曹植「責躬詩」への疑問5
こんにちは。
今日もまた曹植「責躬詩」についてです。
昨日取り上げた部分(特に「冀方」をめぐる検討)に続く、
こちらの29・30行目「赫赫天子、恩不遺物。冠我玄冕、要我朱紱」は、
曹植が、鄄城侯から鄄城王に爵位を進められたことを指すと見るのが妥当でしょう。*
ただし、これは「冀方」すなわち魏の都洛陽に赴いてのことであったのか、
つまり、27行目「于彼冀方(彼の冀方に于(ゆ)く)」にスムーズにつながる内容なのか、
確認する必要があると思いました。
というのは、続く31・32行目に「光光大使、我栄我華。剖符授土、王爵是加」とあって、
鄄城王への任命が、使者を通して行われているように詠じられているからです。
結論から言えば、
曹植は本当に都洛陽へ赴いたのであり、任命はそこで為されたと見られます。
まず、先日来言及している「黄初六年令」に、
黄初四年(223)、鄄城王から雍丘王に移されたことを示す「及到雍」に先んじて、
「反旋在国、揵門退掃、形景相守、出入二載」とあること、
つまり、あるところから鄄城に戻っていることが記されていることです。
あるところとは、この文脈から見て、洛陽を措いてほかには考えられません。
また、前掲の29行目「赫赫天子、恩不遺物」に対して、
『文選』李善注は次のように注しています。
(この項、先に訳注稿を公開した際には落としていたので、本日新しく補いました。)
謂至京師、蒙恩得還也。
植求習業表曰、雖免大誅、得帰本国。
京師に至りて、恩を蒙り還るを得たるを謂ふなり。
(曹)植の「求習業表」に曰く、「大誅を免れ、本国に帰るを得たりと雖も」と。
こうしてみると、
使者が曹植に王の爵位を授けたのは、都洛陽においてであって、
そこから遠く離れた土地へ使者が派遣されたというわけではないようです。
昨日も言及した、曹植「求出猟表」(『文選』李善注に引く佚文)に、
「臣自招罪舋、徙居京師、待罪南宮」とあったように、
たとえば「南宮」など、洛陽城内の一角に留め置かれていたところへ、
使者が遣わされてきたのだと見ることができるかもしれません。
こうした措置が、他の兄弟たちにも取られたのか、
それとも、罪人扱いされていた曹植に対してのみであったのかは未詳です。
2022年1月4日
*『三国志(魏志)』巻2・文帝紀、黄初三年夏四月戊申(14日)の条に、このことが記されている。これに先んずる同年三月乙丑(3日)には、曹植の兄弟たちが、侯から王へと爵位を進められことが記されている。
曹植「責躬詩」への疑問4
こんにちは。
今日も曹植「責躬詩」への疑問を記します。
こちらの27・28行目「煢煢僕夫、于彼冀方。嗟余小子、乃罹斯殃」について。
まず、「斯(こ)の殃(わざわい)」とは、昨日述べたとおり、
東郡太守王機らの誣告により、朝廷に罪を得たことを指すでしょう。
それは「枉げて誣白する所」(曹植「黄初六年令」)であったがゆえに、
この災禍に「罹る」と表現されているのだと思われます。
その結果、曹植は「煢煢たる僕夫と、彼の冀方に于(ゆ)く」こととなったのです。
では、ここにいう「冀方」とはどこを指すのでしょうか。
それは、魏王朝が成立して新しく都が置かれた洛陽を指すと考えられます。
(『尚書』五子之歌を踏まえてこう判断できます。詳細は訳注稿をご覧ください。)
けれども、『文選』李善注は次のとおり、
「冀方」は、冀州に属する、魏王国の都であった鄴を指すとしています。
植集曰、詔云、知到延津、遂復来。求出猟表曰、臣自招罪舋、徙居京師、待罪南宮。
然植雖封安郷侯、猶住冀州也。時魏都鄴。鄴、冀州之境也。
植集に曰く、
詔に云ふ「延津に到るを知りて、遂に復た来たる」と。
出猟を求むる表に曰く「臣は自ら罪舋を招き、居を京師に徙して、罪を南宮に待つ」と。
然れば植は安郷侯に封ぜらると雖も、猶ほ冀州に住むなり。
時に魏は鄴に都す。鄴は、冀州の境なり。
「延津」とは、曹植が異例の措置として罪を減ぜられ、安郷侯に封ぜられた場所です。
(詳細は、訳注稿の「違彼執憲、哀予小臣」の語釈をご参照ください。)
この李善注のうち、次の点が私にはまだ理解できていません。
・「詔」の内容が理解できない。特に末尾には何か欠落があるのではないかと疑われる。
