宋本『曹子建文集』
昨日(2024年4月12日)、「曹植の全作品テキストと校勘」を公開しました。
こちらの一番下をご覧ください。空欄に文字を入れて検索できます。
曹植作品のテキストを入力し始めたのは、2018年8月20日でした。
諸文献との校勘を始めたのは、2020年末頃だったか。
一連の作業を始めた当初、手元に宋本『曹子建文集』を持っておらず、
その必要性もきちんと認識できていなかったために、
校勘対象の中に宋本が含まれておりません。
本日、「鰕䱇篇」(05-26)の訳注作業に入って、
宋本を見る必要性を痛感しました。
その10句目と11句目(奇妙なところで切り取ります。)
底本である丁晏『曹集詮評』は「勢利惟是謀。讎高念皇家」に作り、
これを、『楽府詩集』巻30では「勢利是謀讎。高念〔翼〕皇家」に作っています。*1
この『楽府詩集』テキストは、
黄節『曹子建詩注』巻2にいう「宋本作「勢利是謀讎、高念翼皇家」」を是とし、*2
これに拠って改めた結果であることが、その注記から知られます。
ところが、実際に宋本『曹子建文集』を見てみると、*3
「勢利是謀讎高念■皇家」となっており、
この■の部分は、二字分が黒く塗りつぶされたようになっています。
黄節が「翼」という一文字でこれを補填したのは、何に拠ったのか不明です。
もし、今人の校勘成果のみを見て、自分で宋本を確認することがなかったら、
このあたりの錯綜を、実態として把握することはできないでしょう。
宋本を見ても、なお未詳であることには変わりありませんが、
少なくともわからないということの実感はつかめます。
2024年4月13日
*1『楽府詩集』(中華書局、1979年)第2冊、p.446に、もと(底本は文学古籍刊行社宋本影印本)は「勢利□是謀、讎高念皇家」に作ると注記する。中津濱渉『楽府詩集の研究』(汲古書院、1970年)に影印収録された北京図書館蔵宋刊本もまさしく「勢利 是謀讎高念皇家」に作っている。
*2 黄節『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)巻2、p.91に、それぞれの句の下に、「宋本作是謀讎」、「宋本作高念翼皇家」との注記がある。
*3 『曹子建文集(上海図書館蔵宋刻本原大影印に拠る)』(国家図書館出版社、2021年5月)巻6/11b、『宋本曹子建文集(国学基本典籍叢刊)』(国家図書館出版社、2021年10月)p.152。
曹植の「吁嗟篇」と「雑詩六首」其二
(昨日の続きです。)
曹植の「吁嗟篇」と「雑詩六首」其二とは、
「転蓬」をモチーフとしている点で非常によく似ています。
ところで、「吁嗟篇」は『楚辞』卜居を踏まえていたのでしたが、
この点、「雑詩六首」其二の方はどうでしょうか。
確認すると、「雑詩」の方には、『楚辞』卜居に出自を持つ語、
「吁嗟」も「居世」も、「誰知吾○○」という措辞も見当たりません。
一方、「雑詩」で目に留まるのは、その結びに配せられた次の二句です。
去去莫復道 ああもうこのことは二度と口にするまい。
沈憂令人老 沈鬱な憂いは人を老け込ませてしまう。
これは、『文選』巻29「古詩十九首」其一を結ぶ次の四句を髣髴とさせます。
思君令人老 あなたのことを思えば、私はやつれて老け込み、
歳月忽已晩 歳月はあっという間に暮れてゆく。
棄捐勿復道 こんなことは打っちゃって、もう二度と言わないことにしよう。
努力加餐飯 どうぞお元気で、がんばってご飯を食べてください。
こうした表現は、「吁嗟篇」の方には見えていません。
同じ事物を詠じているようでも、
「吁嗟篇」と「雑詩六首」其二とでは何かが異なっている。
そのことが、かたや『楚辞』卜居、かたや「古詩十九首」に来源する表現に、
顕著なかたちで現れ出ているように感じます。
2024年4月8日
曹植「吁嗟篇」と『楚辞』卜居
昨日、曹植「苦思行」の訳注稿をひととおり終え、
「吁嗟篇」の読解に入りました。
この作品は、『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注にも引かれ、
