平賀周蔵と宮島

こんばんは。

これまで何度か触れたことがありますが、
江戸期の漢詩人平賀周蔵が、宮島を訪れて詠じた作品を読んでいます。*

意味がよく分からないところを、何か所も保留にしているのですが、
何度か読み返すうちに、突然ぱっと分かることがあります。
まるでパズルが解けたようなうれしさです。

最近では、「遊嚴島留宿視遠連日」と題する次の詩が、
始めてくっきりとした像を結びました。

来投故友廬  来投す 故友の廬
歓待意何疎  歓待 意 何ぞ疎ならん
樽俎新正際  樽俎 新正(旧暦の元旦)の際
酒魚嘉恵餘  酒魚 嘉恵は餘りあり
纔為三日客  纔(わづ)かに三日の客と為りて
已是二年居  已に是れ 二年の居
留宿唯談旧  留宿して唯だ旧を談じ
松窓夜枕虚  松の窓に 夜の枕は虚し

前半四句には、
宮島に遊んで、旧友の草堂に投宿し、
手厚い酒宴のもてなしを受けたことが詠じられています。

このたび解けたのは、第5・6句と、最後の一句です。

たった三日間、客となっただけなのに、もう二年もいる、
というのは、歳末から年初にかけて、足掛け二年の意味だと分かりました。

また、結びにいう、松の影が差す窓辺に夜の枕が虚しい、とは、
深夜まで旧友と昔話に花を咲かせるあまり、
枕の上は、乗せるべき人の頭がなくて、空っぽだということでしょう。

この平賀周蔵という人は、
宮島に、友人を訪ねて、あるいは友人と連れ立ってやってきます。
そして、この島が持つ情趣を、浮世離れした、隠遁的な文脈で多く詠じます。
観光より、奥まったところにある友の庵を訪ねることが楽しみであったようです。

2021年9月15日

*『宮島町史 地誌紀行編Ⅰ』(宮島町、1992年)所収『藝藩通志』巻32に収載。

曹操の家庭教育

こんばんは。

曹操は生涯、その手から書物を手放すことはなかったといいます。
(『魏志』巻1・武帝紀の裴松之注に引く『魏書』)
こうした父の姿は、当然その息子たちにも無言のメッセージとして届いたでしょう。
曹丕が八歳で文章がうまく作れたのも(『魏志』巻2・文帝紀の裴注に引く『魏書』)、
曹植が十歳あまりで『詩経』『論語』『楚辞』や漢代の辞賦作品を朗誦し、
文章がうまく作れたのも(『魏志』巻19・陳思王植伝)、
彼らの父の薫陶によるものだと言えます。

加えて、曹操は、身寄りのない族子を、実子と一緒に育てました。
(このことは、すでにこちらに記しています。)

一方、曹操の自己認識には次のような変遷が認められます。
すなわち、実権を掌握した晩年、彼は自身を周文王や周公旦になぞらえましたが、
挙兵してほどない壮年期は、両漢王朝を創始した高祖劉邦や光武帝に自らを当てています。
つまり、この頃からすでに彼は覇者たらんことを心に期していたということでしょう。
(このことは、すでにこちらに記しています。)

中国全土を掌握しようとする野心と、前述の曹家の家庭教育とは、
同じ根に出るものとして考えるのが妥当かもしれません。

身寄りのない族子らを、実子と分け隔てなく育てて仲間意識を醸成し、
(当初私はこのエピソードを、曹操の懐の深さを示すものとのみ捉えていました。)
将来を託すに足る実子には、それ相当の教養を身に付けさせた曹操の家庭教育は、
いずれ、曹氏一族が、手強い知識人層を配下に従えることになる、
そんな時代の到来を予期してのことだったのでしょう。

それを自らの手で覆してしまったのは曹丕ですが、
曹丕をそのようにしてしまったのは、ほかならぬ曹操であったとも言えます。

2021年9月12日

新しい表現が生まれるとき

こんにちは。

本日、曹植「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)の訳注稿を公開しました。

この文章に、先行する用例の稀な語句が比較的多いことは、
先にも、「冒顔」「形影相弔」「昼分」を取り上げて指摘したことがあります。
では、このような新しい表現は、どうして生まれたのでしょうか。

