研究手法における彼我の差

先週末、中国の汕頭大学で開催された楽府学会に出席し、
「曹植《种葛篇》《浮萍篇》于文学史上的地位」と題して研究発表を行いました。

当日の発表原稿スライドは、このとおりです。

内容は、かつてこちらの雑記で考察を重ねてきたものですが、
それを、中国の研究者を前にして説明しながら見えてきたものがあります。

それはまず、研究手法における彼我の差異、懸隔です。
中国の研究者たちの本領は、大量の資料を飲み込んでは咀嚼していく力と、
そこから得たものを結び付け構築していく、強い論理性志向であるように感じます。
一方こちらは、実に微細な気づきから思考を垂直に掘り進めていく。

これは、いつも感じることではありますが、
どちらが手法としてより優れているかといったことではなくて、
あちらとこちらとは基本スタンスが本質的に異なるとしか言いようがありません。
こちらがあちらの真似をしても、たぶん刃こぼれするのがオチでしょう。
自分はこのままこの方法で掘り進めていくしかありません。
するとそのうち、あちらとこちらとが相俟って、何か新しい見地が開けるかもしれません。

こうした点において、中国の研究者の多くは実に鷹揚です。
自らとは異なる手法を取るものの長所を進んで認めようとされるのです。
自分もかくありたいものだといつも感じ入ることです。

他方、今回は自分の説明不足を感じるところがありました。
この点についてはまた後日記します。

2025年11月18日

経験と表現

過日も言及したことですが、
曹植「盤石篇」の終盤に、次のような句が見えています。

南極蒼梧野  南は蒼梧の野の果てまでも心を飛ばし、
游眄窮九江  視線を遠く左右に流して九江を見極める。
中夜指参辰  夜中には参星や商星を指さして、
欲師当定従  行く先を見定める指標としよう。

「参」は、西南方向に位置する宿(星座)、
「辰」は、東方に位置する商星すなわち心宿をいい、
ここでは、方角を知るための指標となる二つの星座を意味しています。

ところが、同じこの二つの星座が、
曹植の別の作品では離別の象徴として用いられています。

すなわち、「種葛篇」(05-27)に、

昔為同池魚  昔は同じ池に棲む魚だったのに、
今為商与参  今は商星と参星のように遠く隔たっている。

「浮萍篇」(05-28)に、

在昔蒙恩恵  その昔、恩愛の恵みを賜り、
和楽如瑟琴  琴瑟の音が響きあうように、和やかに睦み合っていた。
何意今摧頽  ところが、思いがけなくも私は今ぼろぼろに落ちぶれて、
曠若商与参  あなた様とはまるで商星と参星のように遠く隔てられている。

とあるのがそれです。

商星(辰)と参星とを、このような意味で用いる例は曹植以前に既にあって、
たとえば、蘇武「詩四首」其一(『文選』巻29)にこうあります。

昔為鴛与鴦  昔は一対のおしどりのように仲睦まじかったのに、
今為参与辰  今は参星と商星とのように離れ離れだ。

李陵・蘇武の名に仮託された五言詩、いわゆる蘇李詩は、
建安詩人たちに非常によく親しまれており、曹植もそのひとりです。

ところが、曹植は「盤石篇」において、
「参」「辰」を取り上げながら、離別という意味とは無関係に詠じています。

同じ事物を見ても、それにどのようなイメージを付与するか、
そこには、作者の経験というものが否応なく関与してくるように感じます。

言葉を紡ぎ、磨き上げていく文学作品は、
その言葉を知識として知っているだけでは創り上げられない。
作者の経験が、言葉に彫りを入れ、磨きをかけて成るのだと思います。
だから、独自性を持つ表現は、作者の生を探ってこそ感じ取れると考えます。

2025年11月9日

曹植「盤石篇」の成立年代

本日、曹植作品訳注稿「盤石篇」(5-37)を公開しました。

通釈をし、最後に解題を書く段に至って、
本作品が曹植後半生の作ではないだろうことを確信しました。

その判断の最後の駄目押しとなったのは、
本詩が、『文選』巻12の李善注に「斉瑟行」として引かれていることです。

かつてこちらで述べたように、
「斉瑟行」として伝わる曹植作品に「白馬篇」「名都篇」「美女篇」がありますが、
いずれも華やかな雰囲気をもつ楽府詩です。

それと同じ音色で歌われるのが「盤石篇」だとすると、
その歌辞が醸し出す雰囲気とあいまって、
本詩は、建安年間の作と見るのが最も妥当であるように思います。

詳しくは、本詩訳注稿をご参照ください。

2025年11月8日

曹植「盤石篇」が難解であるわけ

曹植「盤石篇」の訳注に取り掛かって、
もうかれこれ2週間が過ぎ去ろうとしています。
本日、ひととおりの語釈を終え、あと残っているのは通釈と解題です。
本詩の読解がこれほど難儀なことになろうとは予想外でした。

