相思相愛の人

こんばんは。

白居易の作品を読んでいて時々驚かされるのは、
彼が愛情というものに対してゆるぎない自信を持っていることです。
自分が相手のことを想う、それと同じように、相手も自分のことを想っているはずだ、
そのように、心底信じきっているように思えるのです。

たとえば、以前に幾度か触れたことがある元稹への手紙「与微之書」には、
その二年ほど前に元稹から届いた手紙に感激したこと、
彼が病気を押して自分宛てに書いてくれた詩に涙したことを記した直後、
続けて「且置是事、略叙近懐(しばらくは是の事を置いて、ほぼ近懐を叙せん)」といい、
自身の満ち足りて安らかな近況を三つ詳述します。
そして、それらを述べ終わった後に次のように記しています。

計足下久不得僕書、必加憂望。
君は僕からの手紙が得られないことを、きっと心配しながら待ち望んでいるだろう。

だから、自分の近況を述べたというわけですね。
この時、元稹との間には手紙が途絶えて二年という歳月が経過しています。
したがって、元稹のその後の健康状態については知るよしもなかったかもしれませんが、
それはさておき、君は私のことを心配しているだろう、
といって自身の近況を記す、白居易の気持ちがうまく理解できません。

けれども、そんな手紙を受け取った元稹本人は、きっとうれしかったでしょう。
自身の愛情に自信を持つ人の言葉には、落魄の人をも元気づける熱情があると思います。
だからこそ、彼はこのような返答の詩を書き送ったのに違いありません。

白居易はよほど篤い愛情に恵まれてきた人なのでしょう。
だから、自身も大切に思う人々にあふれんばかりの愛情を注いだ。

自前の小さなスケールではとても把握することができない人のように思えます。

2020年9月14日

元稹の応酬詩

こんばんは。

元稹の白居易詩に対する応酬詩には、一見不機嫌なのかと疑いたくなるようなものがあります。
たとえば、先にも取り上げた「酬楽天八月十五夜禁中独直玩月見寄」がそれです。

ただ、この元稹の応酬詩を取り上げて論文化しようとすると、
これは、それほど単純化できるような感情ではないということを痛感させられます。
先行研究の多くが、暗黙裡に二人の友情を過度に美化していることには疑問を感じますが、
だからといって、元稹が白居易にただ単に反発しているだけではないことは、
同時期に交わされた彼らの他の唱和詩や、
白居易の「和答詩」とそのもととなった元稹の詩から明らかです。

憐れむかのような白居易の同情に対する微量の反発心と、
自己卑下して自らを笑いものにする道化的な要素と、
この他にも様々な気持ちが混じり合い、
あの簡単に解釈されてしまうことを拒むような、
なんとも捉えどころのないニュアンスとなったのでしょうか。

2020年9月13日

「唱和詩」という名称

こんばんは。

こちらで、何度か「元白応酬詩」という語を用い、
白居易と元稹との間で交わされた詩の読みを検討しましたが、
この内容に関する先行研究を探索しながら、
「応酬詩」という言葉は実は無い、という現実に突き当たりました。

「応酬詩」という語は、もう十年以上にもなるでしょうか、
元白二人の間でやり取りされた詩を、授業で断続的に読み継いでゆく中で、
いつの間にかなんとなく使うようになったもので、根拠はありません。
たぶん、「応酬」の語義に、相互のやり取りという要素があることからでしょう。
ですが、このたび辞書を確認してみたところ、
詩などについてこの語を用いる場合は、もっぱら返事の意味となるのですね。
双方向的な要素は、何か激しい主張のぶつけ合いのような場面に限定されるようです。

「応酬」の語を、ずっと間違った意味で使っていました。恥ずかしい限りです。

では、元稹と白居易との間で交わされた詩群はどう呼ばれているのか。
それは「唱和詩」が一般的のようです。

ただ、これだと困ることが出てきます。
それは、この「唱和」という語が本来的に持っている「和」のニュアンスです。
元白二人の間で交わされた詩には、調和のイメージからは外れるものが少なくありません。
実際、白居易には「和答詩」(『文集』巻2、0101~0110)という作品群があるくらいで、
元稹詩に対して、決して常に「和」しているだけではないのです。*
元稹の方には、むしろ不協和音を醸し出しているような応酬詩さえ認められます。

