曹植「聖皇篇」札記3
曹植「聖皇篇」の中に、「乗輿服御物」という句が見えます。
これと同一の句が、蔡邕『独断』上に次のように見えています。
乗輿出於律。
律曰、敢盗乗輿服御物、謂天子所服食者也。
天子志尊、不敢渫瀆言之。故託之於乗輿。乗猶載也。輿猶車也。
乗輿という語は律に由来する。
律にいう「敢えて乗輿の服御物を盗んだ場合は」は、天子の衣服食物を言っているのだ。
天子は最高に尊い存在なので、これを口にして冒涜することはとてもできない。だから、
それを乗輿に託して言うのだ。乗とは載る、輿とは車の意味にほぼ等しい。
曹植は、この律の文をそのまま詩に織り込んだのかもしれません。
というのは、一句を置いて後に続く「竜旗垂九旒」が、
(隔句対とまでは言えませんが、バランスを取る意識は働いているように思います。)
『礼記』楽記にいう「竜旂九旒、天子之旌也(竜旂九旒は、天子の旌(はた)なり)」を
ほとんどそのまま用いているからです。
曹植の詩歌には、
身辺にごろりと転がっているような言葉を、
経書に見えるような言葉と同等に並べて用いるような、
常識を軽々と超える、ざっくりとした自由さがあるように思います。
2025年1月10日
「殿前生桂樹」が象徴するもの
曹植「霊芝篇」が基づく漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」は、
おそらく第一句に、殿前に桂樹が生い出たことを詠ずる歌辞なのでしょう。
ではなぜこのようなことから歌い起こすのでしょうか。
類似句は、たとえば古楽府「相逢狭路間行」(『玉台新詠』巻1)に、
中庭生桂樹 中庭に桂樹を生ず
華燈何煌煌 華燈 何ぞ煌煌たる
と見えていますが、そのことが何を意味するのか、今ひとつわかりません。
(単なる風景描写なのかもしれませんが。)
それで、ふと思い当たったのが、
『漢書』巻27中之上・五行志中之上に引く前漢成帝期の歌謡の中に、
「桂樹華不実(桂樹 華実らず)」とあり、歌辞に続けてこうあることでした。
桂、赤色、漢家象。華不実、無継嗣也。
桂は、赤色にして、漢家の象なり。華実らずとは、継嗣無きなり。
桂樹がこのようなイメージを伴うとすれば、
「殿前生桂樹」は、漢王朝が後継者に恵まれるよう祈るものかもしれません。
これは、昨日述べたこと(妄想)ともつながるかもしれません。
竇皇后は自身が子に恵まれなかったため、肇(和帝)の育ての母となりましたが、
そのことと、漢の後継者を象徴する「桂樹」とはイメージが重なります。
ただ、これは仮説の上に重ねる仮説です。
しばらくすれば、一笑に付すべきものと化すかもしれません。
いつでも引き返すつもりでいます。
2025年1月9日
もうひとつの「慈母」の意味
曹植の「霊芝篇(鼙舞歌2)」は「孝」を詠じていますが、
そのもととなった漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」も同様であったと見られます。
(曹植「鼙舞歌」は漢代のそれを忠実に再現しようとしたものです。*)
そして、「殿前生桂樹」の背後には、
清河孝王慶にまつわる史実(『後漢書』章帝八王伝)があったと思われます。
このことについては、過日こちらで述べました。
さて、この史実を前掲『後漢書』で確認している時に、
章帝の詔の中に、「慈母」という語のあることに目が留まりました。
この詔は、竇皇后のウソの奏上を信じた章帝が、
皇太子である劉慶を廃し、肇(後の和帝)を太子としたものです。
竇皇后は、劉慶とその母宋貴人を陥れんと誣奏をし、
かくして彼女は、自身の育てた劉肇を皇太子とすることができたのです。
その章帝の詔の中に、
「蓋庶子慈母尚有終身之恩(蓋し庶子の慈母すら尚ほ終身の恩あり)」、
まして、皇后に正しく育てられた肇であれば大丈夫だ、
というくだりがあります。
吉川忠夫訓注『後漢書』第七冊(岩波書店、2004年)は、
この部分に「慈母は育ての母」と説明した上で、
