曹植「盤石篇」と左思「詠史詩」

こんにちは。

昨日触れた曹植「盤石篇」の一節には、
もうひとつばかり、目に留まった表現があります。

鯨のくちひげを描写する「鬚若山上松(鬚は山上の松の若し)」が、
左思「詠史詩八首」其二(『文選』巻21)の冒頭にいう、

鬱鬱澗底松  鬱鬱たり 澗底の松
離離山上苗  離離たり 山上の苗

を想起させると思ったのです。
「山上」の「松/苗」(植物)というフレーズです。

また、曹植「盤石篇」の冒頭は次のとおりです。

盤石山巓石  盤石なり 山巓の石 *1
飄颻澗底蓬  飄颻たり 澗底の蓬

「澗底」という語や、
山の頂上を意味する「山巓/山上」という語が共通しています。

詩歌の詠い起こしにこうした辞句を持ってくること、
一句五言のうち、最初の二字で様子を形容し、
続く三字で、場所(二字)+自然物(一字)という構成をとることも似ています。

もっとも、こうした表現を詩の冒頭に置くのは、
たとえば、「古詩十九首」其二(『文選』巻29)にも、
「青青河畔草、鬱鬱園中柳(青青たる河畔の草、鬱鬱たる園中の柳)」と見え、
漢代古詩・古楽府には常套的な言い回しです。

詠史詩というジャンルは、宴席に発祥する文芸だと捉えられます。*2
このことを中心に置いて考えてみるならば、
曹植「盤石篇」と左思「詠史詩」とがつながるかもしれない。
楽府詩、詠史詩、そして古詩は、すべてその展開の場が宴席ですから。
それ以上のことはまだ何もわかっていませんが。

2022年4月21日

*1「盤石」、『詩紀』巻13は「盤盤」に作る。
*2 柳川順子「五言詠史詩の生成経緯」(『六朝学術学会報』第18集、2017年)。こちらの学術論文№42をご覧ください。

宮中庭園内の鯨

こんばんは。

曹植の「盤石篇」という楽府詩の中に、次のような一節があります。

鯨脊若丘陵  鯨の背骨は丘陵のようで、
鬚若山上松  その鬚(くちひげ)は山上の松のようだ。
呼吸呑船欐  呼吸すれば船や小舟を呑み込み、
澎濞戯中鴻  波しぶきを上げるさまはさながら戯中の鴻だ。

この中の、「戯中の鴻」というのがずっと気に懸かっています。
戯曲の中に鴻が登場するのでしょうか。

伊藤正文『曹植』(岩波・中国詩人選集、1958年)p.154には、
「遊び戯れている大鳥の意に解したい」とあります。

どうして、戯曲の中に鴻が、などと思ったかというと、
王朝主催の宴席を描くことの多い漢賦の中で、
鯨というものを見かけたことがあったのを思い出したからです。
宴席では、戯曲めいた文芸がよく行われていましたので。

漢賦の鯨、たしかにありました。
張衡の「西京賦」(『文選』巻2)に、
「海若游於玄渚、鯨魚失流而蹉
(海若は玄渚に游び、鯨魚は流れを失ひて蹉す)」
とあるのがそれでした。

けれども、宴会風景の中に見えるものではなくて、
建章宮の中にある池に、鯨をかたどった石像が立っていたようです。
李善注に引く『三輔旧事』に、
「清淵北有鯨魚、刻石為之、長三丈
(清淵の北に鯨魚有り、石を刻して之を為り、長さ三丈)」とありました。

まるで見当違いだったのですが、
前漢時代、宮中の庭園の池に、鯨の石像があったというのが面白くて記します。

曹植は、漢賦を愛読していましたから、
もしかしたら、張衡「西京賦」から得たイメージを重ねていたかもしれません。

2022年4月20日

自分にもできる曹植研究

こんにちは。

川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(岩波文庫、2022年2月)を、
昨日、街中の書店へ出向いて購入しました。

実は、書店へ出向いたのは、
マルクス・アウレーリウス著・神谷美恵子訳『自省録』を手に入れるためでした。
朝日新聞の書評欄に載っていた木村俊介氏の記事に惹かれて。
そして、神谷美恵子氏を改めて尊敬しなおすことがこのところ続いたので。

すると、目当ての『自省録』のすぐ近くに、
自分にとって今一番近しい父子の本があったのです。
書店に足を運ばなければ、この本を知るのはもっと遅れたでしょう。
(こういう情報に疎いのが自分の弱点だと自覚しています。)

