論文への書評
こんばんは。
前漢後期の王褒(?―前61)に、「僮約」という諧謔的な作品があります。
その内容をかいつまんで紹介すれば次のとおりです。
王褒に酒を買いに行くよう命じられた奴隷が、
これを拒否し、明文化された仕事以外はしないと言い張る。
そこで、王褒は証文を作成し、奴隷のやるべき仕事の逐一を書き連ねた。
これを一読した奴隷は、酒を買いに行く方がずっとましだったと泣き言を言った。
この文章に関する先行研究を探していて驚きました。
宇都宮清吉「僮約研究」(『名古屋大学文学部論集』5・史学第二、1953年)
この“論文”に対して、翌年、翌々年と相次いで“書評”が発表されていることです。
西村元佑氏による書評は、1954年、『史林』37(2)に、
守屋美都雄氏によるそれは、1955年、『法制史研究』1955(5)に掲載されています。
まず、論文に対する書評というものを、私は初めて目にしました。
これは、宇都宮氏の論考を心待ちにしている人々がいたということでしょう。
そしてその書評が、批評対象に対する深い理解と敬意にあふれていることに打たれました。
ここに、学術界のひとつの理想形を見たような気がします。
書評は二篇ともオンラインですぐに入手できたのですが、
宇都宮清吉論文は、文献複写を依頼しました。
届いたら、心して読もうと思います。
2021年11月2日
曹丕と博士たち
こんばんは。
魏の文帝の黄初二年、曹植は朝廷からの使者に対して悪態をつき、
それが監国謁者潅均によって告発されました。
先週末、ここでも触れたように、
『文選』巻20、曹植「責躬詩」の李善注に引く佚書『曹植集』には、
この時の朝廷での議論について次のように記しています。
博士等議、可削爵土、免為庶人。
博士等の議すらく、爵土を削り、免じて庶人と為す可し。
このような議論を受けた曹丕は、
結局、次のような詔を出してこれを退けています。
それを記す『魏書』(『魏志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く)にこうあります。
植、朕之同母弟。
朕於天下無所不容、而況植乎。
骨肉之親、舎而不誅、其改封植。
植は、我が同母弟である。
わたしは天下のすべてを容認する。まして骨肉の植はなおさらだ。
肉親は、その罪をひとまず置いて、誅することはない。それ植の封土を改めよ。
『魏志』本伝の記述によれば、この寛大な措置は、
彼らの母、卞太后の特別な計らいによるものであったようですが、
いずれにせよ、この詔により、曹植は臨淄侯から安郷侯に移されただけで済みました。
この一連の出来事は、別の次のようなエピソードを想起させます。
それは、曹操の崩御した年、曹植は曹丕に、亡父を祭らせてほしいと上表しましたが、
博士たちの議論により、曹丕はその申し出を許可しなかったという出来事です。
『太平御覧』巻526に引く当該「請祭先王表」は、
件の上表文に続けて、ことの顛末を次のように記しています。
(この資料はこちらでも提示しました。通釈はそちらをご参照ください。)
博士鹿優韓蓋等以為礼公子不得禰先君、公子之子不得祖諸侯、謂不得立其廟而祭之也。礼又曰、庶子不得祭宗。
詔曰、得月二十八日表、知侯推情、欲祭先王於河上。覧省上下、悲傷感切、将欲遣礼以紓侯敬恭之意、会博士鹿優等奏礼如此。故写以下。開国承家、顧迫礼制、惟侯存心、与吾同之。
博士の鹿優・韓蓋等は以為(おもへ)らく 礼に公子は先君を禰するを得ず、公子の子は諸侯を祖するを得ずとは、其の廟を立てて之を祭るを得ざるを謂ふなり。礼に又た曰ふ、庶子は宗を祭るを得ず、と。
詔に曰く、月二十八日の表を得て、侯が情を推して、先王の河上に祭らんと欲するを知る。上下を覧省すれば、悲傷感切にして、将に礼を遣りて以て侯が敬恭の意を紓(ゆる)めんと欲せしとき、会(たまたま)博士の鹿優等 礼は此くの如しと奏す。故に以下を写す。国を開き家を承くるは、礼制を顧迫すべし、惟れ侯が心に存するは、吾と之を同じうす。
