曹植「黄初五年令」を読んで

こんばんは。

やっと本日、曹植「黄初五年令」の訳注を終えました。
半月くらいも時間がかかってしまいました。

この作品は、配下の役人たちに賞罰の基準を明示しようとしたものですが、
そのような内容の公文書にしては、論旨がすっきりとは通らず、何かが過剰な印象です。

たとえば、次のようなフレーズはどうでしょう。

九折臂知為良医、吾知所以待下矣。
 何度も臂を折って良医の何たるかを知るというが、
 わたしは臣下をどう任用すべきかを知った。

本作の成った前年、黄初四年に雍丘王となった曹植は、
それまでに何度も小さな罪を告発され、朝廷から処罰を受けています。
(たとえば「責躬詩」に詠じられているように)

前掲の二句から、思わずこの一連のことを想起しました。
また、次のような句も、こうしたことが背景にあるように感じられます。

唯無深瑕潜釁、隠過匿愆、乃可以為人君上行刀鋸於左右耳、……
 ただ、深いところに隠された小さな欠点や過失が無い者であってこそ、
 ようやく人の上に立つ君主として、左右の者たちに処刑を実施できるのであるが……

訳すると上記のようになってしまいますが、
「無深瑕潜釁、隠過匿愆」という表現は何かが過剰です。
かつて「瑕」「釁」「過」「愆」を根掘り葉掘りあげつらわれたことが、
ここへきて思わず噴出したような感があります。

2022年8月3日

曹植の『詩経』引用

こんにちは。

黄初年間における、曹植の曹丕に対する心情を探る上で、
「黄初五年令」の中の一節が、ひとつの示唆を与えてくれそうです。*1

雍丘王としての曹植のこの公的文章の中に、
「詩云、憂心悄悄、愠於群小(詩に云ふ、憂心悄悄たり、群小に愠らる)」
というフレーズが見えています。

これは、『毛詩』邶風「柏舟」にいう「憂心悄悄、愠于群小」を引用したもので、
その注釈によれば、「悄悄」は憂えるさま、「愠」は怒りをかうこと、
「群小」は君主の傍らにいる小人どもを指すといいます。*2
更に、本詩の序「小序」にはこうあります。

柏舟、言仁而不遇也。衛頃公之時、仁人不遇、小人在側。
 「柏舟」の詩は、仁徳を備えながら不遇であることを詠じるものである。
 衛の頃公の時、仁徳ある人は不遇で、小人が君主の側近にいた。

曹植の「黄初五年令」は、
このようなテーマを詠ずる「詩」の一節をまるごと引用しています。
おそらく曹植はここで、自身のことを「仁人」と位置づけ、
「群小」によって苦しめられ、「憂心」に沈む境遇にあることを述べているのでしょう。

けれど、そればかりでもないように思われます。
というのは、この「柏舟」詩は、次のような句を含んでいるからです。

我心匪鑑 不可以茹  私の心は鏡ではないから、人の心は測れない。
亦有兄弟 不可以拠  兄弟がいても、あてにはできない。
薄言往愬 逢彼之怒  近づいていって訴えても、彼の怒りに逢うのが落ちだ。

兄弟がいても、自分の力になってはもらえない。
そう嘆くこの「柏舟」詩の、別の一句をまるごと引いている曹植は、
当然、「兄弟」に言及するこの一節も熟知していたはずです。

「黄初五年令」で「柏舟」を直接引用するこの一節は、
君主と自分との間に、小人たちの悪意が介在していることを言うのみならず、

君主であり兄でもある曹丕に、助力を期待することができないことを、
婉曲的に言っている可能性があると考えます。

2022年7月28日

*1『曹集詮評』巻8所収。『文館詞林』巻695には「賞罰令」と題して収載されている。
*2「毛伝(前漢の毛亨・毛萇による解釈)」に「愠、怒。悄悄、憂貌(愠は、怒るなり。悄悄は、憂ふる貌なり)」、「鄭箋(後漢の鄭玄による解釈)」に「群小、衆小人在君側者(群小は、衆小人の君の側に在る者なり)」とある。

再び平賀周蔵の宮島詩

こんばんは。

『藝藩通志』巻32を通覧するに、
宮島に関わる漢詩を最も多く残しているのは、
江戸期安芸の国の漢詩人、平賀周蔵(1745―1805)です。

その詩作の背景を知る手掛かりを求めて、
彼の詩集『白山集』『独醒庵集』の影印を入手し、*
そこに収録されている作品と、『藝藩通志』とを照合してみました。
すると、作品の配列において、両者間には齟齬のないことがわかりました。
『藝藩通志』の編者は、宮島を詠じた平賀周蔵の詩を、
『白山集』『独醒庵集』に収載する順番どおりに書き写していったようです。

