歴史故事を歌う葬送歌
曹植がその画賛で取り上げた「二桃殺三士」の故事は、
語り物もしくは歌舞劇として、宴席でも上演されていたと推測されるものでした。
(こちらを再度ご参照ください。)
漢代画像石には、凡そそのクライマックスシーンが描かれています。
曹植が目睹して賛を寄せた図像にも、これと同じ場面が示されていたでしょう。
さて、先日も触れたとおり、
楽府詩「梁甫吟」にも、同じ故事が次のように詠じられています。
歩出斉城門 斉の城門を歩み出て、
遥望蕩陰里 遥かかなたに蕩陰里を望む。
里中有三墳 里の中には三つの墳墓があって、
累累正相似 重なり合うそれらは実によく似た様子をしている。
問是誰家冢 これらはどちら様の墳墓でしょうか、とたずねてみれば、
田疆古冶子 田開疆や古冶子ら(公孫接も言外に含めて)の墓だという。
力能排南山 彼らの力は、斉の南山をも押しやるほど強く、
文能絶地理 その文徳は、地表を文様づける山川をも凌いで卓絶していた。
一朝被讒言 それなのに、ある日讒言を被って、
二桃殺三士 二つの桃が三人の勇士を殺すという結末となった。
誰能為此謀 いったい誰がこのような謀略を構えることができたかというと、
国相斉晏子 それは斉国の宰相、晏子である。
「梁甫」とは、泰山のふもとにある山の名で、死者がこの山に葬られることから、
「梁甫吟」は送葬歌だと言えます。(『楽府詩集』巻41)
すると、前掲の「梁甫吟」は、葬送曲のメロディに載せて、
故事「二桃殺三士」の後日談を詠じた楽府詩だということになるでしょう。
葬送歌は、当時の宴席で広く行われていました。
たとえば、応劭『風俗通義』(『続漢書』五行志一に引く)には、
後漢の霊帝期(167―189)頃のこととして、次のような記述が見えています。
時京師賓婚嘉会、皆作魁儡、酒酣之後、續以挽歌。
当時、都のおめでたい宴では、どこでも人形劇が上演され、
酒たけなわとなると、続いて挽歌が歌われた。
こうしてみると、楽府詩「梁甫吟」成立の場は、宴席であったと推測できます。
故事「二桃殺三士」も、「梁甫吟」のメロディも、そうした場で行われていましたから、
両者が出会って何かを生み出すとすれば、それは宴席においてであったと見るのが最も妥当です。
曹植が賛を寄せた図像は、
「二桃殺三士」のクライマックスシーンを描くものであり、
こうした歴史故事は、当時の宴席で盛んに上演されていたと推測されるのでしたが、
「梁甫吟」歌辞の作者が眼前にしていたのもまた、同様な芸能であったのだろうと推測できます。
それではまた。
2019年12月3日
文字資料の向こう側
少し間が空きましたが、
先に示した曹植の「古冶子等賛」の中に、次のような句がありました(再掲)。
虎門之博 王宮の正殿の門で博奕(ばくち)に打ち興じていて、
忽晏置釁 晏子をないがしろにしたため、彼に仲たがいの謀略を設けられた。
この上の句の「博」字について、
趙幼文は、「搏」に作るべきではないかと疑義を呈し、
『春秋左氏伝』昭公十年に記す、次のような斉の内部紛争に結び付けて解釈しています。*1
斉の景公のとき、欒・高両氏の勢力が、陳・鮑両氏の勢力と対立、
陳・鮑両氏に攻められた高氏が、景公を抱き込もうと虎門(正殿)にやってきたところ、
晏子は虎門の外に立ち、両派のいずれにも加担しなかった。
後に、晏子は勝利した陳桓子に、戦利品を景公に差し出すように勧め、桓子はこれに従った。
つまり、「虎門での戦いにおいて」と上句を解釈するのが趙幼文の説です。
(ただし、『左伝』には、三勇士の名も、晏子による桃を用いた謀略も見えていません。)
他方、曹植の前掲の賛を引くのは『太平御覧』巻754の「工芸部(博)」でした。
『太平御覧』は、北宋の成立ではありますが、その時期に一から編纂されたのではなくて、
