古典的作品との再会

おはようございます。

一昨日、曹植における『楚辞』の影響に触れましたが、
一日おいて、こういうことなのかと思い至ったところがあります。

最初は奇想に満ち溢れた言葉の宝庫として、目を見張りつつこれを摂取し、
後半生、自身のおかれた境遇と、屈原がたどった悲劇的人生とを重ねあわせつつ、
ふたたび曹植は、『楚辞』文学に出会ったということなのでしょう。

『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝に、こうあります。

陳思王植字子建、年十歳餘、誦読詩・論及辞賦数十万言、善属文。
 陳思王植、字は子建。
 彼は十歳あまりの年齢で、『詩経』『論語』及び辞賦文学数万言を読んで朗誦し、
 詩文を綴ることに長けていた。

ここにいう「辞賦」とは、『楚辞』及びその系統を引く漢代の韻文を指します。
曹植は、この『楚辞』系文学には子供の頃から慣れ親しんでいたのです。
その当初の摂取は、『詩経』や『論語』と同等の古典的教養としてだったでしょう。
その文学がリアリティをもって感得されたのは、
彼が様々な苦い経験を経て後のことだったのではないでしょうか。

同じことが、たとえば古詩・古楽府についても言えるかもしれません。
曹植は十代の頃から、父曹操が招いた当代第一級の文人たちと宴席を共にしつつ、
漢代以来のこの種の宴席文芸を、日々浴びるように耳にしていたでしょう。
そして、その中で常套的に詠じられる悲哀に満ちた離別を、
自身に固有の文脈において捉えなおし、新たな文学作品を創出した、
それが彼の後半生の「雑詩」や楽府詩だったということではないでしょうか。

困難なのは、少なからぬ曹植作品が制作年代未詳であることです。
そこは、精読を通して推察するしかありません。

2021年7月24日

諸事雑感

こんばんは。

先日、大学からの求めに応じて、自身の研究内容を紹介する書類を提出しました。
地域の企業との連携に資するシンクタンクのようなものを作ることが目的のようでした。
自分にはあまり関係がなさそうなので、ならばいっそ存分に、とばかり、
研究の概要を次のように書いて出しました。

 中国3世紀、三国魏の文学は、それ以前の文学とは一線を画するとされています。ですが、その実相や、そうした特徴が出現した経緯は未だ明らかにはされていません。それは、魏の文学の土台となった漢代の文化的状況が未解明だからです。
 私はかつて、魏の文学を特徴づける五言詩の源流を、前漢後期の後宮に探し当て、その生成展開の場を、後漢時代の宴席という場に突き止めて、五言詩という文学ジャンルの本質を歴史的に究明しました。さらに、この漢代の宴席という場に着目し、場を共有する様々な文芸と五言詩歌とが融合して、新たな文芸ジャンルを創出していった過程を明らかにしました。
 これらの宴席文芸はすべて、曹植を含む魏の建安文人たちに引き継がれ、知識人の文学として磨き上げられます。ところが、そこから踏み出すものを内在させているのが曹植の作品です。では、それは具体的にどのような要素で、それが生じたのはなぜでしょうか。また、それは続く時代の文人たちにどのような影響を与えたでしょうか。この問いが、目下第一の研究テーマです。
 この他、白居易の文学や、漢文学的見地からの宮島学など、縁あって携わることとなった研究も行っています。

なんだか少しえらそうです。
研究者として過不足ない自己紹介ができるようになりたいものです。

その前には、本学のまた別の部署から、
地域の方々や高校生たちに向けた研究紹介が求められました。
本学への進学を考えている高校生たちの中に、
中国古典文学に興味を持っている人が何人いるのか、非常に心もとないですが、
そんな雑念は振り払って、真正面からまじめに書きました。
ただ、なんとなく疲れてしまいます。

自分が教員としての仕事を始めた当初は、こんなに自己PRなるものは求められませんでした。
座して人を待つ時代は終わって、自分から打って出る時代になったのかもしれません。
正直なところ、あと十歳若かったら、自分はもたなかっただろうと思います。

