理解されないと嘆くよりも、

私は『論語』の熱心な読者ではありませんが、
それでもその中に、とても好きないくつかの言葉があります。

不患人之不己知、患己不知人也。(学而篇)
人の己を知らざるを患(うれ)へず、己の人を知らざるを患へるなり。

人にわかってもらえないことは辛い。けれど、
では、自分は誰かのことを十分に理解していると言えるのか、
感じ取れなかったたくさんのことがあるのではないか。
そう省みると気持ちがしんとなります。

かなり前、投稿した拙論に対する査読コメントに、
次のようなことが記されていました。

この部分は、本論文にとって重要なことを述べているのだろうから、
もう少し丁寧に説明をしてもらえないか。

初めてたどりついた考察結果は、本人にもうまく説明できません。
それをカッコに入れて、外側からまるごと尊重してくださったのだと思います。

このような理解の仕方があるのだと、後になって深く心に刻みました。

こちらに受容体がないばっかりに理解できない、
そうした盲点がありうるということに、せめて自覚的でいたいです。

それではまた。

2019年6月24日

 

白居易の晩年

複雑すぎる現実に背を向けて、個人の幸福を追求する、
そんな生き方について昨日述べました。

それは、主に現代の私たちのことを述べたのですが、
唐代の白居易も、そんな生き方をした人だと想起されるでしょう。

たしかに一見、そのように思えます。
ですが、この詩人(文人官僚)にはもっと複雑な面があるように思います。

白居易はその晩年、
官僚としての第一線を退き、副都洛陽で悠々自適の日々を送ります。
ちょうどこの頃の作「想東遊五十韻」(『白氏文集』巻57、2717)(著書5)に、
次のような句があります。

良辰宜酩酊  すばらしいひとときはとことん酔っぱらうがよい。
卒歳好優遊  歳月はのんびりゆったり過ごすのにもってこいだ。

一見、世俗の煩わしさから解放されたよろこびを詠じているかのように見えます。
ですが、次の古典を踏まえていることに気づき、私は愕然としました。

『春秋左氏伝』襄公二十一年に、
「詩曰、優哉游哉、聊以卒歳、知也」とあり、
これに対する杜預の注に、
「『詩』小雅。言君子優游於衰世、所以辟害、卒其寿、是亦知也」とある。

白居易は決して天下泰平を言祝いでいるのではないのですね。
「卒歳好優遊」という表現の背後に、
「衰へたる世」において「害を辟(避)ける」知性を言っているのです。

『春秋左氏伝』は、知識人たちにとって必読の書でしたから、
白居易本人はもちろんのこと、それを読んだり朗誦したりした人々も、
みな上記のことはわかっていたはずです。
(詩歌にのせて詠えば、だれもそれをとがめることはできません。)

何人かの方々がすでに論及されているように、
白居易の晩年には、半隠遁的と片付けられないところがあります。

私自身も、以前に書いた論文(学術論文33報告…等18)について、
提示した事実は事実でも、その解釈は妥当だったのか、
まだ釈然としないものを感じています。

それではまた。

2019年6月21日

自分本位ということの中に

昨日、うまく言いおおせなかったことがあります。

“現実参加の志”と、自分本位ということの関係性です。
両者は、決して二項対立ではないのです。

往々にして、上記ふたつのことは、
滅私奉公と、個人主義、というふうに言い換えて捉えられがちです。
ですが、本来それは次元の異なる別物です。

今は社会が複雑すぎて一個人の力では動かしがたい現実がある。
だから、現実に背を向けて、個人の楽しみを追求しよう、
そんなふうに生きている人が多いかもしれない。

そして、個人の楽しみを追求するのが個人主義だと、
そう思っている人も多いでしょう。

そんな現代人の目から見ると、
“現実参加の志”をもって生きた(そして多くは敗れた)古人は、
よくわからない人たちだと感じられるでしょうね。
自分たちが大切にしている個人主義からは大きく外れる人たちだ、と。

彼らも、個人主義であったと私は思います。
個人主義の対義語は、全体主義であると捉えた上で。

彼らは、自分本位で、現実参加を志向したということです。

もっとも、それは儒家思想として、
深く彼らの精神基盤に組み込まれているのではありますが。

自分本位で考え、自身を大切にすることと、
周りの人たちに何らかのかたちで寄与しようとすることとは矛盾しない。
自分本位の中に、現実参加の志が含まれている。

そう考えることは、あるいは理想論に過ぎないのかもしれません。
それでもかつてこうした人々がいたことはたしかです。

それではまた。

2019年6月20日

 