そこに、考察を誘いかけてくるものがあるのですが、
「唱和詩」と呼んだ時点で、それが無化されてしまうかもしれません。

では、これをどう呼べばよいのでしょう。
実態はあるのに、それを呼びならわす適切な語が見つかりません。

2020年9月12日

*白居易自身がその序文(0100)で、元稹詩と考えが同じものを「和」、異なるものを「答」というと述べています。もっとも、元稹の気持ちに根本のところで寄り添っているという点では、「和」「答」いずれの応酬詩も同じではありますが。

曹植の至らなさ

こんばんは。

黄初年間の初めに曹植が得た罪とは、いったい何だったのか。

『魏志』巻19・陳思王植伝には、
黄初二年、監国謁者の潅均が文帝曹丕におもねって、
「植酔酒悖慢、刧脅使者(曹植は酒に酔っぱらって暴れ、朝廷からの使者を脅しつけた)」と奏上し、
これがもとで所管の役人から処罰するよう要請があったことが記されています。

一方、曹植自身の「黄初六年令」(『曹集詮評』巻8)には、*
まず、東郡太守・王機や防輔吏・倉輯等の誣告により、朝廷に罪を得たとあり、
更に、雍丘に移ってから、また「監官の挙ぐる所と為り」、紛糾して今に至るまで三年、
と記されています。

曹植「黄初六年令」にいう「監官」は、『魏志』にいう「監国謁者」かもしれません。*

いずれにしても、曹植は、明らかに法に触れるような罪過を犯したわけではなさそうです。
ただ、こうした咎めを引き寄せる素地が、彼自身にもあったかもしれません。

たとえば、これまでに触れた建安年間の事例を挙げるならば、
宮城の門内で鉢合わせした韓宣という人物をどやしつけたり(2020.06.18記)
建安二十二年の疫病流行に際して、民人の迷信的なふるまいを嘲笑したり、
同じ頃、宮殿の司馬門を勝手に開いて出たり(2019.11.21記)

また、「柳頌序」(『曹集詮評』巻8)という文章では、
楊修の家を訪ね、庭に植わった柳の枝葉を戯れに折り取って「柳頌」を書き残し、
「遂因辞勢、以譏当世之士(遂に辞勢に因りて、以て当世の士を譏る)」と、
筆の勢いに乗じて、同時代の人士たちを非難したことを、自ら書き記しています。

そういえば、「贈丁儀」詩でも舌鋒鋭く為政者批判をしていましたが、
もしこれが曹丕が魏王となった年の作だとするならば、十分に罪過に当たる物言いでしょう。

悪気はない、むしろその粗削りの言動の奥に真率なる誠実ささえ感じられるのですが、
そうした無防備なふるまいは、これを陥れようとする者たちの格好の餌食となったでしょう。

2020年9月11日

*津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)に指摘する。

曹植の罪状とは(承前)

おはようございます。

昨日言及した津田論文について、少し訂正します。
津田氏の文学研究に対する言及は、曹氏兄弟の後継者争いについてではありません。
文学研究の分野においては、概して、
曹植の詩文は、彼の政治的「不遇」を背景に制作されている、
との前提で、作品の繋年・解釈が為されているようだが、
その「不遇」の実態については、深く精査する必要があるのではないか、
という問いかけが為されているのです。
(昨日はたいへん不正確なことを書いてしまいました。)

王朝の一員として働きたいという曹植の願いは、それほど的外れの願望であったのか。
この問題は、目下検討している彼の「惟漢行」「薤露行」の解釈と直結します。
それで、津田論文の問いかけに応える必要があると思ったのです。
この点、もう少し検討してみます。

さて、曹植が皇帝の座を狙うようなことがあったのか、という問題について、
私も、なかったと考える立場を取りますが、
伝存する史料から、完璧にこれを証明することはできません。
一方、彼自身の文学作品から、その心情を掬い上げることは不可能ではなく、
(制作年代の推定を行う前の段階において、もっぱら表現面からの分析により、です。)

