曹植「聖皇篇」再考

以前、曹植の「鼙舞歌・聖皇篇」を読んでいた時、
その19句目から28句目に、どうにも解せない部分を残していました。
その時の通釈を、原文と併せて以下に示します。

19 主上増顧念  主上は諸王を顧慮する気持ちを募らせ、
20 皇母懐苦辛  皇母は苦辛の思いを胸に抱く。
21 何以為贈賜  何をもって下賜の品としたかといえば、
22 傾府竭宝珍  宮中の蔵を傾けて珍しい宝物をありったけ贈ったのだった。
23 文銭百億万  金銭は百億万、
24 采帛若煙雲  彩なす布帛は雲か霞のように。
25 乗輿服御物  輿に乗った皇帝陛下は御物を身に付けている、
26 錦羅与金銀  錦の薄物と金銀と。
27 龍旗垂九旒  龍の御旗は天子を表するふきながしを垂れ、
28 羽蓋参斑輪  羽飾りを付けた車蓋に、文様を施した車輪が入り混じる。

問題となるのは、25句目から28句目までです。
何が問題なのか、先日来言及している拙論からそのまま以下に抄出します(注は省略)。

「龍旗垂九旒」は、『礼記』楽記篇にいう「龍旂(旗に同じ)九旒、天子之旌也(龍旂九旒は、天子の旌なり)」を明らかに踏まえており、その主体は君主であると判断せざるを得ない。とすると、その前に見える「乗輿」も天子の意で取るのが妥当だろう。この四句の描写は、先立つ句「主上増顧念」との間に奇妙なねじれを生じている。離散を余儀なくさせる諸王に顧慮しつつ、豪華に飾り立てた姿で彼らを送り出すこの人物は、いったいどういう表情をしているのだろうか。しかも、このねじれは明瞭にそれと知覚されないよう、聞き手に対して巧みな誘導が為されているようにも感じ取れる。この部分の前には諸王への手厚い下賜を言い、続く第四段落では直ちに、君主の厚恩に感じ入り、国に対する忠誠を誓う諸王に目が転じられているからである。

この論文を書いていた当時は、曹植の兄、文帝曹丕を悪者と決めつけていたので、
(論文にあるまじき憤慨とともに)このような書き方をしているのですが、
この解釈だとやはり文脈を素直にたどることは難しくなります。

このねじれが、『後漢書』章帝八王伝(清河孝王慶)によって解けました。
そこには、次のような記述が見えていたのです。

まず、和帝が崩御すると、清河王劉慶は悲嘆のあまり病を発しました。
そしてその翌年、諸王はそれぞれの封国に赴いたのでしたが、
この記述の後に、次のような文が続いています。

鄧太后特聴清河王置中尉・内史、
賜什物皆取乗輿上御、以宋衍等並為清河中大夫。
 鄧太后は特に清河王に中尉・内史を置くを聴(ゆる)し、
 什物を賜ふに皆乗輿の上御を取り、宋衍等を以て並びに清河中大夫と為す。

このように、清河王劉慶は、鄧太后によって特別な待遇を受け、
下賜される品々は皆、天子の持ち物であったということが記されています。

先に示した曹植「聖皇篇」における奇妙な表現は、
実に、劉慶に対するこの異例の厚遇から来るものだったのではないでしょうか。

もしそうだとすると、
「聖皇篇」とそれが基づく「章和二年中」には再考が必要です。
この両作品は、後漢の章和二年中の出来事に強いつながりをもちつつも、
その章帝期の出来事が繰り返された、和帝期の出来事をも詠じている可能性があります。

なんとなく腑に落ちないところには、
やっぱりそれ相当の理由が潜んでいるものだと思いました。
そして、そのようなところには新たな知見を拓き得る鍵が隠されています。

2024年12月19日

漢代「鼙舞歌」相互の連関性

昨日指摘したように、
曹植「霊芝篇」の内容や詩中での『詩経』の引用は、
『後漢書』章帝八王伝(清河孝王慶)の記述とよく重なります。

曹植の「鼙舞歌」が、漢代のそれを忠実になぞっているものと仮定して、
(なぜそう仮定できるのかについては、昨日の注をご覧ください。)