自分はなぜこの詩を分かり難いと感じるのか。
論者によって、その趣旨の捉え方がかくも異なるのはなぜなのか。
少し立ち止まって考えてみました。

本詩は、後半生の作とほぼ確定される作品との間に、
曹植作品を特徴づけるような言葉を、複数共有しています。
その最たるものとして「蓬」「参辰」「吁嗟」を挙げることができます。

「蓬」は、転々と国替えされた曹植の後半生を象徴する語で、
「雑詩六首」其二や楽府詩「吁嗟篇」において印象的に描かれています。

「参」と「辰(商)」とは、同じ天に同時には現れない星座で、
兄弟や夫婦の離別の喩えとして「種葛篇」「浮萍篇」に用いられています。

「吁嗟」は、これをそのまま題名とした前掲の楽府詩があります。

そのような言葉を織り込んで詠じながらも、
そこには、後半生の作品に目立つ影はほとんど認められません。
そして一方、
巨大な鯨を登場させたり、吹き上げる風に乗って一挙千里と船出したり、
表現が大仰で、しかもどこか陽気な雰囲気を纏っているように感じられます。

本詩を後半生の作と見ることに躊躇を覚えるのは、実にこのためです。

ただ、書かれている物事を現実と結びつける論法に比べて、
これはいかにも根拠薄弱な感覚的判断とされるのかもしれません。

けれども、作品は作者の体験を記した情報ではありません。
“何が”書かれているかということ以上に、
“どう”表現されているかの方にこそ注意を向けたい。

明かな成立年を書き残していないこの時代の作品は、
その内容を原文に即して読み解くことが必須であると同時に、
文学作品を読むとはどういうことなのか、私たちに問いかけてきます。

2025年11月7日

楽府詩中に見える大仰な表現

曹植「盤石篇」の終盤、次のような表現が現れます。
昨日言及した、孔子に問う結びの直前です。

仰天長太息  天を仰いで長く大きなため息をつき、*1
思想懐故邦  故郷への思いをつのらせる。

この上の句を、当初はありふれた表現だと思っていました。
ところが、なんとなく気になって調べてみると、
「仰天」と「太息」とを併せて用いる例はそれほど多くはなく、
それらには、次に示すとおり、ある種の偏りが認められるように思います。

『史記』巻六十九・蘇秦列伝に、
「於是韓王勃然作色、攘臂瞋目、按剣仰天太息曰(是に於いて韓王は勃然として色を作し、臂を攘(まく)り目を瞋(いから)せ、剣を按(おさ)へ天を仰ぎて太息して曰く)」、

同巻八十六・刺客列伝(荊軻)に、
「於期仰天太息流涕曰(於期は天を仰ぎて太息し涕を流して曰く)」、

『呉越春秋』勾践入臣外伝に、
「越王仰天太息、挙杯垂涕、黙無所言(越王仰天太息、挙杯垂涕、黙無所言)」と。

これらの句における「仰天太息」は、
腕まくりして目を怒らせる、涕を流すといった激越な感情表現を伴っています。
そして、その前後には登場人物たちの科白が連ねられています。
こうした表現的特長は、芝居の脚本のようなテキストを想起させます。

もし、曹植が意識的に「仰天」と「太息」とを結びあわせたのなら、
「盤石篇」を、芝居めいた雰囲気を持つ作品として捉える必要があるでしょう。

楽府詩も芝居も、漢代の宴席で行われていた文芸であり、*2
両ジャンルの親和性はもともと高いと言えます。

もっとも、本詩における「仰天」は、
その直前にいう「中夜指参辰(真夜中に星々を指さして)」云々を受けるものであり、
それにたまたま「太息」が連なっただけだという可能性も大いにあります。
このことは、後日、改めて考え直してみたいと思います。

2025年11月6日

*1「太」字、丁晏『曹集詮評』は「歎」に作る。今、宋本、『楽府詩集』巻64に従って改める。
*2 漢代の宴席では、五言詩、楽府詩、身振り手振りを伴う語り物や演劇のような様々な芸能が行われており、場を共有するそれらが相互に乗り入れて生まれた、たとえば詠史詩のような新ジャンルもある。拙論「五言詠史詩の生成経緯」(『六朝学術学会報』第18集、2017年)を参照されたい。

