別れの宴を詠ずる蘇李詩
こんにちは。
鄭振鐸は、その『中国俗文学史』第三章第六節で、
李陵・蘇武の詩(いわゆる蘇李詩)の妙味を次のように評しています。
民歌には別離した相手への思いを表現するものが最も多く、
この二首(『文選』巻29、蘇武「詩四首」其一、其三)のように、
別離の際の情感を描いて、すばらしい出来のものはむしろ非常に少ない。
この指摘にはハッとさせられました。
たしかに、『文選』所収の李陵「与蘇武三首」、蘇武「詩四首」は、
すべて、別れの宴での情感や情景を詠ずるものばかりです。
では、蘇李詩に近いとされる古詩に、そうした内容のものがあったかどうか。
少なくとも、古来別格視されてきた第一古詩群にも、
また、名作の誉れ高き「古詩十九首」(『文選』巻29)にも、*
このような趣旨の作品は認められません。
古詩には、離別の悲しみを詠ずるものが非常に多くあります。
また、宴席に言及するものもたしかにあります。
ですが、別れの宴を詠じたものは、上記の作品群には見当たらないのです。
では、『文選』所収以外の蘇李詩ではどうでしょうか。
このあたりのところから、
蘇李詩の素性を洗い出すことができるかもしれません。
2021年8月27日
*第一古詩群と「古詩十九首」との関係については、こちらの一覧をご覧ください。
個人に属さない知的財産
こんにちは。
昨日、あのようなことを話し始めたのは、
『文選』巻20、曹植「上責躬応詔詩表」の李善注に引くある文献の内容が、
同じ時代の別の人物が著した書物の中にも認められたからです。
それは、「陛下」という語に対する説明です。
李善が引いていたのは、後漢末の応劭の『漢書集解』でした。
『漢書』巻1下・高帝紀下にいう「大王陛下」について、
初唐の顔師古の注が、応劭の解釈を次のとおり引いて説明しています。
陛者、升堂之陛。
王者必有執兵陳於階陛之側。
群臣与至尊言、不敢指斥。
故呼在陛下者而告之。因卑以達尊之意也。
若今称殿下、閣下、侍者、執事、皆此類也。
陛とは、堂に升るための階段である。
王なる者には、必ず兵器を手にして階段の側に居並ぶ者たちがいる。
群臣が至尊なる王に申し上げる場合、敢えて名指しはしない。
わざわざ階段の下にいる者を呼んで、これに告げる。
身分の低い者によって最も尊い存在に取り次いでもらうということだ。
たとえば今、殿下、閣下、侍者、執事と称するようなものは、皆この類である。
ところが、同じ時代の蔡邕も、
その『独断』巻上で、ほとんど同じことを述べています。
陛下者、陛階也。所由升堂也。
天子必有近臣執兵陳於階側、以戒不虞。
謂之陛下者、群臣与天子言、不敢指斥天子。
故呼在陛下者而告之。因卑達尊之意也。上書亦如之。
及群臣士庶相与言曰殿下、閣下、執事之属、皆此類也。
陛下なる者、陛は階なり。由りて堂に升る所なり。
天子には必ず近臣の兵を執りて階の側に陳び、以て不虞を戒むる有り。
之を陛下と謂ふは、群臣の天子に言ふに、敢へて天子を指斥せず。
故(ことさら)に陛下に在る者を呼びて之に告ぐ。
卑(ひく)きに因りて尊に達するの意なり。上書も亦た之の如し。
群臣・士庶に及んで相与(とも)に言ひて殿下、閣下、執事と曰ふの属は、皆此の類なり。
見てのとおり、語句の多くが応劭『漢書』集解と重なっています。
どうしてこのようなことが起こったのでしょうか。
福井重雅氏による『独断』の解題に、
本書は、蔡邕が、自ら師事した胡広の『漢制度』を底本として執筆したもので、
その成立は、本書中の記述から、熹平元年(172)頃と推定される、
との見解が述べられています。*
蔡邕(133―192)の『独断』と、
応劭(?―204以前)の『漢書集解』との前後関係は未詳です。
では、応劭と蔡邕との間に接点はあったのでしょうか。
それとも、いずれかの書物が、成立と同時に人々の間に伝播して、
どちらかが、どちらかの著した書物を目睹することができたのでしょうか。
あるいは、二人がともに参照した書物があるのでしょうか。
前漢中期の司馬遷『史記』から、後漢前期の班固『漢書』へ、
前漢末の劉向「別録」・劉歆「七略」から、班固『漢書』藝文志へ、
