深さと普遍

先週末には、自分に呪いをかけるようなことを書いてしまいました。
私は中国古典文学の存続に危機意識を持ってはいますが、絶望はしておりません。
絶望の虚妄なること、まさに希望と相同じ、です。

自分が触れたことのない仕事に携わっている人の奥義を聞くのが大好きです。
世の中にこんな仕事があったのか、と驚くばかりでなくて、
ある世界を真摯に生きている人だからこそ感得することができる境地、
それを語る言葉は例外なく面白く、またそれはすべての分野に通じるものがあると感じます。

自分も、そのような面白さに自身の手で触れたい。

それを、身近な学生たちがどう思うかはまた別問題です。
わかってもらわなくて結構、などと高飛車、あるいは拗ねているのではなく、
ぎりぎりまで言葉を尽くして説明したら、あとはもう相手にゆだねるしかないということです。

さて、3月19日、六朝学術学会の例会で研究発表をすることになりました。
詳細はこちらをご覧ください。概要もこちらにございます。

それではまた。

2020年2月10日

 

中国古典文学は生き残れるのか

昨日は、卒業論文の口頭試問で、8名の副査を務めました。
(今年は、主査つまり卒論の指導をした学生はいなかったので、すべて副査です。)

社会科学的研究が古典文学研究とは異質であることはもとより承知していますが、
今年は特に、日本の現代文学と自身との乖離の大きさに驚き、足元がぐらつくようでした。
近い時代でも、昭和文学なら一読者として好きな作家も何人かいるのですが、
ごく最近の若い作家たちの作品となるとどうにも入っていけません。

こちらが、相手を理解したと言えるところまで辿り着けないということは、
先方もこちらのことを、わけがわからないと感じているでしょう。

道理で、学生たちに、白居易と元稹との応酬詩にあまり興味を持ってもらえないはずです。
他方、志怪小説にはかなりの吸引力があると感じる、そのわけも腑に落ちました。

中国の古典文学は、これから先、日本の人々の中で生き残っていけるのでしょうか。

自分が身を置いているのは、様々な分野と地域が同居する国際文化学科です。
現代社会の縮図のようなこの学科で、自分なりにがんばってきたつもりではあるけれど、
卒論で学生さんたちに選んでもらえない現実は非常にこたえます。

とはいえ、授業をしている中での手ごたえは、それほど悪くはないのです。
絶滅が危惧される珍種の動物を見ているような感じでしょうか。

考察の最先端をライブで示していくことは、
たとえ研究者を養成するのではない本学科のようなところでも、あってよいと感じています。
(もちろん学会発表のようなものを生のかたちで出すことはしませんが。)
そのわくわく感を水で薄めることなく、もともと無関心だった人々をも振り向かせる、

そんな大それた野心をもってやってきましたが、いつまで気力が続くか。

それではまた。

2020年2月7日

東晋時代の「清商三調」

西晋の宮廷歌曲群「清商三調」は、
永嘉の乱(311)で王朝が瓦解し、宮廷楽団が離散して以降、
417年、劉裕(劉宋の武帝)が後秦を滅ぼして魏晋の音楽を奪還するまで、
その楽曲を演奏する楽人たちの多くは、北方の異民族王朝に身を置いていました。*

とはいえ、魏晋の楽をよくする人々の全員が、こうした閲歴をたどったわけではありません。
楽人ではありませんが、「清商三調」を達者に演奏する人は、
東晋時代、北来の貴族(西晋王朝が滅亡して南下してきた)の中にもいました。

たとえば、先日来話題にしている「怨歌行・為君」は、
孝武帝(司馬曜)と謝安の面前で、桓伊が笛を伴い筝を奏でつつ歌っています。
(『世説新語』任誕篇劉孝標注に引く『続晋陽秋』、『晋書』巻81「桓宣伝付桓伊伝」)