曹植の心情をよく物語る楽府詩として、広く人口に膾炙しています。
ですから、なんとなく分かったつもりになっていました。
ところが、読み始めてすぐに、自分の蒙昧を思い知りました。
それは、黄節の次のような指摘によります。*
「吁嗟篇」の「吁嗟」は、『楚辞』卜居にいう、
「吁嗟黙黙兮、誰知吾之廉貞(吁嗟黙黙たり、誰か吾の廉貞を知らんや)」に基づく。
「吁嗟篇」の中の一句「誰知吾苦艱(誰か吾が苦艱を知らんや)」も、
前掲『楚辞』卜居の一句を踏まえる。
「吁嗟篇」の第二句に見える「居世」は、王逸『楚辞章句』卜居の序にいう、
「卜己居世何所宜行(己の世に居るに何れの所にか宜しく行くべきかを卜す)」を踏まえる。
「吁嗟」は、たしかに辞書類で用例の冒頭に上がるのは『楚辞』卜居ですが、
それでも、割合よく見かける感嘆詞ではあると言えます。
「居世」は、おおかたの辞書類には熟語として採録されていません。
また、「誰知吾○○」という措辞は、どこにでもある普通の言い方のように感じます。
もしこれらの辞句が単独で作品中に見えている場合は、
それらのひとつひとつが『楚辞』卜居に由来する表現だとは判断できません。
ですが、それらがすべて『楚辞』卜居に見える語だとなれば話は別です。
一篇の楽府詩の中に、来源を同じくする語が複数見えている場合、
そのひとつひとつがどんなにありふれた語句であっても、
その来源である作品を念頭に置いた表現なのだと捉えなくてはならないでしょう。
「吁嗟篇」を読む上で、
これまで「雑詩六首」其二との類似性にばかり目が向いていましたが、
『楚辞』卜居を下敷きにしていることを踏まえ、改めて読み直したいと思います。
2024年4月7日
*黄節『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)巻2、p.89。なお、この黄節の指摘は、後世の注釈家たちにはほとんど継承されておらず、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.229に、ある人の説として触れられているのみである。
表現と現実
曹植「七哀詩」に見える次の対句、
君若清路塵 君は清路の塵の若く、
妾若濁水泥 妾は濁水の泥の若し。
これとほとんど同じディテールを用いて意味をずらした表現が、
同じ作者の「九愁賦」にも次のとおり見えています。
(このことは、以前こちらでも言及しました。)
寧作清水之沈泥 寧ろ清水の沈泥と作(な)るとも、
不為濁路之飛塵 濁路の飛塵とは為らざれ。
路上の塵と、水底の泥とを対比させている点で、両作品は共通しています。
ですが、「七哀詩」では、路上は清く、水は濁っている一方、
「九愁賦」では、路上は汚濁にまみれ、水は清らかに澄んでいます。
泥だけ、あるいは塵だけなのであれば、
たまたま同じものを詠じただけだとも考え得るのですが、
泥と塵とを併せた表現となれば、単なる偶然と見ることはできません。
そして、それぞれの属性が両作品間で入れ替わっているのは、
敢えて為された表現なのだろうと推し測れます。
「塵」と「泥」とは、
黄節が「七哀詩」に関して評しているとおり、*
もとは同じ物質であったものがふたつに分離してできたもの、
すなわち血を分けた兄弟、曹丕と曹植とをいうのだ、と解釈できます。
では、「七哀詩」と「九愁賦」とで、
「塵」と「泥」との清濁が入れ替わっていることはどう解釈すべきでしょうか。
もしそれが、上述のように意図して為されたものなのだとしたら、
その表現の違いは、作品の作られた時期によるのではないか、とふと思いました。
つまり、兄弟間の関係性が劇的に転換した時期の前後に、
両作品の成立時期が振り分けられるのかもしれないという思いつきです。
表現を現実と結びつけて解釈する必要はない、という見解もあるでしょう。
ですが、漢代「古詩」の世界をよく再現している「七哀詩」の中で、
あるいは、『楚辞』的世界を彷彿とさせる「九愁賦」の中で、
前掲の対句は突出して異彩を放っています。
その突出した表現が何に由来するのかを探りたいのです。
2024年4月4日
