曹丕の仏頂面

こんばんは。

鄄城(山東省)から雍丘(河南省)に国替えされた黄初4年の曹植、
彼はこの年、兄の曹彰や弟の曹彪とともに都洛陽に呼び寄せられました。
(「贈白馬王彪」詩の序文)

思いがけなく許された上京でしたが、
この時の曹植は、手放しで喜べるような状態にはなかったようです。
『三国志』巻19「陳思王植伝」の裴松之注に引く『魏略』が、
次のような内容のエピソードを伝えています。

曹植は、黄初2年にしでかした罪(皇帝の使者に対する狼藉)への自責の念から、
姉の清河長公主を介して文帝(兄の曹丕)に謝罪したいと考えた。
これを伝え聞いた文帝は、人を遣って出迎えさせたが、出会えなかった。
卞太后(曹丕・曹植の母)は曹植が自殺したのだと思って、文帝に向かって泣いた。
そこへ、曹植が頭をむき出しにし、斬首の道具を背負い、裸足で宮城に到着したので、
文帝と太后はやっと安堵して喜んだ。
会見の段になると、文帝はなお厳めしい顔つきで黙り込み、曹植に冠や屣を着けさせなかった。
曹植はひれ伏して涙を流し、太后はために不機嫌になった。
詔勅により王服に戻ることが許された。

ここには、皇族というよりも、曹家の家庭内の様子が垣間見えるようで、
特に興味深いのが、長男の曹丕の態度です。

まず、弟がやってくると聞くと、これを出迎えようとします。
出会えなかったので、おそらくその母と同じく非常に不安になったのでしょう。
だからこそ、その姿を見て喜んだのに違いありません。
ところが対面すると仏頂面です。

ほんとうは弟に対して自然な愛情を持っているのに、
皇帝という立場を意識しすぎるあまり、重々しい態度を取ってしまっているようです。

なお、これを記す『魏略』という書物は、信頼性の高い同時代資料です。
(よかったら、2019年7月9日の雑記をご覧ください。)

2020年6月17日

黄初四年の曹植

こんばんは。

昨日、曹植の「雑詩六首」其五について、
黄初四年(223)に成った「責躬詩」「贈白馬王彪」との関連性に触れ、
あわせて、その前年の作として「洛神賦」にも言及しました。
ですが、これはおそらく誤りで、この賦もまた黄初四年の作であるようです。

『文選』巻19所収の「洛神賦」は、その序文にこう言います。

黄初三年、余朝京師、還済洛川。……
黄初三年、私は都で皇帝に謁見し、封地に帰るのに洛水を渡ろうとした。……

ところが、その本文の冒頭に付けられた李善注が、こう指摘しています。

黄初三年、曹植は鄄城王となり、四年、雍丘に国替えされた。その年、都で皇帝に謁見した。
他方、『三国志』文帝紀に、黄初三年、文帝が許に行幸し、四年三月、洛陽宮に帰還したことを記す。……
『三国志(魏志)』及び諸々の詩はみな、四年に皇帝に謁見したと記す。
この「洛神賦」の序文に「三年」というのは誤りである。

「黄初三年」という辞句の下に特段の注記がないものだから、
この文面どおりなのだろうと思っていたところが、
そのすぐ三行後にこんな注があったとは。
李善は別に、三国の時代が専門だというわけではないのに、
恐るべき記憶力と洞察力です。

なにはともあれ、黄初四年という年は曹植にとって、
いくつもの出来事が重なって生起した時期であったと知られます。

「雑詩六首」が同時期の連作詩であると証明できれば面白い。
この時期の曹植が、暗喩で何を表現しようとしたか、明らかにできるかもしれません。
それは、明帝が即位して以降の彼とはかなり違っているはずです。

2020年6月16日

 

 

東方への道とは

こんばんは。

昨日述べたことの続きです。

曹植「雑詩六首」其五に詠じられた出征への意欲は、
彼の「責躬詩」に詠じられたところと重なる、
つまり、贖罪としての出征志願である、
という推定を昨日述べましたが、
その一番の決め手は、「雑詩」其五の次の句です。

将騁万里途  これから万里の道を馳せていこう。
東路安足由  東方へ向かう道など行く価値はない。

この「東路」について、
私は当初、海沿いを江東(長江下流域)の呉に向かう道なのかと捉えていました。
ですが、そうすると、続く「安足由」という言い方と、呉への出征意欲とが矛盾します。
そこは、「東方を経由する道」ではない、別ルートで呉へ行くのだろうと空想していたのです。