そこから彼の政治的野心の有無やその内実を推し測ることはできるように思います。

文学研究の立場からできることとしたら、このあたりからでしょうか。
先に述べたことは、このような意味においてです。

2020年9月10日

曹植の罪状とは

こんばんは。

『三国志(魏志)』巻19・任城陳蕭王伝の裴松之注に、
『典略』『魏略』を著した三国魏の歴史家・魚豢の評語が引かれていて、
その中に次のような句が見えています。

仮令太祖防遏植等、在於疇昔、此賢之心、何縁有窺望乎。
彰之挟恨、尚無所至、至於植者、[豈能興難。*]
乃令楊修以倚注遇害、丁儀以希意族滅、哀夫。

もし太祖曹操が曹植らを早くに抑えていたら、
この賢者の心に、情勢を窺うような機縁が生じたはずはない。
曹彰の恨みを含んだ状態でさえ、決起するには至らなかったのだから、
まして曹植にどうして動乱を起こすようなことができただろう。
それなのに、楊修は曹植に肩入れするあまり害に遭い、
丁儀は太祖の意向に迎合して一族皆殺しとなったのは、悲しいことだ。

いったい曹植は何かを「窺望」して事を企てたりしたのでしょうか。

同じ魚豢は、すでにこちらでも述べたとおり、
自分を担ぎ上げようとする曹彰に対して、曹植は言下にこれを斥けた、
そのことを、曹植自身の言葉とともに記しています。
(同巻・任城王曹彰伝の裴注引『魏略』)

曹植が兄の曹丕と跡目争いをするつもりはなかった、とは、
伊藤正文以来、文学研究の方面ではほぼ常識になっているようにも思うのですが、
先日読んだ津田論文には、それとは異なる捉え方が示されていました。
『三国志』の記述にバイアスがかかっている可能性があると思うと、
本当のところどうだったのか、疑念が生じてきました。

魚豢は、楊修や丁儀・丁廙兄弟の思惑を取り上げて、
その企図を曹植その人に発するものと解釈しただけなのかもしれませんが。

2020年9月9日

*『資治通鑑』巻69・魏紀・文帝黄初元年の条によって補う。

曹植の息子

こんばんは。

父の想念は、その子への対し方に現れ、
ひいてはその子自身のあり様に影響を及ぼすものなのでしょうか。

『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝によると、
曹植は、末っ子の曹志の才徳を見込んで自身の跡継ぎとしましたが、
長子を無条件に立てるということをしなかったのは、
もしかしたら、兄との不幸な確執が記憶に残っていたからかもしれません。

一方、文帝曹丕は長らく太子を立てず、
曹叡を疎んじ、曹霖を溺愛していたことは、以前こちらに書いたとおりです。

さて、曹植の跡を継いだ曹志は、
西晋の武帝司馬炎と面談して、その器を高く評価されましたが、
司馬炎がその同母弟の司馬攸を藩国に出そうとしたとき、
これを厳しい調子で諫めて武帝の怒りを買い、免官となっています。

安有如此之才、   どうして、このような才能、
       如此之親、   このように近しい親族でありながら、
而不得樹本助化、  王朝の根本を打ち立て、教化を助けるということができず、
而遠出海隅者乎。  遠く海辺の隈に出されるようなことがあってよいものか。

この慨嘆の言葉は、そのまま父曹植のことを指していると言ってもよいほどです。
(以上、前掲本伝裴松之注に引く『(曹)志別伝』より)

曹志のこの言動は、父曹植の無念と深く結びついているに違いありません。
曹志は多感な少年時代、父の渦巻く苦悩を目の当たりにしてきたのでしょうから。
しかも、彼の抑制のきいた日頃のふるまいから判断するに、
そうした憤懣はあらわにすべきではないと父から教えられてきたようにも察せられます。
それでもこうした局面に遭遇して、父への真情がほとばしり出たのでしょう。