毒されていたかもしれない。

同僚の皆さんを観察していると、
(観察とは失礼、お許しください。)
研究者は、その研究対象が持つ価値観に、
多かれ少なかれ影響を受けているものだと感じます。

中国古典文学に長らく取り組んできた私にも、
自分では気づかないうちに染まっていた考え方があります。

それは、現実参加の志。
吉川幸次郎の言葉だったと思います。
自身が身を置く社会に対して、積極的に関わっていこうとする姿勢です。

私はここ十有余年、極めて真面目にこれを実践しようとしてきました。
その結果、大学が置かれた現実というものに負けた。
負けて、自分の生真面目さがよろしくなかったことに気づきました。
やっぱり人には向き不向きがあります。

先月、ふと気づいたら還暦を迎えていた私は、
これからは自分本位に生きるのだ、と気持ちを新たにしました。
かといって、以降、天然のわがままになるのかといえば、
それはたぶん違うだろうと思います。
一度は深く関わったこと、
それは自分の中に深く刻印されていくものでしょう。

中国古典を学ぶ者として自然に身についてしまった姿勢と、
現代の状況を生きていく上であらまほしき姿勢と、
交差する点はあると思います。

文学作品を通して追体験した古人の思いを、
今を生きる者として換骨奪胎すればどのようになるのか。
いわゆる研究なるものには直結しない問題ですが、
古典を学ぶ者として、こうした課題に時に思いを致しながら、
地道に、魏の曹植の作品を読んでいきます。

それではまた。

2019年6月19日

 

 

 

研究と人柄と経験と

恩師、岡村繁(私の中では“岡村先生”です)の言葉は、
その声とともに今でもよく思い出します。

あるとき、こうおっしゃった。

人に迷惑さえかけなければ何をやってもいいのや、
研究と人柄は関係ない。

先生の『陶淵明 世俗と超俗』(NHKブックス、1974年)に対して、
お前は人間がなっていないからこんな見方しかできないのだ、
と人から批難されるようなことがあったらしい。
そうしたお話の流れで出た上記の言葉だったと記憶します。

他方、こんなこともありました。

私は卒論・修論とも、
竹林の七賢の一人、魏の阮籍の文学に取り組んだのですが、
はじめての学術論文を投稿する際、
次のような内容の言葉をかけてくださいました。

隠者になってはいけない、
泥をかぶって世俗で生きていきなさい。
文学研究にはそうしたことがすべて活きてくるのだから。
阮籍は、年を取ってからもう一度やってみるとよい、
今よりももっと様々なことがわかるようになっているだろう。

文学研究は、決して対象に自己を投影するものではありません。

ですが、そこには否応なく、それを論ずる人の生きた証しがあらわれる。
それを恐れて、通り一遍のことを論じてしまうようでは、
その作品と向き合ったことにはならない。
古人の言葉に耳を傾け、何を言おうとしているのか考え抜き、
そうして現れ出てくるものは、
自分の予想を越えた姿をしているかもしれないが、
それでこそ、人に向けて差し出すに足る論文たり得るのではないか。

先生がおっしゃったのはこういうことだったのではないかと思います。

それではまた。

2019年6月18日

 

 

古典との格闘

現代の私たちにとって、古典とは何なのだろう。

山種美術館で開催中の、
速水御舟生誕125年記念特別展を見にいき、
このことを想起させられました。

初めは自分の思うように描きたいタイプの画家だったらしい。
ところが、自身の殻を脱ぎ捨てるように、作風を変容させていっている、
そこに大きく関与しているのが、古典と異国である、
ということがたいへん興味深かったのです。

古典的な日本画の技法を、吸収して、
またたくさん捨てて(捨てるものが多いほどよい)、
そうしたこと(呼吸のようですね)を繰り返しながら、
独自の画風を彫り出していったように、私には感じられました。
古典に学ぶというよりは、むしろ古典で自身が磨き上げられたというか。

個性というものを尊重するのが現代なのだとすると、
その個性とは、他者と格闘することなしには現れ出てこないものだ、
その得がたい他者として、古典というものの存在意義もあるだろうと思いました。

