作品の歴史的出没

本日、「曹植作品訳注稿」の「門有万里客」(05-30)を公開しました。

本詩の題名とよく似た楽府題に「門有車馬客行」がありますが、
本訳注稿の解題では、両者の関係性に関わる次のような内容は載せませんでした。

瑟調曲「門有車馬客行」を収載する『楽府詩集』巻40に引く、
陳の釈智匠『古今楽録』によると、
劉宋の王僧虔「大明三年宴楽技録」には、
「門有車馬客行」は、曹植の「置酒」一篇を歌う、と記されている。
(つまり、同じ曹植の「門有万里客」の方には言及がない。)
清朝の朱乾はこのことを疑問視し、
もし「門有車馬客行」と「門有万里客」とが同趣旨なのであれば、
瑟調曲「門有車馬客行」の歌辞として、「門有万里客」を歌えばよいのであって、
なにも「置酒」(『文選』巻27所収「箜篌引」)を歌う必要はないではないか、とした上で、
「門有車馬客」は古題で、曹植は古題から新題「門有万里客」を引き出したのだとする。
(『楽府正義』巻8「門有万里客」)

以上の内容を曹植「門有万里客」の解題から外したのは、
この問題は、作品そのものとはそれほど深く関わらないと判断したからですが、
けれどもひとつひっかかりを覚える点があって、それをこちらに記しておくことにします。

王僧虔が大明三年(459)に魏晋の宴楽の「技録」を復元的に作成した際、
「門有車馬客行」の本辞が失われていたことは確かでしょう。
では、曹植の「門有万里客」の伝存状況はどうだったのでしょうか。

書物の場合、ある時期、忽然と現れたものは偽書の可能性が高い、
と目録学方面の本で読んだことがあるように思います。
では、作品の場合はどうでしょうか。

「門有万里客」は、完全なかたちではない作品のように見えますが、
それが、唐代初めに成った『藝文類聚』巻29に「曹植詩」として収載されています。

たとえば、王僧虔や釈智匠の目には触れないところで実は本詩は伝わっており、
それを、初唐の官撰の類書『藝文類聚』の編纂者が目睹し、書き留めた、
ということは考えられないでしょうか。

出版と同時に、ほぼ均一にその書物が伝播していく現代とは異なって、
ある時代の、ある人々が目にしなかった書物や作品であっても、
後の時代の、ある人々が手に取る機会を得た可能性は、
十分にあるのではないかと考えます。

文字で記されて残っているものだけがすべてではない。
文字に記されてはいないけれど、そこにあったと想定されるものを視野に入れた方が、
はるかに自然な歴史的推移を思い描くことができる場合があるように思います。

2024年9月24日

 

曹植の放埓

曹植は、建安22年(217)以降、
父曹操の寵愛を失うような行動が目立ってきます。

『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝に、その頃のこととして、
天子専用道路を車で通り、勝手に司馬門を開かせて外へ出たことが記され、

その裴松之注に引く『魏武故事』には
曹操の失望を物語ってあまりある、次のような令が載せられています。

始者謂子建、児中最可定大事。
 始めは、子建が子どもたちの中で最も大事を決断できる者だと思っていた。

自臨菑侯植私出、開司馬門至金門、令吾異目視此児矣。
 臨菑侯曹植が勝手に外へ出て、司馬門を開き金門に至るということをしてから、
 わたしはこれまでとは異なる目でこの子を視るようになった。

こうした記述から窺える曹植の人物像は、
建安年間に書かれた曹植自身の作品との間にかなりの落差があります。
そのことが長らく不思議で、腑に落ちないままでした。

ですが、この時期の曹植を取り巻く人々の動向を見るうちに、
もしかしたらこういうことではないか、と思い至ったことがあります。
それはこういうことです。

建安21年(216)、当代の名士で、曹植と姻戚関係もある蔡琰が、
曹操から死を賜るという事件が起こりましたが(『三国志(魏志)』巻12・崔琰伝)、
それは、曹植の腹心である丁儀の讒言によるものです(同巻12・徐奕伝裴注引『傅子』)。

丁氏兄弟の暗躍は、曹操が魏王となったこの頃、とみに酷くなっています。
(彼らの所業については、こちらこちらに記しています。)

すると、先に記した曹植の放埓は、ここに起因する可能性がないでしょうか。
たとえば、「贈丁翼」詩などから読み取れるように、
曹植は丁氏兄弟に対して、真っ当な君子たれと励ましてきましたが、
その誠意を裏切るような彼らの悪事を知って深い落胆を覚え、
自暴自棄になったのではないか、と思ったのです。