かつてなかった言葉を創出して、
自らの文学的才能を周囲の人々に誇示して見せるとか、
その自らの才能でもって文学の発展に寄与したいという願いを叶えるとか、
そうした、文学なるものを主体とする発想では、
曹植作品における上述のような現象は捉えられないように思います。

というのは、この作品はほとんど勢いで書かれたようなものだから。
訳注稿の通釈を見ていただければ明らかですが、
この上表文は、推敲を重ねた作品のようには見えません。

たとえば第二段落、短い間隔で「是以(ですから)」が二度見えます。
私には、曹植が勢い込むあまり、この語を重ねて口にしているように感じられます。

その一つ目の「是以」の後には、対をなすフレーズが四つ並びますが、
その意味のバランスから見て、それほど計算されたもののようには思われません。

また、第一段落の文脈は、理路があまりすっきりとしていません。
割り切れない思いが、途切れなくつながっていく辞句のうねりに見て取れるようです。

その、一度に放出するような感情の発露の中で、
これまでになかったような言葉がいくつも転がり出てきている。
そして、その背景にあるのは、身をよじるような、曹植自身の苦境です。

新しい表現というものは、
たとえばこのようなところから生まれると私は考えます。

より素晴らしい表現を模索した結果だと見るのは、
後世の研究者が、机上で考えた空論のように思えてなりません。

2021年9月11日

三分の義侠心

こんばんは。

職場に出て仕事をしていれば、
当然いろいろと翻弄されることも少なくありません。
あっという間に一週間が終わった今日、
ふと『菜根譚』にある次の言葉を思い出しました。*
(『菜根譚』は、明末の洪自誠による語録)

交友、須帯三分侠気。
作人、要存一点素心。

友と交わるには、三分の義侠心を持つ必要がある。
人として生きるには、一点の純真な心を保つ必要がある。

友のためには自分を投げ出す覚悟を持つ。
そんな義侠心を、「三分」と言っているところに妙味を感じます。
正義感100パーセントで突っ走るのでは駄目ですね。

一点の純心というのも絶妙です。
現実とは所詮こんなものだろうと投げ出すのではなく、
ほんの少しでいいから、純粋な気持ちを保持し続けていけば、
混迷の中でも、次へ希望をつなぐことができます。

突っ走りがちな自分への戒めであり、
励ましの言葉でもあります。

2021年9月10日

*中村璋八・石川力山訳注『菜根譚』(講談社学術文庫、1986年)p.45を参照。

曹植の造語か(2)

こんばんは。

曹植「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)の訓読を、
今日やっとひととおり終えたのですが、読めていないところが多々あります。

李善も五臣も特に注していないので、普通の言葉かと思っていたら、
これを読み下す段になって、その言葉の意味が像を結ばない、
そのような熟語が少なくないことがひとつ。

それから、言葉の連なりがうねっている感触があって、
文脈が理路整然と辿れないことが、難解さのもうひとつの要因です。

文脈を把握しづらい言葉のうねりは、
おそらく、彼がこの文章を書いた環境に起因するものなのでしょう。
罪を得て、文帝曹丕への謁見がなかなか許されない状況下で、
じっくりと推敲する余裕などなかったと思われます。

諸注釈者が触れていない難解な熟語としては、
たとえば、次の文中に見える「冒顔」がその一例です。*

詞旨浅末、不足采覧、貴露下情、冒顔以聞。
  詞旨は浅末にして、采覧せらるるに足らざるも、
  下情を露(あらは)さんことを貴(ねが)ひ、顔を冒して以て聞す。

「冒」は、やみくもに突き進むというニュアンスでの「犯す」。
ですが、これに「顔」が続く用例は、現存する文献ではほとんど見当たりません。

「冒」はもともと頭にものをかぶるという語義ですから、
その目的語として、下に「顔」を配すると、
顔を隠して、無謀なことをする、というような意味になるのでしょうか。

李善注にも、五臣注にも言及がないのは、
それが当時としてはありふれた言葉だからではなくて、
個々の漢字の意味を重ねれば理解可能だろう、ということなのかもしれません。

なんとなくわかったつもりでいたところが、
読み下してみて、実は何もわかっていなかったことに気づかされました。

2021年9月8日

*古川末喜さんからご教示をいただき、「冒顔」は「犯顔」の意として、本作品の語釈を改めました。(2021.10.09)

