明帝を戒めた天災

曹植の「惟漢行」(『楽府詩集』巻27)は、次のような句を含んでいます。
全20句のうち、第7句から第10句までです。

行仁章以瑞  君主が仁政を行えば、天は瑞祥によってそれを顕彰し、
変故誡驕盈  天変地異によって、君主の驕慢を戒める。
神高而聴卑  天の神は高い位置にありながら下々の者たちの声に耳を傾け、
報若響応声  それに応報するさまは、響きが声に応じるかのようだ。

為政者は天子(天帝の子)であって、
人間世界の良し悪しは天帝の知るところとなり、
それに対する応報は、天候の良し悪しとなって現れるという考え方。
これは、中国古典の世界では普遍的にある発想です。

ですが、これにまさしく符合する出来事が実際にあったことを、
曹海東注譯・蕭麗華校閲『新譯曹子建集』(三民書局、2003年)に教えられました。

『三国志』巻25「楊阜伝」に引くその上書に、
先ごろ、突発的な大雨と異常な雷電で、鳥雀が多数死んだこと、
天地神明は為政者を子とみなし、政に不適切なことがあれば天災で譴責するのだ、
ということが述べられている。

そして、楊阜が上書した出来事が起こったのは、
『宋書』巻30「五行志一」の記事から、明帝の太和元年(227)秋であることが知られる。

このようなことに基づき、曹海東氏は、曹植「惟漢行」の成立を太和元年と推定しています。

耳を傾けるべき指摘、忘れないように記しておきます。

それではまた。

2020年1月23日

語られる言葉の揺れ

曹植「鼙舞歌・霊芝篇」には、様々な孝行息子たちが登場します。

頑迷な父、口やかましい母に孝養を尽くした虞舜。
親の前で幼児のごとく振る舞い、母の笞が痛くなくなったといって泣く伯瑜。
亡き親をかたどった木人に仕え、これを凌辱した隣人を殺して処刑されようというとき、
木人が涙を流すという超常現象が生じて罪を免れた丁蘭。
父の葬式を出すためにこしらえた借金に苦しんでいたところを、天の織女に救われた董永。

さて、曹植が詠ずるこうした孝子の物語には、
現存する文献に記されたそれとは少しく異なっている部分があります。

まず伯瑜について。
彼が、母の笞に痛みを感じなくなり、親の老いを悟って泣いたことは、
たとえば『説苑』建本篇に記されたところとよく重なります。
ですが、七十歳にして幼児のようななりで親を楽しませたというエピソードは、
師覚授『孝子伝』(『太平御覧』巻413)などでは、老莱子のこととして記されています。

また董永の借金苦について。
曹植の歌では、「責家填門至(借金取りが家にたくさん押し掛けた)」とありますが、
劉向『孝子図』(『太平御覧』巻411)などでは、彼に金銭を貸したのは雇い主ひとりであり、
しかも、彼は孝行者の董永に対して非常に好意的な人物として描かれています。

一方、虞舜の故事については、『尚書』堯典に記されたところが丁寧に踏襲されています。
また、詩歌の後半に見える「蓼莪」(『詩経』小雅)や「凱風」(同邶風)は、
その詩の趣旨をきちんと踏まえた上での援用が為されています。

曹植はこのように、古典に対する確かな教養を身に付けていた人です。
すると、上記の2件を、曹植の記憶違いと言い切ってよいものか、ためらいが生じます。

曹植の詠ずる孝子物語が、現存する文献と食い違っていることをどう捉えるか。

まず、こうした物語は、口承文芸として複数のバージョンが出回っていたでしょう。
そのうちのひとつを取り上げて、曹植は「鼙舞歌・霊芝篇」に詠じた。
そして、各種の孝子伝類の著者たちもまた、たまたま自身の耳に入った物語を書き留め、
それらの孝子伝のうちのいくつかが、たまたま現在にまで伝わった。
だから、曹植の詠ずるところと伝存する文献に記すところとの間に間々違いが見られるのだ。
と、このように捉えてはどうでしょうか。

そういえば、「二桃殺三士」の故事についても、
曹植の「古冶子等賛」と『晏子春秋』の記事との間には小さな食い違いがありました。
「霊芝篇」に詠われた伯瑜や董永と、同様に見ることができると思います。

それではまた。

2020年1月22日

文学者の人生と作品

六朝末、梁代の文学評論集、劉勰『文心雕龍』の才略篇には、
曹丕・曹植兄弟の優劣や持ち味の違いについて、次のような論及が見えています。*
今、その内容をかいつまんで示します。