けれども、このような捉え方はきれいごとに過ぎるかもしれません。
『魏志』本伝には、それ以前の時期についても、
「任性而行、不自彫励、飲酒不節(性に任せて行ひ、自ら彫励せず、飲酒節あらず)」
と、曹植の放縦な素行が記されています。
もともとあった奔放不羈の性情に、悪いめぐり合わせが絡みついて、
前述のような不埒なふるまいに及んだのかもしれません。

2024年8月6日

詩想と様式

以前にもこちらの雑記で述べたとおり、
曹植の「種葛篇」「浮萍篇」には、夫婦の離別に兄弟の決裂が重ねられています。
これらの作品から、魏の文帝として即位して後の兄曹丕に対する、
曹植の思いを探ることができるでしょう。

一方、同じ黄初年間の曹植には、
臣下(鄄城王)の立場から、魏の文帝としての曹丕に対して献上された、
「責躬詩」「応詔詩」のような作品もあります。

また他方、曹丕が父曹操の跡を継ぐ以前の建安年間、
曹植は、魏王国で開催される宴の様子を描写する「娯賓賦」「侍太子坐」詩の中で、
第三者の立場から、「公子」としての兄の様子を描き出しています。

加えて、曹植は同じ建安年間、
王粲や阮瑀らと同じ場で競作されたと思われる「七哀詩」の中で、
自分と曹丕とを離別した夫婦になぞらえて詠じています。

これらの作品に現れる、曹植の曹丕に対するスタンスは一様ではありません。
それは、時期の違いということばかりではなくて、
それを詠ずる様式の違いにも大きく由っているように思います。

曹植は兄曹丕のことをどのように思っていたのか。
このことを探るためには、時期を追って、詠じられた内容を見ていくだけでは不十分で、
個々の作品が備えている枠のようなものを視野に入れる必要があると考えます。
枠とは、場合ごとに選択的に用いられる作品様式といったことです。
そして、その枠は、曹植自らが選び取った場合もあれば、
そうでない場合もあって、その弁別も不可避です。

2024年8月5日

庭園の内から外へ

過日、曹植「浮萍篇」の冒頭句について、
これを寄る辺なき者の表象と見てもよいのだろうか、と記しました。
これについて、そのように見ることはできるかもしれない、と今は考えています。
それは、次に述べるような理由によります。

以前、曹植「情詩」(『文選』巻29)に見える対句、
「游魚潜淥水、翔鳥薄天飛(游魚は淥水に潜み、翔鳥は天に薄(せま)りて飛ぶ)」に、
彼の「公讌詩」(『文選』巻20)にいう次の対句、
「潜魚躍清波、好鳥鳴高枝(潜魚 清波に躍り、好鳥 高枝に鳴く)」を対置させ、

「情詩」に詠じられた魚と鳥は、
人間世界から離れた場所に身を移そうとしている点で、
「公讌詩」の魚や鳥が庭園内に遊ぶのとは対照的であることを指摘しました。

「浮萍篇」の冒頭に置かれた浮き草も、
鳥や魚と同じく、もともとは庭園内の池に漂う風物であったものです。
そのことは、過日こちらで示した曹丕「秋胡行」や何晏の詩から明らかです。

しかし、鳥や魚がその安穏の場から離脱したように、
浮き草も、園内の池からその外にある江湖に漂うことになったのを、
曹植が詩中で詠じたのだと見ることは不可能ではありません。
その解釈は、王褒「九懐・尊嘉」とその王逸注を踏まえるものとなります。

庭園内からその外へ、その居場所を移して漂う浮き草は、
魏王朝の成立と同時に封地に赴くことを命ぜられ、
以降、転々とその国を移されることとなった曹植と重なります。

しかも、それは王朝からの離脱ではなく、諸侯や王としての立場ですから、
「浮萍篇」の冒頭にいう「浮萍寄清水」と何ら矛盾しません。

2024年8月3日

曹丕も示唆してくれた。

ずいぶん前のことになりますが、
曹植の「七啓」や「妾薄命二首」其一といった作品が、
古詩に関する私論の傍証となり得ることを記したことがあります。

すなわち、
「古詩十九首」其六(『文選』巻29)の如き原初的古詩は、
後宮の女性たちを交えた宮苑内の水辺で誕生したと推定されるが、
そうした情景を再現するような描写が、前掲の二つの作品に認められる、
という内容の、こちらこちらの雑記です。

本日、曹丕「秋胡行」(『藝文類聚』巻41、『楽府詩集』巻36)にも、
同様な描写が、より明瞭に見えていることに気づいたので、
今、ここにその全文を訳出しておきます。

