南方の君とは

こんばんは。

本日、曹植「雑詩六首」其三の訳注稿を公開しました。

生き別れになった夫を思う女性の心情を詠じる、漢代の古詩には常套的な内容に加えて、
古詩に頻見する特徴的な表現を散りばめた、擬古詩的な作品です。

黄節は、南方の呉へ遠征している曹丕を思って作られた詩だと解釈しています。*1
この推測は、次の2点を根拠とするものでしょう。
まず、本詩の内容が、南方にいる人への強い思慕を詠じているということ、

そして、曹丕が南方の呉に出征したという歴史事実があるということです。

もし、同様な論法でいくならば、
南方の呉へ出征した曹操を思って作った詩と解釈することも可能です。
というのは、曹植が父曹操を非常に敬愛していたことに加え、
次のような歴史的事実があるからです。

建安19年(214)7月、曹操は呉へ出兵するに当たって、曹植を鄴に留め置き、
自身が23歳だったときのことを話して聞かせ、激励しています。(『三国志』巻19「陳思王植伝」)
また、建安21年10月の孫権討伐に当たって、
曹操は曹丕を従軍させていますが、曹植はそれに加わっていないようです。*2

本詩が特定の誰かを念頭において作られたものだとして、
南国にいる君を曹操と比定することは、曹丕とするのと同等の可能性を持つと言えるでしょう。

また、南方の君を曹操と推測した理由のひとつに、
本詩の「飛鳥繞樹翔、噭噭鳴索群」が、
曹操「短歌行」の「月明星稀、烏鵲南飛。繞樹三匝、何枝可依」を想起させることもあります。
訓み下しなどについては訳注稿をご覧ください。

2020年5月27日

*1 黄節『曹子建詩註』巻1を参照。
*2 張可礼『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)p.134、p.145を参照。

現代学生気質

こんばんは。

今日は一日中、授業の準備と事後処理、その他に追われていて、
曹植の作品に一度も触れないまま一日を終えることになってしまいました。
仕事に振り回されるだけの生活になるのは嫌なので、なんとか工夫したいと思います。

さて、学生さんたちのレポートで、ここ何年か非常に目につくようになったフレーズがあります。
「わかりやすい」「伝わる」「見せる」といった、読者を強く意識した言い方です。
(研究論文でも、そうしたアプローチが増えてきている印象があります。)

昨日の授業で取り上げた『史記』についても同様の感想を多く目にしましたが、
出来た当初のそれは正副二部のみ、しかも「後世の聖人君子を俟つ」と記されています。
(『史記』巻130・太史公自序)
来週、このことを追補で述べて、少し驚いてもらおうかと思案中です。

人から評価されることばかりを気にする人生はどうなんだろうと、
振り返るきっかけを古典から得る学生が、一人でも出てくるとうれしいです。

2020年5月26日

 

「雑詩」とは

こんばんは。

曹植「雑詩六首」(『文選』巻29)を読んでいます。
そもそも「雑詩」とは、どのような性格のジャンルなのでしょうか。

他の建安詩人たちの「雑詩」は、
当時においては一般的であった宴席での競作でもなく、
特定の誰かに宛てた贈答詩でもなく、
詩人が集団の場を離れ、一個人としてその心情を詠じたものであって、
その対自性ゆえに、未知の読者にも届き得るものとなったと私は考えています。
(何を言おうとしているのか不分明かもしれません。こちらをご覧いただければ幸いです。)

曹植の「雑詩」の場合はどうなのでしょうか。
目に留まるのは、そこに漢代詠み人知らずの五言詩がよく踏まえられていることです。

其二「転蓬離本根」は、その末尾が『文選』巻29「古詩十九首」其一を彷彿とさせます。
また、其三「西北有織婦」は、「古詩十九首」の其十、其二を強く想起させます。

この時代の文人たちは一般に、詩作において古詩や古楽府をよく用いるのですが、
このことについて、かつて次のように論じたことがあります。*

古詩・古楽府は、漢代の宴席で生成展開してきた文芸である。
建安文人たちの詩作もまた、基本的には宴席を舞台に行われていた。
つまり、創作活動の場という観点からして、建安詩は漢代宴席文芸の直系だと言える。
それゆえ、建安詩に古詩・古楽府が多く踏まえられているのは当然である。