曹丕はなかなかの才能の持ち主であるのに、昔から曹植には遠く及ばないとされてきた。
とはいえ、二人は異なる個性を持っているのであって、曹丕もまた凡庸ではない。
ただ、世俗の毀誉褒貶は、とかく付和雷同するものであって、
曹丕は、地位が高かったことを理由に、その才能への評価が低められ、
曹植は、不遇であったという理由で、その文学的評価が高められることとなった。
これは、行き届いた精確な評価であるとは言えない。

興味深いのは、ここで疑問視されている“世俗の毀誉褒貶”(原文では「俗情抑揚」)です。

まず、不遇な者に肩入れする判官びいきを、自分もしていないか検証すべきだということ。
そしてもう一つ、ここに劉勰が述べていることを契機として考えたいと思ったのが、
文学者の人生にかかる負荷とその作品の完成度との関係についてです。

社会的に不遇な文学者は、必ずその作品が光り輝くというわけではもちろんありません。
ですが、後世にまで残る作品は、どういうわけか不遇な人の手になるものが多い。
これは、現実参加を旨とする中国文学ならではの現象なのでしょうか。
それとも、広範な社会に認められる普遍の法則なのでしょうか。
劉勰はそれを「俗情」の付和雷同と断じているのですが、本当にそう言えるかどうか。

それではまた。

2020年1月21日

*興膳宏『詩品(中国文明選13・文学論集)』(朝日新聞社、1972年)p.144から教示を受けた。また、『文心雕龍』の読解に当たっては、同氏による訳注(一海知義・興膳宏『陶淵明 文心雕龍(世界古典文学全集)』筑摩書房、1968年)を参考にした。

古典的評論からの啓発

曹氏兄弟が創作活動を行った、後漢末の建安年間から魏王朝成立後にかけての時代、
古詩や古楽府(漢代の詠み人知らずの詩歌)を踏まえる詩作は、
当時の詩人であれば誰もが行っていたことです。
だから、いきおい表現は似てくる。

それでも、曹植の文学的力量は群を抜いていたと見てよいのだろうと思います。

漢魏六朝の詩人たちを、上中下に格付けして批評する鍾嶸『詩品』は、
曹植を上品に置き、「粲として今古に溢れ、卓爾として群れず」と高く評価しています。
そして、その詩風の源は『詩経』の国風から派生すると記しているのですが、
このように『詩経』から直接流れ出ると位置づけられているのは、
漢代詠み人知らずの古詩と、この曹植のみです。

他方、同じ『詩品』において、曹丕の詩は中品に置かれ、
李陵の詩に来源し、王粲のスタイルにも影響を受けたものと記されています。
『詩品』上品に、李陵の詩は『楚辞』から、王粲の詩は李陵から派生すると評していますから、
曹丕の詩は、『楚辞』系の優れた作品の亜流のような位置にあると言えるでしょう。

ここに、『詩経』の直系と評された曹植との落差が歴然として見えます。

とはいえ、鍾嶸は今から約千五百年前、六朝末、梁代の人です。
彼は、当世にはびこる軽薄な詩風への反発から『詩品』を執筆したといいます。*
だから、『詩品』の評価を絶対視することはできません。
それでも、今はもう見ることのできない作品にも触れての評価であることは貴重です。

古典的詩評からの啓発を大いに受けながら、
自分なりの方法で、曹植作品の文学的価値を明らかにしたいと思います。

それではまた。

2020年1月20日

*興膳宏『詩品(中国文明選13・文学論集)』(朝日新聞社、1972年)の解題を参照。

詩人の言葉の肌触り

このところ、曹丕の悪行をずいぶん書き立ててきましたが、
元来この人は、ただ器が小さいというだけだったのだろうと思います。
そんな小人物が、人の上に立つことになったのが魏王朝の不幸のひとつだったと言えるでしょう。
このことを付記しておこうと思ったら、もうすでにそうした趣旨のことを書いていました。
螺旋を描くことができなくて、同じところをぐるぐるしているこの頃です。

曹丕の詩歌には、人口に膾炙する既存の言葉が散見します。
たとえば、『文選』巻27所収の「燕歌行」など、その顕著なものでしょう。
なにかこう、自身の中に言葉を紡ぎあげる統合力のようなものが強く働いていない。
だから、手垢のついた言葉の切り貼りになってしまっているのですね。
(偉そうに人の評価などして恥ずかしい限りですが。)

岡村繁「建安文壇への視角」(『中国中世文学研究』第5号、1966年)は、
曹丕の手紙文の中に、時としてその文章力の底を露呈させる拙さが見えることを指摘しています。