『白山集』『独醒庵集』は、
五言古詩、五言律詩、七言絶句等々といった詩体別に作品を収載しており、
制作年代順に並べるというような編集方針は取っていません。
ですから、すぐに平賀周蔵の詩作の背景を知ることはできそうにありませんでした。

ただ、もしかしたら、この二種の漢詩集の中には、
宮島に関する詩がまだ幾つか埋もれている可能性があるように感じました。

まず、「厳島」という語を詩題に含みながら、『藝藩通志』に未収録の詩が一首ありました。
(『白山集』巻4所収の「遊厳島舟発港口五更値雨」です。)

また、両詩集の中で、特に『藝藩通志』に収録する作品の前後を注意深く見れば、
固有名詞こそ含まないけれど、実は宮島を詠じている、という詩が見つかるかもしれません。
同じ詩体であれば、同じ機会に作られた作品は連続して収載されているでしょうから。

2022年7月26日

*『白山集』五巻は寛政七年(1795)刊、『独醒庵集』五巻は寛政十三年(1801)に刊行されています。私は内閣文庫から複写・製本されたものを取り寄せましたが、国立公文書館デジタルアーカイブで自由にダウンロード・閲覧ができます。

増井氏による『史通』理解

こんにちは。

劉知幾著・増井経夫訳『史通』が、弊学図書館に入りました。
ずいぶん前に出版された図書ですが、古書で入手することができました。*1

今になって図書館に入れておきたいと思ったのは、
中島敦の伯父、中島竦にまつわる逸話が、*2
その「あとがき」に記されていることを知ったからです。*3

直接のきっかけはそのようなことだったのですが、
やってきた書物を開いてすぐ、その「まえがき」に打ちのめされました。

以下、増井経夫氏の文脈にはやや沿わない切り取り方ですが、
特に心を揺さぶられたところを抜き書きします。

『史通』はあまり多くの読者を吸引してこなかった。
それは、駢文を用いたその文体が後世の人々にはやや難解であったこと、
さらにその内容が理論的であり批判的であったことにもよるだろう。
だが、著者の人間像は強烈に読者に迫るものがある。
この反骨に富んだ史書はまだまだ多くの人たちに呼びかけるものをもっているにちがいない。
耿介の故に多く排斥された劉知幾もまたその故に多くの知己を得ることと思われる。

また、「本書はかつて稿成って戦災に遭い」というくだりのさりげない迫力。

更には、「解説」に示された増井氏の劉知幾史学に対する深い洞察と、
『史通』への理解とともに示される、古典的中国学の方法に対する氏の本質的懐疑。

学問とは本来このように、
研究対象とも、その方法論とも、真摯に自由に対話するものなのだと、
何かとても大きなものに触れて、気づかされました。

2022年7月25日

*1 平凡社から1966年に出版され、後に研文出版から、1981年に第1刷、1985年に第2刷が刊行されている。
*2 増井経夫氏の「あとがき」に、「ああ来なさったか、じゃあやりましょうと、(増井氏から書店を通じて送られていた)小包を開いて書物をとり出されるといきなり朗々と講義を始められた。しかも掌を指すように出典をあげられるところは浦起竜の通釈(1752年刊行『史通通釈』二十巻)よりも鮮かであった。古人が座右に一冊の参考書をおくこともなく、よく著述し、注釈し、解説することのできる生きた姿をそこに見たのであった。そして一年ほど通って全巻を読了すると、先生はただ一言、中々よく書けてますなと、ポツリといわれただけであった」とある。
*3 中島敦『山月記・李陵』(岩波文庫、1994年第1刷。2009年第23刷)所収の、1985年に書かれた氷上英廣氏による解説によって知り得た。

 

西方からやってきたもの

こんにちは。

昨日に続き、これも授業の準備をしていて出会った論考ですが、
沖田瑞穂氏の「連続変身の説話の系譜―花咲爺を中心として―」に惹かれました。*1
その大まかな内容は次のとおりです。

