独り言のような
こんばんは。
本日、曹植「情詩」の訳注稿を公開しました。
ご覧のとおり、読んでも釈然としない感じの残る詩です。
また、昨日の雑記の末尾に、
曹植の『詩経』解釈が韓詩に拠っていたことを明示する資料を付記しました。
こちらは、このことを突き止めることができてすっきりしました。
一日にできることは限られていて、そのあまりの少なさに驚くほどですが、
全力を尽くしていればそれでよしとすることにします。
むしろ全力を尽くせるように心身を整えます。
共同研究の意義深さも楽しさも知っているつもりですが、
今は自分で考察を掘り下げる時期だと思っています。
それがないと、人と協力することもできないはずだと信じて、
よそ見をしないで自分の研究に取り組みます。
2020年7月3日
曹植の読んだ『詩経』
こんばんは。
以前、こちらで言及したことのある四種類の『詩経』、
曹植はこのうちの韓詩に拠ったとされていることは先にも述べましたが、
本日、その明らかな事例に行き当たったのでメモをしておきます。
(なお、このことは黄節『曹子建詩註』巻1がすでに指摘しています。)
それは、「令禽悪鳥論」(丁晏『曹集詮評』巻9)という作品で、
この中に、『詩経』王風「黍離」について、次のような言及が見えています。
昔尹吉甫用後妻之讒、而殺孝子伯奇。
其弟伯封求而不得、作黍離之詩。
その昔、尹吉甫が後妻の讒言を取り上げて、孝子の伯奇を殺した。
その弟の伯封は求めて得られず、黍離の詩を作った。*
この1行目のエピソードの方はよく知られていて、
たとえば『琴操』巻上「履霜操」などにその詳細を見ることができます。
ですが、肝心の2行目、伯封の事績についてはよくわかりません。
彼は尹吉甫の後妻の子とされていて、兄思いの人という人物像ではなさそうですが。
ともかくも、曹植はこのように記していて、
「黍離」という詩に対するこのような捉え方は、
前述の三家詩のうちの、韓詩の説なのだということです。*
(王先謙『詩三家義集疏』巻4を参照。)
さて、曹植「情詩」は、この『詩経』王風「黍離」を次のように引用します。
遊子歎黍離 旅ゆく者は嘆きつつ「黍離」の詩を詠じ、
処者歌式微 家で待つ者は「式微」(『詩経』邶風)の詩を歌う。
前述のことを指摘する黄節は、それに依拠して更に説を展開し、
曹植のこの詩は、兄の曹彰が亡くなったことを悼む趣旨で作られたものであり、
その成立は、「贈白馬王彪」詩とほぼ同時期だと推定しています。
もしそうであるならば面白いですが、本当にそう見ることができるか。
「情詩」を構成する他の部分との関わりの中で、前掲の対句も捉えなければと思います。
2020年7月2日
* 曹植の記述が韓詩に基づくことは、趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)、清・馬国翰『玉函山房輯佚書』の手引きにより、以下の文献から確認できた。『太平御覧』巻469に引く『韓詩』に「黍離、伯封作也。彼黍離離、彼稷之苗。離離黍貌也。詩人求亡不得、憂懣不識於物、視黍離離然、憂甚之時、反以為稷之苗、乃自知憂之甚也(黍離は、伯封の作なり。彼の黍離離たり、彼の稷之れ苗なり、と。離離とは黍の貌なり。詩人は亡を求めて得ず、憂懣もて物を識せず、黍の離離然たるを視て、憂ひの甚しきの時、反って以て稷の苗と為し、乃ち自ら憂ひの甚しきを知るなり)」、また、『太平御覧』巻842に引く『韓詩外伝』薛君注に「詩人求己兄不得、憂不識物、視彼黍乃以為稷(詩人は己が兄を求めて得られず、憂ひもて物を識せず、彼の黍を視て乃ち以て稷と為す)」と。(2020.07.03、2020.07.05)
「人虎伝」の読みを巡って
こんばんは。
