昔のメモに救われたこと
こんにちは。
十年ほど前の手帳をなんとなく読み返していたら、
次のようなメモが目に入りました。
「みんなの意見」というものは案外正しい。
ただし、その集団の英知を最大限に引き出すためには、
次の三つの条件を満たす必要がある。
1、集団内の各人は、自ら進んで考え、各々の結論に辿り着くこと。
2、問題に明確な答えがある場合で、最終的には現実と照合できること。
3、集団内の全員が同じ問題に対して答えること。
問題意識の正しい共有をいう3は当然のことでしょう。
2は、“正しい”結論のない現代社会の諸問題には当てはまらないかもしれません。
一方、その意外性もあって、非常に強く惹きつけられたのが、1の条件です。
各人がそれぞれ様々に考えてこそ、より正しい解に近づけるというのは、
「集団」という言葉から想起されるイメージとは違っていました。
これは、レン・フィッシャー著、松浦俊輔訳
『群れはなぜ同じ方向を目指すのか?:群知能と意思決定の科学』
(2012年、白揚社)によって得た知見で、
ちょうど担当していた「共生社会論」の中で紹介したのでした。
あのとき受講していた学生さんたちの中で、
誰か一人でも、この話の内容を覚えている人はいるだろうか。
たとえいなかったとしても、ほかならぬ今の自分が元気づけられました。
2022年10月5日
監国謁者潅均の密告
こんにちは。
先週、やっと「黄初六年令」の訳注稿を公開することができました。
続けて「写灌均上事令」(『太平御覧』巻593)を読み始めたところですが、
どう読むのが妥当なのか、考えあぐねている部分があります。
孤前令写灌均所上孤章、三台九府所奏事……
この「灌均所上孤章」の部分を、
続く「三台九府所奏事(三台九府が奏せし所の事)」との対応関係から捉えて、
「灌均が上(たてまつ)りし所の孤が章」と読んだのですが、
それでよいものか、今一つ自信がありません。
(かといって、「灌均が孤を上せし所の章」と読むのでは落ち着きません。)
『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝には、
監国謁者潅均、希指奏「植酔酒悖慢、劫脅使者」。
監国謁者の潅均、希指して奏すらく「植は酒に酔ひて悖慢たり、使者を劫脅す」と。
という記事が見えていて、
この令の題目にいう「灌均上事」とは、おそらくこのことを指すのでしょう。
歴史書の記事には撰者の手が加わっていますから、
もちろん、これだけに依拠するわけにはいかないのですが、
この記事は、曹植の行動についてその不備を摘発するものであって、
曹植自身の「章」すなわち詩文の不適切さを摘発しているものではない、
そのことに、少しひっかかりを覚えるのです。
もし本当に、監国謁者潅均が曹植の詩文を朝廷に奉り、
その不穏当さを糾弾したのであれば、それはいずれの作品だったのでしょうか。
2022年10月3日
平賀周蔵の為人
こんばんは。
今日も、江戸時代の安芸の国の漢詩人、平賀周蔵について。
以前、こちらで紹介した「遊嚴島留宿視遠連日」詩(『白山集』巻三)の直前には、
「除夕、赴嚴島途中」と題する、次のような詩が収載されています。
優游吾独是 悠悠自適とは、私だけがこれであり、
心跡両相親 心と行いと、両方がぴったりと適っているのである。
寒候仍除夕 寒い天候で、今なお大晦日だが、
煙容已立春 靄の立ち込める景色は、すでに立春である。
風涛行望島 風にあおられて逆巻く波を、超えてゆきつつ島を望み、
海駅不迷津 海の駅に、渡し場を見失うことはない。
笑彼都人士 笑止千万、かの都の人たちは、
栖栖誤此身 あくせくと忙しくして、その身を誤っている。
宮島に向かって漕ぎ出だした舟に乗る彼は、
このように、俗塵にまみれてあくせくと奔走する人々を笑っています。
そして、その俗世とは逆の世界にあったのが、宮島とその土地の風流人であったようです。
中国古典文学の世界では、
隠遁志向はおおよそ常に現実批判と表裏一体のものですが、
