曹植「応詔詩」札記1

こんにちは。

曹植「応詔詩」(『文選』巻20)を読んでいて、目に留まったことを記します。

この詩は、先に読んだ「責躬詩」と同じく、
黄初四年(223)、文帝曹丕に呼び寄せられて上京した際に献上されたもので、
『魏志』巻19・陳思王植伝にも収録されています。*1

詩中には、都洛陽へ赴く途上の情景や心情が細やかに描き出されていますが、
終盤に差し掛かった32句目以降に、次のような表現が見えています。

33 将朝聖皇  これから聖なる皇帝に謁見しようというのだから、
34 匪敢晏寧  とても平穏な気持ちではいられない。
35 弭節長騖  手綱をしっかりと抑えて長い道のりを馳せ、
36 指日遄征  西へ懸かる白日を目指して、速やかに進んでゆく。

34句目の「弭節(節を弭す)」について、李善注は、
『楚辞』離騒にいう「吾令羲和弭節兮(吾は羲和をして節を弭せしむ)」を挙げ、
王逸注によれば、それは馬の走行を抑えてゆっくり行くことを意味します。

ところが、そうすると、下に続く「長騖(長く騖(は)す)」とも、
次の句の「遄征(遄(すみ)やかに征く)」とも矛盾します。
このことを踏まえて、どう解釈したものでしょうか。

伊藤正文氏は「弭節」を、時には車を止めて休息するという意に解釈しています。*2
また、近年刊行の岩波文庫『文選』では、下に続く「長騖」と併せて、
「緩歩したり疾駆したりを繰り返して前進すること」と説明されています。*3

いずれも、「弭節」と「長騖」とを別の方向性を持つ動作と捉えている点では同じです。
ですが、ここは、その矛盾をそのままに捉えることはできないでしょうか。
この一句を、手綱を引き絞りつつ、長い道のりを疾走したことをいうものと捉え、
はやる気持ちと、それを努めて落ち着かせようとする、
引き裂かれた気持ちの現れと見る解釈です。

2022年2月28日

*1 『魏志』本伝には、両詩を献上する文章(『文選』巻20には「上責躬応詔詩表」と題して収録)に続けて、「責躬詩」「応詔詩」の順で収載されている。
*2 この矛盾については、伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.76~77に詳しく論じられている。
*3 川合康三・富永一登・釜谷武志・和田英信・浅見洋二・緑川英樹訳注『文選 詩篇(一)』(岩波文庫、2018年)p.126を参照。

先人との出会い

こんにちは。

何かと出会うのには時機があるとつくづく思います。

昨日、『詩経』関係の論著を図書館から借りてきました。
そして帰宅後、それとは別の、同じ著者による本があることに気づきました。
目加田誠著『詩経』(日本評論社、1943年)という、長い歳月を経たたたずまいの本。*1
自分で買ったのではなくて、ある方からいただいたものです。

学生時代、いつも目加田誠先生の眼差しの下で勉強していました。
研究室の壁に、先生の肖像写真が掛かっていたのです。
けれど、先生の著書に対しては近づこうともしませんでした。
若さとは無知で傲慢で粗野なものだと思います。

六朝期末の五言詩評論、鍾嶸『詩品』の上品に、
曹植の詩は、『詩経』国風にその源流があると論じられています。
たしかに、彼の詩には『詩経』に由来する語が頻見します。
けれども、今、そうした表現を精査する際、
多くは、完本の伝わる『毛詩』に拠らざるを得ません。
伊藤正文氏がつとに指摘しているとおり、*2
曹植は、「韓詩」によって『詩経』を学んだようですが、
その彼が捉えていた『詩経』的文学世界を、
政治的な色彩の濃い『毛詩』によって推し測っているのが現状です。

しかし、目加田誠の『詩経』研究によって、
少なくとも『毛詩』(毛伝・鄭箋・正義)の呪縛から解き放たれ、
まだ三家詩(斉詩・魯詩・韓詩)が活きていた漢魏の頃の、
曹植が触れていた『詩経』の纏う空気を想像できるようになるかもしれません。