李賢等注に『儀礼』喪服の「慈母如母」を引くことを示しています。
この意味での「慈母」は、まさしく竇皇后そのものです。
ところで、曹植「霊芝篇」の末尾にもこの語がこう見えています。
陛下三万歳 陛下 三万歳、
慈母亦復然 慈母も亦た復た然り。
このように言祝ぐ曹植の歌辞は、
直接的には文帝曹丕と自身の母でもある卞皇后を指すでしょう。
他方、もしかしたらこれに類する文脈で、
漢代「殿前生桂樹」も「慈母」という語を用いていたかもしれないと思いました。
その場合は、清河王劉慶が、和帝と竇皇后を言祝ぐこととなるでしょうか。
劉慶は、和帝とはとても親しい間柄でしたが、
竇皇后は、自身の母を自殺に追い込んだ人なのですから、
これは辛いです。
もっとも、「殿前生桂樹」がこの間のことを詠じているとは限らないし、
そもそも歌辞が史実を直接反映するとも限りませんが。
2025年1月8日
*拙稿「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として」(『中国文化』第73号、2015年)を参照されたい。
曹植「聖皇篇」札記2
曹植「聖皇篇」は、漢代「鼙舞歌」の「章和二年中」をなぞりつつも、
曹植自身が直面している魏王朝の時代を背景としているらしい。
そのことを窺わせる事例を、先に示しました。
それと同様な事例を今日も示します。
それは、これから王が封国に赴く段を描写する次のような部分です。
便時舎外殿 良き時を待って外の御殿に逗留すれば、
宮省寂無人 宮中の官庁はひっそりとして人の気配もない。
主上増顧念 主上はいよいよ篤く気にかけてくださり、
皇母懐苦辛 皇母はひどく辛い思いを抱く。
もしこの歌辞が、本当に章和二年中の出来事を詠じているのならば、
「主上」である和帝劉肇は当時十歳です。
「皇母」は、和帝の生みの母梁貴人を死に追いやった、育ての母竇皇后です。
「主上は顧念を増し、皇母は苦辛を懐く」にはあまり馴染みません。
もし、章和二年の事が繰り返された延平元年(106)を背景とするのであれば、
(このことは先にこちらで述べました。)
当時帝位にあった殤帝劉隆は生後間もない乳児です。
(『後漢書』巻4・孝和孝殤帝紀)
ですが、これを曹魏王朝初期の出来事であると見るならば、
「主上」たる文帝曹丕は三十四歳、
「皇母」は、曹丕と曹植の生みの母、卞皇太后です。
前掲詩句での描写は、まさしく二人のあり様に合致するものでしょう。
曹植の「聖皇篇」は、
随所に後漢時代の出来事を彷彿とさせる描写をちりばめながら、
曹魏王朝当代のことを詠じていると言えそうです。
これはひどく当たり前のことのように思われるでしょうか。
しかし、作品の詠ずる内容が作者の直面していた現実と重なるのは、
必ずしも自明のことではありません。
2025年1月7日
「八幡八景」文芸の展開
過日、「八幡八景」と悦峰との関わりを通して、
「八幡八景」文芸の展開について、自分なりの考えを述べました。
これに関して、伊藤太氏所論による重要な指摘を転記します。*1
(先にはその重要性を未だ受容できていませんでした。)
伊藤氏は『八幡八景』の二種の稿本「正徳本」「昭和本」を比較し、
昭和本が、正徳本のような「各景ごとに章立てする形式」には則らないことを
次のように述べています。
(昭和本は)題詠の需めに応じて当初作られたそれぞれの「八幡八景」一組の作品集ごとのまとまりを尊重した形で半数近くが構成されている。
より古い正徳本『八幡八景』のみならず、近代の写本である『八幡雄徳山八景』の書誌と内容についても煩雑をいとわず紹介したのは、この昭和本が、正徳本だけではうかがい知ることができない「八幡八景」の当初の姿、いわば原本「八幡八景」諸本の形をかなり忠実に伝えていると判断したからである。
この指摘は、元文四年に『厳島八景』が刊行されて以降、
各々嚴島に奉納された「厳島八景」文芸の、本来の姿が辿れなくなったのを想起させます。*2
さて、先にも述べたように、