私にはまだ、作品の言葉の肌触りから何かをつかむことができるほどの力がありません。
ある時、岡村先生は、西晋の陸機の詩文は非常に美しいのだとおっしゃった。
自分もいつか、それが本当に感じ取れるようになりたいと希求しつつ、未だ果たせていません。

それではまた。

2020年1月17日

恩人を祭った曹操

昨日の補足です。

曹丕に認められなかった曹植「請祭先王表」、
曹植が願ったのは、あくまでも先の魏王曹操に対する孝敬と親愛の情に発する祭祀であって、
国や家の宗廟祭祀を執り行いたいと言っているわけではないでしょう。

個人的な心情から物故者を祭る例はいくらでもあります。

たとえば、建安7年(202)、曹操は橋玄を睢陽に祭りました。(『三国志』巻1「武帝紀」)
橋玄はかつて、若き無名の曹操の才能をいち早く見抜いた人物です。(同裴松之注に引く『魏書』)
この恩人に報いるべく、曹操は使者を派遣し、大牢の犠牲を捧げて祀ったのです。
そして、自ら祀文を作り、橋玄との思い出と感謝の念を綴っています。(同裴注引『褒賞令』)

この他、曹操は建安2年(197)、張繍との戦いで没した将士たちを淯水のほとりで祀っています。
(同上『魏書』)

また、曹操は、建安21年(216)、宗廟に漢中征伐の報告をする際、
伝統的な作法にこだわる必要はないとの趣旨の令を発布しています。(同上『魏書』)

そのような父に衷心から共鳴する曹植であればこそ、上述の願い出も為されたに違いありません。

なお、曹丕が皇帝として先の武帝を祭ったのは、黄初2年(221)6月のことでした。
都の宗廟が未完成であったため、洛陽の建始殿で、家人の礼のごとく祭ったと記録されています。*
(同巻2「文帝紀」裴松之注に引く『魏書』)

それではまた。

2020年1月16日

*魏王朝の宗廟が始めて成ったのは、『三国志』巻3「明帝紀」に、太和3年(229)11月のことと記す。なお、同裴松之注によると、天子としての七廟の制度(『礼記』王制篇)が定められたのは、更にその後の景初元年(237)であった。(2020.01.17追記)

凡庸な統治者

昨日の続きです。

父曹操を祭りたいと申し出た曹植に対して、曹丕はこれを許しませんでした。
その根拠は、礼の決まりごとを示す博士たちの上奏文です。

曹丕のこの判断は、本当に統治者としての公正さに発するものであったのか。
こう疑問に感じざるを得ないのは、同時期の彼に次のような言動が残っているからです。

『三国志』巻2「文帝紀」によると、
曹操の没後(220年1月)すぐに魏王となった曹丕は、同年6月、南方へ出征し、
7月、軍は譙(曹氏の出身地)に駐屯し、土地の人々も招いて大宴会を開いています。

その裴松之注に引く『魏書』によると、
宴席には伎楽百戯が設けられ、譙の租税を二年間免ずる令が発布されたといいます。
(生まれ故郷を特別扱いするのは為政者としてどうなのでしょう。)

同裴松之注に引く孫盛(歴史書『魏氏春秋』の著者)の批評では、
父曹操の服喪期間であるにも関わらず宴席を設け、
また、禅譲を受けるや漢帝の娘を後宮に納れた曹丕の行動を取り上げて、
ここに曹魏王朝の短命であった理由があるとしています。

もし、為政者として、礼制度を厳正に執り行おうというならば、
このような行いに出ることはないはずでしょう。

さて、この年の暮れ、曹丕が漢王朝から禅譲を受けたとき、
曹植は、父曹操の思いに応えられなかった自分の不甲斐なさを思って哭したといいます。
ところが、曹丕は後日このことを思い出して左右の者にこう言いました。
「人の心は同じでないものだ。私が皇位に登った時、天下に哭する者がいた。」
(同巻16「蘇則伝」裴松之注に引く『魏略』)

曹植が哭した理由を、曹丕はおそらく取り違えています。

こうしたエピソードからも、
曹丕が曹植の「請祭先王表」を承認しなかった真の理由は、
礼制の堅守とは別のところにあったのではないかと感じられてなりません。

それではまた。

2020年1月15日

似非学者

昨日紹介した曹植「請祭先王表」は、『太平御覧』巻526に引かれています。
そして、そこでは、曹植の上表文に続けて、ことの顛末が次のように記されています。

博士鹿優韓蓋等以為礼公子不得禰先君、公子之子不得祖諸侯、謂不得立其廟而祭之也。礼又曰、庶子不得祭宗。
詔曰、得月二十八日表、知侯推情、欲祭先王於河上。覧省上下、悲傷感切、将欲遣礼以紓侯敬恭之意、会博士鹿優等奏礼如此。故写以下。開国承家、顧迫礼制、惟侯存心、与吾同之。

