疑問点を記すこと
「責躬詩」訳注稿の見直し作業に並行して、
これまで日々雑記の中で記してきた本作品に対する疑問を読み返しています。
(「札記」とは誠におこがましい限りで、「疑問」が妥当です。)
すると、史実と本作品とが食い違うと記したことのうち、
実はその「史実」は、むしろ曹植の言葉によって修正されるべきものである、
ということが、今は明らかとなっている事例が目に入ってきました。
特に大きいのは、曹植らが魏の都を離れ、各封土へ赴いた時期です。
これは、本作品の熟読、及びそれと彼の「諫取諸国士息表」との照合により、
黄初元年(220)から翌年はじめにかけてであったと今は言えます。*
曹丕が魏王であった延康元年(220)中のことではないようです。
(このこと自体は、すでに何度か述べています。)
疑問点を記してきてよかったと思いました。
分かったことばかりを書き連ねていたのでは打破できない壁でした。
彼自身による言葉の中には、
一般に語られている史実を修正する力があります。
私はそれを掬い上げ、彼の無念を晴らしたいとひそかに思います。
それとともに、魏王朝のリアルな空気を、文学作品を通して描き出せたらうれしい。
文学研究の立場から、歴史学研究に提供できるものがあるかもしれません。
(前にも書いたことかもしれませんが、敢えてまた。)
2026年3月6日
*柳川順子「黄初年間における曹植の動向」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第2号、2023年)を参照されたい。
「責躬詩」の修正
昨日、平仄とともに記した「責躬詩」の通釈(現時点での仮の訳)に、
以前に示したものから、一部改変した部分があります。
それは、14行目
「ずらりと居並んだ、才徳兼備の人士たちは、我が片腕として輔佐に当たるのだ。」で、
対応する原文・訓み下しは次のとおりです。
済済雋乂 済済たる雋乂
我弼我輔 我を弼(たす)け我を輔(たす)く
これを、以前は次のように通釈していました。
「ずらりと居並んだ、才徳兼備の人士たちは、我が君の片腕として輔佐に当たるのだ。」
原文の「我」を「我がきみ」と訓じ、このように訳していたのです。
それは、「弼」や「輔」といった語が皇帝に対して用いられるものであるからです。
詳細は、こちらやこちらの記事をご参照ください。
ところがその後、後漢王朝の清河孝王慶が、
皇帝に等しい特別待遇を受けていた事実を知りました。
(こちらやこちらの記事をご覧ください。)
この史実は、
曹植「聖皇篇」の読みに修正を迫るものでしたが、
同様の場面を組み入れて詠じる「責躬詩」の解釈にも波及します。
曹植らへの待遇が、後漢王朝と同様に破格であったのか、
曹植がそのように感じていたのか、そのように敢えて詠じたのか、
当時、「弼」や「輔」が『尚書大伝』の語義によらず用いられていたのか、
それは不分明なのですが、
前述のように改めた方が無理がない、と考えるに至りました。
2026年3月4日
押韻から捉える「責躬詩」
本日、「責躬詩」の訳注稿に、押韻を付記しました。
(解題、訓み下し、語釈、通釈の修正はまだこれからです。)
押韻状況を調べていく作業の中で気づかされたのは、
本詩がかなりきっちりと考え抜かれた構成を取っていることです。
ひとつのまとまりを為す句には、同じ響きを持つ脚韻が用いられていますが、
それが、平声と仄声とを頻繁に交替させながら、換韻していくのです。
伸びやかな平声と、屈曲する仄声(上声・去声・入声)とが、
言葉の持つ意味と絡み合いながら、うねりを形作っていくような印象を持ちました。
今、押韻ごとに通釈を区切り、行頭に平仄を記して提示します。
(○は平声、●は仄声、』は換韻するところを示しています。)
○ああ、うるわしき父なる高祖、それはすなわち武皇帝。
○天より命を受けて、天下四方を安らかに平定された。
○漢王朝の朱色の旗が通過したところ、中国全土がなびいてへりくだった。
○奥深い道に基づく教化があまねく行きわたり、最も遠い異域の人々も帰順してきた。』
○魏王国は、商や周の王朝をも凌ぎ、その足跡は堯に並ぶ。
○天の篤い祝福を受けて我が皇が誕生し、父子二代にわたって聡明でいらっしゃる。
