冷徹な観察眼と親愛の情
こんばんは。
曹植「七哀詩」詩(05-03)に見える次の印象的な対句、
君若清路塵 君は清路の塵の若く、
妾若濁水泥 妾は濁水の泥の若し。
これについて、黄節は次のように指摘しています。*
節案、清路塵与濁水泥是一物、浮為塵、沈為泥。
故下云浮沈異勢、指塵泥也。
亦喩兄弟骨肉一体、而栄枯不同也。……
考えるに、「清路の塵」と「濁水の泥」とは元来ひとつの物で、
浮揚すれば塵となり、沈殿すれば泥となる。
ゆえに、下の句に「浮沈勢を異にす」というのは、塵と泥とを指すのである。
また、骨肉を分けた兄弟はもともと一体ではあるけれど、
その栄枯盛衰は同じではないということをも喩えているのである。……
詩中では、「君」と「妾」とあるので、
厳密に言えば、夫婦の間柄を兄弟に喩えたという一段が間に入りますが、
それはともかくも、この詩では、
「君」(夫・兄)は、清らかな道に巻き上がる塵、
「妾」(妻・弟)は、濁水の底に沈殿する泥に喩えられています。
更に言えば、「君」は曹丕、「妾」は曹植と捉えてほぼ間違いないでしょう。
(詩と現実とを直結させて解釈することの当否はこの際ひとまず置いておきます。)
さて、以前こちらでも指摘したとおり、
曹植はこれと非常によく似た対句を「九愁賦」の中にも置いています。
寧作清水之沈泥 寧ろ清水の沈泥と作るとも、
不為濁路之飛塵 濁路の飛塵とは為らざれ。
このように、「泥」と「塵」とを対置させる点で一致していますが、
ただ、「九愁賦」と「七哀」詩とでは、それを生ずる場の清濁が異なっています。
まだ「九愁賦」の全文を精読していないので断定はできませんが、
「清水の沈泥」は曹植自身、「濁路の飛塵」は曹丕を指しているようです。
つまり、自身を清らかな方に、相手を濁った方に置いているように読めるのです。
曹植の、兄曹丕に対する心情は、白か黒かの単色ではなさそうです。
(それは万人について言えることなのでしょうが。)
人に対する冷徹な観察眼や諧謔的批評と、
その人に対する親愛の情、もしくはその人を信じたいという思いとは、
ひとりの人の心中に共存しうるものだと考えます。
2022年8月30日
*黄節『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)巻1、p.4を参照。
黄初六年の曹植と曹丕
こんばんは。
亀の速度で、まだ「黄初六年令」を読んでいます。
(訓み下しだけは、先にこちらに提示したことがあります。)
その中に見える次のようなフレーズに、強い既視感を覚えました。
孤以何徳、而当斯恵。孤以何功、而納斯貺。
わたくしは何の徳があって、この恵みに浴しているのだろう。
わたくしは何の功があって、この賜りものをいただいているのだろう。
徳と功とを対で並べ、
自身の乏しいそれに見合わないほどの恩恵を被っていると述べています。
これと非常に近い表現が、「求自試表」にも次のように見えていたのでした。
今臣蒙国重恩、三世于今矣。
……
今臣無徳可述、無功可紀、若此終年無益国朝、将挂風人彼己之譏。
今、臣は国から手厚い恩を受けること、今に至るまで三代となります。
……
今、わたくしには述べるべき徳は無く、記すべき功績も無く、
こうして生涯、王朝に利益をもたらすことがなければ、
『詩経』の詩人たちが歌う「彼己」の謗りにかかることでしょう。
何の徳も功績もないのに、王朝から手厚い恩恵を受けている、
ということを述べている点では、先の「黄初六年令」と共通しています。
けれども、「求自試表」の方は、
厚遇に見合う働きをしていないことへの焦燥感が強く全面に出ています。
この上表文は、太和二年(228)、
即位して三年目の明帝曹叡(曹植の甥)に奉られたものです。
一方「黄初六年令」の方は、
自身の兄である文帝曹丕からの恩恵を、
かたじけなくおしいただいているような口ぶりです。
(少し前の部分から文脈をたどれば、そのように判断できます。)
この時期の曹植は、兄の親愛を心の底からうれしく思っている様子なのです。
この黄初年間末の曹植と曹丕との関係性を伏線として、
その三年後に書かれた「求自試表」は捉える必要があるように思います。
明帝期の曹植だけに焦点を当てて見ていると、
まるで、分をわきまえず王朝への参画を望む人のようで、
そんなふうに断ずるのは酷です。
2022年8月29日
奇跡を起こした話
こんばんは。
以前こちらでも紹介しましたが、
曹植の「黄初六年令」「鼙舞歌・精微篇」等には、
奇跡を引き起こした人物として、鄒衍や杞梁の妻が挙げられています。