*黄節『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)巻1、p.4を参照。
黄初三年の曹植
(一昨日の続きで)
もし『輿地碑記目』に記すところによるならば、
曹植の「鷂雀賦」は、黄初三年(222)に書かれたことになります。
では、この時期の曹植はどのような状況の中にあったのでしょうか。
この間の事情は不分明なところが多いのですが、
曹植自身による「責躬詩」「黄初六年令」を主たる根拠として、
以前、若干の考察を行ったことがあります。*
これらの作品に基づいてこの間の曹植の足跡を詰めていくと、
曹植は黄初元年(220)の末、もしくは二年の初めに、臨淄侯として任地に赴き、
その地で、監国謁者潅均によってその言動の放埓さが摘発されます。
しかし、文帝によって処罰を免れ、安郷侯、次いで鄄城侯に任ぜられました。
これは、黄初二年中のことと見られます。
ところが、鄄城侯であった時に、
東郡太守の王機らに無実の罪をあげられ、都洛陽に出頭するよう命じられました。
しかし、この時も文帝によって赦され、もとの鄄城侯に戻されています。
これは、黄初三年の早い時期だと判断されます。
というのは、同年四月、鄄城の侯から王へ昇格しているからです。
このように見てくると、
「鷂雀賦」がもし本当に黄初三年二月に作られたとするならば、
本作は、曹植が王機らの誣白から逃れられた頃の作だということになります。
ただ、本作品の内容は、曹植の直面した現実と完全に重なるわけではありません。
もっともそれは、文学作品としては至極当然のことです。
ただ、作品は作品、作者の人生はまた別だと言い切れるかどうか。
作品とその背景にある現実とは、無関係ではあり得ないと私は考えます。
けれどもそれは、作品と現実とを一対一で直結させるような方法ではなくて、
もっと別のアプローチによる必要があると思います。
2024年4月2日
*「黄初年間における曹植の動向」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第2号、2023年3月)をご参照ください。こちらからダウンロードできます。
「鷂雀賦碑」の謎
昨日述べた「鷂雀賦碑」は、
宋の王象之撰『輿地碑記目』巻2・江陵府碑記によると、
枝江県(湖北省宜昌市)の内翰楊某の邸宅内にあったといいます。
事実として、たしかにそうなのでしょう。
ただ、湖北省という土地は、曹植と何か関係があったでしょうか。
たとえば、このひとつ前に記された「孫叔敖碑」は、
「即楚相孫君、諱饒、字叔敖、県人也。碑以漢延熹三年立」との注から、
楚の宰相であった孫饒(字は叔敖)は、*
当地出身であるが故に、この碑が建てられたと推察されます。
建てられたのは、後漢の延熹三年(160)で、
本人が生きた春秋時代からかなり下ってはいるのですが、
碑とそこに刻まれた人物とは、土地を介して密接に結びついています。
他方、曹植「鷂雀賦」の碑文はそうではなさそうです。
しかも、その少し後には、「曹子建碑〈在枝江〉」とも記されていて、
枝江県には「鷂雀賦」の碑文と曹植の碑文があったということが知られます。
両者が並んで立っていたのかどうかは知る由もありませんが、
もし仮に同じ機縁によって建てられたのだとすると、
これはどういうわけなのでしょうか。
内翰(翰林院)の楊なにがしという人物は、
よほど、曹植の「鷂雀賦」に惹きつけられていたのでしょうか。
建てたかったから建てた、以上のことは不明です。
2024年4月1日
*『史記』巻119・循吏列伝に伝記が載っている。
曹植「鷂雀賦」の制作時期
以前、こちらで曹植の「鷂雀賦」に言及し、
この作品の成立を、魏の黄初二年とする先行研究を紹介しました。
ところがその後、これを黄初三年の作と記す資料があることを、
本学大学院で学ぶ陳詩宇さんから教わりました。
黄初二年と記すのは、
清朝の張仲炘撰『湖北金石志』(出版地・出版者・出版年は不明)で、*
その巻三「鷂雀賦碑」に次のような説明が見えています。
佚。抂枝江県楊内翰宅。係草書。前有隋大業皇帝序云、陳思王魏宗室子也。後題云、黄初二年二月記。〈輿地碑記目〉