二つの出来事は、結果は異なりますが、
次の点に類似性が認められるように思いました。
すなわち、曹植の言動に対して、
曹丕が心情的に同意しようとする一方、
博士たちがこれを冷徹に阻止しようとするという構図です。
博士たちと曹丕とは、どのような力関係にあったのでしょうか。
曹氏兄弟の関係性を再考する上で、このことが関わるかもしれないと思いました。
2021年11月1日
曹植「責躬詩」札記5
こんばんは。
遅々とした歩みで「責躬詩」を半分近くまで読んできて、
やはり本詩は、曹植の無念が随所で漏れ出た作品であるように感じています。
たとえば、次のような句があります。
37 国有典刑 国に典刑有り、
38 我削我黜 我をば削り我をば黜す。
これをざっと訳すならば、
国家には刑罰に関する規範があって、
それにより私は封土を削られ爵位を落とされた、
というふうになるのでしょう。
けれども、この二句は次のような典故表現に支えられていて、
そのことを踏まえるならば、ここにかなりの屈託を感じないわけにはいきません。
第37句の「典刑」は、
『尚書』舜典に「象以典刑(象には典刑を以てす)」と見えており、
その偽孔伝には「法には常刑を用ひ、用ふるに法を越えず」と説明されています。
第38句の「削」「黜」は、
前漢の韋孟が、楚の元王(高祖劉邦の弟)の孫である戊を諫めた
「諷諌詩」(『文選』巻19)に、「嫚彼顕祖、軽此削黜」と見えています。
これは、劉戊が祖先を尊崇せず、忠臣たちを簡単に貶め冷遇することを言うものです。
曹植の処遇をめぐっては、
『文選』李善注に引く『曹植集』によると、
爵土を削り、庶人の身分に落とすべきだと博士たちは議論していたらしい。
そうした現実が、前掲の『尚書』舜典や韋孟の詩に見えていた言葉で表現されている。
するとどうでしょうか。
曹植は自身の処遇に理不尽さを感じていたということになるでしょう。
本来であれば、行き過ぎた刑罰は避けるべきなのに、
また、忠臣に対する「削黜」は軽々しくおこなうべきではないのに、
それなのに、「典刑」であるべき決まりに従って、自分は「削黜」という罰を受ける、
これは、常態の法ではないし、諫言に値するものである、と。
こうした重層的表現が、どこまで意識的に行われたものかは不明です。
ただ、これらの言葉は『尚書』や韋孟の詩を踏まえている以上、
必然的に上述のような意味を帯びることになります。
そのことに、曹植ほどの人物が気づかなかったはずはありません。
2021年10月29日
『藝文類聚』に引く「言志」の詩
こんばんは。
『曹集詮評』を底本として、曹植の諸テキストを校勘しています。
その中で、『藝文類聚』巻26「言志」に「魏陳思王曹植詩」として収載された佚詩、
慶雲未時興 慶雲 未だ時ならずして興こり、
雲竜潜作魚 雲竜は潜(ひそ)かに魚と作(な)る。
神鸞失其儔 神鸞 其の儔(ともがら)を失ひて、
還従燕雀居 還(かへ)って燕雀に従ひて居る。
を確認していて少なからず驚いたのが、
この後におびただしい数の阮籍「詠懐詩」が続いていたことです。
収載されている順番どおりに列記すれば、次のとおりです。
作品番号は、基本、多くの注釈者が依拠する『詩紀』のそれを示し、
『藝文類聚』に収載する第一句を挙げます。
四言:「天地烟熅」、「月明星稀」
59「河上有丈人」、45「幽蘭不可佩」、31「駕言発魏都」、
71「木槿栄丘墓」、34「一日復一朝(朝字、類聚は日に作る)」、
43「鴻鵠相随飛」、46「鷽鳩飛桑楡」、03「嘉樹下成蹊」、
04「天馬出西北」、05「平生少年時」、09「歩出上東門」、
15「昔年十四五」、20「徘徊蓬池上」、08「寧与燕雀翔(1句目は灼灼西隤日)」
10「北里多奇舞」、「南国有佳人」(曹植「雑詩六首」其四)、01「夜中不能寐」