実は、六朝期及び初唐に成った複数の類書を切り貼りして出来上がったものです。*2
ということは、六朝末頃までは、曹植の賛は「博」に作っていたと判断せざるを得ません。
でないと、工芸部の博の条に採録されるはずがありませんから。
また他方、『晏子春秋』諫下には次のように記されています。
公孫接・田開疆・古冶子事景公、以勇力搏虎聞。晏子過而趨、三子者不起。
つまり、三勇士は、虎を打ち負かすほどの勇気と腕力で知られていたが、
晏子が彼らの前を通り過ぎる際、小走りして敬意を表したのに、三人は起き上がらなかった、と。
そして、この後、晏子は景公に、彼らを消し去るよう進言した、という記事が続きます。
こうしてみると、
曹植が聞き知っていた「二桃殺三士」の故事は、『晏子春秋』とも一致しません。
『晏子春秋』には、彼らが「虎門のところで博奕に打ち興じていた」との記述は見えません。
先にも書いたように、
『晏子春秋』のこの部分には、語り物的な要素が認められるとかつて論じたことがありますが、
それは、当時語られていた言葉をもれなく記述するものではなかったのでしょう。
あるいは、語られている故事には、複数のバージョンがあって、
そのうちの一つでは、三人が虎門の前で博奕をしていたことになっていたのかもしれません。
曹植の賛の読みには、自分でもまだ釈然としないところを残しているのですが、
少なくとも、文字資料がすべてを今に伝えているわけではないとは確実に言えるでしょう。
その向こう側には、おびただしい数の語られる言葉が躍っていたのだろうと想像します。
それではまた。
2019年12月2日
*1 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)巻1、p.90を参照。
*2 勝村哲也「修文殿御覧の復元」(山田慶児編『中国の科学と科学者』京大人文研、1978年)を始めとする一連の論考を参照。
曹植が見ていた絵画(承前)
曹植の「画賛序」(あるいは「説画」)に関連付けられると思われる「賛」。
『曹集詮評』巻6に収録されるそれらの「賛」は、皇帝を称えた作品が圧倒的多数を占めています。
これは、そうした作品が残りやすかったためと見るのが妥当でしょう。
唐代初めの類書『藝文類聚』巻11・12「帝王部」に、そのほとんどが収録されています。
そのような作品群を縦覧する中で、「古冶子等賛」に思わず目を留めました。
『太平御覧』巻754「工芸部(博)」に引く次のテキストです。
斉卿接子 斉の田開疆や公孫接らは、
勇節侚名 節義を守り通す勇敢さを持ち、名誉のためには死をも辞さない烈士である。
虎門之博 王宮の正殿の門で博奕(ばくち)に打ち興じていて、
忽晏置釁 晏子をないがしろにしたため、彼に仲たがいの謀略を設けられた。
矜而自伐 三人は高いプライドによって自らを罰し、
軽死重分 死を軽んじて、人として守るべき道義を重んじた。
古冶子・田開疆・公孫接の三人は、斉の景王に仕えた勇士です。
彼らの態度を無礼と感じた晏子は、自ら手を下すことなく、二つの桃を送り込み、
彼らの自尊心をうまく利用して、互いに節義を張り合って自らを死に追い込むよう仕向けました。
これは、いわゆる「二桃殺三士」と呼ばれる説話で、
『晏子春秋』巻2・諫下に「景公養勇士三人無君臣之義晏子諫」第二十四として記されています。
楽府詩「梁甫吟」(『藝文類聚』巻19、『楽府詩集』巻41)にも歌われ、
更に、漢代画像石(墓壁などを飾る線描図像)の題材としても非常にポピュラーなものです。
そして、この故事を記す『晏子春秋』の文体や、それを描く画像石の配置状況を考え合わせると、
それは、目よりも耳で愉しむ、宴席文芸として行われていたと推測されます。