曹植「霊芝篇」が基づいた漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」は、
前掲『後漢書』に記された史実と深く関わっている可能性がありそうです。

このことに加えて、少し付記しておきたいことがあります。
それは、昨日取り上げた『後漢書』章帝八王伝(清河孝王慶)の中に、
曹植の別の「鼙舞歌」、「聖皇篇」を連想させる記事が見えていることです。

まず、和帝の詔(昨日引用)に示された次のような辞句です。

選懦之恩、知非国典、且復須留。
 優柔不断な恩情は、国典に反すると分かっているが、まあしばらく逗留させよ。

これは、曹植「聖皇篇」に見える、次のような描写を彷彿とさせます。

侍臣省文奏  侍臣たちは、その文面を精査して上奏したけれども、
陛下体仁慈  陛下はもともと優しい人柄であるから、
沈吟有愛恋  骨肉への愛着からあれこれと考え込んでしまって、
不忍聴可之  大臣たちの上奏に耳を傾けてこれを許可するのに忍びない。

再び『後漢書』の記述に戻って、
和帝の兄弟たちは、上記の詔によって都での逗留が許されていたのでしたが、
和帝崩御の翌年(106)、「諸王は国に就く」こととなりました。

これには、強い既視感を覚えます。
曹植「聖皇篇」が基づいた漢代「鼙舞歌」の「章和二年中」、
その章和二年(88)に起こった出来事が、今またここで繰り返されているのです。
(詳細は、昨日の注をご覧ください。)

このようにみてくると、
漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」と「章和二年中」とは、
何か密接な繋がりを持っているのではないかと思えてなりません。

2024年12月18日

曹植「鼙舞歌」と漢代「鼙舞歌」

曹植「鼙舞歌」は、基本的に漢代「鼙舞歌」を襲うものだと考えます。
ただ、五篇の全てが本当にそうだと言えるのかと問われれば、
躊躇するところも正直ありました。

漢代の「章和二年中」に当てられた「聖皇篇」はほぼ確実にそう言えます。*
同じく漢代「鼙舞歌」の「関東有賢女」に当てられた「精微篇」も、
その内に「関東有賢女」という句をそのまま含んでおり、
その関東の賢女と同類の故事が本詩中に列挙されていることから、
「精微篇」が「関東有賢女」を踏襲していることはほぼ確実と見てよいでしょう。
では、それ以外はどうでしょうか。

本日、上記の二篇に加えて「霊芝篇」もまた、
漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」を踏襲するという見通しを得ました。

きっかけは、孝子故事が列挙される「霊芝篇」の中に、
次のような辞句が見えていたことです。

蓼莪誰所興  「蓼莪」は、誰がこれを暗喩で詠じたのか、
念之令人老  この詩を繰り返し思えば、私はすっかり老け込んでしまう。
退詠南風詩  退居して南風の詩を詠ずれば、
灑涙満褘抱  流れる涙がひざ掛けに満ちる。

「蓼莪」は、『詩経』小雅の中の一篇で、
その小序には、「孝子は養を終ふるを得ざるのみ」という状況になるまで、
民人たちを疲弊させている幽王を非難する詩だと解説されています。

「南風詩」とは、『詩経』邶風「凱風」を指していい、
その小序には、「凱風」は孝子を賛美する詩だと、その主題が示されています。

この二篇の詩が、孝子を列挙する「霊芝篇」に登場するのはごく自然ですが、
それらを併せて用いている例が、『後漢書』巻55・章帝八王伝(清河孝王慶)に引く、
和帝(在位88―105)の詔の中にも次のように見えていたのです。

諸王幼稚、早離顧復、弱冠相育、常有蓼莪、凱風之哀。
 諸王(和帝の兄弟たち)は幼い頃に父母の手から引き離され、
 成人後は自分(和帝)が面倒をみているが、
 彼らはいつも「蓼莪」や「凱風」の悲哀を抱いている。