したところが、黄節の次の指摘で目が覚めました。
黄初四年(223)の作である「贈白馬王彪」詩(『文選』巻24)に、
洛陽から任地の鄄城に帰国することを詠じて、
「怨彼東路長(彼の東路の長きを怨む)」とある、という指摘です。*

その前年の作である「洛神賦」(『文選』巻19)にも
「命僕夫而就駕、吾将帰乎東路(僕夫に命じて駕に就かしめ、吾は将に東路に帰らんとす)」と、
洛陽から封地の鄄城へ帰る道を指して「東路」と言っています。

こうみてくると、「雑詩」其五にいう「東路安足由」の意味はもう明らかでしょう。
本詩を単独で見ていたのでは、その真意へはたどり着けませんでした。

「雑詩」其五、「贈白馬王彪」詩、「責躬詩」は同時期の作で、
これらの作品を互いに照らし合わせながら読む必要があるということです。

2020年6月15日

*黄節『曹子建詩註』巻1を参照。

贖罪としての出征志願

こんばんは。

本日、曹植「雑詩六首」其五の訳注稿を公開しました。
この詩には、呉への征伐に加わりたいという意欲が高い調子で詠じられていますが、
それがどこまで彼の内発的な望みなのかは保留が付くように思います。
というのは、こういう理由からです。

まず、彼の「責躬詩」(『文選』巻20)に次のような辞句が見えています。

常懼顛沛  いつも不安でならないのは、つまづいて倒れ、
抱罪黄壚  罪を抱いたまま、黄泉の国まで行くことになるのかということだ。
願蒙矢石  いっそ戦場で弓矢や石を身に受けて、
建旗東岳  魏の旗を、呉との境界にある山に打ち立てたい。
庶立毫氂  願わくは、ささやかな戦功を立てて、
微功自贖  わずかな力を尽くして働いて、自らの罪を贖いたい。
危躯授命  身の危険をも顧みずに一命を投げ出して、
知足免戻  そうしてこそ罪から逃れることができると悟った。
甘赴江湘  よろこんで長江や湘水の流れる南方に赴き、
奮戈呉越  戈を振るって呉越を平らげたい。

曹植は自らの罪を償うために、呉への出征を申し出ていると読み取れますが、
このことは、その上表文(『文選』同巻所収「上責躬応詔詩表」)に、

本詩は文帝曹丕に対する詫び状として作られた旨を記していることとも符合します。

さて、「責躬詩」等一連の作品は、『三国志』巻19「陳思王植伝」にも引かれており、
その記述から、本作品の成立が黄初四年(223)であったと知られます。

他方、『文選』李善注は、「雑詩六首」のすべてについて、
「別京已後、在鄄城思郷而作(京に別れて已後、鄄城に在りて郷を思ひて作る)」と注し、
つまり、「雑詩六首」を黄初四年の作だと見なしていました(巻29)。

李善は、詩の内容から総合的にこう判断したのか、
それとも、何らかの根拠があってこう注記したのかは不明ですが、
もし、彼のこの注釈が妥当であるならば、
「雑詩六首」其五に詠われた呉への出征に対する意欲は、
「責躬詩」に詠われたそれと重なることになり、

それはつまり、贖罪のための申出であったということになるでしょう。

2020年6月14日

魏が任命した呉王

こんばんは。

曹植が「雑詩六首」其一同其四(『文選』巻29)で詠じた人物は、
当時呉王であった曹彪である可能性が高い、との推定を授業の中で述べたところ、
2020年6月6日5月13日の記事もご参照ください。)

受講生(院生一名の授業)から、このような内容の質問を受けました。

当時、呉の地には孫権がいた。
呉王曹彪というのは、現在で言えばどの土地の王だったのか。

言われてみればたしかに。
それで、中央研究院漢籍電子文献資料庫で、
『三国志』に出てくる「呉王」にすべて当たってみました。

すると、圧倒的に多数を占めていたのは、
黄初二年(221)、魏の文帝曹丕から呉王に封ぜられた孫権のことでした。

ここで注目しておきたいのは、
孫権に呉王の位を授けたのは、魏の皇帝だということです。
魏王曹丕は、220年、後漢王朝から禅譲を受けて、魏の文帝として即位しました。
(それまでの曹丕は、後漢王朝から魏国に封ぜられていた王に過ぎません。)

