「古典」と古典的文学作品
こんばんは。
昨日は、教免更新講習の資料のうち、日本文学に関わるものを校正しました。
たとえば、以前、岩波の新日本古典文学大系に拠って記していた資料を、
旧版の岩波日本古典文学大系に従って修正するといった作業です。
テキストは新しい方がよりよいのではないかと思いますが、
今年は図書館での調べ物がしづらいため、
手近にあるテキストを用いて確認作業をすることにしたのです。
すると、各本の間に文字や表記などの食い違いが予想以上に多かった。
だから、いずれのテキストに拠ったか、明記することが約束となっているのだと納得しました。
これは、日本文学の世界では当たり前のことなのかもしれません。
しかし、中国古典に関しては、必ずしも当てはまらないようにも思います。
たとえば、経書や正史、諸子百家などは、出典を記すのに書名と篇名だけで十分で、
いずれの出版物に拠ったのか、私は特に明記はしません。
(前に述べたとおり、最近の中国の論文はページに至るまで記すのですが。)
同じように「古典」と称せられてはいても、
その性格が少し違っているのではないかと思わされました。
中国古典の場合は、広範な人々にとっての普遍的な知の共有財産として、
必然的に、決定版というものに収斂していく方向に力が働き、
(もっとも、時代が変われば、決定版的解釈も切り替わっていきますが。)
片や日本の古典文学は、普遍よりは個別性を志向して展開してきたのではないか。
(いや、日本文学でも古典知の形成が認められるそうなのですが。)
中国でも、小説や戯曲といった古典文学には多種類のテキストがあると聞きますが、
日本の古典文学は、こうしたものの方に似ていると感じます。
(以上、管見による感想と空想です。)
2020年8月22日
吉川幸次郎の講演録
こんばんは。
先日、あるきっかけで『吉川幸次郎全集1』に触れなおしたのでしたが、
その中で、「中国の古典と日本人」と題する1953年の講演録がとても印象に残っています。
「野上夫人」とは野上弥生子でしょうか(夫人とはなんともいやはやですが)、
その講演の後を受けて、
さっき野上夫人から、日本人の栄養としては、日本に古来あるものよりも、
日本の本来とは異なったものが必要であるというお話がありましたが、
これは私が平生考えていることと、全く合致いたします。
とあって、日本人の栄養となるものとして、まず西洋のものがあるが、
更にもう一つの異なった表現として中国の書物がある、と述べておられるところ。
また、日本の文学も中国の文学も、
同じように花鳥風月を詠ずるものと思われるかもしれないが、そうではない。
人は人々のために生きるという考え方は、日本では本来それほど根強いものではない、という指摘。
更に、つぎのような言葉にもインパクトを受けました。
ある人々は、過度な近代化を逆に引き戻す力として中国の書物を利用したいと考えているようだが、
真の近代に近づける力、栄養として、中国の書物が読まれることを自分は希望する、と。
教免更新講習の資料の中で、是非この文章を紹介しようと思いました。
吉川幸次郎の文章は立派すぎて、どうにも苦手意識が強かったのですが、
この講演録には違った印象を持ちました。
「野上夫人」の話に少なからず圧倒されたのでしょうか、それを要所要所で援用しながら、
「たいへんまとまりのないお話でありました。これをもって終わりといたします。」
と結ばれたこの講演録、はじめて吉川幸次郎を身近に感じました。
2020年8月21日
曹魏明帝に関する先行研究(2)
こんばんは。
今日は、福原啓郎「三国魏の明帝―奢靡な皇帝の実像」*を読みました。
祖父の曹操にその将来を嘱望された明帝曹叡は、
魏王朝の威信と制度的基盤を作り上げることに尽力した剛毅な皇帝であり、
奢侈な宮殿造営や、自らの廟号を生前に烈祖と定めたこと等はその意思の現われであった、
という論述内容からは、多くの驚きと啓発を受けました。
明帝にはなんとなく影が薄いイメージを持っていたのですが、
歴史家である福原氏の描き出す明帝像は、それとはまるで違っていました。
また、同じ時代に曹植が生きていたということを、ほとんど忘れそうになりました。
(気後れして、中学校の生徒会で先輩の話がまるで分らなかったことを思い出したことです。)
明帝の宗室尊重と、それに対する名族の巻き返しは、福原論文の中でも論及されています。
それで思ったのですが、曹植のような人物が王朝の中枢に加わるということは、
明帝の周辺にいた名族たちが嫌がったのかもしれないと想像しました。
人望もあり、才能にも恵まれた皇族は、勢力伸張を狙う名族たちにとっては邪魔者でしょう。