汎汎淥池  さらさらと流れる清らかな池の水、
中有浮萍  その中に水草が浮かんでいる。
寄身流波  それは、流れる波に身を寄せて、
随風靡傾  風に吹かれるがままに靡いている。
芙蓉含芳  芙蓉(ハス)は芳香を含み、
菡萏垂栄  菡萏(ハス)は花びらを垂れている。
朝采其実  朝にはその実を摘んで、
夕佩其英  夕べにはその花を身に帯びる。
采之遺誰  これを摘んで誰に送り届けるかといえば、
所思在庭  思いを寄せるあの人は庭にいる。
双魚比目  比目の魚は目をならべ、
鴛鴦交頸  鴛鴦は首を交えている。
有美一人  ひとりの美しい人がいて、
婉如青陽  そのたおやかさは春の日のようだ。
知音識曲  音曲をよく知っていて、
善為楽方  音楽の演奏に長けている。

ことに、第9・10句目「采之遺誰、所思在庭」は、
「古詩十九首」其六にいう「采之欲遺誰、所思在遠道」のほとんど引き写しです。
こうした表現が、宴の催されている庭園内の一角に見えているのです。

実は、この作品の本文と読み下しは、
比較的最近、こちらに記していたのですが、
その時には、「浮萍」に目を奪われていて、
そこに古詩的世界が再現されていることに気づいていませんでした。
一点に集中すると、他のものが目に入らなくなります。
集中と散漫と、どちらも大事だと思いました。

2024年8月1日

飛ぶ鳥を詠ずる詩の系譜

『藝文類聚』巻90、鳥部上・玄鵠の項に、
曹植、何晏、阮籍の詩が三首連続で収載されていますが、
これらの詩は、次の二つの点で共通しています。

第一に、詠じられているのが一対の鳥であること。

曹植の詩(『曹集詮評』巻4には「失題」として収載)には、
「双鵠倶遨遊、相失東海傍(双鵠 倶に遨遊し、相失す 東海の傍)」と、

何晏の詩には、以前こちらに引用したとおり、
「双鶴比翼遊、群飛戯太清(双鶴 翼を比べて遊び、群飛して太清に戯る)」と、

阮籍の詩(黄節『阮歩兵詠懐詩注』では其43、異同あり)には、
「鴻鵠相随去、飛飛適荒裔(鴻鵠 相随ひて去び、飛び飛びて荒裔に適く)」とあります。

これらの詩が共有している一対の鳥という要素は、
『藝文類聚』で曹植詩の前に引かれた古詩(『玉台新詠』巻1ほか古楽府「双白鵠」)が、
つれあいの病のためにともに飛ぶことができなくなった鳥の夫婦を詠っているのと、
同じ系統に属していると見ることができます。

けれども、第二の共通項は、漢代無名氏の詩歌には認められません。
それは、先の三首の詩が、鳥の飛翔を、網羅から逃れるためだと詠じていることです。

曹植詩にいう、
「不惜万里道、但恐天網張(万里の道は惜しまず、但だ恐る天網の張られたるを)」、

何晏詩にいう、
「常恐天網羅、憂禍一旦并(常に恐る 天網に羅りて、憂禍 一旦并さるるを)」、

阮籍詩にいう、
「抗身青雲中、網羅孰能制(身を抗す 青雲の中、網羅 孰か能く制せんや)」、

これらはいずれも、一対の鳥の飛翔を、網羅からの脱出と重ねています。*1

こうした要素は、前掲の漢代古詩(古楽府)には認められません。

曹植の表現は、隣接する時代の詩人たちにたしかな影響を及ぼしていますが、
ここに示した作品も、その一連の系譜を伝える事例だと言えます。
しばしばその特異性が指摘される阮籍「詠懐詩」ですら、
その来源を遡れば、曹植の表現にたどり着くことが少なくありません。*2

2024年7月30日

*1 同じ発想は、嵆康の「五言古意」詩にも読み取ることができる。興膳宏「嵆康の飛翔」(『乱世を生きる詩人たち 六朝詩人論』研文出版、2001年収載。初出は『中国文学報』16、1962年4月)を参照。ただし、興膳氏の所論は、阮籍や嵆康の詩と建安詩との間には質的な隔たりがあると捉えている。
*2 柳川順子「曹植文学の画期性―阮籍「詠懐詩」への継承に着目して―」(『中国文化』80号、2022年)にその一端を示した。

