「文学の自覚」をめぐって

過日、魯迅が魏の文学を、
「文学の自覚」という語で文学史的観点から評したことに触れました。

この評語に関して、張朝富氏の論著に次のような指摘がありました。*1
以下、日本語で通釈したものを引用します。

我が国における「文学の自覚」説は、魯迅の「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」に始まる。この文章は、1927年、魯迅が広州で行った講演の原稿であり、後に同じ題名で発表された。
この説を最も早く提示したのは魯迅であるのかどうか。このことについて、ある人は異議を唱えている。というのは、夙に1920年、日本人の鈴木虎雄が、日本の雑誌『藝文』に発表した「魏晋南北朝時代の文学論」の中で、明確に「魏は中国文学の自覚の時代だ」と論じているからである。

張朝富氏が示された鈴木虎雄の評論は、
『支那詩論史』(弘文堂書房、1927年)の第二篇「魏晋南北朝時代の文学論」で、
本書の序によると、初出は1919年10月から翌1920年3月の『藝文』だとのことです。

その第一章は、たしかに「魏の時代―支那文学上の自覚期」と銘打たれ、
この説を裏打ちする具体例として上げられたのが、曹丕の「典論論文」であること、
また、相対立する主張を述べる曹植の「与楊徳祖書」に言及する点も含めて、
鈴木の所論は、魯迅の前掲の文章とまったく一致しています。

魯迅の前掲講演録には、こうあります。*2

ちかごろの見方で申しますと、曹丕の時代というものは「文学の自覚時代」であった、ということができます。あるいは、かれは、このごろよくいう「芸術のための芸術」派でありました。

この言い方からすると、
いわゆる「文学の自覚」は、魯迅自身が創出した評語ではなく、
すでにある程度流布していた「ちかごろの見方」だということになります。

魯迅のいう「ちかごろの見方」とは、
鈴木虎雄の所論を指していうものであった可能性がないとは言い切れません。

2025年9月19日

*1 張朝富『漢末魏晋文人群落与文学変遷―関於中国古代『文学自覚』的歴史闡釈』(巴蜀書社、2008年)p.3を参照。
*2 竹内好編訳『魯迅評論集』(岩波文庫、1981年)p.168を参照。

偏義複詞の「有無」

曹植「鼙舞歌・冬篇」を読んでいて、
「太官供有無」という意味の取れない語に遭遇しました。

「太官」は、宮中の食事を掌る役人のことで、
たとえば『漢書』巻19上・百官公卿表上の顔師古注に、
「太官、主膳食(太官は、膳食を主る)」と説明があるので分かります。
すると、「供」は酒や食事を供給するということなのでしょう。
わからないのが「有無」です。
「有りや無しや」ではまったく意味が通じません。

そこでふと思い出したのが、かつて読んだ白居易詩の表現でした。
「寄微之」詩(『白氏文集』巻10、0496)に、次のような句が見えています。

努力各自愛  努力して各ゝ自愛し、
窮通我爾身  我と爾との身を窮通せん。

ここにいう「窮通」は、
この語が通常意味する困窮と栄達とではなく、
もっぱらその「通」の方、栄達することの方を意味しています。

すると、前掲白詩の二句を通釈すれば、
「各々自らを大切にし、君と私との未来が開けるよう、がんばろう」
のようになるでしょう。

曹植「孟冬篇」の「有無」もこれと同じように捉えて、
「ありったけのもの」という意味に取ることはできないでしょうか。

以上のことは、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.279に、

有無、偏義複詞、此処只取其「有」義、謂宮中所有的酒肉飯食。

と指摘されていることに導かれたものです。

2025年9月18日

曹植「種葛篇」「浮萍篇」の文学史的意義(承前)

曹植の楽府詩を文学史的に捉えようとしたとき、
その前段階に位置しているのは、言うまでもなく漢代の文学です。
では、その漢代、文学はどのようであったと捉えるのが妥当でしょうか。

漢代は、辞賦と四言詩が主流であった時代です。
ですから、魏の建安文壇における五言詩歌の勃興は特筆すべきことでした。
けれども、この現象は突如として起こったわけではありません。