もちろん文帝の遺命があったにしても、それとは別の立場からの思惑として。
もうひとつ、明帝が造営した太極殿という宮殿名は、
「太極定二儀」という句から歌い起こし、
天人相関説を踏まえつつ、皇帝たる者のあるべき道を示す、
曹植「惟漢行」を意識している可能性がないだろうか、と妄想しました。
太極殿などが造営されたのは青龍三年(235)で(『三国志』明帝紀)、
曹植の没したのはその三年前の太和六年ですから、記憶はまだ薄れてはいないでしょう。
もっとも、太極という語はそれほど特殊な語句ではありませんが。
2020年8月20日
*初出は『古代文化』第52巻第8号、2000年。『魏晋政治社会史研究』(京都大学学術出版会、東洋史研究叢刊之七十七、2012年)に追補版が収載されている。
曹魏明帝に関する先行研究
こんばんは。
曹植「惟漢行」に関する考察を書き終わり、
懸案の、明帝と曹植との関係についての先行研究を探し始めました。
今日は、落合悠紀「曹魏明帝による宗室重視政策の実態」(『東方学』126、2013年)を読み、
いくつかのことを教えられました。
まず、明帝期には宗室を重視する人事が行われていて、
従来の研究では、それは名族を押さえるために設けられた政策だとされてきたこと。
ですが、その実態としては、宗室や外戚を適切に優遇するというもので、
彼らに大きな力を与えて、台頭する名族に対抗しようとするような意図は認められない、
ということを、落合氏は明らかにされていました。
いずれにしても、明帝にそのような政策があったとは知りませんでした。
それならば、あれだけ曹植が苦しんだのは何だったのだろう、
なぜ明帝の恩恵が、叔父の曹植には及ばなかったのか、いよいよ不思議でなりません。
そこで、落合氏が引用しておられた、
津田資久「曹魏至親諸王攷」(『史朋』38、2005年)を取り寄せることにしました。
津田氏の論文には、かつて魚豢『魏略』について考察した際、非常に多くを教えられました。
(こちらの学術論文№41の注(2)ほかをご覧いただければ幸いです。)
今回も、場合によっては、抜本的に考え直す必要を迫られるかもしれません。
どきどきしながら、複写文献の到着を待つことにします。
2020年8月19日
文学的個性とは
こんばんは。
今日は、曹植「惟漢行」に関する考察を短文にまとめる一方、
西晋王朝の宴席で演奏されていた楽曲の歌辞に訳注を施す作業を進めました。
後者は、当時としては無くてはならない有用の言語芸術だったはずですが、
今は、これを積極的に読もうとするのは、よほど奇特な人(研究者)だろうと思います。
一方、曹植の作品は、もう少し読者の幅が広いかもしれません。
ほぼ同じ歳月を渡って今に至る双方の、かくも異なる生き残りのあり様、
それを分けるのは何なのだろうかと考えを巡らせました。
宮廷儀式を彩る歌曲には、その歌辞を作った人の顔が見えません。
他方、曹植作品にはかなり濃厚にそれが感じられます。
では、私は作品に表れた作者の人間性に引かれているのだろうか。
けれども、曹植は自己表現を目指して詩を作っているわけではありません。
そもそもそうした概念は、当時の人々の文学的価値観の中には存在しなかったものです。
曹植の詩は、たとえ楽府詩のような既存の枠を持つものであっても、
何か、その枠の中に収まり切れない、過剰なものを抱えているように感じます。
それが、彼独特の言語表現となって現れ出ているのです。
文学的個性とは、従来にない表現を志向して作り出すものではなく、
ある規範に沿おうとしても、どうしてもそこからあふれ出てきてしまうものではないか。
もちろん、作者の対外的な制作意図といったものとも関わりなく。
その、その人にしかない一種のいびつさが、人を惹きつける魅力の正体のように思えてなりません。
人は、(自分をも含めて)他にはない、それ固有のものに否応なく惹きつけられ、
そこに自分と通じ合うものを感じ取ったとき魅了されるのだと私は思います。
2020年8月18日
新しい表現が生まれるとき
こんばんは。
教免更新講習の教材のひとつとして、
今年は柳宗元の「南礀中題」という詩(『唐詩選』巻1)を取り上げます。
次のような詩です。
秋気集南礀 秋の気が南の谷川に集まるところに、
独遊亭午時 太陽が空の真ん中に昇る頃、私はひとり散策した。
廻風一蕭瑟 ふいに巻き起こった風のなんともの寂しげであることか、
林景久参差 風に吹かれた林は、いつまでもざわざわとその姿を揺さぶっている。
始至若有得 やってきたばかりの時、何かを感得したような心地がして、
稍深遂忘疲 段々と奥深くまで分け入ってくる頃には、すっかり疲れも忘れていた。
