外側からの問いかけ
こんばんは。
一週間ほど前、「宮島学」というオムニバス授業で、
嚴島神社に伝わる舞楽の話をしました。
こちらの報告№12、学術論文№36で論じた内容をベースに、
特に「蘭陵王」と「抜頭」を中心的に取り上げて、
これらの舞楽が、どの地域に発祥し、
どのような経路をたどって日本にやってきたのか、
そして、それらが日本でどのような変貌を遂げたのかを辿るという話です。
授業の振り返り課題として、次のような問いを提示しました。
「本日の授業を通して、文化の継承とはどのようなことだとあなたは捉えましたか。」
本日、学生たちが書いたものに目を通してまとめたのですが、
予想した以上に、的確に捉え、深く考察しようとしていたものが多かった。
授業で話した具体的な内容をまとめるという課題ではなくて、
その話の内容を受けとめることを通して開かれた思考回路を問いたかったのです。
(もっとも思考回路はそんなにすぐに開かれるものとは限りませんが。)
私はずっと、自分の専門分野からは幾分離れたところで仕事をしてきましたが、
そこで常に感じてきた軋みを、始めて肯定する気持ちになりました。
自身の研究ということにしても同様です。
中国古典文学という分野に散在する諸問題の解明に加えて、
自分はなぜ、どのような方法で、その問題に取り組んでいるのかを常に問う。
自分にとってごく自然に思われる問題意識が、
研究対象の時代には存在しなかったといものも少なくないのですから。
そうした外側からの視点なくしては、
この研究分野の存続が当然のこととは言えないように私は思います。
2021年10月17日
語気助詞の「当」と「将」
こんばんは。
以前、白居易や杜甫の詩に訳注を付けていた時、
その口語的な表現の語義については、
入矢義高監修・古賀英彦編著『禅語辞典』(思文閣出版、1991年)をよく参照しました。
この書物に教えられ、また何度か唐詩の中に事例を見た言葉のひとつに、
「当」「当復」があります。*
「まさに……すべし」とは読まず、「はた」と読む、
「さて」「いったい」といった訳がふさわしい、これといった語義を持たない語気助詞です。
この語は、禅語や唐詩より前、漢魏詩にも少なからず用いられていて、
たとえば次のような事例を挙げることができます。
・古楽府・本辞「西門行」(『楽府詩集』巻37):何能愁怫鬱、当復待来茲。
(なんだって鬱々と心配して、いったい来年まで待っていられるものか。)
・阮瑀詩(『藝文類聚』巻27):鶏鳴当何時、朝晨尚未央。
(一番鳥の鳴くのはいったい何時か、夜明けはまだだ。)
・曹操「秋胡行」(『宋書』巻21・楽志三):晨上散関山、此道当何難。
(夜明けに散関山に上る、この道のまたなんと難儀なことか。)
・曹操「歩出夏門行(碣石)」(『宋書』楽志三):心意懐游豫、不知当復何従。
(心に遊覧を思いつつ、さていったいいずれに従っていこうか。)
・甄皇后「塘上行」(『玉台新詠』巻2):念与君一共離別、亦当何時共坐復相対。
(あなたとの別れを繰り返し思う。いったいいつ共に坐って対面できるだろうか。)
比較的多くの作品を残している曹植にももちろん用例が見出せます。
すでに訳注を公開している作品では、「七哀詩」にいう「君懐良不開、賤妾当何依」、
それに基づく晋楽所奏「怨詩行」には、「沈浮各異路、会合当何諧」という句も見えます。
また、こちらで紹介した「吁嗟篇」にも「宕宕当何依、忽亡而復存」とあり、
「種葛篇」にも「出門当何顧、徘徊歩北林)」とあります。
(滞っておりますが、これらの作品についてもいずれ訳注を公開します。)
ところで、もしかしたらこの「当」と近いのではないかと思われる語として、
「将」を挙げることができるかもしれません。
前掲の曹植「七哀詩」にいう「賤妾当何依」が、
