世俗的な教訓詩
こんばんは。
曹植の「矯志」という四言詩を読んでいます。
非常に多くの古典語や故事が踏まえられているのですが、
黄節ら先人の注釈書に導かれながらその典拠をたどっていると、
(更に、その典拠である書物の、先人による注釈書を紐解いてみると)
複数の書物に、同じような言葉や故事が記されている例によく遭遇します。
たとえば、
カマを振り上げる螳蜋(カマキリ)に怖気づいて軍を撤退した斉の荘公は、
『韓詩外伝』巻八にも、『淮南子』人間篇にも見えますし、
勇士を募るため、怒った蛙に対して敬礼してみせた越王の故事は、
『韓非子』内儲説上にも、『尹文子』大道上にも見えているという具合です。
(更に多くの他書にも引かれているかもしれません。)
これは、どういうことでしょうか。
思うに、複数ある書物の中のいずれかが源流というわけではなくて、
周知の故事や言葉を、それぞれの書物が書き留めたということかと考えます。
そして、それら周知の言葉や故事は、
経書のようないわゆる古典とは少し肌合いが異なっていて、やや通俗的です。
口頭で広く流布していた故事や言葉である可能性もあります。
もしかしたら、曹植の「矯志」詩そのものが、
古代によくある通俗的な教訓詩の系譜を引く作品なのかもしれません。*
ならば、そうした作品に通俗的な典故が引かれるのは自然なことだろうと思います。
2022年5月15日
*鄭振鐸『俗文学史』第二章「古代的歌謡」第七節を参照。
再び想起する張華
こんばんは。
昨日まで連続して書いてきた「清商三調」と「大曲」との関係について、
なんと二年前にも同じ内容で考察していたことに気づきました。
それで、「大曲」及びそれに続く楚調「怨詩行」の編者は、
荀勗以外の誰か、たとえば張華であった可能性はないかと考えていたのですが、
このこともすでに、一年半ほど前に述べていました。
こちらやこちらの記事がそれです。
自分の耄碌ぶりにがっくりきます。
(考察は螺旋状に深化していくものではあるけれど。)
やっぱりメモは見返していく必要があると思いなおしました。
(このこと自体も、かつて書いていながら、実行できていませんでした。)
このところ、なぜ「大曲」や張華のことを想起したかというと、
曹植との関わり、曹植作品の近い時代の人々への波及、という観点からです。
「大曲」や楚調「怨詩行」は、
西晋時代のものと見てほぼ間違いないでしょう。
こうした宮廷音楽は、西晋王朝の滅亡とともに散逸し、
その復元は、南朝の劉宋時代まで待たねばなりませんでしたから。
(先日来頻繁に言及している王僧虔「技録」は、この南朝宋の産物です。)
その西晋時代に編成された歌曲群の中に、
曹植による歌辞の歌曲が二篇あることに興味を引かれます。
武帝曹操、文帝曹丕、明帝曹叡の歌辞、及び漢代の古辞に交じって、
曹植「野田黄雀行・置酒」(『文選』巻27では「箜篌引」と題されている)や、
曹植「七哀詩」をその歌辞に用いる楚調曲「怨詩行」が演奏されている、
そのことの意味を再度考え直したいのです。
荀勗にはそうした動機が生ずるとは考えにくいのですが、
張華においてはその可能性が十分にあります。
また、曹植と陸機との接点も、張華を中に置くと理解できるかもしれません。
(まだうまく言葉にできない段階のものを書き記しておきます。)
2022年5月14日
「清商三調」と「大曲」(承前)
こんばんは。
『宋書』楽志三に収載する「大曲」は、
「艶歌羅敷行」が、「荀氏録」に瑟調曲とあるほか、
その多くは、王僧虔「大明三年宴楽技録」に瑟調曲として記録されています。
(5月10日に示した一覧表に、こちらの「楽府関係年表」もあわせてご覧ください。)
このうち、「白頭吟」は、
王僧虔「技録」では楚調曲とされていますが、
