曹植「責躬詩」札記5
こんばんは。
遅々とした歩みで「責躬詩」を半分近くまで読んできて、
やはり本詩は、曹植の無念が随所で漏れ出た作品であるように感じています。
たとえば、次のような句があります。
37 国有典刑 国に典刑有り、
38 我削我黜 我をば削り我をば黜す。
これをざっと訳すならば、
国家には刑罰に関する規範があって、
それにより私は封土を削られ爵位を落とされた、
というふうになるのでしょう。
けれども、この二句は次のような典故表現に支えられていて、
そのことを踏まえるならば、ここにかなりの屈託を感じないわけにはいきません。
第37句の「典刑」は、
『尚書』舜典に「象以典刑(象には典刑を以てす)」と見えており、
その偽孔伝には「法には常刑を用ひ、用ふるに法を越えず」と説明されています。
第38句の「削」「黜」は、
前漢の韋孟が、楚の元王(高祖劉邦の弟)の孫である戊を諫めた
「諷諌詩」(『文選』巻19)に、「嫚彼顕祖、軽此削黜」と見えています。
これは、劉戊が祖先を尊崇せず、忠臣たちを簡単に貶め冷遇することを言うものです。
曹植の処遇をめぐっては、
『文選』李善注に引く『曹植集』によると、
爵土を削り、庶人の身分に落とすべきだと博士たちは議論していたらしい。
そうした現実が、前掲の『尚書』舜典や韋孟の詩に見えていた言葉で表現されている。
するとどうでしょうか。
曹植は自身の処遇に理不尽さを感じていたということになるでしょう。
本来であれば、行き過ぎた刑罰は避けるべきなのに、
また、忠臣に対する「削黜」は軽々しくおこなうべきではないのに、
それなのに、「典刑」であるべき決まりに従って、自分は「削黜」という罰を受ける、
これは、常態の法ではないし、諫言に値するものである、と。
こうした重層的表現が、どこまで意識的に行われたものかは不明です。
ただ、これらの言葉は『尚書』や韋孟の詩を踏まえている以上、
必然的に上述のような意味を帯びることになります。
そのことに、曹植ほどの人物が気づかなかったはずはありません。
2021年10月29日
『藝文類聚』に引く「言志」の詩
こんばんは。
『曹集詮評』を底本として、曹植の諸テキストを校勘しています。
その中で、『藝文類聚』巻26「言志」に「魏陳思王曹植詩」として収載された佚詩、
慶雲未時興 慶雲 未だ時ならずして興こり、
雲竜潜作魚 雲竜は潜(ひそ)かに魚と作(な)る。
神鸞失其儔 神鸞 其の儔(ともがら)を失ひて、
還従燕雀居 還(かへ)って燕雀に従ひて居る。
を確認していて少なからず驚いたのが、
この後におびただしい数の阮籍「詠懐詩」が続いていたことです。
収載されている順番どおりに列記すれば、次のとおりです。
作品番号は、基本、多くの注釈者が依拠する『詩紀』のそれを示し、
『藝文類聚』に収載する第一句を挙げます。
四言:「天地烟熅」、「月明星稀」
59「河上有丈人」、45「幽蘭不可佩」、31「駕言発魏都」、
71「木槿栄丘墓」、34「一日復一朝(朝字、類聚は日に作る)」、
43「鴻鵠相随飛」、46「鷽鳩飛桑楡」、03「嘉樹下成蹊」、
04「天馬出西北」、05「平生少年時」、09「歩出上東門」、
15「昔年十四五」、20「徘徊蓬池上」、08「寧与燕雀翔(1句目は灼灼西隤日)」
10「北里多奇舞」、「南国有佳人」(曹植「雑詩六首」其四)、01「夜中不能寐」
この後は、晋の傅玄の雑詩、張翰の詩、張協の詩(以下省略)と続きます。
『文選』は、「詠懐」という項のもと、
阮籍「詠懐詩十七首」を収載していますが(巻23)、
『藝文類聚』では、「言志」という括りで、
阮籍詩に先立って、曹植詩が置かれていたことに意表を突かれました。