とはいえ、地味に研究することを誰にも咎められることはないので。

一方、自分の声が誰かに届くことを夢見ていることもたしかです。
それならばいっそ、とばかりに、本サイトのトップ「ご挨拶」に少し追記をしました。

さて、先日来、曹植詩に認められる自在な浮揚感に注目してきましたが、
こうした詩想は先秦時代の『楚辞』にすでに見えるものです。
曹植が『楚辞』からインスパイアされたものは、
屈原という悲劇的ヒーローの生き方よりは、
この古典的詩集に横溢する奇想的作風の方だったのかもしれません。

他方、曹植詩は『詩経』国風の系譜に連なる、と『詩品』には述べられていました。

今読んでいる作品がたまたま遊仙楽府詩だから、
『楚辞』との詩想の近似性が目に留まったというだけかもしれません。
もっと多くの作品を読んでからでないと、適正な判断はできないと肝に銘じます。

また、一旦言葉にしてしまうと、それが思考にバイアスとして作用するので、
そのことにも自覚的でなければと思います。

2021年7月22日

 

若い建安詩人たち

こんばんは。

馬齢を重ねて還暦もとうに過ぎ、
身体(脳という臓器も含めて)の衰退を日々痛切に感じる一方、
たまに、若い時にはなかった余裕(諦観)でものごとを受け流せたりして、
脱力できる老いも悪くないと思うこともあります。

それで、ふと振り返ってみれば、
日々考察している曹植をはじめとする建安詩人たちは、
みな、この老いるという感覚を知らないうちに亡くなっているのですね。

曹植(192-232)は41歳、その兄の曹丕(187-226)は40歳、
建安七子の筆頭、王粲(177-217)も41歳、
やや先輩格の阮瑀(165?-212)や徐幹(170?-217?)は48歳前後、
陳琳、応瑒、劉楨はみな、生年は未詳、没年は揃って疫病の蔓延した217年で、
おそらくは王粲らとそれほど違わない年齢だったのではないでしょうか。
なお、孔融(153-208)だけは56歳の生涯で、
経歴上も、他の建安七子とは別の立ち位置にあるようです。

なんとなく自分よりも年上だと思っていた文人たちが、こんなにも若い。
その事実に虚を突かれました。

鈴木修次『漢魏詩の研究』(大修館書店、1967年)p.680には、
建安詩を「新しい時代を生み出そうとする青年の文学」だと表現しています。
そして、それは「生理年齢における青年期」ではなく「精神年齢」なのだと言っています。

ですが、実際の年齢が、彼らの文学のあり様に枠を与えたようなところはないでしょうか。

どんな人間であれ、時を重ねれば必ず見えてくるものがある、とは言いません。
けれども逆に、どんなに優れた才能を持つ人物であったとしても、
時を経なければ感得できないものはあると思います。

建安詩人のほとんどは、そのような年齢に達する前に没しました。
そして、その死の直前まで、時に緊張感の走る環境の中でしのぎを削っていました。
その結果が、鈴木前掲書にいう、激情のほとばしる、荒削りの作風ということなのでしょう。

このような年齢構成の文人集団は、他にあったでしょうか。

以前、中唐の詩人たちの没した年齢について見てみたことがありますが、
白居易75歳、元稹53歳、崔玄亮66歳、劉禹錫71歳、
韓愈57歳、柳宗元47歳、李賀27歳、孟郊64歳、杜牧51歳といった年齢でした。
少し前の盛唐の人々では、孟浩然が52歳、王維が61歳、李白が62歳、杜甫が59歳です。

建安文壇の人々は、もしかしたら年齢から見ても、突出した文人集団だったのかもしれません。
(いや、自分が知らないだけで、他にもあったかもしれません。)

