捉えにくい副詞「まことに」

こんにちは。

遭遇するたびに捉えにくいと感じる副詞があります。
おおむねは「まことに」と読み下される「亮」「良」「諒」です。

自分が遭遇した範囲内で言えば、
たとえば『文選』からは次のような例が挙げられます。

巻29「古詩十九首」其八:
君亮執高節、賤妾亦何為(君 亮に高節を執らば、賤妾 亦た何をか為さん)。

巻29、曹植「雑詩六首」其六:
国讎亮不塞、甘心思喪元(国讎 亮に塞がらざれば、甘心して元を喪はんことを思ふ)。

巻24、曹植「贈徐幹」:
亮懐璵璠美、積久徳愈宣(亮に璵璠の美を懐けば、積むこと久しくして徳は愈(いよいよ)宣(の)べられん)。

巻29「古詩十九首」其八:
良無盤石固、虚名復何益(良に盤石の固さ無くんば、虚名もまた何の益かあらん)。

巻23、曹植「七哀詩」:
君懐良不開、賤妾当何依(君が懐 良に開かずんば、賤妾は当(は)た何にか依らん)。

また、『漢書』巻90、酷吏伝(尹賞)に引く民歌の一節に、こうあります。

生時諒不謹、枯骨後何葬(生ける時 諒に謹まざれば、枯骨となりし後 何(いづ)くにか葬らん)。

これらはいずれも、ただ単に「まことに」と言っているだけではなくて、
何か、条件が十分に満たされたことを前提に、下の句の内容を導き出しているようです。
場合により、「もし……ならば」だったり「……である以上」だったりして、
上記の訓読にも、再考の余地が多分にありますが。

辞書によると、現代漢語「誠然」にも、
「たしかに」「ほんとうに」の意味がある一方で、
「なるほど……ではあるが、(しかし)……」と捉えるべき場合があるようです。
古漢語の「誠」も同様に、こうした意味の広がりを含んでいます。

そうしてみると、「亮」「良」「諒」も同じように捉え得るかもしれません。

この三つは音の響きも同じですし(「良」のみ声調が異なりますが)、
江戸期の字書類等では“通用する”と説明されています。

2022年7月4日

中島敦の葛藤(追記)

おはようございます。
昨日こちらに記したことについての追記です。

先行研究に導かれて原典に当たる中で、*1
実は、妙に引っ掛かるところが一か所あったのでした。
それは、中島敦が妻のタカに「山月記」を書いたことを告げた時期です。
引用文「帰ってから」の前に(南洋から)と入れたのは、このことの覚書きです。

勝又浩「中島敦年譜」にも示されているとおり、*2
中島敦が深田久彌に、「山月記」を含む「古譚」六篇を託したのは、*3
中島が南洋庁に赴く前(1941年6月以前)のことです。

けれども、前掲の中島タカ「お禮にかへて」では、
それが、南洋から東京へ戻ってからのこととして記されていました。

「山月記」を書いた時期と、
そのことを妻に伝えた時期との間には、足掛け二年の隔たりがあるのです。
(「山月記」が『文学界』に掲載されたのは南洋から帰京後です。)

そうすると、妻のタカにこの小説を書いたことを告げたのは、
自身の内にある、全力を尽くして書きたいという作家としての欲望を、
(それを申し訳なく思う気持ちを引きずりながら)妻に打ち明ける、
ということだったのではないかと考え直しました。

「その時の顔は何か切なそうで今でも忘れることが出来ません。
あとで、「山月記」を読んで、まるで中島の声が聞える様で、悲しく思ひました。」

というタカの言葉からは、
彼女もまた、中島の思いをわかっていたように感じられてなりません。

「……それに中島の文章をお忘れなく何時までも愛し下さる読者の皆様に、
一言でもお礼を申しのべたく存じ、恥しさをしのび愚かなことを申し上げます。」

中島タカさんは、文章の初めにこのように記していらっしゃいます。
このような方だったのだと感じ入ります。

2022年7月1日

*1 中島タカ「お禮にかへて」(「ツシタラ第四輯(中島敦全集月報4)」文治堂書店、1972年)。
*2『中島敦全集3』(ちくま文庫、1993年第一刷、2007年第七刷)所収を参照。

