曹丕に対する曹植の思い
こんにちは。
『曹集詮評』巻7「求通親親表」の校勘作業をしていて、
次のようなフレーズに出くわしました。
臣伏以為犬馬之誠不能動人、譬人之誠不能動天。
崩城隕霜、臣初信之、以臣心況、徒虚語耳。
わたくし伏して思いますに、
犬馬の誠は人を動かすことができないのは、
人の誠が天を動かすことができないようなものです。
杞梁の妻が亡き夫を哭して城壁が崩れたとか、
鄒衍が燕で冤罪で拘束され、天を仰いで嘆くと、霜が降ってきたとか、
わたくしはその初め、このような言い伝えを信じていましたが、
私の心に照らして思いますに、それらは単なる虚妄の言葉に過ぎません。
この文章は、太和五年(231)、曹植40歳での作ですが、
彼はこの中で、かつての自分の考えの甘さを痛恨の中で振り返っているのです。
「犬馬之誠」とは、犬や馬が飼い主に対して抱く素朴な忠心で、
曹植の次のような文章の中に類似句が見えています。
まず、黄初四年に作られた「上責躬応詔詩表」に、
「踊躍之懐、瞻望反側、不勝犬馬恋主之情
(踊躍の懐ひもて、瞻望し反側し、犬馬の主を恋ふるの情に勝へず)」と見え、
また、「黄初六年令」にも、
「将以全陛下厚徳、究孤犬馬之年
(将に陛下の厚徳を全うするを以て、孤が犬馬の年を究めん)」とあります。
更に、「人之誠不能動天」については、
次の作品の中に、これを反転させた内容の辞句を認めることができます。
まず、「鼙舞歌・精微篇」(『宋書』巻22・楽志四)に、*
「精微爛金石、至心動神明(精微は金石をも爛(とか)し、至心は神明をも動かす)」
「妾願以身代、至誠感蒼天(妾 願はくは身を以て代へ、至誠 蒼天を感ぜしめん)」と、
また、前掲の「黄初六年令」にも、次のようにあります。
「信心足以貫於神明也。
(信心は以て神明をも貫くに足るなり)」、
「固精神可以動天地金石、何況於人乎。
(固より精神の以て天地金石を動かしむ可きなり、何ぞ況んや人に於いてをや)」。
そして、「求通親親表」にいう「崩城隕霜」は、
今示した「黄初六年令」の句「固精神可以動天地金石」の直前に、
「鄒子囚燕、中夏霜下、杞妻哭梁、山為之崩
(鄒子は燕に囚はれて、中夏に霜下り、杞妻は梁を哭して、山は之が為に崩る)」と見えますし、
前掲の「鼙舞歌・精微篇」にも詠じられている故事です。
こうしてみると、曹植は、文帝曹丕が在位した黄初年間、
あくまでも兄の曹丕に対して信頼する思いを持っていたということになります。
もっとも、「黄初六年令」は、先に示した部分のすぐ後に、
曹丕が曹植のいる雍丘まで訪ねてきてくれたことへの感激が綴られますから、
その前には、鬱屈した気持ちを抱く時期もあったかもしれませんが。
だとすると、昨日述べたことは少しく再考した方がよい。
同じ曹丕の弟ではあっても、曹袞と曹植とではその母が違います。
曹丕の同母弟である曹植は、兄を信じたい気持ちが強かったのかもしれません。
2022年7月20日
*「鼙舞歌・精微篇」の表現が「黄初六年令」「求通親親表」に展開していることは、林香奈「曹植「鼙舞歌」小考」(『日本中国学会創立五十年記念論文集』1998年、汲古書院)に夙に指摘している。
黄初初年の曹植
こんばんは。
後漢の献帝からの禅譲を受けて、
曹丕が魏の文帝として即位したのは黄初元年(220)十一月。
それから間もなく、曹植は魏王朝の成立を祝賀する、
「慶文帝受禅表」「魏徳論」「上九尾狐表」といった文章を作っています。
けれども、この直前に当たる同年の秋、
曹植は腹心であった丁儀・丁廙兄弟を、兄の曹丕によって殺されています。
そうした状況下で、自分を絶望に突き落とした人の即位を言祝ぐ、
それはいったいどのような心理によるのでしょうか。
曹植に「龍見賀表」(『曹集詮評』巻7)という文章があって、
皇帝の徳を示す瑞祥として、鳳凰や黄龍が出現したことを慶賀する内容ですが、