(このことは、かつて学術論文38で論じました。詳しくはこちらをご覧いただければ幸いです。)
だからこそ、宴席との親和性が高い楽府詩にも取り込まれたのでしょう。
(このことは、学会発表17で論及しました。)
曹植は、そうした故事「二桃殺三士」に取材する賛を作っている、
そして、昨日言及した「画賛序」(あるいは「説画」)の存在が示す通り、
この賛もまた、他の賛と同じく、図像に寄せられたものであったと見るのが妥当でしょう。
こうしてみると、曹植が目にしていた図像は、
一方に立派な古代の君主を描く一方、一方には通俗的な故事をも描いていたということになります。
これは、たとえば武梁祠(山東省嘉祥県)の画像石と極めて近しいものがあります。*
それではまた。
2019年11月26日
*長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)に詳しい。
曹植が見ていた絵図
丁晏『曹集詮評』巻9に、「画説」と題する次のような文章が収録されています。
観画者、見三皇五帝、莫不仰戴。見三季暴主、莫不悲惋。見簒臣賊嗣、莫不切歯。見高節妙士、莫不忘食。見忠節死難、莫不抗首。見放臣斥子*1、莫不歎息。見淫夫妬婦、莫不側目。見令妃順后、莫不嘉貴。是知存乎鑑者図画*2也。
絵を観覧する者は、三皇五帝(伏羲・神農・女媧、黄帝・顓頊・帝嚳・堯・舜)を目にすれば、誰もが敬愛して仰ぎ見る。三代の末世の暴君(夏の桀・殷の紂・周の幽王)を目にすれば、誰もが悲嘆に暮れる。君主の地位を奪い、父を殺して即位した者たちを目にすれば、誰もが激しい怒りを覚える。高い節操を持つ素晴らしい人士たちを目にすれば、食事も忘れて感嘆する。忠義の心で国難に身を捧げた者たちを目にすれば、誰もが気持ちを高ぶらせて面を上げる。国から放逐された忠臣や孝子を目にすれば、誰もが落胆のため息をつく。淫乱な夫や嫉妬深い妻を目にすれば、誰もが軽蔑して横目でにらむ。立派で柔順な后妃を目にすれば誰もが褒め称えて尊崇する。ここから、戒めの鏡としての役割を存するのは絵画であると知られるのである。
他方、同書の巻6には次のような作品が並んでいます。
「庖犧賛」「女媧賛」「神農賛」「黄帝賛」「少昊賛」「顓頊賛」「帝嚳賛」「帝堯賛」「帝舜賛」「夏禹賛」「殷湯賛」「湯祷桑林賛」「周文王賛」「周武王賛」「周公賛」「周成王賛」「漢高帝賛」「漢文帝賛」「漢景帝賛」「漢武帝賛」「羌嫄簡狄賛」「禹妻賛」「班婕妤賛」「吹雲賛」「赤雀賛」「許由巣父池主賛」「卞随賛」「商山四皓賛」「三鼎賛」「禹治水賛」「禹渡河賛」「楽観画賛」「古冶子等賛」
前掲の「画説」は、これらの画賛に関連付けられていたものではないでしょうか。
ここには、古代から漢代に至るまでの帝王や后妃、高い節操を持つ隠士たちの名が見えています。
と思ったら、清朝の厳可均が夙にこのことを指摘していました(『全三国文』巻17)。
前掲の曹植の文章は、
唐の張彦遠『歴代名画記』巻1に「曹植有言曰」として記され、
北宋の『太平御覧』巻751は、『歴代名画記』からの引用としてこれを収載しますが、
明の張溥『漢魏六朝百三家集』所収『陳思王集』巻1は、「画説」としてこれを収録しています。
(清朝末の丁晏は、この張溥本に拠って、明の万暦年間刊行の程氏本を補ったのですね。)
厳可均は、張溥本にいう「画説」という題目を非とし、
別に『太平御覧』巻750に「画賛序」として引く文章と同じく、
これ(前掲のいわゆる「画説」)もまた「画賛序」であろうと推定しています。
すると、曹植は前掲の文章に記されたような歴史的人物を描く多くの絵図をながめ、
これに賛を寄せたということでしょう。
こうした絵図については、曹植の前掲の文章とともに、
かつて拙論(学術論文42)で言及したことがありますが(原稿はこちら)、