ただ、「雑詩」が古詩的表現を多用するのは、
どうも上述とは異なる文脈から捉える必要があるように感じられます。
同じ漢代詩歌という素材ではあっても、それを用いる理由が違うように思うのです。
更に読み進めながら考えます。

2020年5月25日

拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)第六章第二節「貴族制の萌芽と建安文壇」、初出は、『魏晋南北朝における貴族制の形成と三教・文学(第二回日中学者中国古代史論壇論文集)』汲古書院、2011年)。

曹植から見た魏王朝

こんばんは。

曹植「雑詩六首」其一(『文選』巻29)について、
過日は、詩中になぜ南方にいる人が詠じられているのかという点に着目し、
この詩が「贈白馬王彪」詩とその成立背景を共有している可能性を指摘しました。
今回は、本詩の冒頭「高台多悲風、朝日照北林」について、気づいたことを記します。

「高台に悲風多し、朝日は北林を照らす」とは、何を象徴しているのでしょうか。
この時代の詩ですから、まず純然たる叙景とは考えられません。

『文選』李善注は、次のような解釈をしています。
「高台」については、陸賈『新語』を援用しながら、それを京師(都)の喩えだとし、
「悲風」は教令、「朝日」は君主の聡明さ、「北林」は狭い所に集う小人を象徴するとしています。
どうもしっくりきません。

そこで調べてみると、
「高台」「朝日」「北林」はいずれも、曹丕の楽府詩に見えるものでした。

まず、曹丕「善哉行」(『宋書』巻21・楽志三)の第一解は、
「朝游高台観、夕宴華池陰(朝に高台観に游び、夕べに華池の陰に宴す)」に始まり、
第四解には「飛鳥翻翔舞、悲鳴集北林(飛鳥は翻翔して舞ひ、悲鳴して北林に集ふ)」とあります。
(「北林」に関しては、「又清河作」(『玉台新詠』巻2)にも見えていました。)

また、別の「善哉行」(『宋書』巻21・楽志三)の第一解にはこう見えています。
朝日楽相楽、酣飲不知酔。悲絃激新声、長笛吐清気。
(朝日楽しみて相楽しみ、酣飲して酔ひを知らず。悲絃は新声を激しくし、長笛は清気を吐く。)

曹丕のこの二首の「善哉行」は、いずれも見てのとおり宴の詩です。
曹植はそれまでに、曹丕のこれらの歌辞が歌われるのを耳にしたことがあったでしょう。
曹植「雑詩」の冒頭句は、これを踏まえて成ったものではないでしょうか。
ならば、それは君臣が相集う朝宴を想起させるものとなります。

そして、曹植は、そうした場を「悲風多し」と描写しているのでした。

この「高台多悲風」という冒頭句は、
彼の「野田黄雀行」(『楽府詩集』巻39)の第一句「高樹多悲風」と瓜二つで、
この楽府詩は、魏王曹丕による丁儀丁廙兄弟の処刑を背景とする、とみる説が有力です。
「雑詩」其一もまた、魏王朝の犠牲者(曹植自身を含む)に心を傷める詩だと読めるように思います。

2020年5月23日

出門の詩の原型

こんばんは。

先日来見てきた城門を出ることを詠う詩、
その原型は、古詩「駆車上東門」が顕著に示しているように、
城郭に囲まれた街を出て、郊外の墳墓を眺めやるという型だったのではないでしょうか。

以前に取り上げたことのある古楽府「梁甫吟」も同じ構造を取っていました。

『文選』巻29「古詩十九首」其十四「去者日以疎」にも、次のような句が見えています。

出郭門直視  城郭の門を出てまっすぐに前方を見つめると、
但見丘与墳  そこにはただ墳墓が見えているだけだ。
古墓犂為田  古い陵墓は鋤かれて田畑となり、
松柏摧為薪  陵墓に植わっていた松柏は砕かれて薪となってしまった。……

