曹植「雑詩六首」其二の押韻
「曹植作品訳注稿」の詩歌作品に、
ある時期から押韻状況を記すようになりました。
今進めている見直し作業の中で、
押韻を記していなかった作品にそれを追記しています。
ここまでまだ数首を見たにすぎませんが、
徒詩には近体詩とほぼ同様の一韻到底が認められるようです。
と思っていたところ、それを大きく踏み越える作品に遭遇しました。
『文選』巻29所収「雑詩六首」の其二です。
本詩は、第一句から第十句まで、きれいに上平声01東韻で押韻しているのに、
最後から二句目に至って、突然上声32晧韻に切り替わります。
しかも、それまでは偶数句末押韻だったのに、
結びの二句は両句とも押韻しています。
なぜ、このような脚韻を配したのでしょうか。
如上の押韻情況から見て、うっかり踏み間違えたとは思えません。
思うに、第一句から十句目までは、転蓬のようにさすらう兵士の物語、
最後の二句は、その物語を外側から見て(詠じて)いる人の独白ではないでしょうか。
この独白が「古詩十九首」其一に見える表現を用いていることも、
最後の二句がそれまでの句とは異質であることを示唆しているように感じます。
もっとも、まだ多くの曹植詩を調査したわけではないので、
あくまでも思い付きの推測に過ぎないのですが。
2026年1月3日
今とこれから(続き)
曹植の詩には、様々な特徴があって、
それは、それを読む人によっても様々に捉えられるでしょう。
捉え方はひとつに決められるものではありません。
その上で、自分としては、建安年間の曹植詩に散見する、
ある傾向を持った内容に目が留まりました。
それは、曹操の下に集まった人々に対する待遇に、
この時期の曹植は、その詩中で頻繁に言及しているということです。
昨日見直していた「送応氏二首」其二(04-04-2)にもこうありました。
愛至望苦深 愛の至りて望みは苦(はなは)だ深し
豈不愧中腸 豈に中腸に愧ぢざらんや
「愛至」は、こちらから相手に向けられる愛情をいい、
「望苦深」は、相手からこちらに対して求められる要求をいいます。
そして、この句を受けるのが「豈不愧中腸」です。
本詩を詠じた彼は、相手の期待に十分に応えられないことを、
心の底から申し訳なく思い、自身の不甲斐なさを愧じているのです。
このような構図は、曹植の他の詩にも見えていました。
すぐに想起されるのは、「贈王粲」(04-11)、「贈徐幹」(04-09)です。
「美女篇」(05-12)、「棄婦篇」(05-45)にも、同傾向のことが読み取れそうですし、
「野田黄雀行」(05-02)は、その絶望の極限にあっての作でしょう。
また、こちら(2024.06.15)で紹介した楊修「孔雀賦」(『藝文類聚』巻91)には、
如上の詩歌から窺える曹植の心の有り様がよく見て取れます。
このように、複数の作品に、ある主題が通底していることは、
「送応氏二首」其二の訳注稿を作成した2019年当時、
まだ気づいていませんでした。
こうした主題を探っていくことは、
昨日述べた、曹植詩を漢代宴席文芸の系譜上に位置づけることとは別の視角です。
そして、その主題は、曹植の他ジャンルの作品と照らし合わせ、
その足跡を可能な限り再現することにより、更に解像度を増すでしょう。
それは作品論なのか作家論なのか、区別立てする必要はないように思います。
2026年1月2日
今とこれから
昨年末、「曹植作品訳注稿」の詩歌作品について、見直し作業を始めました。
訳注作業を本格的に始めたのは今から六年半ほど前ですから、
今見直していると、修正を要するようなところが多々目に止まりますが、
その一方で、当時の仕事に圧倒されるところも少なくありません。
過去の自分から励まされています。
見直している曹植の詩歌の訳注は、
過去十餘年間に書いてきた建安文学に関する所論と併せて、
ひとまとまりの原稿にしたいと考えています。
曹植の詩歌の訳注と、建安文学に関する論考と、
この両者をひとつにまとめることにどんな意味があるのでしょうか。
後漢末、魏の曹操のもとに形成された建安文壇は、
五言詩がにわかに興隆したところに大きな特徴がありますが、
この事象は、次のことを踏まえてこそ無理なく理解することができます。
すなわち、五言詩は、漢代の宴席を舞台に生成展開してきた文芸であること、
そして、建安詩人たちも基本的に、宴席を場として文学活動を行っていたことです。
つまり、長らく地下水脈を為してきた五言の詩歌が、
一挙に地表に噴出したもの、それが建安詩なのだと私は捉えています。
以上のことは、かつて『漢代五言詩歌史の研究』で論じました。*