「浮萍篇」と「吁嗟篇」

曹植「浮萍篇」は、夫の愛情を失った女性の悲しみを詠ずる楽府詩です。
その冒頭に置かれた次の二句、

浮萍寄清水  浮萍 清水に寄り、
随風東西流  風に随ひて東西に流る。

これを見て、まず私は、浮き草を、寄る辺なきものの表象だと捉え、
詩中の彼女は、これに自身を重ねているのだと考えました。

けれども、先日言及した何晏の詩(『藝文類聚』巻90)では、
天がける鳥との対比で、むしろ寄る辺あるものとして浮き草を詠じていました。

また、曹丕の「秋胡行」(『藝文類聚』巻41)は、
庭園の池の中に漂う浮き草を詠じていて、これは流浪の表象などではありません。

他ならぬ曹植の「閨情」詩にも、こうあります。

寄松為女蘿  松に寄せて女蘿と為り、
依水如浮萍  水に依りて浮萍の如し。

ここでは、「女蘿」「浮萍」とも同じ方向性を示し、
何かにすがって生きる植物として詠じられていると見るのが普通でしょう。

それなのに、自分はなぜ「浮萍篇」を見たときに、
その浮き草を、寄る辺なき、根無し草だと捉えたのでしょうか。

その理由の第一は、本詩の語釈にも示したとおり、
これが王褒「九懐・尊嘉」とその王逸注を踏まえていると見られることです。

ですが、もうひとつの理由として、
本詩と「吁嗟篇」との間に認められる表現の類似性があることに思い至りました。

「風」によって「東西」に流される「浮萍」の有様が、
「吁嗟篇」に詠じられた「転蓬」を想起させると感じたのです。

ただ、「浮萍篇」の第一句には「浮萍寄清水」とあります。
「清水」に「寄る(身を寄せる)」と言っている以上、
この詩に詠じられた浮き草は、本当に寄る辺なき境遇の表象だと言えるのか。
「吁嗟篇」との類似性という漠然とした感覚だけではなんとも弱い。
要再考です。

2024年7月29日

再び浮き草の表象するもの

以前、こちらで言及した魏の何晏(189?―249)の詩は、
「転蓬」との対比で、庭園の池に身を寄せる「浮萍」を詠じていました。

また、何晏は別の詩(『藝文類聚』巻90)で、
同じ「浮萍」について、天網を逃れて翔ける鳥との対比でこう詠じています。

双鶴比翼遊  一対の鶴が翼を並べて遊び、
群飛戯太清  群れをなして飛んで天上に戯れる。
常恐失網羅  常々恐れているのは、天網に罹ってしまって、
憂禍一旦并  憂いや災禍がある日突然いっぺんに到来することだ。
豈若集五湖  それよりは、呉越の五つの湖に集い、
順流椄浮萍  流れに従って浮き草に連なる方がずっとよい。
逍遥放志意  ゆったりと浮遊しつつ思いを解き放とう。
何為怵惕驚  どうしてびくびくとおびえることがあるものか。

この詩も、前掲詩と同じく、
「浮萍」を、ある場所に身を託した存在として詠じています。

ところが、少し時代を下った西晋の傅玄(217―278)は、
たとえばその「明月篇」(『玉台新詠』巻2)の中でこう詠じています。

浮萍本無根  浮き草にはもともと根が無いのだから、
非水将何依  水のほかに、いったい何を頼みとすればよいのだ。

傅玄の作品は、浮き草の寄る辺なさに眼差しを注いでいる点で、
曹植の「浮萍篇」と一脈通じるものを感じさせます。

何晏と傅玄と、生きた時代は近接しています。
しかしながら、曹植が名誉回復し、
その作品が撰録されて内外に副蔵された景初年間中(237―239)、
何晏は五十歳前後、傅玄はまだ二十歳そこそこの若者で、
社会の中で重ねた経験も当然も異なっていました。

年齢や社会的経験による感受性の違いが、
「浮萍」の捉え方ひとつにも現れているということなのかもしれません。

あるいは、傅玄は曹植「浮萍篇」を見ていて、
その影響で、前掲「明月篇」の表現も生まれたのかもしれません。

2024年7月26日

 

「棄婦篇」の分かり難さ(承前2)

昨日の続きです。語釈等の詳細はこちらをご覧ください。)

曹植「棄婦篇」の後半は、
夫に棄てられた女性の悲しみというテーマを外れ、
君主を求めながら得られない士人の煩悶を詠じているようにも読めます。
(「憂懐従中来」を、そうした士人に対する詩人の憂慮としたのは保留ですが。)

以上のことを一応視野に入れた上で、更に本詩の不明点を挙げていくと、

まず、最後の方に出てくる「神霊」と、初めの方に見える「淑霊」とは、
同一のもの、すなわち石榴に集った鳥を指すのかどうか。
そう捉える注釈者も少なからずいますが、*1
「神霊」の方がより高い次元の存在のようでもあります。