しかも、阮籍の「詠懐詩」として引かれた一首が、まぎれもない曹植「雑詩」でした。
曹植と阮籍との間に、通底するものがあると初唐の人々は見たのでしょうか。
2021年10月28日
曹植「責躬詩」札記4
こんばんは。
先に、本詩の「朱旗所払、九土披攘」に酷似する句が、
同じ曹植の「漢高帝賛」にも「朱旗既抗、九野披攘」と見えていることから、
文帝期の曹植は、父曹操を、漢の高祖劉邦に重ねてもいたのではないかと述べました。
つまり、魏王朝を周王朝になぞらえ、
曹操を周文王に、自身を周文王に重ねるという気持ちは、
この時期の曹植において、未だ顕在化していなかったのではないかと見たのです。
ですが、「責躬詩」を読み進めながら、
必ずしもそうでもないかもしれないと思うようになりました。
というのは、本詩の随所に、周王朝に関わる言葉が踏まえられているからです。
その冒頭「於穆顕考、時惟武皇」からして、
『毛詩』周頌「清廟」にいう「於穆清廟(ああ穆たる清廟)」を踏まえています。
「清廟」という詩は、周文王を祀るものです。
同じ「清廟」にいう「済済多士、秉文之徳(済済たる多士、文の徳を秉る)」は、
曹植「責躬詩」の第27句「済済雋乂」にも影響を及ぼしています。
この「済済」は、『毛詩』大雅「文王」にも「済済多士、文王以寧」と見えています。
「済済たる多士」によって文王の魂も安らかだ、と歌うこの詩も、
詩題「文王」が端的に示すとおり周文王を讃えるものであり、
その中の一語「済済」が、曹植詩に用いられているのです。
更に、曹植「責躬詩」の第11句「篤生我皇(篤く我が皇を生む)」は、
『毛詩』大雅「大明」にいう「篤生武王(篤く武王を生む)」を明らかに踏まえ、
ここでは周の武王と曹丕とが重ねられています。
ただ、曹植の明帝期の作「惟漢行」ほどには、
自身を周公旦に重ねるという意識は明確でなかったかもしれません。
このことは、一昨日に言及した「責躬詩」第24句「方周于魯」が示唆しています。
この表現が踏まえる『毛詩』魯頌「閟宮」の「建爾元子、俾侯于魯」は、
周の成王の、周公旦に対する待遇を言うものでしたから。
ここには、周公旦に重なる自己という認識が、
まだ明確な焦点を結んではいないように感じます。
2021年10月27日
曹植「責躬詩」札記3
こんばんは。
曹植「責躬詩」の第25~28句についての疑問。
本文は次のとおりです。
車服有輝、旗章有叙。済済雋乂、我弼我輔。
この最後の句について、
先行研究では多く次のように解釈しています。
まず、「我」は曹植自身のことを指す、
そして、「我」を「弼・輔」する、つまり輔佐して助けるのは、
「済済たる雋乂」、ずらりと居並んだ俊才たちだと。
けれど、「輔」「弼」という語は、
曹植のような立場の人物に対して用いられるのでしょうか。
『尚書大伝』(『礼記』文王世子の正義に引く)にこうあります。
古者天子必有四隣。前曰疑、後曰丞、左曰輔、右曰弼。
古は天子には必ず四隣有り。
前を疑と曰ひ、後を丞と曰ひ、左を輔と曰ひ、右を弼と曰ふ。
つまり、「弼」も「輔」も、天子を補佐する人々です。
すると、「我」は、「わたし」、曹植自身をいうのではなくて、
「我が君」、魏の文帝曹丕を指すということになります。
ただ、そう解釈すると、
直前の「車服有輝」「旗章有叙」とのつながりが悪くなります。
「車服」や「旗章」は、皇帝から諸侯に対して下賜されるものですから、
この二句は、諸侯を描写する句だということになります。
めまぐるしく主語が変わる不自然さ。
そこから、先人たちは上記のように解釈したのでしょうか。
もし「我」が曹植だとすると、
