曹植「雑詩」という作品群
こんにちは。
曹植の「雑詩」は、
『文選』巻29所収の六首以外でも、
『玉台新詠』巻2に五首が収録されています。
その編成は両者間でやや出入りがあって、
『玉台新詠』所収作品の内訳を示せば次のとおりです。
其一「明月照高楼」……『文選』巻23に「七哀詩」として収載
其二「西北有織婦」……『文選』巻29に「雑詩六首」其三として収載
其三「微陰翳陽景」……『文選』巻29に「情詩」として収載
其四「攬衣出中閨」……(『藝文類聚』巻32に「魏陳王曹植詩」として収載)
其五「南国有佳人」……『文選』巻29に「雑詩六首」其四として収載
『文選』で「七哀詩」や「情詩」といった題目が付けられている作品が、
『玉台新詠』では「雑詩」という枠に組み入れられています。
これはどういうことでしょうか。
『玉台新詠』は、その序文から読み取れるように、
宮中の蔵書から直接に、いわゆる艶詩に相当する作品のみを抄出したした第一次選集です。
これに対して『文選』は、すでにある選集から更に秀作を抽出したダイジェスト版詞花集です。*
つまり、『文選』と『玉台新詠』とでは、その基づいた原資料が異なっていて、
『玉台新詠』の「雑詩五首」という括りには、それ相当の根拠があったと見ることができるのです。
もちろん、『玉台新詠』はいわゆる艶詩のみを選択的に収載していますから、
そこから漏れた作品の中にも、『玉台新詠』の編者が目睹した「雑詩」があることは確実です。
このように見てくると、
曹植の「雑詩」という作品群は、
おそらく確実に次の詩を含んでいたでしょう。
まず、『玉台新詠』所収の上記の五首、
これに、『文選』所収「雑詩六首」のうちの「艶詩」でない詩、すなわち、
「高台多悲風」「転蓬離本根」「僕夫早厳駕」「飛観百餘尺」を加えた、合計九首。
曹植は、その没後の景初年間(237―239)、
魏王朝において名誉を回復し、作品集が編まれました(『三国志』巻19「陳思王植伝」)。
この時点で、彼の「雑詩」はどのような作品群を為していたのか、
それを跡付ける確かな証拠は残されていないのですが、
『玉台新詠』を手掛かりに、その本来の姿に近づくことはできると考えています。
2020年6月23日
*岡村繁「『文選』編纂の実態と編纂当初の『文選』評価」(『日本中国学会報』第38集、1986年)を参照。『玉台新詠』のソースについてはこちらの拙論で論及している。
詩と史実
こんばんは。
今日、曹植「雑詩六首」其六の訳注稿を公開しました。
詩の主人公は高くそびえる楼閣の上に立ち、四方を眺望しながら、
自身に王朝の危急を救い得るような役割が与えられていないことに鬱憤を重ねています。
内容面でも辞句においても、「雑詩六首」其五との類似性が顕著であることから、
少なくとも、この二首は非常に近い時期に作られたのだろうと思われます。
この二首をはじめ、
「雑詩六首」のすべてを、黄初四年(223)、鄄城での作と見る李善の説は、
かなり説得力があると今では考えています。
その根拠が示されていないため、かつては賛同できなかったのでしたが。
ところが、黄節『曹子建詩註』巻1は別の捉え方をしています。
曹植の「東征賦」(その序に建安19年(214)と明記)との類似性により、
本詩を、曹操の呉への出征に加わりたいと熱望する若き日の曹植の作と見ているのです。
どちらが(あるいはまだ他にも説があるかもしれませんが)、より真実に近いのでしょうか。
詩の内容を史実と結び付けながら、その作品の成立年代を推定するという方法では、
結局、たしかな結論を導き出すことはできないのかもしれません。
内容よりも、表現の連関性の方に目を向けた方がよい、
その際、似ているという指摘にどこまで客観性を持たせることができるか、
それが決め手になるだろうと思っています。