ある授業で取り上げた中島敦「山月記」に関して、
そのもととなった李景亮「人虎伝」*1を読んでいてふと立ち止まりました。
それは、李徴が虎になった理由を示しているとされている部分です。
李徴には、かつてひそかに通じていた寡婦がいた。
そのことを彼女の家族に知られ、二人の間を邪魔されたので、
彼は風に乗じて火を放ち、一家数人、一網打尽に焼き殺して立ち去った。
これが原因で、つまり因果応報により李徴は虎と化した、
という捉え方が一般になされています。*2
ですが、この解釈は果たして妥当でしょうか。
というのは、上述のくだりは次のような文脈の中に置かれているからです。
まず、袁傪が吏員に書き取らせた李徴の詩が次のように示されます。
偶因狂疾成殊類 たまたま狂疾によって異類のものとなった
災患相仍不可逃 災患が次々に押し寄せて逃れることができなかったのだ
今日爪牙誰敢敵 今日 この爪牙に誰が敢えて歯向かうだろう
当時声跡共相高 あの頃 名声も足跡も 二人ともに高かったというのに
我為異物蓬茅下 我は 蓬茅の茂る草原に異類のものと為り果てて
君已乗軺気勢豪 君は 立派な車に乗る高官となって威風堂々たる勢いだ
此夕渓山対明月 この夕べ 山中の渓谷で明るく輝く月と向き合う
不成長嘯但成嘷 長く嘯(うそぶ)く声にはならず ただ咆哮の声となるばかりだ
この後に、次のような記述が続きます。
傪覧之驚曰、君之才行、我知之矣、而君至於此者、君平生得無有自恨乎。
袁傪はこの詩を読んで驚いて言った。
「君の才能と徳行は、私がよく知っている。
そんな君がここまで切迫した言葉を連ねようとは、
君はその昔、きっと自らへの痛恨を抱え込むようなことがあったのではないか。」
これに対する李徴(虎)の答えの中に、
自分には陰陽二気の万物生成の仕組みはわからないが、
もし「自恨」を自身の中に探ってみるならば、この出来事であろうか、
として告白されるのが、先に述べた、寡婦との私通と、その家族の焼殺です。
ということは、件の出来事は、李徴が虎になった理由ではなく、
直接的には、彼の作った詩が異様なまでの緊迫感を持っていた理由である、
ということになると思うのですが、いかがでしょうか。
いや、やっぱり違いますね。
「至於此」は、虎と化すような境遇にまで至ったのは、と読むべきなのでしょう。
ただ、袁傪はとっくに李徴が虎となったことを了解しているのに、
今更なぜここで驚愕しているのか、不可解です。
この点、中島敦の「山月記」はしっくりと腑に落ちます。
2020年7月1日
*1『国訳漢文大成(文学部第十二巻)晋唐小説』所収のものに依った。
*2 坂口三樹「「李徴」の転生:「人虎伝」との比較から見た「山月記」の近代性」(『中国文化』65、2007)に、従来の先行研究を概括してこう記す。
素人教員の困惑
こんばんは。
今日から第2クォーターの大学基礎セミナーⅡが始まりました。
再編統合により設けられた地域創生学部ならではの内容で、
地域課題を解決できる力の育成を目標とするものです。
学生たちは、グループワークにはわりと慣れているようで、
さっそく活発にチャットで話し合いを始めていました。
ただ、少々心配になった点があります。
それは、問題をすぐに解決できる、と思っているふしがあることです。
(若者らしい万能感ですね。それ自体はいつの時代にもあったことでしょう。)
昨今、ニュースなどでもよく、学生のアイデアで地域課題を解決、などと目にしますが、
それには、報道はされない、相当な準備や試行錯誤があったはずです。
座学ならば、私はしばらくそのまま見ています。
いずれ、問題意識には適切なサイズというものがあるとわかるので。
