「行行重行行」の主語
こんばんは。
昨日に続いて、また古詩「行行重行行」の詠じ手について。
(詩の本文と通釈は、こちらをご参照ください。)
この詩の前半が、旅行く男性を主語とするという見方は、
その一句目「行き行きて重ねて行き行く」に由来するのかもしれません。
旅行く男性が、自身の身の上をこのように表現したと見るのは自然な解釈です。
たとえば、「行行」を用いた類似表現として、
従軍の苦しみを歌った曹操の「苦寒行」(『文選』巻27)にいう、
「行行日已遠、人馬同時飢(行き行きて日は已に遠く、人馬は時を同じくして飢う)」、
また、曹植「門有万里客」(『藝文類聚』巻29)にいう、
「行行将復行、去去適西秦(行き行きて将に復た行き、去り去りて西秦に適く)」は、
その主語は遠くへ赴く男性です。
ですが、その一方で次のような例もあります。
まず、「古歩出夏門行」(『文選』巻24・27の李善注に引く)にいう、
「行行復行行、白日薄西山(行き行きて復た行き行き、白日は西山に薄(せま)る)」。
ここにいう「行行復行行」は、人の動作を表現するものではなさそうです。
敢えて言えば、その主語は「白日」でしょうか。
また、後漢の趙曄撰『呉越春秋』巻十・勾践伐呉外伝に記された、
越の国人たちが、呉へ出征する軍士たちを見送った際に歌った別れの歌の中にいう、
「行行各努力兮、於乎、於乎(さあ行け行け、各々がんばれ、ああ、ああ)」。
ここでは、「行行」という語が、残される者から旅立つ者に向けて投げかけられています。
こうしてみると、「行行重行行」という句は、
時間も距離も、情け容赦なく積み重なってゆくさまを言うもので、
必ずしもその主語を、旅する男性と特定しなくてもよいと言えそうです。
2021年8月18日
「君」という呼称
こんばんは。
古詩「行行重行行」に関して、もうひとつ未詳なことを記します。
詩の本文と通釈は、こちらをご参照ください。
この詩の解釈として、
前半八句を、旅行く男性の立場から、
後半八句を、留守を守る女性の立場から詠じたものと見る説があります。*1
これはとても魅力的な捉え方ではあるのですが、
この時代、男性から女性に向けて「君」という呼称が用いられている事例が、
現存する文献資料を見る限り確認できなかったため、
一篇を通して、女性の立場から詠じられたものとして通釈しました。*2
ただ、何しろ自分は文字どおりの管見です。
かの『楚辞』では、君主をあたかも女神のように見立てる例もあるので、
もしかしたら、一般の男性から女性に向けられた呼称にも、
「君」が用いられている例があるかもしれません。
また、唐代に入ってからは、
女性と思しい相手に、「君」と呼びかけている詩の例もあります。*3
すると、漢代すでにそうしたことの萌芽が見えていた可能性も否定できません。
そのようなわけで、
漢魏詩における「君」という呼称については今も待考です。
どなたかご教示をいただけませんか。
2021年8月17日
*1 花房英樹『文選四』(集英社・全釈漢文大系29、1974年)p.222を参照。
*2 拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.130、注(10)に記したとおり。
*3 あるいは、その相手は女性ではなく、男性であった可能性もあります。というのは、唐代の書簡(男性どうしで交わされたもの)では、あたかも恋文を想像させるような表現が常套的に用いられていたので。[論著等とその概要]の[報告・翻訳・書評等]№15をご参照ください。原稿も公開しています。
記憶に残る考察(承前)
こんばんは。
昨日の続きで、古詩「行行重行行」の結び「努力加餐飯」について。
この句の解釈が分かれることについては、
全釈漢文大系『文選四』の当該作品の語釈にもこう記されています。*
この努力うんぬんの句を、相手についていったものと見る説と、
自分についていったものとみる説とがある。今は前者に従う。
鄭振鐸『中国俗文学史』は、
昨日述べたように、ここにいう後者に従っているように見えたのでした。
私はこれを、女性から、遠くを旅する男性への別れの言葉として捉えます。
それは、次のような用例を根拠に考えた結果です。