『後漢書』本伝によると、
清河王劉慶は、理不尽な死を遂げた母親を終生思い続けました。
もしかしたら、曹植「霊芝篇」が拠った漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」は、
こうした史実や前掲の和帝の詔とつながりを持っていて、
そのために、歌辞中に「蓼莪」「凱風」を含んでいたのではないか。
ならば、孝子故事を列挙して詠ずる曹植「霊芝篇」もまた、
漢代「鼙舞歌」を忠実になぞっていることになります。

2024年12月17日

*拙稿「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として」(『中国文化』第73号、2015年)を参照されたい。

民間説話における「母」への傾き

孝行息子たちの故事は、
『法苑珠林』巻49・忠孝篇に、感応縁として十五験が引かれています。*1
その中には、曹植「鼙舞歌・霊芝篇」にも言及されていた
舜、丁蘭、董永、伯瑜の記事も見えています。

このうち、意表を突かれたのが丁蘭の故事です。
晋の孫盛『逸人伝』(『初学記』巻17)をはじめとして、
丁蘭は、父母を失い、木で親の像を作ってこれに仕えたとされています。
ところが、『法苑珠林』に記されているところでは、
「年十五喪母、刻木作母事之、供養如生」となっています。
木に彫られ孝養を尽くされるのは、両親ではなく、母親のみなのです。
これに続く記述も、前掲の『逸人伝』とはまるで違っています。

孝子丁蘭は、後漢の武梁祠画像石にも刻まれていますが、
その銘には「丁蘭二親終歿、立木為父、隣人假物、報乃借与」とあって、
木彫りの像がつくられたのは、父親のみと記されています。*2

これを見て想起させられたのが、過日言及した董永の故事です。
劉向『孝子図』や曹植「霊芝篇」では、彼が我が身を売って葬ったのは父でしたが、
敦煌文献では、それが父母となっていたのでした。

漠然とした感触ですが、
民間文芸の中枢に近づくほど、「母」の存在が大きくなっていくようです。

曹植「鼙舞歌・精微篇」などでも詠じられていた、
父親を窮地から救い出す勇敢な娘たちの物語も併せて想起されます。*3

時代が下るにつれ、母が父に替わってその存在感を増していくのか、
それとも、もともと民間では母なる存在が大きかったところ、
知識人の手に成る文献では、儒教的規範により父が重んぜられて記されたのか、
今は結論を急ぐことはしないでおこうと思います。

2024年12月16日

*1 この資料のあることは、金岡照光「敦煌本「董永伝」試探」(『東洋大学紀要 文学部篇』第20号、1966年)によって教えられた。
*2 長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)p.77、張道一『漢画故事』(重慶大学出版社、2006年)p.124を参照。
*3 下見隆雄『儒教社会と母性―母性の威力の観点でみる漢魏晋中国女性史』(研文出版、1994年)第八章は、彼女たちの言動を母性発揮という視点から捉える。

敦煌文献における孝子董永

曹植の「鼙舞歌・霊芝篇」には、孝子董永の故事も詠み込まれています。

董永の故事を書き記す古い文献として、
劉向(前77―前6)の『孝子図』(『太平御覧』巻411)、
干宝(?―336)の『捜神記』巻1などがあり、
画像資料としても、漢代の武梁祠に描かれたものがあります。*1

これらの資料と、曹植作品に詠われた董永の故事との間には、
いくつかの微細な相違点が認められますが(こちらに記しています)、
それはまだ小さな違いに過ぎません。

董永の故事は敦煌文献の中にもあって、
昨日示した金岡照光先生の論著の中で詳しく論じられており、*2
(しかも、武梁祠の石刻画像や曹植「霊芝篇」にも言及されています。)
早くには鄭振鐸『俗文学史』第五章「唐代的民間歌賦」に紹介されていますが、*3
それと曹植作品等との違いに少なからず驚かされました。

敦煌文献では、董永が葬って孝養を尽くしたのは、父母です。
曹植「霊芝篇」等では、それは父のみでした。

また、敦煌文献ではその後半、董永と天女との間に生まれた子が登場します。

これらの相違点は、唐代に入り、その社会の変化を背景に生じた要素でしょうか。
それとも、もともとあったものがたまたま唐代に記されたのでしょうか。

2024年12月14日

*1 長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)p.80を参照。
*2 金岡照光『敦煌の文学文献』(大東出版社、1990年)p.517―546を参照。
*3 鄭振鐸著、高津孝・李光貞監訳『中国俗文学史(東方学術翻訳叢書)』(東方書店、2023年)p.170―176を参照。