自分でわからない限り、人に言われて修正しても自身の血肉にはなりませんから。
困ったなと思っているのは、
地域課題解決を掲げた学修だと、直に地域の方々に関わる可能性も出てくることです。
基礎セミナーの段階でも、いきなり行動に移す学生がいないとも限りません。
以前、こうした分野を専門とする同僚から、
事前にそのあたりの教育は十分にするのだとお聞きしたことがあります。
そのような素養を持たない学生が、地域の課題を解決することは不可能でしょう。
まず、出向いた先の方々と信頼関係を築くことが大前提としてあるはずです。
来週の授業では、このことをきちんと言っておこうと思います。
古典を学べば、自分を超えるスケールのものに向き合うことになりますので、
自分の思い上がりや視野の狭さが自ずから見えてくるのですが。
昨今の趨勢では、そうした学びは敬遠されがちです。
2020年6月30日
元白応酬詩札記(4)
こんにちは。
元稹「酬楽天八月十五夜禁中独直玩月見寄」に、
白居易から贈られた詩が、「瞥然」として寄せられた「塵念」と表現されていました。
(昨日2020.06.28の雑記)
何意枚皋正承詔、瞥然塵念到江陰。
何ぞ意(おも)はんや 枚皋 正に詔を承りしとき、瞥然たる塵念 江陰に到らんとは。
このような句を含む元稹からの応酬詩を、白居易はどう受け止めたのでしょうか。
二人の間でこのような詩の応酬が為されたのは、元稹が江陵に左遷された元和五年(810)、
その七年後、白居易が江州に左遷されてから二年後に当たる元和十二年(817)、
この語がほとんどそのままのかたちで、
今度は、白居易から元稹に寄せられた書簡の中に現れます。
「与微之書」(『白氏文集』巻28、1489)に、こう見えているのがそれです。
平生故人、去我万里。瞥然塵念、此際暫生。*
往年からの友人は、私から万里も離れたところにいる。
ちらりとひらめいた世俗的な思いが、このときしばし私の中に生じた。
この書簡は、次のように書き始められます(冒頭の日付などは省略)。
微之、微之、不見足下面、已三年矣。不得足下書、欲二年矣。
微之(元稹の字)よ、微之よ、君の顔が見えなくなってもう三年、
君から書簡が貰えなくなってから、まもなく二年になろうとしている。
どんなに相手を思慕しているかがしのばれます。
続けて、白居易は自身の江州での安らかな暮らしぶりを綴ります。
便りがないのを、君が心配しているだろうから、と。
そして、書簡に封をするときの情景を記した後で、
前掲の句が現れ、さらに続けて三韻六句から成る詩が綴られています。
白居易のこの書簡に引かれた「瞥然塵念」は、明らかに元稹の詩を意識しています。
では、白居易はどのような思いから、かの辞句を引用したのでしょうか。
このことについて、少し丁寧に考えてみたいと思います。
2020年6月29日
*岡村繁訳注『白氏文集 五(新釈漢文大系)』(明治書院、2004年)p.439に、「塵念」の用例として前掲の元稹詩を引く。ただ、その語句が共有されていることの意味については言及されていない。
元白応酬詩札記(3)
こんにちは。
元白応酬詩札記(2)で取り上げたことの続きです。
「江楼月」をめぐる元稹との約束を覚えていて、
左遷された彼にいち早く自分から詩を送った白居易でしたが、
この白居易詩に対する元稹の反応は、かなり屈折を感じさせるものでした。
その「酬楽天八月十五夜禁中独直玩月見寄」(『元氏長慶集』巻17)にこう詠じています。
一年秋半月偏深 一年の中でも秋の半ばとなると、月はとりわけ空の奥まったところに懸かる。
況就煙霄極賞心 まして靄にかすむ空に月を愛でようとすれば、その見えにくさときたら…。
金鳳台前波漾漾 金の鳳凰のごとき高楼の前には、波立つ水面がゆらゆらと揺れ動き、