佚。枝江県の楊内翰が宅に抂(あ)り。草書に係る。前に隋の大業(605―617年の年号)の皇帝[煬帝]が序有りて云ふ、「陳思王は魏の宗室の子なり」と。後に題して云ふ、「黄初二年二月記す」と。〈『輿地碑記目』〉
「抂」は、「在」の誤記でしょう。下文の『輿地碑記目』からもそれと知られます。
「係」は、現代中国語でいう「是」だと解釈されます。
著者の張仲炘によると、この記述は『輿地碑記目』に拠ったものだといいます。
そこで、宋の王象之撰『輿地碑記目』(奥雅堂叢書)を確認すると、
その巻二「江陵府碑記」に記録された「鷂雀賦碑」に次のようにありました。
在枝江県楊内翰宅。係草書。前有隋大業皇帝序云、陳思王魏宗室子也。後題云、黄初三年二月記。
枝江県の楊内翰が宅に在り。草書に係る。前に隋の大業の皇帝が序有りて云ふ、「陳思王は魏の宗室の子なり」と。後に題して云ふ、「黄初三年二月記す」と。
この『輿地碑記目』に、もし伝写の過程で生じた誤りなどがないのであれば、
『湖北金石志』にいう「黄初二年」は、正しくは「黄初三年」だということになります。
そして、「黄初三年二月」に「記」したのが曹植本人であるならば、
この作品は、その制作時期を踏まえて解釈されることを作者が望んでいることになります。
また、その解釈は、先行研究におけるそれとは少なからず変わってくるはずです。
2024年3月31日
*本書、及び下文の『輿地碑記目』は、東京国立博物館資料館で目睹しました。お世話になった資料館の方々に深く御礼申し上げます。
張華における曹植文学
先日、晋楽所奏「大曲」の撰者を張華と推定する論文を書きました。*1
もしこの拙論が的を得ているとするならば、
「大曲」に曹植の楽府詩「箜篌引」を組み入れた張華は、
魏王朝の一員でありながら不遇な後半生を余儀なくされた曹植に対して、
心を痛め、哀悼の念を抱いていたと推察することができます。*2
けれども、張華が引き寄せられたのは、
必ずしも曹植のこうした悲劇的境遇ばかりではないはずです。
というのは、かつてこちらでも述べたとおり、
張華による宮廷雅楽の歌辞「晋四廂楽歌十六篇」其五(『宋書』巻20・楽志二)に、
「枯蠹栄、竭泉流(枯蠹は栄(はな)さき、竭泉は流る)」とあって、
これが、曹植「七啓」(『文選』巻34)にいう次の句を踏まえると見られるからです。
夫辯言之艶、能使窮沢生流、枯木発栄。
夫れ辯言の艶なるは、能く窮沢をして流れを生じ、枯木をして栄を発(ひら)かしむ。
「七啓」は、曹植が幸福な日々を送っていた建安年間の作です。
その中に見える特徴的な表現を、張華は取り上げて雅楽歌辞に組み入れているのです。
張華は、曹植の様々な作品を読み、その傑出した美に引き付けられていたでしょう。
その一方で、曹植の人柄と、それに見合わない不遇とに心を痛めていた。
曹植に対する同様な眼差しは、同時代の歴史家、魚豢にも認められます。
(このことは、たとえばこちらやこちらで述べました。)
なお、枯木が花を咲かせるという発想は、
『関尹子』七釜篇にも次のとおり見えています。
人之力有可以奪天地造化者、如冬起雷、夏造冰、死屍能行、枯木能華……
人の力の以て天地造化を奪ふ可き者有るは、冬に雷を起こし、夏に冰を造り、死屍の能く行き、枯木の能く華さき……の如きあり
けれども、この発想が、
涸れ沢から水が流れ出るという発想と対で用いられている例は、
今のところ曹植「七啓」以外には見当たりません。
ならば、張華が直接的に踏まえたのは、曹植「七啓」だと見てよいでしょう。
2024年3月28日
*1 『九州中国学会報』第62号(2024年5月)に、「晋楽所奏「大曲」の編者」と題して掲載される予定です。なお、本拙論は、昨年8月27日、中国の承徳で開催された楽府学会第6回年会・第9回楽府詩歌国際学術研討会での口頭発表「探討晋楽所奏“清商三調”与“大曲”的関係」に大幅な加筆修正を加えたもので、発表のスライドはこちらからご覧になれます。