『藝文類聚』巻32所収テキストでは、「妾心将何依」となっていて、
「当」と「将」とが極めて近しい役割を果たしているらしいことが推し測られます。
また、すでに訳注を付けた作品では、「贈白馬王彪」詩にいう、
「鬱紆将何念、親愛在離居」、
「太息将何為、天命与我違」、
「離別永無会、執手将何時」の「将」も、これに該当するかもしれません。
特に二つ目に挙げた「太息将何為」は、『魏志』巻19・陳思王植伝は「歎息亦何為」に作り、
「将」に「まさに……せんとす」の意味はほとんどないことを示唆しています。
2021年10月16日
*この項の初出は、古賀英彦「禅語録を読むための基本語彙初稿」(『禅学研究』64、1985年、花園大学)。
蘇李詩から眺める古詩
こんばんは。
李陵・蘇武の名に仮託された五言詩群、いわゆる蘇李詩は、
建安詩との間に深い影響関係を持っています。
一方、これもまたその類似性がよく指摘される古詩・古楽府との間には、
意外なことに、それほど深い交わりは認められません。
明らかな影響関係が指摘できるのは、次の2件の事例くらいです。
(以下に示す作品は、いずれも『文選』巻29所収)
李陵「与蘇武三首」其一にいう「風波一失所、各在天一隅。」
蘇武「詩四首」其四にいう「良友遠離別、各在天一方。」と、
古詩「行行重行行」にいう「相去万餘里、各在天一涯。」
蘇武詩(二)にいう「泠泠一何悲」「慷慨有餘哀」「願為双黄鵠」と、
古詩「西北有高楼」にいう「音響一何悲」「慷慨有餘哀」「願為双鳴鶴」
他方、古詩の中でも、次のような作品は、
蘇李詩との間に類似関係を認めることができません。
「渉江采芙蓉」(「古詩十九首」其六)、「庭中有奇樹」(同其九)、
「迢迢牽牛星」(同其十)、「青青河畔草」(同其二)、
「蘭若生春陽」(『玉台新詠』巻1に枚乗「雑詩九首」其六として収載)*
これら蘇李詩と関わりあわない諸作品は、いずれも、
古詩の中でも特別な一群(仮称:第一古詩群)に属するものばかりです。
他方、前掲の「行行重行行」「西北有高楼」は、
第一古詩群の中でも、比較的後発的に生まれたと見られるものです。
このように、蘇李詩という作品群との関わり方という視点を新たに設けると、
第一古詩群の成り立ちが別角度から明らかになるかもしれません。
2021年10月15日
*以上のことは、かつてこちらの学術論文№28でも指摘しています。
中国の論争
こんばんは。
ほとんど1ヵ月もの間、何も書けないでいました。
またここから再出発します。
蔡琰の作として伝わっていた「胡笳十八拍」について、
その真偽問題をめぐる、1960年前後の中国の学界動向を紹介した、
入矢義高「紹介「胡笳十八拍」論争」(『中国文学報』13、1960.10)を縦覧しました。
蔡琰「胡笳十八拍」は真作だと主張する郭沫若の所論に端を発する論争を、
ほぼ時系列で詳しく紹介しながら、要所要所で入矢義高のコメントが入っていきます。
その中で、繰り返し述べられるのが「論争のルール」ということです。
「挙げ足取りや強辯のうまさといった部分的なことではなくて」、
「一部の学者に見られた突飛な着想の独走よりも」重要な、
その「論争のルール」とは何でしょうか。
膨大な情報量をさばいていく入矢義高の所論の後を追いかけていきながら、
(いや、実際にはその紹介文についていくことが難しかった。)
その次々と押し寄せる論争内容に呆然とする中で、
ひとつ思ったのは次のようなことです。
彼らの、相手の述べることに対して全く耳を傾けようとしない姿勢、
自説を主張するばかりの、自己を相対化する意識の欠如、
これは、一歩間違えば自分にも起こり得ます。
こわいと思いました。
ところで、以前、
五言詩の成立時期に関する、民国時代の論争について、
