曹植「七哀詩」の制作年代(承前)
曹植の「七哀詩」がもし、
王粲や阮瑀のそれと同じ機会に作られたものであるならば、
その制作年代は自ずから絞り込まれてきます。
王粲は、建安13年(208)、荊州から曹操の幕下に降り、
同22年(217)、疫病によって没しました。
阮瑀は、司空たる曹操に仕え(時期の詳細は未詳)、
建安17年(212)に没しています。
すると、王粲、阮瑀、曹植の三人が一堂に会する機会は、
広く見積もって、208年から212年の間となります。
他方、「七哀詩」には、次のような特徴的な表現がありました。
君若清路塵 君は清路の塵の若く、
妾若濁水泥 妾は濁水の泥の若し。
これは、黄節が評していたとおり、
曹植自身を「泥」、兄の曹丕を「塵」と表現したものと見られます。
表現を現実に結びつけて解釈する必要はない、という考え方もあるでしょうが、
そうした見方をするには、この表現はあまりにも突出しています。
今ここで詳しく論ずることは省略しますが。
さて、では、前述の五年間の中で、
曹植が、兄曹丕との距離を強く意識するようなことはあったでしょうか。
それは、建安16年(211)、
曹丕が五官中郎将・丞相副となり、
曹植が平原侯に封ぜられたことではなかったかと考えます。
時に、曹丕は25歳、曹植は20歳でした。
これを機に、曹丕は事実上の太子、曹操の後継者となります。*
一方、曹植は後漢王朝から侯に任命されたということになるのでしょう。
これを機に、曹植は兄との間に少し隔たりを感じるようになった可能性はあります。
たとえば、「侍太子坐(太子の坐に侍る)」(04-02)です。
以前、この詩に対してかなりひねくれた解釈をしたことがありますが、(2019.07.17)
それは、その詩中に、曹丕を冷ややかに眺めるようなまなざしを感じたからです。
(ただ、その当否は、今もって判断できません。)
もっとも、この反発心はむしろ、兄に甘え、いどみかかるような、
いかにも弟らしい心理であっただろうと想像します。
2024年4月26日
*津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年)を参照。こちらの雑記(2020.09.23)にも記す。
曹植「七哀詩」の制作年代をめぐって
昨日の続きとして。
「七哀詩」と題する作品は、建安七子のひとり阮瑀にもあります。
『藝文類聚』巻34・人部十八・哀傷に、「魏の阮瑀の七哀詩に曰く」として引く、
「丁年難再遇(丁年は再びは遇ひ難し)」に始まる一首、
それに、続いて「又詩に曰く」として引くものも、
もしかしたら「七哀詩」かもしれません。
というのは、その後に「魏の王粲の七哀詩に曰く」として引くもの、
それに続けて「又詩に曰く」として引くものの併せて二首が、
『文選』巻23に、王粲の「七哀詩二首」として採録されているからです。
『藝文類聚』における阮瑀詩の引用の仕方が、王粲のそれと同じ体裁なので、
このように推測することも可能かと考えました。
さて、そのように題目を共有する複数の作品がある場合、
多くは、場を同じくして競作された作品群であろうかと考えられます。
では、曹植「七哀詩」も、王粲や阮瑀らとの競作だと見ることができるでしょうか。
先行研究を通覧すると、
本詩を曹丕と曹植との関係性に結びつけて解釈するものが多く、
その代表的なものが、黄節によるこちら(2022.08.30)の指摘です。
趙幼文が本詩を黄初年間に繋年しているのは、これに基づくかと思われます。*1
また、徐公持は別の観点から、本詩の制作時期を明帝の太和5年と推定しています。*2
曹海東は、本詩を曹丕との関係性に結びつける先人の説に一定の妥当性は認めながらも、
制作年代にまでは踏み込もうとしていません。*3
これらの説は、少しずつ立脚点を異にしてはいますが、