建安文学はこのように、漢代宴席文芸の系譜上に位置づけることができると考えますが、
五言詩の新たな展開の諸相については、前著ではまだ論及していません。
後漢末における文学の質的転換を、作品の実態に即して更に明らかにしたい。
そのためには、この時代、特に多くの詩歌を残している曹植を取り上げるのが最善です。
こう考えて、曹植の詩歌の、せめて訳注だけは形にしたいと考えました。
今行っている作業は、漢代五言詩歌史研究の続きです。
2026年1月1日
*こうした捉え方は、あまり聞きなれないものではないでしょうか。どういうことだろうと思われた方は、柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)をご覧ください。
離縁された妻の罪
「古詩為焦仲卿妻作」(『玉台新詠』巻1)は、
意地悪な姑に夫との間を裂かれ、婚家を追われた蘭芝が、
実家に戻ってから、再婚を迫られて入水し、
別れた夫も自死したという悲劇を詠じたものです。
その中に、蘭芝が婚家から得た罪ということを巡って、
実家に戻った蘭芝と母親との間で次のようなやり取りがなされています。
汝今何罪過。不迎而自帰。蘭芝慚阿母。児実無罪過。
「お前は今ごろ何の罪を得て、迎えもしないのに自分で帰ってきたのかい。」
蘭芝は恥じ入って母にいう。「私は本当に何の罪も犯してはおりません。」
嫁ぎ先の家を追われる時の蘭芝の科白にもこうあります。
謂言無罪過。供養卒大恩。
私には罪はないと思い、舅姑にお仕えしてご恩返しを全うしようとしました。
では、蘭芝の「罪過」とは何でしょうか。
彼女を追い出した姑は、彼女の有り様を次のように咎めています。
此婦無礼節、挙動自専由。
この嫁は礼節をわきまえず、自由勝手なふるまいをする。
このように、蘭芝が婚家を追われたのは、“罪を犯した”という理由からでした。
(もちろん、それは何の理由にもなっていないのですが。)
先ごろ私は曹植「種葛篇」「浮萍篇」「閨情」詩に関して研究発表を行ったのですが、
そこで述べたことのひとつを、ここに訂正しなくてはなりません。
夫に棄てられた妻の嘆きは、漢魏詩においてそれほど珍しいテーマではないが、
そこに、罪を得た妻が、終日謹んで務めに励むという要素が加わる例があったかどうか。
という部分です。
「罪を得た妻」という要素は、前掲の「為焦仲卿妻作」詩にはあります。
本当に罪を犯したのではありませんが、それを理由に彼女は婚家を追われています。
曹植の「浮萍篇」や「閨情」詩に見える罪を得るという要素は、
漢魏詩にはたしかに存在しています。
曹植詩の場合は、そうした要素が、彼自身の受けた監視と陥れられた罪に重ねられている、
と読める(そう読めると確信できるまで検討する必要はありますが)、
そこに、従前の、あるいは同時代の他の作品との違いがあるかもしれません。
以上の間違いと訂正を、試行錯誤の跡として記しておきます。
2025年12月28日
黄節の探索経路
先日から話題にしている「何嘗・艶歌何嘗行」は難解で、
その冒頭の言葉からうまく読めません。
何嘗快独無憂 何ぞ嘗(かつ)て快にして 独(た)だ憂ひ無き
但当飲醇酒 但だ当(まさ)に醇酒を飲み
炙肥牛 肥牛を炙(あぶ)るべし
この後半はわかります。
「もっぱら芳醇な酒を飲み 肥えた牛肉を炙って食らうことだ」と。
では、その前にある第一句は、まずどう切ればよいのでしょうか。
前掲の読み下し方とは異なって、
黄節は「快独」をひとつながりの語と捉え、「快絶」のような意味だとし、
それに関連して提示されるのが、東晋・張湛による『列子』の注
「独者極高極妙而無隣之意(独とは極めて高く極めて妙にして隣無きの意なり)」です。
「独」は、たしかにこのとおりの意味だとは思います。
ただ、それが熟語の下に来て、上の語を強調するような例があるかどうか。
そこで、『佩文韻府』(巻90下・一屋)に当たってみました。
この工具書では、下に来る字を同じくする熟語が並んでいますから。
すると、唯一このような意味合いとして取れそうなものが、
黄節の挙げていた『列子』張湛注でした。
黄節も「何嘗・艶歌何嘗行」の第一句に困り果て、
『佩文韻府』に当たったのではないか。
そして、想定した語義に最も近い『列子』張湛注を採ったのではないか。
その探索の経路が見えたような気がしました。
なお、『佩文韻府』が示す注の一文は、
『列子』天瑞篇の張湛注には見当たりませんでした。
そして、『佩文韻府』に引く『列子』の本文(こちらは確認できます)、
「不生者疑独、不化者往復(不生者疑独、不化者往復)」では、