舜の孝行と農耕(承前)

先にこちらこちらに述べたことについて、
同様のことを指摘する先人の論があったので追記します。

それは、金岡照光『敦煌の文学文献』(大東出版社、1990年)所収
「孝行譚―「舜子変」と「董永伝」」中の「舜孝子伝の原型と構成要素」です。

この論著のp.496に、
『史記』五帝本紀に見える舜の記事が腑分けされた上で、
それらの要素に論究する、青木正児の次のような所論*が紹介されています。

これらは帝堯、帝舜の禅譲と、直接関連なき、親子の間の物語である。青木博士は、こうした物語と、歴山、河浜、雷沢等で農漁業に従事する話は、民間伝説を採用したものではないかと疑っておられる。……

続いて、『孟子』万章上に記された舜の親子関係に触れる記事を挙げ、
その中の、舜の親が子に殺意を持つ二つのエピソードが『史記』にも見えることから、
舜説話の原型に、すでにこの物語は含まれていたと考えることが可能だとされ、
更にこうも述べておられます。

『孟子』のこの部分の記述が、『孟子』の他の文とちがって、古い佚文を反映しているのではないかという疑が、すでに先学によって指摘されている。
(ここにいう「先学」とは、先にも引用されていた青木正児です。)

更に、如上の具体的な検討を通して、次のような見通しが導き出されています。

そもそも孝子説話は、親子関係という本来人間的な関係に発しているものであるため、経史書の伝承とは別に、むしろ民間において流布せる孝子説話の伝承をこそ、重視しなければならないものであろう。

これで霧が晴れました。
曹植「鼙舞歌・霊芝篇」の中に民間文芸が埋もれているとの仮説、
その方向に向かっていくことができると確信しました。

2024年12月13日

*青木正児「堯舜伝説の構成」(脱稿は1926年11月27日。初出は雑誌『支那学』第四巻第二号。『青木正児全集第二巻』(春秋社、1970年)所収『支那文学芸術考』(弘文堂、1942年)に収載)を参照。

曹植の「棄婦篇」と「贈徐幹」

昨日指摘した通り、
曹植「棄婦篇」と徐幹「室思詩」との間には、
ほとんど同一といってよい辞句が共有されています。
そこから想像をたくましくし、もしかしたら「棄婦篇」は、
徐幹を視野に入れることによって読み解けるかもしれないと述べました。

そのように述べたのは、
「贈徐幹」詩に、徐幹を描いたと見られる次の句、

顧念蓬室士  振り返って粗末な草堂に暮らす人物に思いを致せば、
貧賤誠足憐  その貧賤のあり様にはまことに憐憫を禁じ得ない。
薇藿弗充虚  のえんどうや豆の葉では空腹を満たせないし、
皮褐猶不全  粗末な皮衣では身体を十分に覆うこともできない。

これと、「棄婦篇」に見える次の句、

棲遅失所宜  世間から離れて居場所を失い、
下与瓦石并  身を落として瓦や石などと共にいる。

この両者が重なって見えたからです。

もちろん、表現そのものはそれほど似ていません。
けれども、「棄婦」という当時としてはよくあるテーマの詩の中に、
かなり唐突に現れるこの句は、ただ単に「棄婦」を詠じたようには見えません。
それよりも、前掲の「贈徐幹」の方に近い感触があります。

「棄婦篇」も「贈徐幹」詩も読み難い作品で、
これまでにも何度か取り上げて考察したことがあります。
読み難い作品をかけあわせると、かえって謎が氷解する場合もあります。