玉鉤簾下影沈沈 玉の鉤で巻き上げた簾の下には、月影が靄の向こうに深々と沈んで見える。
宴移明処清蘭路 (大明宮では)宴席が明るい場所に移されて、香しい蘭の道は清められ、
歌待新詞促翰林 翰林院に詰める文人たちに、新しい歌詩を求める仰せが下っているのだろう。
何意枚皋正承詔 まったく思いがけなくも、枚皋殿はちょうどその仰せを承ったとき、
瞥然塵念到江陰 ちらりと俗念を生じて、長江のほとりにいる者にまで思いを馳せてくださった。
1・2句目は、白居易詩の結び「猶恐清光不同見、江陵卑湿足秋陰」に対する答えでしょう。
この句の中に、元稹の強がりを読み取った学生もいました。
3句目の「金鳳台」は未詳です。
先行研究は、宮中の鳳凰池(中書省をも意味する)の傍に立つ高楼と注していますが、*
これに従って、この句を白居易のいる宮中の情景だと捉えると、
前の句とのつながりが薄れ、詩全体の重心が大きく宮中の情景の方へ傾きます。
そこで、ここは元稹のいる側の風景ではないかと考えたのですが、いかがでしょうか。
後半の4句は、一転して白居易のいる大明宮の様子を思い描きます。
「清蘭路」という辞句は、『文選』巻13、謝荘「月賦」にそのまま見え、
これを踏まえて、白居易が勤務する大明宮中で、宴席が準備されることと解釈されます。
奇妙に感じられるのは、結びの部分です。
「枚皋」は、この文脈からすれば当然白居易を指すでしょう。
ところが、この枚皋という文人は、それほど褒められた人物だとは言えません。
自ら枚乗(前漢初期の代表的文人)の子だと名乗って宮中に召され、
その作風は軽薄かつ拙速であったといいます(『漢書』巻51)。
元稹はなぜそんな人物に白居易をなぞらえたのでしょう。
「清蘭路」を踏まえた流れからすると、たとえば王粲でもよかったのに。
皇帝に仕える者でなければならなかったからだとしても、枚皋とは解せません。
また、「塵念」とは、白居易から元稹に向けられた思いを指すはずですが、
それがなぜ、俗塵にまみれた想念と表現されたのでしょうか。
しかも、その自分に向けられた想念は「瞥然」、つまりちらりと生じたものです。
ひたすら自分だけに向けられた思いではない、とでも言いたげです。
宮中での華やかな宴のなかで、ついでのように自分を思い出してくれた。
清らかな宮中とは別世界にいる自分に向けられたその思いは、
俗塵にまみれた自分に向けられたものである以上、俗念と言わざるを得ない。
白居易の詩を受け取った元稹は、白居易の思いとは裏腹に、このように感じたようです。
2020年6月28日
*楊軍『元稹集編年箋注(詩歌巻)』(三秦出版社、2002年)p.336、周相録『元稹集校注』(上海古籍出版社、2011年)p.547、呉偉斌輯佚編年箋注『新編元稹集』(三秦出版社、2015年)p.2381を参照(2020.06.29確認)。
献詩と雑詩
おはようございます。
先日(2020.06.14)、曹植「雑詩」に詠じられた呉への出征に対する意欲は、
同時期の作「責躬詩」と併せ読むことにより、罪を償うためだと見られることを記しました。
ですが、むしろこれは逆なのではないかと今は考えています。
蜀の劉備が亡くなり、呉の版図が西方に向けて拡大していた魏の黄初四年(223)、
曹植の意識が南方の呉楚へ向かっていたことは間違いなく、
それを詩に詠じたのも当然と言えます。
ただ、「責躬詩」は、それを黄初二年にしでかしたことへの罪滅ぼしとして詠じ、
「雑詩六首」其五・其六は、自らの強い意志として詠っています。
その根本にあるのは、魏王朝の一員として働きを為したいという希求でしょう。