それらは、直接的には『論衡』感虚篇の影響だろうと先に指摘しました。
けれども、鄒衍と杞梁の妻とを対で挙げる例は、
『後漢書』劉瑜伝に引く劉瑜の上書の中にも、次のように見えていました。
鄒衍匹夫、杞氏匹婦、尚有城崩霜隕之異。
鄒衍は匹夫、杞氏は匹婦なれども、尚ほ城崩・霜隕の異有り。
その李賢注には、『淮南子』(佚文)、『列女伝』(貞順篇)が引かれています。
こうしてみると、彼らの不思議な話は当時広く知られた言い伝えで、
しかも、一対の故事として言及されることが多かったと言えるかもしれません。
話の性格としては、昨日述べた、熊渠・李広の逸話と類似しているようにも感じられます。
なお、劉瑜という人物は、前掲の『後漢書』本伝によると、
年若くして経学を好み、とりわけ図讖・天文・歴算の術に長けていたといいます。
後漢時代の経学は、こうした預言めいた傾きを含んでいたのでしょうか。
2022年8月26日
石の虎を射る話
こんにちは。
曹植「黄初六年令」(『曹集詮評』巻8)の中に、
誠心は天地金石をも動かすということの一例として示された、
「雄渠李広、武発石開(雄渠・李広は、武発して石開く)」という句は、
西周時代の楚の君主、熊渠(雄は、熊と音が同じ)、及び
前漢時代の将軍、李広の故事を踏まえています。
熊渠については、劉向『新序』雑事篇にこう記されています。
楚熊渠子、夜行見寝石、以為伏虎、関弓射之、滅矢飲羽。下視知石也。
楚の熊渠は、夜に移動していて横たわる石を見かけ、それを伏せた虎だと思って、
弓を引き絞ってこれを射ると、その矢も羽も深く呑み込まれた。
見下ろしてよく観察すると、それが石だとわかった。
この逸話は、『韓詩外伝』巻六にもほぼ同じ文面で見えています。
李広については、『史記』巻109・李将軍列伝に次のとおりあります。
出猟、見草中石、以為虎而射之、中石没鏃、視之石也。
李広は猟に出て、草の中の石を見かけて、虎だと思いこれを射たところ、
矢は石に命中し、やじりが深く突き刺さったが、よく観察するとそれは石だった。
熊渠と李広とでは、その生きた時代がずいぶんかけ離れています。
けれども、二人の真率なる武勇を語るエピソードは、こんなにも似ています。
後漢の王充は、『論衡』儒増篇の中で、これらのエピソードをまとめて、
(『呂氏春秋』季秋紀・精通篇に見える、養由基が石の兕を射た話もあわせて)
「儒書」の割り増し表現の一例として挙げています。
思えば、これらのエピソードを記す書物の成立は、
『呂氏春秋』『韓詩外伝』『史記』『新序』のすべてが秦漢時代です。
これらの書物は、一本の線でつながる継承関係にあるのではなく、
その背後に、話題の共通基盤のようなものがあったように思えてなりません。
2022年8月25日
長雨と天人相関説
こんばんは。
以前、こちらの拙論で論及したことのある長雨と天人相関説について、
少しばかり反証めいたことを記しておきます。
それは、長雨が常に天子の失政に起因するとは限らない、
という至極当然の事実です。
先に論じた「贈丁儀」詩(訳注稿04-10)では、
「朝雲不帰山、霖雨成川沢(朝雲 山に帰らず、霖雨 川沢を成す)」の後に、
「黍稷委疇隴、農夫安所獲(黍稷 疇隴に委てらる、農夫 安んぞ獲る所ぞ)」が続き、
更にその次の一段では直接的な為政者批判が為されていますので、
当該詩に詠じられた長雨は、天人相関説に結び付け得ると判断できます。
けれども、曹植は別に「愁霖賦」という作品で長雨を詠じ、
しかも、曹丕や応瑒も同じ題名の作品を残しています(『藝文類聚』巻2)。
応瑒は建安22年(217)に疫病で亡くなっていますから、
もし、現存する曹丕・曹植・応瑒の作品が同じ機会に作られたのならば、
曹植の「愁霖賦」も当然、曹操存命中の建安年間の作だということになります。
そして、それらの作品には特段の為政者批判は認められず、
描かれているのは、雨の中、行き悩む車の様子、おそらくは行軍の有様です。
こうしてみると、この時代の文人たちが持ち出す天人相関説は、
君主を批判するため、用意周到に設定されたフレームなのだと考えられます。
いくら現代自然科学とは別世界に生きていた人々だとはいえ、
悪天候が人間の所業に起因するものだとは信じていなかったでしょう。
(このことは、先にもこちらで述べました。)
2022年8月24日
曹植の妻の死
こんばんは。
曹植は、26歳(建安22年)の頃より以降、
放恣なふるまいにより、父曹操の愛情を失っていったとされています。
ただ、曹植の作品から窺える彼は、情に厚い、誠実な人柄で、