『史記』巻49・外戚世家(衛皇后)に、
平陽公主が、後宮に入る衛子夫を見送る場面でこう言っています。
「行矣。彊飯。勉之。即貴、無相忘」
(行きなさい。がんばってご飯を食べて。励みなさい。貴人となっても忘れないで。)
『漢書』巻81・匡衡伝には、
辞職しようとする匡衡を、成帝が引き留めようとして、
「強食自愛(がんばってご飯を食べて御身を大切に)」と言っています。
それが、自身にではなく、相手に向けられた言葉であるところが注目されます。
また、古楽府「飲馬長城窟行」(『文選』巻27)に、
遠くを旅する相手から届いた手紙について、こう描写されています。
「上有加餐食、下有長相思」
(上には「しっかりご飯を食べるように」、
下には「いつまでもそなたを思っている」と書いてあった。)
「努力」という語は、別れの場面でよく見かけます。たとえば、
朱穆が劉伯宗に宛てた絶交の詩(『後漢書』巻43・朱穆伝の李賢等注に引く)に、
「永従此訣、各自努力(もはやここまで。それぞれにがんばろう、お元気で)」とあり、
『文選』巻29所収の李陵「与蘇武詩三首」其三にも、
「努力崇明徳、皓首以為期(努力して明徳を崇めよ。白髪頭でまた会おう)」、
同じく蘇武「詩四首」其三にも、
「努力愛春華、莫忘歓楽時(努力して春華を愛せよ。歓楽の時を忘るるなかれ」とあります。
こうしてみると、「努力して」「餐食を加えよ」と結ぶ古詩の句は、
孤閨を守る女性から、帰ってこない夫に向けられた別れの言葉と見るのが妥当と考えました。
2021年8月16日
*花房英樹『文選四』(集英社・全釈漢文大系29、1974年)p.224を参照。
記憶に残る考察
こんにちは。
先週は、昨年いちど形にした論文の書き直しに没頭していました。
さる学術雑誌に投稿したけれど、不採択になったものです。
別の学会で口頭発表することになったので、抜本的に見直してみたところ、
これがとても論じにくい問題であることを痛感させられました。
結論には、今でも改めるべき点はないと考えていますし、
論拠も自分としては十分に挙げたつもりですが、
それをどのような構成で示せばわかってもらえるか、それが難しい。
再考の機会を得て、実に幸運だと思います。
これまでにも、同じような難しさに遭遇したことがあります。
たとえば、「曹植「贈丁儀」詩小考」(こちらの学術論文№34)などは、
今でも、あの時の結論はあれで本当によかったのかと、思い起こしては考えます。
その、何か釈然としない感じが、その後の別の考察と結びつき、
そこから曹植の新たな側面が見えてきたりもしますので、
自分の鈍さや試行錯誤も役に立ちます。
さて、鄭振鐸『中国俗文学史』の翻訳をしていて、
「古詩十九首」(『文選』巻29)其一「行行重行行」に再会し、
その結句「努力加餐飯」の前でハタと立ち止まりました。
その文章の流れから見て、鄭振鐸はおそらく、
「がんばってご飯を食べる」のは女性だと捉えているようです。
一方、自分は以前、これを女性から男性への別れの言葉として訳しました。*
そう訳すに当たって、かなり考察を重ねた記憶があったので、
昔のノートを出して確認してみました。
するとやっぱり、そう判断するに至った根拠が書いてありました。
その具体的な内容は、明日に回します。
2021年8月15日
*こちらをご覧ください。拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)から、第一古詩群(別格扱いの古詩群)の通釈を抜き書きしています。第一古詩群については、こちらをご参照いただければ幸いです。
「我」と連呼する曹植「五遊詠」
こんにちは。
本日、曹植「五遊詠」の訳注稿を公開しました。
訳注作業を進める中で、ひとつ腑に落ちない部分が残りました。
それは、第05・06、第17・18に登場する「我」です。
(作品の全文は、訳注稿の方をご覧いただければ幸いです。)
05 披我丹霞衣 わたしは我が紅色の霞の衣を羽織り、
06 襲我素霓裳 我が白い虹の裳裾を重ねている。
17 帯我瓊瑶佩 わたしは我が美玉の佩びものを身につけ、
18 漱我沆瀣漿 我が夜露の飲みものをすする。
なぜこの二つの対句の中で、「我」と繰り返す必要があったのでしょうか。