目下、訳注作業を行っている曹植「喜雨」も収録されています。
一瞬、もう自分にできることは残されていないのではないか、と落胆しました。
けれども、やっぱり自分にしかできないこともあると思い直しました。

同じ中国文学という分野を研究していても、
その中には実に様々な持ち味の方々がいらっしゃいます。
そのそれぞれの良さを発揮すれば、この分野も盛り返すのではないか、
自分は愚鈍なたちだが、この速度からしか見えないものもある、
それを追求すればよいのだ、と思い直しました。

曹植作品のすべてに訳注をつけたい、
そうした作業を通して、曹植のことを弔いたいと私は思っています。

他方、曹氏父子に関心を寄せている方々が、
世の中には少なからずいらっしゃることに驚き、心強さを感じました。
(そうでなければ文庫本として出版されるはずがありません。)
次に、たとえば公開講座などでたずねられたら、
この本をお勧めしようと思います。

2022年4月18日

阮籍の「磬折」と曹植詩(承前)

こんばんは。
昨日の続きです。

阮籍「詠懐詩」に用いられた「磬折」は、
直接『尚書大伝』から引き出されたものではなく、
曹植の「箜篌引」に触発されて出てきた語だと私は見ます。

曹植詩では、「磬折」する人を軽くいなしていました。
阮籍「詠懐詩」は、その「磬折」の嫌らしさを明るみに出している、
曹植詩が含んでいたかすかな陰影を増幅して見せているように思うのです。

思えば漢代、詩歌を作る人は、
基本的に、宴席で「磬折」する立場にある人でした。
たとえば、「古詩十九首」其四(『文選』巻29)にはこうあります。

今日良宴会  今日のこの良き宴、
歓楽難具陳  その歓楽は、とてもつぶさには述べ尽くせないほどだ。
弾箏奮逸響  箏が爪弾かれて、絶世の音が勢いよく鳴り響き、
新声妙入神  今様の楽曲の妙なる音が深く心に染み入る。
令徳唱高言  今、すばらしい徳の持ち主が高雅なる言葉を朗誦するから、
識曲聴其真  本曲を知る者は、そこに込めた真実の声に耳を傾けてくれ。
斉心同所願  誰しもが同じ気持ちで同じことを願っているが、
含意倶未申  その思いを内に秘めながら、皆それを口にできないでいるのだ。
人生寄一世  人は生まれて一世に身を寄せ、
奄忽若飆塵  そのはかなさは、まるでつむじ風に吹き上げられる塵埃のようだ。
何不策高足  ならばどうして俊足の馬に鞭打って、
先拠要路津  まずは要路に位置する渡し場に足がかりを求めないのか。
無為守窮賤  もうやめよう、いつまでも先の見えない低い地位に甘んじて、
轗軻長苦辛  思うに任せぬ境遇に長く苦しむことは。

ここには、「磬折」という語は見えていません。
けれども、宴で詩歌を朗詠している人は、有力者に伝手を求める立場にある、
つまり、有力者に恭順の姿勢を取る人と、基本的には同じ立場にあるということです。

そうした境遇にある人のことを、客体化し、詩に詠ずるということは、
文壇の主催者が詩文の創作者でもある、という状況があってこそ可能でしょう。
そうした状況は、建安文壇に始まるのではなかったでしょうか。*

2022年4月7日

*かつて「貴族制の萌芽と建安文壇」(『魏晋南北朝における貴族制の形成と三教・文学―歴史学・思想史・文学の連携による―(第二回日中学者中国古代史論壇論文集)』汲古書院、2011年、pp.281―291)で、このことについて見通しを述べたことがある。

阮籍の「磬折」と曹植詩

こんにちは。

一昨日、阮籍は「磬折」という語を、
「詠懐詩」のみならず、「大人先生伝」でも用いていること、
後者のそれは、『韓詩外伝』や『説苑』を踏まえていることを述べました。

本日、再び「詠懐詩」の「磬折」に戻ります。
それは、曹植「箜篌引」に読み込まれた「磬折」と無関係なのでしょうか。

結論から言えば、阮籍は曹植の楽府詩を意識していると私は見ます。
どうしてそのように判断できるのか。

「大人先生伝」中の「或るひと」は、『韓詩外伝』や『説苑』を踏まえて、
世間の規範にきちんと適うことを「磬折」と表現しています。

一方、「詠懐詩」其八に見えている「磬折」は、
今を時めいている「当路子」が、「夸(誇)と名との為に」、
心身を「憔悴」させてまでも、さる相手に向けて行っている動作です。