○武の方面では厳粛であり、文の方面では民たちに和平がもたらされた。
○かくして、魏は漢王朝から禅譲を受け、万国に君臨することとなった。』
●万の国々が十分に教化されると、古くからの典範に則って、
●広く骨肉の弟たちに命じて、魏王朝の藩としての役割を担うよう指示された。』
●皇帝陛下はおっしゃった、「そなた臨淄侯よ、この青州の土地に君主たれ」と。
●海濱一帯を保有することとなったのは、周王朝が周公旦の長子を魯に封じたのに等しい。
●諸侯に下賜された車や衣服は輝きわたり、各地位を示す旗印は整然と並んでいる。
●ずらりと居並んだ、才徳兼備の人士たちは、我が片腕として輔佐に当たるのだ。』
○ああ、わたくしめは、お上に目をかけられているのをよいことに驕り高ぶり、
○その振る舞いは、どうかすると、世間の掟に抵触し、国の規範を乱した。』
○王朝の籬として防備の任に当たるべきなのに、先人の規範を台無しにしてしまい、
○我が皇の使者に傲慢な態度を取り、我が朝廷の規律を犯した。』
●国家には典範たる刑法があり、わが封土は削られ、わが爵位は落とされることとなった。
●今これから獄吏に引き渡され、大罪を犯した自分が指導されることとなったとき。』
●聡明なる天子は、身内の者に手厚く対処しようと思われた。
●わたくしを処罰して、その身を朝廷や市場に晒すには忍びなかったのである。』
○天子はかの司法官の意向に背いて、わたくしめを哀れんでくださった。
○そして、封土を兗州の町(鄄城)に改め、黄河のほとりに赴かせることとなった。
○だが、輔佐してくれる大臣も置かれず、君主はいても臣下はいない。
○荒んだ無軌道きわまりない過ちを犯しても、誰がわが身を矯め直してくれようか。』
○ぽつんとひとりの御者を連れて、かの冀方(魏の都・洛陽)へと赴いた。
○ああ、わたくしめは、かくしてこの禍に遭遇したのである。』
●だが、明々と輝ける徳を有する天子、その恩沢は万物に対して遺漏がない。
●わたくしに黒い冠冕をかぶらせ、わたくしの腰に朱色の組み紐を佩びさせた。』
○光り輝く大使がやってきて、わたくしに栄華が届けられた。
○割り符を割いて封土を授与し、これに王の爵位が加えられたのである。』
●仰いでは金印を授けられた諸侯に並び、伏しては聖皇から下された任命書を手にする。
●皇帝からの恩沢は身に余るほど盛大で、謹んで承りつつ畏れに打ち震える思いだった。』
○ああ、わたくしめには、かたくなで凶悪な性質がまとわりついている。
○死んでは陵墓に眠る高祖に顔向けできず、生きては宮廷にいます陛下に恥じ入るばかりだ。』
●陛下の徳に敢えて傲慢な態度を取るのではなく、ただひたすらその御恩にすがりたいのだ。
●霊妙なる威力が改めて加えられるならば、十分に一生を終えることができよう。』
○天の徳は果てしなく、それに報いようにも、人の命は予測ができない。
○躓いて倒れ、黄泉の国まで罪を抱えていくことになるのではないかと、いつも心配だ。』
●できることならば、出兵して矢や石を身に受けてでも、魏の旗を東方の太山に打ち立てたい。
●どうか、ほんの少しでも手柄を上げて、ささやかな功績により自らの罪を贖わせてほしい。』
●身を危険にさらして命を投げ出し、身のほどをわきまえて落ち度のないよう勉めよう。
●喜んで長江や湘水のほとりに赴き、戈を呉越の地に振り回す所存だ。』
○天子がその胸襟を開いてくださったおかげで、都にてお会いできることとなった。
○ご尊顔を拝する機会を待ちわびて、喉が渇き空腹に堪えかねんばかりの気持ちでいる。
○心の底からお慕いし、胸の内は悲痛でいっぱいだ。
○天は高くとも低き存在の声に耳を傾ける。陛下よ、どうかこの微賤な者に光のお恵みを。』
封土に赴くよう命ぜられたことを詠ずる部分は仄声で、これはよく理解できます。
他方、赴いた先(臨淄)で放埓な言動を弄したことをいう部分は平声です。
これが罪に問われたのであるにも拘わらず、のびのびと平声なのです。
それぞれの句を、平仄それぞれの醸し出す気分で読んでいくと、
曹植の本音のようなものが漏れ出てくるようです。
2026年3月3日
書面語になった曹植の表現
本日、訳注の見直しに難渋していた「上責躬応詔表」に、
やっと一応のひとくぎりを付けました。