2022年2月18日

*1 目加田誠『詩経』は、1991年、講談社学術文庫として再刊された。このことは、野間文史『五経入門:中国古典の世界』(研文出版、2014年)第四章「詩(毛詩・詩経)」から教わった。
*2 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.22を参照。

先行研究との対話(承前)

こんばんは。

曹道衡は、曹植を政治的野心を持った人物として捉えているようだが、
若い頃の作品を見る限り、そこに現れる曹植の人物像は必ずしもそうではない、
という趣旨の私見を昨日述べました。

これ、実はものすごく常識的なことを今更ながらに言っていると思います。
たとえば、とっくに吉川幸次郎「三国志実録 曹植兄弟」の中に、*
“曹植は兄の曹丕よりもより多く詩人であった”
というふうな言葉が見えていますから。

しかし、吉川幸次郎だから、このような表現が認められるのであって、
自分が同じことを同様の言葉で書くわけにはいきません。

自分としては、その主張を証明するために作品の表現に目を凝らすのではなく、
彼の作品を精読していると、頻繁に立ち止まらせられるのです。
なぜこんなことを唐突に言い始めたのか、
全体として構成がひどくアンバランスではないか、
こんなことを面と向かって言うのはあまりに失礼ではないか、等々。
それをなぜかと考えていけば、思いがけない人物像や事の経緯が垣間見えてくる、
それが私の読み方であり、考察の深め方です。

たいへん面倒くさい話をしているのだろうと思います。
けれども、自分にはこれがとても面白いし考えがいもあるものです。
ただ、学生には卒論ゼミに選んではもらえません。
もちろん自分の研究内容を授業で全開にしたりはしていませんがそれでも。

ちなみに、吉川幸次郎の「三国志実録」は一般の人向けに書かれたものです。
世間の人々も興味を持って読んでいたのかと思うと愕然とします。

2022年2月15日

*『吉川幸次郎全集7』(筑摩書房、1968年)所収。初出は、1958年1~12月『新潮』。

先行研究との対話

こんばんは。

以前にも書いたことがあるような気がしますが、
私は基本的に、作品を読む前に先行研究を読むということをしません。
先行研究は、あくまでも作品について語り合う、対話の相手だと思っています。

人によっては、これはとても傲慢なことと感じられるかもしれません。
ですが、作品そのものに向き合うということにかけては謙虚であると思っています。
(作品を自分の好きなように読んでよいとは思っていないので。)

そんなわけで、今の「対話の相手」は曹道衡と吉川幸次郎です。
いや、「対話の相手」ではなくて、お話を伺うという方が正確ですが。
で、お話を伺いながら、なぜだろう、そうだろうか、と思うことが出てきます。

たとえば、曹道衡の論ずる曹植の人物像について。*
曹道衡論文は、曹植を政治的な野心のある人物であるように捉えています。
けれども、これが私には腑に落ちません。

もっとも、曹植とほぼ同時代の魚豢も、
これに類する批評を彼に対して下しています(『魏志』巻19・陳思王植伝の裴松之注)。
そうすると、それは、仮に同じ時代の中に身を置いていたとしても、
第三者から見た人物像と、作品の中に立ち現れる本人との間には落差があるということでしょうか。
私が向き合いたいと思うのは、この作品中の本人とです。

曹植の晩年の作には、王朝運営への参画を切望する言葉が目立ちますが、
それ以前の、彼がまだ恵まれた境遇にあった建安年間の作、
たとえば「与楊徳祖書」にも、たしかにそうした野心が述べられてはいます。
けれども、それは当時の人としてはごく常識的な姿勢でしょう。
むしろ彼の個性は、文学創作への情熱の方に傾いているように見えます。
本作品の文脈をきちんと押さえて読んでいけば、
そのことを明らかにできるのではないかと考えています。

2022年2月14日

*曹道衡「魏晋文学」(『曹道衡文集』巻四)

 

