曹植「薤露行」の成立年代

こんばんは。

曹植の太和二年の「求自試表」に関して、
『三国志』巻19「陳思王植伝」裴松之注に引く『魏略』に、
次のような内容の記事が見えています。すなわち、

曹植はこの上表が取り上げられないことを危惧した。そこで、
その地位にふさわしい働きを為し、それによって名を残したいという思いを、
後世の心ある人士に向けて述べた、と。

この中で注目したいのは、『春秋左氏伝』襄公二十四年に出る次の言葉です。

故太上立徳  故に太上は徳を立つなり、
 其次立功  其の次は功を立つるなり、
蓋功徳者所以垂名也  蓋し功徳なる者は名を垂るる所以なり。

『左伝』では、「立徳」「立功」「立言」と並ぶのですが、
上記の曹植の文章(発言)では、「立言」の一要素が抜け落ちています。

ここから推測しうることは、
明帝期初め頃の曹植には、言語表現によって名を成そうという思いはなく、
ひたすらに魏王室の一員として有用でありたいと願っていたらしいということです。

そこで思い起こしたいのが、
その成立年代が未確定であった、彼の「薤露行」です。

古直が指摘しているとおり、本詩の内容は「与楊徳祖書」(『文選』巻42)と重なるところが多く、
その最後の部分には、著述によって身を立てたいという志が表明されています。

こうしてみると、「薤露行」は、明帝期の作ではないと判断されます。
明帝期の曹植には、立言への志が明確には認められないのですから。
また、言動が厳しく制限された、文帝期黄初年間の作だとも考えにくいでしょう。

この楽府詩は、曹植が父の愛情をいっぱいに受けて、のびのびと抱負を詠ずることができた、
建安年間の作だと見るのが最も妥当だと考えます。

2020年7月21日

曹植の憤懣

こんばんは。

曹植の「求自試表(自ら試みられんことを求むる表)」(『文選』巻37)は、
魏の太和二年(228)、明帝に奉られたものです(『三国志』巻19「陳思王植伝」)。
その中に、次のような句が見えます。

今陛下以聖明統世  今、陛下はすばらしき聡明さを発揮して世の中を統治され、
 将欲卒文武之功  周の文王や武王による草創期の功績を見届け、
   継成康之隆  成王や康王の隆盛を継承しようとしていらっしゃいます。

このように、この時期の曹植は、明帝を成王になぞらえようとしていること明白です。
すると、必然的に曹植自身は周公旦に比定されることになるでしょう。

先に取り上げた曹植「惟漢行」の最後の段には、
周公旦が周文王を顕彰して成王を戒める、『書経』無逸篇が踏まえられていました。

明帝期の作であることが明らかな「求自試表」にも、
周文王の直系に当たる王たちの名が見えていることを考え合わせると、
「惟漢行」を明帝期の作とする推定は、かなり説得力のある説だと言えるように思います。

ところで、『三国志』本伝はこの上表文を引くに先立って、
「植常自憤怨、抱利器而無所施(植は常に自ら憤怨す、利器を抱きて施す所無きを)」と記しています。
このとおりだとすると、
彼の「惟漢行」は彼自身の内にしまい込まれたりせず、
朝廷においてではないにせよ、実際に声に発して歌われていたかもしれないと思えてきます。
そして、そうした姿勢がいよいよ彼に対する風当たりを強くしていったのかもしれません。

2020年7月20日

中島敦の「弟子」

こんにちは。

明日の概説的な授業では、儒教をテーマに話をする予定で、
その素材のひとつとして、今年初めて中島敦の「弟子」を取り上げます。

現代人にとって、儒教はあまり魅力的な思想のようには捉えられていません。
ですが、漠然としたイメージで敬遠し、葬り去るにはあまりにも惜しい。
なぜ負の先入観を持たれるかといえば、それは、彼我の間に壁があるからでしょう。

そんな壁をほかならぬ著者自身が自覚し、その異物感と対話しながら、
儒教という思想の本質、孔子の思想家としての魅力を描いているのが本作品です。
だから、私たち現代人が儒教にアプローチする上で、とてもよい“文献”だと考えたのです。

