「雑詩」と現実
こんばんは。
昨日、曹植の「雑詩六首」其一を、
魏王朝から疎外された呉王曹彪への思いを詠じたものと捉えました。
このことについて、ひとつ言い忘れたことがあります。
それは、そもそもなぜ、
「雑詩」のような抽象度の高い作品を、
具体的な現実と結びつけて解釈する必要性があるのか、という問題です。
曹植の「雑詩六首」を収録する『文選』巻29は、
漢代詠み人知らずの五言詩「古詩十九首」から始まります。
曹植「雑詩」も、「古詩」に倣う語辞を少なからず含んでいますし、
その一首目にも詠じられていた離別のテーマは、古詩には常套的なものです。
それなら、この作品群を、
人口に膾炙した「古詩」を模倣して見せた、
遊戯的な作品と捉えることも可能ではないでしょうか。
ですが、そう考えてみると途端に不明瞭な点が出てきます。
なぜ、冒頭の二句は、あのように曹丕の楽府詩を彷彿とさせる表現なのか。
なぜ、詩中で思いを寄せられている相手は、遠い南方の水辺にいて、
その人は「之子」と親密な呼び方をされているのか。
典型的な「古詩」的世界から外れる表現はどこからきたのか、
なぜその言葉でなくてはならなかったのか、
それが見えなくなるのです。
この具体的なディテールをしかと捉えることなくしては、
詩人の思いはもちろん、その作品のもつ美も感じ取ることができません。
2022年2月2日
曹植の孤絶
こんばんは。
曹植の「雑詩六首」其一(『文選』巻29)は、
多くの注釈者が、呉王である弟の曹彪を想っての作だと解釈しています。*
この種の、現実と詩の内容とを直結させる見方の中には、
すぐには賛同できないものも少なくありません。
しかし、こと本作品に関しては、私は躊躇なくこの見方に同意します。
その理由はこちらにも少し述べていますが、
(作品の本文、及び通釈、語釈についてはこちらをご覧ください。)
簡単に述べればこういうことです。
冒頭の1・2句目は、文帝期の曹魏王朝を強く想起させます。
続く3句目以降、遠い南方にいて、会いたくても会えない人への思いが詠じられます。
そうすると、この時期、南方にいた、曹植にとって大切な人としては、
呉王であった曹彪を措いて他には考えにくいのです。
このことを改めて確認して、
氷の塊を呑み込まされたような気持ちになりました。
別の時代であれば、文人たちの交友関係は広範に及ぶでしょう。
どんなに時代が厳しくても、心を通わせられる友人のひとりはいたでしょう。
ところが、魏王朝成立後の曹植は違います。
父が存命中であった建安年間は、
多くの才能豊かな文人たちと自由闊達な遊びを繰り広げていた彼ですが、
その友人たち(王粲・徐幹・陳琳・応瑒・劉楨)は、
建安22年(217)、流行り病によって一遍に亡くなります。
建安24年(219)には、曹植のよき理解者であった楊修が、
ほかならぬ父曹操によって殺されています。
更にその翌年(220)には、魏王として即位した兄の曹丕によって、
彼の腹心であった丁儀・丁廙が誅殺されています。
そして、同年(220)末に魏王朝が成立すると、
曹植をはじめ、文帝曹丕の弟たちはみな封土への赴任を命じられ、
兄弟間の相互交流は禁じられました。
少し時期が下りますが(その晩年に近い明帝期)、
曹植の「求通親親表」(『文選』巻37)にこうあります。
毎四節之会、塊然独処、
左右唯僕隷、所対惟妻子、
高談無所与陳、発義無所与展、
未嘗不聞楽而撫心、臨觴而歎息也。
季節ごとの会が催されるごとに、ぽつんとひとりでいる。
左右にいる者は下僕ばかりで、向かい合うのは妻子ばかりだ。
共に清談に興じる相手もなく、共に議論を展開させる相手もいない。
いつも音楽を聴いては胸を打ち、杯を前にしてはため息をつかないではいられない。
こうした孤絶の中で、
限られた親しい兄弟への思いが募るのは当然のことでした。