・「詔」と「求出猟表」とはどのような関係にあるのか。
・「求出猟表」にいう「京師」「南宮」を、李善はなぜ鄴だと判断したのか。
・李善は「時に魏は鄴に都す」としているが、この判断の根拠は何か。
なお、前掲の“「冀方」とは洛陽をいう”の説は、
李善が、上記の注に続けて、「一に云ふ」として引くものです。
他方、黄節『曹子建詩註』もまた、
別紙に示すとおり、「冀方」とは鄴をいうとしています。
「冀」という文字はすなわち「冀州」を指しているのだという前提に立って、
あとは、行政地理上、「鄴」が「冀州」に属するということを示しているだけです。
民国時代の黄節も、唐代の李善も、
深い学識に基づく的確な注釈で読者を導いてくれますが、
このたびの「冀方」に対する解釈には、納得することができませんでした。
ただ、「冀方」が魏王朝の新しい都洛陽を指すのだとしても、
曹植はなぜこのような言い方をしたのか、判然としているわけではありません。
2022年1月3日
曹植「責躬詩」への疑問3
こんにちは。
曹植「責躬詩」への疑問、
今日は、こちらの25・26行目にいう、
「股肱弗置、有君無臣。荒淫之闕、誰弼余身
(股肱は置かれず、君有りて臣無し、荒淫の闕、誰か予が身を弼けん)」についてです。
これらの句は、いつの時点でのことを指して言っているのでしょうか。
その前に並ぶ句は、おおよそ次のように捉えることができます。
(詳細は、訳注稿をご覧いただければ幸いです。)
23行目「違彼執憲、哀予小臣」は、特別に受刑を免れて、安郷侯に封ぜられたこと、
24行目「改封兗邑、于河之浜」は、すぐに安郷から鄄城へ封土を移されたこと。
すると、これに続く前掲の四句は、鄄城での出来事だと見られます。
実際、鄄城侯に封ぜられた黄初二年(221)から翌年にかけて、
曹植は東郡太守の王機らから誣告され、朝廷に罪を得ていることが、
彼自身による「黄初六年令」の中に確認できます。
(訳注稿は未完性ですが、原文と訓み下しをこちらに提示しておきます。)
鄄城は、東郡太守の配下にある土地です。*
曹植の動向を逐一監視し、その落ち度を数え上げるのは容易なことだったでしょう。
こう捉えることが妥当であるならば、
前掲の四句の中で、曹植は自身を「君」といい、
君主を補佐する「股肱」はおらず、君主を「弼(たす)」ける臣下がいない、
と言っていることになります。
この言い方は、罪を得た者として、少し傲岸なようにも感じられます。
けれど、本詩11行目に、文帝の命として「君茲青土(茲の青土に君たれ)」とあるので、
この時に封ぜられた青州の臨淄侯を指して言うばかりでなく、
封を改められた鄄城侯をも「君」と称することに何ら不都合はないのでしょう。
もし、上述のような理路が通っているならば、
ここに、この時点での曹植のあり様のありのままを窺うことができそうです。
2021年12月31日
*黄節『曹子建詩註』(中華書局香港分局、1973年)p.25に、「鄄城属東郡、王機為東郡太守、誣子建、是子建時為鄄城侯也(鄄城は東郡に属し、王機は東郡太守為り、子建を誣せるは、是れ子建時に鄄城侯為るなり)」と指摘している。
曹植「責躬詩」への疑問2
こんにちは。
判然としないところの多い曹植「責躬詩」について、
本日もその不明点を記します。
(訳注稿もあわせてご覧ください。)
原文・通釈ファイルの14行目「済済雋乂、我弼我輔」について、
以前、こちらで疑問を提示したことがあります。
「輔」「弼」という語は、元来が天子に対する輔佐をいう。
すると、「我」を曹植自身をいうものと捉え、
「済済たる雋乂」が自分を補佐する、と解釈することはできない。
「我」とは、天子である曹丕のことを指すのだろうか。
ただ、そうしてみると、また別の困難が持ち上がってくるのでした。
この問題について、
13・14行目「車服有輝、旗章有叙。済済雋乂、我弼我輔」をすべて、
諸侯たちが任地へ赴く出発の場面を描写したものだと捉えてはどうかと考えてみました。
これから各地へ出発してゆく曹丕の弟たち、
彼らの一行が、それぞれの「車服」や「旗章」を輝かせながら整然と並び、
一方、これを見送る側に、天子を補佐する優れた臣下たちがずらりと居並んでいる、