また「詠懐詩」其十二(『文選』巻23所収十七首の其四)にも、
「悦懌若九春、磬折似秋霜(悦懌 九春の若く、磬折 秋霜に似たり)」とあって、
これもやはり、さる相手に対して腰を折り曲げる所作です。

社会的規範に即する所作をいう「磬折」と、
誰かに対して腰を折り曲げる所作をいう「磬折」とは、
似ているようで、違っています。

これらの「詠懐詩」を収録する『文選』の李善注は、
「磬折」は、次に示す『尚書大伝』(佚)を踏まえたものだと指摘しています。

諸侯来、受命周公、莫不磬折。
  諸侯来たりて、命を周公に受くるに、磬折せざるは莫(な)し。

李善は、曹植「箜篌引」(『文選』巻27)の「磬折」についても、
上記と同じ『尚書大伝』を注記しています。

では、曹植と阮籍は、それぞれ独自にこの語を引いたのでしょうか。
更にもう少し考えてみます。

2022年4月6日

「磬折」について再び

こんばんは。

しばらく間が空きました。
またしばらく間が空くかもしれません。
「曹植作品訳注稿」はなんとか継続的に作業を進めていますが、
(昨日、やっと「04-07-1 離友 有序 二首(1)」を公開しました。)
こちらの雑記に毎日書くことはとても難しい。

さて、ずいぶん前にこちらで、
阮籍「詠懐詩」其八ほかに見える「磬折」という語は、
曹植「箜篌引」を意識している可能性があるということを指摘しました。
そのことに関連して、少しばかり追記します。

阮籍は「磬折」という語を、
「大人先生伝」の中でも次のように用いています。

或遺大人先生書曰「天下之貴、莫貴於君子。服有常色、貌有常則、言有常度、行有常式。立則磬折、拱若(則)抱鼓、動静有節、趍歩商羽、進退周旋、咸有規矩。……」

ある人が大人先生にこんな書簡を送った。「天下に君子ほど高貴なものはない。服装、表情、言葉、行動、すべてに恒常的な法則性がある。立てば磬の楽器のように腰を折り、拱手して畏まるさまは鼓を抱え込むようで、所作はリズミカルで、足の運びにはメロディが伴うようで、すべての立ち居振る舞いに節度がある。……」(以上は意訳)

そして、ここに見える「立則磬折、拱若(則)抱鼓」という対句は、
直接的には、次の古典に基づく表現であると言えます。
まず、『韓詩外伝』巻1にこうあります。

古者天子左五鐘、将出、則撞黄鐘、而右五鐘皆応之。馬鳴中律、駕者有文、御者有数、立則磬折、拱則抱鼓、行歩中規、折旋中矩。(『韓詩外伝』巻1)
古は天子は五鐘を左にし、将に出でんとするや、則ち黄鐘を撞き、而して五鐘を右にして皆之に応ず。馬の鳴くは律に中たり、駕する者には文有り、御する者には数有り、立たてば則ち磬折し、拱すれば則ち鼓を抱き、行歩は規に中たり、折旋は矩に中たる。

また、前漢末の劉向『説苑』修文にもこうあります。

書曰「五事、一曰貌」(『尚書』洪範)。貌者、男子之所以恭敬、婦人之所以姣好也。行歩中矩、折旋中規、立則磬折、拱則抱鼓。
書に曰く「五事、一に曰く貌と」(『尚書』洪範)。貌とは、男子の恭敬なる所以にして、婦人の姣好なる所以なり。行歩は矩に中たり、折旋は規に中たり、立てば則ち磬折し、拱すれば則ち鼓を抱く。

阮籍は、大人先生に書簡を送りつけてきた似非儒者に、
ここに示した『韓詩外伝』や『説苑』の語句をほぼそのまま言わせて、
その浅はかさや視野の狭さを、大人先生の口を通して笑い飛ばしているのです。

では、阮籍の「詠懐詩」にいう「磬折」もまた、
「大人先生伝」が踏まえた前掲の古典のみを踏まえているのでしょうか。

この点について、もう少し考えてみます。

2022年4月4日

曹植の作品目録

こんにちは。

曹植の息子、曹志について、
かつてこちらで言及したことがあります。

その時は『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く『志別伝』に拠りましたが、
西晋の武帝司馬炎に一目置かれた曹志は、『晋書』にも伝が立てられています。
その巻50・曹志伝に、曹植に関わる次のような記事が見えています。*