2022年2月1日
*後藤秋正「曹植「雑詩六首」論考」(『漢文学会会報』31、1972年)は、本詩を特定の人物と結びつけて解釈することには否定的な立場を取っている。
白居易の弁明(承前)
こんにちは。
元稹の「雉媒」詩が含む攻撃的な詰問に対して、
白居易は「和雉媒詩」において、これを注意深くかわしていると私は見ます。
そう解釈したた理由は以下のとおりです。
まず、白居易詩は、元稹詩のように、
一対の雉を、自分たちに重ね合わせるような人称を用いてはいません。
白居易詩の中で、「君」と呼び掛けているのはあくまでも元稹その人です。
仲間に裏切られて罠に陥った雉を、「君」と称して元稹に重ね合わせたりはしていません。
そして、白居易は、元稹の詠ずる雉媒の物語をそのまま受けて和するのではなく、
まず、人間の世界にも同様のことがある、と一旦話柄をずらした上で、
雉媒の事情を、第三者としての視点から淡々と説明しています。
白居易は、この雉を、「我」と称して自身に重ねるようなことはしていません。
この点、それを「君」という人称で呼んでいた元稹詩とは異なります。
元稹から「君」と名指しで向けられた厳しい難詰を、
白居易は自分のことだと受けとめることを回避しているのです。
これを、本当に自身に向けられた難詰だとは思いもしなかった、
と見ることはできないように思います。
そう思わせるのは、この「和雉媒詩」の冒頭に述べられた奇妙な言い訳です。
「和答詩」十首のうち、このように詩作の舞台裏を明かすものは他に見当たりません。
なぜ、白居易はこのようなことをわざわざ述べたのでしょうか。
しかも彼は、元稹詩を吟じて「哂」、つまり、ほほえましく感じたと言い、
いかにも余裕のある態度を演出してみせています。
これらはすべて、白居易が元稹詩に撃ち抜かれたことを物語っていると私は見ます。
白居易は内心、元稹をその窮地から救い出せないうしろめたさを抱いており、
元稹が自分に疑念を抱いているらしいことも察知していたでしょう。
その上で、元稹の難詰をかわしつつ、
(自分はどこまでも君の味方だと明言しながら)
元稹詩の趣旨には同感だということを表明して「和」詩を作った、
そのようなことを、この白居易詩から読み取ることができるように思います。
2022年1月30日
白居易の弁明:「和雉媒詩」
こんにちは。
昨日に続き、今日も雉媒をめぐる元白詩を取り上げます。
元稹の「雉媒」詩は、
人間に捕獲されて雉媒(おとり)となり果てた一羽の雉と、
その古なじみの彼によって、災厄に陥れられた雉の物語を詠ずるものです。
もちろんこれだけでは、この一対の雉が白居易と元稹とを比喩するとは言えません。
事実として、二人の間に裏切り行為はなかった、ということを理由に、
昨日示した解釈を一蹴する読者もいるだろうと思います。
ただ、作者元稹の中ではそうした構図ができていたかもしれない、
そう推測し得ると考えたのは、
詩の途中に、「我」「君」という人称代名詞がふいに登場し、
災厄に陥った雉が、自らを一人称で「我」と称し、
この「我」が、相方を「君」と二人称で呼ぶようになっているからです。
これは、一対の雉の物語の中に、思わず冷静さを失うほどに、
自身と相手(おそらくは白居易)の姿が重なって見えたからに他ならないでしょう。
この詩に対応する「和雉媒詩」(『白氏文集』巻2、0106)を見るに、
元稹「雉媒」詩を読んだ白居易もまた、そうした受け止め方をしたように感じられます。
01 吟君雉媒什 君の「雉媒」の詩篇を吟詠しながら、
02 一哂復一歎 ひとしきり微笑んだりまた慨嘆したりした。
03 知之一何晚 この詩を知ったことの、なんと遅かったことか、
04 今日乃成篇 今日になってやっと、これに和する詩篇が出来上がった。
05 豈唯鳥有之 こうしたことは、どうして鳥のみにあるだろう。