では、「責躬詩」という献詩と「雑詩」と、いずれの表現が作者の衷心により近いのか。
それは言うまでもありません。
献詩には、具体的な宛先があります。
それも、権力を持った、社会的に上位に立つ者です。
そうした者に対して、自らを低い位置に置いて贖罪の趣旨を前面に出したのが「責躬詩」。
他方、「雑詩」にはそのような相手はいません。
ただし、それを誰が読んで(聴いて)、どう解釈するかは未知数です。
であるがゆえに、直接的な言葉は避けて、既存の歌辞や詩句に託して表現したのでしょう。
建安文壇は、漢代宴席文芸の延長線上に位置づけられます。
そうした建安の五言詩や楽府詩に、漢代の古詩・古楽府が流れ込むのは自然の趨勢です。
両者は、その生成展開の場が、同じ宴席という社交空間なのですから。
ところが、曹植「雑詩」における漢代詩歌の援用は、上述のようにその理由が違います。
ここに、漢代の古詩・古楽府を用いるということが持つ、意味の変質を認めることができそうです。
2020年6月27日
再び黄初四年の曹植
こんばんは。
このところ行ったり来たりしている黄初四年の間ですが、
五月に鄄城王として上京し、七月に同国へ帰国(「贈白馬王彪」序文)、
その後に雍丘王に移されたと見られます。
(訳注稿[04-05-5 雑詩 六首(5)]では根拠を示していませんでした。)
伊藤正文『曹植』や張可礼『三曹年譜』は、*
朱緒曾『曹集考異』(巻5「応詔詩」下の記述)を援用しつつ、夙にこの説を取っています。
「責躬詩」に、王爵が加えられたことは記されているが、
他の国へ移されたことの記述は見えない、
これが朱緒曾説の主な根拠です。
これに加えて、次のような点からも、如上の説の妥当性を後押しできるように思います。
『三国志』巻19「陳思王植伝」に、こう記されています。
四年、徙封雍丘王。其年、朝京都。上疏曰、……
黄初四年、雍丘王に移された。その年、都で文帝に謁見した。その上疏に言うところでは、……
そして、その上疏(『文選』巻20には「上責躬応詔詩表」として収載)、
及び「責躬詩」「応詔詩」(『文選』同上にはこの題名で収載)を全文引いた後に、
次のような文章が続きます。
帝嘉其辞義、優詔答勉之。
文帝はその上疏及び二首の詩の言葉と内容を褒め、優遇の詔で答えて彼を励ました。
六年、帝東征、還過雍丘、幸植宮、増戸五百。
黄初六年、文帝は東方の呉へ出征し、帰還するとき雍丘に立ち寄り、
曹植の宮殿に行幸して五百戸を加増した。
このような記述の流れからすると、
陳寿は、黄初四年に曹植が雍丘王に移されたことを示した後、
この出来事のきっかけとなった彼の詩文と、
それが文帝曹丕の心情に及ぼした影響を記したのだと見ることができそうです。
もしそうだとすれば、朱緒曾のいうとおり、
この年の秋から冬、曹植は鄄城から雍丘に移されたということになるでしょう。
上述のとおり、都洛陽から帰国したのは七月でしたから。
更に言えば、雍丘は、呉楚へ向かう上で、鄄城よりも地の利があって、
この地に移されたのは、曹植の思いに応える趣旨のものであったのかもしれません。
「責躬詩」や「雑詩六首」其五、其六に呉討伐への意欲が詠じられていること、
そして、二年後、文帝が東方征伐からの帰りに雍丘へ立ち寄っていることからすれば、
そう推測することも許されるのではないかと思いました。
2020年6月26日
*伊藤正文『曹植(中国詩人選集)』(岩波書店、1958年)、張可礼『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)。
要再考ばかり
こんばんは。
先日、黄初四年の曹植として、
「洛神賦」(『文選』巻19)の序にいう「黄初三年」は、