羈禽響幽谷 他郷に身を寄せる禽鳥が、友を求めて奥深い谷に鳴き声を響かせ、
寒藻舞淪漪 寒々しい水草が、さざ波の立つ水面に舞っている。
去国魂已遠 国都を去って、魂はすでに遠く異郷を浮遊し、
懐人涙空垂 なつかしい人のことを想えば、涙がむなしく流れ落ちる。
孤生易為感 ひとりぼっちの人間はものごとに感じやすく、
失路少所宜 道を見失った者は幸運に巡り合うことなど稀である。
索莫竟何事 うらぶれたわびしさの中で、いったい何を務めとすればよいのか。
徘徊祇自知 ぐるぐると歩き回る、この心はただ自分だけが知っている。
誰為後来者 誰か、後からやって来る者となるだろうか。
当与此心期 その未来の人は、きっとこの私の心と出会ってくれることだろう。
第7・8句の「羈禽」「寒藻」について、
『漢語大詞典』では、両方とも柳宗元のこの詩を挙げて解釈していました。
ということは、珍しい詩語だと言ってよいかと思います。
興味深いのは、「禽」に「羈」、「藻」に「寒」という形容詞が付いていることです。
元来は人の心を持たない鳥や植物を見て、
「故郷を遠く離れた」「寒々しい」と感じ取ったのは他ならぬ柳宗元です。*1
彼は当時、都を追われ、南方の永州(湖南省)に流されていました。
左遷の理由は、失敗に終わった政治改革に関わったためです。
そして、そんな新鮮な言葉が、『詩経』に由来する古典語に直結しています。
「幽谷」は、小雅「伐木」にいう「出自幽谷、遷于喬木(幽谷より出で、喬木に遷る)」、
「淪漪」は、魏風「伐檀」にいう「河水清且淪猗(河水は清く且つ淪猗あり」に基づきます。*2
もちろん、柳宗元の中でその『詩経』の文脈は十分に意識されています。
「感を為し易き」「孤生」の詩人が、貶謫という逆境の中で、新たな言葉を紡ぎだした、
その瞬間にまるで立ち会ったかのように感じる読みの体験でした。
また、結びに見える「後来者」は、
『論語』子罕篇にいう「後生可畏也。焉知来者之不如今也」
(後生畏る可きなり。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや)を踏まえると捉え、
自身の理解者(今はいない)を、未来に求めているのだと解釈しました。
ただ、本当に『論語』を踏まえているのか、まだ今ひとつ釈然としないところがあります。
2020年8月17日
*1 下定雅弘『柳宗元詩選』(岩波文庫、2011年)p.69に、「「羈禽」は群れを失い漂泊している鳥。「羈禽」「寒藻」は、貶謫の身である宗元を寓している」との指摘がある。(2020.08.20追記)
*2 この二つの典故については、王国安『柳宗元詩箋釈』(上海古籍出版社、1993年)が既に指摘する。
根源的な渇望
こんばんは。
今学期は、すべてオンラインの、顔が見えない状態での授業でした。
先には、案外これも悪くないと書きましたが、(それは嘘ではないのですが)
やはり直接言葉を交わすということがどれほど人を元気にするかも身に沁みました。
私のような人間でさえ、人とのちょっとした会話に眼の前が明るくなったりするのです。
まして、曹植のような人が、後半生、兄弟と連絡を取り合うことも禁じられ、
周りに話し相手もいないような環境に捨て置かれていたのですから、
その鬱屈には想像を絶するものがあっただろうと思います。
その前半生、建安年間の彼の作品には、多くの文人たちが登場し、
曹植は彼らと、誠実で自由闊達な交わりを結んでいこうとしていたことがうかがわれます。
そんな彼が、理不尽な孤絶状態に投げ込まれたのですから。
明帝期の曹植が幾度となく朝廷に上奏したのは、
彼が王朝運営への参画に強い意欲を持っていたというよりは、
人間としてもっと根源的な渇望に根差した望みだったのではないかと思います。
2020年8月16日
他者を理解したい
こんばんは。
先日から断続的に考察している「惟漢行」ですが、
曹植はこの楽府詩を作ったことによって魏王朝の不興を買ったらしい。
そのことは、ほぼ同時期に作られた「求自試表」(『文選』巻37)から推し測れます。
では、なぜ「惟漢行」は曹植の境遇を悪化させたのでしょうか。
その頃(太和元年)、明帝曹叡はまだ即位したばかりです。
その時点で、明帝は皇帝として直接曹植と面会したことはありません。
(明帝が曹植ら諸王と再会したのは、太和六年(232)正月前後のことでした。)
先代の文帝には、兄弟たちを冷遇する理由が、彼なりにあったのだろうと思われますが、
(皇帝として適切さに欠ける、多分に私情の介入した理由ではあっても)
明帝に曹植を冷遇しなければならない動機はあったでしょうか。
もしかしたら、明帝その人の判断によるのではなく、