博士の鹿優・韓蓋等は次のように考えた。礼に、公子は先君を禰(父のみたまや)とすることはできないし、公子の子は諸侯を祖とすることはできない、とあるが、これは、その廟を立てて祭ることはできないという意味である。礼にはまた、庶子(非嫡子)は宗廟を祭ることはできない、ともある。
文帝の詔に曰わく、「月二十八日の表を落手して、侯(臨菑侯である曹植)が推情(?)して、先王を河上に祭りたいと願っていることがわかった。上表を最初から最後まで仔細に読むと、悲傷の思いが切々と迫ってきて、いざ贈り物を送って侯の敬恭の思いを緩和しようとした矢先、ちょうど博士の鹿優等が、礼ではこうなっていると上奏してきた。だから、以下のとおり書す。国を開き家を継いだ者は、礼の制度を厳正に守らねばならない。ただ、侯が心に念じていることは、自分もこれを共有している」と。

魏王として遵守すべき礼制において、曹植の立場で父を祭ることは禁じられている、
だから、その申し出を許すわけにはいかない、と。これは、一見まっとうな判断のように思われます。
ですが、なにか胡散臭さを感じる、それにはいくつかの理由があります。

まず、博士らの提示した「礼」というものの信憑性です。

彼らが根拠にした一つ目の「礼」は、『儀礼』喪服にいう次の部分からの引用です。

諸侯之子、称公子。公子不得禰先君。
公子之子、称公孫。公孫不得祖諸侯。
諸侯の子は、公子と称す。公子は先君を禰とするを得ず。
公子の子は、公孫と称す。公孫は諸侯を祖とするを得ず。

先の博士らは、これを不自然なかたちで切り取って提示していました。
そもそも、曹植は曹丕の弟、曹操の子であって、魏国の諸侯の子ではありません。*

「又曰」として引かれた「礼」は、『礼記』喪服小記の次の部分が最も近いでしょう。

庶子不祭祖者、明其宗也。
庶子が祖を祭らざるは、その宗を明らかにするなり。

ですが、この前の部分には、
諸侯の庶子(非嫡子)で後世に始祖となった者を「祖」といい、
その「祖」を引き継いでゆく者のことを「宗」という旨が記されています。
更にその前には、庶子が王となった場合のことについての記述が見えています。

鹿優らは、曹植が父曹操を祭ることは礼制に照らして不可であることを言うために、
上記の『儀礼』や『礼記』を引用しているのだと思われますが、
判断内容の根拠とするには文脈がずれています。

そんな博士の言うことを、待ってましたとばかりに聞き入れる曹丕。
むしろ博士らは、曹丕の心中を忖度して上奏したかとさえ勘繰ってしまいます。

なお、博士の鹿優や韓蓋は、『三国志』にその名が見えません。
当代一流の儒学者というには足りない人々のようです。

それではまた。

2020年1月14日

*厳密にいえば、当時はまだ後漢王朝が存続しているので、魏王国は諸侯という位置づけになるのかもしれない。すると、曹操が「諸侯」だとして、その子である曹丕も曹植も、「諸侯之子」すなわち「公子」であって、「先君を禰するを得ず」となる。(2020.01.17追記)

亡き父への思い

曹操が亡くなった220年(建安25年、延康元年、黄初元年)、
父の後を継いで魏王となった曹丕に向けて、曹植は次のような上表を奉っています。
『曹集詮評』巻7所収「請祭先王表(先王を祭らんことを請ふ表)」です。
少し長くなりますが、全文を紹介します。

臣雖比拝表、自計違遠以来、有踰旬日、垂竟夏節方到、臣悲感有念。
先王公以夏至日終、是以家俗不以夏日祭、至於先王、自可以令辰告祠。
臣雖卑鄙、実禀体於先王。
自臣雖貧窶、蒙陛下厚賜、足供太牢之具。
臣欲祭先王於北河之上。
羊豬牛臣自能辦、杏者臣県自有。
先王喜食鰒魚、臣前以表、得徐州臧覇鰒二百枚、足以供事。
乞請水瓜五枚、白柰二十枚。
計先王崩来、未能半歳。臣実欲告敬、且欲復尽哀。