2021年7月21日

曹植文学への一視角

こんばんは。

昨日は、曹植「遠遊篇」のあまりにも自在な空間移動に唖然としましたが、
彼は鶏でさえ飛翔させているのです(こちらでも触れた「闘鶏」詩)。
これくらいのことは何でもなかったでしょう。

思えば、彼がよく歌っていたという「吁嗟篇」も、
「遠遊篇」に一脈通じるような大気のうねりを纏っています。
その本文と通釈を挙げれば次のとおりです。

吁嗟此転蓬  ああ、この転がってゆく蓬よ、
居世何独然  世の中に居るのに、どうしてお前だけがこうなのだ。
長去本根逝  長い間、もとの根を離れて行ったきり、
夙夜無休間  朝から晩まで、休む間もない。
東西経七陌  東西に、七本のあぜ道を通り過ぎ、
南北越九阡  南北に、九本のあぜ道を超えてゆく。
卒遇回風起  そこへ突然、つむじ風が起こるのに遭遇し、
吹我入雲間  私は雲の間に吹き入れられた。
自謂終天路  自分では天への道を終点まで行ったと思っていたら、
忽焉下沈淵  今度は唐突に、深い淵の底へ下される。
驚飆接我出  そこに突風が逆巻いて、私を迎えて連れ出して、
故帰彼中田  わざわざかの田畑の中に帰してくれた。
当南而更北  きっと南へ行くのだと思えば、更に北方へ赴かせられ、
謂東而反西  東かと思っていたら、逆に西へ向かうことになる。
宕宕当何依  あちらこちらと流浪して、いったい何を頼りにすればよいのだろう。
忽亡而復存  ふと亡びかけたかと思えば、また息を吹き返す。
飄颻周八沢  ひらひらと漂いつつ、八つの湖沼を巡り、
連翩歴五山  絶え間なく翼を動かして五つの山を歴遊する。
流転無恒処  流転を重ねて安住の地を持たない、
誰知吾苦艱  この私の苦しみを、誰が分かってくれようか。
願為中林草  できることならば林の中の草となり、
秋随野火燔  秋の日、野火に身をゆだねて焼かれてしまいたい。
糜滅豈不痛  焼けただれて消滅することに、痛みを感じないわけがないけれど、
願与根荄連  ただ願うのは、もとの根っこに連なりたいということなのだ。
(『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く。)

曹植は後半生(特に文帝期)、元来は身内である皇帝から、
転々と封地を移されるという仕打ちを受けました。
そうした境遇に投げ込まれた苦しみを詠ずる詩歌として、
私はこれまでこの作品を、半ば無意識的に解釈してきたように思います。
それは、作家の人生がまずあって、それを反映したものが作品であるとする、
ありふれたひとつの常識に囚われた見方です。

けれども、このように表現された内容から見るのではなく、
表現の体質というか、もっと深い基層を流れるある種の傾向のようなところから、
曹植文学の特質を捉えることができないだろうかと思いました。

2021年7月20日

時空を超える詩か

こんばんは。

本日、曹植作品訳注稿「05-24 遠遊篇」を公開しました。
少しずつ長い期間にわたって読んでいったためか、
今一つ全体像がつかめていません。

全体の趣旨として、『楚辞』遠遊が踏まえられていることは明らかですが、
個々のディテールが互いにどう関わりあっているのか、
よくわからないところがあるのです。

たとえば、次に示す第13・14句、

将帰謁東父  これから帰って東王父にお会いしようと、
一挙超流沙  飛び立って一挙に流沙を超えてゆくのだ。

「東父」は、それが東王父であれ、東王公を指すのであれ、東方に位置するものです。
ところが、それに謁見するために、砂漠を超えてゆくのだと言っています。

この句の直前に当たる部分には、
「崑崙は本もと吾が宅にして、中州は我が家に非ず」とありますから、
そうすると、西の最果てにいた者が、砂漠を渡って「東父」に会いに行くのでしょうか。