また、古楽府「古歩出夏門行」は、
伝存する断片のいずれもが、死の影を色濃くまとっています。
『文選』李善注に引くところから挙げるならば、
「市朝人易、千載墓平(市朝に人は易はり、千載墓は平らかとなる)」(巻28、陸機「門有車馬客行」注)、
「白骨不覆、疫癘淫行(白骨は覆はれず、疫癘は淫行す)」(巻20、潘岳「関中詩」注)のように。

その一方、門を出て、人々の集う場所を見やることを詠う詩歌があります。

古楽府「長歌行」(『楽府詩集』巻30)にいう、
「駆車出北門、遥観洛陽城(車を駆りて北門を出で、遥かに洛陽城を観る)」がそれです。

建安詩の中にも、たとえば、劉楨の「贈徐幹」詩(『文選』巻23)に、
「歩出北寺門、遥望西苑園(歩みて北寺の門を出で、遥かに西苑の園を望む)」、
曹丕「於明津作詩」(『藝文類聚』巻27)に、
「駆車出北門、遥望河陽城(車を駆りて北門を出で、遥かに河陽城を望む)」と見えています。

こうした詩想は、先に挙げたものよりも後に出現したのではないか、と私は考えます。

門を出て望む対象が、生きた現実世界であるこれらの辞句は、
いずれも詩歌の途中に出てくるのであって、作品世界の基調を為す冒頭句ではありません。
人口に膾炙したフレーズを、詩想の流れに組み入れただけのように感じるのです。

ところで、阮籍の出門の詩に、この後者のタイプはあっただろうか。
彼における詩作の動機は、多くの場合、現世からの脱出であったように思います。
そうしたモチーフが繰り返し現れるということは、
彼が繰り返し世俗に引き戻されていたということに他ならないのですが、*
その、現実世界に回帰するベクトルは、詩に詠じられることはなかったということでしょうか。

2020年5月21日

*大上正美「阮籍詠懐詩試論―表現構造にみる詩人の敗北性について―」(『漢文学会会報(東京教育大学漢文学会)』第36号、1977年。創文社、2000年刊『阮籍・嵆康の文学』に収載)は、これを「圧倒的優位の現実を前に表現が宿命として持つ構造的な敗北性」と論じている。

 

門を出てから(補記)

こんばんは。

車を駆って上東門を飛び出し、
城北に横たわる陵墓群を眺めやると詠ずる古詩「駆車上東門」、

これを明らかに踏まえると見られる阮籍の「詠懐詩」其九・其六十四について、
昨日、そこに詠われた「首陽」は、魏の文帝が眠る首陽陵を想起させる、と述べました。

ですが、これはちょっと言いすぎました。
といのは、少なくとも其九は、首陽山が喚起するもう一つの強いイメージ、
周の武王に抵抗してこの山に隠棲し、餓死した伯夷叔斉の姿を情景の一部に描きこんでいるからです。
周の武王が魏の文帝に重なるとはいえ、直接的に首陽陵を詠じているわけではありません。

他方、其六十四の「詠懐詩」は、
「首陽の基」を「松柏は鬱として森沈たり」と描写し、
松柏といえば陵墓に植える常緑樹なので、これは明らかに首陽陵を指すでしょう。

魏の文帝曹丕が崩御したのは、阮籍が17歳の時、
後漢王朝の禅譲を受けて、曹丕が魏の文帝として即位したのは、阮籍が11歳の時、

そして、曹植が亡くなったときは23歳、明帝曹叡が亡くなったときは30歳。
こちらの「阮籍関係年表」をご参照ください。)

つまり阮籍はその青少年期、魏王朝が内部から崩壊していく様を目の当たりにしていたわけです。

阮籍と同世代で、交友関係もあったらしい袁準は、
その著書『袁子』の中で、曹丕の弟たちに対する仕打ちを批判していますが、
王朝衰退の原因をこうした視覚から鋭く切り込む見方は、
あるいは阮籍も共通して持っていたものであるかもしれません。