これはたいへん不遜なものの言い方だということになるでしょう。
この問題も、本作品を最後まで読んだら、あるいはほどけるのかもしれません。
2021年10月26日
曹植「責躬詩」札記2
こんばんは。
前回触れた、曹植「責躬詩」の第21・22句「帝曰爾侯、君茲青土」は、
その後すぐに次のような句が続きます。
奄有海浜 奄(おほ)いに海浜を有し、
方周于魯 周の魯に于(お)けるに方(なら)ぶ。
ここでは、『毛詩』魯頌「閟宮」にいう
「建爾元子、俾侯于魯(爾が元子を建て、魯に侯たらしめよ)」を踏まえながら、
臨淄侯として当地へ赴くことを命じられた自身の処遇が、
周王朝の、周公旦に対する厚遇に匹敵するものであったと述べられています。
前回挙げた「諫取諸国士息表」からは、
現実はとてもそのようなものではなかったと知れるのですが、
それは、本詩が自らを責める趣旨のものであるだけに、
当然つかなければならないウソであったと言えるでしょう。
ただ、そうしたやむを得ない虚言をあしらいながらも、
曹植はどうしても、憤懣を漏らさずにはいられなかったようです。
たとえば、第33・34句
「作藩作屏、先軌是隳(藩となり屏となるも、先軌を是れ隳る)」は、
『春秋左氏伝』昭公九年にいう、
「文武成康之建母弟、以蕃屏周、亦其陵隊是為。」
(文・武・成・康の諸王が、弟を封じて周の蕃屏としたのは、周の衰退を防ぐためだ。)
を踏まえつつ、それを反転させて言ったものかもしれません。
「藩屏となったけれども、先王の規範を損なってしまった」と詠ずれば、
老人ばかりの、人数も不十分な軍隊しか支給されなかった現実が浮かび上がります。
また、第19・20句
「広命懿親、以藩王国(広く懿親に命じ、以て王国に藩たらしむ)」の、
「懿親」という語は、『春秋左氏伝』僖公二十四年に、次のとおり見えています。
如是則兄弟雖有小忿、不廃懿親。
だとすれば、兄弟は小さな怨みを持っても、骨肉を損なったりはしないものだ。
「如是」とは、その直前に引く『詩経』小雅「常棣」を受けて言っています。
「常棣」は、仲睦まじい兄弟愛を歌う詩です。
ところが、この『春秋左氏伝』に見える「懿親」という語を用いる曹植は、
現在、実の兄から厳しい処罰を受けるという境遇の中にあります。
すると、この言葉を用いること自体が異議申し立ての意味を帯びたかもしれません。
曹植は、そんなに心から自身の非を認めているわけではなさそうだと感じます。
もっとも、最後まで読んでみないと確かなことはわかりませんし、
酷くひねくれた読み方を自分がしている可能性もあります。
2021年10月25日
曹植「責躬詩」札記1
こんばんは。
曹植「責躬詩」(『文選』巻20)の第21・22句、
「帝曰爾侯、君茲青土(帝曰く 爾 侯よ、茲の青土に君たれと)」について。
上の句は、『尚書』に散見する「帝曰爾(汝)~」という措辞を用い、
曹植詩における「帝」は、彼に藩国への赴任を命じた曹丕のことを指しています。
曹植が臨菑侯に封ぜられたのは、建安19年(214)のことでしたが、
220年、曹操が亡くなり、曹丕が魏王に即位すると、当地に赴くよう命じられました。
(『魏志』巻十九・陳思王植伝)
一方、下の句が踏まえたものとして、『文選』李善注は、
『漢書』巻63・武五子伝に記す、劉閎を斉王に封じた策書を挙げています。
嗚呼、小子閎、受茲青社。……封于東土、世為漢藩輔。
(ああ、小子閎よ、茲の青社を受けよ。……東土に封じ、世々漢の藩輔と為す。)
ですが、この句はもしかしたら、直接的には、
曹植自身が臨菑侯に封ぜられたときの策書を踏まえているのかもしれません。