その経緯を辿ったことがありますが(こちらでも言及した、学術論文№16)、
それが、「胡笳十八拍」論争とほぼ同質の雰囲気であったことを思い出します。
ほんの少し前の先人の説にさえ見向きもしないことでも、両者はとてもよく似ています。
そんな熱狂的な雰囲気の中で、短期間のうちに作られた現在の通説に、
いつまでも縛られている必要があるだろうか。
やっぱり疑問に思います。
2021年10月14日
平賀周蔵と宮島
こんばんは。
これまで何度か触れたことがありますが、
江戸期の漢詩人平賀周蔵が、宮島を訪れて詠じた作品を読んでいます。*
意味がよく分からないところを、何か所も保留にしているのですが、
何度か読み返すうちに、突然ぱっと分かることがあります。
まるでパズルが解けたようなうれしさです。
最近では、「遊嚴島留宿視遠連日」と題する次の詩が、
始めてくっきりとした像を結びました。
来投故友廬 来投す 故友の廬
歓待意何疎 歓待 意 何ぞ疎ならん
樽俎新正際 樽俎 新正(旧暦の元旦)の際
酒魚嘉恵餘 酒魚 嘉恵は餘りあり
纔為三日客 纔(わづ)かに三日の客と為りて
已是二年居 已に是れ 二年の居
留宿唯談旧 留宿して唯だ旧を談じ
松窓夜枕虚 松の窓に 夜の枕は虚し
前半四句には、
宮島に遊んで、旧友の草堂に投宿し、
手厚い酒宴のもてなしを受けたことが詠じられています。
このたび解けたのは、第5・6句と、最後の一句です。
たった三日間、客となっただけなのに、もう二年もいる、
というのは、歳末から年初にかけて、足掛け二年の意味だと分かりました。
また、結びにいう、松の影が差す窓辺に夜の枕が虚しい、とは、
深夜まで旧友と昔話に花を咲かせるあまり、
枕の上は、乗せるべき人の頭がなくて、空っぽだということでしょう。
この平賀周蔵という人は、
宮島に、友人を訪ねて、あるいは友人と連れ立ってやってきます。
そして、この島が持つ情趣を、浮世離れした、隠遁的な文脈で多く詠じます。
観光より、奥まったところにある友の庵を訪ねることが楽しみであったようです。
2021年9月15日
*『宮島町史 地誌紀行編Ⅰ』(宮島町、1992年)所収『藝藩通志』巻32に収載。
曹操の家庭教育
こんばんは。
曹操は生涯、その手から書物を手放すことはなかったといいます。
(『魏志』巻1・武帝紀の裴松之注に引く『魏書』)
こうした父の姿は、当然その息子たちにも無言のメッセージとして届いたでしょう。
曹丕が八歳で文章がうまく作れたのも(『魏志』巻2・文帝紀の裴注に引く『魏書』)、
曹植が十歳あまりで『詩経』『論語』『楚辞』や漢代の辞賦作品を朗誦し、
文章がうまく作れたのも(『魏志』巻19・陳思王植伝)、
彼らの父の薫陶によるものだと言えます。
加えて、曹操は、身寄りのない族子を、実子と一緒に育てました。
(このことは、すでにこちらに記しています。)
一方、曹操の自己認識には次のような変遷が認められます。
すなわち、実権を掌握した晩年、彼は自身を周文王や周公旦になぞらえましたが、
挙兵してほどない壮年期は、両漢王朝を創始した高祖劉邦や光武帝に自らを当てています。
つまり、この頃からすでに彼は覇者たらんことを心に期していたということでしょう。
(このことは、すでにこちらに記しています。)
中国全土を掌握しようとする野心と、前述の曹家の家庭教育とは、
同じ根に出るものとして考えるのが妥当かもしれません。
身寄りのない族子らを、実子と分け隔てなく育てて仲間意識を醸成し、
(当初私はこのエピソードを、曹操の懐の深さを示すものとのみ捉えていました。)
将来を託すに足る実子には、それ相当の教養を身に付けさせた曹操の家庭教育は、
いずれ、曹氏一族が、手強い知識人層を配下に従えることになる、
そんな時代の到来を予期してのことだったのでしょう。