2020年6月22日
元白応酬詩札記(2)追記
こんばんは。
白居易の「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」は、
その前年に成った元稹の「江楼月」と、
それに唱和した白居易の「江楼月」との伏線の上に成ったものである、
との推定を昨日述べました。
このことに関して、ひとつ追記をしておきます。
それは、元稹の「江楼月」を含む連作詩「使東川」三十二首は、
もともと白居易ひとりに宛てて作られたものではないということです。
このことは、題目に白居易に宛てたことを示す言葉が見えないことから明らかですし、
元稹詩の自注の中に次のような人々の名が複数回現れることからも知られます。
李建(字は杓直)、貞元14年の進士。白居易の友人である王起と同期。
白行簡(字は知退)、元和2年の進士。白居易の弟。
李復礼(字は拒非)、貞元19年、書判抜萃科及第。白居易、元稹と同期。
庾敬休(字は順之)、年代は不明ながら、進士、博学宏詞科を経て秘書省校書郎。
(以上、徐松『登科記考』に拠る。)
白行簡によって書写され、「東川巻」と銘打たれた元稹の三十二篇の詩は、
まず上記の人々、更にはその周辺の知識人たちへと享受の輪が広がっていったでしょう。
上には記していませんが、もちろん白居易もその中のひとりです。
白居易はその「東川巻」の中の十二首に唱和し、その冒頭に次のような自注を付しています。
十二篇、皆因新境追憶旧時。不能一一曲叙、但随而和之。唯予与元知之耳。
十二篇は、みな新しい境遇に因んで昔のことを追憶するものである。
ひとつひとつ細かく述べることはできないけれども、ただ気の赴くままに唱和したもので、
私と元稹のふたりのみ、このこと(詩に詠じられた内容)を知っているだけである。
この時期、わずかに白居易の方がより強く相手のことを思っていたのかもしれません。
そして、白居易は元稹と交わした言葉をよく覚えていて、
中秋の名月にめぐりあうと真っ先に、元稹に自分から詩を寄せたのでしょう。
2020年6月21日
元白応酬詩札記(2)
こんばんは。
今年も演習科目で元稹と白居易との応酬詩を読んでいますが、
その中で気づいたことをメモしておきます。
(元白応酬詩札記(2)としたのは、2020.05.07に続けて2回目だから。)
なお、先行研究に指摘があるかどうかは未確認です。
白居易の名作「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」(『白氏文集』巻14、0724)、
この詩がどういう経緯で作られたのか、わかりました。
まず、その本文を挙げておきます。
銀台金闕夕沈沈 銀台門や金鑾殿が夜の底に深々と沈み込んでゆくこの夕べ、
独宿相思在翰林 私は一人、宮中の翰林院に宿直して、君のことを思っている。
三五夜中新月色 八月十五日の夜空に昇ったばかりの満月の色、
二千里外故人心 二千里の彼方にいる旧友の心。
渚宮東面煙波冷 江陵の庁舎の東方では、靄の立ちこめた水面が冷やかに波立っているだろう。
浴殿西頭鐘漏深 ここ浴堂殿の西方では、鐘の音や水時計が深まる時を刻んでゆく。
猶恐清光不同見 ただ、君にはこの清らかな光が同じようには見えていないのではと心配だ。
江陵卑湿足秋陰 江陵は低湿地で、秋の空もいやになるほど曇ってばかりだというから。
謎を解く鍵は、最後から二句目「猶恐清光不同見」にあります。
なぜ「猶」なのか。
これは、君もきっとこの月を見ているに違いない、という確信が前提にある言い方です。
ではなぜ白居易はこんなにも、元稹の自分に対する思いを確信しているのか。
この詩は、元稹が江陵に左遷された元和五年(810)の作です。
その前年、元稹は観察御史として蜀へ赴く途中、連作詩「使東川」三十二首を作り、