「弟子」は、主に子路の視点から、孔子のあり様を描いています。
子路たち弟子が孔子に対して投げかける問いは、
おそらく、中島敦の儒教に対する疑問と重なっているでしょう。
それは、私たちが儒教に感じる違和感を言語化して見せてくれるものです。

また、子路の目に映じた孔子の姿には、
私たちには見えづらい儒教の本質が、凝縮されて現れています。
中島敦の精神の中には、やはり儒家的な筋が通っていた。
それは、英国のスティヴンスンを主人公とする「光と風と夢」にも感じるところです。

ところで、子路と孔子との関係は、
師匠から授けられた教えを、弟子が後生大事に守り抜くというようなものではありません。
師弟が対等にディスカッションするといったようなものでも更々ありません。

子路は、孔子の弟子たることによって仕官が有利になるだとか、
目的意識を掲げて学び、自己研鑽を図るとか、
そういったことは考えていません。
彼は、孔子の人としての奥行きに魅了され、
ただ欣然と従っただけなのだと、そんな人物像に描かれています。
美しい結晶物のようなその純粋さに私は打たれます。

2020年7月19日

曹植「惟漢行」への疑問(続き)

こんばんは。

曹植の「惟漢行」が曹操の「薤露・惟漢二十二世」を意識しているとして、
弔われているのは、魏王朝そのものでなければ、前年に亡くなった曹丕でしょうか。
いずれにしても、それは解釈次第で不穏な意味を帯びることになります。

曹植「惟漢行」の成立が太和元年だとして、
曹植は同年、雍丘から浚儀に移され、翌年、再び雍丘に戻されています。
この異動は、「惟漢行」が放つ不穏当さに起因するものであった可能性もあります。

でなければ、曹植「惟漢行」は人に知られないことを前提に作られたのでしょうか。

一般に、鋭い批判も歌に乗せれば罪せられないはずですが、
ある種の歌に乗せることは、かえってその歌辞に別の意味を重ねることになります。
「惟漢行」の新歌辞を作るということはまさしくそれでしょう。
明帝を諫めるという趣旨に、滅びゆく(亡くなった)ものを弔う意味が重なる、
このことを曹植が知らなかったはずはありません。

曹植は、この「惟漢行」が明帝には届かないのを前提で作ったのでしょうか。
明帝は、一番にその言葉を届けたい相手であったにも関わらず。

あるいは、明帝に為政者としての自覚を促しつつ、
もし姿勢を正しく保てないならば滅亡だ、と戒めているのでしょうか。
そんな劇薬のような言葉は、諫言としての効果を期待できないように思います。

曹植が、曹操の「薤露」を踏まえた理由、
そして、その新歌辞を作った後、それをどうしたのかが釈然としない。
明帝に奉ったのか、封国で歌わせたのか、それともしまい込んでいたのでしょうか。

2020年7月18日

曹植「惟漢行」に関する疑問点

こんばんは。

曹植「惟漢行」は、即位したばかりの明帝を諫めるのがその趣旨でしょう。

この作品の成立が明帝の太和元年であるということは、曹海東氏の指摘が至当です。

そして、本詩の末尾四句が周文王を念頭に置いていることも諸家の指摘するとおりであり、
そのうちの『書経』無逸は、周公旦が周文王の逸事を成王に伝える文献です。

周文王、周の武王、成王、周公旦の関係が、
曹操、曹丕、曹叡、曹植の血縁関係に重なることはすでに述べました。

以上のように見てくると、
曹植は自身の立場を周公旦に重ね、
新しく即位した明帝を、周の成王に見立てて、
周文王になぞらえられる曹操の仕事ぶりを称揚しつつ、新皇帝を戒めた、
それが彼の「惟漢行」だと言えるでしょう。

ただ、そうすると腑に落ちないことがあります。

「惟漢行」という楽府題は、曹操の「薤露・惟漢二十二世」に由来するものですが、
その曹操の「薤露」が拠ったのは、元来が葬送歌である「薤露」古辞です。
それを踏まえて、曹操は「薤露」で滅びゆく漢王朝を弔ったのです。