「疑独」が「往復」と対応関係にありますから、
「独」を「疑」を下から修飾する語と見ることはできません。
この『列子』本文を、黄節は引いていません。
2025年12月26日
*『漢魏楽府風箋(黄節詩学選刊)』(中華書局、2008年)p.232を参照。
語感をつかむこと
「何嘗・艶歌何嘗行」について以前こちらに書いたことで、
たいへんな間違いをしていたのでここに改めます。
それは、本作品の後半に見える次の句です。
少小相触抵 少小 相触抵し
寒苦常相随 寒苦 常に相随(したが)ふ
このうちの「触抵」を、私は先には「身近に触れ合って」と訳していました。
この熟語を「触」と「抵」とに分けて、
それぞれの語義から推測して前掲のような誤訳をしていたのでしたが、
これでは、この「触抵」という言葉の語感に合致しません。
この熟語の用例として、たとえば『焦氏易林』観之大壮にこうあります。
心志不良、昌披妄行。触抵墻壁、不見戸房。
心志は良からず、昌披として妄行す。墻壁に触抵して、戸房を見ず。
心の状態がよろしくなくて、めちゃくちゃな振る舞いをする、
塀や壁にぶつかって、肝心の家屋が目に入っていない、
という、これは占筮の言葉です。
このような語の用いられ方から見て、
これは「身近に触れ合う」ではなく「ぶつかる」であること明らかです。
どうしてこのような間違いをしたのか。
その根底に、これは曹氏兄弟の少年時代のことだという思い込みがあり、
そこでそれ以上踏み込んで調べるのを止めてしまったのでした。
気を付けなければなりません。
そして、言葉というのは、その語義だけではなくて、
それが持つ質感まで感じ取った上で、その意味を把握することです。
理屈が先行すると、この感触というものがないがしろにされてしまいます。
それでは本当にわかったことにはなりません。
気を付けなければなりません。
2025年12月25日
「吾」と「卿」
一昨日、「何嘗・艶歌何嘗行」を夫婦の物語として訳し直してみました。
前半の「艶」は夫を主人公として一人称で、
後半の「趨」は妻を主人公として一人称で語る設定としています。
ところが、訳していく中で、困った問題に遭遇しました。
それは、後半の次の句に登場する呼称です。
吾中道与卿共別離 吾は中道に卿と共に別離す
ここに見える「吾」と「卿」とは誰を指すのでしょうか。
昨日示した別訳では、これを妻から夫への呼びかけと見ています。
けれども、そのような設定で読むと無理が生じるのです。
「卿」は通常、立場が上の者から下の者に対して呼びかける二人称です。
これを逆転させる場合もありますが、それは例外的なことです。
たとえば『世説新語』惑溺篇に次のようにあります。
王安豊婦、常卿安豊。安豊曰、婦人卿婿、於礼為不敬、後勿復爾。
婦曰、親卿愛卿、是以卿卿。我不卿卿、誰当卿卿。遂恒聴之。
王戎の妻はいつも王戎を卿(お前さん)と呼んでいた。
王戎は言った。「妻が夫を卿と呼ぶのは礼儀にもとる。今後再びそう呼んではならぬ。」
妻は言った。「卿に親しみ卿を愛しているから、卿を卿と呼ぶんだ。
私が卿を卿と呼ばずに、誰がいったい卿を卿と呼ぶのか。」
かくして常にそう呼ぶことを聞き入れた。
『漢語大字典』第1冊(p.318)は、この『世説新語』に続けて、
「為焦仲卿妻作」詩(『玉台新詠』巻1)に見える「卿」の例を挙げています。
これは、先に述べた通常の場合と例外的な場合とのどちらでしょうか。
「為焦仲卿妻作」に当たってみたところ、
「卿」を、妻から夫への呼称として用いている例はひとつもなく、
ほとんどの場合は、夫が妻をこの二人称で呼んでいます。
(夫婦間での呼称でない場合も、立場の上下が逆転する例はありません。)
そのうち、次の3例は「吾」と「卿」とが一緒に登場します。
卿但暫還家。吾今且報府。
君はしばらく実家に帰っていなさい。私はこれから役所に報告にいくから。
誓不相隔卿。且暫還家去。吾今且赴府。不久当還帰。
絶対に君を遠ざけたりしないから、しばらくは家に帰っていなさい。
私はこれから役所にいくが、遠からず必ず帰ってくるから。
卿当日勝貴。吾独向黄泉。
君はきっと日増しに高貴な身分となるのだろう。私はひとり黄泉の国に向かうよ。
(元妻が太守の家に嫁入りすることとなったことを聞いた元夫の科白)
このように見てくると、
前掲の「吾中道与卿共別離」を妻の科白と見ることは困難です。
このことを踏まえた上で、
この楽府詩全体を、夫婦の物語として読み解くことはできるか、
もう少し考え直してみたいと思います。
2025年12月24日
「何嘗・艶歌何嘗行」と曹丕(保留)