漢代文学の表舞台で、辞賦や四言詩が盛行していたのに並行して、
いわばその裏で、宴席という娯楽的空間を充たしていたのが五言詩歌です。
漢末に位置する建安文壇は、この漢代宴席文芸の発展的後継者であると言えます。*

曹植の楽府詩も、その初めは建安文人たちとの交流の中で育まれました。
そしてその後半生、友からも兄弟たちからも切り離された境遇の中で作られたのが、
先日来話題にしている楽府詩「種葛篇」「浮萍篇」です。

だとすると、曹植のこれらの作品の文学史的意義は、
漢代宴席文芸である古楽府と対置させてこそ浮かび上がってくるはずです。

曹植作品が持つ、意図的に構えられたダブルミーニングという特徴は、
漢代の詠み人知らずの古楽府にはおおよそ認められないものです。
(ただし、民間歌謡が持つ言葉遊び的なダブルミーニングは除きます。)
また、漢代、自ら表立って楽府詩に手を染める知識人はいませんでした。
(曹操の楽府詩制作がどれほど斬新なことであったことか。)

楽府詩という、宴席で共有されてきた詩歌ジャンルの枠組みに、
きわめて個人的な思いを、緻密な意図をもって載せた曹植の上記二作品は、
楽府詩史上、初めて現れ出たものであったと言えます。

曹植の楽府詩「種葛篇」「浮萍篇」は、
漢代宴席文芸からの系譜上に於いて捉えるのが妥当だと考えます。

2025年9月17日

*柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)第六章「建安文壇の歴史的位置」を参照されたい。曹操の楽府詩制作の歴史的意義についても論じている。

曹植「種葛篇」「浮萍篇」の文学史的意義

先日書いたことの続きです。

曹植の「種葛篇」「浮萍篇」は、
夫の愛情を失った女性の悲しみを詠ずる典型的な閨怨詩であると同時に、
兄の曹丕に対する曹植の思いが重ねられた詩でもあります。

このことは、これまでにも指摘してきたとおり、
主に『詩経』の踏まえ方を通して、明確にそれと知られますが、
それは夙に、朱緒曾、黄節、古直といった人々が指摘しているところです。

すでに先人が指摘しているのであれば、
これらの楽府詩が二重の意味を持つことを論じる意味はないでしょうか。

それがそうでもありません。
というのは、こちらには、曹植作品を文学史上に位置づける、
魏の文学の新しさを、曹植の前掲二作品を通して明らかにする、という、
先人にはなかった視座があるからです。

三国魏の時代には、従前にはなかった文学的動向が生じました。
この時代の文学の新しさは、しばしば「文学の自覚」といった言葉で表されます。*
けれども、この視点は主に、文学評論を対象とした研究での話のようです。

魏の文学が画期的である所以を、もっと具体的に明らかにできないか。
前掲二首の楽府詩に着目することは、そうした新しい視点になり得ると考えます。
(続く)

2025年9月16日

*魯迅「魏晋風度及文章与薬及酒之関係」(『魯迅全集3・而已集』人民文学出版社、1981年)p.504に、「用近代的文学眼光看来、曹丕的一個時代可説是“文学的自覚時代”、或如近代所説是為芸術而芸術(Art for Art’s Sake)的一派」と。

研究方法の流行り廃り(改め)

昨日、研究手法に流行り廃りもない、と言ったばかりですが、
その後ふと思い至ることがありました。

そういう自分も、その大きな流行り廃りの中にいるじゃないか、と。
私は、作品の表現を通して、その作者が何を思っていたのかを探究したい。
こうした興味関心の持ち方は、自分が研究対象としている時代の人々には希薄でした。

自分は、作品を通して作者の魂に触れることに引かれますが、
このような視角からのアプローチは、大枠、近代以降のうねりの中にあるものでしょう。
その中で、これを乗り越え、別の方向を模索する研究が登場してきている、
それが、昨今の研究動向なのかもしれません。