そして、前掲『世説新語』の本文、及び前掲『晋書』本伝の前には、
王徽之に呼び止められた桓伊が、笛で「三調」を演奏したという記事が見えています。

考えてみれば当たり前のことなのかもしれませんが、
『隋書』音楽志、『魏書』楽志、『通典』楽典、『旧唐書』音楽志などを見ていただけでは、
自分にはこうした小さな事実を知ることはできなかったと思いました。

桓伊の歌った「怨歌行」の歌辞が上記の『晋書』本伝に記されていることを、
私は『北堂書鈔』巻29の孔広陶の校註によって知り得ました。

それではまた。

2020年2月6日

*拙著『漢代五言詩歌史の研究』(著書4)p.299~300、315を参照されたい。

重ねて昨日への追補

作者が曹植か古辞かで揺れている楽府詩として昨日挙げた「怨歌行」と「君子行」。
両詩歌には、周公旦への言及が認められるという共通点があります。

周の文王の息子、武王の弟であり、武王の跡を継いだ成王を補佐した周公旦は、
魏の武帝曹操の息子、文帝曹丕の弟であり、曹丕の跡を継いだ明帝の代まで生きた曹植と、
その王朝との血縁関係において強い共通性を持っていることは一昨日にも述べました。

実際、曹植の作品の中には、周公旦の事蹟に触れるものが少なくありません。
たとえば、「豫章行」二首(『藝文類聚』巻41、『楽府詩集』巻34)、
また、「求通親親表(親親を通ぜんことを求むる表)」(『文選』巻37)など。
このことは、彼自身がこの古人に対して強い関心を寄せていたことを物語っています。

とすると、逆に、元来が詠み人知らずの歌辞であっても、
周公旦への言及があるということから、曹植に結び付けられたケースもあったと想像されます。

ところで、西晋王朝の宮廷歌曲「清商三調」(『宋書』巻21・楽志三)の中に、
曹植の「七哀詩」(『文選』巻23)に基づく、楚調「怨詩行・明月」がありますが、
その末尾の第七解は、先日来話題にしている「怨歌行」の結び四句をそっくり取り込んだものです。

取り込まれた部分は、宴会歌謡に常套的な言葉を並べたに過ぎないものと見えます。
ですが、「怨歌行」の中核を占めるのは、周公旦の成王輔佐をめぐる出来事を詠ずるものです。
それならば、楚調「怨詩行・明月」には、「怨歌行・為君」の主題も重ねられている、
と見ることもできるかもしれません。

「清商三調」は、西晋の荀勗が旧歌辞から選んで宮廷歌曲に適用したものだ、
と『宋書』楽志には記されています。
楚調「怨詩行・明月」も、荀勗によってアレンジされた作品である可能性が高いでしょう。

他方、同じ荀勗が「怨歌行・為君」を古辞としていたことは昨日述べたとおりです。

こうしてみると、荀勗は古辞「怨歌行」を、曹植の境遇をよく象徴する内容の歌辞と見て、
曹植を追悼する「怨詩行・明月」*に取り込んだと考えることが許されるでしょう。

それではまた。

2020年2月5日

こちらの学術論文43をご参照いただければ幸いです。

昨日の追補

昨日、「怨歌行」は曹植の作と見るのが最も妥当と述べましたが、
詩の全文を収録する文献がいずれも曹植作としているから、では論証になっていませんね。

曹植に近い時代、西晋の荀勗が「古為君(古辞の“為君”の歌)」としていることには、
一定の注意を払う必要があると思いなおしました。

また、昨日紹介した『楽府詩集』巻41に引く『楽府解題』を改めて示せば次のとおりです。

古詞云「為君既不易、為臣良独難。」
言周公推心輔政、二叔流言、致有雷雨伐木之変。
(以下は、梁の簡文帝の作品などに話題が移るので省略する。)