過日、「何嘗・艶歌何嘗行」の中に、
曹植に対する曹丕の心情が読み取れるのではないか、と述べました。
けれども、これは保留とします。
この作品を読んだのは、『宋書』楽志の共同研究で担当したのがきっかけでしたが、
その会合で、本詩を夫婦の物語として解釈する先行研究があることを教えられ、
そちらの方がよい、少なくともその捉え方が可能であることは確実、
いや、自分の読みが大間違いだったのではないか、
と思い直すに至りました。
自分の中で、曹丕と曹植との関係性を見直すという課題がずっと流れていて、
その意識から強いバイアスを受けたのだろうと思い至ります。
これは、本当に気を付けなければなりません。
とはいえ、先行研究を見ないうちに試みた解釈は、
どんなに突飛なものであっても、そこに何らかの種が眠っているかもしれません。
それは、人が行ったそうした解釈であれ、自分のそれであれ、同様です。
そう思うので、しばらく保留としておきます。
先日の通釈とは別に、こちらに改訂版の通釈を載せておきます。
(共同研究では訓み下しや語釈を付けていますが、こちらでは省いています。)
2025年12月22日
「何嘗・艶歌何嘗行」と曹丕(再び)
「何嘗・艶歌何嘗行」がもし曹丕の作だとするならば、
これは、弟曹植に対する曹丕自身の声が直接聴き取れる資料だと言えます。
これを曹丕作とする最も早い選集は、『楽府詩集』巻39です。
この北宋末の郭茂倩から降って、清朝の朱乾『楽府正義』巻8も同様で、
近年の、たとえば黄節『漢魏楽府風箋』巻12も、余冠英『三曹詩選』も同じです。
ですから、上述のような視点から本作品を論じる先行研究が、
もしかしたら既にあるかもしれません。
(以下、もし既に考察されていたら、贅言を要しないことではありますが)
曹丕はとかく、弟曹植を冷遇したことに目が向けられがちです。
けれどもその兄弟像は、西晋王朝以降に作られたものである可能性があります。*1
実際、『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く『魏略』等には、
本当のところは少し違っていたのではないかと感じる記述もあります。*2
そんな中、曹丕本人が弟に向けて語った言葉があるならば、
これに基づいて、曹氏兄弟の間柄を更に新たに捉え直すことができます。
2025年12月19日
*1 津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年3月)、津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)を参照。
*2 このことについては、柳川順子「曹氏兄弟と魏王朝」(『大上正美先生傘寿記念三国志論集』(汲古書院、2023年)を参照されたい。
「何嘗・艶歌何嘗行」の成り立ち
このところ、行ったり来たりしながら考察してきた「何嘗・艶歌何嘗行」、
本日、やっとひととおりの通釈を終えました。
こちらをご覧ください。
改めてこれを通覧し、気づいたことがあります。
それは、前半の「艶」の部分と後半の「趨曲」とで作風が異なっていることです。
前半の「艶」は、古楽府に常套的なフレーズの綴り合せですが、
後半の「趨」に入ると、急転直下、内容が固有の具体性を帯びてきます。
ところで、これと同じく「艶」と「趨」とから成り立つ「大曲」に、
詠み人知らずの「白鵠・艶歌何嘗行」があります。
これと多くの辞句を共有している古楽府に、
『玉台新詠』巻1所収「古楽府詩六首」其六の「双白鵠」があります。
そこで、晋楽所奏「大曲」の「白鵠・艶歌何嘗行」(『宋書』楽志三)と、
『玉台新詠』所収の「双白鵠」とを照らし合わせてみたところ、
晋楽所奏「白鵠・艶歌何嘗行」で「趨曲」と括られている後半の辞句が、
『玉台新詠』所収の「双白鵠」には見当たりません。
両者間で重ならないこの部分は、
「大曲」の編者によって追加されたと見るのが妥当でしょう。
そして、その追加部分の大半は、
『玉台新詠』巻1「古詩八首」其七に由来するものです。*
さて、「何嘗・艶歌何嘗行」は、
「白鵠・艶歌何嘗行」と同様の成り立ちをしているのでした。
すると、「何嘗・艶歌何嘗行」もまた、
その「趨」の部分は、前半とは別系統の作品群に由来するのかもしれません。
それが曹丕の作品であった可能性は十分にあるだろうと思います。
2025年12月18日
*柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.345―346を参照されたい。