だから、魏の文帝曹丕にはこうした任命権があるということでしょう。
すると、曹彪を呉王に封じたのは、孫権を呉王に封じたのと地続きのことだと捉えられます。

『三国志』巻20「武文世王公伝(楚王彪)」にはこうあります。

楚王彪字朱虎。建安二十一年、封寿春侯。黄初二年、進爵、徙封汝陽公。
三年、封弋陽王、其年徙封呉王、五年、改封寿春県。
七年、徙封白馬。
太和五年冬、朝京都。六年、改封楚。

楚王彪、字は朱虎。建安二十一年(216)、(後漢王朝から)寿春侯に封ぜられた。
黄初二年(221)、爵位を進められ、汝陽公に封地を移された。
三年、弋陽王に封ぜられ、同年、呉王に封地を移され、五年、封地を寿春県に改められた。
七年(文帝が崩御した226年)、白馬に封地を移された。
太和五年(231)冬、都の洛陽で(明帝に)謁見した。六年、封地を楚に改められた。

前掲の「雑詩六首」其一、其四は、
「贈白馬王彪」詩の成った黄初四年(223)からそれほど隔たらない時期の作だと推定されます。
そして、その成立年代の推定が妥当であるならば、この時期たしかに曹彪は呉王です。

では、曹彪が王として赴いたのは、具体的にどこだったのでしょうか。
譚其驤主編『中国歴史地図集』*を見てみても、それを明確に探し当てることはできませんでした。
当時は今と違って、国境線がきっちりと引かれているわけではなかったので、
孫権が力を持っている地域一帯の、あるいは隣接する地域のどこかだったのでしょう。

前年の黄初二年に、孫権が呉王に封ぜられていますから、
呉王に任命された曹彪は、孫呉に対する防波堤、文字通りの藩としてでしょう。
そうした境遇であればこそ、曹植は彼のことを心配し、思いを寄せたのだと想像されます。

2020年6月13日

*譚其驤主編『中国歴史地図集 三国・西晋時期』(地図出版社、1982年)

変化の兆し

おはようございます。

今週、ある不定期の授業で『易』の話をしました。
言語・社会・健康科学の分野を専攻する院生が一緒に受講する科目なので、
これくらい専門性から離れたものがちょうどよいと思いまして。

机の引き出しの中にしまっていた50本の筮竹(工作用の竹ひご)を取り出して、
座右の書、本田済『易(中国古典選1・2)』(朝日新聞社、1978年)に従って占いました。

忘れているかと思いましたが、指先が動けば、それにつれて頭の中も動き出します。
久しぶりに、若い頃に感激したことが蘇ってきました。

『易』には至るところに面白みが隠されていますが、
私が一番感じ入るのは次のような見方、ものごとの捉え方です。
(迂遠な話をして申し訳ないですが、先に少しばかり説明をしていきます。)

六本ある爻(陰か陽の2種類)を、下から順番に、ある一連の操作を通して導き出すのですが、

・3回の似たような操作で、1回目は9か5、2回目・3回目は8か4の数が出ます。
・9と8を多い数、5と4を少ない数とします。
・3回の操作の結果、2多・1少は少陽、1多・2少は少陰、0多3少は老陽、3多・0少は老陰とします。

興味深いのは、すべて多い数が出たとき、すべて少ない数が出たときの判断です。
多い数(陽の気)が紛紜と立ち上っているのは、陰の状態が極限までいったときであり、
少ない数(陰の気)が満ち満ちているのは、陽の状態が極限までいったときだと見るのですね。
表面上は[陰]であるが、その内には陽へ転ずる気がみっしりと萌している、
表面上は[陽]であるが、その内には陰へ転ずる気が充満している、
この変化の兆しの中にこそ、問いを立てた人への答えは蔵されていると『易』は見ます。

5名の受講生には、コインで実際にやってみてもらいました。
(表を多い数、裏を少ない数と見立てて)

その後、どんな結果が出たか報告してもらって、『易』の当該部分を示しました。
ただ、示されても「?」な感じの文言ばかりだったように思います。
『易』の思想は、適切な「現代語」に翻訳しないと、
意味不明なだけに、人を妙に縛る言葉にもなりかねない、とも思いました。