もう少し踏み込んで検討し、修正したいことも出てきました。
それではまた。
2019年11月25日
*1 「放臣斥子」、『曹集詮評』は「忠臣孝子」に作る。『漢魏六朝百三家集』も同じ。今、『太平御覧』に拠って改める。
*2 「図画」、『曹集詮評』は「何如」に作る。『漢魏六朝百三家集』も同じ。今、『太平御覧』に拠って改める。
若き日の傲慢さと繊細さ
先に書いた徐幹の没年について、
曹植の文章の中に参考になるものがありました。
『曹集詮評』巻9に収録する「説疫気」(『太平御覧』巻742)という文章がそれです。
以下、その全文を抄出し、通釈を示します。
建安二十二年、癘気流行、家家有僵尸之痛、室室有号泣之哀、或闔門而殪、或覆族而喪。或以為疫者、鬼神所作。夫罹此者、悉被褐茹藿之子、荊室蓬戸之人耳。若夫殿処鼎食之家、重貂累蓐之門、若是者鮮焉。此乃陰陽失位、寒暑錯時、是故生疫。而愚民懸符厭之、亦可笑。
建安二十二年(217)、疫病が流行し、あちらこちらの家々に、倒れた死体に取りすがって号泣する人々の姿があって、一門残らず死に絶えたり、一族もろとも亡くなったりするような場合もあった。ある者は、疫病は鬼神のしわざだと考えている。だが、そもそもこの病に罹る者はみな、粗末な衣を着て豆の葉を食べ、イバラや蓬でしつらえた家屋に住んでいるような貧しい人たちばかりである。一方、たとえば御殿に住んで多くの鼎を並べて食べ、貂の皮衣や敷物を重ねるような裕福な生活をしている家に、こうした病人はまれである。これは、陰陽がしかるべき位置を見失い、気候が異常な状態となったために、疫病が生じたのである。それなのに、愚かな民はお札を懸けてこれを追い払おうとしているのは、またなんと可笑しなことよ。
この書きぶりから見て、
王粲・陳琳・応瑒・劉楨らの命を一挙に奪った疫病は、
建安二十二年を超えることはなかったと判断してよいように思います。
徐幹の没年を、『中論』序文は建安二十三年と記していたのでしたが、
正しくは二十二年、このあやまりはおそらく伝写の過程で生じたものでしょう。
曹植がこの文章を書いたのは、建安二十二年当時だとして、時に二十六歳。
この年、彼は領邑五千を加増されていますが、
同じ頃、宮殿の司馬門を勝手に開いて外出し、曹操を激怒させています。(『三国志』巻19「陳思王植伝」)
兄の曹丕が魏王の太子に立てられたのは、この年の10月でした。
さて、この文章において曹植は、疫病の広がり方と貧富の差との関係に目を留めています。
非常に繊細、かつ合理的な分析力でもって、民の苦しみに向き合っているのですね。
その一方、彼らを「愚民」と称し、その迷信的な疫病防止策を嘲笑しています。
繊細な才気をたたえた若者にありがちな、初々しい傲岸さを垣間見るようです。
それではまた。
2019年11月21日
※『中論』序文の著者と厳可均が推定する任嘏は、かつて臨菑侯曹植の庶子を務めていたことがあります。このことを示す資料を、先の11月5日のページに追記しました。
正史に五言詩が見えない理由
曹道衡「“蘇李詩”和五言文人詩的起源」(『文史知識』1988年第2期)を再読し、
改めて触発され、自分なりに調べなおして考えたことを記しておきます。
『史記』巻7・項羽本紀に、項羽が四面楚歌に追い込まれた場面を描いてこうあります。
於是項王乃悲歌忼慨、自爲詩曰、
そこで項王は悲歌忼慨し、自ら次のような詩を作った。
力抜山兮気蓋世、時不利兮騅不逝。
「力は山を抜き、気は世を覆うほどなのに、時運に見放され、愛馬の騅は進まない。
騅不逝兮可奈何、虞兮虞兮奈若何。
騅が進まないのをいったいどうしよう。虞よ虞よ、お前をどうしよう。」
歌数闋、美人和之。
数回繰り返して歌い、虞美人がこれに和した。
項王泣数行下、左右皆泣、莫能仰視。