「我」は、自分を指し示すばかりでなく、親密さを表現する語でもありますが、
それを踏まえてもなお、今ひとつしっくりきません。
それで、もしかしたらこれだろうか、と思ったのが、
後漢・張衡の「思玄賦」(『文選』巻15)を曹植が踏まえた可能性です。
「思玄賦」には、たとえば次のような句が見えています。
奮余栄而莫見兮、播余香而莫聞
余が栄を奮ひても見る莫(な)く、余が香を播(し)けども聞(か)ぐ莫し。
雲霏霏兮繞余輪、風眇眇兮震余旟
雲は霏霏として余が輪を繞(めぐ)り、風は眇眇として余が旟(はた)を震(ふる)はす。
ここでは、「我」でなく「余」ですが、
対をなす目的語の上に、並んで付けられているという点では同じです。
ただ、張衡「思玄賦」にいう「余(われ)」と比べて、
曹植「五遊詠」の「我」は、その必然性がそれほど強くないように感じます。
あまり影響関係はないのかもしれません。
2021年8月5日
妻をなだめる夫の詩
こんにちは。
後漢末の秦嘉という人は、
郷里の隴西郡から会計官として上京する際、
病に伏して同行がかなわない妻に宛てて、三首の詩を贈りました。
以下に示すのはその二首目です。
皇霊無私親 大いなる神霊にえこひいきはなく、
為善荷天禄 善行を積めば天からご褒美をいただける。
傷我与爾身 それなのに、痛ましいことに、私とお前とは、
少小罹㷀独 年若くして肉親を失う目にあった。
既得結大義 結婚してからも、
歓楽苦不足 ともに歓楽を尽くす機会にはほとんど恵まれなかった。
念当遠離別 遠く離別する今、
思念叙款曲 わたしは心からの思いを細やかに述べたいと思う。
河広無舟梁 河は広くて舟も橋もなく、
道近隔丘陸 道は近くても丘陵に隔てられている。
臨路懐惆悵 路上に臨んでは恨みを抱き、
中駕正躑躅 車を前にしてはぐずぐずと出発をためらう。
浮雲起高山 浮雲は高い山からわき起こり、
悲風激深谷 悲しげな風は深い谷に激しく吹き付ける。
良馬不廻鞍 だが、よき馬は鞍の向かう方向を変えず、
軽車不転轂 軽やかな車は車輪を回らせて後戻りするということはない。
針薬可屡進 おまえは鍼灸や薬をたびたび用いるがよい。
愁思難為数 心配事はやたらとするものではない。
貞士篤終始 貞節ある男は、最初から最後まで篤い真心を貫くのであって、
恩義不可促 二人の間に結ばれた恩義は、あくせくと求めるものであってはならぬ。
この最後の句は、「促」字を「属」に作るテキストがあります。
鈴木虎雄は「属」に作るのを是とし、
内容的に、『礼記』喪服四制にいう「門内之治、恩揜義、門外之治、義断恩」
(家庭内では、愛情が公義を覆い、家庭外では、公義が愛情を遮断する)を踏まえて、
「恩」と「義」とは同列に連ねるわけにはいかないという意味に解釈しています。
「このたびは恩愛の綱はたちきらねばならぬ」というわけです。*1
これに対して、内田泉之助は「促」の方を取って、これを字義通りに解釈し、
「恩義は永続すべきで、それを故意に短促中絶すべきでない」の意で捉えています。*2
手元にあるものを見た限りでしかないのですが、
この部分については、先人の誰もが理解に苦しんでいるようでした。
私の解釈は前掲の訳文のとおりです。
仕事で遠く都に旅立つ夫に対して、自分のことを忘れ去るのではないかと心配する妻と、
その妻の心中を察しつつ、彼女のわだかまりを解きほぐしてなだめようとする夫。
もしこれで疎通するならば、こういう夫婦は今もいそうだなと思いました。
2021年8月4日
*1 鈴木虎雄訳解『玉台新詠集』(岩波文庫、1956年第3刷、初版は1953年)上、p.116~117を参照。
*2 内田泉之助『玉台新詠』(明治書院・新爵漢文大系、1988年8版、初版は1974年)上、p.87~88を参照。
後漢末における五言詩の位置
こんばんは。
昨日紹介した、趙壹「刺世疾邪賦」に見える二首の五言詩歌は、
鄭振鐸『中国俗文学史』に、その文体が「最も口語に近い」ものと評されています。*1
もともと民間歌謡と同類のものだった五言詩だが、
知識人社会でも広く行われるようになった漢末に至っても、
それはなお民歌的作風を留め、濃厚な口語的成分を多分に含んでいた、