2020年5月20日

 

門を出てから

こんばんは。

門を出て遠くを望むというフレーズは、漢魏の詩歌には散見するもので、
魏末を生きた阮籍の五言「詠懐詩」の中にも、たとえば次のような句が見えています。

歩出上東門 北望首陽岑  歩みて上東門を出で、北のかた首陽の岑(みね)を望む。(其九)*1
朝出上東門 遥望首陽基  朝に上東門を出で、遥かに首陽の基を望む。(其六十四)

「上東門」は後漢の都洛陽に実在した門の名で、
『文選』巻二十九「古詩十九首」其十三にもこう詠われています。*2

駆車上東門  車を駆って上東門から街を出て、
遥望郭北墓  はるかに遠く、城郭の北に横たわる陵墓群を眺めやる。

また、阮籍詩にいう「首陽」は、この古詩にいう「郭北墓」に重なると見ることができます。
というのは、首陽山の南麓には、魏の文帝曹丕の陵墓がありましたから。

こうしてみると、阮籍の詩が古詩「駆車上東門」を踏まえていることは間違いないでしょう。
上東門という固有名詞の共有や、
門を出た先に望み見るものが死者のすむ陵墓であるということ、
更に、この特徴的な措辞が、詩の冒頭に置かれているという点でも一致しています。*3

ところが、同じ阮籍の「詠懐詩」其三十は、
詩の冒頭で門を出たあと、何ものをも眺めやるということがありません。

駆車出門去  車を駆って門を出てゆき、
意欲遠征行  遠いところへ旅に出ようと思った。
征行安所如  遠く旅に出て、どこへたどり着こうというのか、
背棄夸与名  虚ろな名誉など後ろへ投げ捨てるのだ。
……

「駆車」して門を出ているところから、
この詩もまた、古詩「駆車上東門」を念頭に置いていたかと思われます。

ですが、門を出た後に見えてくるはずの風景は見えず、
代わって詠じられるのは、捨て去ってしまいたい現実ばかりです。
原型をほとんど留めていない、いや原型など最初からなかったかのような生々しさです。

2020年5月19日

*1 作品番号は、黄節『阮歩兵咏懐詩注』(中華書局、2008年)に拠った。
*2 古詩「駆車上東門」は、後漢初期の作と推定できる。古詩の成立年代については、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)の第一章から第三章を参照されたい。
*3 阮籍「詠懐詩」其九と古詩との関係については、前掲『漢代五言詩歌史の研究』の終章で論じたことがある。→こちらにその一部を挙げておくのでよろしかったらどうぞ。

兄弟愛の詩か。

こんばんは。

このところ、兄弟間の切迫した関係がうかがわれる曹植作品を読んでいますが、
ふと、曹丕の次のような詩(『古詩紀』巻12)が目に留まりました。

兄弟共行遊  兄弟連れ立って遊びに出かけた。
駆車出西城  車を駆って西の城郭から外へ出て。
野田広開闢  郊外の田畑は広く開け、
川渠互相経  川や水路は互いに交わりあいつつ流れている。
黍稷何鬱鬱  もち黍うるち黍のなんと豊かに実っていることか。
流波激悲鳴  流れる波は哀感たっぷりな声を上げている。
菱芡覆緑水  ヒシやミズブキは緑なす水面いっぱいに茂り、
芙蓉発丹栄  ハスは深い朱色の花を咲かせている。
柳垂重蔭緑  柳は葉を垂れて緑陰を重ね、
向我池辺生  わが池のほとりに向かって立っている。
乗渚望長洲  渚に足を踏み入れて長く伸びる中洲を遠く眺めれば、
群鳥讙讙鳴  群なす鳥がクアンクアンと喧しく鳴きたてる。
萍藻泛濫浮  浮草は水面をたゆたいながら浮かび、
澹澹随風傾  ゆるやかに揺れ動きながら風に吹き寄せられたりしている。
忘憂共容与  憂いを忘れて共にゆったりと過ごそう。
暢此千秋情  君たちへのこの永遠なる情愛をどこまでも押し広げよう。