*2 「箜篌引」は建安年間の作ですが、その歌辞を「野田黄雀行」の楽曲に合わせて歌うよう指示しているところに、こうしたことを読み取ることができると考えます。他方、「大曲」の前に置かれている「清商三調」の編者は荀勗であることが確実ですが、彼が曹植作品を取り上げた可能性はほぼ無いと判断されます。詳細は、前掲注の拙論をご覧いただければ幸いです。
晋楽所奏「野田黄雀行」について(承前)
曹植の楽府詩「箜篌引」が、
西晋の宮廷音楽「大曲」の一曲に組み入れられ、
「野田黄雀行」の楽曲に乗せて歌われたことに関して、
清朝の朱乾『楽府正義』巻8には、次のような解釈が見えています。
まず、「野田黄雀行」として、
「置酒高殿上」に始まる歌辞(「箜篌引」)を記した後にこうあります。
楚策荘辛曰、黄雀俯噣白粒、仰棲茂樹。鼓翅奮翼、自以為無患、不知夫公子王孫、左挟弾、右摂丸、将加己乎十仞之上。取義於此、大概在相戒免禍、故与空侯引同。子建処兄弟危疑之際、勢等馮河、情均弾雀。詩但言及時為楽、不言免禍、而免禍意自在言外。意漢鼓吹鐃歌黄雀行、亦此意也。
(『戦国策』)楚策に荘辛曰く、「黄雀は俯しては白粒を噣(ついば)み、仰ぎては茂樹に棲む。翅を鼓し翼を奮ひて、自ら以て患ひ無しと為(おも)ひ、夫の公子王孫の、左に弾を挟み、右に丸を摂(と)りて、将に己に十仞の上より加へんとせるを知らず」と。義を此に取り、大概は相戒めて禍を免れしめんことに在るは、故(もと)より「空侯引(箜篌引)」に同じ。子建は兄弟危疑の際に処りて、勢は「馮河」(『易』泰卦九二爻辞)に等しく、情は弾雀に均し。詩には但だ「時に及びて楽しみを為せ」と言ふのみにして、免禍を言はず、而して免禍の意は自ら言外に在り。意(おも)ふに漢の鼓吹鐃歌「黄雀行」(恐らくは『宋書』巻22・楽志四所収「艾如張曲」を指すか)も、亦た此の意なり。
続いて、「高樹多悲風」を第一句とする「野田黄雀行」を記してこう言います。
自悲友朋在難、無力援求而作。猶前詩久要不可忘四句意也。前以望諸人、此以責諸己。風波以喩険患、利剣以喩済難之権。
自ら 友朋の難に在るも、求めを援(たす)くるに力無きを悲しみて作る。猶ほ前詩の「久要不可忘(久要 忘る可からず)」四句の意のごときなり。前は以て諸(これ)を人に望めども、此は以て諸を己に責む。「風」「波」は以て険患に喩へ、「利剣」は以て難を済(すく)ふの権に喩ふ。
朱乾のこの解釈の中には、
どう捉えるべきか、読解に難渋するところがあります。
たとえば、「前以望諸人」の「前」とは、前掲「置酒・野田黄雀行」をいうのか、
それとも、「高樹・野田黄雀行」の中に流れる時間の前部なのか。
このいずれの解釈を取るにせよ、「望諸人」とは具体的に何を指すのか。
読解できない点は残しつつも、
朱乾がこの両歌辞の間につながりを感じ取り、
そこに意味を見出そうとしていることは確かだと言えます。
傾聴に値する解釈であるように私には思われました。
2024年3月27日
晋楽所奏「野田黄雀行」について
曹植の「箜篌引」(『文選』巻28)は、
西晋王朝の宮中で「野田黄雀行」の楽曲にのせて歌われました。
『宋書』巻21・楽志三、「大曲」の当該歌辞には、
「野田黄雀行」という楽府題の下に、
「空侯引亦用此曲(空侯引は亦た此の曲を用ふ)」と記されています。
つまり、「箜篌引」は「野田黄雀行」のメロディを用いて歌われることもある、
という言い方で、歌辞と楽曲との関係性を説明しているのです。
これは、『宋書』楽志の編者である沈約において、
曹植のこの歌辞は、一般には「箜篌引」として流布しており、
晋楽所奏「大曲」の一曲としては、「野田黄雀行」のメロディで歌われる、
という認識であったことを示しています。
沈約(441―513)の生きていた南朝当時、
「箜篌引」が「野田黄雀行」として歌われることは、
やや特殊なケースだと認識されていたらしいことがうかがわれます。
では、晋楽所奏「大曲」において、
「箜篌引」を「野田黄雀行」の楽曲で歌うよう指示されているのはなぜか。
この問題については、かつて何度か言及したことがあって、
たとえばこちらで「曹植と張華とを結ぶ糸」の見通しを述べていますが、
これから本腰を入れて検討するつもりです。
2024年3月26日