「雑詩」と現実

こんばんは。

昨日、曹植の「雑詩六首」其一を、
魏王朝から疎外された呉王曹彪への思いを詠じたものと捉えました。
このことについて、ひとつ言い忘れたことがあります。

それは、そもそもなぜ、
「雑詩」のような抽象度の高い作品を、
具体的な現実と結びつけて解釈する必要性があるのか、という問題です。

曹植の「雑詩六首」を収録する『文選』巻29は、
漢代詠み人知らずの五言詩「古詩十九首」から始まります。
曹植「雑詩」も、「古詩」に倣う語辞を少なからず含んでいますし、
その一首目にも詠じられていた離別のテーマは、古詩には常套的なものです。

それなら、この作品群を、
人口に膾炙した「古詩」を模倣して見せた、
遊戯的な作品と捉えることも可能ではないでしょうか。

ですが、そう考えてみると途端に不明瞭な点が出てきます。
なぜ、冒頭の二句は、あのように曹丕の楽府詩を彷彿とさせる表現なのか。
なぜ、詩中で思いを寄せられている相手は、遠い南方の水辺にいて、
その人は「之子」と親密な呼び方をされているのか。

典型的な「古詩」的世界から外れる表現はどこからきたのか、
なぜその言葉でなくてはならなかったのか、
それが見えなくなるのです。

この具体的なディテールをしかと捉えることなくしては、
詩人の思いはもちろん、その作品のもつ美も感じ取ることができません。

2022年2月2日

曹植の孤絶

こんばんは。

曹植の「雑詩六首」其一(『文選』巻29)は、
多くの注釈者が、呉王である弟の曹彪を想っての作だと解釈しています。*

この種の、現実と詩の内容とを直結させる見方の中には、
すぐには賛同できないものも少なくありません。
しかし、こと本作品に関しては、私は躊躇なくこの見方に同意します。
その理由はこちらにも少し述べていますが、
(作品の本文、及び通釈、語釈についてはこちらをご覧ください。)
簡単に述べればこういうことです。

冒頭の1・2句目は、文帝期の曹魏王朝を強く想起させます。
続く3句目以降、遠い南方にいて、会いたくても会えない人への思いが詠じられます。
そうすると、この時期、南方にいた、曹植にとって大切な人としては、
呉王であった曹彪を措いて他には考えにくいのです。

このことを改めて確認して、
氷の塊を呑み込まされたような気持ちになりました。

別の時代であれば、文人たちの交友関係は広範に及ぶでしょう。
どんなに時代が厳しくても、心を通わせられる友人のひとりはいたでしょう。
ところが、魏王朝成立後の曹植は違います。

父が存命中であった建安年間は、
多くの才能豊かな文人たちと自由闊達な遊びを繰り広げていた彼ですが、
その友人たち(王粲・徐幹・陳琳・応瑒・劉楨)は、
建安22年(217)、流行り病によって一遍に亡くなります。

建安24年(219)には、曹植のよき理解者であった楊修が、
ほかならぬ父曹操によって殺されています。

更にその翌年(220)には、魏王として即位した兄の曹丕によって、
彼の腹心であった丁儀・丁廙が誅殺されています。

そして、同年(220)末に魏王朝が成立すると、
曹植をはじめ、文帝曹丕の弟たちはみな封土への赴任を命じられ、
兄弟間の相互交流は禁じられました。

少し時期が下りますが(その晩年に近い明帝期)、
曹植の「求通親親表」(『文選』巻37)にこうあります。

毎四節之会、塊然独処、
左右唯僕隷、所対惟妻子、
高談無所与陳、発義無所与展、
未嘗不聞楽而撫心、臨觴而歎息也。

季節ごとの会が催されるごとに、ぽつんとひとりでいる。
左右にいる者は下僕ばかりで、向かい合うのは妻子ばかりだ。
共に清談に興じる相手もなく、共に議論を展開させる相手もいない。
いつも音楽を聴いては胸を打ち、杯を前にしてはため息をつかないではいられない。

こうした孤絶の中で、
限られた親しい兄弟への思いが募るのは当然のことでした。

2022年2月1日

*後藤秋正「曹植「雑詩六首」論考」(『漢文学会会報』31、1972年)は、本詩を特定の人物と結びつけて解釈することには否定的な立場を取っている。

白居易の弁明(承前)