*3 深田久彌「中島敦君の作品」(「ツシタラ第二輯(中島敦全集月報2)」、文治堂書店、1971年)を参照。

※弊学(県立広島大学:旧広島女子大学)図書館が、文治堂書店刊『中島敦全集』の月報を、丁寧に冊子として保存してくれていてとても助かりました。こうした資料は、新しい『中島敦全集(全3巻別巻1セット)』(筑摩書房、2001年)にはもちろん収録されているでしょう(?)。すぐに図書館に入れる手配をしました。

中島敦の葛藤

こんにちは。

中島敦とカフカとの関係について論じた先行研究から、*1
未亡人中島タカさんの文章を教えられました。

「お禮にかへて」と題するその文章に、*2
夫として、父親としての中島敦が回想されていますが、
その中に、「山月記」に関わる次のような記述が見えているのです。

 (南洋から)帰ってから、ある日、今迄自分の作品の事など一度も申したことがありませんのに、台所まで来て、
「人間が虎になった小説を書いたよ。」
と申しました。その時の顔は何か切なそうで今でも忘れることが出来ません。あとで、「山月記」を読んで、まるで中島の声が聞える様で、悲しく思ひました。
 好きな本も、芝居も、見ることが出来なくなり、書くことも出来なくなると、
「書きたい、書きたい。」
と涙をためて申しました。
「もう一冊書いて、筆一本持って、旅に出て、参考書も何も無しで、書きたい。」
「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい。」
とも申しました。

「山月記」を書いたことを、なぜ妻のタカさんに言ったのか。
なぜ「その時の顔は何か切なそう」だったのか。

「山月記」のもとになった「人虎伝」では、
虎になった李徴が、たまたま再会した旧友の袁傪に、
まず妻子の世話を依頼し、その後に、自作の詩を託します。

一方、「山月記」では、
まず自作の詩を託し、その後に妻子の世話を依頼します。
そして、この順番が転倒したということを、李徴はひどく自嘲するのです。

この改変は、中島敦自身の中から出てきたものです。

彼は、「人虎伝」に触発されて小説を書きながら、
小説家たらんとする自身の欲望があぶり出されたことを自覚し、
そのことを、まるで妻子を打ち捨てる者のように感じたかのもしれません。
それは、実際には非常に愛情深い夫・父であった彼には酷くこたえることだったでしょう。

一方、残された時間があまり長くはないことを予感していた彼には、
全精力を書くことに注ぎ込みたいという欲望を直視しないではいられなかったでしょう。

この二つの情況に引き裂かれていた彼のことを思うと、心が締め付けられます。

2022年6月30日

*1 有村隆広「日本における初期のカフカの影響―第二次世界大戦前後」(『Comparatio』18号、2014年)
*2 「ツシタラ第四輯(中島敦全集月報4)」(文治堂書店、1972年)所収

曹植に対する処遇

こんばんは。

魏王朝成立後の曹植が、常に不遇感を抱えていたことは、
彼の作品の随所から明らかに感じ取れます。

他方、特に明帝期に入ってからの魏王朝は、
曹植ら諸王に対して優遇政策を取っていたといいます。*

この食い違いをどう捉えたものか。

曹植の主観と、客観的事実との落差と捉えるのではなく、
魏王朝が曹植ら諸王に対して、物質的な面で手厚い待遇をする一方、
それと表裏一体で、彼らの軍事力を無化しようと図ったとは考えられないか。

そんなふうにふと思ったのは、
明帝の太和二年(228)に奉られた「求自試表」に、

窃位東藩、爵在上列、  位を東藩に窃(ぬす)み、爵は上列に在り、
身被軽煖、口厭百味、  身 軽煖を被り、口 百味を厭き、
目極華靡、耳倦絲竹者、 目 華靡を極め、耳 絲竹に倦むは、
爵重禄厚之所致也。   爵重く禄厚きの致す所なり。

とある一方、同じく明帝期に作られた、
「諫取諸国士息表」(『魏志』巻19・陳思王植伝裴注引『魏略』)に、
初めて東土に封ぜられ、魏王室の藩国となったとき、

所得兵百五十人、皆年在耳順、或不踰矩。
(得た兵士は百五十人、その年齢は六十歳、中には七十歳の者もいた。)

と述べ、非常に貧弱な軍事力しか与えられず、
藩国としての任務が果たせなかった無念さを訴えているからです。
こうした処遇は、文帝期のみならず、明帝期に至っても続いていたでしょう。

魏王朝にとって、
いつ独自の勢力を形成するか知れない諸王は、
常に警戒しておくべき不気味な存在であったのかもしれません。

ただ、王朝の中枢にいるはずの文帝や明帝は、
そうした意識を果たして強く持っていたのかどうかが不明です。

(以上、歴史学の専門家からすれば根拠薄弱な思い付き、あるいは、言うまでもないことだろうと思います。)