花をつける果樹

こんばんは。

公開講座が近づいてきたので、
そろそろ本腰を入れて準備をしようと、
白居易の詩から、気になっていたものを拾い上げました。

そのひとつが、「東坡種花」(『白氏文集』巻11、0548)です。*1

この詩は、忠州(四川省)城東の土手に、花の木を植えたことを詠ずるものですが、
一見、何の変哲もない、日常的な美意識の産物のように読めてしまいます。
けれども、この行為を唐代という時代の中に置いてみた場合、
それはかなり酔狂なものであったと判断されます。

まず、この時代、桃・杏・梅といった美しい花を咲かせる果樹でさえも、
その果実が食べられるということこそが重視されました。
白居易がその原型を作った類書(百科全書)『白氏六帖』においても、
これらの植物は、美しさを愛でる花、という概念で項目立てられてはいません。

加えて、『唐律疏議』巻26には、次のような記事が見えています。

諸侵巷街・阡陌者、杖七十。若種植墾食者、笞五十。各令復故。
雖種植、無所妨廃者、不坐。

  諸々の小道やあぜ道を侵食した者は、杖で七十回たたき、
  もし植物を植えて、食べ物を耕作したならば、笞打ち五十回、
  それぞれもとの状態に戻させる。
  植物を植えても、(国家の)妨害とならないなら、罪には問わない。

ここから窺えるのは、
唐代において、植物の栽培は、まず食物を得るためであったということです。
公共の場で勝手に食物を栽培すれば、農業国家の根幹を崩壊させてしまうでしょう。
だから、こうした行為が罪に問われたのだと思われます。

一方、白居易の果樹栽培は、花を愛でることを主眼としています。
彼は世間の外にある風流な世界に遊ぼうとしているのです。
彼は本詩の中でこう詠じています。

但購有花者  ただ花をつけるものという目安でのみ購入し、
不限桃杏梅  必ずしも桃・杏・梅といった種類にはこだわらなかった。

この言い方は、明らかに当時の一般的社会通念を意識しています。
彼は世間に対して、何気なく直角に向かい合う立場を取っているのです。

本詩は、白居易が忠州刺史を務めていた元和十五年(820)に作られました。
当時彼は49歳、足掛け六年にわたる謫居生活が、まもなく終わるという時期です。*2

2021年9月7日

*1 岡村繁『白氏文集 二下』(明治書院・新釈漢文大系、2007年)p.680―681。
*2 花房英樹『白氏文集の批判的研究』(彙文堂書店、1960年)「綜合作品表」p.519を参照。

曹丕と楊修

こんにちは。

このところ、継続的に曹植の作品を読んでいて、
改めて、兄である曹丕のことが気にかかるようになりました。

二人の間柄についてはこれまでにも触れてきましたが、
本日は、曹丕と楊修との関わりを示す資料をひとつ記します。
そこに、曹丕が抱えていた悲しさの一端が垣間見えるように思うからです。

楊修は、曹植と肝胆相照らす仲でした。
それは、曹植の「与楊徳祖書」(『文選』巻42)と、
楊修の返書「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)から端的に見て取れます。
では、楊修と曹丕との関係はどうだったのでしょうか。

楊修は当代きっての俊才でしたから、
曹丕以下、魏の公子たちは競って彼と交友関係を結ぼうとしました。

『魏志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く魚豢『典略』は、
このことを記した上で、前掲の曹植・楊修の往復書簡を引用しています。
そして、曹植と楊修との親密さとこのことに起因する楊修の死、
曹操の崩御と曹丕の即位をひと連なりに記した後に、
次のような逸話を紹介しています。

初、修以所得王髦剣奉太子、太子常服之。
及即尊位、在洛陽、従容出宮、追思修之過薄也、撫其剣、駐車顧左右曰、
「此楊徳祖昔所説王髦剣也。髦今焉在。」及召見之、賜髦穀帛。

 初め、修は得る所の王髦の剣を以て太子に奉じ、太子は常に之を服す。
 尊位に即くに及びて、洛陽に在り、従容として宮を出で、
 修の過薄なりしを追思するや、其の剣を撫し、車を駐めて左右を顧みて曰く、
 「此れ楊徳祖の昔説く所の王髦の剣なり。髦は今焉(いづく)にか在る」と。
 召して之に見ゆるに及び、髦に穀・帛を賜ふ。

