押韻から分かること

曹植作品訳注稿の詩歌作品について、
ある時期からその押韻情況を記すようになりました。
(今のところ、徒詩は『切韻』系の音韻体系に沿っていると言えます。)

それによって新たに気づいたことを何度か述べてきましたが、
本日見直しを始めた「矯志」詩(04-16)にも、そうしたことがありました。

この詩は、偶数句末に押韻し、四句ごとに換韻していきます。
ところが途中で二箇所、押韻上、前後から切り離されたような二句一韻があって、
これによって、そこに失われた二句があるらしいことが推測されます。

朱緒曾『曹集考異』(金陵叢書丙集之九)巻5に、
「済済唐朝、万邦作孚」の前、及び「道遠知驥、世偽知賢」の後に、
八文字分の□(空白)を置いて、「厳上空八格」「厳空八格」と注するのは、
押韻から割り出されたことであったかと始めて気づきました。

その失われた二組の二句ひとまとまりのうち、
一組は、『文選』李善注に引く本詩の佚句によって補うことが可能です。
このことを指摘する黄節の説を、本詩の余説に引いています。
(なお、本詩訳注の見直し修正作業は未完です。)

2026年2月13日

曹植「朔風」詩の成立時期

何度も同じところを行ったり来たりしています。
昨日、曹植「朔風」詩の主題や背景についてこう推定しました。

本詩は、遠く離れた南方にいる人(曹彪)への思いを詠じたもので、
その背後には、二人の君主であり兄である曹丕への届かぬ思いがあるだろう、と。

書いた後、何の根拠も提示していなかったことに思い至りました。

それは主に、以前こちらで述べたように、
本詩が「雑詩六首」其一との間に、表現面での共通点を多く持つことです。

加えて、「爾」と呼びかけられている南方の人は詩人と対等の関係、
他方、「君」という呼称は通常、詩人から見て上位に位置する人物を指します。

以上のことを念頭に置いた上で、
最も蓋然性の高いところを探っていった結果が上述の推定でした。

もしこの推定が大きく外れていないのならば、
本詩の成立時期は、黄初四年(223)と見るのが最も妥当だと考えます。

曹彪が南方にいた時期と曹植の足跡とを照らし合わせ、
そのように推量するのが最も無理がないように思われたからです。

曹植と曹彪とが特に親密になったのは、同年、共に上洛した頃かと見られますが、
特にその帰途、同宿を阻止されたことが大きな契機となったと想像されます。
(曹植の心中は、「贈白馬王彪」詩に詠じられているとおりです。)

この黄初四年以降で、曹彪が南方にいたのは実質黄初六年までの三年間です。

この間、曹植が「今我旋止、素雪云飛」と言い得るのは、
鄄城に戻った黄初四年の晩秋あたりくらいしか、該当する時期がありません。

黄初四年の末、曹植は雍丘王に遷りますが、*
それから、雍丘に在任していた黄初七年までの期間において、
彼がどこかへ行って戻ってきたという足跡を確認することができないのです。
(もっとも自分が資料を目睹していないだけなのかもしれません。)

ただ、前掲の「今我旋止」云々の前には、
「昔我初遷、朱華未希」とあって、これが分かりません。
曹植が鄄城侯に遷されたのは黄初二年(222)、
その地の王となったのは黄初三年ですが、その季節は不明です。
「昔、私が遷ったばかりの頃、深紅の花はまだ散っていなかった」とは、
何か具体的な出来事に直結しているわけではないのか、
それとも、それを辿るだけの資料が残されていないだけなのか。

2023年2月12日

*曹植が雍丘王に任命された時期については、こちら(2026.01.27)をはじめ、これまでに何度か検討してまいりました。

曹植「朔風」詩の冒頭句再考

曹植「朔風」詩の冒頭四句について、
昨日、川合康三氏の解釈に触発されて考えたことを述べました。

ただ、「朔風」から「魏都」を懐かしむのは分かるにしても、
「代馬を騁せて」「北に徂かん」というからには、
今でもそこには、強く心を惹かれる具体的な何ものかがあるのだろう。
「南に翔らん」と詠じるその先に、心を寄せる人がいるように。
ではそれは何なのだろうか。

そんなふうに、その後もつらつら考え続けていたところ、
ふと、こういうことだったではないかと思い至ったことがあります。
それは、魏都、鄴の西方三十里、曹操の葬られた高陵。*1
それを曹植は思い起こし、そこに駆けていきたいと願ったのではないでしょうか。