今を時めく主流的研究手法とは、要するに、
その時代の基本的なものの捉え方、大枠に沿っているということです。
大事なのは、その大きな枠組みの中に自身が位置していて、
時代の思潮から多かれ少なかれ影響を受けていることに自覚的であるかどうか。
そこが慎重を期するところなのだと思い直しました。

清朝考証学の先達たち、明代、唐代、更に遡って六朝期の先達たちも、
やはりそれぞれの時代特有の傾きと盲点とを持っています。

けれども、そうしたものを差し引いてもなお残るものがあります。
それが、たとえば『文選』李善注のような、典故表現の指摘だったりします。

自己流の解釈は、時代が移ろえば、また忘れ去られるかもしれません。
けれども、学術的な指摘というものは残ると考えます。

2025年9月15日

研究方法の流行り廃り

研究方法に流行り廃りもない、と私は思っているのですが、
どうも事実としてあるらしいと認めざるを得ないことに遭遇しました。

曹植に「浮萍篇」「種葛篇」という楽府詩があります。
この両作品は、かつて何度か言及しているとおり、典型的な閨怨詩です。

閨怨詩とは、夫と離別した女性の悲しみを詠ずる詩で、
漢代の宴席では、こうした内容を持つ五言詩や楽府詩が盛行しました。
そうした漢代宴席文芸の末裔である建安文壇でも同様であって、
曹植の作品もその系譜上に置いて理解できます。

けれども、そのような典型的な閨怨詩に、
兄弟の離別を重ね合わせているのが曹植の前掲作品です。
(詳細は、たとえばこちらをご覧ください。)

それは、読者側が想像力を働かせて創出した解釈ではなく、
その作品が表現上踏まえている『詩経』の意味を押さえることによって、
自ずから立ち現れてきたものなのです。

古典に基づくこうした典故表現について、
たとえば清朝の朱緒曾『曹集考異』、
黄節(1874―1935)の『曹子建詩註』、
古直(1885―1959)の『曹子建詩箋』には、
的確な内容の指摘が多く、しばしば重要な示唆を受けます。

けれども、最近の研究動向を見ると、
(特に現代中国では)こうした視点からの研究はあまり見かけません。*

古典に沿って小さな自分を措いて読んでいると、
作品は時として思いもよらなかった姿を現してくれます。
自分の予測を越えてくるそれに遭遇したときは身震いします。

たとえ流行っていなくても、
自分が本当に面白いと思う道を進むだけのことです。

2025年9月14日

*他方、台湾の曹海東『新訳曹子建集』は、上述の伝統的研究方法を継承しているように見受けられます。私もこちらに左袒する者です。

「飛軒」の意味をめぐって

曹植「鼙舞歌・孟冬篇」の「乱(歌いおさめ)」にこうあります。

聖皇臨飛軒  聖皇は飛軒に臨みて、
論功校猟徒  功を論じ 猟徒を校(くら)ぶ。

この中の「飛軒」という語をめぐって右往左往していました。

「飛軒」は多くの場合、飛ぶがごとく軽やかに走る車のことをいいます。
この意味で、曹植自身もその「七啓」に、狩猟の楽しみを詠じてこう表現しています。

飛軒電逝  飛軒は稲妻のように疾走し、
獣随輪転  獣たちは車輪に従って転がる。

ですが、前掲「孟冬篇」では、皇帝が「飛軒」に臨んで狩猟の成果を評価しています。
疾駆する車上では、落ち着いて「論功」することは難しいでしょう。

黄節は「臨飛軒」の中から「臨」「軒」を取り出して、
「臨軒」という語が、曹植「大魏篇(鼙舞歌3)」(05-42)に、
「陛下臨軒笑(陛下は軒に臨みて笑ふ)」と見えていることを指摘しています。
そこでの「臨軒」は、皇帝が正殿から前殿に進み出て闌干に臨むことを意味します。