楊修から贈られた王髦の剣を、いつも身に帯びていた太子時代の曹丕。
曹丕は楊修に強いあこがれの気持ちを持っていたはずですが、
楊修は、自分の方は見向きもせず、弟とばかり親密なやり取りを重ねていました。
そのことを踏まえると、曹丕のこの有様にはいじらしささえ感じます。

曹丕は即位してからも、その剣を肌身離さず持っていました。
彼は、自身に対して酷薄だった楊修のことを今もありありと覚えていて、
その上で、その剣の制作者でしょうか、王髦を召し出して褒美を賜っています。
この振る舞いには、何か根強いコンプレックスの影を感じます。

なお、このことを記す『典略』の撰者魚豢は、
三国魏の時代を生きた人であり、また信頼するに足る歴史家です。*

2021年9月6日

こちらの学術論文№41をご参照いただければ幸いです。

家を出された女性の自尊感情

こんにちは。

古楽府に科白が多用されることは、
田中謙二氏によって指摘されているところですが、*1
どこからどこまでが誰の科白なのか、不分明なことも少なくありません。

このことは、古楽府によく似た古詩においても同様で、*2
たとえば『玉台新詠』の巻頭に置かれた次の古詩もそのひとつです。

01 上山采蘼蕪  山に上って蘼蕪(センキュウ)を採り、
02 下山逢故夫  山を下るときに元夫に出会った。
03 長跪問故夫  両ひざをついて腰を伸ばし、元夫に問いかけた。
04 新人復何如  「新しいお人はどんなご様子ですか。」
05 新人雖言好  「新妻はきれいだとはいえ、
06 未若故人姝   元妻の見目麗しさには及ばないよ。
07 顔色類相似   顔つきは似ていても、
08 手爪不相如   指先の美しさは比べ物にならない。」
09 新人従門入  新妻は門から入り、
10 故人従閤去  元妻は脇のくぐり戸から去っていった。
11 新人工織縑  新妻はかとり絹を織るのに巧みで、
12 故人工織素  元妻は染めていない白絹を織るのに巧みだった。
13 織縑日一匹  かとり絹を織るのは一日に一匹、
14 織素五丈餘  白絹を織るのは五丈余り。
15 将縑来比素  かとり絹をもってきて白絹に比べてみれば、
16 新人不如故  新妻は元妻にはかなわない。

今、このように通釈してみたのは、
松浦崇氏の所論による啓発を受けてのことです。*3
まず、氏の所論の一部を、以下のとおりかいつまんで紹介します。

本詩は、大きく二つの部分に分けられ、
第1・2句は前半八句の導入部、第9・10句は後半八句の導入部となっている。
内容は、以下のとおり、当時における女性の「四徳」をすべて織り込むものである。
第3・4句では、言外にそれとなく元妻の気立ての良さが表現され、
第5・6句は、彼女の言葉遣いの美しさを表現するものであり、
第7・8句では、指先にまで及ぶ容姿の美しさを詠じ、
第12・13・14・15・16句は、彼女の手仕事の巧みさを描写している。
このように女性の理想像を余すところなく描いた本作品は、
女性の読者を想定した『玉台新詠』の巻頭を飾るにふさわしいものである。

以上の論述内容の中で、特に深く納得させられたのは、
本詩がちょうど半分に分割されるということ、
それぞれの最初の二句が、以下に続く部分の導入となっているという指摘です。
これを踏まえ、個々の語釈を吟味した上で、前掲のように訳しました。

「子なきは去れ」が一般通念であった時代、
涙を呑んで婚家を離れた女性たちは少なくなかったでしょう。
元夫は、再会した元妻の、見た目の美しさばかりを言い募るのですが、
それを聞かされる元妻の心中はどうでしょうか。

もしかしたら後半の八句は、
世間的には不幸と見えただろう女性たちへの賛歌かもしれない。
婚家の期待には沿えなかったけれど、
自らの仕事に誇りを持つ女性の自尊感情を、
第三者の視点から代弁しているように思えてなりません。