06 抑亦人復然 そもそも人もまた同様でもあるのだ。
07 張陳刎頸交 張耳と陳餘との刎頚の交わりも、
08 竟以勢不完 ついにそれぞれのめぐり合わせた趨勢によって完遂せず、
09 至今不平氣 今に至るまで、陳餘の不平に満ちた気が、
10 塞絕泜水源 泜水の源を塞ぎ、流れを途絶させているほどだ。
11 趙襄骨肉親 趙襄子の、血を分けた姉との親しみも、
12 亦以利相殘 また利欲によって彼女の夫を残殺するという末路をたどり、
13 至今不善名 今に至るまで、不善という不名誉が、
14 高於磨笄山 姉の亡くなった磨笄山よりも高くそびえている。
15 況此籠中雉 まして、この籠の中の雉は、
16 志在飮啄間 飲んだり啄んだりするあたりのことを志しているのであって、
17 稻粱暫入口 稲や粱(おおあわ)がとりあえず口に入れば、
18 性已隨人遷 本性はもう、人に飼い馴らされてしまって変質している。
19 身苦亦自忘 自身の苦しさも自ら忘れているくらいだから、
20 同族何足言 同族のことなんぞ言うまでもない。
21 但恨爲媒拙 ただ彼が心配しているのは、仲媒としての働きが拙くて、
22 不足以自全 十分に自らの身を全うできないのではないかということだけだ。
23 勸君今日後 君に勧めよう。今日より以後、
24 養鳥養青鸞 鳥を飼うなら青鸞を飼いたまえ。
25 青鸞一失侶 青鸞は、ひとたび伴侶を失うと、
26 至死守孤單 死ぬまで孤独を守り通すということだ。
27 勸君今日後 君に勧めよう。今日より以後、
28 結客結任安 客人と交わりを結ぶなら任安と結びたまえ。
29 主人賓客去 主人のもとから他の賓客たちが去っていっても、
30 獨住在門闌 彼は一人、その主の家に留まったというから。
この白居易詩から、なぜ前述のような解釈が引き出せるのか、
その理由はまた日を改めて述べます。
2022年1月29日
元稹の難詰:「雉媒」詩
おはようございます。
白居易に「和答詩十首 并序」という作品があります(『白氏文集』巻2、0100~0110*)。
この作品群は、元和五年(810)、江陵に左遷されていく元稹が詠じた詩十七章のうち、
その十章に「和・答」したもので(前掲「和答詩」序 0100)、
平岡武夫『白居易(中国詩文選17)』(筑摩書房、1977年)をはじめ、
多くの人は、そこに白居易と元稹との深くゆるぎない友情を読み取ることでしょう。
ですが、その中には読者を困惑させるような、奇妙に生々しい作品がないではありません。
元稹「雉媒」(『元氏長慶集』巻一)と、白居易「和雉媒詩」(0106)が、
まさしくそうした交往詩です。
今日はまず、元稹詩を以下に提示します。
01 双雉在野時 一対の雉が野原にいた時は、
02 可憐同嗜欲 ああ、いじらしくも嗜好や意欲を同じくしていた。
03 毛衣前後成 (二羽の)羽毛は相前後して出来上がり、
04 一種文章足 同じ模様が十分に美しかったものだ。
05 一雉独先飛 あるとき、一羽の雉が、ひとりで先に飛び立って、
06 衝開芳草緑 緑の芳しい草原を突っ切って駆け出した。
07 網羅幽草中 すると、鳥を捕らえる網が奥深い草の中に設けられていて、
08 暗被潜羈束 気づかないうちに罠にはまってしまった。
09 剪刀摧六翮 捕らえられた雉は、ハサミで六枚の翼の付け根を砕かれ、
10 絲線縫双目 糸で両目のまぶたを縫い合わされた。
11 啖養能幾時 人間が雉を養ってやって、どれくらい経っただろうか、
12 依然已馴熟 彼は人間に依存して、もうすっかり飼い馴らされてしまっている。
13 都無旧性霊 もとの本性はまったく失われてしまい、
14 返与他心腹 かえって他の者(人間)の心情に与するようになっている。
15 置在芳草中 彼は芳しい草の中におとりとして置かれ、