それならば、曹植の「惟漢行」は、何を弔っているのでしょうか。
前の王朝を弔うことならば、当時としては当然ですが、
まだ魏王朝は二代目に代わったばかりです。

それとも、別に何を弔うわけでもないのでしょうか。

魏王朝の宮廷歌曲「相和」中の一曲として、
曹操の「薤露・惟漢二十二世」は明帝期も歌われていました。
そのメロディも歌辞もまだ現役です。

それを思うと、新皇帝を諫める歌が葬送歌だというのが腑に落ちないのです。

2020年7月17日

元白応酬詩札記(8)

こんばんは。

先日来検討してきた白居易「与微之書」(『白氏文集』巻28、1489)ですが、
この書簡の中に記された三韻の詩に対して、
元稹「酬楽天書後三韻」(『元氏長慶集』巻20)はこう応えています。

今日廬峰霞遶寺  今日は廬山の峰で霞が寺を取り囲み、
昔時鸞殿鳳迴書  昔日は金鑾殿で鳳凰が書簡の周りを飛翔していた。
両封相去八年後  二通の封書は八年の時を隔てた後でも、
一種倶云五夜初  うち揃って、五更になったばかりの夜明けの時を詠じている。
漸覚此生都是夢  この人生はすべてが夢だと次第にわかってきた私は、
不能将涙滴双魚  涙を封書に滴らせるわけにはいかない。

白居易から送られた二通の封書は、時間も空間も遠く隔たっているのに、
いつも変わらないのは、それが夜通し書かれたということだ、と元稹は詠じています。
彼の眼には、一晩中、自分を思って手紙をしたためてくれる、
いつも自分の一番の理解者でいてくれる白居易の姿が映じていたのでしょう。

最後の二句は、表面上はクールさを装っているように見えますが、
「不能」という語の中に、懸命に涙をこらえている彼の姿を見たように思いました。

2020年7月16日

元白応酬詩札記(7)

こんばんは。

明日の授業で、先に述べた元白応酬詩をめぐる考察を話す予定なのに、
その後、あまり進展がなく、まだ考えがかたちになりません。
今、思いつくままにメモを記しておきます。

「瞥然塵念」という語は、
元稹「酬楽天八月十五夜禁中独直玩月見寄」の中で、
清らかな大明宮中に詰めている白居易から、
塵埃にまみれた江陵の元稹に寄せられた思いを指していました。

その数年後、白居易「与微之書」の中に現れる「瞥然塵念」は、
江州に貶謫されて二年になる白居易が、
通州に出されてほぼ同じ時を経た元稹に寄せる思いを指しています。
この場合の「塵念」は、続く句に見える「余習」が仏教語であることから、*
それと同じく、世俗的な思いを言っているのでしょうか。
それとも、塵埃にまみれた境遇の中で、旧友に馳せる思いを言っているのでしょうか。

いずれにせよ、元稹詩にいう「瞥然塵念」を受けて、
たとえば自分の思い上がりを恥じたといったような様子は感じられません。
とはいえ、長い歳月を経てこの言葉を持ち出しているからには、
きっと何か心に期するところがあったのでしょう。

それを解く鍵は、「籠鳥檻猿倶未死、人間相見是何年」にあるかもしれません。

かつては宮中から馳せた君への思いを、今は貶謫の境遇から君に送る。
今の自分なら、君の気持ちが一層深く理解できる。
籠の鳥や檻の中の猿のように、我らはともに束縛された身だが、まだ死んではいない。
いつか再び人間界で再会しよう。

そんな同志としての意識なのでしょうか。

2020年7月15日

*岡村繁訳注『白氏文集 五』(明治書院、新釈漢文大系)p.439を参照。

因果応報

こんばんは。

昨日の授業の振り返りをしていて気づいたこと。
志怪小説は、学生さんたちの興味を比較的よく引き付けるジャンルですが、
長年定点観測をしていて、小さな変化を今年初めて感じました。
それは、荒唐無稽よりも、因果応報が好きであるらしいということです。

紹介したいくつかの志怪小説のうち、
最も印象に残ったものを選んでその理由を書くということをしてもらったところ、
一番多くの学生が選んだのは、孝行息子で知られる董永の物語(『捜神記』巻1)でした。
自分を身売りして親を葬った董永の借金を、天女が機織りで肩代わりする話です。
選んだ理由の多くは、頑張った人が報われる話だから、でした。