ところが、その前には、東の海上に浮かぶ「方丈」が巨大な亀に載せられています。
その方丈山に戯れているらしい「仙人」や「玉女」の姿を詠じつつ、
本詩の主人公は西方の崑崙山へと思いを馳せていくのです。

詩句の並びを律儀にたどっていくならば、
東方海上の方丈山から、西の果ての崑崙山、そして再び東方へと、
場面(主人公の意識)が目まぐるしく移動します。
この詩を詠じている人は、仙人とともに時空間を自在に飛翔しているのだ、
と、ざっくり解釈すればよいのでしょうか。

細かい理屈は飛び越えてしまえ、と曹植が言っているような気もしますが、
なんとなく呑み込みにくい感じが残ります。

2021年7月19日

 

 

書物の中の師

こんにちは。

毎日少しずつ曹道衡先生の論集を書き写しています。
読んで論旨を把握するというよりも、その行論の呼吸を血肉化したくて。

なぜ、曹道衡先生なのかというと、
たとえば「相和」と「清商三調」との違いに目をとめた所論など、*1
これまでに共鳴する内容の論文が多かったからです。

共鳴と言えるような、対等な関係でないことはもとより承知していますが、
論文を書く上で先人の所論を引くときは、同じ土俵上に立っています。
ここでいう共鳴とは、そのようなときに感じた思いです。

さて、先日、嵆康「養生論」の一節を引いて、
古人たちは人知を超えた存在をどう認識していたのか、
という積年の疑問について、新たに得たある視点を述べました。
実は、この嵆康の文章を指し示してくださったのが、
ちょうどその日に書写していた曹道衡先生の「魏晋文学」緒論です。*2

そして今日、写し進めていった先で、次のような言葉に出会いました。
郭璞の「注山海経叙(『山海経』に注するの叙)」を引き、
その思惟の筋道が持つある種の合理性を論じた段にこうあります。

因为人们对世上的事物至今还不能有充分的认识,未知的东西还是比已知的要多。
如果因为不认识、不理解而斥为怪诞,一律否认,亦非求知的好方法。
郭璞这段话,实际上意味着当时人想广泛理解世界的努力。

というのは、人々は世の中の事物に対して、今に至るまでまだ十分な認識は得ておらず、
未知のものはなお既知のものよりもきっと多いに違いないからだ。
もし、知らない、理解できない、という理由でこれを退けて荒唐無稽とし、
一律に否認してしまったなら、それは知を探求する良い方法だとは言えないだろう。
郭璞のこの文章は、当時の人が広く世界を理解しようと努力したことを意味しているのだ。

中国の研究者による論文の中で、このような言葉に出会ったのは初めてです。
研究者の世界に身を置いていてよかったと、心底思いました。

2021年7月18日

*1 曹道衡「《相和歌》与《清商三調》」(『文学評論叢刊』第9巻、1981年5月)。
*2 『曹道衡文集』(中州古籍出版社、2018年)巻四「魏晋文学」p.167。この書物は、この雑記の別のところにも引用したことがあります。書写が亀の歩みであることが知られて恥ずかしい限りです。

そう言ってはみたけれど

こんばんは。

昨日、五言遊仙詩の生成過程を推論しましたが、
一日たってみると、あれは机上の空論だったと思えてきました。

考えていたことを正確に言うならば、
宴席という場を視野の中心に置くことによって、
詩歌(特に楽府詩)に、神仙という題材が流入した経緯を明らかにできるということです。
そして、ここまでは単なる思い付きだったわけではありません。
  ・後漢時代、楽府詩が宴席で行われていたことはすでに定説となっています。
  ・神仙に扮した演劇用の出し物が、宴席で行われていたらしいことは昨日述べました。