という情景を描いたものではないかと捉えたのです。
この解釈は、曹植「聖皇篇」に見える次のような表現から連想したものです。*
すなわち、「諸王」の任地への出発を描いたところに、
貴戚並出送 帝王の親族たちはこぞって見送りに出てきて、
夾道交輜輧 道の両側に、四面にとばりを垂れた車をひしめかせている。
車服斉整設 諸王たちに下賜された車や衣服はうち揃って整列し、
韡曄耀天精 きらきらと日の光に輝いている。
とあるのがそれです。
諸王の出発を見送る人々の中に、「貴戚」ばかりではなく、
天子の周りを固める「済済たる雋乂」がいた可能性はないでしょうか。
ただ、諸王や諸侯が任地へ赴く際、
具体的にどのような情景がそこに広がっていたのか、
私には今一つ正確な把握ができていません。
2021年12月30日
*この作品については、かつてこちらの学術論文№39で論じたことがあります。あわせてご参照いただければ幸いです。ただし、前掲部分の「韡曄」の訓み下しが誤っていました。「韡曄として」とすべきでした。
曹植「責躬詩」への疑問1
こんばんは。
昨日やっと訳注稿を提示した曹植「責躬詩」について、
本日から、その不明点を記していきます。
本日は、原文・通釈のみを提示するファイルの9・10行目
「万邦既化、率由旧則。広命懿親、以藩王国
(万邦 既に化し、旧則に率ひ由る。広く懿親に命じ、以て王国に藩たらしむ)」と、
史実との食い違いに対する疑問です。
ここにいう「王国」は、
曹操の没(220年1月)後に曹丕が継承した魏王国ではなくて、
後漢王朝から受禅した(220年10月)後の魏王朝と見るのが自然でしょう。
直前の8行目に「受禅于漢、君臨万邦(禅(ゆず)りを漢に受け、万邦に君臨す)」とあり、
前掲の四句はこれを直に受けていることから、そう判断されます。
けれども、事実として、曹丕が骨肉の弟たちに封土への赴任を命じたのは、
彼が魏王に即位してすぐのことであったと見られます。
『魏志』巻19・任城王彰伝に、
「太祖崩。文帝即王位、彰与諸侯就国
(太祖(曹操)崩ず。文帝(曹丕)王位に即きて、(曹)彰は諸侯と国に就く)」とあり、
このことを命ずる詔が記された後に、黄初二年(221)の記事が続きますから。
また、曹植の「請祭先王表」(07-26)には、
(訳注は未完成ですが、こちらでひととおり通釈しています。)
「計先王崩来、未能半歳(計るに先王の崩じて来、未だ半歳に能(いた)らず)」、
「臣欲祭先王於北河之上(臣は先王を北河の上に祭らんと欲す)」とあって、*
曹操が亡くなって半年もたたない時期に、
曹植はすでに都の鄴を離れていることが知られます。
『魏志』巻19・陳思王植伝には、
「文帝即王位、誅丁儀・丁廙并其男口。植与諸侯並就国
(文帝は王位に即きて、丁儀・丁廙并びに其の男口を誅す。植は諸侯と並びに国に就く)」と、
曹植の封土への赴任は、丁氏兄弟が誅殺された時期(秋)以降のこととして記され、
前掲の「請祭先王表」の内容と矛盾していますが、
これは、本伝のこの直前に記された事柄から導かれる文脈、すなわち、
曹操の後継者をめぐる曹氏兄弟の緊張関係の顛末(首謀者の丁氏兄弟を誅殺)が、
先行的に記されたものと見られます。
曹丕が弟たちに封土へ赴くよう命じたのは、
おそらく、史実としては、曹丕が魏王となってすぐのことだったのでしょう。
けれども、「責躬詩」ではそれが、魏王朝の成立後のこととして詠じられています。
曹植はなぜ、このような構成に組み替えたのでしょうか。
それとも、「責躬詩」は、史料には記されていない事実を詠じているのであって、
曹丕は魏の文帝として即位して後、改めてこの命を下したのでしょうか。
2021年12月29日
*「北河之上」が、具体的にどこを指すかは未詳。220年当時、曹植は臨淄侯として当地にあったと思われるが、臨淄は、黄河のほとりと言うにはやや南方へ外れている。趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.208には、(史書には記述がないと指摘した上で)鄄城を指すとする。
曹植「責躬詩」の通釈
こんばんは。
先ほど曹植作品訳注稿の「責躬詩」(04-19-1)を公開しました。