ただ、この詩は前半と後半とで同じような言葉を用いており、
それは意図的に構えられた表現であるように見えます。
前半にある「撫心長歎息」と、
後半にある「収涙長歎息」とはその最たるものです。
すると、「神霊」と「淑霊」とは同一のものを指すと見た方がよいでしょうか。

次には、最後に見える「招揺」は、桂の樹なのか、星なのかという問題。
中国の注釈者が多くこれを桂の別名と捉える一方、
伊藤正文氏はこの説を取らず、北斗七星の第七星と解釈しています。*2
どちらの説を取ったとしても、不自然な感じが否めません。
もし、これが桂であるならば、詩の冒頭に挙げられた石榴はどうなるのでしょう。
最後になって唐突に別の樹木に切り替わるのは、奇妙な感じがします。
他方、これが星ならば、それはいつも空に懸かっており、
季節ごとに、それが指し示す方向を変えていくだけなのですから、
「待霜露」という語との組み合わせがしっくりこないように感じられます。

更に、最後の句「願君且安寧」は、
誰が誰に向かって投げかけた言葉なのでしょうか。
多くの注釈者は「君」を、この女性の元夫を指すと捉えています。
けれども、この夫は、彼女に子が生まれないという理由で離縁した男です。
それをきれいに忘れ去って、相手にこんな言葉を送るのが「棄婦」だとしたら、
それはあまりにも不自然に作り上げられた女性だと言わざるを得ません。
そうすると、詩人は現実の「棄婦」を詠じようとしたのではなく、
その題材に、自身の関心事が引き出されたということなのかもしれません。

こうして分からないことを書き出しておけば、
そのうちいつか、焦点が合って不明点が霧消するかもしれません。

2024年7月25日

*1 黄節『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)p.59、余冠英『三曹詩選(中国古典文学読本叢書)』(人民文学出版社、1985年)p.102、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.283を参照。
*2 伊藤正文『曹植』(岩波・中国詩人選集、1958年)p.116―117を参照。

「棄婦篇」の分かり難さ(承前)

曹植「棄婦篇」は、子が無いために離縁された女性の悲しみを詠う作品で、
具体的なモデルとして、王宋という女性を想定する説もあります。

ですが、棄婦を詠じたにしては不自然な表現が本詩には散見します。
その最たるものが、詩の中盤に見える次の四句です。

棲遅失所宜  世間から離れて居場所を失い、
下与瓦石并  身を落として瓦や石などと共にいる。
憂懐従中来  これを思うと、憂いが胸中から湧きおこり、
歎息通鶏鳴  鶏の鳴く明け方まで夜通し、ため息をついて過ごす。

まず、この中の「憂懐従中来(憂懐 中より来たる)」は、
曹操「短歌行」(『文選』巻27)にいう「憂従中来」と一字違いという近さですが、
この曹操の楽府詩は、人材を求めてやまない思いを詠ずる宴の歌です。

そして、その前に見えている「棲遅」は、『毛詩』陳風「衡門」に出る語で、
離縁された女性を言うには少しそぐわないような印象を受ける一方、
たとえば、曹植「贈徐幹」詩(『文選』巻24)に、
「顧念蓬室士、貧賤誠足憐(蓬室の士を顧念すれば、貧賤 誠に憐れむに足る)」
と、徐幹の暮らしぶりを描写していたことが想起されます。

また、「棲遅」する棄婦の有様を、
「下与瓦石并(下 瓦石と并ぶ)」と詩に詠じていることは、
過日こちらで述べた若き日の曹植の横顔、
顧みられなくなった孔雀に不遇の士を重ねて賦に詠ずる姿を思わせます。

このように見てくると、前掲の四句はまるで、
不遇の士人と、それに対して心を傷める人物のように読めてしまいます。
「憂懐従中来」は、棄婦の憂いとするのが普通なのでしょうが、
そうでない読み方も許容されるように思うのです。
そうした心情を、建安年間の曹植は実によく詠じていますから。

加えて、以下に続けて見える句の典拠、すなわち、
「反側不能寐」の「反側」が基づく『毛詩』周南「関雎」の「輾転反側」、
「慷慨有餘音」が一字違いでその句を用いる「古詩十九首」其五(『文選』巻29)は、
いずれも、自身の外に、つれあいや理解者を求めている点で共通しています。

このように、本詩はその後半、棄婦の悲嘆という主題から乖離していきますが、
それが、この詩全体の解釈を難しくしているように思います。
もちろん、以上すべてが誤読だったという結論になるかもしれません。

2024年7月24日

1 2 3 4 5 80