江戸時代の日本の場合はどうでしょうか。
素人の素朴な感覚に過ぎませんが、
少なくとも、平賀周蔵という人物についていえば、
彼は、ただ単なる脱俗的風流人であったというだけのようには感じられません。
なぜそう感じるのか。
それは、彼と赤松滄洲との関係が念頭にあるからかもしれません。
その『白山集』序における赤松滄洲の筆致から、*
二人の間には、非常に強く響き合うものがあったと感じ取れます。
この赤松滄洲という儒者は、
たとえば岩波『日本古典文学大辞典』によりますと、
主君に対しても諫言を憚らない気骨のある人物であったらしく、
学問の自由を制限する寛政異学の禁に対しても、厳しくこれを批判したといいます。
そのような人と価値観を同じくし、すっかり意気投合したというのですから、
平賀周蔵もまた、静謐な雰囲気の中に、強い意志を秘めた人であったのだろうと想像されます。
2022年9月13日
*『白山集』は、国立公文書館デジタルアーカイブ(https://www.digital.archives.go.jp/)で閲覧・ダウンロードできます。平賀周蔵の姿を描いた月僊による図画も、その中に収められています。
風流を支えた素封家
こんばんは。
明後日の公開講座で、
「安芸国の漢詩人、平賀周蔵が詠じた宮島遊覧」と題して話します。
これまでにもこちらで何度か言及したことのある話題ではあるのですが、
このたび準備をする中で、改めて気づかされたことがあります。
それは、平賀周蔵らの超俗的な交遊を支えた、当島の豊かな民間人の存在です。
こちらで紹介した「夏日陪滄洲先生遊嚴島過飲壺中菴」詩の末尾に、
次のような句が見えていました。
歓興何辞酔 感興が高じては、どうして酔いしれるのを辞退しようぞ。
素封有酒泉 無官のご大臣は酒の湧き出る泉をお持ちだ。
この「素封」は、こちらで紹介した「題嚴島壺中庵」詩に、
仙醞醸来誰得同 仙界の美酒が出来上がって、これを誰と共に酌み交わせるだろうか。
主人高興有壺公 主人は、かの壺公のいることをたいそう喜んだ。
として登場する「主人」でしょう。
美酒を醸造し、共に飲む仲間として「壺公」のいることを嬉しそうに想起しています。
「壺公」は、こちらで推定したとおり、広島在住の医師、笠坊文珉でしょう。
平賀周蔵は、自身のよき理解者であり友人である笠坊文珉を通じて、
赤穂の赤松滄洲と懇意になり、三人連れ立って宮島を訪れ、
「壺中庵」で酒宴をほしいままにしています。
その草庵の主で、酒を無尽蔵に提供している「素封」が、
三人の超俗的な遊びの背後を支えていることに思い至りました。
このような人物が具体的に誰であったのか、
壺中庵はどこにあったのか、等々、
お心当たりのある方々がいらっしゃるかもしれません。
宮島当地で開催される公開講座が楽しみです。
2022年9月12日
自身の座標の相対化
こんにちは。
岡村繁「駢文」という概説的な論文があります。*
貴族が社会の主導権を握った六朝時代の産物、四六駢儷文について、
具体例に拠りつつ、この文体の本質が、実に分かりやすく説明されています。
(分かりやすくても、内容は一切薄められていません。)
四字句・対句を基本に、韻律美に配慮し、典故表現を多用する駢文は、
当時の貴族たちにとっては一般的な実用文でした。
けれども、このような駢文は、現代において、
自身の知識をひけらかす、知的俗物の文体であるかのように言われがちです。
(駢文も、古文も、白話による俗文学も、近代以降の文学も、
本来、それぞれの時代の人々に応じた文体であって、その間に優劣はないはずですが。)
この見方は、今自分が立脚しているところから過去を断ずるものです。
自身が依拠するのとは別の座標が存在するということに思い至っていないのです。
(だから、私は古人の作品に対して“評価”ということをしたくありません。)
つい自身が身を置く座標軸に拠ってものを考えてしまう、
誰もが持つこの盲点に対して、岡村先生は鋭敏な感覚をお持ちだったように感じられます。
だから、私たち学生は、実にフラットな雰囲気のもと伸び伸びと学ぶことができた。