いずれも、本詩が建安文人たちとの競作であった可能性には言及がありません。
一方、伊藤正文は、「七哀」という詩の題目について諸説を紹介し、
これに続けて、次のようなコメントを付しています。*4
なお、この詩の制作年代は不明。
曹植が雍丘にいたときとか、文帝時代の作とかの説もあるが、
いずれも憶測の域を出ない。
そして、この後に、王粲・阮瑀にも「七哀詩」があることを記しています。
このような記し方からして、もしかしたら伊藤氏は、
本詩が競作されたものである可能性に目を向けていたかもしれません。
(前述の曹海東氏にも、その可能性がないではありません。)
明日につなぎます。
2024年4月25日
*1 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)巻2、pp.313―314。
*2 徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.387。
*3 曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)pp.122―124。
*4 伊藤正文『曹植』(岩波・中国詩人選集、1958年)pp.117―120。
『文選』所収作品の配列
曹植の「七哀詩」は、『文選』巻23に収録されています。
そして、その後に王粲「七哀詩」が続きます。
この配列について、李善は次のように注記しています。
贈答、子建在仲宣之後、而此在前、誤也。
「贈答詩」(『文選』巻23・24)では、曹植の作品は、王粲の後に並んでいる。
ところが、ここ「七哀詩」では、王粲の前に置かれている。誤りである。
これとほぼ同じ指摘が、『文選』巻20所収「公讌詩」にもこう見えています。
贈答・雑詩、子建在仲宣之後、而此在前、疑誤。
このことは、かつてうっかり二度も記していましたので、
詳しくはそちらをご覧いただければ幸いです。(2019.07.02)(2021.11.18)
では、「贈答詩」や「雑詩」(『文選』巻29)と、
「公讌詩」や「七哀詩」との分岐点はどこにあるのでしょうか。
「贈答詩」は、作者によって、詩を贈る相手は様々です。
「雑詩」は、基本的に対自的なスタンスで作られることが多い作品です。
つまり、作者としては、個々人であると言えます。
一方、「公讌詩」は宴という共通の場で共に作られるものです。
作者は、個々人というよりも、むしろ場であるとさえ言えるでしょう。
「七哀詩」の配列が「公讌詩」のそれに準ずることは、
その創作の場が、「公讌詩」に類するものであった可能性を示唆すると考えます。
曹植の「七哀詩」は、『文選』李善注に複数箇所引かれており、
その中には、『文選』所収作品ではない、次のような佚文も見えています。*
南方有鄣気、晨鳥不得飛。(巻28/21a李善注)
南方に鄣気有り、晨鳥 飛ぶを得ず。
膏沐誰為容、明鏡闇不治。(巻31/3b李善注)
膏沐 誰が為に容(かたちづく)らん、明鏡 闇(くら)くして治めず。
すると、二首が収載される王粲と同様、曹植にも複数の「七哀詩」があって、
そのうちの一首が『文選』に採られたのだろうと推察されます。
そして、曹植や王粲による複数の「七哀詩」は、
「公讌詩」と同様、ある機会や場を共有して作られた詩群として、
『文選』に先行する選集類で、ひとつにまとめられていた可能性がある。
あくまでも可能性ではありますが、
以上に述べたことから、こうした見通しは成り立つように思います。
2024年4月24日
*富永一登『文選李善注引書索引』(研文出版、1996年)を手引きとして確認した。このこと自体の指摘は、多くの先人たちによって夙に為されている。
曹植作品と阮籍「詠懐詩」
阮籍の「詠懐詩」が、曹植作品の影響を深く受けていることは、
かつて「磬折」という語を核として論じたことがあります。*