その中で、初めて読んだ時にも引っ掛かっていた「冒顔」という語が、
宋代の任広という人物による類書『書叙指南』に採られていることを知りました。
知典古籍(https://www.shidianguji.com/zh/)のおかげです。
この類書は、書面で用いるにふさわしい語を様々な古典の中から拾い上げ、
その古典的な言い回しを、用いる場面ごとに列記するものです。
その巻10の「胸腹誠懇」の項の中に、
「又曰、冒顔以聞」(「曹植」との注記あり)と採録されています。
もっぱら曹植の作品に焦点を当てて読んでいた時は、
この語が後世、書面語として活用されているとは思い至りませんでした。
曹植のこの文章は『文選』巻20所収で、
『文選』は唐代以降、知識人たちの基本図書として定着しますから、
こうして宋代の人の目にも留まったのかもしれません。
宋代には、たとえば白居易の編んだ類書『白氏六帖』も独自の進化を遂げて、
知識人たちの基礎知識を支える便利な本として流布しましたが、*
そうしたことと同源かとも思われる現象です。
曹植がほとんど一気呵成に書き上げたと思われる文章の一部が切り取られ、
(この文章の文体については、こちら等に推論を記しています。)
指南書に乗せられて、素敵な書面を書きたいと欲する人々の手に渡っていった。
ほとんど千年近くの時を隔てたこの現象に、複雑な思いを持ちました。
2026年3月2日
*学術論文のNo.10、11、13、報告・翻訳・書評等のNo.6で論じたことがあります。ただ、武断に過ぎるところが多々あります。
語釈の難しさ(再び)
曹植は「上責躬応詔表」をかなりの速度で書き上げたのではないか。
このような推定を、かつて、また昨日も重ねて述べました。
この作品には、古典をきっちりと踏まえた典故表現よりも、
その趣旨を大づかみして、日常語に近い表現に組み替えた部分が目立つからです。
そんな作品だからこそ、語釈がし難いと感じます。
踏まえた古典語が、本文の中に明瞭に組み込まれていれば問題ありません。
その原典を示し、これを踏まえていると記せばよいので。
ただ、「上責躬応詔表」のようにそれが明瞭でない場合、
作者は何を見て、あるいは何を想起してこのような表現に至ったのか、
あるいは、特に何も念頭にはなくて、当時のこなれた言い回しを使っているのか、
それを判断するのが難しく、それをどう示すかにまた迷います。
典故表現の典拠と、先行作品に見える用例とは、当然区別して書きますが、
加えて、作者の脳裏にあったものを推し測って示せたらどんなにいいかと思うのです。
(語釈の難しさについてはこれまでにも何度も書いていますが、再び。)
これは、口語による文芸作品の難解さと似ているのかもしれません。
(当時の人々にとっては娯楽、それを読み解く現代人にとっては難解極まりない)
それだけ、曹植の言葉は当時の空気の中で躍動していたということでしょう。
実力不足を嘆くことばかりですが、
うまくいかなくて当たり前、この難航には意味があるのだと考え直します。
2026年2月27日
珍しい注釈態度の李善注(改めて)
一昨日、「胡顔」という語をめぐって、
李善注に示された異例のスタイルに目を留めました。
後世の作品から遡及して、用例の少ない語の意味を示すという手法です。
ところが、この語については既にこちらで、
曹植と同時代の丁廙「蔡伯喈女賦」(『藝文類聚』巻30)にも用例があることを、
李詳『顔氏家訓補注』及び黄節『曹子建詩註』を通して紹介していました。
(過去の自分に比して、現在の自分の不甲斐なさに恥じ入ります。)
他方、改めて先人たちの指摘を読み直し、
曹植が、『毛詩』鄘風「相鼠」の趣旨を示すのに、
「胡顔」という語を用いていることの面白さに気づかされました。
「胡顔」は、『詩経』鄘風「相鼠」の本文や注釈類には見当たりませんが、
その趣旨はたしかに“厚顔”であり、用例は同時代に見出せます。
『詩経』の主題をざっくりと噛み砕き、
当時においてはまあ珍しくはない語でさらりと解説する曹植は、
もしかしたらかなり筆の走った状態で「上責躬応詔表」を書いたのかもしれません。
(同趣旨のことはすでにこちらに書いてはいるのですが、改めて。)