この作品の成立年代を、趙幼文は次のように推定しています。*
黄初三年(222)、黄龍が鄴の西の漳水に現れたので、
曹袞はこれを称えて上書した(『三国志(魏志)』巻20・中山恭王袞伝)。
曹植の「龍見賀表」は、これと同時期の作ではないだろうか。
曹袞は、曹植の腹違いの弟で、
非常に堅実な生活態度で学問に励んでいるのを、
文学・防輔の官人たちが王朝に上表して称賛したところ、
このことを厳しく叱責したという、きわめて慎み深い人物です。
それは、権力者に目を付けられることを恐れているからにほかなりません。
(こちらを併せてご覧ください。)
そういう人物が、瑞祥の現れたことを王朝に奏上している。
曹植も、これと同じ心理から魏王朝の成立を言祝いだのではないか。
腹心を失ってすぐ、彼らに手を下した者に向けて祝辞を述べたというのは、
決して腹心の死を忘れたわけでも、見境なく権力者にすり寄っていったわけでもなく、
震え慄く恐怖と不安から出た行為ではなかったかと思います。
骨肉の情から、兄を祝賀する気持ちもなかったわけではないでしょうが。
2022年7月19日
*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.251を参照。
漢籍電子文献資料庫のおかげ
こんにちは。
先にこちらで言及した曹植「黄初五年令」の句、
伝曰:知人則哲、堯猶病諸。
伝に曰く、「人を知るは則ち哲、堯も猶ほ諸(これ)を病む」と。
この句の出所はおそらくここか、というところが分かりました。
「知人則哲」は、先にも述べたとおり『尚書』皋陶謨、
「堯猶病諸」は、『論語』雍也篇に、仁を実践する困難をいう、
「堯舜其猶病諸(堯・舜も其れ猶ほ諸を病む)」を用いたのだと思われます。
『尚書』と『論語』とを綴り合せたのが、曹植その人か、
曹植がこれらの句を「伝」として引く以上、そうした文献が実在したのか、
それとも、曹植の記憶違いによる記述なのかはわかりませんが、
漢籍電子文献資料庫のおかげで、ここまでは辿れました。
ところで、
『論語』憲問篇にいう「子貢方人、子曰賜也賢乎哉、夫我則不暇」
(子貢 人を方(くら)ぶ、子曰く 賜(子貢)や賢なるかな、夫れ我は則ち暇あらず)
その疏に「夫知人則哲、堯舜猶病」とあって、曹植の文章に近いのですが、
論語の疏は、宋代の邢昺によるもので、曹植がそれを見ているはずはありません。
邢昺が曹植の文章を見ている可能性はあるでしょうし、
両者がともに基づいた「伝」なるものがないとも言い切れません。
(経学に詳しい方には判断が可能なのかもしれません。)
2022年7月16日
黄初二年の曹植(承前)
こんにちは。
以前、こちらで検討したことに関連して。
前に読んだ先行研究の続きを読み直しました。
植木久行「曹植伝補考―本伝の補足と新説の補正を中心として―」
(早稲田大学中国古典研究会『中国古典研究』21、1976年)の第五章です。
そこでは、主に「黄初六年令」及び「責躬詩」に拠って、
黄初二年頃の曹植の事績が精査されています。
「責躬詩」については、以前、こちらでその概略を把握しました。
それに照らして言えば、次の句の捉え方については私も植木論文に全く賛成です。
24 改封兗邑 于河之浜 ⇒鄄城侯への改封をいう。
25 股肱弗置 有君無臣 26 荒淫之闕 誰弼余身 ⇒鄄城侯時代の王機らによる検挙
27 煢煢僕夫 于彼冀方 28 嗟余小子 乃罹斯殃 ⇒王機らの検挙による洛陽への召還
29 赫赫天子 恩不遺物 30 冠我玄冕 要我朱紱 ⇒文帝の恩沢による鄄城侯への復帰
31 光光大使 我栄我華 32 剖符授土 王爵是加 ⇒鄄城王の爵位を授ける使者の来訪
ただ、異なるのは、それぞれの出来事が起こった時期の推定です。
植木論文は、東郡太守の王畿らによる検挙を、黄初二年頃のことと推定しています。
私は、この時期の曹植は臨淄侯であり、監国謁者潅均により検挙されたのだと推定します。