項王は数行の涙を流し、左右の者たちも皆泣いて、誰も仰視できなかった。
ここに見えている項羽の詩歌は、○○○兮○○○という九歌型歌謡の様式を示しています。
九歌型歌謡とは、『楚辞』九歌に特徴的な句型を持つ歌謡であって、
前漢時代には、楽器の演奏を伴って盛んに歌われていました。*1
そして、これを記す文献は、しばしば芝居めいた文体をその前後に伴っています。*2
さて、『史記』本文には、虞美人が項羽の歌に続けて和した詩句が記されていません。
この部分には、唐の張守節『史記正義』が次のように注しています。
『楚漢春秋』云、「歌曰、漢兵已略地、四方楚歌声。大王意気尽、賤妾何聊生。」
「漢軍はすでに楚の地を略奪し、四方から楚歌の声が聞こえてきます。
大王様はすっかり意気消沈して、私は何をたよりに生き延びればよいのでしょう。」
前漢初期の陸賈が撰した『楚漢春秋』は、虞美人の歌をこう記していたのですね。
張守節が生きていた盛唐の時代、『楚漢春秋』は伝存していました。*3
彼が目睹した『楚漢春秋』には、たしかに虞美人のこの五言歌謡が記されていて、
それは、項羽の先の詩歌に続けて引用されていたのかもしれません。
『史記』は『楚漢春秋』を多く踏まえたといいますが(『漢書』巻62・司馬遷伝の賛)、
ではなぜ司馬遷は、虞美人の歌をこの書から採録しなかったのでしょうか。
同様なことは、『漢書』巻97下・外戚伝下(班倢伃)にも認められます。
趙飛燕姉妹のために後宮を退いた彼女が自らを傷んで作った賦は引かれていますが、
(そのうち「重ねて曰く」以下は九歌型歌謡の形を取っています。)
彼女が作ったと伝えられている五言の「怨歌行」(『文選』巻27所収)は見えません。
正史に引かれていないから偽作だと決めつける論者もいますが、
正史であるがゆえに引かれなかった可能性も大いにあるのではないでしょうか。
五言詩型は、漢代当時、まだ正統的な文学様式としては認められていなかったからです。
(詳しくは拙著『漢代五言詩歌史の研究』(著書4)をご覧いただければ幸いです。)
また、司馬遷『史記』は、女性に対して拒否的な態度を取っているとも見られます。*4
文献に記されて残っていないからといって、それが存在しなかったことにはならないし、
正史のような書物にばかり信頼を寄せるのも危いものだと思います。
それではまた。
2019年11月20日
*1 藤野岩友『巫系文学論(増補版)』(大学書房、1969年。初版は1951年)の「神舞劇文学」pp.168―172に指摘する。
*2 拙著『漢代五言詩歌史の研究』pp.109―114も併せて参照されたい。
*3 盛唐当時の図書目録を踏襲する『旧唐書』巻46・経籍志上には「楚漢春秋二十巻 陸賈撰」、宋代に成った『新唐書』巻58・藝文志二には「陸賈楚漢春秋九巻」とあって、後者の方が『隋書』巻33・経籍志二や『漢書』巻30・藝文志に記す巻や篇の数と一致している。『旧唐書』に著録するそれは、あるいは一時的に行われていた増補版だろうか。もしそうであるならば、上に述べたことは抜本的に考えなおさなくてはならない。
*4 宮崎市定「『史記』の中の女性」(岩波文庫『史記を語る』、岩波書店『宮崎市定全集24』に収載。初出は『信濃毎日新聞』1979年5月19日)を参照。
遠くからの便り
先日の公開講座においでになった方から教えていただいた本、
若林力『江戸川柳で愉しむ中国の故事』(大修館書店、2005年)が、遠く米沢の古書店から届き、
その中に、「山形県能楽の祭典」9月8日(日)入場無料のちらしが入っていました。
演目は、仕舞「葵上」、連吟「俊寛」、舞囃子「胡蝶」、こども狂言「盆山」、とあります。
もう期日は過ぎているので、ちらしの役割は終えていますし、
自分には縁の薄い日本の古典芸能ばかりなのですが、