『宋書』楽志三では「大曲」に組み入れられた上で、
「与櫂歌同調(櫂歌と調を同じくす)」と注記されています。
「櫂歌行」ならば、王僧虔「技録」に瑟調曲として記されています。
同じく「大曲」の中、
武帝と明帝の歌辞をのせる二篇の「歩出夏門行」は、
この楽府題自体は、王僧虔「技録」には見えていないのですが、
『楽府詩集』巻37に、「隴西行」のまたの名を「歩出夏門行」ということが記され、
もしこの説明が正しければ、これもまた瑟調曲だということになります。
「隴西行」は、王氏「技録」に瑟調曲として記されていますので。
こうしてみると、「大曲」はすべて、瑟調曲として演奏されたもののようです。
けれども、これらの曲は、「荀氏録」には瑟調曲として記されてはいませんでした。
また、「荀氏録」には「大曲」に関わる記載もないのでした(5月11日雑記)。
「荀氏録」は、『宋書』楽志三にいう「清商三調」とよく重なり合います(5月10日雑記)。
そして、『宋書』楽志三にいう「清商三調」とは、
「荀勗撰旧詞施用者(荀勗の旧詞を撰して施用する者なり)」、
つまり、西晋の荀勗が、漢魏の歌辞から選び取って、三調の楽曲に乗せた歌曲です。
この「清商三調」と重ならないのが「大曲」という歌曲群です。
以上のことから「大曲」の輪郭を描き出してみると、
それはまず、平・清・瑟の三調とは別次元の範疇に属するもののようです。*
そして、その歌曲群の編成は、荀勗以外の誰かが手掛けたのだろうと推し測られます。
2022年5月13日
*増田清秀『楽府の歴史的研究』(創文社、一九七五年)にも「大曲」に関する論述が見えるが、ここでは、先学とは異なる視点からの私見を述べた。
「清商三調」と「大曲」
こんばんは。
『宋書』楽志三に収載する「清商三調」の中には、
同書に続けて引く「大曲」と楚調「怨詩行」とは含まれないのではないか、
と推し測れることを昨日述べました。
このことについて、ひとつ傍証を補足しておきます。
『楽府詩集』巻43に載せる「大曲」の説明に、
編者の郭茂倩は、『宋書』楽志、次いで『古今楽録』を引いています。
昨日、『宋書』楽志三所収「清商三調」とよく重なると指摘した「荀氏録」は、
『楽府詩集』が引く『古今楽録』に引用されて今に伝わる文献です。
そして、『古今楽録』の撰者である陳の釈智匠は、
必ずや西晋時代の荀勗の歌曲目録を目睹できていたはずです。
一部の歌曲について「今不伝」といったコメントが付されているのは、
まさしく、彼が「荀氏録」を参照できる状態にあったことを物語っています。
もし「大曲」について「荀氏録」が何らかの記述を残していれば、
釈智匠は『古今楽録』にそれを書き留めたはずですし、
郭茂倩は『楽府詩集』にその『古今楽録』を引用したでしょう。
ところが、上記のとおり、『楽府詩集』にはそれが無いのです。
したがって、「荀氏録」には「大曲」に関わる記録はなかったと見るのが妥当です。
2022年5月11日
晋楽所奏「清商三調」
こんばんは。
以前、曹植「七哀詩」を楽府詩に変換した、
楚調「怨詩行・明月」(『宋書』巻21・楽志三)について論じたことがあります。
この徒詩と楽府詩との間にある辞句の違いに着目して、
「怨詩行」が、西晋時代の人々による、曹植への鎮魂歌である可能性を述べたものです。
その際、楚調は、いわゆる「清商三調」の中に含まれるものとして考えました。
ただ、そうすると、「清商三調」の撰者である荀勗が、
この「怨詩行」を晋楽所奏の歌曲として取り込んだ張本人だということになり、
彼という人物の為人や足跡とは相容れないものを感じざるを得ません。
(ことの詳細は、こちらの№43からご覧いただけます。)
また、『宋書』楽志三所収の「清商三調」には、