16 翻令誘同族 羽をはためかせて同族を誘うのだ。
17 前時相失者 以前、相方を失った者は、
18 思君意彌篤 君のことを思って気持ちはますます深まる。
19 朝朝旧処飛 毎日かつての住処のあたりを飛び回り、
20 往往巣辺哭 しばしば巣のあたりで大声を上げて啼いていた。
21 今朝樹上啼 今日も木の上で啼いて、
22 哀音断還続 哀しい啼き声が途切れたりまた続いたりしていた。
23 遠見爾文章 すると、遠くに君の文様が見えて、
24 知君草中伏 君が草むらの中に臥せっているのだと知れた。
25 和鳴忽相召 同調して鳴いて、にわかにこちらを呼びよせようとするのを、
26 鼓翅遥相矚 翼を打ち振るって、遠くから相手をじっと見つめる。
27 畏我未肯来 私がまだ来ようとしないのと危ぶんで、
28 又啄翳前粟 君はまた、ぼんやりと霞んだ目の前の粟をついばむ。
29 斂翮遠投君 そこで私は、翼をたたんで遠くから君のもとへ身を投げ出し、
30 飛馳勢奔蹙 飛ぶように馳せて勢いのままに走りまわった。
31 罥掛在君前 すると、罠が君の前に仕掛けてあって、
32 向君声促促 網にかかった私は、君に向かって切迫した声で叫んだ。
33 信君決無疑 君を信じて、決して疑ったことはなく、
34 不道君相覆 まさか、君が私を裏切ろうとは思いもしなかった。
35 自恨飛太高 自分で恨めしく思うのは、あまりにも高く飛んだばっかりに、
36 疏羅偶然触 荒い目の網に、たまたま触れてしまったということだ。
37 看看架上鷹 見よ、台上の鷹は、
38 擬食無罪肉 今、罪もない者の肉を食べようとしている。
39 君意定何如 君の思いはいったいどうであろうか、
40 依旧雕籠宿 相変わらず、彫刻を施した立派な籠に棲んでいるのか。
詩の前半では、一対の雉が、第三者の視点から詠じられています。
ところが、第18句で唐突に、おとりとなった雉を、「君」と呼び始めます。
さらに、第27句以降、罠にかかった雉を「我」として詠じていきます。
元稹はなぜ、このような表現をしたのでしょうか。
詩の冒頭、仲睦まじく志を同じくする二羽の雉は、元稹と白居易とを彷彿とさせます。
そして、罠にかかった「我」は、左遷された元稹と重なるでしょう。
そうなると、「君」と呼ばれているのは白居易に重なります。
事実はどうであれ、元稹の捉えた二人の関係は、
この詩に詠じられた一対の雉になぞらえられるようなものだったと考えざるを得ません。
では、元稹のこの難詰に対して、白居易はどう応じたのでしょうか。
2022年1月28日
* 花房英樹『白氏文集の批判的研究』(彙文堂書店、1960年)「綜合作品表」に拠る。
ひとくぎり:曹植における「惟漢行」制作の動機
こんにちは。
曹植の「惟漢行」をめぐる考察に、
紆余曲折を経て、昨日ひととおりの区切りがつきました。
勤務校の紀要に投稿したもので、いずれはネット上にも公開されるはずですが、
(『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号、2022年3月)
昨日、初校を終えたので、こちらに“出来立て”を上げておきます。
曹植の「惟漢行」及び「薤露行」については、
かつて、こちらの雑記でも蛇行しながら考察を重ねてきました。
それなりの時間をかけて、自分としては納得のいく結論にたどり着けたと思います。
もっとも、曹植という大きな存在の、その一部に触れたに過ぎません。
先日、「責躬詩」をひととおり読み終えて、
今は、黄初年間の曹植の実態を掘り起こす必要を感じています。
引き続き、この日々雑記という場を、自身の文学的研究の実験室としていきます。
2022年1月26日
曹植と俗文学
こんばんは。
曹道衡の所論に、*1
曹植の楽府詩「野田黄雀行」は、