こうした芸能を楽しむ人々が住む町に、あこがれの気持ちを持ちました。
六条御息所の怨霊の呪いや、離島に取り残される僧侶の怒りと絶望があれば、
梅の花と戯れる蝶の妖精の喜びと感謝、盆栽を盗もうとした男へのからかい等もある。
感情表現が陰に陽に全開だなあと興味深くちらしを読みました。
そして、届いた古書には書き込みがありました。
古書としての価値は下がると聞きますが、前の持ち主と話をしているようで楽しい。
送られてきた本体もまた、江戸の人々が中国の故事とたわむれている様子がうかがえる、
読むこと、知ることの愉しみがたくさん詰まっていそうな本です。
そういえば、自分は古典とこんなふうに付き合ったことがないかもしれません。
(いつもそれは全力で取り組む相手であって、それが私には面白くてたまらないのですが。)
このような新しい楽しみをひとつ分けていただき、ありがたいことです。
それではまた。
2019年11月18日
日本人ならではのやり方で
中国広州で開かれた楽府歌詩国際学術研討会に参加してきました。
この楽府学会は(中国の学会がすべてそうなのかは知らないけれど)、
参加者全員(80名を超える人数)があらかじめ論文を主催校に送り届け、
印刷されて冊子(今年は全3冊)となったそれを用いて、グループ別に全員が発表し、
さらに、全員が司会とコメントを交替で担当します。
(司会者とコメンテーターとを分けるのはよい方法だと思いました。)
そして、最後の全体会で行われる、班別討論の統括は、若手研究者が担当します。
中国の人々の中にも、どちらかといえば内向的という人もいるはずですが、
ひとたび壇上に立てば、どんな人も堂々と自分の意見を開陳します。
言葉を発することが楽しくてたまらないという様子で、呼吸とともにびっしりと話す。
批判されても、ひるまず、くさらず、休憩時間も議論を続け、
そして、その後はお互いにからっとしています。
私は「曹植《七哀詩》与晋楽所奏《怨詩行》―献給曹植的鎮魂歌」と題して発表しました。*
研究方法は、彼らのそれとは異質なものだったはずですが、受け止められたと感じました。
誤解されることなく、こちらの考察内容はほぼ伝わったようだ、という意味です。
(曹植の陵墓の地理的環境について、詳しく教えてくださった方もいらっしゃいます。)
そして、だからこそ、一部に問題点があるとのコメントもいただきました。
漢魏の五言詩歌史をどう把握するか、私の考えは中国の定説とはかなり違っていますから。
総じて、オープンで、公平で、陽性の人々だという印象を強く持ちました。
この学会に参加するのは3回目でしたが、そうした印象はいよいよ増してきています。
彼らのこうした美質には心底敬愛の気持ちを持ちます。
と同時に、自分は自分ならではのやり方でいこう、との思いも強くしました。
そうしてこそ、中国人研究者と対等に交流できるのだと思います。
(あと、中国語をなんとかしなければなりませんが。)
それではまた。
2019年11月15日
*『狩野直禎先生追悼三国志論集』(汲古書院、2019年9月)所収「晋楽所奏「怨詩行」考―曹植に捧げられた鎮魂歌―」を再編成して成ったものです。
強引に民から辛苦を奪う
『三国志』及びその裴松之注には書き留められていない曹操の事跡として、
彼が次のような令を出していることを記しておきます。*
それは、寒食(冬至から百五日目に火を用いた食事を断つ)という慣習を禁ずる令で、
隋・杜台卿撰『玉燭宝典』二月の項に、次のように引かれています。
魏武明罰令云、聞太原上党西河雁門、冬至後一百有五日、皆絶火寒食、云為介之推。夫之推、晋之下士、無高世之徳。子胥以直亮沈水、呉人未有絶水之事。至於之推独為寒食、豈不偏乎。云有廃者乃致雹雪之災、不復顧不寒食。郷亦有之也。漢武時、京師雹如馬頭、寧当坐不寒食乎。且北方冱寒之地、老少羸弱将有不堪之患。令書到、民一不得寒食。若有犯者、家長半歳刑、主吏百日刑、令長奪一月俸。
