実際に歌われている歌謡であった場合、
活きている楽曲に合わせて、しばしばその歌辞は自由に作られます。
他方、その楽曲がすでに失われている場合、
新しい歌辞は、伝存する本辞や楽府題の示すテーマに沿って作られます。

今、「欲遊南山行」という題名の楽府詩は伝存しませんが、
当時、もし前掲の「古艶歌」が別名「欲遊南山行」として流布していたならば、
(「古艶歌」に「欲遊南山」という語が含まれていないのが難点ですが)

曹植がその本歌に含まれる要素から幾つかを選び取り、
そこから自由に詩想を展開させた可能性も無いとは言い切れません。

そうすると、「当欲遊南山行」で詠じられているのは、
曹植自身の強い思いに発する政治思想だと捉えられることになります。

もっとも、黄節自身も記しているように、
曹植の模擬対象が前掲「古艶歌」であったかどうか分からないのですが。

2025年10月1日

曹植「当欲遊南山行」の制作年代(承前)

本日、「当欲遊南山行」(05-33)の訳注作業を終えました。

読解を終えて、やはりこれは建安年間の作と見るのが妥当だと感じました。
狩野直喜先生の学風である「心得の学」に倣って言えば。

では、どうして自分はそのように感じたのか。

それは、本詩の内容が一筋の美しい倫理観に貫かれており、
ためらいや屈折、そうした倫理観に至った紆余曲折が見えないからです。

若い曹植が心を砕いたことのひとつとして、
曹操のもとに集った人々への待遇という問題がありますが、*1
そうしたテーマが、何の衒いもなくまっすぐに詠まれている作品です。

また、表現的技巧の面から見ても極めて素直です。

まだ挫折を知らない曹植が、
父曹操の主催する魏王国の盛大なる宴席で、
その若々しい抱負を披露したのが本詩ではないかと考えます。
その点、同じ曹植の「薤露行」(05-10)と制作の背景が近いかもしれません。*2

2025年9月30日

*1 たとえばこちらをご参照ください。
*2 「薤露行」については、拙論「曹植における「惟漢行」制作の動機」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号、2022年)で論究しています。

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