2026年2月26日
※「胡顔」については、古直『曹子建詩箋』巻2/7aでも、王応麟『困学紀聞』及び翁元坼の注を引いて詳しく考究されている。
曹植の詩と生涯(続き)
先に、曹植作品は彼の人生と不可分であることを述べました。
その難解さは、彼の境遇を抜きには読み解くことができない性質のものです。
ただ、そうした作品には成立年が不明なものが多く、
従ってその時期の曹植が置かれていた境遇も不明という場合が少なくありません。
そうした場合、よほど論述の構成と表現に注意を傾けないと、
単なる思い込みで作品と実人生とを結びつけたと断じられかねません。
まず作品を丁寧に読み、その中から浮かび上がってくる不可解さに目を留める。
そして、その不可解さを解く糸口を、彼の辿った足跡の中に探る。
このような手順を、基本的に私は取っています。
けれども、作品の中に描かれたある事象を、現実のある出来事に結びつけ、
その結び付け方は恣意的だと言わざるを得ない先行研究もあります。
そうした研究とは、そもそも考察の手法が異なっているのですが、
そこは読み飛ばされるのか、わりと同等視されがちな印象があります。
けれども、自分も恣意的な解釈に陥っている可能性はあります。
せめて、自身の説は恒常的に検証していくつもりです。
その自説に未だ自信がもてない作品のひとつに「贈丁儀」詩(04-10)があります。
この作品については、かつて論じたことがあるのですが、*1
関連作品を複数読んだ今とその当時とでは、少なくとも次の点で異なる前提に立っています。
それは、仮にもし本作品の成立を、丁儀が誅殺される直前、延康元年(220)だとして、
当時、曹植はおそらくはまだ魏の都、鄴を離れてはいなかった、
少なくとも、封ぜられていた臨淄に赴いてはいなかったということです。
これについては、主に「責躬」詩(04-19-1)に拠ってすでに論じています。*2
すると、丁儀が追い詰められていくのを、曹植は間近で見ていたことになります。
そのような情況下で、為政者批判をするとはどういうことでしょうか。
(手厳しい批判の対象となっているのは、魏王である曹丕です。)
本当に本作品を延康元年の作だと見てよいのでしょうか。
かくして、また振り出しに戻ります。
2026年2月25日
*1 「曹植「贈丁儀」詩小考」(『林田慎之助博士傘寿記念三国志論集』汲古書院、2012年)
*2 「黄初年間における曹植の動向」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第2号、2023年)
珍しい注釈態度の李善注
昨日述べたことについては、一旦保留としました。
そこまで厳密に考えなくてもよいのではないかという気がしてきて。
とはいえ、再読によって新たな気づきを得ることは少なくありません。
今日も、「上責躬応詔詩表」を読み直す中で、珍しいタイプの李善注に遭遇しました。
まず、その部分の本文は次のとおりです。
忍垢苟全、則犯詩人胡顔之譏。
恥を忍んでとりあえず命を全うすれば、
『詩経』の詩人が詠ずる「どの面下げて」のそしりにさらされることになる。
ここにいう「詩人胡顔之譏(詩人が胡顔の譏り)」は、
この上文にいう「相鼠之篇・無礼遄死之義」を受けて言っています。
すなわち、『毛詩(詩経)』鄘風「相鼠」にいう
「人而無礼、胡不遄死(人にして礼無くんば、胡ぞ遄(と)く死せざる)」がそれです。
ただし、『毛詩』には直接「胡顔」という語が見えているわけではありません。
そこで、李善はまず、「胡」は「何」と同義だと示した上で、
この『毛詩』を次のように解釈しています。
『毛詩』謂何顔而不速死也。
『毛詩』は、何という厚顔をさらして生き長らえているのか、という趣旨である。
こう述べた後に、李善は更に次のように続けます。
殷仲文表曰、亦胡顔之厚、義出於此。
殷仲文の表にいう「またなんという厚顔」は、語義がここに出自を持つ。
殷仲文は東晋の人で、その「解尚書表」は『文選』巻38所収。
李善が「胡顔」に対して、曹植よりも後の時代の作品を示して注したのはなぜでしょうか。
それは、「胡顔」という語の意味が不分明であったからに他なりません。
この語と『毛詩』鄘風「相鼠」との関連性を示すだけでは意味が十分に通らず、