魏の武帝(曹操)の「明罰令」にいう。聞いたところ、太原・上党・西河・雁門の各地では、冬至以降の一百有五日、すべて火を断って寒食(火で温めない冷たい食事)し、それは介之推のためだという。そもそも介之推は、晋の下級士人で、卓越した徳を持っているわけでもない。伍子胥は真っ正直な精神を持ちながら水に沈んだが、呉人は水を絶つようなことをしてはいない。ところが、介之推についてのみ寒食をするとは、なんと偏っていることよ。また、廃止したら雹雪の災いを引き寄せるから、寒食しないではいられない、と言うものがある。だが、昔にもこのようなことがあった。漢の武帝の時、都で馬の頭ほどの大きな雹が降ったのだ(『漢書』巻27中之下「五行志中之下」に記す元封三年十二月の出来事)。それならむしろ何もせず寒食しない方がよくないか。そもそも北方の凍てつく土地で、老人や幼児、身体の弱い者たちは寒食に耐えられない心配がある。令書が到着したら、民はいっさい寒食してはならない。もし違反した場合は、家長は半歳の刑、主吏は百日の刑、令長は一月の減俸とする。
『藝文類聚』巻4、『初学記』巻4、『太平御覧』巻30にも、この一部が引かれています。
常識に縛られず、北方地域における寒食を廃止せよと命じた令なのですが、
その語り口や刑の中身がかなり強引です。
強引に、民から苦しみを取り去ろうとしているところ、惹かれます。
優しい口調で民をだまし、絞り上げるのとは正反対のことをしているのですね。
曹操は、あざといだけの人だったのではないのではないかと思わされる逸話です。
それではまた。
2019年11月7日
*梁・宗懍原著、守屋美都雄訳注、布目潮渢・中村裕一補訂『荊楚歳時記』(平凡社・東洋文庫、1978年)、中村裕一『中国古代の年中行事 第一冊 春』(汲古書院、2009年)を参照。
新しく知ることの愉しみ
先週、公開講座で曹植と父曹操との関係についてお話ししました。
熱心に耳を傾けてくださる方々に勇気づけられ、毎年楽しみにしている講座です。
ただ、今年は少し自分の問題意識に引き付け過ぎました。
講座の前や後に、ご自身で本を買って読んだり調べたりする方々もいらっしゃる、
だから、この方面を概括するようなものを紹介すればよかった、と後から気づきました。
来年度も曹植の文学を取り上げるつもりなので、次の機会には、
吉川幸次郎の「三国志実録 曹氏父子伝」「同 曹植兄弟」を紹介しようと思います。
いずれも『吉川幸次郎全集7』(筑摩書房、1968年)所収です。*
吉川幸次郎がこれらを執筆していた頃と今とを比べると、
私たちの置かれた研究環境がどれほど便利で快適であるかが痛感されます。
この大先学が行論中しばしば渇望される工具書や、佚文をも網羅した文献集成の類が、
今はほとんど誰の手にも届くかたちで公開されているのですから。
だから、私たちは氏の所論を乗り越えていけるはずだし、
おそらく氏もそれを望んでいらっしゃるのではないでしょうか。
また、公開講座のような場においても、
大学者の書いた本を踏襲してのお話ばかりでなく、
至らぬ研究者ががんばって考察した成果もまた歓迎されると感じています。
公開講座においでになったある方がこうおっしゃいました。
新しく何かを知ることが、何よりも生きていくためのエネルギーになるのだ、と。
この言葉に非常に勇気づけられました。
それではまた。
2019年11月6日
*初出は、「曹氏父子伝」が1956年1~12月『世界』、「曹植兄弟」が1958年1~12月『新潮』に全6回で掲載。後に単行本『三国志実録』として、筑摩書房から1962年に出版され、現在も古書店で入手可能なようです。