この貴重な昭和本『八幡雄徳山八景』の中には、
後に「厳島八景」詩及び詩序を奉納することになる悦峰の名が見えますが、
それに先んずる部分に「黄檗千呆」の名も見えています。
千呆は、黄檗宗万福寺の第六代住持を務めた人物で、
第八代住持である悦峰の先輩に当たります。
ということは、柏村直條と黄檗宗万福寺の僧侶たちとは、
悦峰より前からすでに交友関係を結んでいたということになるでしょう。
柏村直條が悦峰に「厳島八景詩」奉納を依頼したのは、
このような背景があればこそであったのだと納得されました。
柏村直條の為人がしのばれます。
2025年1月2日
*1 伊藤太「「八幡八景」の書誌とその成立過程」(『芸文稿』第16号、2023年)p.7、9を参照。
*2 柳川順子「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)を参照されたい。
「厳島八景畫圖」の奉納(追補)
昨日、六條有藤に「厳島八景畫圖」の奉納を依頼したのは、
柏村直條ではないか、との推測を示しました。
この推測の傍証と成り得る記述を、
「柏亭日記」巻の二、享保十四年の記述の中に見つけることができました。
古文書の会八幡『翻刻柏亭日記(石清水八幡宮蔵)』(古文書の会八幡、2018年)
「五、日記に見る登場人物一覧表」p.97を参照して当たった、
「享保十四己酉 柏亭日記」p.22、26、28、37、39、40、43、45、46の記事です。
それは、書状や詠草のやり取りのみならず、
食物の贈り物に至るまで、日常的な往来を細やかに書き記すものでした。
たとえば、「六條中納言殿へ浅草苔五枚、甘苔三把進上申候」(正月十日)、
「六條家江鮹塩辛一曲、空豆一器」(四月廿六日)、
「六條殿ほしふく一、岩苔一遣ス」(閏九月十三日)といった具合です。
六條有藤が「某の需(もとめ)に応じて自ら其の図を写し」、
これを嚴島神社に奉納したのは、享保六年(1721)十一月のことでした。
前掲の日記は、それより後の享保十四年(1729)のものですが、
六條と柏村との交友は、この年に突如として始まったものではないでしょう。
そうしてみると、柏村直條がかねて親交のあった六條有藤に、
「厳島八景」文芸を盛り立てる依頼をした可能性は十分にあるでしょう。
2025年1月1日
「厳島八景畫圖」の奉納
元文四年(1739)に刊行された『厳島八景』の上巻(12葉目の表)に、
「八景畫圖奥書」として、次のような文章が見えています。*1
安藝州宮島者、神德威霊而天山之絶境也。故従古為畫圖以傳于世。就中取其最勝者、今為八景圖。余固敬其神、且愛其景。今應某需自写其圖、以奉納之、永禱助福云。
享保六稔仲冬十有五 龍作水原判
奉納畫圖 六條中納言有藤卿染筆
安芸の州 宮島は、神徳威霊にして天山の絶境なり。故に古より画図を為して以て世に伝ふ。就中(なかんづく)其の最勝たる者を取りて、今八景の図と為す。余は固(まこと)に其の神を敬し、且つ其の景を愛す。今 某の需(もとめ)に応じて自ら其の図を写して、以て之を奉納し、永く助福を祷ると云ふ。
享保六年(1721)仲冬(11月)十有五 龍作水原判【未詳】
奉納画図 六條中納言有藤卿染筆
本文中に「某の需に応じて」とあるのは、
石清水八幡宮の神職、柏村直條からの依頼に、
六條有藤が応じたことをいうのではないかと考えます。
すでに述べているとおり、*2
「厳島八景」の事実上の撰者は柏村直條だと見て間違いありません。
そして、その構想にあたって彼がまず念頭に置いたのは、
彼がかつて編成した「八幡八景」であり、
その「八幡八景」は、和歌、漢詩、発句、絵画からなる総合文芸でした。*3
柏村直條は「八幡八景」をひとつのひな型として「厳島八景」の総体を思い描いていた、
だからこそ彼は、公家たちの八景和歌が成って奉納された後も、
里村家に発句を、公家たちに漢詩を、更にこの六條有藤に絵図を奉納するように、
熱心に働きかけを続けたのではないかと推察します。