曹植「盤石篇」に登場する孔子

曹植は「盤石篇」の結びで、孔子に言及して次のように詠じます。

乗桴何所志  いかだに乗って どこを目指しておられるのか。
吁嗟我孔公  ああ、我が孔公よ。

この二句は、『論語』公冶長に記された次の故事を踏まえています。

子曰、道不行、乗桴浮于海。従我者其由与。
子路聞之喜。孔曰、由也好勇過我、無所取材。

先生(孔子)がおっしゃった。
「世の中に道が行われないのならば、桴(いかだ)に乗って海に浮かぼう。
私に付き従う者は、それ由(子路)であろうか」と。
子路はこれを聞いて喜んだ。すると先生がおっしゃることには、
「由は、わたしよりも勇を好むが、桴の材料を取るすべを持たないね」と。

「盤石篇」は、「乗桴」という語と孔子とをあわせて用いている点で、
前掲の『論語』を踏まえると見て間違いありません。

ここで、本詩にいう「我が孔公」を、
曹植が付き従っている人物、曹操と比定してはどうでしょう。
そして、『論語』で孔子に付き従っていた子路に、曹植を重ねてみます。

すると、勇気を奮って従軍したはいいけれど、
逆巻く荒波にもまれて肝をつぶし、帰郷への思念を募らせ、
統帥者たる曹操に、先行きへの不安感をぶつける曹植の姿が現れます。
それは悲壮感というより、そこはかとない諧謔を漂わせているかのようです。

なお、ここでは現実との接点を持たない完全な虚構は想定していません。

2025年11月5日

曹植「盤石篇」に現れる地名

以前、こちらに書いたことの続きです。
曹植「盤石篇」には、後半、地名を含む次のような句が現れます。

南極蒼梧野  南のかた蒼梧の野を極め、
游盼窮九江  游盼して九江を窮む。

「蒼梧」「九江」とは、どのあたりを指しているのでしょうか。
それ以上に、本作品はなぜ、こうした地名に言及しているのでしょうか。

調べてみて、次のような考えに至りました。

「蒼梧」は、現在の広西壮族自治区に当たる地で、
従軍兵士の苦労を詠じた相和「東光乎」(『宋書』楽志三)にも見える、
前漢の武帝が、越を平定して設置した郡のひとつです(『漢書』武帝紀・地理志下)。

「九江」は、現在の安徽省で、淮水と長江に挟まれたあたりの地域を指すようです。
『尚書』禹貢に「九江孔殷(九江 孔(はなは)だ殷(あた)る)」とあり、
その具体的な位置については、注釈者によって諸説があるようですが、
曹植が生きていた頃の人々がいう「九江」とは、
『三国志(魏志)』武帝紀の裴松之注に引く『魏武故事』所載の「己亥令」に、
「袁術僭号于九江(袁術は九江に僭号す)」とあり、
また、阮瑀「為曹公作書与孫権」(『文選』巻42)にもこの地名が見えることから、
上述のように見て差し支えないと判断されます。
なお、『続漢書』郡国志四には、揚州に属する地として九江郡が記されています。

こうしてみると、本詩における「蒼梧」や「九江」は、
どこか軍事的な色を帯びた地名であるように感じられてなりません。
それは、直前に見える、荒波を越えてゆく航行の描写とも響き合うものです。

この見通しの当否については、
本詩を最後まで読みとおした後に、再び検討したいと思います。

2025年11月4日

後世から遡る思想研究

昨日紹介した出石誠彦氏の論文に、
考察の方法に関する、非常に本質的なことが記されていました。*
それを自分なりに要約すればこのような内容です。

ある思想が、様々な段階を経て、相当発達した形にたどり着いたとして、
その原初的なかたちや、発達した形に至る過程がすべて記録されているとは限らない。

古い時代には十分な記録が無かったり、
あるいは、その過程に属するものや発達した形の片鱗が、
当の時代ではなく、後世になってはじめて書き残される場合もある。

それゆえ、ある思想の発達経緯を明らかにする上で、
後世の記録に拠って考察するという方法が許されるべきであろう。
特に、中国古代の神話や説話といった分野ではそうした試みが必須である。

まったくそのとおりだと思います。
このことを、私はたとえば曹植「鼙舞歌」を読む中で感じました。
本作品中に現れた、広く庶民をも包摂する基盤的感情を探ろうとしたとき、
古代資料には断片的にしか現れていない故事や思想が、
後世の、たとえば唐代の敦煌変文などに認められる例が少なからずあったのです。
このことは、この雑記でも折に触れ書いてきたことではありますが、
今年五月に行った口頭発表の要旨資料も添付します。