なおかつ、曹植より前の時代の作品に、適切な用例が見い出せなかったからでしょう。
後世の表現を手掛かりに、そこから遡った時代の作品に見える語の意味を探る。
このような注釈の手法は、李善としては珍しいものだと言ってよいのではないでしょうか。
彼はいつも、典故や用例の提示によって作品解釈の道しるべを提供してくれますから。
ちなみに、殷仲文「解尚書表」の李善注には、曹植のこの文章への言及はありません。
2026年2月24日
再読で落穂ひろい
昨年末から、曹植作品訳注稿の見直し作業を行っていますが、
再読していると取りこぼしや間違いによく遭遇します。
本日、「上責躬応詔詩表」(04-19-0)の見直しをしていて、
次の部分に目が留まりました。
誠以天網不可重罹 誠に以(おも)へらく天網は重ねて罹る可からず、
聖恩難可再恃 聖恩は再びは恃む可きこと難しと。
ここで「重」「再」という語が用いられていることについて、
語釈で説明をした方がよいと思ったのです。
ただ、そこではたと困ったのは、
この文章が奉られた黄初四年(223)までの間で、
曹植はすでに二回、役人から罪状を挙げられているからです。
一度目は、臨淄侯であった黄初二年(221)、監国謁者潅均によって、
二度目は、鄄城侯であった同三年、東郡太守王機らによってです。
これを踏まえるならば、「重ねて」「再び」ではなく、
“三度目”と書くべきではないでしょうか。
そこで上文に目を転じると、そのすぐ前にこうありました。
臣自抱釁帰藩、刻肌刻骨、追思罪戻、……
臣は釁を抱きて藩に帰りしより、肌に刻み骨に刻みて、罪戻を追思し、……
ここにいう「釁」とは、罪の兆しとなる隙のことです。
そして、この時の「帰藩」とは、鄄城に戻ったことを指します。
一度目の出来事においては、彼はもといた臨淄には戻っていませんから。
ならば、前述した二度目の出来事について、
曹植自身としては、あれは本当に罪を犯したのではなくて、
罪の端緒となるような隙を作ってしまったのだと認識していたことになります。
そして、「追思罪戻」の「罪戻」とは、
一度目に挙げられた罪を指して言っていることになるでしょう。
本作品の見直しが終了したら、これらを踏まえて追記修正します。
2026年2月23日
※二度目三度目の問題、翌日になって、そこまで厳密に考えなくてもよいのではないか、という気持ちに傾いてきました。しばらく置いておきます。
曹植の詩と生涯
最近、曹植詩の成立年代をめぐって考察することが多いのですが、
それはなぜだろう、と考えてみました。
詩は詩としてそのまま読めばよいではないか。
それなのに、なぜその成立年代について議論したくなるのか。
それはまず、詩は詩としてそのまま読むことを、曹植作品自体が許さないからです。
曹植詩の不可解さについては、これまでにも何度か言及してきました。
それらの作品における不可解さ――文脈の飛躍や語義とのずれといった様々な綻びは、
現実と照らし合わせて初めて埋めることができる欠落であるように思います。
では、その曹植が直面していた現実とは何か。
それが彼の場合、四十年間という短い生涯の中で目まぐるしく転変しています。
その二十代、すなわち建安年間は、
父曹操が存命中で、彼は建安七子たちとの文学的交流をほしいままにしています。
三十代前半、文帝曹丕の在位した黄初年間は、
朝廷の監視下で言動を厳しく制限され、兄曹丕との関係に揺れ動く日々を送ります。
曹丕と和解して、次の明帝の時代に移ると、
曹植は一転、朝廷の運営に参画することを切望し、積極的な発言も多くなります。
しかし、その願いは叶うことなく、失意の中で亡くなります。
このような生涯の中で、彼の詩はその主題も作風も変容していきます。
彼の詩は、その波瀾に満ちた生涯と不可分の関係にあるのです。
ですから、ある作品が何を言おうとしているのか、その読みを追究すればするほど、
(その詩の文学史的意義を見定めたり、詩としての美質を究明する上でも、)
どうしても成立年代の問題がまとわりついてくるのです。
曹植作品は、不可解さを残したまま伝存しています。
それらは、理解されることを待っているように思えてなりません。
2026年2月20日