当時はそれを当たり前のことのように享受していたのですが、
(最初に、学問とは自由なものだと体感できたことはたいへんな幸運でした。)
おそらくそれは、先生ご自身が様々な体験の中から獲得された価値観を、
努力して具現化されたものであったのだろうと思います。
そのことを時々思い起こします。
2022年9月9日
*『文学概論(中国文化叢書4)』(大修館書店、1967年)p.120─133。
『文選』李善注と緯書
こんばんは。
昨日言及した『文選』李善注の緯書引用に関連して、
岡村繁「『文選』李善注の編修過程―その緯書引用の仕方を例として―」*
を読み直しました。
この論文は、その標題が明示するとおり、
緯書引用のあり様に着目し、それを手掛かりとして、
重層的に行われた『文選』李善注の編修過程を明らかにしようとしたものです。
その概略を紹介すれば次のとおりです。
『文選』李善注は、複数回にわたる修訂を重ねて成ったものである。
『古籍叢残』所収の敦煌出土『文選』李善注は、その初注本だと推定できる。
李善注の編修過程を明らかにするには、初注本と現行本との違いに着目すればよい。
だが、現行本から、李善自身による修訂部分を識別することは難しい。
そこで着目されるのが、李善注における緯書の引用である。
なぜならば、緯書は李善が生きていた初唐以降、流伝が途絶えたからである。
(緯書の引用は、ほぼ確実に李善自身によるものと考えられる。)
かくして、敦煌本『文選』李善注と現行の李善単注本とを比較した結果、
李善注の編修過程について、次のようなことが明らかとなった。
・初期段階の李善注は、まず類書などの活用により典故の指摘をしている。
・その後、広範な読書を通じて蓄積された知識をもとに、逐次補填が為されていった。
本論文の内容を、私は大学院生だった頃に講義で聴きました。
その講義は、たしか国語の教免関係科目に指定されていたためでしょうか、
最初は、国語国文学研究室の学生さん方も大勢聴講していましたが、
回を追うごとに受講生の数が減っていきました。
(先生ご自身、そのことを少し気にされているような風でした。)
その時にはその価値を受けとめることができなくても、
後になって腑に落ちる、長い時をおいて感動が押し寄せるということがあります。
人数は少なくとも、どこかに必ず理解者はいるものだと思います。
2022年9月8日
*岡村繁『文選の研究』(岩波書店、1999年)第六章(p.291―310)。初出は『東方学会創立四十周年記念東方学論集』(東方学会、1987年)。
注釈が困難な言葉
こんばんは。
『宋書』巻20・楽志二所収の、
成公綏「晋四箱歌十六篇・雅楽正旦大会行礼詩十五章」其九の結びに、
朝閶闔 宴紫微 閶闔に朝(まね)き 紫微に宴す
(帰順してきた異民族たちを)閶闔に招き入れ、紫微宮にて宴を催す。
という句があります。
この「紫微」に対する語釈がひどく難航しました。
(訳注の草稿を書いた去年の自分は何をしていたのでしょう。)
この語が、天界の王宮を意味し、
それが同時に地上界の宮城にも重なることは明らかです。
けれども、それを説明するのに的確な古典籍がなかなか見当たらず、
やむなく『史記』巻27・天官書にいう「紫宮」を挙げました。*
でも、これは「紫宮」であって「紫微」ではありません。
『文選』李善注は、この語にどのような注を付けているでしょうか。
そこで、八箇所に見える「紫微」に当たってみました。
たとえば、傅咸「贈何劭王済」詩(巻25)にいう、
日月光太清 列宿曜紫微 日月は太清に光き 列宿は紫微に曜(かがや)く
赫赫大晋朝 明明闢皇闈 赫赫たる大晋朝 明明として皇闈を闢く
これは、前掲の成公綏の歌辞に発想がよく似ているものですが、
この「紫微」に対して李善は次のとおり注しています。
春秋合誠図曰、北辰其星七、在紫微之中也。
『春秋合誠図』に曰く、「北辰 其の星は七、紫微の中に在るなり」と。
『春秋合誠図』は、緯書(経書と対比させて言う)と括られる部類の書物で、