『焦氏易林』益之革の、次の句を踏まえているとの指摘があります。
雀行求粒、誤入罟罭。頼仁君子、復脱帰室。
雀が穀物を求めて出歩き、誤って網羅の中に入ってしまった。
幸いにも仁愛溢れる君子のおかげで、またそこから脱出して古巣に帰れた。
福井佳夫の所論にも、*2
曹植の「鷂雀賦」や「野田黄雀行」と酷似する内容のものとして、
前掲『焦氏易林』の記事に加えて、大有之萃にいう次の句も挙げています。
雀行求食、出門見鷂、顛蹶上下、幾無所処。
雀が食物を求めて出歩き、門を出たところで鷂(ハイタカ)に出くわした。
雀はこけつまろびつ飛び上がったり下がったり、ほとんど逃げ場がなくなった。
『焦氏易林』については、
歴史故事への言及という観点から、かつて何度が触れたことがあります。
(直近ではこちらの記事)
その際に注目した歴史故事と、
ここに二人の論者によって指摘された雀の故事とは、
同じ時代、そしておそらくは同質の文脈に属していたものであって、
それを焦延寿が等しくキャッチしたということなのでしょう。
そうした俗文学に根を張りつつ、
他方、漢代以来の上流階級に流布していた文芸にも親しみながら、
それを、思いがけないかたちへと変貌させていかないではいられなかった、
その結果として生まれたのが曹植文学なのかもしれません。
2022年1月13日
*1 曹道衡「魏晋文学」(『曹道衡文集』巻四)p.203
*2 福井佳夫『六朝の遊戯文学』(汲古書院、2007年)第六章「曹植「鷂雀賦」論」p.213―214
※ 本日、先行研究の整理をしていて、沼口勝「曹植の「野田黄雀行」について」(『立教大学国文』第35号、2006年)が、曹植のこの楽府詩と『焦氏易林』とを結びつけて考察していることを知った。(2022年3月3日)
曹植の臨淄への赴任時期(追記)
こんばんは。
曹植が臨淄侯としてその封土へ赴任した時期は、
彼の「責躬詩」には、魏が後漢王朝の禅譲を受けた後だと明示されていました。
ところが、従来の多くの説では、
曹植らが魏の都を離れて各々の任地へ赴いたのは、
曹丕が曹操亡き後を受けて魏王に即位して間もなくのことであったとしています。
さしあたり手元にあったところでは、
張可礼『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)p.173―174
江竹虚撰・江宏整理『曹植年譜』(台湾商務印書館、2013年)p.213―214
邢培順『曹植文学研究』(中国社会科学出版社、2014年)p.45
徐公持『曹植年譜考証(中国社会科学院老年学者文庫)』(社会科学文献出版社、2016年)p.255―256
のいずれもが、曹植の臨淄への赴任を、
曹丕が魏王に即位した年、魏王朝成立以前の時点に繋年しています。
この説は、前掲の「責躬詩」に言うところと矛盾しています。
一方、曹植作品の主だった注釈書、
古直『曹子建詩箋』(広文書局、1976年三版)
黄節註・葉菊生校訂『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)
曹海東注訳・蕭麗華校閲『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)
王巍『曹植集校注』(河北教育出版社、2013年)の中で、
「責躬詩」に関するこの矛盾点に言及するものはひとつもありません。
また、先日取り上げた「請祭先王表」について、
これが、曹植がまだ鄴にいた時の作である可能性に触れたものもありません。
突然の無風状態。
どういうわけなのか、腑に落ちません。
もしかしたらまた勘違いをしているのかもしれません。
2022年1月12日
曹植の臨淄への赴任時期(承前)
こんばんは。
建安年間、すでに臨淄侯であった曹植が、
実際に当地へ赴いたのはいつのことであったのか、