今日また両者の類似表現に遭遇しました。
阮籍「詠懐詩十七首」其四「昔日繁華子」(『文選』巻23)の次の句、
携手等歓愛 手を携へて歓愛を等しくし、
宿昔同衣裳 宿昔 衣裳を同じくす。
これが、曹植「種葛篇」(『玉台新詠』巻2)に見える次の句、
歓愛在枕席 歓愛 枕席に在り、
宿昔同衣衾 宿昔 衣衾を同じくす。
これとたいそうよく似ています。
たまたま似ただけだとも考えられますが、
「宿昔同衣○」という言葉の並びは、
現存する諸作品を網羅的に検索する限りでは、この両作品のみに見えるようです。
この句の前に、「歓愛」という語が用いられている点でも同じですから、
阮籍が曹植の表現を取り込んだ可能性は十分あるように思います。
(もちろん全くの見当違いである可能性も多分にあります。)
それで、よくわからないのが、
前掲の阮籍の詩にいう「等」という語の意味です。
何を等しくすると言っているのでしょうか。
二人の「歓愛」の程度が等しいのか、
それとも「携手」が「歓愛」に等しいと言っているのか。
多くの翻訳者は、「等」を「ともにする」と捉えているようですが、
それでよいのか、少し躊躇を覚えています。
「等」には、「ともがら」という語義もあるので、
そこから敷衍させて捉えるならば、
何も怪しむには当たらないところなのかもしれませんが。
2024年4月23日
* 拙論「曹植文学の画期性―阮籍「詠懐詩」への継承に着目して―」(『中国文化』80号、2022年)。こちらでご覧いただけます。ただし、この中で私は大間違いなことを述べています。ご注意ください。
曹植「雑詩六首」に対する李善注
曹植の作った「雑詩」と呼び得る作品は、
そのうちの五首が、『玉台新詠』巻2に収載されています。
ところが、この「雑詩五首」のうち、
其一「明月照高楼」は、『文選』では巻23に「七哀詩」として採られ、
其三「微陰翳陽景」は、『文選』巻29に「情詩」として収載されています。
(このことは、すでにこちらでも述べました。)
一方、『文選』所収「雑詩六首」には含まれない、
『玉台新詠』所収「雑詩五首」の其四「攬衣出中閨」詩は、
『藝文類聚』巻32に「魏陳王曹植詩」として引かれ、
その後に「又曰」として前掲の「明月照高楼」「西北有織婦」が続いています。
ということは、六朝末から初唐にかけての時代、
曹植のこれらの作品を包括して「雑詩」と捉える見方がたしかにあったのでしょう。
ですが『文選』は、曹植の「七哀詩」「雑詩」「情詩」を区別しています。
これは、『文選』が拠った先行する選集がそうであったということを意味します。
ではなぜ、それらの選集は、曹植のこの種の作品をこのように括っていたのでしょうか。
このことを探る上で、手掛かりになるかもしれないのが、
「雑詩六首」について、『文選』李善注に記された次のようなコメントです。
此六篇、並託喩傷政急、朋友道絶、賢人為人窃勢。
別京已後、在郢城思郷而作。
此の六篇は、並びに託喩して傷む、
政の急にして、朋友は道絶え、賢人は人の勢を窃(ぬす)むところと為るを。
京(洛陽)に別れて已後、郢城(鄄城)に在りて郷を思ひて作るなり。
ここにいう「郷」は、狭い意味での郷里ではなく、
仲間、ともがらを喩える語としてと捉えるのが妥当でしょう。*1
李善はこのように、
「雑詩六首」はすべて、現王朝に対する批判を婉曲に表現しており、
曹植が洛陽から鄄城に帰還して後に、朋輩を思って作った詩群だと捉えています。
ただ、この李善注に対しては、
清の胡克家が次のように疑義を呈しています(『文選考異』巻5)。
案此三十字、於善注例不類、必亦并善於五臣而如此。
其中兼多譌錯、各本尽同、無可校正。
何校、郢改鄄。陳同。
案ずるに此の三十字、善注の例に類せず、必ずや亦た善を五臣に并せて此くの如し。
其の中には兼ねて譌錯多きも、各本尽く同じければ、校正す可き無し。
