曹植「当車以駕行」の不可解さ(承前)
一昨日、曹植「当車以駕行」の不可解さを挙げましたが、
それらの箇所について、先人がどう注釈しているか当たってみました。
「主人離席」の「主人」について、黄節はこう注しています。
(説明の仕方はこちらでアレンジを加えています。)
賓客の歓待について詳細に記す『儀礼』燕礼に、
「賓」の動作に対応させて「主人」の所作が記されているが、
その鄭玄注に「主人とは、宰夫なり」とあることから、
本詩にいう「主人」も「宰夫」すなわち賓客への供応を司る者であろう。
ただ、魏の宴会儀礼においても、「主人」が「宰夫」を指すのか、
あるいは曹植の自称なのかは不明である、と。
その上で、「主人離席」とは、
同『儀礼』燕礼にいう「賓拝酒、主人答拝(賓 酒を拝し、主人 拝に答ふ)」
すなわち、賓客への対応時のことをいうのだとしています。
これなら、「主人が席を離れる」ことに不可解さはありません。
この場合は、宴席の主催者とは別に「主人」がいるということになるでしょうか。
2025年10月13日
曹植「当車以駕行」の不可解さ
先日来取り上げている「当車以駕行」は、
奇妙に感じるところの多い詩です。
まだ訳注稿は完成していませんが、
その本文と書き下しのみを示せば次のとおりです。
(宋本系テキストとの異同については反映させていません。)
01 歓坐玉殿 玉殿に歓坐し、
02 会諸貴客 諸貴客に会す、
03 侍者行觴 侍する者は觴を行(まは)し、
04 主人離席 主人は席を離る。
05 顧視東西廂 顧みて東西の廂を視、
06 糸竹与鞞鐸 糸竹と鞞鐸とあり。
07 不酔無帰来 酔はずんば帰り来たること無かれ、
08 明灯以継夕 明灯 以て夕に継ぐ。
この詩は宴席を描写していることには違いありません。
それなのに、5句目で「東西廂」を「顧視」しているのはどういうわけでしょうか。
「東西廂」は宴席が設けられる場として、
たとえば曹操「駕六竜・気出倡」(『宋書』巻22・楽志三)にも、
「東西廂、客満堂。主人当行觴(東西廂、客 堂に満つ。主人は当に觴を行すべし)」と見えています。
その宴の場を遠くから振り返って眺めているとは。
その「東西廂」を「顧視」しているのは、
4句目で「離席」した「主人」なのだろうと見られますが、
ではなぜ「主人」は「離席」したのでしょうか。
その「主人」と本詩を詠じている人とは、どのような関係にあるのでしょうか。
自身を「主人」と称しているのか、自分以外の人物を指して「主人」と言っているのか。
また、7句目にいう「不酔無帰来」は、
『毛詩』小雅「湛露」にいう「厭厭夜飲、不酔不帰(厭厭たる夜飲、酔はずんば帰らず)」に基づく、
宴席で客人が引き留められる時の常套句で、
王粲「公讌詩」(『文選』巻二十)に「不酔且無帰」、
応瑒「侍五官中郎将建章台集詩」に「不酔其無帰」との類似句が見えていますが、
曹植の本詩句の末尾には「来」が付いている、これは何を言い表そうとしているのでしょうか。
訳注稿ができる頃には、これらの疑問点もいくらかは晴れているか、
それともますます霧中に入り込んでいるかわかりませんが、
考察の中途経過のメモを残しておきます。
2025年10月11日
漢魏詩の基本リズム
曹植「当車以駕行」の第一句は、
丁晏『曹集詮評』では「歓坐玉殿」に作りますが、
宋本『曹子建文集』及び『楽府詩集』は「坐玉殿」の三字に作ります。
本詩の様式について、丁晏は、
「上四句は四言、下四句は五言、又一変格なり」と注記しています。
「又」と言っているのは、
本詩の前に収載する「当事君行」の様式について、
「一句は六言、一句は五言にして合韻(一韻到底)なり。別に是れ一格なり」
と記していることを受けての注記だと思われます。
「当事君行」も「当車以駕行」も、
破格ではあるものの、ひとつの様式ではあるということでしょう。
そこで立ち止まらざるを得ないのは、
少なくとも宋代に行われていた曹植作品では、
「当車以駕行」の一句目は三言であるという事実です。