2020年6月12日

弟思いの曹植

こんにちは。

本日、曹植「雑詩六首」其四の訳注稿を公開しました。

南国の美人に託して、
すばらしい才能を持ちながら、不遇なまま時の過ぎゆくのを嘆く詩です。
黄節は、この詩にいう「佳人」を呉王曹彪と比定していて、私もこの説に賛成です。

曹植が自身の不遇を嘆いていると解釈する説もあるようですが、
それだと、本詩が多く『楚辞』を踏まえている理由が宙に浮いてしまうように思います。

まず、『楚辞』を踏まえる以上、本詩は南方の長江流域を強く想起させますが、
曹植自身がそうした地域に封ぜられたことはありません。

また、『楚辞』といっても、屈原が自身の不遇を嘆く「離騒」等ではなく、
麗しい人の様子を描写する「九歌」や「大招」の辞句を、本詩は多く踏まえています。
屈原のひとり語りの部分ではなく、第三者を描写する部分を多く踏まえている、
となると、本詩の美人を自身の仮託と見ることは難しくなります。

特に誰かを想定しているわけではない、とする説も弱いと思います。
だったらなぜ、敢えて『楚辞』をあれほど踏まえるのか、説明できなくなりますから。

このように見てくると、黄節の見立ては極めて妥当だと思われます。
そして、もしそうだとすると、改めて思うのが、曹植という人の愛情深さです。

曹彪が呉王であった黄初三年から五年の間、曹植自身も苦境の中にあったはずなのに、
遠い南方で不遇の内に沈んでいる弟を繰り返し思い遣っているのです。
(「雑詩六首」の其一も、曹彪を思って詠じられた詩だと推定できます。)

弟の境遇が、自身の苦境と重なって、よけい切実に思われたのかもしれません。
また、兄弟相互の往来を禁じられて、一層弟への思いが募ったということも考えられます。

なお、曹彪には曹植に宛てた「答東阿王詩」(『初学記』巻18、離別)が残っています。
最期は、嘉平元年(249)、王淩らに擁立され、自殺に追い込まれました(『三国志』巻20本伝ほか)。
何か一途な、曹植と気持ちが通い合うような一面を持っていた人なのかもしれません。

2020年6月6日

遠くの人と未来の自分に

こんにちは。

またしばらく間が空きました。
このところ、息継ぎもしないで向こう岸まで泳ぎ切るような日々で、
(これはひとえに自分の時間配分の甘さから来たものです。)
授業(通常の授業に加えてのもの)のひとつひとつを終えることで精一杯でした。

そのいずれもが、かつて考え、論文にもしたことがあるテーマなのに、
準備をしていると、細かいところが蘇ってきて新鮮で、二度楽しむことができました。

今日は、そうしたテーマの中から、
厳島神社に一子相伝で伝わる舞楽「抜頭」の渡来経路について、一部を簡単に紹介します。

「抜頭」は、もとをたどれば西域に出自を持つ唐王朝の散楽で、
それを日本にもたらしたのは、林邑国(チャンパ)の仏哲という人物です。

仏哲は衆生を救おうと、如意珠を求めて海に船出し、難破します。
そこへ通りかかったのが、文殊菩薩に会うため中国五台山を目指していた南インドの釈菩提でした。
菩提は仏哲を伴って中国入りしましたが、文殊菩薩は五台山ではなく日本にいると聞きます。
落胆していたところに通りかかったのが、帰国する日本の遣唐使たちでした。
かくして、菩提と仏哲の二人は、遣唐使一行とともに、天平八年、日本にやってきたのです。

さて、仏哲が「抜頭」を伝えたことについて、『元亨釈書』巻15にはこうあります。

本朝楽部中有菩薩・抜頭等舞、及林邑楽者、哲之所伝也。
本朝の楽部の中に、「菩薩」「抜頭」等の舞、及び林邑楽があるのは、仏哲が伝えたものである。

つまり、「抜頭」は、仏哲の祖国林邑の音楽とは別物として記されています。
そして、「抜頭」は『通典』巻146その他、中国側の資料に、散楽として記されています。

では、仏哲は、この唐代の散楽「抜頭」に、どこで出会ったのでしょうか。

唐代の仏教寺院では、「抜頭」等の戯が盛んに行われていました。
また、民間の各地には、諸州から献上され、王朝の音楽機関から溢れた芸人たちが大勢いました。

すると、菩提に伴われて、中国大陸のかなりの距離を移動した仏哲は、
その旅の途上で、この「抜頭」を目にし、習い覚えたのではないかと考えられます。

なお、彼の祖国林邑でも、「抜頭」の原型である舞が行われていた可能性はあります。
西域と地続きのインド、そのインドと林邑とは海路でつながっているので。
ですから、中国で「抜頭」を目にした仏哲は、これを懐かしいと感じ、
とても自然にその所作を身につけたかもしれません。