ただ、神仙を描いた楽府詩から、五言遊仙詩の登場までには少し段差があって、
そこのところは、詠史詩の生成経緯とまったく同じようにはいかないと思いなおしました。

『文選』の細目とその配列については、
それがいつの時点での枠組みであるのかが重要になってくると思います。
『文選』は、すでに存在していた選集からの二番煎じだと推定されていますから、*
当然、その文体の分類も既存の選集のそれを襲っていて、
それは、『文選』からそこまで遡らない時代の産物だと見てよいでしょう。
ただ、分類という作業において、その文体のたどってきた系譜はどこかに反映するはずです。
そのような意味において、詠史詩と遊仙詩との間にある近さ、
すなわち、両者が誕生した場の近さが示唆されているのではないかと考えたのです。

なにはともあれ、まずは作品そのものを精読することです。
曹植作品訳注稿は、公開が滞りがちではあるけれど、停止してはいません。

この訳注作業の中で、曹植の遊仙を詠じた楽府詩を読む際、
その成立背景に宴席という場を想定してみることは無意味ではないように思います。
たとえば、「遠遊篇」にいう、
「大魚若曲陵、承浪相経過(大魚は曲陵の若く、浪を承けて相経過す)」など、
宴会で披露された巨大な動物の出し物、魚龍曼延を彷彿とさせます。

曹植の遊仙楽府詩は、その詠懐的な側面がよく注目されますが、
そのジャンルがもともとどのような場で行われる文芸であったかを踏まえると、
その詩作の意味するところを、一歩踏み込んで理解できるのではないかと考えています。

2021年7月17日

*岡村繁「『文選』編纂の実態と編纂当初の『文選』評価」(『日本中国学会報』第38集、1986年)を参照。

五言遊仙詩の生成過程

こんばんは。

昨日、遊仙詩が、宴席を舞台に誕生したものである可能性を述べました。

漢代の宴席で、神仙に扮した倡優が歌舞劇を繰り広げていたことは、
梁海燕「漢楽府游仙詩的音楽背景考察」の挙げる豊富な文献資料から明らかです。*1

他方、五言詩は宴席を舞台に生成展開してきた文芸ジャンルです。*2

そこで、この両者が、宴席という場で出会って誕生したのが、
遊仙詩というジャンルではないかと考えました。

ここに仮説を述べた五言遊仙詩の生成過程は、
かつて論じたことがある詠史詩のそれと同じ理路をたどっています。*3

ここからは妄想に近い思い付きなのですが、
『文選』巻21において、「詠史」「百一」「遊仙」という細目が続くのは、
もしかしたら、これらのジャンルの出自が近いからではないか、とふと思いました。
そして、その出自とは、先に述べた宴席という場です。
『文選』では、これに先立つ巻20に「公讌」「祖餞」が配せられています。
この配列からも、上述の推論が導き出されるように思います。
(もっとも「百一」は不明です。)

ただ、元来が宴席文芸であったと先に述べた五言詩の祖である古詩が、
『文選』では、ここから少し外れた巻29に「雑詩」という細目で収載されています。
このことは、上述の思い付きとは合致しません。

また、五言詠史詩が、早くも後漢時代にすでに成立していたのに対して、
五言の遊仙詩は、それよりも遅れて登場したこと、
そして、遊仙は五言詩よりも、まず楽府詩で盛んに詠じられこと、
それらの理由が、未解明の問題として残されています。

2021年7月16日

*1『楽府学』第12輯、2015年12月、社会科学文献出版社。
*2 拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)全編で論じました。もっともこれは、広く認知されている考え方ではありません。ただ、このように考えると、これまでばらばらに点在していた諸々の事象が、一連の有機的なつながりをもってそれぞれ所を得ます。そういう意味で、最も合理的な見方ではないかと思っています。
*3 拙論「五言詠史詩の生成経緯」(『六朝学術学会報』第18集、2017年)。こちらの学術論文№42をご覧いただければ幸いです。

上演される神仙

こんばんは。

仙人たちは、書物の中に存在していたばかりではなく、
歌劇のような様態の宴席芸能の中にも登場していたらしく思われます。

後漢の張衡(78―139)の「西京賦」(『文選』巻2)に、
平楽観でくつろぐ皇帝の前で披露された様々な芸能、
角觝(力比べ)、鼎の持ち上げ、旗竿のぼり、ジャグリング、綱渡りなどに続いて、
次のような描写が見えています。