何(何焯)が校は、郢を鄄に改む。陳(陳景雲)同じ。
前掲の李善注について、胡克家はこのように、
李善注を五臣注と併せた際に、このような注が李善注に混入したと見ています。
けれども、先行研究によると、五臣注本系テキストには題注はなく、
だとすれば、前掲の胡克家の見方は成り立たないとの指摘が為されています。*2
もしかしたらこれは、李善の子、李邕の注記である可能性もあります。
李邕による『文選』注は、父のそれとは異なって、
「事に附して義を見(あらは)す」(『新唐書』巻202・文芸伝中)ものであり、
李善もこれを否定し去ることができず、両注は並び行われたといいます。*3
唐代初期には、私達には目睹できない資料もあったはずですから、
通常の体例とは異なるこの李善注も、何らかの根拠を持っていたのかもしれません。
2024年4月22日
*1『礼記』緇衣に「君子之朋友有郷、其悪有方(君子の朋友には郷有り、其の悪には方有り)」、鄭玄注に「郷・方、喩輩類也(郷・方は、輩類を喩ふるなり)」と。
*2 兪紹初・劉群棟・王翠紅点校『新校訂六家注文選』(鄭州大学出版社、2013年)p.1897の校勘記を参照。
*3 岡村繁「『文選集注』と宋明版行の李善注」(『加賀博士退官記念中国文史哲学論集』1979年、講談社)、「『文選』李善注の編修過程―その緯書引用の仕方を例として―」(『東方学会創立四十周年記念東方学論集』1987年、東方学会)を参照。両論文とも、岡村繁『文選の研究』(1999年、岩波書店)に収載。
曹植「雑詩六首」と「情詩」
『文選』巻29所収の曹植による五言「雑詩六首」は、
その直前に、曹植の四言「朔風詩一首」があり、
その直後には、曹植の五言「情詩一首」が続いています。
「微陰翳陽景(微陰 陽景を翳ふ)」に始まる「情詩」は、
『玉台新詠』巻1では、曹植「雑詩五首」の三首目として収載されています。
では、『文選』はなぜ、
この「微陰翳陽景」詩を「雑詩六首」に組み入れなかったのでしょうか。
同じ五言詩であり、しかも同時期の選集『玉台新詠』は「雑詩」としているのに、
「情詩」として別立てにしているのには、何らかの根拠があったはずです。
『文選』という作品選集は、
すでにある選集から、更に秀作を選りすぐったものと見られますが、*
その先行する選集で、「雑詩六首」と「情詩」とは別の詩群に属していたのでしょうか。
もしそうだとすると、両者がそれぞれに属する詩群はどう異なっていたのでしょうか。
そもそも「雑詩」とは何か。
この問題については、かつて触れたことがあります。(2021.02.21)
また、曹植の「雑詩」という作品群についても、
二度ほど考察したことがあります。(2020.06.23)(2020.07.11)
けれども、それらは十分な検証に基づくものとは言えません。
今、「情詩」と「雑詩六首」との分岐点に注目し、
曹植「雑詩六首」の輪郭を明らかにできないかと考えています。
2024年4月19日
*岡村繁「『文選』編纂の実態と編纂当初の『文選』評価」(『日本中国学会報』第38集、1986年、『文選の研究』(岩波書店、1999年)に収載)を参照。
宋本『曹子建文集』
昨日(2024年4月12日)、「曹植の全作品テキストと校勘」を公開しました。
こちらの一番下をご覧ください。空欄に文字を入れて検索できます。
曹植作品のテキストを入力し始めたのは、2018年8月20日でした。
諸文献との校勘を始めたのは、2020年末頃だったか。
一連の作業を始めた当初、手元に宋本『曹子建文集』を持っておらず、
その必要性もきちんと認識できていなかったために、
校勘対象の中に宋本が含まれておりません。
本日、「鰕䱇篇」(05-26)の訳注作業に入って、
宋本を見る必要性を痛感しました。
その10句目と11句目(奇妙なところで切り取ります。)