なお、上記の司馬兄弟の悲劇の背後に、
先日来何度か言及している荀勗がいることは、以前こちらで述べた通りです。

2020年9月8日

自分との約束

こんばんは。

六朝学術学会のHP会員研究ノートに、
「曹植における 「惟漢行」 の制作動機」と題する短文を投稿しました。
もし可能であれば御批正いただければありがたく存じます。

この研究ノートには書ききれなかったことがいくつかあるのに、
このところ、しばらくこの問題から離れ、その後の検討を放置していました。
(今年の夏は、授業も成績評価も、教免更新講習も、少し特殊な状況だったこともあって)

明日からは、再び曹植文学に関する諸問題に取り組みます。
特に、しばらく停止していた曹植作品訳注稿の作成は継続的に進めたい。
それは、自分との約束であり、曹植との約束(と自分では思っている)でもあります。
後回しにしてもかまわないわけではないはずです。それなのに、
どうしてもわかりやすく人様のお役に立てることを優先しがちになるのはなぜでしょう。
本当は等価のはずだし、自分だって「人様」の一部のはずなんですが。

2020年9月7日

既存の言葉の直接引用

こんばんは。

先日にも触れた西晋王朝の宮廷儀式で歌われる歌辞を、研究会で読みました。

経書の一句をまるごと引いたかと思えば、
それと対を為すような部分で何もそれらしい典故表現が認められない、
あるいは、漢字そのものはよく見かけるが、その語順が見慣れたそれではない、
そんな事例が比較的多く目についたものですから、
先には、荀勗は詩作が下手なんだろうかなどと書いたのですが、
安易にそんなことを言っていた自分がはずかしいです。

経書をそのまま引く場合は、私にも比較的アプローチしやすいのですが、
それにアレンジが加わっている場合や、発想のみが踏襲されているような場合は、
実は、これを読む側の経験値が試されるのですね。
そして今回、自身の至らなさを思い知らされることしきりでした。

それから、経書の句をまるごと引く部分がある一方、
曹操が後漢末においてその地保を固めていったことを示す公的文書や、
後漢王朝が曹丕に禅譲し、魏王朝が成立したことを宣言する公的文書などを、
一句そのままのかたちで引く箇所も少なからず認められました。
なぜ荀勗は、そうした類の文章の、直接引用を敢えて行ったのでしょうか。
西晋王朝の草創期に、こうした歌辞が作られたことの意味を考えてみたいと思います。

2020年9月6日

民国時代の日本観

こんばんは。

昨日、知不足斎叢書に日本の学術書が収められていることを述べましたが、
これをもって、その編者が中華思想からは自由な考え方を持っていたとは言えません。
鮑廷博は中国古典の持つ価値を信じ、
これを大切にする人なら、分け隔てなく評価したということでしょう。

中国の人が、日本にも独自の文化があることに目を留めたのは、
二十世紀前半、民国時代のことなのだろうと思います。
というのは、このような資料があるからです。

1929年10月28日出版の『語絲』第5巻第33期に広告が載っている、
謝六逸という人物による『日本文学史』という書物が、
中国人による日本文学史の嚆矢のようです。

この記事は、20年ほど前、北京大学の図書館で、民国時代の雑誌を縦覧しながら、
五言詩の成立年代をめぐる論争を追っていた時、たまたま見つけたものです。
(私にとって「見つけた」でも、この時代の専門家には周知の資料かもしれません。)

この学術的な論争が、上記の記事と同じ時代の出来事だと思えば、
鈴木虎雄の学説がかの国で受けた強い反発はとてもよく理解できました。
もしよかったらこちら学術論文№16著書№4)をご覧いただければ幸いです。

日中比較文学論の授業で、日本人学生からはこういうコメントがよく出ます。
「日本の文学が中国の文学に影響を与えた例はないのか気になる」
(「気になる」と言わず、質問というかたちで言ってくれたらいいのですが。)

他方、秋吉收『魯迅 野草と雑草』(九州大学出版会、2016年)により、
魯迅が、日本の与謝野晶子や芥川龍之介から影響を受けていることを指摘すると、
交換留学生たちから、「そういうのだったら昔から中国にあります」などとよく言われます。

なかなか難しいものです。

2020年9月5日

 

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