両者の違いは、曹植が臨淄侯として赴任した時期の推定に由来するでしょう。
この一点だけでも、黄初年間の曹植の動向を探る意味はありそうです。
2022年7月14日
直接引用の意味
こんばんは。
毎日少しずつ『曹集詮評』の校勘作業をしながら、ふと思い至ったこと。
曹植「陳審挙表」(『曹集詮評』巻7、『三国志(魏志)』巻19陳思王植伝)には、
実におびただしい数の古典語や歴史故事が直接引用されています。
なぜでしょうか。
現代日本人の多くは、これを知識のひけらかしだと感じるかもしれません。
けれど、もしかしたらそれはこういうことなのかもしれない、
と思い至ったことがひとつあります。
それは、
この文章は、私的な個人の意見を言っているのではなくて、
古来蓄積されてきた知的共有財産に基づく公的見解を表明するものなのだ、
という意思表示としての直接引用ではないか、ということです。
自分の考えを飾り立て、権威付けるための引用ではなくて、
自分の考えが、滔々と流れるものの中に位置付けられるという意識です。
我勝ちに自己アピールすることをよしとする、現代的風潮の対極にあるものです。
もちろんそれは、自分を消して全体の中に呑み込まれよと言っているのではありません。
「我」を棄てて「みんな」の考えに歩み寄るということとも似て非なるものです。
2022年7月13日
昨日の追補
こんばんは。
昨日触れた『春秋左氏伝』襄公三十一年に由来する「人心不同、若其面焉」。
これは、以前こちらで触れた曹丕の言葉、
人心不同、当我登大位之時、天下有哭者。
人心は同じからず、我が大位に登る時に当たりて、天下に哭する者有り。
この冒頭句の出自とも重なっているように思います。
とすると、この語は、『左氏伝』に由来するということがかすむほどに、
広く人口に膾炙していた言葉であったのかもしれません。
(あるいは『左氏伝』の記述も、古来あるこのことわざを取り込んだか。)
すると、曹植が「諺に曰く」としてこの句を引いたのも、
あながち記憶による曖昧な引用とも言えないように思えてきます。
また、もうひとつ「伝に曰く」の方も、
もしかしたら、当時、本物の孔安国伝というものが伝存していて、
それを曹植が引いた可能性も皆無ではありません。
これ以上に遡って確認することはできないのですが、
おしなべて、現存する書物にのみ依拠して判断することは殆うい、
このことは自覚しておきたいと思います。*
2022年7月12日
*こう思ったのは、池田昌広氏の「『袖中抄』と類書」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第27号、2022年)を拝読したからです。顕昭『袖中抄』に、中国の類書『白氏六帖』や『修文殿御覧』がいかに多く利用されているかを精査した卓論で、この中に、刊本として流通する以前の抄本『白氏六帖』の姿が窺えるという指摘がありました。
魔がさすように
こんばんは。
黄初年間の曹植の動向を精査するため、
「黄初五年令」(『曹集詮評』巻8)の訳注を始めました。
すると、「伝に曰く」として引かれた句が、
『尚書』皋陶謨にいう「知人則哲(人を知るは則ち哲なり)」と、
その前の句に対する(偽)孔安国伝の概略的内容の綴り合せであったり、
また、「諺に曰く」として引かれた句が、
こちらにも記したとおり、『春秋左氏伝』襄公三十一年の句だったりします。
このようなことに遭遇したとき、
若い頃は、昔の人のいい加減さに笑っていました。
中年になると、そのいい加減さが示す奥行きがおそろしくなりました。
そして、この頃は、自分の無知を思い知るということ以上に、
彼我の住む世界の隔たりを、つくづく感じることの方が強くなってきました。
曹植の中には様々な古典語がたっぷりと蓄積されていて、
それらを、記憶をたぐりよせるように自在に引用しているのでしょう。