あまりにも長い間、足踏みを続けていたので、アップロードの手順を忘れかけていました。
公開までに時間がかかったのにはそれ相当の理由があります。
言葉の使い方でも、事実との整合性という面でも、とにかく読みにくいのです。
けれども、この詩を丁寧に読めば、黄初年間の曹植について、新たに分かることが多そうです。
そこで、これから何日か、どこがどう読みにくいのか、指摘してゆきたいと思います。
と思ったら、曹植「責躬詩」札記1,2,3,4,5,6、7など、
すでにいくつか小さな気づきを記していました。(自分でもすっかり忘れていました。)
明日からは、主に「責躬詩」とその背後にある歴史的事実との関係に焦点を絞り、
いくつかの難読箇所について検討してゆきます。
今日はまず、検討に便利なように、行頭に番号を付した、原文と通釈のファイルを示します。
語釈については、前掲「曹植作品訳注稿」の当該ページをご覧いただければ幸いです。
2021年12月28日
建安詩人たちの公讌詩
こんばんは。
昨日、『文選』所収の「公讌詩」について、
元々まとまりを為していた「公讌詩」と題する作品集から、
佳作を選りすぐって抄録したものである可能性はないかと述べました。
当時、公讌は一回だけのものではなかったでしょうし、
その作者も、曹植・王粲・劉楨、そして応瑒だけではなかったはずです。
そこで、逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1983年)を手引きとして、
建安詩人たちの公讌詩を探索してみました。
すると、応瑒には、昨日挙げた「侍五官中郎将建章台集詩」とは別に、
「公讌詩」と題する作品が『藝文類聚』巻39、『初学記』巻14に見えています。
同じく『初学記』巻14に引かれた「阮瑀詩」が、
『詩紀』巻17では、阮瑀「公讌」として収載されているという例もあります。
また、『文選』巻20所収の曹植「公讌詩」と、同巻22所収の曹丕「芙蓉池作」とが、
よく指摘されるように、もし同じ機会に作られたものだとするならば、
曹植にも「芙蓉池作」と題された作品が残っています。
これは、『藝文類聚』巻9に、曹丕「芙蓉池作」に続けて引かれた曹植の詩を、
『詩紀』巻14では「芙蓉池」として収録するというケースです。
加えて、曹植「侍太子坐詩」(『藝文類聚』巻39)が、
「公子 客を敬愛し、宴を終ふるまで疲れを知らず」と詠ずる
『文選』所収の曹植「公讌詩」と同じ機会の作でないとも限りません。
こうしてみると、
公讌が幾たびも開催された可能性も否定できませんし、
一度の公讌で、一人の詩人が複数の詩を作った可能性も否定できません。
そして、もし仮に公讌詩を集めた作品集があったとしたら、
それは、すでに選りすぐられた佳品集であったのかもしれないと思われます。
というのは、応瑒「侍五官中郎将建章台集詩」は、
曹植「公讌詩」と言葉を共有し、同じ会での作と推測できるのに、
詩題を共有していない、つまり、作品集「公讌詩」(仮)には収載されていない、
ということになるだろうからです。
以上、後半は妄想半分です。
2021年11月19日
『文選』所収の「公讌詩」
こんにちは。
『文選』巻20「公讌」所収作品で、
魏人のものとしては、曹植、王粲、劉楨の「公讌詩」、
そして、これらの後に応瑒「侍五官中郎将建章台集詩」が続きます。
曹植作品がこの詩群の冒頭にあることについて、
『文選』李善注は、次のとおり疑義をさしはさんでいます。
子建在仲宣之後、而此在前、疑誤。
曹植は王粲の後の人なのに、ここでは前に収録されている、
それは、おそらくは誤りであろう。
この李善の疑問に対して、
私は必ずしも『文選』編者の誤りではないかもしれないと考えます。
もともと、「公讌詩」と題する作品集のようなものがあり、
その巻頭に、魏の公子曹丕の弟である曹植の作品が置かれていた。
その作品集から、曹植、王粲、劉楨の作をまるごと引いたのが『文選』である。
常軌から外れていると見えるこの作品配列は、そのもととなった作品集の名残である。
という推測が成り立つかもしれないと思ったからです。
『文選』は、すでに存在していた作品集から選りすぐったものと推定されています。*