文学部ではない国際文化学科というところで古典を教えるものとして、
異文化としての古典、と称して授業を担当したこともある、
そういう自身の立場に引き寄せての感想です。

それではまた。

2019年6月17日

言葉の授受ということ

人の言葉を用いるとはどういうことなのか、
かなり長い間考え続けています。

中国古典文学には、典故表現というものがあります。
誰もが知る古典籍の言葉や故事を、自らの作品に織り込んで、
自身の表現世界に重層的な奥行きを持たせる、
古典文学には普遍的な表現技法。

ですが、言葉の受け渡しという現象には、
まだ他にも様々な局面があります。

たとえば、共有する場で、遊戯的に交わされる類似句の応酬。

あるいは、ある言葉を、その元来の文脈とは無関係に、
出会いがしらに捉えて取り込んだかと思われる阮籍「詠懐詩」の例もある。
一方的ながら、自分に向けられたかと直感する言葉ってあるでしょう。

でも、まだ他にあるように思うのです。

たとえば、魏の曹植の作品が、近い時代の後人に及ぼした影響です。
(典故表現ではないし、上記の例からも外れます。)

曹植は、死後に名誉回復し、その作品が公開されることとなりましたが、
明らかに曹植の作品を踏まえていると見られる表現が、
非常に近い時代の詩人たちに認められるのです。

それは、曹植に対して寄せる思いがあればこそでしょう。
文学作品における影響関係には、その根底に敬意と共感があると考えます。
そんなことを念頭に置きつつ新しい研究に着手したところです。

それではまた。

2019年6月14日

 

日々の雑記

中国古典学の分野には、
日々の読書の中で気付いたことなどを記す、
札記という記述様式があります。
(たとえば清朝の顧炎武『日知録』のように)

先学の方々が著された札記というものを、
自分もしてみたいと思いました。

が、私はそれほど頻繁に何かに気付くわけではありません。

では、あれこれ考察した内容なら、とも考えましたが、
終日ぼんやりしている日も少なくありません。

これからは毎日、孜々として励むのだ、
というような誓いを突発的に立てることの無益は、
これまでの経験からよくわかっています。

そのとき、ふと浮上してきたのが、
大好きな武田百合子の『日日雑記』*という書名です。

日々、心の目に映ずる様々なことを、
札記的なもの、考察の断片とともに書いていけば、
細々とでも長く続けていけるかもしれない、と思いました。

ただ、中身はまるで違うのです。
私には武田百合子のような文章はとても書けない、
書けないからこそ、ひたすら味わう、
そんなあこがれの文筆家から、書名の一部を拝借しました。

ありがとうございます。

それではまた。

2019年6月13日

*単行本(中央公論社、1992年)や文庫本(中公文庫、1997年)では『日日雑記』となっている書名ですが、その一部の初出雑誌(和光『チャイム銀座』1987年11月号~1988年4月号)では「日々雑記」であったことを、武田花編『あの頃 単行本未収録エッセイ集』(中央公論新社、2017年)で知りました。せめて「日日」を「日々」として、後塵を拝する恥ずかしさを回避しようとしたのでしたが。

個人の研究室

ようこそ。
「柳川順子の中国文学研究室」へ。

このサイト名を口にすると、軽くうろたえます。
自分の名前を強く意識することは普段ほとんどありませんから。

では、なぜこんな不慣れなことを始めたかといいますと、

まず、生涯、一人の研究者であり続けたいと思ったからです。
大学教育から離れても、研究活動は続けます。

それなら、人知れず個人として研究すればよいではないか、
という考え方もあるかもしれません。

ですが、それだと自分は閉塞感を覚えるだろうなと思いました。
個人としての研究活動ではあっても、
その活動はどこかのだれかに何らかのかたちで波及するかもしれない。
そういう思いを心の片隅に置いておくのと、そうでないのと、
姿勢に違いが生ずるのではないかと私は感じます。

研究活動は、社会的に意味のあることだと考えます。
それがすぐに実利を生まないにしても。

そのような活動を地道に続けていくために、
大学という職場を離れた、一個人の研究室が必要だと考えました。

すっきりとした、居心地のよさそうな研究室でしょう。
アプライドの佐藤様にお世話いただき、
アプリケイツの濱田様に作成していただきました。

今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

2019年6月12日

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