この後は、晋の傅玄の雑詩、張翰の詩、張協の詩(以下省略)と続きます。
『文選』は、「詠懐」という項のもと、
阮籍「詠懐詩十七首」を収載していますが(巻23)、
『藝文類聚』では、「言志」という括りで、
阮籍詩に先立って、曹植詩が置かれていたことに意表を突かれました。
しかも、阮籍の「詠懐詩」として引かれた一首が、まぎれもない曹植「雑詩」でした。
曹植と阮籍との間に、通底するものがあると初唐の人々は見たのでしょうか。
2021年10月28日
曹植「責躬詩」札記4
こんばんは。
先に、本詩の「朱旗所払、九土披攘」に酷似する句が、
同じ曹植の「漢高帝賛」にも「朱旗既抗、九野披攘」と見えていることから、
文帝期の曹植は、父曹操を、漢の高祖劉邦に重ねてもいたのではないかと述べました。
つまり、魏王朝を周王朝になぞらえ、
曹操を周文王に、自身を周文王に重ねるという気持ちは、
この時期の曹植において、未だ顕在化していなかったのではないかと見たのです。
ですが、「責躬詩」を読み進めながら、
必ずしもそうでもないかもしれないと思うようになりました。
というのは、本詩の随所に、周王朝に関わる言葉が踏まえられているからです。
その冒頭「於穆顕考、時惟武皇」からして、
『毛詩』周頌「清廟」にいう「於穆清廟(ああ穆たる清廟)」を踏まえています。
「清廟」という詩は、周文王を祀るものです。
同じ「清廟」にいう「済済多士、秉文之徳(済済たる多士、文の徳を秉る)」は、
曹植「責躬詩」の第27句「済済雋乂」にも影響を及ぼしています。
この「済済」は、『毛詩』大雅「文王」にも「済済多士、文王以寧」と見えています。
「済済たる多士」によって文王の魂も安らかだ、と歌うこの詩も、
詩題「文王」が端的に示すとおり周文王を讃えるものであり、
その中の一語「済済」が、曹植詩に用いられているのです。
更に、曹植「責躬詩」の第11句「篤生我皇(篤く我が皇を生む)」は、
『毛詩』大雅「大明」にいう「篤生武王(篤く武王を生む)」を明らかに踏まえ、
ここでは周の武王と曹丕とが重ねられています。
ただ、曹植の明帝期の作「惟漢行」ほどには、
自身を周公旦に重ねるという意識は明確でなかったかもしれません。
このことは、一昨日に言及した「責躬詩」第24句「方周于魯」が示唆しています。
この表現が踏まえる『毛詩』魯頌「閟宮」の「建爾元子、俾侯于魯」は、
周の成王の、周公旦に対する待遇を言うものでしたから。
ここには、周公旦に重なる自己という認識が、
まだ明確な焦点を結んではいないように感じます。
2021年10月27日
曹植「責躬詩」札記3
こんばんは。
曹植「責躬詩」の第25~28句についての疑問。
本文は次のとおりです。
車服有輝、旗章有叙。済済雋乂、我弼我輔。
この最後の句について、
先行研究では多く次のように解釈しています。
まず、「我」は曹植自身のことを指す、
そして、「我」を「弼・輔」する、つまり輔佐して助けるのは、
「済済たる雋乂」、ずらりと居並んだ俊才たちだと。
けれど、「輔」「弼」という語は、
曹植のような立場の人物に対して用いられるのでしょうか。
『尚書大伝』(『礼記』文王世子の正義に引く)にこうあります。
古者天子必有四隣。前曰疑、後曰丞、左曰輔、右曰弼。
古は天子には必ず四隣有り。
前を疑と曰ひ、後を丞と曰ひ、左を輔と曰ひ、右を弼と曰ふ。
つまり、「弼」も「輔」も、天子を補佐する人々です。
すると、「我」は、「わたし」、曹植自身をいうのではなくて、
「我が君」、魏の文帝曹丕を指すということになります。
ただ、そう解釈すると、
直前の「車服有輝」「旗章有叙」とのつながりが悪くなります。
「車服」や「旗章」は、皇帝から諸侯に対して下賜されるものですから、
この二句は、諸侯を描写する句だということになります。
めまぐるしく主語が変わる不自然さ。