こんにちは。

元稹の「雉媒」詩が含む攻撃的な詰問に対して、
白居易は「和雉媒詩」において、これを注意深くかわしていると私は見ます。
そう解釈したた理由は以下のとおりです。

まず、白居易詩は、元稹詩のように、
一対の雉を、自分たちに重ね合わせるような人称を用いてはいません。

白居易詩の中で、「君」と呼び掛けているのはあくまでも元稹その人です。
仲間に裏切られて罠に陥った雉を、「君」と称して元稹に重ね合わせたりはしていません。

そして、白居易は、元稹の詠ずる雉媒の物語をそのまま受けて和するのではなく、
まず、人間の世界にも同様のことがある、と一旦話柄をずらした上で、
雉媒の事情を、第三者としての視点から淡々と説明しています。

白居易は、この雉を、「我」と称して自身に重ねるようなことはしていません。
この点、それを「君」という人称で呼んでいた元稹詩とは異なります。
元稹から「君」と名指しで向けられた厳しい難詰を、
白居易は自分のことだと受けとめることを回避しているのです。

これを、本当に自身に向けられた難詰だとは思いもしなかった、
と見ることはできないように思います。

そう思わせるのは、この「和雉媒詩」の冒頭に述べられた奇妙な言い訳です。
「和答詩」十首のうち、このように詩作の舞台裏を明かすものは他に見当たりません。
なぜ、白居易はこのようなことをわざわざ述べたのでしょうか。
しかも彼は、元稹詩を吟じて「哂」、つまり、ほほえましく感じたと言い、
いかにも余裕のある態度を演出してみせています。

これらはすべて、白居易が元稹詩に撃ち抜かれたことを物語っていると私は見ます。
白居易は内心、元稹をその窮地から救い出せないうしろめたさを抱いており、
元稹が自分に疑念を抱いているらしいことも察知していたでしょう。

その上で、元稹の難詰をかわしつつ、
(自分はどこまでも君の味方だと明言しながら)
元稹詩の趣旨には同感だということを表明して「和」詩を作った、
そのようなことを、この白居易詩から読み取ることができるように思います。

2022年1月30日

 

白居易の弁明:「和雉媒詩」

こんにちは。

昨日に続き、今日も雉媒をめぐる元白詩を取り上げます。

元稹の「雉媒」詩は、
人間に捕獲されて雉媒(おとり)となり果てた一羽の雉と、
その古なじみの彼によって、災厄に陥れられた雉の物語を詠ずるものです。

もちろんこれだけでは、この一対の雉が白居易と元稹とを比喩するとは言えません。
事実として、二人の間に裏切り行為はなかった、ということを理由に、
昨日示した解釈を一蹴する読者もいるだろうと思います。

ただ、作者元稹の中ではそうした構図ができていたかもしれない、
そう推測し得ると考えたのは、
詩の途中に、「我」「君」という人称代名詞がふいに登場し、
災厄に陥った雉が、自らを一人称で「我」と称し、
この「我」が、相方を「君」と二人称で呼ぶようになっているからです。