といった記事の取り込みは、異なる時代間での継承です。
蔡邕と応劭のように、同じ時代の撰者どうしの場合、
そのほとんど同じ記述は、どのような関係にあると見るのが妥当でしょうか。
当時の著述や、それを記した書物の伝わり方が自分には謎です。
(もしかしたら周知のことなのかもしれませんが。)
知的共有財産という話題からすっかり逸れてしまいました。
2021年8月26日
*福井重雅『訳注西京雑記・独断』(東方書店、2000年)p.199を参照。
知的共有財産と著作権
こんばんは。
前近代の中国において、
ほぼ同じ記述が、別の人の著作に認められることは少なくありません。
今なら著作権に抵触しそうな事柄ですが、
では、彼らにこのような意識がなかったかというと、必ずしもそうではありません。
北斉の顔之推は、その『顔氏家訓』慕賢篇で次のように説いています。
用其言弃其身、古人所恥。
凡有一言一行、取於人者、皆顕称之、不可窃人之美、以為己力。
雖軽雖賤者、必帰功焉。
窃人之財、刑辟之所処、窃人之美、鬼神之所責。
その言葉を用いながら、その本人を無視するのは、古人の恥としたところだ。
およそ言葉ひとつ行いひとつでも、人から得たものであるならば、
そのことをすべて明示し、顕彰すべきであって、
人の美を盗んで、自身の力によるものとしてはならない。
どんなに身分の低い者であろうとも、必ず彼の功績とすべきである。
人の財を盗めば、刑法によって処罰される。
人の美を盗めば、鬼神に責め立てられるであろう。
現代でいう著作権が、多く金銭に絡む問題であるのに対して、
顔之推が言っているのは、人の営為には敬意を払おうというモラルでしょう。
その違いはあっても、ここで顔之推ははっきりと、
人から得た知見や言葉を黙って用いることの非を説いています。
顔之推がこのように説いているということは、
それだけそうした事例があったということの証かもしれません。
そして、案外そうした人々は、そのことを罪だとは思っていない可能性があります。
彼らは、こっそり人の美を盗むという意識ではなくて、
それを特定の誰にも属さない知的共有財産と見ているのかもしれません。
2021年8月25日
曹植の「胡顔」(追記)
こんばんは。
昨日は、曹植の拙速かとさえ思った「胡顔」ですが、
実は彼の腹心であった丁廙の「蔡伯喈女賦」(『藝文類聚』巻30)にも、
次のような表現が見えています。
我羈虜其如昨、経春秋之十二。忍胡顔之重恥、恐終風之我萃。
私が捕虜となったのは昨日のことのようだが、もう十二年の歳月を経た。
どの面下げてとの思いで重ねる恥を忍びつつ、
私を憔悴させる吹きなぶる風が恐ろしい。
「蔡伯喈女」とは、後漢末の大儒、蔡邕のむすめ、蔡琰(字は文姫)です。
彼女は漢末の動乱の中、匈奴に連れ去られ、曹操の尽力によって帰国が叶いました。
丁廙は、同時代の彼女の悲劇を賦作品に著したのです。
この作品のあることを指摘したのは、李詳『顔氏家訓補注』です。*
(この書に附する『北斉書』文苑伝に引く顔之推の「観我生賦」に対する注)
その上で、李詳は次のように論じています。
「終風」と「胡顔」とは対句を為している。
「終風」は、『詩経』邶風の中の一首である。
ならば、『詩経』の中に「胡顔」があってしかるべきだ、と。
たしかに言われてみればそのとおりだと思います。
ただ、昨日も示したとおり、すでに唐代、『詩経』には「胡顔」の語が見えません。
ここから先は、よく見えません。
2021年8月24日
*周法高『顔氏家訓彙注(中央研究院歴史語言研究所専刊之四十一)』(台聯国風出版社、1960年)付録一・144裏、及び王利器『顔氏家訓集解(増補本)』(中華書局、1993年)p.686に引くところによる。李詳の注そのものは未見。
※黄節『曹子建詩註』巻1「責躬詩」附「上責躬応詔詩表」の語釈にも、丁廙「蔡伯喈女賦」を引き、更に『毛詩』小雅「巧言」の鄭箋「顔之厚者、出言虚偽、而不知慙於人(顔の厚き者、言を出すこと虚偽にして、而して人に慙づるを知らず)」を援用して、丁廙と曹植の言うところが同趣旨であることを指摘している。ただし、黄節(1873―1935)と李詳(1858―1931)と、いずれの指摘が先んじるかは未詳。(2021年8月26日追記)