そこから、先人たちは上記のように解釈したのでしょうか。
もし「我」が曹植だとすると、
これはたいへん不遜なものの言い方だということになるでしょう。
この問題も、本作品を最後まで読んだら、あるいはほどけるのかもしれません。
2021年10月26日
曹植「責躬詩」札記2
こんばんは。
前回触れた、曹植「責躬詩」の第21・22句「帝曰爾侯、君茲青土」は、
その後すぐに次のような句が続きます。
奄有海浜 奄(おほ)いに海浜を有し、
方周于魯 周の魯に于(お)けるに方(なら)ぶ。
ここでは、『毛詩』魯頌「閟宮」にいう
「建爾元子、俾侯于魯(爾が元子を建て、魯に侯たらしめよ)」を踏まえながら、
臨淄侯として当地へ赴くことを命じられた自身の処遇が、
周王朝の、周公旦に対する厚遇に匹敵するものであったと述べられています。
前回挙げた「諫取諸国士息表」からは、
現実はとてもそのようなものではなかったと知れるのですが、
それは、本詩が自らを責める趣旨のものであるだけに、
当然つかなければならないウソであったと言えるでしょう。
ただ、そうしたやむを得ない虚言をあしらいながらも、
曹植はどうしても、憤懣を漏らさずにはいられなかったようです。
たとえば、第33・34句
「作藩作屏、先軌是隳(藩となり屏となるも、先軌を是れ隳る)」は、
『春秋左氏伝』昭公九年にいう、
「文武成康之建母弟、以蕃屏周、亦其陵隊是為。」
(文・武・成・康の諸王が、弟を封じて周の蕃屏としたのは、周の衰退を防ぐためだ。)
を踏まえつつ、それを反転させて言ったものかもしれません。
「藩屏となったけれども、先王の規範を損なってしまった」と詠ずれば、
老人ばかりの、人数も不十分な軍隊しか支給されなかった現実が浮かび上がります。
また、第19・20句
「広命懿親、以藩王国(広く懿親に命じ、以て王国に藩たらしむ)」の、
「懿親」という語は、『春秋左氏伝』僖公二十四年に、次のとおり見えています。
如是則兄弟雖有小忿、不廃懿親。
だとすれば、兄弟は小さな怨みを持っても、骨肉を損なったりはしないものだ。
「如是」とは、その直前に引く『詩経』小雅「常棣」を受けて言っています。
「常棣」は、仲睦まじい兄弟愛を歌う詩です。
ところが、この『春秋左氏伝』に見える「懿親」という語を用いる曹植は、
現在、実の兄から厳しい処罰を受けるという境遇の中にあります。
すると、この言葉を用いること自体が異議申し立ての意味を帯びたかもしれません。
曹植は、そんなに心から自身の非を認めているわけではなさそうだと感じます。
もっとも、最後まで読んでみないと確かなことはわかりませんし、
酷くひねくれた読み方を自分がしている可能性もあります。
2021年10月25日
曹植「責躬詩」札記1
こんばんは。
曹植「責躬詩」(『文選』巻20)の第21・22句、
「帝曰爾侯、君茲青土(帝曰く 爾 侯よ、茲の青土に君たれと)」について。
上の句は、『尚書』に散見する「帝曰爾(汝)~」という措辞を用い、
曹植詩における「帝」は、彼に藩国への赴任を命じた曹丕のことを指しています。
曹植が臨菑侯に封ぜられたのは、建安19年(214)のことでしたが、
220年、曹操が亡くなり、曹丕が魏王に即位すると、当地に赴くよう命じられました。
(『魏志』巻十九・陳思王植伝)
一方、下の句が踏まえたものとして、『文選』李善注は、
『漢書』巻63・武五子伝に記す、劉閎を斉王に封じた策書を挙げています。
嗚呼、小子閎、受茲青社。……封于東土、世為漢藩輔。
(ああ、小子閎よ、茲の青社を受けよ。……東土に封じ、世々漢の藩輔と為す。)
ですが、この句はもしかしたら、直接的には、
曹植自身が臨菑侯に封ぜられたときの策書を踏まえているのかもしれません。
それは、彼の「諫取諸国士息表」(『魏志』陳思王植伝の裴松之注に引く『魏略』)に、
次のとおり直接引用されています。
植受茲青社。封於東土、以屏翰皇家、為魏藩輔。