日本の昔話「花咲爺」を構成している要素の中には、
主人公が次々と姿を変えてゆく「連続変身」説話の流入が認められる。
(人が、動物、樹木、木製品へと変身し、焼かれて灰となって再生するという説話)
世界の各地に広がりを持つこの説話のモチーフを分析した結果、
この説話は、エジプト起源で西から東へと伝播してゆき、
その途中で分岐して、ルーマニア、インド、チベットへ波及したと推測できる。

これを読んで、大形徹氏の所論を想起しました。*2
漢代の馬王堆帛画に見える図像は、エジプトに起源を持つ可能性があるという論です。
こちらでも言及したことがあります。)

自分は日頃、文献に記された言葉に依拠して考察していますが、
もとより人類には、文字にはよらない文化の分厚い蓄積があるのであって、
そうした文化については、それにふさわしい研究方法があるのだろうと推察されます。

こうした異なる分野の研究に触れると、目の前が豁然と開ける思いがする一方、
自分のやっていることがいかにも微細なことのようで気後れしますが、

そこはそれぞれに価値がある、と気を取り直していきます。

2022年7月24日

*1 沖田瑞穂「連続変身の説話の系譜―花咲爺を中心として―」(『人文研紀要(中央大学)』75、2013年)。
*2 大形徹「中国の死生観に外国の図像が影響を与えた可能性について―馬王堆帛画を例として―」(日本道教学会『東方宗教』第100号、2007年)。

生命誌と道家思想

こんにちは。

授業「文学」の準備で読んだ岡田充博氏の所論に、*1
『荘子』至楽篇に見える次のくだりが紹介されていました。
旅する列子が、道端に打ち捨てられた髑髏に出会って語りかけた言葉です。

種有幾。得水則為㡭、得水土之際則為蛙蠙之衣、生於陵屯則為陵舄、陵舄得鬱棲則為烏足、烏足之根為蠐螬、其葉為蝴蝶。胡蝶、胥也、化而為蟲、生於竈下、其状若脱、其名為鴝掇。鴝掇千日為鳥、其名曰乾餘骨。乾餘骨之沫為斯彌、斯彌為食醯。頤輅生乎食醯、黃軦生乎九猷、瞀芮生乎腐蠸。羊奚比乎不箰久竹生青寧、青寧生程、程生馬、馬生人、人又反入於機。万物皆出於機、皆入於機。

生き物にはどれほどの種類があるだろう。水という環境を得れば㡭(水生生物)となり、水と土との際に生ずれば青苔となり、丘陵に生ずればオオバコとなり、オオバコが糞土を得れば烏足(植物)となり、烏足の根はスクモムシとなり、烏足の葉は胡蝶となる。胡蝶は、胥(蝶の名)であって、変化して虫となり、竈の下に生じて、その形状は抜け殻のようで、その名を鴝掇という。鴝掇は千日が経過した後に鳥となり、その名を乾餘骨という。乾餘骨の唾液は斯彌(虫の名)となり、斯彌は食醯(虫の名)となる。頤輅(虫の名)は食醯より生じ、黃軦(虫の名)は九猷(虫の名)より生じ、瞀芮(虫の名)は腐蠸(虫の名)より生じる。羊奚(草の名)は筍を生まない竹と交わって青寧(虫の名)を生じ、青寧は程(虫の名)を生み、程は馬を生み、馬は人を生み、人はまた機(万物を造りなす根源的システム)に帰っていく。万物はみな機より出で、みな機に戻っていく。

ここに示されているのは、幾多の種類の生き物たちが、
ひとつの根源から連なりあって生じ、またひとつの根源に帰っていく様です。

知識としては知っていたはずのこの道家的発想ですが、
最近知った、生命誌の知見とオーバーラップすることに感激しました。
生命誌研究者の中村桂子氏は、こう書いていらっしゃいます。*2

地球上には幾千万種に及ぶ様々な生きものがいるが、
そのすべては、DNAという物質を含む細胞でできている点で共通している。
これは、一つの祖先細胞からすべてが進化し、今の生きものたちになったからだ。
この共通祖先となった細胞は、38億年ほど前の海に存在したことが明らかにされている。
(自分なりにまとめたので、不正確なところがあるかもしれません。)

最先端の生命思想と中国古典とがここまで重なり合うとは。
もしかしたら、真実というものは本当にあるのかもしれないと思いました。
また、道家思想とは、古代人の徹底した自然観察と奔放な空想の化合物だと感じます。

2022年7月23日

*1 岡田充博「先秦時代の変身譚について」(『横浜国立大学教育人間科学部紀要Ⅱ(人文科学)12、2010年)。
*2 中村桂子『老いを愛づる 生命誌からのメッセージ』(中公新書ラクレ、2022年)所収コラム2「生きものはみんな仲間」によって私は知り得ましたが、氏の専門性をより前面に打ち出した書物に詳しく論じられているのだろうと思います。