2022年6月29日

*落合悠紀「曹魏明帝による宗室重視政策の実態」(『東方学』第126輯、2013年7月)、津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年3月)を参照。

旧稿の訂正

こんにちは。

以前、通釈のみ公開していた「娯賓賦」(01-17)について、
その語釈を補った暫定完成版を本日公開しました。

本作品に興味を持って通釈を試みたのは2020年8月上旬でしたから、
それからほとんど二年間のブランクを経ての語釈でした。
すると、以前には語釈が必要だとは思いもよらず、
結果、誤訳をしてしまっているところもあることに気づきます。

その一つが「仁風」という語です。
以前はこの「風」を、「気風」や「風潮」の「風」として訳していましたが、
民を教化して導くという方向での「風化」と捉えて修正しました。

そして、以前こちらで用例を探しあぐねていた表現についても、
用例として曹植「娯賓賦」があることを追記しました。

こんなことにも気づけなかったことが恥ずかしい限りですが、
二年前の自分よりも、少しは読めるようになっているのを喜ぶことにします。

それにしても、当時の曹植はどれほど幸福な人間関係の中にいたことか。
「娯賓賦」での曹植は、何の疑念もなく、父曹操を尊敬し、兄の曹丕を敬愛しています。
後に、兄との関係が突如として暗転したことを、曹植がどう捉えたか、
そのように認知する曹植の発想はどこに由来するのか、
この建安年間に補助線を引いてこそ見えてくるのだろうと思います。

2022年6月27日

黄初二年の曹植

こんばんは。

昨日検討した曹植の臨淄への赴任時期について、
これまでにも何度か言及した津田資久論文はどう見ているでしょうか。*1

この論文は、昨日挙げたような複数の論文を検討しつつ、
「黄初六年令」(『曹集詮評』巻8)に基づいて次のように推定しています。

建安二三年(218)頃
延康元年(220)4月
黄初二年(221)

黄初四年(223)
洛陽での不敬行動により、臨淄侯を失う①
鄄城侯として就国②
東郡太守の王機らに弾劾されて洛陽に召喚③
その途上、安郷侯に貶爵④ 鄄城侯として帰国⑤
雍丘王に改封⑥ 監国謁者潅均による弾劾⑦

『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝に記すところでは、
黄初二年に、監国謁者潅均による弾劾⑦ 安郷侯への貶爵④ 鄄城侯への改封⑤
それに先立って、諸侯の就国が記されています。

このように、かなり大胆に正史を組み替えているのがこの論文です。
(ただ、本論文の眼目は、この点に関して考証するところにはないようです。)

結論から言えば、正史の記述がやはり正しい。*2
曹植「責躬詩」を精読するならば、そのように判断されるのです。
「黄初六年令」は、この詩を読解する際、非常に有益な傍証を与えてくれます。

「責躬詩」に拠って、黄初二年における曹植の動向を明らかにすることは、
あながち無意味ではなさそうだということがわかりました。
(半年ほど前に検討したことが、やっと形を取って見えてきました。)

2022年6月24日

*1 津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)。
*2 ただし、昨日述べたとおり、諸侯の就国の時期については、延康元年ではなく、曹丕が後漢から禅譲を受けた同年の10月より後と判断されます。

曹植の臨淄への赴任時期(先行研究)

こんばんは。

昨日私見を述べた、曹植の封土への赴任時期について、
今のところ、多くの先行研究は黄初元年(延康元年)と見ています。

このことについて改めて確認するため、
植木久行「曹植伝補考―本伝の補足と新説の補正を中心として―」
(早稲田大学中国古典研究会『中国古典研究』21、1976年)
第二・三章を読み直しました。

植木論文は、まず論の前提として、
曹植に関わる次の三つの出来事は一連のものだとします。
1)王朝からの使者を劫脅し、このことを監国謁者に検挙される。
2)爵位を落とされて安郷侯に任命される。
3)鄄城侯に改封される。
このことについては、まったく異存ありません。

その上で、鄧永康、目加田誠の所論を紹介しつつ、
上記の一連の出来事は、黄初元年のことと推論しています。
その根拠は、主に次の二つの文献に集約されると言えそうです。