2025年11月3日

*出石誠彦『支那神話伝説の研究(増補改訂版)』(中央公論社、1973年)p.341を参照。

地下世界の大亀

曹植「盤石篇」を少しずつ読み進めています。
その中で、突風に吹き上げられて一挙千里と上昇した人はこう言います。

経危履険阻  危うい険しい難所を越えてゆき、
未知命所鍾  いまだ生きた心地がしない。
常恐沈黄壚  常々不安なのは、黄泉の国に沈み、
下与黿鼈同  地下で大きなすっぽんと同じくなることだ。

この「黿鼈」になんとなく既視感があって、思い当たるところを確認しました。

それは、かの馬王堆1号・3号漢墓出土の「昇仙図」の下方、
交差する大魚の上に乗り、白い台(大地)を持ち上げて支える力士の姿です。*1

曽布川寛氏の説によると、
古代神話で大地を支えているとされた大亀の鼇が、
いつしか人間の姿を取るようになり、
その不合理を補うため、彼を大魚に乗せたのだろうとのことです。*2

出石誠彦「上代支那の「巨鼇負山」説話の由来について」は、
『楚辞』天問に「鼇負山抃(鼇は山を負ひて抃ず)」と見えているこの古代神話について、
非常に広い範囲の文献に当たって展開の過程を明らかにしようとされています。*3

曹植「盤石篇」に言及された大亀は、
『楚辞』から直接的な影響を受けたものではないだろうと思われます。
両者間に、表現面での類似性は認められませんので。
彼は、当時の人々に当たり前に共有されていたこの伝説を、
息をするように取り込んだのでしょう。

2025年11月2日

*1 『世界美術大全集 東洋編2 秦・漢』(小学館、1998年)p.108、113の図版、及びp.347―350の曽布川寛氏による作品解説を参照。
*2 曽布川寛『崑崙山への昇仙 古代中国人が描いた詩語の世界』(中公新書、1981年)p.119―125を参照。
*3 出石誠彦『支那神話伝説の研究(増補改訂版)』(中央公論社、1973年)p.325―343収載。初出は、1933年8月市村博士古稀記念「東洋史論叢」。

曹植「盤石篇」再考(承前)

曹植「盤石篇」の趣旨について、
曹海東氏は、従来の説が一様でないことに言及しています。
それなら、私がこの作品に分かり難さを感じるのも当然のことです。

そこで、この作品の言わんとするところを探るため、
まず、先行研究が本作品の制作年代をどう捉えているか、当たってみました。*1

曹植が都を離れた黄初年間と見るのは、朱緒曾、徐公持、趙幼文、曹海東の各氏、
曹植が父曹操の管承征伐に従った建安11年と見るのは、古直です。

古直の説だと、当時曹植は15歳となりますので、
伊藤正文氏も言うように、やや早期に過ぎるかもしれません。

ただ、その筆致に見える若々しい勢いからすれば、
本詩を建安年間の作と捉える古直の説には、何か看過できないものを感じます。

そこで、この間の曹植の動向を再確認してみたところ、
建安17年から翌年にかけて、彼は曹操の呉への出兵に従軍しています。*2
もし「盤石篇」をこの時の作だとするならば、
出征時、曹植は21歳で、本詩を作るだけの素養は十分に備えていたはずです。
(ちなみに、同年春、曹氏兄弟は銅雀台に登って賦を作っています。)

また、この前年の建安16年、曹植は平原侯に封ぜられています。
平原は、黄河を隔てて泰山の北西に位置していますが、
東南の方角から見れば、同じ方面に属すると言えなくもないかもしれません。
また、実際に平原に赴いてはいないとはいえ、意識の底にそれがあったかもしれません。

「盤石篇」がもし建安17年の作であるとするならば、
その内容、表現、筆致の各方面から見て、それが最も妥当だと感じられます。
もっともゆるぎない確かな根拠があるわけではありません。

2025年11月1日

*1 朱緒曾『曹集考異』(金陵叢書丙集之九)巻6、徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.348、趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.262、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.257、古直『曹子建詩箋』巻3、伊藤正文『曹植』(岩波・中国詩人選集、1958年)p.152を参照。なお、古直の説は、丁晏『曹集詮評』(文学古籍刊行社、1957年)p.73の上欄外の記述を参考にしたと見られる。
*2 張可礼『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)p.122、124―125を参照。

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