それと、史書に記された放埓さとの間には、何か噛み合わないものを感じます。
人には様々な側面があると言ってしまえばそれでおしまいですが、
曹植本人の伝記資料のみを見ていては見えてこないこともあるでしょう。
それで、ふと目に留まったのが、
曹植の妻が、曹操に死を賜ったという記事です。
『魏志』巻12・崔琰伝の裴松之注に引く『世語』にこうあります。
植妻衣繍、太祖登台見之、以違制命、還家賜死。
曹植の妻は、刺繍を施した衣服を着ていた。
曹操は、高台に登ってこれを目にし、
規律違反という理由で、家に帰して死を賜った。
『世語』は、『隋書』経籍志二、史部・雑伝類に、
「魏晋世語 十巻 晋襄陽令郭頒撰」として記されています。
歴史書としての出来はともかくとしても、
近い時代の人物による記録である点で無視できません。*
曹植の妻は、名士崔琰の兄の娘です。
崔琰は、曹植とそうした姻戚関係があったにも関わらず、
曹操からその後継者問題について問われた際に、
内密にすることもなく、長子を立てるべきだと進言した公平無私の人物です。
その崔琰でさえ、建安22年(216)、つまらぬ者の讒言で曹操から死を賜りました。
曹植にとって尊敬してやまぬ父曹操ではありましたが、
詩人としてひときわ鋭い感受性を持っていた彼が、
自らの父の残忍さに全く気づいていなかったと言えるかどうか。
それとも、「人を疑うことを知らぬ」(曹植「黄初六年令」)彼は、
父の人となりを信じ切っていたのでしょうか。
2022年8月23日
*興膳宏・川合康三『隋書経籍志詳攷』(汲古書院、1995年)p.296を参照した。
黄初四年の曹植(3)
こんばんは。
『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝に、次のような記述があります。
四年、徙封雍丘王。其年、朝京都。
(黄初)四年、雍丘王に遷された。その年、都洛陽で皇帝に謁見した。
そして、この後「上疏曰」として、
「上責躬応詔詩表」「責躬詩」「応詔詩」が引用されています。
この、雍丘王に遷されたことと、洛陽への上京との前後関係については、
これまでにも何度か検討してきました。(直近ではこちら)
結論から言えば、先人の多くが推論するとおり、
上洛が先、雍丘王への着任が後と考えてほぼ間違いないと思われます。
その根拠となし得るかもしれないことで、
先人たちには指摘されていないと見られることをひとつ記しておきます。
それは、『文選』巻24、「贈白馬王彪」の李善注に見える、次の二つの記述です。
集曰、於圏城作。
又曰、黄初四年五月、白馬王・任城王与余倶朝京師。……至七月、与白馬王還国。……
「又曰」以下の記述から明らかなとおり、
「贈白馬王彪」詩は、前述の「責躬詩」「応詔詩」及びその上表文と同じく、
黄初四年の上洛を契機として作られた作品です。
注目したいのは、同じ「集」に記されているという「圏城」です。
これは、鄄城のことを指しているのではないでしょうか。
「圏」と「鄄」とは、発音が非常に近いのです。*
もし、この推測が妥当で、
本詩が鄄城で作られたものだとするならば、
曹植は、洛陽からまず鄄城に帰国したということになります。
そうすると、雍丘王への転封は、それ以降のことと見なくてはなりません。
2022年8月22日
*便宜上『広韻』に拠るならば、「鄄」は去声・線韻、「圏」は複数の韻目に見えているが、上声・獮韻のそれなら、声調は異なるものの、「鄄」と同じ韻母(母音)となる。声母(子音)は、「鄄」が「見」、「圏」が「群」で、清濁は異なるが、同じ牙音である。
曹植の「令」とことわざ
こんばんは。
曹植の「黄初六年令」に、
東郡太守王機らのしつこい監視についてこう記しています。
機等吹毛求瑕、千端万緒、然終無可言者。
機等は毛を吹きて瑕を求むること、千端万緒、然して終に言ふ可き者無し。
ここにいう「吹毛求瑕」は、
『韓非子』大体篇に「不吹毛而求小疵(毛を吹いて小疵を求めず)」と見えます。
しかし、他にも様々な文献に少しずつかたちを変えながら見えているので、
曹植は『韓非子』からこの辞句を選び取って踏まえたというより、
古来あることわざを用いたと見た方がよいかもしれません。
続く「千端万緒」も、複数の文献に散見することから、
定型的な言い方なのだろうと思われます。
この「黄初六年令」の結びに、
故為此令、著於宮門、欲使左右共観志焉。
故に此の令を為して、宮門に著し、左右をして共に志を観せしめんと欲す。
とあるとおり、この文章は、