明帝を取り巻く臣下たちが、曹植に対する待遇を決めたのかもしれません。
それを明らかにしたいと思い立ちました。
「惟漢行」には、「求自試表」と照らし合わせて始めて見えてくるものがあります。
「薤露行」と「与楊徳祖書」(『文選』巻42)、
「雑詩」の特に其五と、「責躬詩」及びその上表文(『文選』巻20)との関係も同じです。
詩が、現実に働きかける文章と深く関わりあっていて、
その文章の外側には、それを曹植に書かせるに至った具体的な状況があったはずです。
その具体的背景を押さえなくては、曹植その人の思いには近づけません。
別に作者の人生や思いを明らかにする必要はない、
作者と作品とを切り離して、表現そのものを分析すべきだとする考えもあるでしょう。
ですが、私はそちらの方向ではなく、作者の思いを明らかにする方向を取ります。
自分は元来が狭い人間なので、もっと多くの他者と出会いたいからです。
自身を中心とした同心円を描くのではなくて、
遠く離れた人の思いを核として、あちらとこちらの双方に中心点を持つ曲線を描いていく、
そうすれば、自分の狭い思い込みを打破することができると思っています。
2020年8月15日
知の小人
こんにちは。
交換留学生(ずっと海を隔ててオンライン授業)からの質問を受けて、
筑摩書房『吉川幸次郎全集』の、特に第一巻を縦覧しました。
中国文学の特質は「現実参加の志」にあるということを、
吉川幸次郎という日本の学者が言っていると先の授業で述べたところ、
それについて詳しく知りたいという要望が寄せられたのです。
私の記憶違いであったか、この言葉そのものは見当たりませんでした。
そうした趣旨のことは、本書の随所に記されてはいるのですが。
(どなたか教えていただければありがたいです。)
それはともかく、吉川幸次郎という知の巨人の言葉に触れ、
中国文学の本質について、非常に納得させられるところがありました。
立派すぎる人の言葉に圧倒されると、
若い頃はそれだけで自分の存在意義を見失うのが常でした。
しかし今は違います。
自分は知の小人、これでいくのだと思っています。
今日もひとつ、新たに分かったことがあってよかった。
2020年8月14日
疑問氷解(曹植「惟漢行」)
こんばんは。
曹植「惟漢行」の読みで、ずっと不明瞭だったところが、本日ぱっと見通せました。
それは、以前にも触れたことのある本詩の結び、以下に示す部分です。
在昔懐帝京 在昔 帝京を懐ふに、
日昃不敢寧 日の昃(かたむ)くまで敢へて寧(やすん)ぜず。
済済在公朝 済済たるは公朝に在り、
万載馳其名 万載 其の名を馳す。
まず、3行目の「済済」は、『詩経』大雅「文王」にいう、
済済多士 威厳をもって居並ぶ人士たち、
文王以寧 これでこそ文王の御霊も安寧だ。
を踏まえると見るのがやはり妥当です。
先には、「済済」が文王のあり様を形容する、『詩経』大雅「棫樸」を踏まえるかと考えましたが、
今これを取り下げ、再び「文王」を活かします。
というのは、その前の句「日昃不敢寧」の「寧」にも、
前掲『詩経』大雅「文王」が影響を及ぼしていると見られるからです。
ただし、『詩経』では「文王は以て寧(やす)らかなり」と詠じているところが、
曹植詩はこれを反転させ、「敢へて寧んぜず」としています。
これはいったいどういうことでしょうか。
そこで、「日昃不敢寧」の語釈として新たに追補したいのが、
『史記』巻四・周本紀に、同じ周文王の仕事ぶりについて記す次の記述です。
礼下賢者、日中不暇食以待士。士以此多帰之。
(周文王は)礼儀正しい態度で賢者にへりくだり、
日が高く昇るまで食事をする時間も惜しんで優れた人士をもてなした。
人士たちは、これによって多く周文王に帰順することとなった。
『書経』無逸篇にいう「自朝至于日中昃、不遑暇食」だけでは、
周文王が、どのような仕事に対して、寸暇を惜しんで励んでいたのかが不明瞭ですが、
この『史記』周本紀の記述と併せて読むならば、それが明らかとなります。
周文王は、人材登用という仕事に対して「敢へて寧んぜず」であった、
つまり、現状に満足することなく、優れた人士の招聘に努め続けたということです。
以上を踏まえて、先の四句を次のように通釈し直します。
その昔、帝都の有り様を懐かしく思い起こせば、
今は亡き先代は、日の傾くまで休息もせず、人材登用に努めたものだ。
その結果、大勢集まった人士たちが、威厳をもって朝廷に居並び、
永遠にその名声を馳せることとなったのだ。
ここにいう「今は亡き先代」とは、
『書経』無逸篇を記した周公旦から見ての先代、すなわち周文王であり、
同時に、今、周公旦に自らを重ねている曹植から見ての先代、すなわち曹操を指します。
2020年8月13日