それは、彼の「諫取諸国士息表」(『魏志』陳思王植伝の裴松之注に引く『魏略』)に、
次のとおり直接引用されています。
植受茲青社。封於東土、以屏翰皇家、為魏藩輔。
(植よ茲の青社を受けよ。東土に封じ、以て皇家を屏翰せしめ、魏の藩輔と為す。)
この表現から見て、前掲の『漢書』を下敷きにしていること明白です。
そして、この魏王朝から下された策書は、
その一部が、曹植の「責躬詩」にほぼ原形のまま取り込まれ、
更に、後の明帝期に書かれた「諫取諸国士息表」にも引用されたということです。
「諫取諸国士息表」では、前掲のような策書の引用に続いて、
藩国とはいえ、その機能を持ち得ないような人員配置であったことが述べられています。
臨菑侯として青州へ赴くことを曹植に命じた策書は、
彼にとってよほど深く記憶に刻み込まれる出来事だったのかもしれません。
2021年10月22日
作品の主題と動機
こんばんは。
公開講座がもう来週に迫り、
このたび取り上げる曹植「惟漢行」のことを思い返していました。
この作品は、もう幾たびもこちらで取り上げていますが、
それなりの時間を重ねて考察していくほどに、
面白味が増していくのを感じます。
曹植のこの楽府詩は、主題と動機とが少しだけずれています。
主題は、新しく即位した明帝を諫めることでしょう。
曹植は自身を周公旦に、明帝を成王に、曹操を周文王になぞらえて、
あるべき為政者像を新帝に示そうとしています。
では、本作品は新帝を諫めようという動機から作られたのでしょうか。
それが皆無だとは言いませんが、それだけではないはずです。
そのことを物語るのが、「惟漢行」という楽府題です。
この楽府題は、本詩が曹操の相和歌辞「薤露」を踏まえることを明言しています。
曹操の「薤露」は、「惟漢二十二世」という一句から始まりますが、
本詩の題目は、ここからその一部から採ったものなのです。
新帝を諫めるという趣旨を完遂するだけであれば、
曹操の「薤露」を踏襲することを標榜する必然性はありません。
ではなぜ曹植は、この内容を「薤露」のメロディに乗せなければならなかったのか。
それは、父曹操の期待を裏切り続けた自身の不甲斐なさを思い、
新帝を補佐するということによって、父が自身に寄せてくれた思いに応えようとした、
今は亡き父に、王朝の一員として生き直す自身の姿を見てもらいたかった、
それが、曹植における「惟漢行」制作動機ではなかったか。
そんな風に私は曹植とこの作品とを捉えます。
父と子との関係は普遍的なテーマでもあるでしょう。
聴きに来てくださる方々に、何かひとつでも届くものがあればと思います。
2021年10月21日
明帝期初期の曹植
こんばんは。
『北堂書鈔』巻156・凶荒に、曹植「喜雨詩」として、
おそらくはその序文でしょうか、次のような辞句が引かれています。
太和二年大旱、三麦不収、百姓分為饑餓。
太和二年(228)、大かんばつが起こって、各種の麦が収穫されず、
民たちは離散して餓えた。
その時期は、『魏志』巻3・明帝紀により、同年の五月と知られます。
『宋書』巻31・五行志二「恒暘」にも同様の記述が見え、
そこではこの天災の原因が明帝の盛大な宮殿増築にあるとされています。
(当時としては常識の、いわゆる天人相関説です。)
また、これに先立つ同年四月、
明帝が崩御して侍臣たちが曹植を擁立したといううわさが立ちました。
(『魏志』明帝紀の裴松之注に引く『魏略』)
こちらもあわせてご参照ください。
こうしてみると、
曹植は、かつて父曹操がその将来を見込んだように、
たしかに、民たちの暮らしを大切にする、為政者たるにふさわしい一面を持ち、