三言と四言とは、おそらく同じリズムに乗るのではないでしょうか。
というのは、昨日言及した曹丕「大牆上蒿行」では、
次のとおり、三言の句に四言の句が続いているからです。
排金鋪、坐玉堂、風塵不起、天気清涼。
奏桓瑟、舞趙倡、女娥長歌、声協宮商、感心動耳、蕩気回腸。……
金鋪を排し、玉堂に坐せば、風塵 起きず、天気 清涼なり。
桓瑟を奏し、趙倡舞ひ、女娥は長歌し、声は宮商に協ひ、
心を感ぜしめ耳を動かし、気を蕩ぜしめ腸を回す。……
古川末喜氏によって提起された、
「中国の韻文の根底には共通して八音リズムが流れている」との説は、*
古楽府を含めた漢魏詩の様々な作品の中に、その実例を見ることができます。
一句を構成する文字だけがメロディに乗っているのではなく、
そのメロディには、空白の拍も乗っていると考えてみたらどうでしょうか。
曹丕の「大牆上蒿行」は、
前掲の三言、四言に加えて、五言、七言、六言までもが混在する楽府詩です。
これらの長短不揃いに見える句が、
すべて、安定的な八音のリズムに乗っているのだとしたら、
曹植の「当車以駕行」も、
一句目が三言、その後に四言が、更に五言が続くと考えられなくもありません。
ただ、これはやはり破格と感じられる。
だから、明代の(あるいは宋から明に至る時代の)人々が、
「坐玉殿」に「歓」の一字を付け足して、「歓坐玉殿」と四言に揃えた、
という可能性も否定できないように思います。
2025年10月10日
*古川末喜『初唐の文学思想と韻律論』(知泉書館、2003年)第Ⅲ編第四章「中国の五言詩・七言詩と八音リズム」(初出は『佐賀大学教養部研究紀要』第26巻、1994年)を参照。
曹丕「大牆上蒿行」と曹植詩
曹植「当車以駕行」の第一句「歓坐玉殿」は、
類似句が『焦氏易林』巻3「萃之晋」に、
「安坐玉堂、聴楽行觴(玉堂に安坐し、楽を聴き觴を行(まは)す)」と見えます。
ただ、これは宴席を詠じる言葉として特に珍しいものでもないように感じ、
漢籍リポジトリ(https://www.kanripo.org/catalog)で、
他の用例にも当たってみたところ、
曹丕「大牆上蒿行」(『楽府詩集』巻39)に、
「排金鋪、坐玉堂(金鋪を排し、玉堂に坐す)」とあるのに遭遇しました。
曹丕のこの楽府詩も、特にその後半が宴席風景を描写するものです。
曹植は、兄のこの楽府詩を知っていたのではないか。
ふとそう感じたのは、この「大牆上蒿行」という楽府題に既視感を覚えたからです。
それは、曹植の「当牆欲高行」(05-32)です。
「大牆上蒿」と「牆欲高」とでは、一見それほど似ていないかもしれません。
けれども、「蒿」と「高」とは、同じ響きを持つ字ですし、*
「上」と「欲高」との意味の近さも目に留まります。
「大牆上蒿行」という楽府題は、
『楽府詩集』巻36、瑟調曲に引く『古今楽録』によると、
劉宋の王僧虔「大明三年宴楽技録」に瑟調曲のひとつとして著録されています。
だから、『楽府詩集』は曹丕の本作品を広義の相和歌辞の瑟調曲に収載するのでしょう。
一方、曹植「当牆欲高行」の方は、
『楽府詩集』巻61に、雑曲歌辞のひとつとして収載されています。
そこには、本詩に続いて、同じ曹植の作品が、
「当欲遊南山行」「当事君行」「当車已駕行」と並んでいます。
本歌が判明している「当来日大難」(05-20)以外の、
本歌が不明な替え歌が、ここに一括して収められているような感があります。
その本歌が不明な「当牆欲高行」ですが、
もしかしたら「大牆上蒿行」に由来するものなのかもしれません。
もしそうであるならば、曹丕のかの楽府詩と同源だということになります。
可能性としてはそれほど高いわけではありませんが。
曹丕「大牆上蒿行」と曹植「当牆欲高行」とでは、内容がまるで異なっていますが、
楽曲が活きていた時代であれば、それは問題になりません。
むしろ、どう違うか、興味深いところです。
不確実なことから出発して暴走してしまいました。
あくまで思いつきとして記しておきます。
2025年10月9日