曹植がその父曹操を生涯敬愛していたことは、
たとえば彼の晩年、明帝期の作と推定される「惟漢行」にも明らかです。*2

今、本詩の制作年代は措いておくとしても、
その背景に、南方にいる人(おそらくは異母弟の曹彪)への思い、
そして、君主であり兄である曹丕への届かぬ思いがあることは確かです。
そうすると、詩の冒頭、今は亡き父曹操に思いを馳せることから歌い起こされるのは、
兄弟間の離別と分断とを詠ずる本詩の内容に奥行きを与えるものだと言えますし、*3
詩の構成としても、考え抜かれた末の自然な巧みさがあるように感じます。

2026年2月11日

*1 『元和郡県図志』巻16・河北道、相州、鄴県の条に「魏武帝西陵、在県西三十里(魏の武帝の西陵(高陵)は、県の西三十里に在り)」と。
*2 柳川順子「曹植における「惟漢行」制作の動機」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号、2022年)を参照されたい。
*3 曹操の家庭教育は、兄弟間の協力体制の育成を企図するものであった可能性がある。柳川順子「曹氏兄弟と魏王朝」(『大上正美先生傘寿記念三国志論集』汲古書院、2023年)を参照されたい。

過去への飛翔か

曹植の「朔風」詩は、やっぱり難解です。
けれども、五年前には参照できなかった先行研究
川合康三氏編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』に啓発されるところが多く、*
先学との対話から解きほぐされていくものがありそうです。

この詩はその冒頭、「朔風」をよすがに「魏都」を懐かしむと詠じています。
この「魏都」がどこを指すのか、これも解釈の定まらないところですが、
魏王国の都、鄴と捉えることは十分可能だと気づかされました。
川合前掲書p.289―390にこうあります。

冒頭の北・南へ行きたい思いは、洛陽・呉とすれば、朝政・征伐への参加を願うものになるが、鄴都・寿春とすれば、過去の交遊の場を懐かしみ、曹彪を思慕するという私的な思いになる。7・8(句目)の鳥とともに翔て行きたいといのは、思う人のもとへ飛んで行きたいという常套表現なので、ここでは後者の方向で解する。

この中の「過去の交遊の場を懐かしみ」に意表を突かれました。
私は、この詩の作られた当時の北方を、当然のように思い浮かべていたからです。

冒頭四句が過去を懐かしむ表現だとして、
続く四句は現在、南方に身を置いている人への思慕を詠じています。
すると、すぐに飛んで行きたい先には、時間的なずれが生じることになります。
北方は過去、南方は現在、これらを並置して、その両方に思いを寄せているのですから。
(厳密に言えば、飛んで行きたい北方とは、なつかしい思い出の地ですが。)

もう少し考えてみます。
他にも未解明のところが多く残っています。

2026年2月10日

*川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(岩波文庫、2022年)

「朔風」詩の再読

曹植「朔風」詩の再読を始めました。
本詩の訳注は、2021年3月11日に公開したと記していますから、
ほとんど5年ぶりに読み直すことになります。

当時もその難解さに右往左往していましたが、
そのとき絞り出した仮説めいたものは妥当であったのか。
時を隔てて、再びまっさらな気持ちで対面しようと思っています。

さて、解題を見直してさっそく頭を抱えています。
本詩の成立年代に対して、実に様々な説が立てられているのです。
詩の本文を熟読すれば、自ずからしかるべき結論に着地できるのでしょうか。
依然として、成立年代については未詳と記すことになるかもしれません。
けれども、それを検討する必要はないとは言えません。

曹植もそこに属する前近代の中国知識人、
あるいはそれと地続きの世界を生きていた中国の研究者たちが、
喧々諤々、それを究明しようとしているのです。
すると、曹植自身もその詩の背景を強く意識していたに違いありません。

彼らの生きていた座標の中に自分も入って検討したいと思います。

また、本詩は『詩経』のスタイルに倣った四言詩であるのに、
『文選』では、多く五言詩を収める「雑詩」の部類に入っています(巻29)。
「雑詩」というジャンルの境界線を見極める上でも、
本詩は重要な意味を持つでしょう。
(このことについてはすでにこちらで述べています。)

積み残しを置いていきながら、
再びそこに戻ってきて考察できるのは、
いくらでもやり直しのできるこの場ならではの良さです。

2026年2月6日

王朝にとっての脅威

先日来、幾たびも言及している曹植「雑詩六首」其二は、
彼の別の詩「吁嗟篇」にとてもよく似ています。

「吁嗟篇」は、『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注に、
曹植が「常に琴瑟の調を為して歌った」ものとして記されている楽府詩です。