その歌辞の配列や、選択された楽曲に、少しく偏りがあるように感じます。
気になっていたこれらの点を少しでも明らかにしたいと思い、
改めて、晋楽所奏「清商三調」とは何なのか、整理し直してみました。
こちらの一覧表がそれです。
『楽府詩集』、『宋書』楽志三、王僧虔「技録」、荀勗「荀氏録」所収歌辞の一覧表で、
こちらに公開している「漢魏晋楽府詩一覧」を利用して並べ替えてみたものです。
(各資料の説明は、同ファイルの「説明」シートをご覧ください。)
こうしてみると、平・清・瑟の三調曲については、
「荀氏録」と『宋書』楽志三とは、よく重なることに気づかされます。
他方、『宋書』楽志所収の「大曲」諸歌辞と楚調「怨詩行」は、
「荀氏録」には記録が見当たりません。
もっとも、「荀氏録」は釈智匠『古今楽録』(『楽府詩集』所引)に引かれて伝わるので、
完全に「無い」とは言い切れないのですが。
それでも、中には、「荀氏録」に瑟調曲として記録されていながら、
『宋書』楽志は「大曲」として収載する「艶歌羅敷行」のような例もありますから、
少なくとも「大曲」と「荀氏録」とは重ならないと見ることができます。
荀勗の撰になる『宋書』楽志三所収「清商三調」に、
「大曲」と楚調「怨詩行」は含まれていなかったと見た方が妥当かもしれません。
2022年5月10日
曹植の政治思想
こんにちは。
本日、曹植「喜雨」詩の訳注稿を公開しました。
大干ばつの後、やっと雨に恵まれたことを喜ぶこの詩は、
『北堂書鈔』巻156に記されて伝わる佚文により、
明帝の太和二年(228)に作られたということが知られます。
そうすると、本詩は「求自試表」(『文選』巻37)と同年の作であり、
また、「惟漢行」の翌年の作と推定されることにもなります。
(もしこちらの所論*が妥当であるならば)
本詩の序文と見られる上記の佚文には、
飢餓に苦しみながらも、それに甘んじている農民のことが記されています。
曹植の眼差しは、干ばつから農民たちの苦境へと広がっているのです。
同種の眼差しは、「贈丁儀」詩(『文選』巻24)にも認められました。
また、「喜雨」詩の一句目に見えている「天覆」という語は、
天が広く世界を覆っていることを意味するのみならず、そこから敷衍して、
天からの使命を受けた天子が、万物に広く恩沢を敷き広げることをも意味します。
つまり、この詩は、「雨を喜ぶ」ことに、
天子の善政を慶賀するという意味が重ねられているのです。
こうした発想は、近代以前の知識人階級にはごく自然なものです。
けれど、明帝期の曹植が置かれた状況を思えば、当然とも言えないかもしれません。
兄の曹丕が文帝として即位した220年以降、この明帝期初めに至るまで、
曹植はずっと王朝運営から疎外された状態にありましたから。
曹植はこうした政治的意欲を若い頃から持っていたように看取されますが、
(ここでいう政治とは、日本語でいう「政治」とは異なります。)
実際の経験を積むことなく時を経てしまっただけに、
その政治思想は、純粋な、観念的なままのそれだったかもしれません。
「野田黄雀行」における半狂乱の有様を見るに、
現実的な力を持たなければ、人ひとり救うこともできない、
このことを、丁氏兄弟を亡くしてはじめて、彼は骨身に刻み付けたと思われます。
けれども、その後の彼は、権力を持つ方向へは向かわなかった、
というより、その選択肢を王朝から与えられなかったというのが現実です。
曹植の政治思想の発露には、
どこか、痛々しさを感じないではいられません。
2022年4月25日
*『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号(2022年3月)に投稿した原稿です。こちらをご覧ください。