底本である丁晏『曹集詮評』は「勢利惟是謀。讎高念皇家」に作り、
これを、『楽府詩集』巻30では「勢利是謀讎。高念〔翼〕皇家」に作っています。*1
この『楽府詩集』テキストは、
黄節『曹子建詩注』巻2にいう「宋本作「勢利是謀讎、高念翼皇家」」を是とし、*2
これに拠って改めた結果であることが、その注記から知られます。
ところが、実際に宋本『曹子建文集』を見てみると、*3
「勢利是謀讎高念■皇家」となっており、
この■の部分は、二字分が黒く塗りつぶされたようになっています。
黄節が「翼」という一文字でこれを補填したのは、何に拠ったのか不明です。
もし、今人の校勘成果のみを見て、自分で宋本を確認することがなかったら、
このあたりの錯綜を、実態として把握することはできないでしょう。
宋本を見ても、なお未詳であることには変わりありませんが、
少なくともわからないということの実感はつかめます。
2024年4月13日
*1『楽府詩集』(中華書局、1979年)第2冊、p.446に、もと(底本は文学古籍刊行社宋本影印本)は「勢利□是謀、讎高念皇家」に作ると注記する。中津濱渉『楽府詩集の研究』(汲古書院、1970年)に影印収録された北京図書館蔵宋刊本もまさしく「勢利 是謀讎高念皇家」に作っている。
*2 黄節『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)巻2、p.91に、それぞれの句の下に、「宋本作是謀讎」、「宋本作高念翼皇家」との注記がある。
*3 『曹子建文集(上海図書館蔵宋刻本原大影印に拠る)』(国家図書館出版社、2021年5月)巻6/11b、『宋本曹子建文集(国学基本典籍叢刊)』(国家図書館出版社、2021年10月)p.152。
曹植の「吁嗟篇」と「雑詩六首」其二
(昨日の続きです。)
曹植の「吁嗟篇」と「雑詩六首」其二とは、
「転蓬」をモチーフとしている点で非常によく似ています。
ところで、「吁嗟篇」は『楚辞』卜居を踏まえていたのでしたが、
この点、「雑詩六首」其二の方はどうでしょうか。
確認すると、「雑詩」の方には、『楚辞』卜居に出自を持つ語、
「吁嗟」も「居世」も、「誰知吾○○」という措辞も見当たりません。
一方、「雑詩」で目に留まるのは、その結びに配せられた次の二句です。
去去莫復道 ああもうこのことは二度と口にするまい。
沈憂令人老 沈鬱な憂いは人を老け込ませてしまう。
これは、『文選』巻29「古詩十九首」其一を結ぶ次の四句を髣髴とさせます。
思君令人老 あなたのことを思えば、私はやつれて老け込み、
歳月忽已晩 歳月はあっという間に暮れてゆく。
棄捐勿復道 こんなことは打っちゃって、もう二度と言わないことにしよう。
努力加餐飯 どうぞお元気で、がんばってご飯を食べてください。
こうした表現は、「吁嗟篇」の方には見えていません。
同じ事物を詠じているようでも、
「吁嗟篇」と「雑詩六首」其二とでは何かが異なっている。
そのことが、かたや『楚辞』卜居、かたや「古詩十九首」に来源する表現に、
顕著なかたちで現れ出ているように感じます。
2024年4月8日
曹植「吁嗟篇」と『楚辞』卜居
昨日、曹植「苦思行」の訳注稿をひととおり終え、
「吁嗟篇」の読解に入りました。
この作品は、『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注にも引かれ、
曹植の心情をよく物語る楽府詩として、広く人口に膾炙しています。
ですから、なんとなく分かったつもりになっていました。
ところが、読み始めてすぐに、自分の蒙昧を思い知りました。
それは、黄節の次のような指摘によります。*
「吁嗟篇」の「吁嗟」は、『楚辞』卜居にいう、
「吁嗟黙黙兮、誰知吾之廉貞(吁嗟黙黙たり、誰か吾の廉貞を知らんや)」に基づく。