その内の十二首に白居易が応酬、その中に「江楼月」があって、その結びにこうあります。
今朝共語方同悔 今日、君と語らって、今になってやっと同じく後悔した、
不解多情先寄詩 あふれる情のままに自分から先に詩を君に送れなかったということを。
次に美しい月を眺めることがあったなら、自分から詩を送ろうと二人は誓っていた、
だから白居易は「猶」の一言で、元稹が月を眺めているのを当然のことと言外に示したのでしょう。
しかも「恐清光不同見」という表現は、元稹の「江楼月」の次の句を想起させます。
誠知遠近皆三五 たしかにいずこも同じ十五夜の月だとはわかっているが、
但恐陰晴有異同 ただ心配なのは、晴れか曇りかに違いがあるのではないかということだ。
白居易は、元稹の詩をさりげなく踏まえつつ「八月十五日夜」詩を詠じているのです。
2020年6月20日
曹氏兄弟の子供時代
こんばんは。
曹氏兄弟の子供時代、と言っても想像ですが、
彼らはとても幸福な幼少年期を過ごしていたのではないかと思います。
(一歩外へ出れば、悲惨な民の姿があったであろうことは措いておきます。)
曹操には二十五人の息子がいました(『三国志』巻20「武文世王公伝」)。
これに娘たちも加えれば、相当な人数の子供がともに暮らしていたことになるでしょう。
幼くして亡くなった者たちも少なくはなかったけれど、
それでも年端もいかない者同士、賑やかな日常生活を送っていただろうと想像されます。
加えて曹操は、一族の子で親を失った者たちを積極的に我が家の一員に迎え入れていました。
十歳余りで父を失い、南方を流浪した末に曹操のもとへやってきた曹休は、
「これは我が家の千里の駒だ」と言われて、曹丕とともに、我が子同然に育てられました。
また、早くに父が殺されて孤児となった曹真も、曹操に引き取られ、
諸子と同様に養育されて、曹丕と起居を共にしています。
(以上、『三国志』巻9「曹休伝」「曹真伝」)
何晏や秦朗のような、曹操の側室たちの子らも実子同然に育てられました。
何晏など、いつも贅沢ななりをしていたために曹丕の不興を買い、
養子呼ばわりされていたといいます。
(三国志』巻9「「曹真伝附曹爽伝」裴松之注に引く『魏略』)
こうした子供たちの成育環境は、
旧中国の大家族制度にあっては普通のことだったかもしれません。
ですが、もしかしたら曹操は、将来への布石として、
家族的関係の協力体制を日常の中で構築しようとしていたとも考えられます。
いずれにせよ、曹丕が即位した後の状況は、不幸としか言いようがありません。
2020年6月19日
若き日の曹氏兄弟
こんばんは。
昨日紹介した逸話からのつながりで、
韓宣という人物をめぐる、曹丕・曹植兄弟のエピソードを思い出しました。
これもまた、魚豢の『魏略』によってのみ伝わる出来事です。
(『三国志』巻23「裴潜伝」裴松之注に引く)
ある雨上がりの日、水たまりができた宮城の門の内で、曹植と韓宣が鉢合わせした。
韓宣は、曹植を避けようにも避けられず、扇で顔を隠して道の端へ寄った。
これに腹を立てた曹植は、韓宣をあれこれ論難しようとするが、韓宣も負けてはいない。
曹植は彼を釈放し、弁の立つ者として曹丕に詳しく語って聞かせた。
後に、韓宣が職務上のことで処罰されようとしていたとき、
たまたま通りかかった文帝曹丕は、周囲にその罪人の名を聞いて思い出し、
「これが子建の言っていた韓宣か」と言って、特別に彼を赦した。
ここに記された曹丕は、少なくとも曹植のことを嫌ってはいないようです。
才気煥発たる弟の言うことに興味深く耳を傾け、よく記憶し、それを尊重しています。
一方、この逸話の中に登場する曹植は、
後半生の彼がまとっているような悲劇性は微塵も感じさせません。