*『広韻』ではありますが、「蒿」と「高」とはともに下平声06豪韻に属し、「蒿」は「呼毛切」、「高」は「古労切」とそれぞれの音が反切法で記されています。声母は異なるけれども、韻母は同じ、かなり近似する音だと見られます。
宋本『曹子建文集』
昨日から、曹植「当車以駕行」(05-35)の訳注作業に入りました。
ここまでの訳注稿では、基本的に丁晏『曹集詮評』を底本とし、
必要に応じて、当該作品を収載する類書や諸々の作品集との異同を記してきました。
ところが、ふと思い立って宋本『曹子建文集』を開いてみたところ、
本作品は、題名から本文から丁晏『詮評』との間にかなりの異同があって、
これまで、宋本との校勘をそれほど重要視してこなかったことに恥じ入りました。
丁晏の『曹集詮評』は、明万暦休陽程氏刻本十巻を底本としています。
現代の私たちは、丁晏の目睹できなかった宋本を容易に見ることができます。
それなら、この恩恵に浴しないわけにはいかないでしょう。
今手元にある『宋本曹子建文集』(国家図書館出版社、2021年)の、
劉明氏による「序言」には、次のように記されています。
宋代の十巻本系統の曹植集で今に伝わるものには二種あって、
ひとつは『四庫全書総目』にいう「南宋嘉定六年本」で、四庫全書本はこれに拠る。
もうひとつは瞿氏鉄琴銅剣楼旧蔵、現上海図書館所蔵の宋刻本『曹子建文集』で、
これは、国内外の孤本である。
孤本というものの扱いには詳しくありませんし、
何でも古ければ古いほど正しいと信じているわけではありませんが、
重要視すべきテキストであることには違いありません。
同じ宋代に成った『楽府詩集』とは、
関係の近さを感じさせるものが認められるかもしれません。
公開済みの訳注稿や電子資料の[曹植の全作品テキストと校勘]で、
宋本との校勘によって改めるべき内容が出てきたら、
これから随時修正していきます。
2025年10月8日
雅俗の拮抗
曹植「当事君行」の中に、次のような句があります。
朱紫更相奪色 朱と紫とが互い違いにその色を奪い合い、
雅鄭異音声 雅楽と鄭声(俗楽)とはその音を異にしているものだ。
これは、『論語』陽貨篇にいう、
悪紫之奪朱也。 紫の朱を奪ふを悪むなり。
悪鄭声之乱雅楽也。 鄭声の雅楽を乱すを悪むなり。
を踏まえた表現であることは間違いありません。
ただ、曹植は『論語』の趣旨をそのまま踏襲しているわけではないようです。
『論語』は、朱色や雅楽を正統とした上で、それを乱す紫色や鄭声を憎んでいます。
ところが曹植詩では、その雅俗両者の関係が対等であるように見えます。
そして、その「雅鄭異音声(雅鄭 音声を異にす)」は、
次に示す、傅毅「舞賦」(『文選』17)にいう、
「鄭雅異宜(鄭雅は宜しきを異にす)」を響かせている可能性があります。
傅毅の「舞賦」は、次のような趣旨のことがその初めに書かれています。
宴席での出し物として俗楽系の舞踊を勧めた宋玉に対して、
楚の襄王から「如其鄭何(其の鄭を如何せん)」との疑念が示されます。
それに対する宋玉の答えが、前掲の「鄭雅異宜」です。
傅毅は宋玉の口を借りて、それぞれ用途が異なる雅俗の共存を説いているのです。
傅毅は後漢時代前期の人ですが、
この頃から、古詩・古楽府をはじめとする軟派な宴席文芸は、
知識人社会の中に、表舞台に立つ正統派文学と共存しながら展開していきます。*
曹植は、このような文学的潮流の中にあって、
前掲のような辞句を自然に口にするに至ったのではないでしょうか。
(彼が独自に創り上げた詩想であると見るよりも)
こうした雅俗の並立する後漢時代の文化的情況を捉えてこそ、
建安文学の位置も明確になると考えています。
2025年10月7日
*このことについては、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)を通して論じています。ご笑覧いただければ幸いです。
訳注の難しさ
本日、「当事君行」(05-34)の訳注稿を公開しました。