曹植「盤石篇」と左思「詠史詩」
こんにちは。
昨日触れた曹植「盤石篇」の一節には、
もうひとつばかり、目に留まった表現があります。
鯨のくちひげを描写する「鬚若山上松(鬚は山上の松の若し)」が、
左思「詠史詩八首」其二(『文選』巻21)の冒頭にいう、
鬱鬱澗底松 鬱鬱たり 澗底の松
離離山上苗 離離たり 山上の苗
を想起させると思ったのです。
「山上」の「松/苗」(植物)というフレーズです。
また、曹植「盤石篇」の冒頭は次のとおりです。
盤石山巓石 盤石なり 山巓の石 *1
飄颻澗底蓬 飄颻たり 澗底の蓬
「澗底」という語や、
山の頂上を意味する「山巓/山上」という語が共通しています。
詩歌の詠い起こしにこうした辞句を持ってくること、
一句五言のうち、最初の二字で様子を形容し、
続く三字で、場所(二字)+自然物(一字)という構成をとることも似ています。
もっとも、こうした表現を詩の冒頭に置くのは、
たとえば、「古詩十九首」其二(『文選』巻29)にも、
「青青河畔草、鬱鬱園中柳(青青たる河畔の草、鬱鬱たる園中の柳)」と見え、
漢代古詩・古楽府には常套的な言い回しです。
詠史詩というジャンルは、宴席に発祥する文芸だと捉えられます。*2
このことを中心に置いて考えてみるならば、
曹植「盤石篇」と左思「詠史詩」とがつながるかもしれない。
楽府詩、詠史詩、そして古詩は、すべてその展開の場が宴席ですから。
それ以上のことはまだ何もわかっていませんが。
2022年4月21日
*1「盤石」、『詩紀』巻13は「盤盤」に作る。
*2 柳川順子「五言詠史詩の生成経緯」(『六朝学術学会報』第18集、2017年)。こちらの学術論文№42をご覧ください。
宮中庭園内の鯨
こんばんは。
曹植の「盤石篇」という楽府詩の中に、次のような一節があります。
鯨脊若丘陵 鯨の背骨は丘陵のようで、
鬚若山上松 その鬚(くちひげ)は山上の松のようだ。
呼吸呑船欐 呼吸すれば船や小舟を呑み込み、
澎濞戯中鴻 波しぶきを上げるさまはさながら戯中の鴻だ。
この中の、「戯中の鴻」というのがずっと気に懸かっています。
戯曲の中に鴻が登場するのでしょうか。
伊藤正文『曹植』(岩波・中国詩人選集、1958年)p.154には、
「遊び戯れている大鳥の意に解したい」とあります。
どうして、戯曲の中に鴻が、などと思ったかというと、
王朝主催の宴席を描くことの多い漢賦の中で、
鯨というものを見かけたことがあったのを思い出したからです。
宴席では、戯曲めいた文芸がよく行われていましたので。
漢賦の鯨、たしかにありました。
張衡の「西京賦」(『文選』巻2)に、
「海若游於玄渚、鯨魚失流而蹉
(海若は玄渚に游び、鯨魚は流れを失ひて蹉す)」とあるのがそれでした。
けれども、宴会風景の中に見えるものではなくて、
建章宮の中にある池に、鯨をかたどった石像が立っていたようです。
李善注に引く『三輔旧事』に、
「清淵北有鯨魚、刻石為之、長三丈
(清淵の北に鯨魚有り、石を刻して之を為り、長さ三丈)」とありました。
まるで見当違いだったのですが、
前漢時代、宮中の庭園の池に、鯨の石像があったというのが面白くて記します。
曹植は、漢賦を愛読していましたから、
もしかしたら、張衡「西京賦」から得たイメージを重ねていたかもしれません。
2022年4月20日
自分にもできる曹植研究
こんにちは。
川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(岩波文庫、2022年2月)を、
昨日、街中の書店へ出向いて購入しました。
実は、書店へ出向いたのは、
マルクス・アウレーリウス著・神谷美恵子訳『自省録』を手に入れるためでした。
朝日新聞の書評欄に載っていた木村俊介氏の記事に惹かれて。