柏村直條を魅了した宮島の景観。
宮島の美を見出し、その総合文芸としての具現化に動いた柏村直條。
両者のエネルギーが実を結んで誕生したのが「厳島八景」ではないかと考えます。
2024年12月31日
*1 高橋修三「翻刻『厳島八景』」(『宮島の歴史と民俗』11号、1994年)を参照。句読点はこちらで随時打ち、訓み下しはすべて当用漢字に改めた。一部に送り仮名を改めたところがある。『厳島八景』(松半舎、 元文四年)は、早稲田大学図書館により公開されている。https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he01/he01_01300/index.html
*2 柳川順子「悦峰の「厳島八景詩序」と柏村直條」(『宮島学センター年報』第3・4号、2013年)、同「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)で論じた。
*3 竹内千代子・小西亘・土井三郎『石清水八幡宮『八幡八景』を読む』(昭英社、2023年)、伊藤太「「八幡八景」の書誌とその成立過程」(『芸文稿』第16号、2023年)を参照。
「八幡八景」と悦峰
「厳島八景」の成立は、
公家たちによる和歌が奉納された、正徳五年(1715)五月と見てよいでしょう。
以降、八景題による和歌、漢詩、発句等が各方面から奉納されました。
その中でも早い時期の作品として、
黄檗宗万福寺の第八代住持、悦峰の詩序を冠する
僧侶たち(悦峰を含む)による八景詩(『芸藩通志』巻31)があります。
悦峰「厳島八景詩序」の記述から割り出すと、
その奉納は、享保元年(1716)頃のことであったと推定されます。*1
さて、この悦峰は、『八幡八景』にも、
「黄檗山悦峰」として、次のような漢詩が収載されています。
閑雲朝日鎖雄峰 閑雲 朝日 雄峰を鎖(とざ)し
多少楼台興最濃 多少の楼台 興ること最も濃き
移得祝融山頂翠 移し得たり 祝融 山頂の翠
永為玉柱万年松 永く玉柱の万年の松為らん
「八幡八景」は、
石清水八幡宮神職の柏村直條が八景の題詠を有栖川幸仁親王に乞い、
太上皇(霊元)の定めを経て、
元禄六年(1693)冬十二月、歌詩図画共に成りました。*2
東京都立中央図書館加賀文庫に稿本二種があり、
一本は、正徳六年(1716)に山田直好が筆写した『八幡八景』、
一本は、昭和九年(1934)に筆写した『八幡雄徳山八景』、
今、仮に前者を正徳本、後者を昭和本と称すると、
正徳本所収作品はすべて、昭和本の中に包摂されるといいます。*3
悦峰の漢詩は、この昭和本の方に収載されています。
さて、悦峰(1655―1734)は、
1686年、32歳で、長崎の興福寺に招かれて来日し、
1707年、53歳で、万福寺の住持に命ぜられ、長崎から京都に移りました。
すると、「八幡八景」の成立当初(1693)、
悦峰はまだ、長崎の興福寺にいたということになります。
ならば、悦峰による「雄徳山松」の漢詩は、
一旦「八幡八景」が成立した後に寄せられたのでしょう。
こうした八景文芸の広がりは、
冒頭に記した「厳島八景」のそれを想起させます。
悦峰の詩を含む昭和本が、
正徳本に比べてはるかに収載作品数が多いのは、
「八幡八景」文芸の展開を示唆しているように思われます。
2024年12月30日
*1 柳川順子「悦峰の「厳島八景詩序」と柏村直条」(『宮島学センター年報』第3・4号、2013年)を参照されたい。なお、「柏村直條」を正しく表記せず、このように当用漢字を安易に用いていることを、伏しておわびし、今後は改めることと致します。
*2 『翻刻柏亭日記(石清水八幡宮蔵)』(古文書の会八幡編集・発行、2013年輪読開始、2017年輪読終了、2018年発行)p.80を参照。
*3 伊藤太「「八幡八景」の書誌とその成立過程」(『芸文稿』第16号、2023年)p.7に指摘する。
曹植「聖皇篇」札記1