この作品に感じた訳注の難しさを記しておきます。
まず、典故を踏まえた表現である場合、その出典の示し方です。
先日来考えてきた「百心可事一君」という辞句の出典は、
結局、『説苑』談叢にいう「一心可以事百君、百心不可以事一君」を挙げました。
というのは、続く句「巧詐寧拙誠」に近似する句が、
同じ『説苑』談叢の前掲文のすぐ上に「巧偽不如拙誠」と見えているからです。
『説苑』貴徳にも、一字違いで「巧詐不如拙誠」とあります。
ですが、曹植が詩作に当たってわざわざこの貴徳にある句を拾ったというよりは、
もともと談叢の句が貴徳のそれと同じであった、
あるいは(現行の)談叢の句を見た曹植が、それに手を加えたのかもしれない、
と考えた方がよいように思いました。
語釈に示す出典は、できることならば作者の目睹したものを挙げたい。
彼の手と目がたどった道筋が見えるものならば、と思います。
もう一点、この作品で難しいと感じたのは、通釈です。
当時広く流布していた言葉を寄せ集めた感のある本詩は、
そのことわざめいた言葉と言葉との間に奇妙な余白があるため、
直訳するとおかしな日本語になるところが少なくありませんでした。
また、日本語と漢語とでは本質的に構造が違いますから、
漢語で表現されている内容を過不足なく日本語で言い表そうとすると、
逐語訳ではどうしても日本語として不自然なことになります。
漢語のどの言葉の意味を、日本語のどの部分が受けているか、
それを説明することはできるつもりではありますが、
直訳というには程遠いものとなります。
訳注は、たいへん地味な作業ですが、面白いです。
2025年10月6日
広く流布する辞句(承前)
昨日の続きです。
『晏子春秋』内篇問下にいう「一心可以事百君、三心不可以事一君」は、
同一の句が、同書の外篇上にも見えています。
このいずれもが、梁丘拠(斉の景公の臣下)の問いに応えた晏子の科白の中にあります。
ところが、『晏子春秋』外篇下に記された故事では、
孔子が斉の景公に謁見した際、晏子に会わない理由を問われ、
晏子事三君而得順焉、是有三心。所以不見也。
晏子は三人の君主に仕えて従順でいられた。これは三つの心があるということだ。
だから(そんな心根に一貫性のない者には)会わないのだ。
と孔子が答えたところ、
これを景公から伝え聞いた晏子がこう言うのです。
不然、嬰為三心。三君為一心。故三君皆欲其国之安、是以嬰得順也。
そうではない、私(晏嬰)に三つの心があるというのは。
三君はひとつの心であった。
もとより三君はみなその国の安定を望んでいて、だから私は従順にお仕えできたのだ。
これと同じ内容の故事は、同書外篇下にもう一条見えていて、
そこでは、晏子の科白がこのようになっています。
嬰聞之、以一心事三君者、所以順焉。以三心事一君者、不順焉。……
私はこう聞いております。
ひとつの心で三人の君主に仕えることは、従順だとされる所以である。
三つの心でひとりの君主に仕えるのは、従順ではない、……と。
孔子と晏子が登場する同じ故事は『孔叢子』詰墨にも見えますが、
そこではそれに続けて晏子と梁丘拠とやりとりが記され、
そこに晏子の次の科白が出てきます。
一心可以事百君、百心不可以事一君、故三君之心非一也、而嬰之心非三也。
ひとつの心で百人の君主に仕えることはできるが、
百の心でひとりの君主に仕えることはできない。
もともと三人の君主の心はひとつではなく、私の心は三つではないのだ。
そして、この晏子の言葉を聞いた孔子が、晏子に感服するという筋書きになっています。
これはまるで、『晏子春秋』外篇下の記事に、同内篇等の記事を合体させたような外観です。
以上の記事を縦覧すると、こうまとめることができるでしょうか。
『晏子春秋』の外篇下に記された故事は、
「一」と「百」の対比ではなく、「一」と「三」の対比を為しています。
同書の内篇及び外篇上では、「一」と「百」、「一」と「三」の対比が混在しています。
一方『孔叢子』は、「一」と「百」の対を諺のように持ち出して、