緯書は、前漢末から王莽期を経て後漢初め、急速に多く出現しました。
(素性が不明瞭な、ややいかがわしい雰囲気をまとった書物です。)
李善は、「紫微」という語に注するのに、
緯書をもってきて説明するほかなかったのでしょうか。
もしこれ以外に適切な文献を提示することが難しかったのであれば、
この語は、それほど古くから用いられていたわけではないのかもしれません。
自分が探し当てられないだけなのかもしれませんが。
2022年9月7日
*『史記』天官書に「中宮。天極星、其一明者、太一常居也。旁三星三公、或曰子屬。後句四星、末大星正妃、餘三星後宮之屬也。環之匡衞十二星、藩臣。皆曰紫宮(中宮。天極星、其の一の明るき者は、太一の常に居るなり。旁の三星は三公、或いは曰く、子の屬なりと。後の句(まが)れる四星、末の大星は正妃、餘れる三星は後宮の屬なり。之を環して匡衞せる十二星は、藩臣。皆紫宮と曰ふ)」と。
曹植「九詠」の佚文について
こんばんは。
『曹集詮評』の著者丁晏は、
「九詠」の佚文を収載した後で、次のように記しています。
以上十六条、引為九詠者僅八条、
外擬九詠一条、九歌詠二条、七詠二条、擬楚辞一条、擬辞二条。
子建蓋擬楚辞之九歌為九詠、故称目錯出。
前正文九詠篇首、芙蓉車兮桂衡二句、書鈔一百四十一即引作擬楚辞、是其証也。
其称七詠者、文誤耳。*
茲掇挙明引九詠者於前、而餘八条附之。
以上の十六条で、「九詠」として引くものはわずかに八条のみ、
その他は「擬九詠」一条、「九歌詠」二条、
「七詠」二条、「擬楚辞」一条、「擬辞」二条である。
曹植は、おそらく『楚辞』の九歌を模擬して「九詠」を作ったのであり、
それゆえ、篇目について様々に不揃いな呼称が出現したのだろう。
前の正文「九詠」の冒頭にいう「芙蓉車兮桂衡」の二句が、
『北堂書鈔』巻一百四十一では「擬楚辞」として引かれているのがその証である。
その「七詠」と称するものは、文字が誤っただけである。*
ここに取り上げる上で、明らかに「九詠」として引くものは前に、
それ以外の八条は、その後に付記する。
このように、丁晏は、
曹植「九詠」が『楚辞』九歌の模擬作品であることをつとに指摘していました。
たしかに、『北堂書鈔』などの類書に引かれた本作品には、
それが『楚辞』を祖述するものであることを示す篇目が多く見られます。
(そうすると、遡れば『北堂書鈔』の編者虞世南が指摘していたと言えます。)
では、様々な篇目で伝わるそれらの断片は、
“正文「九詠」”の一部が散逸したものなのか、
それとも一連の作品群を構成する、“正文”以外の一篇なのでしょうか。
この点については、丁晏は特に触れていないのですが、
私は、後者の可能性が高いと考えます。
曹植「九詠」はもともと、『楚辞』の九歌のように九篇あったのであり、
その中の一篇だけが“正文”として伝わっているという見方です。
なお、曹植には別に「九愁賦」(『曹集詮評』巻1)という作品があって、
その中の一句「寧作清水之沈泥、不為濁路之飛塵
(寧ろ清水の沈泥と作るとも、濁路の飛塵とは為らざれ)」が、
“正文「九詠」”の最後の部分に紛れ込んでいるのですが、
「九愁賦」と「九詠」とは、篇名は似ていても、
本来は別のジャンルの作品ではなかったかと考えます。
「九愁賦」は完結する一篇、
「九詠」は、その作品構成においても『楚辞』九歌を踏襲していた、
そのことを示唆するのが、比類を見ない佚文の数の多さと多彩さである、
という見通しです。
2022年9月6日
*丁晏が「七詠」として採録する、『北堂書鈔』巻158からの二条、孔広陶校註『北堂書鈔』(天津古籍出版社、1988年)p.735は「九詠」に作る。丁晏が目睹した『書鈔』は、未校訂のテキストであった可能性もある。
曹植「九詠」の注釈
こんばんは。
先週述べた曹植の「九詠」という作品について、
もしかしたら、これは周知のことを言っただけではないか、
と思って、CNKI(中国の論文データベース)で確認してみました。
総数で5000件を超える曹植関係の学術成果の中で、