昨日、曹植「聖皇篇(鼙舞歌1)」の語釈に取り掛かったところ、
さっそく壁に突き当たりました。
その五・六句目に、次のような句があります。
三公奏諸公 三公の奏すらく 諸公は、
不得久淹留 久しく淹留するを得ず、と。
これは、新しい皇帝が即位したことに伴って、
最高位の大臣三者の奏上により、
藩国を守るべき諸侯は、久しく都に留まることが許されなくなった、
ということを指すと見てよいでしょう。
「聖皇篇」は漢代「鼙舞歌」の「章和二年中」に基づいていますが、
この章和二年(88)に起こった出来事がまさしくそれです。
章帝の崩御に伴い、その兄弟たち諸王は各々の国に就くこととなりました。
また、先日指摘したとおり、
これと同一の出来事が、和帝の崩御した翌年(106)にも起こっています。
さらに、今「聖皇篇」を詠じている曹植もまた、
曹丕が魏の文帝として即位した時に、他の兄弟たちとともに封土に赴いています。
ではなぜ「諸侯」ではなく「諸公」なのでしょうか。
封ぜられた土地に赴き、王朝の藩(まがき)となるのは諸侯の任務ですから、
「諸侯(すなわち諸王)」と記されてもよいところです。
不思議に思っていたところ、
朱緒曾『曹集考異』巻六にこのような指摘がありました。
「三公奏諸公、不得久淹留」とは、
魏王(曹操)の葬られし後、諸侯みな国に就くをいうなり。
其の時、丕は未だ諸弟の爵を進めて王と為さず。故に「諸公」と称するなり。
疑問がほどけたように感じました。
たしかに文帝曹丕が弟たちの爵位を王に進めたのは黄初三年(222)で、
曹植らがそれぞれの封土に赴いた黄初元年(もしくはその翌年)より後のことです。
それで、曹植がもし
「諸侯」と「諸公」とをこのように弁別して用いていたとするならば、
「聖皇篇」は、彼が身を置く曹魏王朝の現実と接触する内容をもつことになります。
一方で、この歌辞の内容と同一の出来事は、
後漢王朝の時代、少なくとも二度までも繰り返されていて、
「聖皇篇」では、この歴史的事実もまた丁寧に写し取られている印象があります。
すると、この作品は、歴史的事実と今の現実との双方に触れているようです。
右往左往した挙句、ひどく当たり前のところに帰着しました。
ただし、歌辞の半ば以降、「諸王」という語が二箇所出てきます。
呼称がこのように転換している理由は今後考えます。
本日の札記が無意味となる可能性もありますが、
あれこれ考えて試行錯誤してこそ研究は面白いのだと思っています。
2024年12月27日
曹植と成公綏
本日、曹植作品訳注稿「霊芝篇(鼙舞歌2)」を公開しました。
この作品の「乱(歌いおさめ)」の冒頭に、
「聖皇君四海(聖なる皇帝は天下四海に君臨し)」という句がありますが、
これとまったく同一の句が、
『宋書』楽志二所収の、西晋王朝の宮廷歌謡、
成公綏「晋四箱歌十六篇・雅楽正旦大会行礼詩十五章」其六の冒頭に見えています。
「聖皇」「君(君臨する)」「四海」は、
それぞれ単独の語としては、決して珍しいものではありません。
けれども、この三つの言葉を組み合わせた例は、
漢魏晋南北朝時代の現存作品を見る限り、曹植と成公綏のみです。
成公綏による雅楽歌辞については、
こちらでも述べたように、同作品の其の四にも曹植作品の影響が認められました。
成公綏は、西晋王朝の「雅楽正旦大会行礼詩」制作において、
曹植を意識していた可能性があると言えます。
また、かつてこちらでも述べたとおり、
張華による宮廷雅楽の歌辞「晋四廂楽歌十六篇」其五(『宋書』楽志二)にいう
「枯蠹栄、竭泉流(枯蠹は栄(はな)さき、竭泉は流る)」は、
曹植「七啓」(『文選』巻34)にいう、
「夫辯言之艶、能使窮沢生流、枯木発栄」を踏まえたものと見られます。
こうしてみると、西晋王朝の宮廷音楽には、
なにか、曹植に対する意識の磁場のようなものがありそうだと感じます。
ただ、たまたまこうした事例が伝存しただけという可能性もあります。
恣意的な見方をしないよう、しばらく読解に注力します。
2024年12月25日