それを自らの手で覆してしまったのは曹丕ですが、
曹丕をそのようにしてしまったのは、ほかならぬ曹操であったとも言えます。
2021年9月12日
新しい表現が生まれるとき
こんにちは。
本日、曹植「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)の訳注稿を公開しました。
この文章に、先行する用例の稀な語句が比較的多いことは、
先にも、「冒顔」、「形影相弔」、「昼分」を取り上げて指摘したことがあります。
では、このような新しい表現は、どうして生まれたのでしょうか。
かつてなかった言葉を創出して、
自らの文学的才能を周囲の人々に誇示して見せるとか、
その自らの才能でもって文学の発展に寄与したいという願いを叶えるとか、
そうした、文学なるものを主体とする発想では、
曹植作品における上述のような現象は捉えられないように思います。
というのは、この作品はほとんど勢いで書かれたようなものだから。
訳注稿の通釈を見ていただければ明らかですが、
この上表文は、推敲を重ねた作品のようには見えません。
たとえば第二段落、短い間隔で「是以(ですから)」が二度見えます。
私には、曹植が勢い込むあまり、この語を重ねて口にしているように感じられます。
その一つ目の「是以」の後には、対をなすフレーズが四つ並びますが、
その意味のバランスから見て、それほど計算されたもののようには思われません。
また、第一段落の文脈は、理路があまりすっきりとしていません。
割り切れない思いが、途切れなくつながっていく辞句のうねりに見て取れるようです。
その、一度に放出するような感情の発露の中で、
これまでになかったような言葉がいくつも転がり出てきている。
そして、その背景にあるのは、身をよじるような、曹植自身の苦境です。
新しい表現というものは、
たとえばこのようなところから生まれると私は考えます。
より素晴らしい表現を模索した結果だと見るのは、
後世の研究者が、机上で考えた空論のように思えてなりません。
2021年9月11日
三分の義侠心
こんばんは。
職場に出て仕事をしていれば、
当然いろいろと翻弄されることも少なくありません。
あっという間に一週間が終わった今日、
ふと『菜根譚』にある次の言葉を思い出しました。*
(『菜根譚』は、明末の洪自誠による語録)
交友、須帯三分侠気。
作人、要存一点素心。
友と交わるには、三分の義侠心を持つ必要がある。
人として生きるには、一点の純真な心を保つ必要がある。
友のためには自分を投げ出す覚悟を持つ。
そんな義侠心を、「三分」と言っているところに妙味を感じます。
正義感100パーセントで突っ走るのでは駄目ですね。
一点の純心というのも絶妙です。
現実とは所詮こんなものだろうと投げ出すのではなく、
ほんの少しでいいから、純粋な気持ちを保持し続けていけば、
混迷の中でも、次へ希望をつなぐことができます。
突っ走りがちな自分への戒めであり、
励ましの言葉でもあります。
2021年9月10日
*中村璋八・石川力山訳注『菜根譚』(講談社学術文庫、1986年)p.45を参照。
曹植の造語か(2)
こんばんは。
曹植「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)の訓読を、
今日やっとひととおり終えたのですが、読めていないところが多々あります。
李善も五臣も特に注していないので、普通の言葉かと思っていたら、
これを読み下す段になって、その言葉の意味が像を結ばない、
そのような熟語が少なくないことがひとつ。
それから、言葉の連なりがうねっている感触があって、
文脈が理路整然と辿れないことが、難解さのもうひとつの要因です。
文脈を把握しづらい言葉のうねりは、