この作品を主題として取り上げているのは、修士論文2件、雑誌論文1件。
それらは、曹植「九詠」が『楚辞』九歌の模擬作品であることを指摘しています。
中国の研究者にとって、これは言うまでもないことなのでしょう。
だから、それを敢えて取り上げて論じる意味を感じないし、
取り上げても、それを更に深める意味を感じないのかもしれません。
私は、ここに自分なりの存在意義があるだろうと考えています。
多く論じられている作品に、更に多くの論者が蝟集するのには理由がありそうです。
けれど私は、自分の目に留まった問題点を掘り下げる方向を取ります。
(中心から外れたテーマで論文を書くことに意味があるのか自問もしますが、)
おそらくは普遍的な法則性を目指す理系の学問とは違って、
文学研究は、人間の様々なあり様を“発見”することに意味がある、
それも、いろいろある、ではなくて、そこから普遍性に至る道を探るものだと思うから。
さて、曹植「九詠」は注釈付きで行われていたらしいことについて。
『文選』李善注に引くところは前回提示したとおりです。
そのうち、「曹植九詠章句」は、2ヶ所とも「鍾、当也」という文面で、
この語釈は、他にはあまり見かけないものかもしれません。
「曹植九詠注」として引くのは、3ヵ所とも牽牛織女についての説明で、
曹植「洛神賦」(巻19)、曹丕「燕歌行」(巻27)に注してこれを引いたのは、
作者との関連性の深さからなのかもしれません。
けれど、謝恵連「七月七日夜詠牛女」(巻30)に対してはどうでしょう。
李善は、本詩の題目の下に、既に『斉諧記』を引いた上で、
更に、詩の本文でも2ヶ所、「曹植九詠注曰」として注記をしています。
李善が引く曹植「九詠」注釈は、以上の二種類だけなので、
初唐の時点ではすでに、その全文は伝わっていなかったのかもしれません。
その貴重な断片を、李善『文選注』はとても尊重している、という印象を持ちました。
また、注釈付きで読まれていたらしいことは、
曹植「九詠」自体が、いかに大切にされていたかを物語ってもいるようです。
(注釈が曹植自身による場合は、また別の意味が生じると思います。)
2022年9月5日
曹植の「九詠」について
こんばんは。
曹植に「九詠」(『曹集詮評』巻8)と題する作品があります。
今まとまったかたちで伝わっているのは、
『藝文類聚』巻56に収載された一篇のみですが、
これはもともと、九篇の詩歌から成る、
『楚辞』九歌に倣う作品群だったのではないでしょうか。
その根拠として、
まず、「九詠」と「九歌」との語の類似性です。
加えて、『類聚』所収の冒頭は、
芙蓉車兮桂衡 芙蓉の車に桂の衡(車の横木)、
結萍蓋兮翠旌 萍の車蓋を結んで翠(カワセミの羽)の旌を立てて。
このように、形式面でも、表現面でも、「九歌」を想起させるものです。
「兮」字を挟んでその上下に三字あるいは二字が来る形式は、
『楚辞』の中でも九歌に特有のものです。*
修辞としては、たとえば『楚辞』九歌「山鬼」にいう、
「辛夷車兮結桂旗(辛夷の車に桂の旗を結ぶ)」によく似ています。
更に、丁晏『曹集詮評』、厳可均『全三国文』に記されているとおり、
この「九詠」には非常に多くの佚文があって、その内容も多彩であることです。
このことは、伝存する一篇以外にも複数の作品があったことを意味しているでしょう。
以上に述べた三つのことから、
曹植「九詠」は、『楚辞』九歌を祖述する、
元来は九篇から成る作品であったと推定することができます。
なお、この「九詠」には、注釈も著されていたようです。
それが曹植自身によるものか、別の人物によるものなのかは不明ですが、
『文選』李善注には、「曹植九詠章句」として二箇所(巻14・37)、
「曹植九詠注」として三箇所(巻19・27・30)引かれています。
曹植「九詠」が注釈付きで流布していたことについては、継続して考えます。
2022年9月1日
*1 藤野岩友『巫系文学論(増補版)』(大学書房、1969年。初版は1951年)の「神舞劇文学」を参照。