その一例として、趙壹の歌が上述のようなコメントと共に紹介されているのです。
ただ、この五言詩歌が口語を用いた民歌的作風だと言い切れるか、
自分としては判断を保留にしておきたく思います。
というのは、この作品には古典籍に出自を持つ語句が散見するからです。*2
たとえば、「秦客」の作った詩の冒頭、
「河清不可俟、人命不可延(河清は俟つ可からず、人命は延ばす可からず)」は、
『春秋左氏伝』襄公八年に引く周の詩にいう、
「俟河之清、人寿幾何(河の清むを俟つに、人寿は幾何ぞ)」を踏まえています。
また、「魯生」がこれを継いで作った歌の第二句、
「欬唾自成珠(欬唾は自ら珠を成す)」は、
『荘子』秋水篇にいう、
「子不見夫唾者乎。噴則大者如珠、小者如霧。
(子は見ずや夫の唾なる者を。噴すれば則ち大なる者は珠の如く、小なる者は霧の如し)」
を、その本来の意味内容とは切り離して、文字面のみ遊戯的に用いていますし、
続く「被褐懐金玉(褐を被て金玉を懐く)」は、
『老子』第七十章にいう「聖人被褐懐玉(聖人は褐を被て玉を懐く)」を踏まえています。
鄭振鐸は「俗文学」という新たな視座で中国文学史を捉えなおそうとして、
その独自の文脈の中に本作品を位置付けたのでしょう。
私としては、立派な教養人である趙壹が、
その心情を吐露する際に五言詩型を取ったのはなぜか、興味を惹かれます。
後漢末当時、五言詩はまだ、正統的な文学ジャンルとしては認められていませんでしたが、
彼は、漢代の正統派文学である賦作品の中に、この五言詩型を組み入れています。
なぜ四言詩ではなくて、また楚辞系の詩歌でもなくて五言詩なのか。
そこから、後漢末における五言詩の位置を、推し測ることができるように思います。
2021年8月3日
*1 鄭振鐸『中国俗文学史』(商務印書館、2010年。原本初版は1938年)p.43を参照。
*2 吉川忠夫訓注『後漢書』第九冊・列伝七(岩波書店、2005年)p.310~311を参照。
後漢末の文人たち
こんばんは。
後漢末、曹操の下に形成されたいわゆる建安文壇は、
シビアな競争意識を支えとして成り立っていた可能性があると指摘されています。*
彼ら建安文人たちの心性を知る上で、
もしかしたら手がかりになるかもしれない作品に出会いました。
といっても、これまで知られていなかった作品を発見したわけではありません。
その作品が示唆することに改めて気づかされたのです。
それは、曹操と同年代の文人、
趙壹の「刺世疾邪賦」(『後漢書』巻80下・文苑伝下)という作品で、
その中に登場する「秦客」と「魯生」が、掛け合いで次のような五言詩歌を作っています。
まず、「秦客」の作った詩から。
河清不可俟 黄河が澄むのは待っていられないし、
人命不可延 人の命は伸ばせない。
順風激靡草 順風が激しく吹き付けて草をなびかせ、
富貴者称賢 富貴の者が賢者だと称賛される。
文籍雖満腹 書物の中身が腹いっぱいに満ちてはいても、
不如一嚢銭 一袋の銭には及ばない。
伊優北堂上 くねくねと媚びへつらう者は奥座敷に上り、
抗髒倚門辺 意気軒高な硬骨漢は門の片隅に身を寄せる。
これを聞いた「魯生」が、継いで作った歌は次のとおりです。
埶家多所宜 勢力のある者には宜しきところが多く、
欬唾自成珠 咳や唾でさえ自ずから珠玉となる。
被褐懐金玉 粗末な服を着ながら心に宝を持つ者は、
蘭蕙化為芻 香草の蘭蕙もまぐさに変化する。
賢者雖独悟 このことを賢者だけは分かっているが、
所困在群愚 どうしようもないのは群れなす愚者たちだ。
且各守爾分 まあとりあえずはそなた自身の分を守り、
勿復空馳駆 無駄に走り回ることはやめたまえ。
哀哉復哀哉 不憫にも重ねて不憫なことだ。
此是命矣夫 これは運命なのだ。
このやり取りに、不遇な文人たちの置かれた社会環境が垣間見えるようです。
こうした社会的風潮の中に身を置いていた後漢末の文人たちが、
曹操のような実力第一主義者の下に集まったのは自然の趨勢だと言えます。
そして、その文人たちが互いにしのぎを削ったのも自然の成り行きだと思えます。
ただ、その中にも隠者的志向を持つ徐幹のような人はいましたし、
王粲のような十分に恵まれた家柄の人もいましたが。
2021年8月2日