「吁嗟篇」の中の一句「誰知吾苦艱(誰か吾が苦艱を知らんや)」も、
前掲『楚辞』卜居の一句を踏まえる。
「吁嗟篇」の第二句に見える「居世」は、王逸『楚辞章句』卜居の序にいう、
「卜己居世何所宜行(己の世に居るに何れの所にか宜しく行くべきかを卜す)」を踏まえる。
「吁嗟」は、たしかに辞書類で用例の冒頭に上がるのは『楚辞』卜居ですが、
それでも、割合よく見かける感嘆詞ではあると言えます。
「居世」は、おおかたの辞書類には熟語として採録されていません。
また、「誰知吾○○」という措辞は、どこにでもある普通の言い方のように感じます。
もしこれらの辞句が単独で作品中に見えている場合は、
それらのひとつひとつが『楚辞』卜居に由来する表現だとは判断できません。
ですが、それらがすべて『楚辞』卜居に見える語だとなれば話は別です。
一篇の楽府詩の中に、来源を同じくする語が複数見えている場合、
そのひとつひとつがどんなにありふれた語句であっても、
その来源である作品を念頭に置いた表現なのだと捉えなくてはならないでしょう。
「吁嗟篇」を読む上で、
これまで「雑詩六首」其二との類似性にばかり目が向いていましたが、
『楚辞』卜居を下敷きにしていることを踏まえ、改めて読み直したいと思います。
2024年4月7日
*黄節『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)巻2、p.89。なお、この黄節の指摘は、後世の注釈家たちにはほとんど継承されておらず、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.229に、ある人の説として触れられているのみである。
表現と現実
曹植「七哀詩」に見える次の対句、
君若清路塵 君は清路の塵の若く、
妾若濁水泥 妾は濁水の泥の若し。
これとほとんど同じディテールを用いて意味をずらした表現が、
同じ作者の「九愁賦」にも次のとおり見えています。
(このことは、以前こちらでも言及しました。)
寧作清水之沈泥 寧ろ清水の沈泥と作(な)るとも、
不為濁路之飛塵 濁路の飛塵とは為らざれ。
路上の塵と、水底の泥とを対比させている点で、両作品は共通しています。
ですが、「七哀詩」では、路上は清く、水は濁っている一方、
「九愁賦」では、路上は汚濁にまみれ、水は清らかに澄んでいます。
泥だけ、あるいは塵だけなのであれば、
たまたま同じものを詠じただけだとも考え得るのですが、
泥と塵とを併せた表現となれば、単なる偶然と見ることはできません。
そして、それぞれの属性が両作品間で入れ替わっているのは、
敢えて為された表現なのだろうと推し測れます。
「塵」と「泥」とは、
黄節が「七哀詩」に関して評しているとおり、*
もとは同じ物質であったものがふたつに分離してできたもの、
すなわち血を分けた兄弟、曹丕と曹植とをいうのだ、と解釈できます。
では、「七哀詩」と「九愁賦」とで、
「塵」と「泥」との清濁が入れ替わっていることはどう解釈すべきでしょうか。
もしそれが、上述のように意図して為されたものなのだとしたら、
その表現の違いは、作品の作られた時期によるのではないか、とふと思いました。
つまり、兄弟間の関係性が劇的に転換した時期の前後に、
両作品の成立時期が振り分けられるのかもしれないという思いつきです。
表現を現実と結びつけて解釈する必要はない、という見解もあるでしょう。
ですが、漢代「古詩」の世界をよく再現している「七哀詩」の中で、
あるいは、『楚辞』的世界を彷彿とさせる「九愁賦」の中で、
前掲の対句は突出して異彩を放っています。
その突出した表現が何に由来するのかを探りたいのです。
2024年4月4日
*黄節『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)巻1、p.4を参照。