女娥坐而長歌  娥皇と女英は坐って声を長く引いて歌い、
声清暢而蜲蛇  その声は清らかに伸びやかに出でて緩やかな渦を巻く。

洪崖立而指麾  洪崖は立って指揮を取り、
被毛羽之襳襹  軽やかな羽毛の衣装を羽織っている。

ここに描かれている洪崖は、
『文選』李善注が引く薛綜注に「三皇の時の伎人なり」と説明する一方、
葛洪『神仙伝』には、衛叔卿と共に博奕に打ち興じた仙人として記されています。

また、少し時代は下りますが、
西晋の陸機(261―303)の「前緩声歌」(『文選』巻28)にも、
仙人たちの集う、この世ならざる宴の様子を描いた中に、
黄帝の楽師、太容と対を為して、歌を歌う洪崖の姿が次のように見えています。

太容揮高絃  太容は高い調子の絃を奏で、
洪崖発清歌  洪崖は清らかな歌声を発する。

当時の人々にとって仙界は、書物の中に実在するばかりか、
宴という場にリアリティをもって出現するものだったのかもしれません。
そして、遊仙詩というジャンルは、そうした場が生み出したものなのかもしれません。

2021年7月15日

 

 

神仙へのスタンス

こんばんは。

神仙という、私たちから見ればおよそ現実離れした世界のものを、
昔の人々はどのようなスタンスで捉えていたのか、
このことが長らく謎でした。

たとえば、「古詩十九首」其十三(『文選』巻29)に、
「服食求神仙、多為薬所誤」
(服食して神仙を求むるも、多くは薬の誤る所と為る)とあっても、

この詩が成立した後漢時代以降も、神仙を詠じた詩は陸続と作られ続けています。

もしかしたらこういうことだろうか、という示唆を、
魏の嵆康(224―263)の「養生論」(『文選』巻53)から与えられました。
その冒頭近くに、次のようにあります。

夫神仙雖不目見、然記籍所載、前史所伝、較而論之、其有必矣。

そもそも神仙は目に見えないものではあるけれど、
書物に記されているところ、前代の史書に伝わっているところを比較して検討すれば、
それが存在することはたしかだと言える。

書物に記されているということ自体が、存在の確かな根拠となる、と言っています。
それが、この目で知覚できるものよりも優先するのです。

神仙に限らず、たとえば『捜神記』などで、
怪異な出来事を史書として記したりするのはこういうわけなのでしょう。

さて、嵆康は続けてこう言っています。

似特受異気、禀之自然、非積学所能致也。

(神仙は)特に他とは異なる気を受け、これを自然に授けられているのであって、
学問を積んで修得できるというものではないようである。

自身の常識を超えるものに対して、
これを拒絶するのではなく、凡人とは異なる特殊な存在なのだとして呑み込む。
この姿勢は、常識の埒外にあるものはすべて非合理だと退けるある種の現代科学よりも、
むしろよほど「科学的」ではないかとさえ思いました。
自分にとって未知のものに対してオープンでいるという点で。
(むろん科学的なるものを価値評価の基準にしているわけではありません。)

そう思った矢先、この後に次のような言葉が続きます。

至於導養得理、以尽性命、上獲千餘歳、下可数百年、可有之耳。
而世皆不精、故莫能得之。

養生の道を修めて理を体得し、それで寿命を全うして、
長くて千歳あまり、少なくとも数百年の寿命を得るということなら、これはあり得る。
だが、世間の人々はみな専心して励まないので、この長寿を獲得できるものがいないのだ。

こうなってくると、にわかに嵆康が遠い過去に遠ざかっていってしまいます。

それでも、時として清新な言葉がまっすぐこちらに向かってくる、
それを受け止めることができるのは、古典文学を読む醍醐味なのだと思います。

2021年7月14日

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