もっとも、これは私なりの解釈です。
先人たちもみな、それぞれに解釈されています。

2021年9月4日

*1 田中謙二『楽府散曲(中国詩文選22)』(筑摩書房、1983年)p.35を参照。
*2 田中前掲書p.54―59に、本作品が「ふつう古詩と呼ばれている一篇の古楽府」として紹介され、第4句、及び第9・10句を元妻の科白、第5・6・7・8句、及び第11・12・13・14・15・16を元夫の科白として捉えている。
*3 松浦崇「古詩「上山采蘼蕪」考」(『中国文学論集』第12号、1983年)を参照。本詩の解釈をめぐる諸説も、この論文に分析的に紹介されている。

曹植の言葉の波及

こんばんは。

曹植(192―232)の作品に見える表現で、
彼に先んずる人々の作品には用例が見いだせず、
他方、彼に続く時代の人の作品にその片鱗が見いだせる場合、
その後続作品は、曹植作品の影響を直に受けている可能性が高いと言えます。

これまでにもいくつか、そういった事例に遭遇したことがありますが、
次に示すのも、その一例として見てよいかもしれません。

それは、「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)の次の句です。

形影相弔、五情愧赧。
  自身の身体と影とが哀れみ合うような中、
  五つの感情がすべて、恥ずかしさで赤面する思いだ。

「形影相弔」という印象的な句は、
三国・蜀から西晋にかけての李密(224―287)の、
「陳情事表(情事を陳ぶる表)」(『文選』巻37)に次のとおり見えています。

煢煢独立、形影相弔。
  寄る辺なく一人ぼっちで、自身の身体と影とが哀れみ合うような状態だった。

また、魏の阮籍(210―263)の「奏記詣曹爽(奏記 曹爽に詣(いた)る)」には、*1
曹植作品にいう「五情愧赧」に似た表現が、次のとおり見えています。

憂望交集、五情相愧。
  憂える思いが交々集まってきて、五つの感情が互いに恥じ入る思いだ。

時代が東晋まで下りますが、
陶淵明(365―427)の「影答形(影の形に答ふ)」詩にいう、*2
「身滅名亦尽、念之五情熱(身滅べば名も亦た尽く、之を念ずれば五情熱し)も、
「形」「影」が向き合っているところに「五情」の語が出てくるので、
もしかしたら、曹植作品を意識しているのかもしれません。

2021年8月31日

*1『阮籍集』(上海古籍出版社、1978年)巻上、p.54。
*2『陶淵明集』(中華書局、1979年)巻二、p.36。

※蔡琰の「悲憤詩」其一(『後漢書』巻84・列女伝)にも、自身の影と向かい合うという発想で孤独を表現する、「煢煢対孤景、怛咤糜肝肺(煢煢として孤景に対すれば、怛咤として肝肺を糜(ただ)れしむ)」という句が見えます。ただ、この例の場合、発想は似ていても、用いられた言葉が違います。ですから、どこまで相互に影響関係があったかは不明です。これとは逆に、言葉は同じでも、文脈が異なる、意味が異なるという例もよく見かけるところです。言葉の影響関係は、これを精査することが難しいと感じます。(2021.09.20追記)

注釈者との対話

こんばんは。

毎日少しずつ曹植作品の訳注作業を重ねています。
『文選』所収作品であれば、李善注をまず見ることにしています。

李善注の後を追いかけて調べながら、
正直、そこまでしなくても、と思うことも少なくありません。
それでも、李善の言葉に耳を傾けるのはなぜか。

ひとつには、唐代初めの彼は、私たちの目睹できない文献も見ているため、
それだけ、作者の言語感覚により近づけるだろうと考えるからです。

作者の思いとは別に、読者が自由に解釈してもよいとする考え方もあります。
けれども、私はこの道は取りません。
それは、無意識的に自らを拘束している枠を打ち破りたいから。
「自由」というとき、往々にして現代的な枠に縛られているものだと思います。
だから私は、いったん相手の座標に身を置いてみることにしています。

加えて、李善注とは対話の楽しみがあるからです。
なぜこのような文献を引くのかと問いながら原典を当たると、
結果、そこには自分の意表を突くような解釈が立ち現れることがある。
だから、まったく気が抜けません。

自分を大きく超える存在が眼前にある。
それと格闘することによって、自分の小さな枠を超えていきたい。

2021年8月30日

1 23 24 25 26 27 28 29 30 31 82