これは、一対の雉の物語の中に、思わず冷静さを失うほどに、
自身と相手(おそらくは白居易)の姿が重なって見えたからに他ならないでしょう。

この詩に対応する「和雉媒詩」(『白氏文集』巻2、0106)を見るに、
元稹「雉媒」詩を読んだ白居易もまた、そうした受け止め方をしたように感じられます。

01 吟君雉媒什  君の「雉媒」の詩篇を吟詠しながら、
02 一哂復一歎  ひとしきり微笑んだりまた慨嘆したりした。
03 知之一何晚  この詩を知ったことの、なんと遅かったことか、
04 今日乃成篇  今日になってやっと、これに和する詩篇が出来上がった。
05 豈唯鳥有之  こうしたことは、どうして鳥のみにあるだろう。
06 抑亦人復然  そもそも人もまた同様でもあるのだ。
07 張陳刎頸交  張耳と陳餘との刎頚の交わりも、
08 竟以勢不完  ついにそれぞれのめぐり合わせた趨勢によって完遂せず、
09 至今不平氣  今に至るまで、陳餘の不平に満ちた気が、
10 塞絕泜水源  泜水の源を塞ぎ、流れを途絶させているほどだ。
11 趙襄骨肉親  趙襄子の、血を分けた姉との親しみも、
12 亦以利相殘  また利欲によって彼女の夫を残殺するという末路をたどり、
13 至今不善名  今に至るまで、不善という不名誉が、
14 高於磨笄山  姉の亡くなった磨笄山よりも高くそびえている。
15 況此籠中雉  まして、この籠の中の雉は、
16 志在飮啄間  飲んだり啄んだりするあたりのことを志しているのであって、
17 稻粱暫入口  稲や粱(おおあわ)がとりあえず口に入れば、
18 性已隨人遷  本性はもう、人に飼い馴らされてしまって変質している。
19 身苦亦自忘  自身の苦しさも自ら忘れているくらいだから、
20 同族何足言  同族のことなんぞ言うまでもない。
21 但恨爲媒拙  ただ彼が心配しているのは、仲媒としての働きが拙くて、
22 不足以自全  十分に自らの身を全うできないのではないかということだけだ。
23 勸君今日後  君に勧めよう。今日より以後、
24 養鳥養青鸞  鳥を飼うなら青鸞を飼いたまえ。
25 青鸞一失侶  青鸞は、ひとたび伴侶を失うと、
26 至死守孤單  死ぬまで孤独を守り通すということだ。
27 勸君今日後  君に勧めよう。今日より以後、
28 結客結任安  客人と交わりを結ぶなら任安と結びたまえ。
29 主人賓客去  主人のもとから他の賓客たちが去っていっても、
30 獨住在門闌  彼は一人、その主の家に留まったというから。

この白居易詩から、なぜ前述のような解釈が引き出せるのか、
その理由はまた日を改めて述べます。

2022年1月29日

元稹の難詰:「雉媒」詩

おはようございます。

白居易に「和答詩十首 并序」という作品があります(『白氏文集』巻2、0100~0110*)。

この作品群は、元和五年(810)、江陵に左遷されていく元稹が詠じた詩十七章のうち、
その十章に「和・答」したもので(前掲「和答詩」序 0100)、
平岡武夫『白居易(中国詩文選17)』(筑摩書房、1977年)をはじめ、
多くの人は、そこに白居易と元稹との深くゆるぎない友情を読み取ることでしょう。

ですが、その中には読者を困惑させるような、奇妙に生々しい作品がないではありません。
元稹「雉媒」(『元氏長慶集』巻一)と、白居易「和雉媒詩」(0106)が、
まさしくそうした交往詩です。