(植よ茲の青社を受けよ。東土に封じ、以て皇家を屏翰せしめ、魏の藩輔と為す。)
この表現から見て、前掲の『漢書』を下敷きにしていること明白です。
そして、この魏王朝から下された策書は、
その一部が、曹植の「責躬詩」にほぼ原形のまま取り込まれ、
更に、後の明帝期に書かれた「諫取諸国士息表」にも引用されたということです。
「諫取諸国士息表」では、前掲のような策書の引用に続いて、
藩国とはいえ、その機能を持ち得ないような人員配置であったことが述べられています。
臨菑侯として青州へ赴くことを曹植に命じた策書は、
彼にとってよほど深く記憶に刻み込まれる出来事だったのかもしれません。
2021年10月22日
作品の主題と動機
こんばんは。
公開講座がもう来週に迫り、
このたび取り上げる曹植「惟漢行」のことを思い返していました。
この作品は、もう幾たびもこちらで取り上げていますが、
それなりの時間を重ねて考察していくほどに、
面白味が増していくのを感じます。
曹植のこの楽府詩は、主題と動機とが少しだけずれています。
主題は、新しく即位した明帝を諫めることでしょう。
曹植は自身を周公旦に、明帝を成王に、曹操を周文王になぞらえて、
あるべき為政者像を新帝に示そうとしています。
では、本作品は新帝を諫めようという動機から作られたのでしょうか。
それが皆無だとは言いませんが、それだけではないはずです。
そのことを物語るのが、「惟漢行」という楽府題です。
この楽府題は、本詩が曹操の相和歌辞「薤露」を踏まえることを明言しています。
曹操の「薤露」は、「惟漢二十二世」という一句から始まりますが、
本詩の題目は、ここからその一部から採ったものなのです。
新帝を諫めるという趣旨を完遂するだけであれば、
曹操の「薤露」を踏襲することを標榜する必然性はありません。
ではなぜ曹植は、この内容を「薤露」のメロディに乗せなければならなかったのか。
それは、父曹操の期待を裏切り続けた自身の不甲斐なさを思い、
新帝を補佐するということによって、父が自身に寄せてくれた思いに応えようとした、
今は亡き父に、王朝の一員として生き直す自身の姿を見てもらいたかった、
それが、曹植における「惟漢行」制作動機ではなかったか。
そんな風に私は曹植とこの作品とを捉えます。
父と子との関係は普遍的なテーマでもあるでしょう。
聴きに来てくださる方々に、何かひとつでも届くものがあればと思います。
2021年10月21日
明帝期初期の曹植
こんばんは。
『北堂書鈔』巻156・凶荒に、曹植「喜雨詩」として、
おそらくはその序文でしょうか、次のような辞句が引かれています。
太和二年大旱、三麦不収、百姓分為饑餓。
太和二年(228)、大かんばつが起こって、各種の麦が収穫されず、
民たちは離散して餓えた。
その時期は、『魏志』巻3・明帝紀により、同年の五月と知られます。
『宋書』巻31・五行志二「恒暘」にも同様の記述が見え、
そこではこの天災の原因が明帝の盛大な宮殿増築にあるとされています。
(当時としては常識の、いわゆる天人相関説です。)
また、これに先立つ同年四月、
明帝が崩御して侍臣たちが曹植を擁立したといううわさが立ちました。
(『魏志』明帝紀の裴松之注に引く『魏略』)
こちらもあわせてご参照ください。
こうしてみると、
曹植は、かつて父曹操がその将来を見込んだように、
たしかに、民たちの暮らしを大切にする、為政者たるにふさわしい一面を持ち、
それに対応して、人々からの信頼と親しみを集める人物であったように想像されます。
以前にも言及したとおり、「求自試表」はこの年の10月頃の作ですが、
それは、自身の能力発揮の機会を切望するだけではなかったのではないでしょうか。
明帝期初期の曹植は、自己不遇感に沈むというよりは、
むしろ、王朝の一員としての使命感を募らせていたと見た方が近いかもしれません。
2021年10月20日