わたくしは先ごろ上表いたしましたとはいえ、自分で計算してみしたところ、上表文が手を離れてから、もう十日を過ぎ、ついに夏が到来する季節になろうとしておりまして、わたくしは悲しみのあまりこのことが思われてなりません。
先の王公(曹操の父、曹嵩)は夏至の日に逝去されたので、このため我が家の習慣として夏には先祖を祭りませんが、先の王(曹操)に至って、ご自身で良き時を選んで祭祀を執り行うことを可とされました。
わたくしは卑しい田舎者ではありますが、実に先王から身体を受け継いだ人間です。
わたくしは貧しいとはいえ、陛下から手厚い下賜を蒙りましたおかげで、お供え物は十分にございます。
わたくしは先王を黄河の北のほとりでお祭りしたいと存じます。
羊・豚・牛はわたくしが自分で用意できますし、アンズはわたくしの県にございます。
先王はアワビがお好きでいらっしゃいましたが、わたくしは先に上表により、徐州の臧覇からアワビ二百枚を手に入れましたので、十分お供えすることができます。
どうか水瓜五枚と白柰(ナシ)二十枚をお恵みくださいますようお願い申し上げます。
数えてみれば、先王の崩御から、まだ半年も経っておりません。わたくしは心から父に対する敬愛の気持ちを告げ、また哀悼の意を尽くしたく存じます。

供物の内容が極めて具体的に示されているところに、
曹植の亡き父をお祭りしたいという気持ちの強さが切々とうかがえます。

また、魏王曹丕に対する謝意も示されています。
ですが、この上表は曹丕に許可されることはありませんでした。

その理由については、また明日に。

2020年1月13日

兄への貢ぎ物

曹植は、兄の文帝曹丕にいくつかの貢ぎ物をしています。
『曹集詮評』巻7所収「献文帝馬表」「上先帝賜鎧表」「上銀鞍表」からこのことが知られます。
そこに日付は記されていませんが、後ほど引用する上表の文面から、
曹丕が文帝として在位した黄初年間(220―226)の献上と見て間違いないでしょう。*1

以下に、上記の三篇を紹介します。

「献文帝馬表(文帝に馬を献ずるの表)」(『藝文類聚』巻93)

臣於先武皇帝世、得大宛紫騂馬一匹。形法応図、善持頭尾。
教令習拝、今輒已能。又能行与鼓節相応。謹以表奉献。
わたしは先の武皇帝の時代に、大宛の赤馬一匹を手に入れました。
肉や骨格の脈は絵図に示された名馬さながらで、頭や尾はすばらしい均衡を保っています。

教化してお辞儀を習わせたところ、今はすっかりできるようになりました。
また、太鼓のリズムに合わせて歩むこともできます。
謹んでこれを献上することを表します。

「上先帝賜鎧表(先帝の賜りし鎧を上るの表)」(『太平御覧』巻356)

先帝賜臣鎧、黒光明光各一領、両当鎧一領、環鎖鎧一領、馬鎧一領。
今代以昇平、兵革無事。乞悉以付鎧曹。
先帝がわたしに下された鎧の黒光と明光の各一領、裲襠の鎧一領、環鎖の鎧一領、馬の鎧一領。
今は天下泰平で、戦争もない時代です。
何卒これらをすべて、鎧を管轄する部署に納めさせてください。

「上銀鞍表(銀の鞍を上るの表)」(『初学記』巻22)

於先武皇帝世、効此銀鞍一具。初不敢乗、謹奉上。*2
先の武帝の御代に、この銀の鞍一具を授けられました。
もったいなくて一度も乗っておりません。これを謹んで献上いたします。

名馬に鎧に銀の鞍。
これらはすべて、曹丕・曹植の父である武帝曹操から下賜されたものです。
そして、これを所有していると、何かと嫌疑をかけられる可能性を持つものばかりです。

上文にいう「今の代は昇平なるを以て、兵革事無し」という語が物語るように、
曹植は、これらの宝物を文帝曹丕に差し出すことによって、
反乱など起こすつもりはないことを示し、以て我が身を守ろうとしたのかもしれません。
先に言及した、曹植の異母弟、曹袞の慎み深さに通じるものを感じます。

ただ、曹植は“先の皇帝”と連呼して大丈夫だったのでしょうか。
宝物の献上も、かえって兄の地雷を踏むことになったかもしれないと思わされます。
皇帝としての力量においても、父から受けた愛情においても、
曹丕はおそらく、コンプレックスのかたまりだったと想像されますから。

それではまた。

2020年1月11日

*1 趙幼文『曹植集校注』(人民出版社、1984年)、徐公持『曹植年譜考証(中国社会科学院老年学者文庫)』(社会科学文献出版社、2016年)もこの年代の作と見ている。

*2「効」字、『初学記』は「勅」に作る。おそらくは字形の類似による誤り。今、『太平御覧』巻358に拠って改める。

1 66 67 68 69 70 71 72 73 74 83