今日はまず、元稹詩を以下に提示します。

01 双雉在野時  一対の雉が野原にいた時は、
02 可憐同嗜欲  ああ、いじらしくも嗜好や意欲を同じくしていた。
03 毛衣前後成  (二羽の)羽毛は相前後して出来上がり、
04 一種文章足  同じ模様が十分に美しかったものだ。
05 一雉独先飛  あるとき、一羽の雉が、ひとりで先に飛び立って、
06 衝開芳草緑  緑の芳しい草原を突っ切って駆け出した。
07 網羅幽草中  すると、鳥を捕らえる網が奥深い草の中に設けられていて、
08 暗被潜羈束  気づかないうちに罠にはまってしまった。
09 剪刀摧六翮  捕らえられた雉は、ハサミで六枚の翼の付け根を砕かれ、
10 絲線縫双目  糸で両目のまぶたを縫い合わされた。
11 啖養能幾時  人間が雉を養ってやって、どれくらい経っただろうか、
12 依然已馴熟  彼は人間に依存して、もうすっかり飼い馴らされてしまっている。
13 都無旧性霊  もとの本性はまったく失われてしまい、
14 返与他心腹  かえって他の者(人間)の心情に与するようになっている。
15 置在芳草中  彼は芳しい草の中におとりとして置かれ、
16 翻令誘同族  羽をはためかせて同族を誘うのだ。
17 前時相失者  以前、相方を失った者は、
18 思君意彌篤  君のことを思って気持ちはますます深まる。
19 朝朝旧処飛  毎日かつての住処のあたりを飛び回り、
20 往往巣辺哭  しばしば巣のあたりで大声を上げて啼いていた。
21 今朝樹上啼  今日も木の上で啼いて、
22 哀音断還続  哀しい啼き声が途切れたりまた続いたりしていた。
23 遠見爾文章  すると、遠くに君の文様が見えて、
24 知君草中伏  君が草むらの中に臥せっているのだと知れた。
25 和鳴忽相召  同調して鳴いて、にわかにこちらを呼びよせようとするのを、
26 鼓翅遥相矚  翼を打ち振るって、遠くから相手をじっと見つめる。
27 畏我未肯来  私がまだ来ようとしないのと危ぶんで、
28 又啄翳前粟  君はまた、ぼんやりと霞んだ目の前の粟をついばむ。
29 斂翮遠投君  そこで私は、翼をたたんで遠くから君のもとへ身を投げ出し、
30 飛馳勢奔蹙  飛ぶように馳せて勢いのままに走りまわった。
31 罥掛在君前  すると、罠が君の前に仕掛けてあって、
32 向君声促促  網にかかった私は、君に向かって切迫した声で叫んだ。
33 信君決無疑  君を信じて、決して疑ったことはなく、
34 不道君相覆  まさか、君が私を裏切ろうとは思いもしなかった。
35 自恨飛太高  自分で恨めしく思うのは、あまりにも高く飛んだばっかりに、
36 疏羅偶然触  荒い目の網に、たまたま触れてしまったということだ。
37 看看架上鷹  見よ、台上の鷹は、
38 擬食無罪肉  今、罪もない者の肉を食べようとしている。
39 君意定何如  君の思いはいったいどうであろうか、
40 依旧雕籠宿  相変わらず、彫刻を施した立派な籠に棲んでいるのか。

詩の前半では、一対の雉が、第三者の視点から詠じられています。
ところが、第18句で唐突に、おとりとなった雉を、「君」と呼び始めます。
さらに、第27句以降、罠にかかった雉を「我」として詠じていきます。
元稹はなぜ、このような表現をしたのでしょうか。

詩の冒頭、仲睦まじく志を同じくする二羽の雉は、元稹と白居易とを彷彿とさせます。
そして、罠にかかった「我」は、左遷された元稹と重なるでしょう。
そうなると、「君」と呼ばれているのは白居易に重なります。

事実はどうであれ、元稹の捉えた二人の関係は、
この詩に詠じられた一対の雉になぞらえられるようなものだったと考えざるを得ません。

では、元稹のこの難詰に対して、白居易はどう応じたのでしょうか。

2022年1月28日

* 花房英樹『白氏文集の批判的研究』(彙文堂書店、1960年)「綜合作品表」に拠る。

ひとくぎり:曹植における「惟漢行」制作の動機

こんにちは。

曹植の「惟漢行」をめぐる考察に、
紆余曲折を経て、昨日ひととおりの区切りがつきました。
勤務校の紀要に投稿したもので、いずれはネット上にも公開されるはずですが、
(『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号、2022年3月)
昨日、初校を終えたので、こちらに“出来立て”を上げておきます。

曹植の「惟漢行」及び「薤露行」については、
かつて、こちらの雑記でも蛇行しながら考察を重ねてきました。

それなりの時間をかけて、自分としては納得のいく結論にたどり着けたと思います。
もっとも、曹植という大きな存在の、その一部に触れたに過ぎません。

先日、「責躬詩」をひととおり読み終えて、
今は、黄初年間の曹植の実態を掘り起こす必要を感じています。
引き続き、この日々雑記という場を、自身の文学的研究の実験室としていきます。

2022年1月26日

 

 

1 18 19 20 21 22 23 24 25 26 82