2024年12月11日

曹植「棄婦篇」と徐幹

昨日、曹丕「雑詩」にいう「展転不能寐」が、
徐幹「室思詩」にまったく同じ句として見えていることを示しました。

この徐幹の詩句「展転不能寐」に学んだかと見られる表現が、
曹植「棄婦篇」にも次のように見えています。

反側不能寐  転々と寝返りを打って眠られず、
逍遥於前庭  前庭をぶらぶら歩き回る。

曹植詩の「反側」は、先に本詩の語釈で示したとおり、
『毛詩』周南「関雎」にいう「輾転反側」を踏まえたものです。

この『詩経』の句「輾転反側」のうち、
徐幹は「輾転」の方を用いて「展転不能寐」と、
曹植は「反側」の方を用いて「反側不能寐」と詠じています。
曹植は、徐幹の詩を意識しつつ、それをわずかにずらしたのかもしれません。

「不能寐」というフレーズの方は、
『文選』巻29「古詩十九首」其十九にいう「憂愁不能寐」以来、
建安詩人たちの作品には少なからず見いだせるものです。
けれども、これが「輾転」「反側」と結びついている点では、
現存作品を見る限り、この時代、徐幹、曹丕、曹植の三人に限られます。

以前、曹植「棄婦篇」の分かり難さについて書きましたが、
もしかしたら、徐幹という人物を介して解けてくることがあるかもしれません。

2024年12月10日

伝統的語釈の盲点

曹丕の「雑詩二首」(『文選』巻29)其一に、こうあります。

展転不能寐  転々と寝返りをうって寝つかれず、
披衣起彷徨  衣を羽織り、起き上がってあちらこちらと歩き回る。
彷徨忽已久  あちらこちらと歩き回るうち、いつしか時はすっかり過ぎていて、
白露沾我裳  白露が私の着物の裾を濡らしている。

ここに挙げた句のうち、
1行目は、徐幹「室思詩」(『玉台新詠』巻1)に、同一句がこう見えています。

展転不能寐  転々と寝返りをうって寝つかれず、
長夜何綿綿  長い夜のなんと連綿と続いてゆくことか。
躡履起出戸  はきものをつっかけて、起き上がって戸口を出て、
仰観三星連  天を仰いで三星の連なっているのを見つめる。

また、曹丕の前掲詩4行目によく似た句が、
王粲「七哀詩二首」其二(『文選』巻23)にこう見えています。

迅風拂裳袂  疾風が吹いて衣の裾や袂を払い、
白露沾衣襟  白露が降りて衣の襟を濡らす。
独夜不能寐  ひとりで過ごす夜は寝つかれず、
攝衣起撫琴  衣を整えて、起き上がって琴をつまびく。

これほど相互によく似た句は、それほど多くはありません。
前後の文脈から見ても、曹丕の作品がこの両詩に学んでいることは明確です。

曹丕は、彼を取り巻く建安文人たちから多くを薫陶を受けていたはずで、
その証が、酷似する表現として、彼の作品中に刻印されているように感じられます。

ですが、『文選』李善注は、これら同時代の作品には触れていません。
伊藤正文氏の「曹丕詩補注稿」でも同様です。*

唐代の李善注をはじめ、一般的な語釈の付け方としては、
取り上げる価値のある表現は、先行する古典的作品に典拠をもつものであって、
近い時代の作品どうしの継承関係については、ひとまず置いておく、
という基本姿勢が不文律で共有されているような気がします。

この常識を外してみると、見えてくるものが少なくなさそうです。

2024年12月9日

*伊藤正文「曹丕詩補注稿(詩・闕文・遺句)」(『神戸大学教養部紀要』第25号、1980年)を参照。

舜の孝行と農耕(訂正)

舜が親に孝養を尽くしたということと、
彼が農耕に従事したということとを同時に述べる文献は少ない、
と、本日昨日述べましたが、これを訂正します。

こうした内容の記述は、『孟子』万章章句上、
「舜往于田、号泣于旻天。何為其号泣也
(舜は田に往き、旻天に号泣す。何為れぞ其れ号泣するや)」以下に見え、
その趙岐注には、「謂耕于歴山之時(歴山に耕す時を謂ふ)」との解説があります。

先に私は「歴山」をキーワードにして諸テキストを検索しただけで、
そこから先を掘り下げていませんでした。

『孟子』の記述は、黄節『曹子建詩註』に指摘されていました。

本当に恥ずかしい。
自分の研究の底の浅さと、昔の研究者の底力を痛感しました。

2024年12月5日

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