司馬炎が、「六代論」(『文選』巻52に曹冏の作として収載)を取り上げて、
曹志に「これは君の先王の作なのか」と問うたのに対する彼の返答、

先王有手所作目録、請帰尋按。
先の王には手ずから作成した目録がございますので、帰って確認させてください。

これにより、曹植が自身の作品を大切に保管していたことが知られます。

曹植はその晩年に当たる明帝期の太和二年(228)、
「求自試表」に次いで著した文章(『三国志(魏志)』本伝裴注引『魏略』)において、
三つの不朽(立德、立功、立言)のうち、「立言」のみを外しています。
つまり、文学作品によって後世に名を残すということを、
当時の曹植は、それほど強く意識していなかったと表面上は認められるのです。

ですが、曹植が自ら作品目録を作成していたことを知って、
彼の文学への思いを、そんなふうに単純化することはできないと思い直しました。
それに、上記『魏略』に引く文章にも、その最後に次のようにあります。

嗚呼、言之未用、欲使後之君子知吾意者也。
ああ、言葉(「求自試表」で述べた言葉)が用いられないなら、
(せめて)後世の君子に、
私の思い(自ら試されんことを求める真意)を知ってほしいと願うものである。

2022年3月9日

*この記事は、曹道衡「魏晋文学」(『曹道衡文集』巻四)p.209によって教えられた。

曹植「応詔詩」札記4

おはようございます。

一昨日、曹植「応詔詩」の訳注稿を公開しました。
訳注作業をしながら気づいたことなどを、今日も書き留めます。

本作品において、『詩経』のある一句の一部分を引きながら、
典拠となった詩篇の文脈が意識されている可能性のある句を先に示しました。

このほか、『詩経』の一句をそのまま引いている事例もあります。
先行研究も夙に指摘している次の二例です。

第32句「再寝再興(再(すなは)ち寝ね再ち興く)」は、
『詩経』の秦風「小戎」の中の一句、
結びの第48句「憂心如酲(憂心 酲するが如し)」は、
小雅「節南山」の一句をそのまま用いたものです。

これらは、『詩経』の文脈を反映していると考えるのが自然だろうと思います。
ただ、典故とそれを踏まえた曹植詩との関係は屈折しています。

第32句が踏まえる秦風「小戎」のこの句の前には、
「言念君子(言(われ)は君子を念ふ)」という句がありますが、
この『詩経』の句と曹植詩とは直結しません。

曹植詩の方は、この句の前に「騑驂倦路(騑驂は路に倦み)」とあって、
険しい道をゆきなやむ添え馬のことを詠じており、
これと、「再寝再興(寝ても覚めても)」とはまっすぐにはつながらないのです。

しかも、『詩経』では、「君子を念う」のは、従軍する夫を思う妻の側です。

岩波文庫『文選 詩篇(一)』に指摘するとおり、*
この句には、曹植の曹丕に対する思いが伏流しているのだろうと私も思います。
では、曹植はなぜそれをこのような方法で隠微に表現したのでしょうか。

一方、曹植詩の結びに用いられた小雅「節南山」の前掲句は、
その後に「誰秉国成(誰か国の成(たひ)らかなるを秉(と)らん)」と続きます。

岩波文庫『文選』は、この典故を指摘した後、
「その文脈を意識して用いたとすれば曹丕に対する微意を含むことになる。」
と付記しています。

一首の結びに『詩経』の句をそのまま用いている、
そこには、曹植の強い思いがあったと考えないわけにはいきません。
ただ、それがどのような思いなのかは、もう少し検討してみないとわかりません。

2022年3月5日

*『文選 詩篇(一)』(岩波文庫、2018年)p.126を参照。

曹植「応詔詩」札記3

こんばんは。

曹植「応詔詩」には、
随所に『詩経』の辞句が用いられています。
彼はどこまで、もとの『詩経』の文脈を意識しているのでしょうか。

たとえば、洛陽へ向かう途上の情景を描写した第27句、
「遵彼河滸(彼の河の滸(ほとり)に遵(したが)ひ」の「河滸」について、
『毛詩』王風「葛藟」に「綿綿葛藟、在河之滸(綿綿たる葛藟、河の滸に在り)」、
その毛伝に「水厓曰滸(水厓を滸と曰ふ)」とあることを、
『文選』李善注(巻20)は指摘しています。

けれど、李善は語句の説明をしただけだとしてしまってよいものかどうか。
というのは、『毛詩』王風「葛藟」に当たってみると、
この後に、次のような句が続いているからです。