そのためか、無意識のうちに「雑詩六首」其二も、
曹植の度重なる転封を背景とする作品なのだろうと思っていました。

ですが、李善注(『文選』巻29)にいうように、
もし「雑詩六首」がすべて黄初四年(223)の作であるならば、
当時、曹植はまだそれほど多くの転封を経験しているわけではありません。

一方、少なくとも「雑詩六首」其一はその人を詠じていると推定できる、
白馬王(当時は呉王)曹彪は、この時点ですでに何度も転封を命じられています。

もしかしたら、其二も曹彪のことを思い浮かべながら作られたのか。
という当て推量から、『三国志(魏志)』巻20・武文世王公伝を縦覧してみました。

すると、曹彪のように苦しい転封を重ねた人物はそれほど多くはなく、
中山恭王曹袞が、平郷、東郷、賛、北海と転封しているのが目につくくらいです。

曹袞は、賛侯から公へと爵位が進められたのを慶賀する属官を厳しく戒めた人です。
(曹袞については、こちらの雑記をはじめ、これまで何度か言及しました。)

このことは、彼を取り囲む監視体制の酷薄さを物語っているでしょう。

他方、明帝の幼馴染として非常に寵愛された燕王曹宇や、
文帝に幼い弟として可愛がられた趙王曹幹のような者たちもいます。

黄初四年に、洛陽で命を落とした曹彰、
洛陽からの帰途、同宿を禁じられた曹植と曹彪、
加えて、極めて慎重にその身を慎んだ曹袞といった人々は、
どこか王朝に脅威を感じさせるものを持っていたのかもしれません。

2026年2月5日

親愛の情と無遠慮

昨日も述べたように、曹植は自身の作品に曹丕の詩を取り込んでいます。
してみると、曹植は兄曹丕に対して親愛の情を抱いていたと言ってよいでしょう。
嫌悪し軽蔑する人間の言葉を用いたりはしないでしょうから。

とはいえ、一方で曹植は「贈丁廙」詩の中でこう詠じています。

我豈狎異人  私はどうして関係のない人々に馴れ親しんだりするものか
朋友与我倶  古なじみの友人たちが私とともにいるのだ

この詩は宴席の情景を詠じたものですが、
その中に見えている前掲の句は、『毛詩』小雅「頍弁」にいう

爾酒既旨、爾殽既嘉。豈伊異人、兄弟匪他。
 爾(そ)の酒は既に旨(うま)く、爾の殽(さかな)は既に嘉(よ)し。
 豈に伊(こ)れ異人ならんや、兄弟にして他に匪(あら)ず。

を踏まえつつ、『毛詩』の「兄弟」を、「朋友」に差し替えたものです。
ここで宴席を共にしているのは「朋友」であって「兄弟」ではないと言っているのです。

また、「贈丁儀」詩において、曹植は舌鋒鋭く為政者を批判していますが、
その為政者とは、曹丕と比定するのが最も妥当だと考えます。

これらの作品からは、曹植の、兄曹丕に対する無遠慮な反発心が見て取れます。
一方で、兄への親愛の情が推し測られるような作品があるというのに。
これはどういうことでしょうか。

思うに、親愛の情が双方にとって揺るぎないものと感じられるとき、
人は安心して相手に甘え、無遠慮になれるのかもしれません。
ですが、それが片思いであるとき、あるいは相手の気持ちが見えないとき、
人は却って居住まいを正すもののように思われます。

2026年2月4日

曹植の詩と曹丕の詩

先日、黄節の指摘に啓発されて、
曹植「雑詩六首」其二の結び「去去莫復道、沈憂令人老」が、
曹丕「雑詩二首」其二の結び「棄置勿復陳、客子常畏人」に学んだ可能性を述べました。

その後、「贈白馬王彪」詩の訳注を見直していて、
「棄置莫復陳(棄て置きて復たは陳ぶる莫かれ)」という、
まさしく曹丕の前掲句にほぼ同じ句のあることに行き当たりました。

これに類似する句は、『文選』巻29「古詩十九首」其一にも、
「棄捐勿復道(棄捐して復た道ふこと勿かれ)」と見えていますから、
曹丕・曹植ともに、この古詩に基づいたのだという見方も十分成り立つでしょう。