曹丕に対する曹植の思い(承前)

おはようございます。

昨日見た曹植の「求通親親表」「鼙舞歌・精微篇」「黄初六年令」に、
かつて彼は、杞梁の妻や鄒衍らの起こした軌跡を信じていた、
ということが記されていました。

これらの奇跡は、王充の『論衡』感虚篇に集中的に見えており、
特に上記の「精微篇」は、『論衡』と同じ故事を連続的に詠じています。
(このことについては、こちらをご参照ください。)

曹植が『論衡』を愛読していたらしいことは、
他の事例があることからも、ほぼ確実であろうと思われます。
こちらこちらでも少し触れたことがあります。)

ところで、『論衡』感虚篇という著作物は、
世間一般の俗説について、その迷妄を片っ端から論破していく内容ですが、
そうした王充の合理的知性に、曹植はかなり影響を受けていたらしく思われます。
(たとえばこちらでも触れたように。)

だとすると、曹植が上記のような奇跡を心底信じていたとは考えにくい。
彼が信じていたのは、その故事そのものの信憑性ではなくて、
その故事が物語る、誠実な心は奇跡をも呼び起こす、という道理の方でしょう。

すると、曹植は骨肉の情の中に安穏としていたわけではなくて、
ある意思をもって、自分に対する兄の愛情を信じようとしたのだと捉えられます。
それも、「奇跡を信じる」のですから、彼は現実の厳しさを十分に知っていたはずです。

2022年7月21日

曹丕に対する曹植の思い

こんにちは。

『曹集詮評』巻7「求通親親表」の校勘作業をしていて、
次のようなフレーズに出くわしました。

臣伏以為犬馬之誠不能動人、譬人之誠不能動天。
崩城隕霜、臣初信之、以臣心況、徒虚語耳。
 わたくし伏して思いますに、
 犬馬の誠は人を動かすことができないのは、
 人の誠が天を動かすことができないようなものです。
 杞梁の妻が亡き夫を哭して城壁が崩れたとか、
 鄒衍が燕で冤罪で拘束され、天を仰いで嘆くと、霜が降ってきたとか、
 わたくしはその初め、このような言い伝えを信じていましたが、
 私の心に照らして思いますに、それらは単なる虚妄の言葉に過ぎません。

この文章は、太和五年(231)、曹植40歳での作ですが、
彼はこの中で、かつての自分の考えの甘さを痛恨の中で振り返っているのです。

「犬馬之誠」とは、犬や馬が飼い主に対して抱く素朴な忠心で、
曹植の次のような文章の中に類似句が見えています。

まず、黄初四年に作られた「上責躬応詔詩表」に、
「踊躍之懐、瞻望反側、不勝犬馬恋主之情
(踊躍の懐ひもて、瞻望し反側し、犬馬の主を恋ふるの情に勝へず)」と見え、

また、「黄初六年令」にも、
「将以全陛下厚徳、究孤犬馬之年
(将に陛下の厚徳を全うするを以て、孤が犬馬の年を究めん)」とあります。

更に、「人之誠不能動天」については、
次の作品の中に、これを反転させた内容の辞句を認めることができます。

まず、「鼙舞歌・精微篇」(『宋書』巻22・楽志四)に、*
「精微爛金石、至心動神明(精微は金石をも爛(とか)し、至心は神明をも動かす)」
「妾願以身代、至誠感蒼天(妾 願はくは身を以て代へ、至誠 蒼天を感ぜしめん)」と、

また、前掲の「黄初六年令」にも、次のようにあります。
「信心足以貫於神明也。
(信心は以て神明をも貫くに足るなり)」、

「固精神可以動天地金石、何況於人乎。
(固より精神の以て天地金石を動かしむ可きなり、何ぞ況んや人に於いてをや)」。

そして、「求通親親表」にいう「崩城隕霜」は、
今示した「黄初六年令」の句「固精神可以動天地金石」の直前に、
「鄒子囚燕、中夏霜下、杞妻哭梁、山為之崩
(鄒子は燕に囚はれて、中夏に霜下り、杞妻は梁を哭して、山は之が為に崩る)」と見えますし、
前掲の「鼙舞歌・精微篇」にも詠じられている故事です。