これが私にはけっこうこたえました。
常識的な条理を軽々と超えるところに志怪小説の妙味があると私は思っていたから。
努力の対価をそれほどまでに求めているのかと、少し驚いたのです。

労働の対価だとか、ギブアンドテイクだとか、
そこをないがしろにしてはならない場合はたしかにあります。
そして、そのような発想が生じる時代背景、必然性のようなものも想像できます。
ただ、それとは別の世界もこの世にはたしかに存在していて、
それを味わえるのが小説ではないかと思うのです。

たとえば次の話を美しいと感じた学生に、私はひそかに共感しました。
曹丕『列異伝』(『太平御覧』巻888)所収の物語です。

昔鄱陽郡安楽県有人姓彭、世以捕射為業。児随父入山、父忽蹶然倒地、乃変成白鹿。児悲号追鹿、超然遠逝、遂失所在。児於是終身不捉弓。至孫復学射、忽得一白鹿、乃於鹿角間得道家七星符、并有其祖姓名年月分明、覩之惋悔、乃焼去弧矢。

昔、鄱陽郡安楽県に彭という姓の人がいて、代々狩猟を生業としていた。子が父に従って山に入ったとき、父は突然地面に倒れて、なんと変化して白い鹿となった。子は号泣しながら鹿を追ったが、鹿は軽々と駆けて遠くへ行ってしまい、ついには行方が分からなくなった。子はこれ以降、生涯弓を手にすることはなかった。孫の代になって、再び弓矢を習ったが、あるときたまたま白い鹿を射止めたところ、鹿の角のあたりに道家の七星符と、その祖父の姓名と年月がはっきりと読み取れた。これを見ると悔恨の気持ちに襲われ、とうとう弓矢を焼き捨てた。

2020年7月14日

中国のオシラサマ

こんばんは。

本日の授業で取り上げた、干宝『捜神記』巻14に、次のような話があります。
少し長くなりますが、原文に翻訳を添えて紹介します。

 旧説、太古之時、有大人遠征、家無餘人、唯有一女、牡馬一匹、女親養之。窮居幽処、思念其父、乃戯馬曰「爾能為我迎得父還、吾将嫁汝。」馬既承此言、乃絶韁而去、径至父所。父見馬驚喜、因取而乗之。馬望所自来、悲鳴不已。父曰「此馬無事如此、我家得無有故乎?」亟乗以帰。為畜生有非常之情、故厚加芻養。馬不肯食。毎見女出入、輒喜怒奮撃。如此非一。父怪之、密以問女。女具以告父、「必為是故」。父曰「勿言、恐辱家門。且莫出入。」於是伏弩射殺之、暴皮于庭。父行、女与隣女於皮所戯、以足蹙之曰「汝是畜生、而欲取人為婦耶?招此屠剥、如何自苦?」言未及竟、馬皮蹶然而起、巻女以行。隣女忙怕、不敢救之。走告其父。父還、求索、已出失之。後経数日、得於大樹枝間、女及馬皮、尽化為蠶、而績於樹上。其繭綸理厚大、異於常蠶。隣婦取而養之、其収数倍。因名其樹曰桑。桑者、喪也。由斯百姓競種之、今世所養是也。……