しかしながら、前掲の曹丕の「雑詩」と曹植の「雑詩」とは、
辞句の類似性のみならず、結句に至って換韻する点でも共通していました。

そして、「贈白馬王彪」詩と曹丕の前掲詩とがほぼ同一の句を共有しているのです。

この他、曹植「雑詩」其一の「孤雁飛南遊(孤雁 飛びて南に遊ぶ)」は、
曹丕「雑詩二首」其一にいう「孤雁独南翔(孤雁 独り南に翔る)」とよく似ています。

これらのことを考え合わせると、
曹植は曹丕の作品を愛誦し、よく取り込んでいると見てよいように思います。
このことは、特に曹植「雑詩六首」の捉え方に影響する可能性があるかもしれません。

2026年2月3日

「艶歌・翩翩堂前燕」雑感

昨日言及した古楽府「艶歌・翩翩堂前燕」は、次のような詩です。

翩翩堂前燕  ひらりひらりと座敷の前に飛ぶ燕、
冬蔵夏来見  冬は隠れていて、夏がやってくると現れる。
兄弟両三人  兄弟が二三人、
流宕在他県  故郷を離れた土地をさすらっている。
故衣誰当補  古びた着物は誰が継ぎ当てしてくれようか。
新衣誰当綻  新しい着物は誰が繕ってくれようか。
頼得賢主人  幸いなことに賢明なるご主人にめぐり会い、
覧取為我䋎  その方は綻んだ着物を手に取って、私のために繕ってくださった。
夫壻従門来  かの婿殿は門から入ってくると、
斜柯西北眄  身を斜めにして妻のいる西北の方を横目で見る。
語卿且勿眄  君に語って聞かせよう。まあとりあえず横目で見るのは止めよ。
水清石自見  水が清らかに澄めば、石は自ずから現れるというものだ。
石見何累累  石のなんと累々と重なって見えていることか。
遠行不如帰  遠い土地を旅ゆくよりは、家に帰る方がずっとよい。

「石見何累累」とは、潔白が証明されたということをいい、
潔白ではあるけれども、疑われるよりは「遠行不如帰」ということでしょう。

この古楽府を読んで、夫婦の力関係に興味を引かれました。
ここでは、妻の方が「賢主人」と称せられ、
夫はといえば、こそこそと妻のあらぬ不貞を疑う小人物という設定です。
その夫に話しかけているのは「遠行」の人でしょうか、
その人に、「卿」と呼びかけられています。
この二人称については、かつてこちらで検討したことがありますが、
この場合も、どちらかというと相手をやや軽んずるニュアンスがあるようです。

民間文芸の類には、このように堂々たる女性がしばしば登場します。
(このことは、曹植「鼙舞歌・精微篇」に関連して幾つか指摘したことがあります。)
古楽府「艶歌・翩翩堂前燕」にも、そうした事情が垣間見えるように思います。

それからもうひとつ、
「西北」は、女性のいる方角を示す語として古楽府にも見える、
つまりは、非常に基層的な発想に基づく語であるということがわかりました。

2026年2月2日

曹植「雑詩六首」其二について(追記)

以前、こちらに書いたことについて追記します。

曹植の「雑詩六首」其二は、末尾二句に至って換韻します。
このことについて、黄節がこう指摘していました。

この様式は、曹丕の雑詩「西北有浮雲」(『文選』巻29)と同様であり、
それは、古楽府「艶歌・翩翩堂前燕」に由来するものだろう、と。

「艶歌・翩翩堂前燕」は、たしかに換韻については黄節の指摘どおりですが、
表現様式については、それほどの関係性は見出せませんでした。

一方曹丕の「西北有浮雲」詩の結句は、換韻のみならず、表現までもよく似ています。
(本詩の全文は、こちらをご覧ください。)

棄置勿復陳  棄て置きて復た陳(の)ぶること勿(な)かれ
客子常畏人  客子は常に人を畏る

曹植が曹丕の詩に学んでいるのか、
それとも、こうした様式は珍しくないものなのでしょうか。

曹丕のこの雑詩は、
結句以外にも曹植「雑詩六首」其二と似通った要素を持っています。
それは、風が自分を吹き飛ばし、ある所に至らしめるという内容の次の句です。

惜哉時不遇  惜しい哉 時に遇はず
適与飄風会  適(たまたま)飄風と会ふ
吹我東南行  我を吹きて東南に行かしめ
行行至呉会  行き行きて呉会(呉・会稽)に至る

曹丕・曹植の両詩の間に何らかの影響関係があったのかどうか、
これだけでは何とも言えないのですが、通り過ぎることができないでいます。

2026年2月1日

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