先の「孟冬篇」にいう「臨飛軒」は、
「大魏篇」にも見えていた「臨軒」の方向で意味を捉え、
その「軒」に「飛」という形容詞を付したと考えるのが妥当でしょう。

「飛」を、飛翔せんばかりにそそり立つ建造物を形容する語として用いる例は、
曹植作品には複数拾い上げることができます。たとえば、
「東征賦」(01-01)に「登城隅之飛観兮(城隅の飛観に登る)」、
「遊観賦」(01-02)に「渉雲際之飛除(雲際の飛除を渉る)」、
「雑詩六首」其六(04-05-6)に「飛観百餘尺、臨牖御櫺軒(飛観百餘尺、牖に臨みて櫺軒に御る)」、
「贈丁儀」(04-10)に「清風飄飛閣(清風 飛閣に飄る)」とあるように。

では、このような形容詞としての「飛」は、
先行する時代の他の作家の作品には認められるでしょうか。
たとえば「飛閣」という語を取り上げて調べてみると、
班固「西都賦」(『文選』巻1)にいう「修除飛閣」は“架け橋”とされていますが、
同時代の崔駰「七依」(『藝文類聚』巻57)にいう「飛閣曾(層)楼」は聳え立つ楼閣でしょう。

「飛」と「軒」とは、それぞれ特に珍しい語ではないが、
両者を組み合わせたところに意表を突くものがあるということでしょうか。

2025年9月13日

一対で提示される勇者たち

曹植「鼙舞歌・孟冬篇」に、次のような句が見えています。

慶忌孟賁  慶忌や孟賁は、
蹈谷超巒  谷や山を踏み越えてゆく。
張目決眥  目を見張り、まなじりを決して、
髪怒穿冠  いきり立って逆立った髪は冠を突き上げる。

「慶忌」は、呉王僚の子で、機敏さをもって知られる猛者、
「孟賁」は、衛出身の勇者として、様々な書物にその名を記されていて、
それらの文献から、二人それぞれについて説明した部分を抜き出すことは可能です。

ただ、この二人が一対で登場していることに私は目を留めたく思います。

「慶忌」「孟賁」について、同様な言及の仕方をしている例として、
『漢書』東方朔伝に「勇若孟賁、捷若慶忌(勇なること孟賁の若く、捷なること慶忌の若し)」、
また、これとほぼ同文が『風俗通義』正失にも見えています。

「慶忌」「孟賁」は、歴史書などにその閲歴が詳しく記されているわけではなく、
様々なところで、勇者の代表格として登場するという人物たちです。
彼らをめぐるエピソードは、漢魏の間、どのようにして伝えられてきたのか、
それを探るヒントがここにあるように思うのです。

なお、前掲四句の後半に見えている表現は、
かつてこちらにも記したとおり、
『史記』の項羽本紀、廉頗藺相如列伝、刺客列伝(荊軻)にも、
非常によく似た表現が見えています。

そのような表現を伴って楽府詩に登場する二人の勇者は、
静的な書物の中の住人であったというよりは、
動的な演劇や語り物の中で躍動していた人物たちなのではないか。
(動的な文芸がたまたま静的な書物に書き留められたということです。)
そんな風に思えて仕方がありません。

2025年9月12日

昔と今と

昨日触れた傅玄の「苦相篇・豫章行」(『玉台新詠』巻2)には、
その末尾に次のような句が配せられています。

昔為形与影  昔は姿形と影のように一緒にいたのに、
今為胡与秦  今は胡と関中のようにかけ離れている。
胡秦時相見  胡と関中とでは時には会うこともできようが、
一絶踰参辰  ひとたび決裂すれば参星と辰星との隔絶をも越えてしまう。

このうちの特に上の二句は、
蘇武の「詩四首」其一(『文選』巻29)に見える次の句、

昔為鴛与鴦  昔は一対の鴛鴦のように一緒にいたのに、
今為参与辰  今は参星と辰星のように隔絶したところにいる。
昔者常相近  昔はいつも身近なところにいたのに、
邈若胡与秦  まるで胡と関中とのように遠く隔てられている。