曹植の筆の走り
こんばんは。
今日も曹植「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)を読んでいて、
注釈者たちを困惑させている表現に出会いました。
それは次のような句です。
忍垢苟全、則犯詩人胡顔之譏。
恥を忍んでかりそめの生を全うしては、
詩人がいう「どの面下げて」のそしりを犯すことになる。
「詩人」といえば『詩経』の作者たちを言いますが、
五臣注(呂向)にも言うとおり、『詩経』の中に「胡顔」という語は見えません。*
一方、李善注は、この句に先んじて見える、次の句を指すのだと捉えています。
窃感相鼠之篇、無礼遄死之義。
ひそかに「相鼠」の詩篇にいう「無礼者は速やかに死すべし」の趣旨に感じ入る。
「相鼠」とは、『毛詩』鄘風の中の一篇で、その中に次のようにあります。
相鼠有体、人而無礼 鼠を相(み)るに体有り、人にして礼無し。
人而無礼、胡不遄死 人にして礼無くんば、胡(なん)ぞ遄(はや)く死せざる。
ただ、ここには「胡」はあっても「顔」はありません。
曹植は、「胡顔」という語が『詩経』の中に見えているかのように書いているのですが。
その齟齬を李善は当然わかっていて、
まず、『毛詩』鄘風「相鼠」の句を次のように解釈します。
『毛詩』謂何顔而不速死也。
『毛詩』は、どの面下げて(厚顔にも)速やかに死なないでいるのか、という意味だ。
こう述べた上で、時代は少し下るけれども、
殷仲文「解尚書表」(『文選』巻38)に見える、次のような用例を挙げ、
それが曹植のこの文章の「胡顔之譏」に由来するものだいうことを指摘しています。
臣亦胡顔之厚、可以顕居栄次。
小生はそれでもどの厚顔をぶらさげて、
栄誉ある地位にふんぞり返ることができましょうか。
「胡顔」という語は非常に用例の少ない言葉ではあるのですが、
顔之推の「観我生賦」(『北斉書』巻45・文苑伝)にも、次のとおり見えています。
小臣恥其独死、実有媿於胡顔。
小生はひとり死ぬということを恥じ、
実に、厚顔にも生き長らえることを恥じる思いがありました。
この顔之推が用いた「胡顔」は、明らかに曹植の前掲の辞句を踏まえた表現でしょう。
原典である曹植の言葉は、少し舌足らずなようにも、また些か拙速な感じもするのですが、
(以前に記した「求自試表」の文体とも通じるような感触を覚えます。)
それが後世では、ひとつの古典となっているのでしょうか。
2021年8月23日
*胡克家『文選考異』巻四に、これが三家詩のテキストであった可能性を指摘する。(2021年8月27日追記)
曹植の造語か
こんにちは。
曹植「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)に語釈を付けていて、
少しばかり奇妙なことに気づきました。
目が留まった語釈の対象は、次のような対句です。
昼分而食 真昼になってからやっと食事をし、
夜分而寝 真夜中になってからやっと眠りにつく。
この部分に対して、李善の注は、
『韓非子』十過に見える、次のような文章を引いています。
昔者衛霊公将之晋、至濮水之上、税車而放馬、設舎以宿、夜分而聞鼓新声者。
その昔、衛の霊公が晋に赴こうとして、濮水のほとりまでやって来て、
馬車から馬を解き放ち、宿舎を設けて泊まったところ、
真夜中に新声を奏でる音が聞こえてきた。
この記述の内容が、曹植の文章に踏まえられている、というわけではなくて、
ただ「夜分」という語の用例として挙げられたもののようです。
ところが、片方の「昼分」に対して、李善は何も注していません。
『大漢和辞典』や『漢語大詞典』を引いてみると、
「昼分」の用例として挙げられているのは、曹植のこの文章のみです。
インターネット上のいくつかのデータベースで検索してみても、
やはり、曹植以前に遡ってこの語の用例を確認することはできませんでした。
前掲のとおり、曹植のこの表現は、非常に明瞭な対句です。
「夜分」という語は、『韓非子』に見るとおり、すでに使われていたのでしょう。
「昼分」は、これに対置させた、曹植の造語だったのかもしれません。