それを、『晏子春秋』外篇下に見える「一」と「三」の対に対応させています。
それぞれの書物・篇の関係性については無知のままですが、
いずれ霧が晴れる日も来るかと思い、まずは覚書きを記しておきます。
「一心可以事百君、三心不可以事一君」を、
『詩経(魯詩)』曹風「鳲鳩」の伝として記す諸本があることは昨日記しましたが、
そちらの系統と、晏子をめぐる上述の故事との関係については待考です。
(すでに先行研究があるのかもしれませんが、未見です。)
2025年10月5日
広く流布する辞句
曹植「当事君行」の中に、
「百心可事一君(百の心で一人の君主に仕えることはできない)」という句があります。
この句について、黄節『曹子建詩註』巻2は、
『晏子春秋』内篇問下にいう「一心可以事百君、三心不可以事一君」を挙げ、*1
丁晏『曹集詮評』巻5は、『風俗通』過誉に引く伝に、*2
「一心可以事百君、百心不可以事一君」とあるのを挙げています。
出典の指摘として、どちらがより適切なのだろうと思って調べてみたところ、
これとほぼ同一の辞句が、他にも次のような文献に見出されました。
『孔叢子』詰墨に、晏子の言葉として「一心可以事百君、百心不可以事一君」、
『説苑』談叢に、「一心可以事百君、百心不可以事一君」、
『説苑』反質に、「一心可以事百君、百心不可以事一君」、
『列女伝』母儀伝「魏芒慈母」に、「一心可以事百君、百心不可以事一君」と。
これらのうち、
『晏子春秋』・『孔叢子』は、晏子の言動に連なるものです。
『説苑』反質・『列女伝』・『風俗通』は、「魯詩」の伝として記されています。
『説苑』談叢に記されているものは、いずれか判然としません。
ほとんど同じ辞句が、複数の文献に散見するというだけでなく、
ほぼ同一の句が、かたや晏子に、かたや「魯詩」の伝に連なることに興味を引かれます。
晏子と「魯詩」と、どういうわけでこのような辞句を共有しているのでしょうか。
あるいはこの問題に論及した先行研究がすでにあるかもしれません。
2025年10月4日
*1 黄節の引くところでは、「三」を「百」に作る。
*2 「伝」とは、陳寿祺撰・陳喬樅撰・馬昕臻点校『三家詩遺説考』魯詩遺説考巻二之四(中華書局、2024年)p.273―275によると、『詩経』曹風「鳲鳩」に対する「魯詩」の伝であるという。
古詩と古楽府との関係
昨日触れた「古詩八首」(『玉台新詠』巻1)其六「四坐且莫諠」は、
その内に、古楽府に見える辞句を多く取り込んでいました。
これとは逆に、古楽府が古詩の辞句を取り込んだ事例もあります。
たとえば「西門行」は、その本辞(『楽府詩集』巻37)も
晋楽所奏「大曲」の「西門行」(『宋書』巻21・楽志三)もともに、
「古詩十九首」(『文選』巻29)其十五「生年不満百」から多くを摂取しています。*1
古詩と古楽府との関係性について、
長い間、古楽府が古詩に展開したと見るのがほぼ定説でした。
特に先鋭的な論述として、たとえば白川静は、
「民衆の歌謡」が「新しい文学を生む母胎となる」とし、
古詩は、古楽府を母胎として生まれたのであり、
「古詩から楽府が生まれること」は「ありえない」としています。*2
詠み人知らずの楽府詩である古楽府の中には、
たしかに「民衆の歌謡」との呼称にふさわしいものが多くあります。
ですが、そうではないものもまた少なくありません。
他方、古詩諸篇を精読すれば、
それを一括して後漢時代末の作と見なせないことは明白です。
古楽府を一括して民衆のものとし、
古詩を一括して無名の知識人の作とする、
このある意味わかりやすいレッテルは一旦はがし取って、
個々の作品分析から精査し直した方がよいと私は考えています。
如上の論は、すでに過去の自分が提示したものですが、
今もなお、前掲の定説に依拠した研究は少なくないように思い、
敢えて昔のものを持ち出して紹介する次第です。
2025年10月3日
*1 論の詳細は、昨日紹介した拙論を参照されたい。
*2 白川静『中国の古代文学(二)』(中公文庫、1981年)p.132―133を参照。