実は「黄初四年」である可能性が高いことを、李善注を援用しつつ述べました。
ところが、やはり「黄初三年」で正しいのかもしれないと思えてきました。
というのは、「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)の初めに次のような記述が見えているからです。
臣自抱釁帰藩、刻肌刻骨、追思罪戻、昼分而食、夜分而寝。……
臣(わたくし)は罪を抱いて国に帰ってから、
肌に刻み骨に刻んで、自分の犯した罪を思い起こし、
昼も半ばになってから食事をとり、夜も半ばになってから就寝するという有様でした。……
そして、この上表文の終わりの方には、
思いがけず詔が下されて朝廷に参内する機会が与えられたこと、
そして、今はまだ皇帝に謁見することができずにいることが述べられています。
この上表文が黄初四年に作られたことは間違いないので、
先に挙げた冒頭の「釁を抱きて藩に帰る」とは、それ以前のこととなります。
曹植は黄初四年よりも前に、上京して罪状を申し渡されるようなことがあったということでしょう。
それが、「洛神賦」の序に刻まれた時と重なるのかもしれません。
なんだか訂正ばかりしているような気がしますが、
すぐには読めないし、適切な判断ができないのだから仕方がありません。
ともかく、曹植の全作品を読み通したいと思います。
そうすれば、作品相互の連関性から事実が自ずから立ち上がってくるはずです。
2020年6月25日
中島敦のこと
こんばんは。
私は中島敦の小説がとても好きです。
ある授業の中で、彼の生涯に触れる必要があって年表を作成したのですが、
あらためて、その小説家としての活動期間があまりにも短いことに愕然としました。
もちろん、それまでにも一部の草稿は書かれているのですが、
小説を書くということに専念したのは、彼が三十三歳で亡くなる最後の一年間だけです。
中島敦は、二十代の半ばを、横浜高等女学校の教諭として過ごしていますが、
その間の仕事ぶりは至って真面目であるように私には見えました。
国語、英語、地理、歴史の授業を1週間に23時間担当し、
修学旅行や課外活動の引率も引き受けています。*
あれほどの小説を書いた人が、なぜもっと早く執筆に専念しなかったのか。
そのわけは、遺稿エッセイ「章魚木の下で」から掬い上げることができるように思います。
彼はこの短い文章の中で、次のようなことを書いています。(改行はこちらで加えた)
国民の一人として忠実に活きて行く中に、
もし自分が文学者なら其の中に何か作品が自然に出来るだろう。
しかし出来なくても一向差支えない。
一人の人間が作家になろうとなるまいと、そんなことは此の際大した問題ではない。
(文学を見縊っているのではなくて、という趣旨の文の後に)
却って文学を高い所に置いているが故に、
此の世界に於ける代用品の存在を許したくないだけのことである。
食料や衣服と違って代用品はいらない。
出来なければ出来ないで、ほんものの出来る迄待つほかは無いと思う。
章魚木の島で暮らしていた時戦争と文学とを可笑しい程截然と区別していたのは、
「自分が何か実際の役に立ちたい願い」と、
「文学をポスター的実用に供したくない気持」とが頑固に素朴に対立していたからである。
戦時中であるだけに、今から見れば偏った表現がなくもないのですが、
エゴイズムの対極に位置するようなこうした考え方を、私はとても美しいと感じます。
(読めばわかるとおり、お国のために滅私奉公をせよ、と主張する文章ではありません。)
そして、こう感じるのは、自分が中国古典に近しい現代人だからだろうと思います。
2020年6月24日
*勝又浩「中島敦年譜」(『中島敦全集3』ちくま文庫、1993年)を参照。