それに対応して、人々からの信頼と親しみを集める人物であったように想像されます。
以前にも言及したとおり、「求自試表」はこの年の10月頃の作ですが、
それは、自身の能力発揮の機会を切望するだけではなかったのではないでしょうか。
明帝期初期の曹植は、自己不遇感に沈むというよりは、
むしろ、王朝の一員としての使命感を募らせていたと見た方が近いかもしれません。
2021年10月20日
失われた建安文学作品
こんばんは。
曹植作品に見える表現で、
とても珍しい、空前のものと見られるものは少なくありません。
この頃、そのような指摘を割とこちらで多くしてきたように思います。
ですが、曹植の周辺にいた建安文人たちの作品で、
現存するのはそのごく一部だということに注意しておかなくてはなりません。
兪紹初輯校『建安七子集(中国古典文学基本叢書)』(中華書局、1989年)は、
建安七子たちの作品を集めた、先人たちの様々な輯本をもとに、
孔融、陳琳、王粲、徐幹、阮瑀、応瑒、劉楨の詩文を、
各人一巻ずつにまとめて収載していますが、
『隋書』巻35・経籍志四には、彼らの別伝は次のとおり記されています。
後漢少府孔融集 九巻 梁十巻 録一巻
後漢丞相倉曹属阮瑀集 五巻 梁有録一巻 亡
魏太子文学徐幹集 五巻 梁有録一巻 亡
魏太子文学応瑒集 一巻 梁有五巻 録一巻 亡
後漢丞相軍謀掾陳琳集 三巻 梁有十巻 録一巻
魏太子文学劉楨集 四巻 録一巻
後漢侍中王粲集 十一巻
「魏陳思王曹植集三十巻」に比べると作品数は少ないのでしょうが、
それでも、建安七子の作品の、相当な分量が失われたということが知られます。
曹植独自の表現だと思っていたところが、
実は、彼を取り巻く文人たちの間ではよく用いられる言い回しだった、
という可能性も十分にあり得ます。*
2021年10月19日
*このことは、こちらで述べた「冒顔」という語句に関して、古川末喜氏からいただいた示唆によるものです。ありがとうございます。
曹植の父へのまなざしと自己認識
こんばんは。
曹植「責躬詩」(『文選』巻20)は、
兄の文帝曹丕に対する詫び状的な詩であるにもかかわらず、
その冒頭は、多く父曹操の偉業を称揚する表現に当てられています。
そして、その中に次のような辞句が見えています。
朱旗所払 朱旗の払ふ所、
九土披攘 九土[中国全土]は披(ひら)き攘(はら)はる。
「朱旗」とは、五行でいう火徳を有する漢王朝の旗を言います。
曹操は生涯、後漢王朝の臣下という立場を貫いたので、朱色の旗を用いるのは当然です。
このような身の振り方は、最後まで殷に仕えた周文王を彷彿とさせるものです。
(かつて日々雑記のこちらやこちらで言及したことがあります。)
興味深いのは、これと非常によく似た表現が、
漢の高祖劉邦を称賛する、曹植の「漢高帝賛」(『曹集詮評』巻6)にも、
「朱旗既抗、九野披攘(朱旗既に抗がり、九野は披き攘はる)」と見えていることです。
単語レベルにとどまらず、語の組み合わせ方からしても酷似しています。
ここに見える語の連なりは、他の作家・作品ではあまり見かけないものです。
黄初四年の曹植の中では、曹操と前漢の高祖劉邦とは重なり合っていたのでしょうか。
もちろん、曹操を周文王になぞらえるという、
曹植の他作品に顕著な表現は、この「責躬詩」の中にも認められます。
けれども、上記の二句があまりにも似ていたものですから、
もしかしたらこの時期、曹植の中ではまだ、
父曹操のイメージが定まっていなかったのかもしれないと思いました。
それは同時に、曹植が自身を、魏王朝における周公旦だと位置付けるのは、
もう少し先だということをも意味するかもしれません。
2021年10月18日