若気の至りで放埓な態度に出る、世間知らずの、どこにでもいるような若者です。
(臨菑侯であった曹植は、この頃二十代半ばです。)
手強い相手を称賛しているところに、育ちのよさを感じます。
人を一面的に見てしまわないように。
人知れず小さな出来事を数多く記した魚豢が、そう示唆してくれているようです。
2020年6月18日
曹丕の仏頂面
こんばんは。
鄄城(山東省)から雍丘(河南省)に国替えされた黄初4年の曹植、
彼はこの年、兄の曹彰や弟の曹彪とともに都洛陽に呼び寄せられました。
(「贈白馬王彪」詩の序文)
思いがけなく許された上京でしたが、
この時の曹植は、手放しで喜べるような状態にはなかったようです。
『三国志』巻19「陳思王植伝」の裴松之注に引く『魏略』が、
次のような内容のエピソードを伝えています。
曹植は、黄初2年にしでかした罪(皇帝の使者に対する狼藉)への自責の念から、
姉の清河長公主を介して文帝(兄の曹丕)に謝罪したいと考えた。
これを伝え聞いた文帝は、人を遣って出迎えさせたが、出会えなかった。
卞太后(曹丕・曹植の母)は曹植が自殺したのだと思って、文帝に向かって泣いた。
そこへ、曹植が頭をむき出しにし、斬首の道具を背負い、裸足で宮城に到着したので、
文帝と太后はやっと安堵して喜んだ。
会見の段になると、文帝はなお厳めしい顔つきで黙り込み、曹植に冠や屣を着けさせなかった。
曹植はひれ伏して涙を流し、太后はために不機嫌になった。
詔勅により王服に戻ることが許された。
ここには、皇族というよりも、曹家の家庭内の様子が垣間見えるようで、
特に興味深いのが、長男の曹丕の態度です。
まず、弟がやってくると聞くと、これを出迎えようとします。
出会えなかったので、おそらくその母と同じく非常に不安になったのでしょう。
だからこそ、その姿を見て喜んだのに違いありません。
ところが対面すると仏頂面です。
ほんとうは弟に対して自然な愛情を持っているのに、
皇帝という立場を意識しすぎるあまり、重々しい態度を取ってしまっているようです。
なお、これを記す『魏略』という書物は、信頼性の高い同時代資料です。
(よかったら、2019年7月9日の雑記をご覧ください。)
2020年6月17日
黄初四年の曹植
こんばんは。
昨日、曹植の「雑詩六首」其五について、
黄初四年(223)に成った「責躬詩」「贈白馬王彪」との関連性に触れ、
あわせて、その前年の作として「洛神賦」にも言及しました。
ですが、これはおそらく誤りで、この賦もまた黄初四年の作であるようです。
『文選』巻19所収の「洛神賦」は、その序文にこう言います。
黄初三年、余朝京師、還済洛川。……
黄初三年、私は都で皇帝に謁見し、封地に帰るのに洛水を渡ろうとした。……
ところが、その本文の冒頭に付けられた李善注が、こう指摘しています。
黄初三年、曹植は鄄城王となり、四年、雍丘に国替えされた。その年、都で皇帝に謁見した。
他方、『三国志』文帝紀に、黄初三年、文帝が許に行幸し、四年三月、洛陽宮に帰還したことを記す。……
『三国志(魏志)』及び諸々の詩はみな、四年に皇帝に謁見したと記す。
この「洛神賦」の序文に「三年」というのは誤りである。
「黄初三年」という辞句の下に特段の注記がないものだから、
この文面どおりなのだろうと思っていたところが、
そのすぐ三行後にこんな注があったとは。
李善は別に、三国の時代が専門だというわけではないのに、
恐るべき記憶力と洞察力です。
なにはともあれ、黄初四年という年は曹植にとって、
いくつもの出来事が重なって生起した時期であったと知られます。
「雑詩六首」が同時期の連作詩であると証明できれば面白い。
この時期の曹植が、暗喩で何を表現しようとしたか、明らかにできるかもしれません。
それは、明帝が即位して以降の彼とはかなり違っているはずです。