第一に、『資治通鑑』がこれらの出来事を黄初元年に繋年していること。

第二に、曹植の「上九尾狐表」(厳可均『全三国文』巻15に収載)に、
黄初元年11月23日という日付、鄄城という地名を明記して、
九尾狐という瑞祥の出現を報告し、魏王朝の成立を祝していること。
つまり、この時すでに曹植は鄄城侯であったと判断されるというわけです。

そもそも、臨淄でのふるまいが監国謁者の設けた細かい網にかかり、
それが最終的には鄄城侯への改封へとつながったのですから、
そうすると、その初め、曹植が臨淄へ赴いたのは、
黄初元年(延康元年)中、曹丕がまだ魏王であった時期、
魏の文帝としては未だ即位していなかった時期になる、という論法です。

これが、曹植自身の「責躬詩」と矛盾することは昨日述べましたが、
それとはまた別の角度からこの見解に疑義を呈するとすれば、
それは、依拠した文献の資料的価値に対してです。

『資治通鑑』が正史以外の資料を参照していても、
その成立は、三国魏の時代から軽く八百年以上は下りますから、
正史『三国志』や『文選』などを措いて『資治通鑑』に拠るのならば、
『通鑑』が拠った元資料に対する吟味が必要でしょう。

また、曹植「上九尾狐表」は、
唐代の瞿曇悉達という人の『開元占経』に収載されているもので、
厳可均『全三国文』は、それ以外の出典は挙げていません。
そして、この『開元占経』120巻は、四庫全書以外の叢書には未収録です。
そんなほとんど単線で伝わるような文献に、全面的に依拠できるものかどうか。

また、曹植が仮に黄初元年の十一月、鄄城で九尾の狐を見かけたとして、
そのことが即、曹植が鄄城侯だということを意味するかどうか。
臨淄への赴任途中、鄄城をよぎったとも考え得るでしょう。

万人が認めるような根拠を示すのは、本当に難しいことだと思います。

2022年6月23日

曹植の臨淄への赴任時期(再び追記)

こんばんは。

曹植が封土の臨淄に赴いた時期について、
以前にも何度かこの場で検討したことがあります。
今日は再びその追記です。

曹植「責躬詩」(『文選』巻20)には、
「帝曰爾侯、君茲青土(帝曰く 爾 侯よ、茲の青土に君たれと)」とあり、
その前には「受禅于漢、君臨万邦(禅りを漢に受け、万邦に君臨す)」とありました。

ここに、言葉を発した者を「帝」と称し、
その前に“漢より禅譲され、万国に君臨した”とあることから、
曹植に臨淄へ赴くように命じたのは、魏王としての曹丕ではなく、
後漢の禅譲を受け、魏の文帝として即位した曹丕なのだと判断されます。

けれども、多くの先行研究では、それを、
曹操の跡を継いで魏王であった時期の曹丕だとしています。
こちらの訳注稿でも、まだ修正しておりません。)

曹丕は、魏王となった同じ年の220年10月、魏の文帝に即位しましたから、
いずれの説を取っても、時期的にそれほど大きな差が生じるわけではありません。
ただ、この問題は、同時期の他の曹植作品の成立背景とも関わってくるので、
いちど明らかにしておきたいと考えていました。

そこで、今回はひとつ、次のような判断材料を示しておきたいと思います。

前掲「責躬詩」にいう「帝曰爾侯、君茲青土」が踏まえる史実として、
曹植「諫取諸国士息表」(『三国志(魏志)』陳思王植伝裴注引『魏略』)に、
以下のような記述が見えています(こちらの訳注稿に指摘)。

臣初受封、策書曰、
「植受茲青社。封於東土、以屏翰皇家、為魏藩輔。」
……而名為魏東藩、使屏王室、臣窃自羞矣。
   わたくしが初めて封土を賜ったとき、任命書にこうあった。
  「曹植よ、この青き東方の社を引き受けよ。
  そなたに東方の土地を授けて、曹氏を守り魏朝を補佐する藩国とする。」
  ……ですが、名は魏の東方の藩国として、王室を守るよう求められていましたが、
  (劣悪な体制で、藩国としての働きを為すことは困難であったため)
  わたくしはひそかにこのことを恥ずかしく思っておりました。

この文章にいう「策書」は、皇帝が発布するものです。
また「皇家」「王家」は、王朝を構成する曹魏一族を指して言うのであって、
後漢王朝の配下にある魏王国に対しては使えないはずの言葉です。