「抜頭」が日本に伝わったのは、実にいくつもの偶然が重なった結果だと言えます。
この貴重な舞を、厳島神社では今に至るまで大切に継承してきました。

もしよろしかったら、詳しくはこちら(学術論文№26)をご覧ください。

2020年6月4日

仮託の検討(再び)

こんばんは。

曹植「雑詩六首」其三に歌われた遠征中の夫について、
先日は、呉に出兵した曹丕を暗に指すとする黄節の説を紹介しつつ、
別に、呉に出征した曹操を夫に仮託したと見ることも可能ではないかと述べました。

その後あれこれと考えた挙句、やはり曹操ではないだろうと思い始めています。
その理由は次のとおりです。

まず、兄弟を夫婦に喩えることはあり得ます。
たとえば、曹植「七哀詩」にいう「君若清路塵、妾若濁水泥」について、
「君」は曹丕を、「妾」は曹植を指すとする解釈が大方の賛同を集めていますし、
西晋の宮廷歌曲「怨詩行」は、この詩をそう解釈してアレンジした楽府詩だと見て取れます。*

他方、父子関係を夫婦に喩えるのはどうなのでしょうか。
圧倒的な上下関係にある父子が、夫婦という一対になぞらえられるものなのか、
このあたりのところがよくわかりません。

また、夫を曹操の仮託と見る仮説の一根拠として、
この詩に詠われた、樹木の周りをぐるぐると飛翔する鳥の姿が、
曹操の「短歌行」に見えるフレーズを想起させるということも挙げたのでしたが、
ほぼ同じ辞句が、明帝曹叡の「歩出夏門行」(『宋書』巻21・楽志三)にも見えています。
この「歩出夏門行」の歌辞は、すべて明帝曹叡の手に出るのか、
西晋の宮廷歌曲に採られた際に、曹操「短歌行」の句がその中に取り込まれたのか、
あるいは、曹叡や曹操といった個人のみには属さない、広く愛唱された歌辞であったのか、
いずれにせよ、樹木の周りを飛ぶ鳥のイメージは、曹操にのみ結び付けられるべきものではない、
となると、先に試みた仮説は根拠薄弱なものとなってしまいます。

やっぱり黄節のいうように、南方にいる君とは曹丕のことを詠じているのでしょうか。
それならば、曹植の中で、曹丕に対する気持ちのあり様が変化したということかもしれません。
曹植の他の作品をもっと読み進めながら、もうしばらく考察を続けます。

なお、人は本質的に変わらない、とも言いますが、変わり得ると私は思っています。

2020年5月29日

*拙論「晋楽所奏「怨詩行」考 ―曹植に捧げられた鎮魂歌―」(『狩野直禎先生追悼三国志論集』汲古書院、2019年9月)を参照されたい。(こちらの学術論文№43

仮託の有無

こんばんは。

昨日、曹植「雑詩六首」其三には仮託するところがあるだろうと述べました。

しかしながら、この詩は古詩への接近度が非常に高く、
ひとつの遊びとして擬古的に作ってみせたものである可能性も否定できません。

それでは、自分はなぜこの詩を前述のように捉えたのか。
その感じ方の出所を探ってみたところ、かなり明瞭な根拠が浮かび上がってきました。

それは末尾の次の二句です。
「願はくは南流の景(ひかり)と為りて、光を馳せて我が君に見えんことを。」

ここに詠じられた君は、なぜ南方にいるのでしょうか。
この要素は、古詩の中には見当たりません。

また、「願為……」という措辞は、
多くの古詩では、鳥になりたいと詠うのであって、
自らが太陽の光になりたいと詠う本詩の詩想は突出しています。

なぜ南方の君なのか、なぜ光になりたいのか。

本詩が放つこの独特の輝きは、
本詩を戯作的な擬古詩と捉えている限り、
その由来するところを明らかにすることはできません。

だから、この詩の背後には何か隠された主題がある、と感じたのだとわかりました。

2020年5月28日

1 54 55 56 57 58 59 60 61 62 80