 古くからの伝説にいう。大昔、ご主人が遠くへ出征し、家には他に誰もいず、ただむすめが一人、牡馬が一匹いるだけで、むすめは親しく馬の世話をした。閉じこもった生活の中でひたすらその父が思われてならず、そこで馬に戯れにこう言った。「お前が私のためにお父様を迎えに行って連れて帰って来れたなら、私はお前と結婚しよう。」馬はこの言葉を聞くと、絆を断ち切って立ち去り、まっすぐに父親のところにたどり着いた。父は馬を見て驚いて喜び、そこで馬にまたがった。馬はやってきたところを遠く望んで、悲しげに鳴いて止まない。父親は「この馬はこのように無事だが、私の家に何かあったのではあるまいな」と言って、すぐに馬に乗って帰った。畜生でありながら尋常でない情を持っているとして手厚くまぐさを与えられたが、馬は食べようとしないで、むすめが出入りするのを見るたびに、喜んだり怒ったりして暴れ、こういうことが一度や二度ではない。父親はこれを怪しみ、ひそかにむすめに問うたところ、むすめはつぶさに父に告げ、きっとこのためだろうと言った。父親は、「このことを人に言ってはならないぞ。家門を汚すことになりかねないから。しばらく家を出入りしてはならぬ」と言って、仕掛けた石弓で馬を射殺し、皮を庭にさらした。父が出かけて、むすめは隣家のむすめと馬の皮のところで戯れ、足でそれを踏みながら言った。「おまえは畜生なのに、人のことをお嫁さんにしたがるなんて。だから皮を剥がれるようなことになって。なんだってこんな自分を苦しめるようなことをしたの。」むすめがそういい終わらないうちに、馬の皮はさっと立ち上がり、むすめを巻いて飛んで行った。隣家のむすめは慌てふためき、これを救うこともできず、その父のところに走っていって告げた。父親は戻ってきて探したが、もう出ていって行方が知れなかった。それから数日が経過して、大きな樹木の枝の間に見つかったが、むすめと馬の皮はすべて蚕に変化して樹木の上で糸を引いていた。その繭は糸の巻き方が厚く大きく、通常の蚕とは異なっていた。隣家のむすめはこれを取って養い、その収穫は数倍だった。そこでその樹木を桑と名付けた。桑とは、喪である。これにより、人民は競ってそれを植え、今の世で飼っている蚕がこれである。……

これとよく似た話が、柳田國男『遠野物語』に収載されています。

では、『捜神記』と『遠野物語』とは、どのような関係にあるのでしょうか。

多くの場合、中国の文献が日本に流入したものとされますが、
この故事の場合、果たして同じように見てよいのか、ためらいを感じます。
というのは、この種の中国志怪小説によく見る、いかにも歴史書然とした記述の仕方、
―たとえば、固有名詞の名前や地名を明記するというスタイル―
これが、『捜神記』のこの故事を書き留めた部分には認められないからです。

たとえば、養蚕を行う地域に広く分布している話が、
『捜神記』にも収載され、遠い歳月を経て『遠野物語』にも採録された、
そのような可能性もあり得るのではないかと思うのです。

どなたかお詳しい方にご教示いただけたらありがたいです。

2020年7月13日

*先坊幸子「六朝志怪における廟神の前身と誕生」(『中国中世文学研究』第63・64号(森野繁夫博士追悼特集)2014年)に、この物語を記す『捜神記』と『遠野物語』を挙げ、人と動物との関係性について、日中間の違いに論及した部分があります。この論点に関しては、まったく同感です。

再考再開(曹植「惟漢行」)

こんばんは。

しばらく停止していた曹植の「薤露行」「惟漢行」に対する考察を、
再開しようと思って過去の考察を振り返ってみたところ、もはや新鮮に感じるほどでした。
一度歩みを止めると、再び動き出すのに少なからぬエネルギーを要します。

とはいえ、その間、曹植作品を細々と読み継いではきたので、
前掲の二篇の楽府詩を、また別の観点から検討する素地ができたかもしれません。
そういう点から見て、最近読んだ「雑詩」は“役に立つ”ように思います。
文帝曹丕の黄初年間中、曹植がどのような環境に置かれていたかがよくわかるからです。

「雑詩」を読んできた目で「惟漢行」を見直すと、明らかに雰囲気が違っています。
先行研究が指摘しているとおり、この楽府詩は明帝曹叡の時代になってからの作でしょう。

「惟漢行」の中で注目したいのは、その末尾に周文王の故事が踏まえられていることです。
その故事を伝える『書経』無逸篇は、周公旦の作だとされています。

すでに述べたことではありますが
周文王は曹操、武王は文帝曹丕、成王は明帝曹叡、周公旦は曹植に重なります。
そして、「惟漢行」という楽府題は、明らかに曹操の「薤露・惟漢二十二世」を踏まえています。
すると、この楽府詩を詠じた曹植は、成王を補佐する周公旦に重ねられる、
つまり、明帝曹叡を補佐する立場にある自分を意識した上での楽府詩だと言えないか。

このあたりから、曹植「惟漢行」を再読したいと考えています。

2020年7月12日

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