「怨歌行」の古辞に「君たるは既に易からず、臣たるは良(まこと)に独り難し。」とあるが、
これは、周公旦が誠心誠意、成王を輔政したのに、管叔・蔡叔が根も葉もないうわさを流し、
ついに雷雨が樹木をなぎ倒すという天変が起こった、という趣旨である。

ここに紹介されている「古詞」は、その概要から見て、
『藝文類聚』や『楽府詩集』が曹植作として採録する「怨歌行」に同じと判断されます。
つまり、『楽府解題』は「怨歌行」の全文をとらえて古辞としているのであって、
この点、初めに述べた昨日の推定結論とは相容れないのです。

ただし、『楽府解題』という書物の信憑性については疑問符が付きます。
このことは、かつて中津濱渉氏の論著*を手引きとして調べ、指摘したところです。
(こちらの学術論文17、及び著書4の特にp.299~304をご参照ください。)

さて、仮にもしこの「怨歌行」が曹植の作だとして、
それを、近い時代の人々からして既に古辞と見ていたのはどういうわけでしょうか。

ひとつには、曹植の楽府詩の中には、
世間に流布する諺語をそのまま取り込んだものが少なくないことが挙げられるでしょう。
たとえば、以前取り上げた「当牆欲高行」にいう「衆口可以鑠金」など、
その顕著な例だと言えます。

また、「怨歌行」と同じく、作者が曹植と古辞との間で揺れているものとして、
「君子行」(『楽府詩集』巻32では古辞、『藝文類聚』巻41では曹植の作)も挙げられます。

結局、よくわかりませんでした。
「怨歌行」は曹植の作である可能性が高い、と言うところまでがやっとです。
(表現の特徴から推定することもできるかもしれませんが、今は措いておきます。)

言った先からもう追補。しかも結論は相変わらず見えないまま。
とはいえ、言葉にすれば、ほころびが見え、更にそこから先へころがっていけますから。

それではまた。

2020年2月4日

*中津濱渉『楽府詩集の研究』(汲古書院、1970年)の「引用書考」p.583~585。

楽府詩「怨歌行」の作者

為君既不易  君主であることはもちろん容易くないが、
為臣良独難  臣下であることは実にひとえに困難なことである。

このように歌い起こす曹植の「怨歌行」は、
周公旦の成王輔佐を例に、臣下として誠意を通すことの困難を詠じています。

周公旦については、以前こちらでも触れましたが
この人物と曹植との間には、その境遇に似通ったところがあります。*1
ですから、この作品を通して、曹植その人に一歩近づけるのではないかと期待できます。

ところが、この楽府詩の作者については、古来さまざまな説があって、
この問題を抜きにしては先へ進むことができません。*2
そこで、いずれの説がより妥当なのか、改めて検討してみました。

この「怨歌行」を曹植の作とするのは、『藝文類聚』巻41、『楽府詩集』巻42です。
(これらの資料の信憑性については過日触れたところです。)
両文献とも、その全22句を採録しています。

これを「魏文帝詩」とするのは『北堂書鈔』巻29で、引用は冒頭の2句のみです。
また、『太平御覧』巻621は「古詩」として同じ2句を引いています。

他方、『楽府詩集』巻41「怨詩行」に引かれた諸文献では、
『古今楽録』に引く王僧虔「技録」に「荀録に載せる所の古「為君」一篇、今は伝わらず」、
『楽府解題』に「古詞に云ふ「為君既不易、為臣良独難」は、周公は推心輔政するも、二叔は流言し、雷雨伐木の変有るを致すを言ふ……」といい、
これらの文献では作者不明の古辞となっています。*3

前掲の「怨歌行」冒頭の二句は、『論語』子路篇に引かれた「人の言」、
「為君難、為臣不易(君為ること難く、臣為ること易からず)」を踏まえていますから、
もしかしたら、この部分のみ、諺的フレーズとして流布していた可能性もあります。