ちなみに、西晋の夏侯湛「昆弟誥」(『晋書』巻55・夏侯湛伝)に、
「厥乃昼分而食、夜分而寝(それ乃ち昼分にして食し、夜分にして寝ぬ」という、
曹植の文章にほとんど重なる文面の句が見えます。
「昼分」の用例が、少なくともこの時代、他には見当たらないことや、
夏侯氏一族と曹魏王朝との関わりの深さから考えるに、
夏侯湛のこの表現は、直接、曹植の文章から学んだものなのかもしれません。
2021年8月19日
「行行重行行」の主語
こんばんは。
昨日に続いて、また古詩「行行重行行」の詠じ手について。
(詩の本文と通釈は、こちらをご参照ください。)
この詩の前半が、旅行く男性を主語とするという見方は、
その一句目「行き行きて重ねて行き行く」に由来するのかもしれません。
旅行く男性が、自身の身の上をこのように表現したと見るのは自然な解釈です。
たとえば、「行行」を用いた類似表現として、
従軍の苦しみを歌った曹操の「苦寒行」(『文選』巻27)にいう、
「行行日已遠、人馬同時飢(行き行きて日は已に遠く、人馬は時を同じくして飢う)」、
また、曹植「門有万里客」(『藝文類聚』巻29)にいう、
「行行将復行、去去適西秦(行き行きて将に復た行き、去り去りて西秦に適く)」は、
その主語は遠くへ赴く男性です。
ですが、その一方で次のような例もあります。
まず、「古歩出夏門行」(『文選』巻24・27の李善注に引く)にいう、
「行行復行行、白日薄西山(行き行きて復た行き行き、白日は西山に薄(せま)る)」。
ここにいう「行行復行行」は、人の動作を表現するものではなさそうです。
敢えて言えば、その主語は「白日」でしょうか。
また、後漢の趙曄撰『呉越春秋』巻十・勾践伐呉外伝に記された、
越の国人たちが、呉へ出征する軍士たちを見送った際に歌った別れの歌の中にいう、
「行行各努力兮、於乎、於乎(さあ行け行け、各々がんばれ、ああ、ああ)」。
ここでは、「行行」という語が、残される者から旅立つ者に向けて投げかけられています。
こうしてみると、「行行重行行」という句は、
時間も距離も、情け容赦なく積み重なってゆくさまを言うもので、
必ずしもその主語を、旅する男性と特定しなくてもよいと言えそうです。
2021年8月18日
「君」という呼称
こんばんは。
古詩「行行重行行」に関して、もうひとつ未詳なことを記します。
詩の本文と通釈は、こちらをご参照ください。
この詩の解釈として、
前半八句を、旅行く男性の立場から、
後半八句を、留守を守る女性の立場から詠じたものと見る説があります。*1
これはとても魅力的な捉え方ではあるのですが、
この時代、男性から女性に向けて「君」という呼称が用いられている事例が、
現存する文献資料を見る限り確認できなかったため、
一篇を通して、女性の立場から詠じられたものとして通釈しました。*2
ただ、何しろ自分は文字どおりの管見です。
かの『楚辞』では、君主をあたかも女神のように見立てる例もあるので、
もしかしたら、一般の男性から女性に向けられた呼称にも、
「君」が用いられている例があるかもしれません。
また、唐代に入ってからは、
女性と思しい相手に、「君」と呼びかけている詩の例もあります。*3
すると、漢代すでにそうしたことの萌芽が見えていた可能性も否定できません。
そのようなわけで、
漢魏詩における「君」という呼称については今も待考です。
どなたかご教示をいただけませんか。
2021年8月17日
*1 花房英樹『文選四』(集英社・全釈漢文大系29、1974年)p.222を参照。
*2 拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.130、注(10)に記したとおり。
*3 あるいは、その相手は女性ではなく、男性であった可能性もあります。というのは、唐代の書簡(男性どうしで交わされたもの)では、あたかも恋文を想像させるような表現が常套的に用いられていたので。[論著等とその概要]の[報告・翻訳・書評等]№15をご参照ください。原稿も公開しています。
記憶に残る考察(承前)
こんばんは。