これを踏まえることは間違いないでしょう。*

昔と今とを対比させる「昔為」「今為」という措辞、
加えて、「胡与秦」、「参」と「辰」とを並置する表現から、
そのように判断することができます。

同様な表現は、曹植の「種葛篇」(『玉台新詠』巻2)に、

昔為同池魚  昔は同じ池に棲む魚だったのに、
今若商与参  今は商星と参星のように遠く隔てられている。
往古皆歓遇  往年は二人とも会えば歓楽を共にする間柄だったのに、
我独困於今  私はひとり、今この時に行き悩んでいる。

同じく曹植の「浮萍篇」(『玉台新詠』巻2)に、

在昔蒙恩恵  その昔、恩愛の恵みを賜り、
和楽如瑟琴  琴瑟の音が響きあうように、和やかに睦み合っていた。
何意今摧頽  ところが、思いがけなくも私は今ぼろぼろに落ちぶれて、
曠若商与参  あなたとはまるで商星と参星のように遠く隔てられている。

と見えるほか、徐幹の「室思」(『玉台新詠』巻1)にもこうあります。

故如比目魚  もとは比目の魚のようにいつも一緒にいたのに、
今隔如参辰  今は遠く隔てられて参星と辰星のようだ。

仲睦まじく共にいた「昔」と、
離別を余儀なくされている「今」とを対比させるこのような表現は、
おそらくは前掲の蘇武の詩に発祥し、
漢魏の間、それを踏まえて展開させた作品が、
ここに示したもの以外にも多く作られただろうと推測します。

西晋の傅玄は、そうした数ある作品に、
どのように出会い、それらをどのように摂取したのでしょうか。

2025年9月11日

*蘇武の詩は、「古詩十九首」其二(『文選』巻29)にいう「昔為倡家女、今為蕩子婦(昔は倡家の女為り、今は蕩子の婦為り)」を踏まえている可能性が高い。いわゆる蘇李詩と古詩との関係については、柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)の第四章第四節「漢代五言詩歌史上に占める蘇李詩の位置」を参照されたい。

曹植と傅玄

以前、こちらで、
傅玄「明月篇」が曹植「浮萍篇」の影響を受けている可能性を指摘しました。

加えて昨日、次のような事例にめぐり会ったので記しておきます。

曹植「贈白馬王彪」(『文選』巻24)に見える次の句、

丈夫志四海  一人前の男子は広い世界を志し、
万里猶比隣  万里の彼方もまるで近隣のように思うものだ。

これは、傅玄の「苦相篇・豫章行」(『玉台新詠』巻2)にいう、

雄心志四海  雄大な心は広い世界を志し、
万里望風塵  万里の彼方に巻き起こる風塵を望む。

に、表現面で影響を及ぼしている可能性があります。
(内容的にはそれほど関わりはないようです。)

漢魏晋南北朝時代において、「志四海」という語を用いているのは、
前掲詩二首、陶淵明「雑詩十二首」其四、*
あと、梁代の荀済という人物の「贈陰梁州詩」の四首のみです。
(興味深いことに、唐詩には用例がひとつもありません。)

その中で、曹植の詩と傅玄の楽府詩とは、
「志四海」「万里」までが一致し、しかも句の同じ位置に配されています。
そのことに着目して、傅玄における曹植作品の影響を仮想しました。

表現の類似を指摘するには、細心の注意が必要だと思います。
あるひとつの熟語が一致しているだけでは、影響関係があるとは言い切れません。
作者の心中において、ある先行作品の表現がどこまで意識されていたか、
あるいはすでに血肉化して自然にそれを踏まえた表現となったのか、
そうしたことをよく吟味することが大切だと常々思っています。
その上で、なぜ作者はその先行作品を踏まえたのかを考えます。

2025年9月10日

*陶淵明「雑詩十二首」其四の冒頭には、曹植「贈白馬王彪」詩と同じ「丈夫志四海」という句が見えている。釜谷武志『陶淵明』(明治書院・新釈漢文大系詩人編1、2021年)p.294に夙に指摘する。このことをどう見るか。陶淵明が、曹植詩を踏まえたのかもしれない。または、当時に流布していたことわざのような句を両者が用いたのかもしれない。少なくとも曹植はそうした俗語的なフレーズを割合よく用いている。そうした表現の場合は、『文選』李善注も指摘していないことが多い。

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