「終遠兄弟、謂他人父(終に兄弟に遠ざかり、他人を父と謂ふ)」。
これを踏まえて解釈するならば、
「葛藟」の繁茂する「河滸」は、分断された骨肉のイメージを伴ったはずです。

曹植は、このイメージを自身の詩に重ねるため、「河滸」の語を用いたのかもしれません。
「遵彼河滸」の「彼」が、そのことを示唆しているように感じます。
「あの」葛かずらが茂る「河の滸」、とわざわざ指し示しているのですから。

いや、それはただ単に語調を整えただけだ、
特に意味のない虚詞に意味を見出そうというのは考えすぎだ、
という人もいるかもしれませんが。

2022年3月2日

曹植「応詔詩」札記2

こんばんは。

昨日に続き、曹植「応詔詩」に関して考えたことです。

第36句「指日遄征」の「指日」を、
先行する訳注では、特段の注記がないか、
あるいは「定められた期日を厳守して」のような意味で捉えています。*1

それを、文字どおり、現実に、
「太陽を目指して」と取ることはできないでしょうか。

本詩が作られた黄初四年(223)当時、
曹植が封ぜられていたのは、鄄城(山東省)、もしくは雍丘(河南省)で、*2
そこから都の洛陽に向かいつつ「日を指す」となると、
太陽は西方に懸かっていることになります。
それは、これから西の地平線に向かって落ちてゆく白日です。

曹植の詩歌には、西に傾く太陽を、時間的切迫感とともに詠ずるものが少なくありません。
『文選』所収作品では、たとえば次のような詩句を挙げることができます。

○「贈徐幹」(巻24)に、
「驚風飄白日、忽然帰西山(驚風 白日を飄(ひるがへ)し、忽然として西山に帰る)」、
○「贈白馬王彪」(巻24)に、
「白日忽西匿(白日 忽として西に匿(かく)る)」、
○「箜篌引」(巻27)に、
「驚風飄白日、光景馳西流(驚風 白日を飄(ひるがへ)し、光景 馳せて西に流る)」
という具合に。

そして、こうした詩想は、漢魏の作品に少なからず認められます。
たとえば、

○『文選』巻24、「贈徐幹」曹植の李善注に引く「古歩出夏門行」に、
「行行復行行、白日薄西山(行き行きて復た行き行き、白日は西山に薄(せま)る)」、
○劉向「九歎・遠逝」(『楚辞章句』巻16)に、
「日杳杳而西頽兮、路長遠而窘迫(日は杳杳として西に頽れ、路は長く遠くして窘迫す)」、
○秦嘉「贈婦詩」(『玉台新詠』巻9)に、
「曖曖白日、引曜西傾(曖曖たる白日、曜(ひかり)を引きて西に傾く)」、
○王粲「従軍詩五首」其三(『文選』巻27)に、
「白日半西山、桑梓有餘暉(白日は西の山に半ばして、桑梓には餘暉有り)」、
○曹丕「寡婦詩」(『藝文類聚』巻34)に、
「妾心感兮惆悵、白日急兮西頽(妾が心は感じて惆悵す、白日は急にして西に頽る)」
という具合に。

曹植の詠じた「指日」という詩語は、
『漢語大詞典』に挙げられた用例などを見ると、
後世、たしかに「遠からず、期日までに」といった意味を持つようになっています。
この語が次第にそうした意味を帯びて熟していったのも、
漢魏の時代、「白日」が上述のようなイメージを纏っていたからかもしれません。

ちなみに、潘岳「関中詩」(『文選』巻20)に、
曹植のこの詩句をほぼそのまま踏襲して、
「指日遄逝(日を指して遄(すみ)やかに逝く)」とあります。*3
曹植のこの表現は、当時にあっても際立って印象深いものだったのでしょう。

2022年3月1日

*1 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.77に、「日を天子または都のたとえとして用いたと考えたい。また時間の推移をあらわすものと考えることも可能だ」とあるのが他とはやや異なる解釈である。
*2 『魏志』巻19本伝には、「(黄初)四年、徙封雍丘王。其年、朝京都(これに続けて、いわゆる「上責躬応詔詩表」「責躬詩」「応詔詩」が引かれる)」と記され、これはいずれとも取り得る記し方である。このことについては、かつてこちらでも検討したが、なお未詳である。
*3 花房英樹『文選 三』(集英社・全釈漢文大系、1974年)p.70、79に指摘する。

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