昨日の続きで、古詩「行行重行行」の結び「努力加餐飯」について。
この句の解釈が分かれることについては、
全釈漢文大系『文選四』の当該作品の語釈にもこう記されています。*
この努力うんぬんの句を、相手についていったものと見る説と、
自分についていったものとみる説とがある。今は前者に従う。
鄭振鐸『中国俗文学史』は、
昨日述べたように、ここにいう後者に従っているように見えたのでした。
私はこれを、女性から、遠くを旅する男性への別れの言葉として捉えます。
それは、次のような用例を根拠に考えた結果です。
『史記』巻49・外戚世家(衛皇后)に、
平陽公主が、後宮に入る衛子夫を見送る場面でこう言っています。
「行矣。彊飯。勉之。即貴、無相忘」
(行きなさい。がんばってご飯を食べて。励みなさい。貴人となっても忘れないで。)
『漢書』巻81・匡衡伝には、
辞職しようとする匡衡を、成帝が引き留めようとして、
「強食自愛(がんばってご飯を食べて御身を大切に)」と言っています。
それが、自身にではなく、相手に向けられた言葉であるところが注目されます。
また、古楽府「飲馬長城窟行」(『文選』巻27)に、
遠くを旅する相手から届いた手紙について、こう描写されています。
「上有加餐食、下有長相思」
(上には「しっかりご飯を食べるように」、
下には「いつまでもそなたを思っている」と書いてあった。)
「努力」という語は、別れの場面でよく見かけます。たとえば、
朱穆が劉伯宗に宛てた絶交の詩(『後漢書』巻43・朱穆伝の李賢等注に引く)に、
「永従此訣、各自努力(もはやここまで。それぞれにがんばろう、お元気で)」とあり、
『文選』巻29所収の李陵「与蘇武詩三首」其三にも、
「努力崇明徳、皓首以為期(努力して明徳を崇めよ。白髪頭でまた会おう)」、
同じく蘇武「詩四首」其三にも、
「努力愛春華、莫忘歓楽時(努力して春華を愛せよ。歓楽の時を忘るるなかれ」とあります。
こうしてみると、「努力して」「餐食を加えよ」と結ぶ古詩の句は、
孤閨を守る女性から、帰ってこない夫に向けられた別れの言葉と見るのが妥当と考えました。
2021年8月16日
*花房英樹『文選四』(集英社・全釈漢文大系29、1974年)p.224を参照。
記憶に残る考察
こんにちは。
先週は、昨年いちど形にした論文の書き直しに没頭していました。
さる学術雑誌に投稿したけれど、不採択になったものです。
別の学会で口頭発表することになったので、抜本的に見直してみたところ、
これがとても論じにくい問題であることを痛感させられました。
結論には、今でも改めるべき点はないと考えていますし、
論拠も自分としては十分に挙げたつもりですが、
それをどのような構成で示せばわかってもらえるか、それが難しい。
再考の機会を得て、実に幸運だと思います。
これまでにも、同じような難しさに遭遇したことがあります。
たとえば、「曹植「贈丁儀」詩小考」(こちらの学術論文№34)などは、
今でも、あの時の結論はあれで本当によかったのかと、思い起こしては考えます。
その、何か釈然としない感じが、その後の別の考察と結びつき、
そこから曹植の新たな側面が見えてきたりもしますので、
自分の鈍さや試行錯誤も役に立ちます。
さて、鄭振鐸『中国俗文学史』の翻訳をしていて、
「古詩十九首」(『文選』巻29)其一「行行重行行」に再会し、
その結句「努力加餐飯」の前でハタと立ち止まりました。
その文章の流れから見て、鄭振鐸はおそらく、
「がんばってご飯を食べる」のは女性だと捉えているようです。
一方、自分は以前、これを女性から男性への別れの言葉として訳しました。*
そう訳すに当たって、かなり考察を重ねた記憶があったので、
昔のノートを出して確認してみました。
するとやっぱり、そう判断するに至った根拠が書いてありました。
その具体的な内容は、明日に回します。
2021年8月15日
*こちらをご覧ください。拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)から、第一古詩群(別格扱いの古詩群)の通釈を抜き書きしています。第一古詩群については、こちらをご参照いただければ幸いです。