こうしてみると、曹植は、文帝曹丕が在位した黄初年間、
あくまでも兄の曹丕に対して信頼する思いを持っていたということになります。

もっとも、「黄初六年令」は、先に示した部分のすぐ後に、
曹丕が曹植のいる雍丘まで訪ねてきてくれたことへの感激が綴られますから、
その前には、鬱屈した気持ちを抱く時期もあったかもしれませんが。

だとすると、昨日述べたことは少しく再考した方がよい。
同じ曹丕の弟ではあっても、曹袞と曹植とではその母が違います。
曹丕の同母弟である曹植は、兄を信じたい気持ちが強かったのかもしれません。

2022年7月20日

*「鼙舞歌・精微篇」の表現が「黄初六年令」「求通親親表」に展開していることは、林香奈「曹植「鼙舞歌」小考」(『日本中国学会創立五十年記念論文集』1998年、汲古書院)に夙に指摘している。

黄初初年の曹植

こんばんは。

後漢の献帝からの禅譲を受けて、
曹丕が魏の文帝として即位したのは黄初元年(220)十一月。
それから間もなく、曹植は魏王朝の成立を祝賀する、
「慶文帝受禅表」「魏徳論」「上九尾狐表」といった文章を作っています。

けれども、この直前に当たる同年の秋、
曹植は腹心であった丁儀・丁廙兄弟を、兄の曹丕によって殺されています。
そうした状況下で、自分を絶望に突き落とした人の即位を言祝ぐ、
それはいったいどのような心理によるのでしょうか。

曹植に「龍見賀表」(『曹集詮評』巻7)という文章があって、
皇帝の徳を示す瑞祥として、鳳凰や黄龍が出現したことを慶賀する内容ですが、
この作品の成立年代を、趙幼文は次のように推定しています。*

黄初三年(222)、黄龍が鄴の西の漳水に現れたので、
曹袞はこれを称えて上書した(『三国志(魏志)』巻20・中山恭王袞伝)。
曹植の「龍見賀表」は、これと同時期の作ではないだろうか。

曹袞は、曹植の腹違いの弟で、
非常に堅実な生活態度で学問に励んでいるのを、
文学・防輔の官人たちが王朝に上表して称賛したところ、
このことを厳しく叱責したという、きわめて慎み深い人物です。
それは、権力者に目を付けられることを恐れているからにほかなりません。
こちらを併せてご覧ください。)

そういう人物が、瑞祥の現れたことを王朝に奏上している。
曹植も、これと同じ心理から魏王朝の成立を言祝いだのではないか。
腹心を失ってすぐ、彼らに手を下した者に向けて祝辞を述べたというのは、
決して腹心の死を忘れたわけでも、見境なく権力者にすり寄っていったわけでもなく、
震え慄く恐怖と不安から出た行為ではなかったかと思います。
骨肉の情から、兄を祝賀する気持ちもなかったわけではないでしょうが。

2022年7月19日

*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.251を参照。

漢籍電子文献資料庫のおかげ

こんにちは。

先にこちらで言及した曹植「黄初五年令」の句、

伝曰:知人則哲、堯猶病諸。
伝に曰く、「人を知るは則ち哲、堯も猶ほ諸(これ)を病む」と。

この句の出所はおそらくここか、というところが分かりました。

「知人則哲」は、先にも述べたとおり『尚書』皋陶謨、
「堯猶病諸」は、『論語』雍也篇に、仁を実践する困難をいう、
「堯舜其猶病諸(堯・舜も其れ猶ほ諸を病む)」を用いたのだと思われます。

『尚書』と『論語』とを綴り合せたのが、曹植その人か、
曹植がこれらの句を「伝」として引く以上、そうした文献が実在したのか、
それとも、曹植の記憶違いによる記述なのかはわかりませんが、
漢籍電子文献資料庫のおかげで、ここまでは辿れました。

ところで、
『論語』憲問篇にいう「子貢方人、子曰賜也賢乎哉、夫我則不暇」
(子貢 人を方(くら)ぶ、子曰く 賜(子貢)や賢なるかな、夫れ我は則ち暇あらず)
その疏に
「夫知人則哲、堯舜猶病」とあって、曹植の文章に近いのですが、
論語の疏は、宋代の邢昺によるもので、曹植がそれを見ているはずはありません。
邢昺が曹植の文章を見ている可能性はあるでしょうし、
両者がともに基づいた「伝」なるものがないとも言い切れません。
(経学に詳しい方には判断が可能なのかもしれません。)

2022年7月16日

 
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