彼はそうした言葉の世界を普通に呼吸していたのです。
けれども、自分にとってそれらは、辞書などによってやっと知り得る言葉です。
彼らの普通が、自分にとってはそうではない、
そんな異なる座標の上に生きた人の書き残したものを、
ただでさえ鈍い自分が、素手で理解できるとは思えません。
だから、時間がかかっても地味に細かく読んでいくしかないのですが、
それをやって、何か少しでも人の役に立てることがあるだろうか、
などと考えてしまう魔が時折ふらりと訪れます。
誰かの役に立とうなどと不遜なことを思うからいけない。
とはいっても、これは趣味でやっているのではなくて、仕事なのだから。
こう右往左往することを、けれど無意味とは思わないでおきます。
現代における古典研究の意義を考えることをばかにしない、
けれど、しっかり手は動かして読み続けます。
2022年7月11日
捉えにくい副詞「まことに」
こんにちは。
遭遇するたびに捉えにくいと感じる副詞があります。
おおむねは「まことに」と読み下される「亮」「良」「諒」です。
自分が遭遇した範囲内で言えば、
たとえば『文選』からは次のような例が挙げられます。
巻29「古詩十九首」其八:
君亮執高節、賤妾亦何為(君 亮に高節を執らば、賤妾 亦た何をか為さん)。
巻29、曹植「雑詩六首」其六:
国讎亮不塞、甘心思喪元(国讎 亮に塞がらざれば、甘心して元を喪はんことを思ふ)。
巻24、曹植「贈徐幹」:
亮懐璵璠美、積久徳愈宣(亮に璵璠の美を懐けば、積むこと久しくして徳は愈(いよいよ)宣(の)べられん)。
巻29「古詩十九首」其八:
良無盤石固、虚名復何益(良に盤石の固さ無くんば、虚名もまた何の益かあらん)。
巻23、曹植「七哀詩」:
君懐良不開、賤妾当何依(君が懐 良に開かずんば、賤妾は当(は)た何にか依らん)。
また、『漢書』巻90、酷吏伝(尹賞)に引く民歌の一節に、こうあります。
生時諒不謹、枯骨後何葬(生ける時 諒に謹まざれば、枯骨となりし後 何(いづ)くにか葬らん)。
これらはいずれも、ただ単に「まことに」と言っているだけではなくて、
何か、条件が十分に満たされたことを前提に、下の句の内容を導き出しているようです。
場合により、「もし……ならば」だったり「……である以上」だったりして、
上記の訓読にも、再考の余地が多分にありますが。
辞書によると、現代漢語「誠然」にも、
「たしかに」「ほんとうに」の意味がある一方で、
「なるほど……ではあるが、(しかし)……」と捉えるべき場合があるようです。
古漢語の「誠」も同様に、こうした意味の広がりを含んでいます。
そうしてみると、「亮」「良」「諒」も同じように捉え得るかもしれません。
この三つは音の響きも同じですし(「良」のみ声調が異なりますが)、
江戸期の字書類等では“通用する”と説明されています。
2022年7月4日
中島敦の葛藤(追記)
おはようございます。
昨日こちらに記したことについての追記です。
先行研究に導かれて原典に当たる中で、*1
実は、妙に引っ掛かるところが一か所あったのでした。
それは、中島敦が妻のタカに「山月記」を書いたことを告げた時期です。
引用文「帰ってから」の前に(南洋から)と入れたのは、このことの覚書きです。
勝又浩「中島敦年譜」にも示されているとおり、*2
中島敦が深田久彌に、「山月記」を含む「古譚」六篇を託したのは、*3
中島が南洋庁に赴く前(1941年6月以前)のことです。
けれども、前掲の中島タカ「お禮にかへて」では、
それが、南洋から東京へ戻ってからのこととして記されていました。
「山月記」を書いた時期と、
そのことを妻に伝えた時期との間には、足掛け二年の隔たりがあるのです。
(「山月記」が『文学界』に掲載されたのは南洋から帰京後です。)
そうすると、妻のタカにこの小説を書いたことを告げたのは、