という問題について、過日ひとつの見方の可能性を述べました。
そこで、先行研究ではどうだったかと調べてみました。
すると、黄初元年(即ち延康元年・220年)、
彼は臨淄ではなくて、鄄城に封じられていたのではないか、
という、更に根底からの再考を迫る論に遭遇しました(正確には再会)。
それは、すでに何度か言及している津田資久論文が紹介する、*1
目加田誠、鄧永康、兪昭初の諸氏による指摘です。
津田論文に引く、先学諸氏の所論が挙げる資料のひとつ、
曹植の「上九尾狐表」(『開元占経』巻116、筆者は未見)に、
「黄初元年十一月二十三日」、曹植が「鄄城県北」で九尾狐に出会った、*2
という記事が見えるというのがそれです。
先に、こちらの注で紹介した趙幼文の説は、これと結論が同じです。
この時期の曹植の足跡には、未解明な部分が多いようです。*3
少なくとも、津田論文に引用された先行研究にはすべて当たった上で、
時間をかけて、もう一度考え直したいと思います。
2022年1月11日
*1 津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)。その注には更に多くの先行研究が列挙されている。
*2 津田前掲論文は、丁寧な校勘により本文が修訂されている。ただ、筆者はそれらの諸文献を未見であるため、このような示し方をした。
*3 植木久行「曹植伝補考―本伝の補足と新説の補正を中心として―」(『中国古典研究(早稲田大学中国古典研究会)』21、1976年)は、この時期の曹植の伝記を再考しようとするものである。再度熟読したい。
曹植の臨淄への赴任時期
こんばんは。
先に、こちらで提示した疑問について、
はやくも修正しなくてはならないことが出てきました。
それは、曹植の「請祭先王表」(07-26)にいう
「臣欲祭先王於北河之上」、及び「計先王崩来、未能半歳」に拠れば、
220年1月に曹操が亡くなって半年もたたない時期に、
曹植はすでに都を離れていることが知られる、という記述です。
この「都」とは、魏王朝の都・洛陽ではなく、魏王国の都・鄴でした。
(すでに当該ページでは修正済みです。)
すると、「北河之上」とは、鄴の付近をいうとはと考えられないでしょうか。
冀州に属する鄴は、たしかに黄河の北方に位置しています。
そして、220年の夏、鄴の付近で、亡き父曹操を祭りたい、と切望する曹植は、
必ずしも臨淄侯として当地に赴任していなければならないわけではない。
かの「請祭先王表」に、「羊豬牛臣自能辦、杏者臣県自有
(羊・豬・牛は臣自ら能く辦じ、杏は臣が県に自ら有り)」とあっても、
その土地にいる必要はなくて、侯として封ぜられている臨淄県から、
杏を調達できるというだけのこととも考えられます。
そう思い直して、振り返って見ると、
『三国志(魏志)』巻19・任城王曹彰の伝において、
「太祖崩(220年1月)、文帝即王位」と、黄初二年(221)の記事との間に、
「彰与諸侯就国」という記述があるからといって、
それが魏王国の時代(~220)のことだとは言い切れません。
後漢王朝から禅譲を受けて魏王朝が成立したのは220年10月のことですから、
その直後に、王朝の藩たるべく任地へ赴くことが求められたと見ることも十分可能です。
また、『魏志』巻19・陳思王植伝におけるこの間の記述は、
魏王曹丕による丁氏兄弟の誅殺の後に、曹植の臨淄への赴任が記されるという順番で、
何ら問題はないということになるかもしれません。
そして、「責躬詩」9・10行目にいう、魏王朝成立後に臨淄へ赴任したという内容は、
史実に即していると見ることができる(仮)ということです。
同じところを右往左往してばかりで、自分の脳力の乏しさが情けないですが、
思い違いをしていた可能性に気づけただけでもよかったです。
2022年1月7日