本詩は「於玄武陂作詩(玄武陂に於いて作る詩)」と題されています。

「玄武」は、左思「魏都賦」(『文選』巻6)に「菀以玄武、陪以幽林」と見え、
その張載注に「玄武菀、在鄴城西(玄武菀は、鄴城の西に在り」と説明されています。
また、『三国志』巻1「武帝紀」に、建安13年(208)、曹操が玄武池を作ったことが見えています。
玄武池は、元来は曹操が水軍を訓練するために設けたものですから、
それが游宴の場となるには、それなりの時間的熟成が必要であったかもしれません。

曹丕がこの詩を作ったのはいつ頃か。
それによって、この詩はかなり異なる表情を見せるように思います。
時間が下れば下るほど、どれほど無邪気に兄弟愛を歌っているのかが疑問になってきます。
詩語の選び方がやや雑駁に感じられるので、まだ若い頃の作だと見られるか、
それとも、そうしたことに年齢はあまり関係がないでしょうか。

2020年5月18日

不安と平静

こんばんは。

過日、建安文人と王充『論衡』との関わりに関連して触れた中国の論文は、
王京州「帝王優劣論的背景与意義―以漢魏之際的帝王論為中心」
(『四川大学学報(哲学社会科学版)』2014年第1期、総第190期)といいます。
本日やっと入手することができました。

この論文、ざっと縦覧しただけでも興味深い記述が目に入ってきます。
個人的談論で帝王の優劣を議論するものは、王充の『論衡』がその代表格であること、
曹丕と曹植とは、同様な状況下でともに「周成漢昭論」を著しているが、
その立論が鋭く対立しているのはなぜかということなど。

曹植の論などを読む上で何を参照すべきか、有益なヒントが与えられるかもしれません。

このところウェブ上が混んでいるため、ダウンロードに難渋しましたが、
こんな状態がしばらく続いていますから、もうそれをトラブルとは感じなくなりました。
うまくいかない理由がわかっていれば、落ち着いて静観できるものなのですね。
不安は、これを直視して捌いた方が平静でいられるとも思いました。
(日頃どれほど安寧な日々を送っていたかということですが。)

2020年5月14日

「白馬王」の謎

こんばんは。

本日、曹植「雑詩六首」其一の訳注稿を公開しました。

この詩の中には、江湖の広がる南方にいると思しい人物が登場し、
詩中、この詩を詠じている人は、遠くにいるその人物に深い思慕を寄せています。
なぜ南方なのでしょうか。

結論から言えば、この詩は、曹植が異母弟の曹彪を思って詠じたものだと考えます。

先に「贈白馬王彪」詩を読んだ際、
曹彪は、本詩が成った黄初四年の段階で、まだ呉王であったという一件が未解決でしたが、
この「雑詩」を併せ読むことによって、この疑問が氷解するかもしれません。

『三国志』巻20の本伝に記すとおり、曹彪はこの時まだ呉王で、
その南方にいる彼を思って曹植が詩を詠じた、それがこの「雑詩」其一だと見るのです。

李善注(『文選』巻29)に、本詩が鄄城での作だということが記されていて、
上記の推測は、この李善の指摘をひとつの手掛かりとするものです。
ただ、李善の記述には根拠が示されていません。

仮に黄初四年、曹彪がまだ呉王だったとして、
それではなぜ、その詩の題名が「贈白馬王彪」なのでしょうか。

曹彪が白馬王となったのは、黄初七年でした。
そして、黄初七年といえば、文帝曹丕が亡くなった年でもあります。

「贈白馬王彪」の詩は、黄初四年に作られたと思われますが、
その成立背景を記す序文は、この黄初七年以降に作られたのではないか、
曹丕がこの世を去って、曹植は初めて事実を記すことができたのではないかと考えるのです。

この見通しが本当に妥当か、検討していきたいと思います。

2020年5月13日

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