2020年6月16日
東方への道とは
こんばんは。
昨日述べたことの続きです。
曹植「雑詩六首」其五に詠じられた出征への意欲は、
彼の「責躬詩」に詠じられたところと重なる、
つまり、贖罪としての出征志願である、
という推定を昨日述べましたが、
その一番の決め手は、「雑詩」其五の次の句です。
将騁万里途 これから万里の道を馳せていこう。
東路安足由 東方へ向かう道など行く価値はない。
この「東路」について、
私は当初、海沿いを江東(長江下流域)の呉に向かう道なのかと捉えていました。
ですが、そうすると、続く「安足由」という言い方と、呉への出征意欲とが矛盾します。
そこは、「東方を経由する道」ではない、別ルートで呉へ行くのだろうと空想していたのです。
したところが、黄節の次の指摘で目が覚めました。
黄初四年(223)の作である「贈白馬王彪」詩(『文選』巻24)に、
洛陽から任地の鄄城に帰国することを詠じて、
「怨彼東路長(彼の東路の長きを怨む)」とある、という指摘です。*
その前年の作である「洛神賦」(『文選』巻19)にも
「命僕夫而就駕、吾将帰乎東路(僕夫に命じて駕に就かしめ、吾は将に東路に帰らんとす)」と、
洛陽から封地の鄄城へ帰る道を指して「東路」と言っています。
こうみてくると、「雑詩」其五にいう「東路安足由」の意味はもう明らかでしょう。
本詩を単独で見ていたのでは、その真意へはたどり着けませんでした。
「雑詩」其五、「贈白馬王彪」詩、「責躬詩」は同時期の作で、
これらの作品を互いに照らし合わせながら読む必要があるということです。
2020年6月15日
*黄節『曹子建詩註』巻1を参照。
贖罪としての出征志願
こんばんは。
本日、曹植「雑詩六首」其五の訳注稿を公開しました。
この詩には、呉への征伐に加わりたいという意欲が高い調子で詠じられていますが、
それがどこまで彼の内発的な望みなのかは保留が付くように思います。
というのは、こういう理由からです。
まず、彼の「責躬詩」(『文選』巻20)に次のような辞句が見えています。
常懼顛沛 いつも不安でならないのは、つまづいて倒れ、
抱罪黄壚 罪を抱いたまま、黄泉の国まで行くことになるのかということだ。
願蒙矢石 いっそ戦場で弓矢や石を身に受けて、
建旗東岳 魏の旗を、呉との境界にある山に打ち立てたい。
庶立毫氂 願わくは、ささやかな戦功を立てて、
微功自贖 わずかな力を尽くして働いて、自らの罪を贖いたい。
危躯授命 身の危険をも顧みずに一命を投げ出して、
知足免戻 そうしてこそ罪から逃れることができると悟った。
甘赴江湘 よろこんで長江や湘水の流れる南方に赴き、
奮戈呉越 戈を振るって呉越を平らげたい。
曹植は自らの罪を償うために、呉への出征を申し出ていると読み取れますが、
このことは、その上表文(『文選』同巻所収「上責躬応詔詩表」)に、
本詩は文帝曹丕に対する詫び状として作られた旨を記していることとも符合します。
さて、「責躬詩」等一連の作品は、『三国志』巻19「陳思王植伝」にも引かれており、
その記述から、本作品の成立が黄初四年(223)であったと知られます。
他方、『文選』李善注は、「雑詩六首」のすべてについて、
「別京已後、在鄄城思郷而作(京に別れて已後、鄄城に在りて郷を思ひて作る)」と注し、
つまり、「雑詩六首」を黄初四年の作だと見なしていました(巻29)。
李善は、詩の内容から総合的にこう判断したのか、
それとも、何らかの根拠があってこう注記したのかは不明ですが、
もし、彼のこの注釈が妥当であるならば、
「雑詩六首」其五に詠われた呉への出征に対する意欲は、
「責躬詩」に詠われたそれと重なることになり、
それはつまり、贖罪のための申出であったということになるでしょう。
2020年6月14日