ですから、上述のようなことは、十分考え得ることだと思いました。
ちなみに、応瑒の「侍五官中郎将建章台集詩」は、題名が「公讌詩」ではありません。
先に想定した「公讌詩」の作品集から、彼の作は漏れていたのかもしれません。
2021年11月18日
*岡村繁「『文選』編纂の実態と編纂当初の『文選』評価」(『日本中国学会報』第38集、1986年。『文選の研究』(岩波書店、1999年)に収載)を参照。
言葉を共有するということ
こんばんは。
昨日一昨日と、「場を共有する言葉」と題して書き留めたこと、
その当否はひとまず置いておきますが、
これをきっかけに、次のようなことを思いました。
作品中に同じ言葉が見えるということについて、
中国古典文学に頻見するのは、
古典的な言葉や故事を自作品に織り込む、いわゆる典故表現です。
そうではなくて、同時代あるいは先行する時代における用例の場合もあります。
また、比較的近い時代の人が、敬意から先人の言葉を引用する場合もあります。
たとえば、曹植作品に特徴的な表現が、魏晋の人々に摂取されているのがその例です。*
更に、場を共有するが故に表現が相互浸潤したケースです。
このように、言葉が受け渡されてゆく有様は、決して一様ではないように思います。
そこで、ふと想起したのが、
『春秋左氏伝』襄公二十五年に記された、次のような孔子の言葉です。
言之無文、行而不遠。
言葉を発するのに美を伴わなかったら、それは遠くまで届かない。
場を共有する言葉は、実は言葉の最も原初的な姿かもしれません。
尊敬する先人の言葉や古典語・故事を用いる、
すなわち、言葉をかたちづくる、美を備えるということは、
時空を超えて、ある思いや文化を共有するということなのだと思いました。
2021年11月17日
*先行研究として、富永一登『『文選』李善注の活用 文学言語の創作と継承』(研文出版、2017年)第一章第四節「注引曹植詩文から見た文学言語の創作と継承」に詳しい事例が挙げられている。
場を共有する言葉(承前)
こんばんは。
昨日、場を共有していると思しい表現を建安詩の中から拾い上げました。
このことは以前、蘇李詩と関連付けて指摘したことがあります。*1
ただ、その論拠が未だ十分ではないように思えます。
そこで、そのことを書き留めておきます。
蘇李詩の中には、相互に言葉を踏襲しあったかと思われる表現が目立ちます。*2
その顕著な例としては、たとえば次のようなものです。
(漢数字は、『文選』巻29所収李陵「与蘇武三首」、蘇武「詩四首」の何首目かを示す。)
・李陵詩(一)「各在天一隅」、蘇武詩(四)「各在天一方」
・李陵詩(一)「良時不再至」、李陵詩(二)「嘉会難再遇」、蘇武詩(四)「嘉会難両遇」
・李陵詩(一)「仰視浮雲馳」、蘇武詩(四)「仰視浮雲翔」
・李陵詩(二)「行人懐往路」、蘇武詩(三)「征夫懐往路」、蘇武詩(四)「征夫懐遠路」
蘇李詩内部で、このような辞句の相互浸潤が認められるにも拘らず、
これらの表現は、蘇李詩以外の作品ではほとんど認めることができません。*3
(例外は、古詩「行行重行行」(『文選』巻29)に「各在天一涯」があるくらいです。)
このことをひとつの論拠として(他にも二つほどの論拠を合わせて)、
蘇李詩は宴席という場を共有しながら遊戯的に競作されたと先には判断しました。
ただ、今にして思えば、これはかなりの武断です。
『文選』所収の蘇李詩がひとまとまりを為しているとなぜ言えるのか、
そもそも、言葉の相互浸潤が、その場を共有しているということの証左となるか、
蘇李詩内部で孤立しているように見える詩があるが、これをどう見るか、
蘇李詩の中でも相互浸潤の顕著な作品は一部に偏っているが、これをどう見るか、
等々、未だ見極めがついていないことが多々あります。
2021年11月16日
*1 柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.434、注(18)
*2 柳川順子「漢代五言詩史上に占める蘇李詩の位置」(『中国文化』第67号、2009年)
*3 柳川前掲論文に指摘するとおり、建安詩には、明らかに蘇李詩を用いたと見られる表現が散見する。