こうしてみると、「怨歌行」の全文を引く古い文献は曹植の作とし、
冒頭の二句のみを引く文献は、曹植以外の作者としている。
以上から、「怨歌行」の作者は、曹植と見ることが最も妥当だと言ってよいでしょう。

なお、明代の『古詩紀』が、上記の「技録」等に従って古辞とすることは措いておきます。

それではまた。

2020年2月3日

*1 矢田博士「境遇類似による希望と絶望―曹植における周公旦及び屈原の意味」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』別冊文学・芸術学編19、1993)を複写依頼中。
*2 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.172~173に論及があるが、決定的な論拠が示されているわけではない。
*3 楽府詩に関する諸文献の成立年代などについては、こちらの資料「楽府関係年表」を参照されたい。

※「怨歌行・為君」の作者については、曹道衡「論『文選』中楽府詩的幾個問題」(『国学研究』第3巻、1995年)に論及がありました。曹道衡氏の所論では、この楽府詩を曹植の作とすることに懐疑的です。(2020.04.03追記)

昨日の訂正

昨日、曹植作品の現存率は意外に高いのではないかと述べたばかりなのに、
もう翌日の今日、訂正です。情けない限りです。

『曹集詮評』巻8「前録自序」(『藝文類聚』巻55では「文章序」に作る)に、こうあります。

……余少而好賦、其所尚也、雅好慷慨、所著繁多。
雖触類而作、然蕪穢者衆。故刪定別撰、為前録七十八篇。

……わたしは少年の頃から賦を好み、その尊ぶものについては、平素から好んで口にしつつ感激し、自身が著したものも大量にある。
同類の事物に触れて作ったとはいえ、雑然と乱れているものが多い。だから、余計なものを削って本文を定め、分類して編集し、前録七十八篇とした。

ここに曹植自身が記している「七十八篇」とは、現存する賦作品の二倍近い数です。
また、趙幼文『曹植集校注』(人民出版社、1984年)にも指摘するとおり、
ここに「前録」という以上、必ずや「後録」があったはずです。

趙幼文が批判的に引いていた清朝の姚振宗『隋書経籍志攷証』*では、
「魏陳思王曹植集三十巻」に対して、非常に詳細な考証が為されていました。
よく読んで、顔を洗って出直したいと思います。

それではまた。

2020年1月31日

*『二十五史補編』(中華書局、1955年)第四冊、p.5709~5710に収載。

曹植作品の現存率

昨日、現存する曹植作品は、本来の数よりもかなり少ないのだろうと述べました。
ですが、ジャンルによっては、もしかしたら曹植作品の現存率は意外と高いのかもしれません。

晁公武『郡斎読書志』に指摘があったとおり、
『三国志』本伝に記された曹植作品は、「賦・頌・詩・銘・雑論、凡そ百餘篇」です。

今、丁晏『曹集詮評』所収の作品数を数えてみると、
「賦」44篇、「頌」8篇、「詩」33篇*1、「銘」2篇、「雑論」9篇、併せて96篇です。

これは、上記「陳思王植伝」に記されたところとそれほど大きく違うものではありません。

『隋書』経籍志に記された「魏陳思王曹植集三十巻」とは、
上記本伝に記す「百餘篇」に、楽府詩、賛、表、その他の作品を加えたものなのでしょう。

現存する作品で、曹植の文学世界のすべてを把握できるとは考えられません。
ですが、六朝末に成った選集『文選』や、初唐以前に成立していた類書『藝文類聚』『北堂書鈔』、
六朝から初唐までに存在した類書をよく温存している『太平御覧』*2
また、今よりもはるかに多くの作品が残っていた北宋末に編纂された『楽府詩集』、
こうした書物に引かれた曹植作品には、一定の信頼を置いてもよいのだろうと判断できます。
そこに彼の声を聴き取ろうとすることは許されるだろうと思います。