おそらく、彼がこの文章を書いた環境に起因するものなのでしょう。
罪を得て、文帝曹丕への謁見がなかなか許されない状況下で、
じっくりと推敲する余裕などなかったと思われます。
諸注釈者が触れていない難解な熟語としては、
たとえば、次の文中に見える「冒顔」がその一例です。*
詞旨浅末、不足采覧、貴露下情、冒顔以聞。
詞旨は浅末にして、采覧せらるるに足らざるも、
下情を露(あらは)さんことを貴(ねが)ひ、顔を冒して以て聞す。
「冒」は、やみくもに突き進むというニュアンスでの「犯す」。
ですが、これに「顔」が続く用例は、現存する文献ではほとんど見当たりません。
「冒」はもともと頭にものをかぶるという語義ですから、
その目的語として、下に「顔」を配すると、
顔を隠して、無謀なことをする、というような意味になるのでしょうか。
李善注にも、五臣注にも言及がないのは、
それが当時としてはありふれた言葉だからではなくて、
個々の漢字の意味を重ねれば理解可能だろう、ということなのかもしれません。
なんとなくわかったつもりでいたところが、
読み下してみて、実は何もわかっていなかったことに気づかされました。
2021年9月8日
*古川末喜さんからご教示をいただき、「冒顔」は「犯顔」の意として、本作品の語釈を改めました。(2021.10.09)
花をつける果樹
こんばんは。
公開講座が近づいてきたので、
そろそろ本腰を入れて準備をしようと、
白居易の詩から、気になっていたものを拾い上げました。
そのひとつが、「東坡種花」(『白氏文集』巻11、0548)です。*1
この詩は、忠州(四川省)城東の土手に、花の木を植えたことを詠ずるものですが、
一見、何の変哲もない、日常的な美意識の産物のように読めてしまいます。
けれども、この行為を唐代という時代の中に置いてみた場合、
それはかなり酔狂なものであったと判断されます。
まず、この時代、桃・杏・梅といった美しい花を咲かせる果樹でさえも、
その果実が食べられるということこそが重視されました。
白居易がその原型を作った類書(百科全書)『白氏六帖』においても、
これらの植物は、美しさを愛でる花、という概念で項目立てられてはいません。
加えて、『唐律疏議』巻26には、次のような記事が見えています。
諸侵巷街・阡陌者、杖七十。若種植墾食者、笞五十。各令復故。
雖種植、無所妨廃者、不坐。
諸々の小道やあぜ道を侵食した者は、杖で七十回たたき、
もし植物を植えて、食べ物を耕作したならば、笞打ち五十回、
それぞれもとの状態に戻させる。
植物を植えても、(国家の)妨害とならないなら、罪には問わない。
ここから窺えるのは、
唐代において、植物の栽培は、まず食物を得るためであったということです。
公共の場で勝手に食物を栽培すれば、農業国家の根幹を崩壊させてしまうでしょう。
だから、こうした行為が罪に問われたのだと思われます。
一方、白居易の果樹栽培は、花を愛でることを主眼としています。
彼は世間の外にある風流な世界に遊ぼうとしているのです。
彼は本詩の中でこう詠じています。
但購有花者 ただ花をつけるものという目安でのみ購入し、
不限桃杏梅 必ずしも桃・杏・梅といった種類にはこだわらなかった。
この言い方は、明らかに当時の一般的社会通念を意識しています。
彼は世間に対して、何気なく直角に向かい合う立場を取っているのです。
本詩は、白居易が忠州刺史を務めていた元和十五年(820)に作られました。
当時彼は49歳、足掛け六年にわたる謫居生活が、まもなく終わるという時期です。*2
2021年9月7日
*1 岡村繁『白氏文集 二下』(明治書院・新釈漢文大系、2007年)p.680―681。
*2 花房英樹『白氏文集の批判的研究』(彙文堂書店、1960年)「綜合作品表」p.519を参照。