自身の内にある、全力を尽くして書きたいという作家としての欲望を、
(それを申し訳なく思う気持ちを引きずりながら)妻に打ち明ける、
ということだったのではないかと考え直しました。
「その時の顔は何か切なそうで今でも忘れることが出来ません。
あとで、「山月記」を読んで、まるで中島の声が聞える様で、悲しく思ひました。」
というタカの言葉からは、
彼女もまた、中島の思いをわかっていたように感じられてなりません。
「……それに中島の文章をお忘れなく何時までも愛し下さる読者の皆様に、
一言でもお礼を申しのべたく存じ、恥しさをしのび愚かなことを申し上げます。」
中島タカさんは、文章の初めにこのように記していらっしゃいます。
このような方だったのだと感じ入ります。
2022年7月1日
*1 中島タカ「お禮にかへて」(「ツシタラ第四輯(中島敦全集月報4)」文治堂書店、1972年)。
*2『中島敦全集3』(ちくま文庫、1993年第一刷、2007年第七刷)所収を参照。
*3 深田久彌「中島敦君の作品」(「ツシタラ第二輯(中島敦全集月報2)」、文治堂書店、1971年)を参照。
※弊学(県立広島大学:旧広島女子大学)図書館が、文治堂書店刊『中島敦全集』の月報を、丁寧に冊子として保存してくれていてとても助かりました。こうした資料は、新しい『中島敦全集(全3巻別巻1セット)』(筑摩書房、2001年)にはもちろん収録されているでしょう(?)。すぐに図書館に入れる手配をしました。
中島敦の葛藤
こんにちは。
中島敦とカフカとの関係について論じた先行研究から、*1
未亡人中島タカさんの文章を教えられました。
「お禮にかへて」と題するその文章に、*2
夫として、父親としての中島敦が回想されていますが、
その中に、「山月記」に関わる次のような記述が見えているのです。
(南洋から)帰ってから、ある日、今迄自分の作品の事など一度も申したことがありませんのに、台所まで来て、
「人間が虎になった小説を書いたよ。」
と申しました。その時の顔は何か切なそうで今でも忘れることが出来ません。あとで、「山月記」を読んで、まるで中島の声が聞える様で、悲しく思ひました。
好きな本も、芝居も、見ることが出来なくなり、書くことも出来なくなると、
「書きたい、書きたい。」
と涙をためて申しました。
「もう一冊書いて、筆一本持って、旅に出て、参考書も何も無しで、書きたい。」
「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい。」
とも申しました。
「山月記」を書いたことを、なぜ妻のタカさんに言ったのか。
なぜ「その時の顔は何か切なそう」だったのか。
「山月記」のもとになった「人虎伝」では、
虎になった李徴が、たまたま再会した旧友の袁傪に、
まず妻子の世話を依頼し、その後に、自作の詩を託します。
一方、「山月記」では、
まず自作の詩を託し、その後に妻子の世話を依頼します。
そして、この順番が転倒したということを、李徴はひどく自嘲するのです。
この改変は、中島敦自身の中から出てきたものです。
彼は、「人虎伝」に触発されて小説を書きながら、
小説家たらんとする自身の欲望があぶり出されたことを自覚し、
そのことを、まるで妻子を打ち捨てる者のように感じたかのもしれません。
それは、実際には非常に愛情深い夫・父であった彼には酷くこたえることだったでしょう。
一方、残された時間があまり長くはないことを予感していた彼には、
全精力を書くことに注ぎ込みたいという欲望を直視しないではいられなかったでしょう。
この二つの情況に引き裂かれていた彼のことを思うと、心が締め付けられます。
2022年6月30日
*1 有村隆広「日本における初期のカフカの影響―第二次世界大戦前後」(『Comparatio』18号、2014年)
*2 「ツシタラ第四輯(中島敦全集月報4)」(文治堂書店、1972年)所収