それではまた。

2020年1月30日

*1 同じ詩題のもと、複数の詩篇がある場合は、それぞれ独立した作品として数えた。たとえば、『文選』巻29所収「雑詩」其一~其六は六篇とみなすという具合に。逆に、「贈白馬王彪」を、丁晏は七篇から成る連作詩として採録しているが、『文選』巻24に収録するところに従って、これを一篇として数えた。また、出自が不明瞭な「七歩詩」、詩題も不明な断片的詩篇は除外した。
*2 こちらに注記した勝村哲也氏の一連の論考を参照。

完全ではないという自覚

昨日触れた明版の『陳思王集』は、
現存する諸本の多くとは作品収録の排列が異なっていて、
巻1~4に賦、巻5に頌・賛などの文、巻6に表などの文、巻7に誄などの文、
巻8に楽府詩、巻9に詩、巻10に令などの文、という順番で収録されていました。

たとえば、趙幼文『曹植集校注』が底本にしたという丁晏『曹集詮評』は、
明代の程氏刻本と張溥百三家集本とを基にしているとのことですが、
この『曹集詮評』は、巻1~3が賦、巻4が詩、巻5が楽府詩、その後に文といった具合です。

先日見た『陳思王集』は、いったいどのような系統に位置するものだったのでしょうか。

また、曹植の作品集は明代にまでしか遡れないようなのですが、
それ以前の宋代、書誌学者たちがすでにこの別集の成り立ちに疑義を示しています。*

晁公武『郡斎読書志』巻17は、「曹植集十巻」を著録した上で、
『三国志』巻19「陳思王植伝」に記す「植前後所著賦頌詩銘雑論凡百餘篇」が、
今本(隋唐から巻数が減少)所収の詩文二百篇よりも少ないことを疑問視しています。

陳振孫『直斎書録解題』巻16は、著録する「陳思王集二十巻」について、
二十巻という巻数は、『旧唐書』経籍志や『新唐書』藝文志に一致しているが、
その中には『藝文類聚』『北堂書鈔』『太平御覧』などから採録したものが含まれている、
よって、本書は元来の姿ではないだろうとコメントしています。

曹植集を最初に記録する『隋書』経籍志四には「魏陳思王曹植集三十巻」とありますが、
今見ることができるものは、巻数のみで言えば、その約三分の一です。

曹植に限らず、当時の別集については不明なことばかりです。

だから彼の文学については何も言えない、とあきらめるわけではありません。
現存する作品がすべてではないということを意識する必要がある、と改めて思ったのです。

それではまた。

2020年1月29日

*興膳宏・川合康三『隋書経籍志詳攷』(汲古書院、1995年)を手引きとして調査した。

何も思いつかない日

今日は何も書くことを思いつかない日です。
そんな日はあって当たり前なのに、ちょっと物足りない、
と感じるのは、自分が相手のことを、研究対象と見ているからでしょう。
今日は何も収穫がなかった、というふうに感じているのですね。

過日、内閣文庫で明版の『陳思王集』を閲覧しましたが、
この出版者は、曹植のことを同じ世界に住むちょっと前の人くらいに思っている、
と、その序を書き写しながら感じました。

前近代の人々のコメントを見るたびに、そう感じます。
彼らと自分とは、すでに住む世界が違っている、これは厳然たる事実です。
ですが、古人を“研究対象”と見るのは、相手に失礼だし、浅薄で傲慢なことですね。
本当は理解が及んでいないものを、自分の掌中に載せたつもりでいるのですから。

ところで、東京へ行く機会があれば、
必ず国立博物館の東洋館に立ち寄ることにしています。
何か目当てがあってもなくても、様々な文物に再会するために向かいます。

古い時代の物や言葉には、すぐにはぴんと来ないものが多いです。
彼らはなかなかこちらに心を開いてはくれません。
ですが、ちょっと風変わりな隣人と思って付き合っていけば、
そのうち知り合いに、更には友人になることもできるかもしれません。

それではまた。

2020年1月28日

1 66 67 68 69 70 71 72 73 74 84