それに、そもそも藩国を置くことができるのは王朝だけではないでしょうか。
その初め、曹植が臨淄侯を拝命したのも後漢王朝からでした。
後に、後漢王朝から天子の位を譲り受けた曹丕は、
かつて後漢王朝が曹植を「臨淄侯」に任命したことを引き取って、
自らの手で任命しなおし、実質的な侯として任地に赴かせたということでしょう。

この「諫取諸国士息表」に見える記述からも、
曹植が、曹丕に命じられて封土の臨淄に赴いたのは、
魏王朝が成立した220年の末頃と見るのが最も妥当だと言えます。
そして、それ以前の曹植はなお、魏王国の都、鄴にいたということになるでしょう。

2022年6月22日

音から取り込む言語

こんばんは。

「比較文学論」の授業で、
インドネシアからの留学生と、中島敦「山月記」を読んでいます。
漢字文化圏ではない地域からやってきた学生にとって、
「山月記」は難易度が高いと感じるようなので、
こちらで音読し、漢語系の言葉にはあらかじめ語釈をつけておきます。
わからないことが出てくれば、その都度質問してくれます。

そうした中で、とても興味深く感じることがありました。

それは、その独特と感じられる言葉の把握の仕方です。
何行か前に出てきた言葉を挙げて、これと同じことかと聞いたり、
物語の筋を追っていく、記憶力の粘り強さには感嘆することしばしばです。

多言語が併存するインドネシアには、
バイリンガル、トリリンガルがざらにいるそうですが、
そんな彼らの言葉の覚え方の一端を垣間見たように思いました。
まるで音楽を聴いて覚えるような、時間的な軸を持った言葉の捉え方です。
漢字という表意文字によって、視覚的に外来文化を摂取してきた日本人の方が、
母語でない言語を修得する方法としては異例なのかもしれません。

一方、「山月記」の内容は理解できるといいます。
前半の数回は、カフカの文学について別の教員から講義を受け、
その概要を的確にまとめて報告してくれました。
その流れで読む中島敦「山月記」です。

もし、非漢字文化圏からの留学生にも通じるものがあるとするならば、
中島敦の作品は、世界文学たり得るものだと言えるでしょう。
(きっとそうに違いない、と私は思っているのですが)

2022年6月21日

中島敦とカフカ

日々の慌ただしさに流されているうちに、
ずいぶん間が空きました。

さて、中島敦に関わる論文の冒頭に、*1
次のようなことが記されていて、非常に驚きました。

カフカの遺稿集『万里の長城がきずかれたとき』がベルリンで刊行されたのは1931年、
横浜で高校教師をしていた中島敦が、その英訳を手にしたのは1934~1936年頃。
同じく英訳でカフカの『城』を読みふける中島の姿を伝える友人の
ドイツ文学者氷上英廣は、当時まだカフカの名前を耳にしたことがなかった、と。

中島敦は、非常に早い時期にこの新しいドイツ文学に出会い、
たしかに、その「狼疾記」にはカフカ「巣穴」の直接的な引用が認められますし、
カフカの警句集「罪、苦痛、希望および真実の道についての考察」を途中まで訳してもいます。
中島敦がカフカの文学から相当な影響を受けていることは明白でしょう。
では、私たちはこのことをどう捉えたものでしょうか。

日本の文学には、長らく海外の文学を摂取してきた歴史があります。
国外の先進的な新潮流をいち早く取り込み、翻訳して国内の人々に紹介するという、
いわば学びの姿勢が、非常に長く続いたように看取されます。

ですが、中島敦におけるカフカ文学は、それとは異なるように思えてなりません。
啓蒙的な意味で、先進的な文学を摂取したようには思えないのです。

もしかしたら、高校教師としての日々に充足できなかった彼は、
カフカの作品と出会って、その飢渇が満たされるように感じたのかもしれません。
ここに自分と同じような不安に苛まれている人がいる、という強い共鳴。
こうしたひそやかな共感を個々人の内に呼び起すものこそが、
文学と呼びうる作品なのだと私は考えます。

中島敦にとってのカフカ作品は、
まさしくこのような意味での「文学作品」だったのではないか。

このようなことを思ったのは、
つい先ごろ、そうした視点から論文を書いたからかもしれません。*2
記憶に新しいため、つい他の文学的現象も同様な視点から見たのかもしれません。

2022年6月20日

*1 三谷研爾「ツシタラは死なず―中島敦のカフカ受容についての覚書き―」(『待兼山論叢 文学篇』37号、2003年)。
*2「曹植文学の画期性―阮籍「詠懐詩」への継承に着目して―」と題して、『中国文化』80号に掲載予定。

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