そして、神谷美恵子氏を改めて尊敬しなおすことがこのところ続いたので。
すると、目当ての『自省録』のすぐ近くに、
自分にとって今一番近しい父子の本があったのです。
書店に足を運ばなければ、この本を知るのはもっと遅れたでしょう。
(こういう情報に疎いのが自分の弱点だと自覚しています。)
目下、訳注作業を行っている曹植「喜雨」も収録されています。
一瞬、もう自分にできることは残されていないのではないか、と落胆しました。
けれども、やっぱり自分にしかできないこともあると思い直しました。
同じ中国文学という分野を研究していても、
その中には実に様々な持ち味の方々がいらっしゃいます。
そのそれぞれの良さを発揮すれば、この分野も盛り返すのではないか、
自分は愚鈍なたちだが、この速度からしか見えないものもある、
それを追求すればよいのだ、と思い直しました。
曹植作品のすべてに訳注をつけたい、
そうした作業を通して、曹植のことを弔いたいと私は思っています。
他方、曹氏父子に関心を寄せている方々が、
世の中には少なからずいらっしゃることに驚き、心強さを感じました。
(そうでなければ文庫本として出版されるはずがありません。)
次に、たとえば公開講座などでたずねられたら、
この本をお勧めしようと思います。
2022年4月18日
阮籍の「磬折」と曹植詩(承前)
こんばんは。
昨日の続きです。
阮籍「詠懐詩」に用いられた「磬折」は、
直接『尚書大伝』から引き出されたものではなく、
曹植の「箜篌引」に触発されて出てきた語だと私は見ます。
曹植詩では、「磬折」する人を軽くいなしていました。
阮籍「詠懐詩」は、その「磬折」の嫌らしさを明るみに出している、
曹植詩が含んでいたかすかな陰影を増幅して見せているように思うのです。
思えば漢代、詩歌を作る人は、
基本的に、宴席で「磬折」する立場にある人でした。
たとえば、「古詩十九首」其四(『文選』巻29)にはこうあります。
今日良宴会 今日のこの良き宴、
歓楽難具陳 その歓楽は、とてもつぶさには述べ尽くせないほどだ。
弾箏奮逸響 箏が爪弾かれて、絶世の音が勢いよく鳴り響き、
新声妙入神 今様の楽曲の妙なる音が深く心に染み入る。
令徳唱高言 今、すばらしい徳の持ち主が高雅なる言葉を朗誦するから、
識曲聴其真 本曲を知る者は、そこに込めた真実の声に耳を傾けてくれ。
斉心同所願 誰しもが同じ気持ちで同じことを願っているが、
含意倶未申 その思いを内に秘めながら、皆それを口にできないでいるのだ。
人生寄一世 人は生まれて一世に身を寄せ、
奄忽若飆塵 そのはかなさは、まるでつむじ風に吹き上げられる塵埃のようだ。
何不策高足 ならばどうして俊足の馬に鞭打って、
先拠要路津 まずは要路に位置する渡し場に足がかりを求めないのか。
無為守窮賤 もうやめよう、いつまでも先の見えない低い地位に甘んじて、
轗軻長苦辛 思うに任せぬ境遇に長く苦しむことは。
ここには、「磬折」という語は見えていません。
けれども、宴で詩歌を朗詠している人は、有力者に伝手を求める立場にある、
つまり、有力者に恭順の姿勢を取る人と、基本的には同じ立場にあるということです。
そうした境遇にある人のことを、客体化し、詩に詠ずるということは、
文壇の主催者が詩文の創作者でもある、という状況があってこそ可能でしょう。
そうした状況は、建安文壇に始まるのではなかったでしょうか。*
2022年4月7日
*かつて「貴族制の萌芽と建安文壇」(『魏晋南北朝における貴族制の形成と三教・文学―歴史学・思想史・文学の連携による―(第二回日中学者中国古代史論壇論文集)』汲古書院、2011年、pp.281―291)で、このことについて見通しを述べたことがある。