*岡村繁「建安文壇への視角」(『中国中世文学研究』第5号、1966年)を参照。
曹丕と曹植との間柄(再考)
こんばんは。
一般に認識されている曹丕と曹植との兄弟仲は、
よく知られている「七歩詩」(『世説新語』文学篇)に凝縮して見えるように、
決して仲睦まじいものではありません。
私自身も、二人の間柄に関心を持ったきっかけが曹植「贈丁儀」詩で、
これは、自分の腹心が、兄に殺害される直前に作られた詩と目されますから、*
二人はシビアに反目しあう関係にあったのだと見ていました。
ですが、魏の文帝として即位して以降の曹丕の逸話には、
曹植に対して、兄らしい親しみや愛情をもっているように見られるものもあります。
たとえば、こちらやこちらに記したエピソードなどがそれですが、
いずれも魚豢の『魏略』によるもので、信頼するに足る資料だと言えます。
また他方、曹植が自身の不遇を詠ずる場合、
兄の曹丕その人の仕打ちを非難するようなことはほとんどなく、
(為政者に対する皮肉っぽい批判と見られるような表現は散見するのですが)
こちらに述べたとおり、兄弟の間を裂く讒言の介在を告発するという立場を取ります。
二人の間柄については、
上述のとおり、これまでにも蛇行しつつ考えてきましたが、
やはり、これは抜本的に考え直す必要があると思いを新たにしました。
昨日述べたような、十代の頃の二人から再考です。
思うに、少年時代の仲睦まじい日々があったからこそ、
曹植は最後まで、兄を心底憎むことはできなかったのかもしれません。
また、曹丕は本来、とても心根の優しい人だったと推測されますが、*
様々なめぐりあわせにより、兄弟たちを冷酷に遠ざける権力者に成り下がった、
その、ある人物が変質していった過程にも興味があります。
2021年7月26日
*こちらの学術論文№34をご覧いただければ幸いです。
兄曹丕の詩句の影響か?
こんばんは。
曹植の「五遊詠」(『曹集詮評』巻5)に、次のような対句があります。
披我丹霞衣 我が深紅の霞の衣を着て、
襲我素霓裳 我が白絹色の虹の裳裾を重ねる。
これは、『楚辞』九歌「東君」にいう、
「青雲衣兮白霓裳(青雲の衣に白霓の裳)」を踏まえています。*1
白い虹の裳という発想でも、「衣」と「裳」とを対置させている点でも、
このことはたしかだと言えます。
ただ、『楚辞』の場合は、「青」と「白」とが対を為していました。
曹植の場合は、「丹(深い朱色)」と「素(白)」です。
では、この色のコントラストは、曹植独自のものなのでしょうか。
逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』を調べてみると、*2
「素霓」の語は曹丕、曹植に各1、西晋の傅咸に2ヶ所用いられているだけで、
「白霓」は用例無しでした。
現存する作品は実在したもののごく一部だということを念頭に置いた上で、
それでも、上述の用例の偏りには興味を惹かれます。
上記の曹丕の作は「黎陽作詩(黎陽にて作る詩)」(『藝文類聚』巻59)で、
その中には次のような対句が見えています。
白旄若素霓 白い旄(はた)は、白絹色の虹のようで、
丹旗発朱光 丹色の旗は、朱色の光を放っている。
ここでは、「白・素」と「丹・朱」とが対を為していて、
その色の対比は、前掲の曹植作品と同じです。
曹丕のこの詩は、建安八年(203)、彼が17歳の時に、
曹操が黎陽を攻めて袁譚・袁尚を破った行軍に従って作られたといいます。*3
もしかしたら、曹植が五歳年上の兄の詩句を覚えていて、
後年、それをアレンジして「五遊詠」に用いた可能性はないかと想像しました。
十代の時点では、まだ兄弟間の確執は生じていませんでしたし、
12歳と17歳との差はけっこう大きいですから、
見上げるような兄から、少年曹植は様々なことを吸収していたかもしれません。
2021年7月25日
*1 黄節『曹子建詩註』(中華書局、1973年)巻2、p.81に指摘する。
*2 逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』の電子資料(凱希メディアサービス、雕龍古籍全文検索叢書)を用いた。
3 夏伝才・唐紹忠校注『曹丕集校注』(河北教育出版社、2013年)p.1を参照。