当時、雍丘王であった曹植が、その配下の者たちに示したものです。
ことわざや定型的な文言を多用するのは、
この文章が本来的に担っているこのような役割に由来するものでしょう。
そういえば、先に読んだ「黄初五年令」には、
『尚書』皋陶謨に由来するフレーズを「伝に曰く」として引き、
『左伝』襄公三十一年に出る語を「諺に曰く」として引いていましたが、
あれらの不正確な(と感じられてしまう)表現も、
「令」を読む人々に合わせた言い方だったのかもしれません。
2022年8月20日
曹植における天人相関説
こんにちは。
『曹集詮評』を底本に、曹植作品の校勘作業をしていて、
「誥咎文」(『藝文類聚』巻100)の序にいう、
次のような記述が目に留まりました。
01 五行致災、先史咸以為応政而作。
02 天地之気自有変動、未必政治之所興致也。
03 于時大風、発屋抜木、意有感焉、聊仮天帝之命、以誥咎祈福。
01 五行が災害をもたらすことについて、
先代の史書はみな政治に応じて起こるものだとしている。
02 だが、天地の気は自ら変動するのであって、
いまだ必ずしも政治が引き起こすものだとは言えない。
03 ただ、時に大風が吹いて、屋根を吹き飛ばし樹木をなぎ倒し、
心中このことに感じるところがあったので、
すこしばかり天帝の命というかたちを借りて、咎を告げ福を祈る。
原文の01部分は、いわゆる天人相関説を指しています。
それが従前の歴史書ではまことしやかに記されていることを言います。
ところが、02部分では、その思想があっさり否定されています。
曹植は、合理的批判精神の横溢する王充『論衡』を愛読していたと見られ、
そんな彼からすれば、天人相関説などナンセンスだったのでしょう。
にもかかわらず、03部分では、この思想のフレームを借りて、
「咎を誥(つ)げ、福を祈る」ことを述べています。
その言葉が向けられた対象は誰でしょうか。
「誥」は、後世では皇帝が天下に告げるものですが、
『尚書』では、臣下が目上の王に対して告げる場合もあります。*
たとえば、周公旦が成王に新都洛陽の建設について報告する「洛誥」など。
すると、この文章は、皇帝に奉られたものだと見ることができます。
曹植は、前述のとおり天人相関説を信じていないにも関わらず、
この説に依拠して、皇帝を戒めていることになります。
他方、天界のことは政治世界とは無関係だと述べて、
必ずしも現皇帝に落ち度があるわけではないと言っているようでもある。
なぜ曹植は、こんな複雑な表現をするに至ったのでしょうか。
いずれ本作品を読んでから考えたいと思います。
2022年8月18日
*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.457、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.413は、「誥」を「詰」の誤記ではないかと解釈している。
赤松滄洲の宮島詩
こんにちは。
赤松滄洲による平賀周蔵『白山集』の序をひととおり読み通し、
少し滄洲先生のことが身近に感じられるようになりました。
そして、その目で再び『藝藩通志』巻32を通覧していると、
「赤松鴻 赤穂文学」という文字が目に入りました。
「鴻」とは、滄洲先生の名前です。
遥望彩雲西海天 遥かに彩雲を望む 西海の天
片帆逐旦至無辺 片帆 旦を逐ひて 無辺に至る
豈思更有新知楽 豈に思はんや 更に新知の楽しき有らんとは
吹送清風満閣前 清風吹き送りて 閣前に満つ *
この詩を、自分なりに通釈すれば次のとおりです。
はるかに西海の上空に広がる美しい雲を眺めつつ、
一隻の舟が太陽を追いかけて果てしない空間へ漕ぎ至る。
思いがけなくも、更に新しい友と知り合う楽しみがあろうとは。
清らかな風がたっぷりと吹いて、我々を社殿の前へと送ってくれる。
本詩の三句目にいう「新知楽」は、
『楚辞』九歌、少司命にいう次の句を踏まえていると見られます。
(諸詩歌に頻見する句ですが、最も古典的な『楚辞』を挙げておきます。)
悲莫悲兮生別離 悲しきは生きながら別離するよりも悲しきは莫く
楽莫楽兮新相知 楽しきは新しく相知るよりも楽しきは莫し
滄洲先生の詩にいう「新知」とは、
おそらくは平賀周蔵を指すのではないでしょうか。
こちらでも少し触れましたが、
共通の友人を介して、二人がいかに意気投合する仲となったか、
赤松滄洲による『白山集』序に詳しく記されています。
2022年8月17日
* 訓読は、『宮島町史 地誌紀行編Ⅰ』(宮島町、1992年)p.546─547を参考にした。