通俗文芸に見られる“女尊男卑”

曹植の「鼙舞歌・精微篇」には、
不甲斐ない父を救う勇敢な娘の物語がふんだんに盛り込まれています。

これは、儒教社会を秩序立てている規範の、
男性より低い位置に置かれるべき女性、
父に従うべき子女、といった常道をひっくり返すものです。

こうした物語を拍手喝采して歓迎する庶民たちがいたのだ、と私は考えてきました。

他方、本来は男性が行うべきことを女性が演ずるからこそ歓迎されるのだ、
といった見方もたしかにあり得ます。

実は、このような指摘を受けて少ししょんぼりしてしまいました。
女性はどこまで行っても見られ楽しまれるだけの存在か、
あくまでも主導権は男性側が握っているのか、と。

ただ、通俗文芸の中には、儒教的秩序を反転させる物語は少なくありません。
たとえば、七歳の子が孔子の師匠となる話などはその端的な例です。
こうした話と、前述の、いわば男尊女卑の逆をいく物語とは、
儒教的規範を笑い飛ばす点で、同傾向のものと捉えることも可能かもしれません。

これに関して、曹植の「鷂雀賦」という作品を想起しました。
この辞賦作品が当時の俗文学に基づいていることは、
かつてこちらでも先行研究を紹介しつつ述べたことがあります。
その「鷂雀賦」の最後のくだりに、
命からがら鷂(ハイタカ)から逃げ出してきた雀の夫が、
帰宅して一転、その妻に向かって威張っていう科白の中にこうあります。

自今徙意  これからは心を入れ換えて、*
莫復相妬  俺様のことをやっかんだりするんじゃないぞ。

「妬」とは、人の良い点をうらやみ、にくむこと。
妻が夫に対して抱くこの感情は「妬」という字で言い表し、
夫が妻に対して抱くのは「媢」だといいます(『説文解字』十二篇下、女部)。

この雀の夫婦は、日頃からお互いに張り合い、
どうかすると、夫の方が妻に押されがちであったと見られます。
だからこそ、間一髪で難を逃れた夫は、妻に見得を切ってみせたのでしょう。

してみると、先に示した曹植「精微篇」、
及び「精微篇」が踏まえた娘たちの物語を詠ずる諸文芸を、
庶民の間では女性が強かったことの現われとして捉えることもできるでしょう。

このことは、民間の孝子説話において、母の存在感が強いこととも響き合います。

2025年5月19日

*「徙意」、『藝文類聚』巻91は「従意(我が意向に従って)」に作る。どちらでも意味は通るが、今は宋本『曹子建文集』に従っておく。

「宜」という助語詞(一昨日の訂正)

一昨日の曹植「大魏篇」の一部を引いた覚書きについて、
本文の訓み下しを次のように改めました。

左右宜供養  左右に 宜し 供養す、
中殿宜皇子  中殿に 宜し 皇子あり。

先には、「宜」を「宜しく……すべし」「……に宜し」と読んでいたのですが、
この語を、語勢を助ける詞「助語詞」ととる王引之(『経伝釈詞』巻5)に従いました。
(『経伝釈詞』は、『毛詩』周南「螽斯」等を引いて説いています。)

以前の読みのようにすると、二つの「宜」で文法的な意味が異なってしまいます。
上は「供養」という動詞が続き、下は「皇子」という名詞が続きますから。

丁晏『曹集詮評』巻5が、上の句の「宜」を「為」に作るのは、
(『宋書』楽志四、『楽府詩集』巻53、『詩紀』巻13は「宜」に作ります)
二つの「宜」の扱いに困惑し、合理化を図ったためかもしれません。

ですが、これを合いの手のような言葉として捉えるならば問題ありません。
歌辞である本作品に用いられた「宜」としてはぴったりです。

2025年5月15日

曹植「大魏篇」における「骨肉」への傾き

曹植の「鼙舞歌」五篇の中に、
曹魏王朝の隆盛を祝い、繁栄を祈念する「大魏篇」という歌辞があって、
その中に、次のような句が見えています。

左右宜供養    左右に 宜し 供養す、
中殿宜皇子    中殿に 宜し 皇子あり。
陛下長寿考    陛下 長寿考なれ、
群臣拝賀咸説喜  群臣 拝賀して咸(みな)説(悦)喜す。

上半分は、親である皇帝に仕える皇子、
下半分は、皇帝に仕える群臣の有様を詠じています。

上半分は、『礼記』檀弓篇にいう、
親に仕える上では「左右就養無方(左右に就養して方無し)」を踏まえ、

下半分は、『毛詩』大雅「棫樸」にいう、
「周王寿考、遐不作人(周王は寿考、遐(とほ)く人を作さざらんや)」を踏まえます。

「棫樸」には、周王の孝行息子は登場しません。

「大魏篇」は、親子の関係を王朝の君臣関係の中に混在させて詠じています。

たしかに、曹植は曹魏王朝の一族です。
また、儒教では基本的に親子関係を敷衍させて君臣関係に展開させます。

ですが、これを漢代後半以降の感情史、
すなわち、この当時の人々は骨肉の情を重んずる傾向にある、
ということを踏まえて捉えるとどうでしょう。

曹植の作品には、骨肉の情を強く打ち出すものが少なくありません。
それを、彼特有の境遇に照らしてのみ解釈するのではなく、
この時代の基盤的感情からも光を当てる。
すると、彼の言葉はよりその実像に近づくでしょう。

ある人の言葉を、
その人が生きた時代の座標において受けとめる。
そうしてこそ、始めて理解できる人と言葉とがあるように思います。

2025年5月13日

民間説話における「母」への傾き(承前)

以前、こちらで書いたことに関して、
後漢初めの班固(32―92)に、次のような記述があることに気づきました。
『白虎通』の号の項に、始めて人道を定めた伏羲に関連して、
太古の人々の状況を次のように記しています。

古之時、未有三綱六紀、民人但知其母、不知其父。
 太古の昔、人としての規範である三綱六紀*は未だ定まらず、
 民たちはただその母親を知っているだけで、その父を知らなかった。

儒教という道徳的規範が社会を覆う以前、
人々の気持は、人為的にその役割が高く標榜された父性よりも、
生き物としてより自然に、母なる者の方に向かっていたということでしょう。

たとえば、曹植「鼙舞歌・霊芝篇」にも詠じられた董永の故事について、

前漢の劉向(BC77―BC6)『孝子図』や、
東晋の干宝(?―336)『捜神記』に記すところでは、
董永が弔い供養したのは父親であったことが記されていますが、

他方、唐代の「董永変文(董永行孝)」では、
父親に加えて母親もその供養の対象となっています。
そればかりか、董永と天女との間にできた子が、天上界に母を探しに行きます。

董永の故事を詠ずる変文には、
漢代六朝期の文献に見える故事を膨らませた部分はもちろんあるでしょう。
ですが、この故事の古層に属する部分が温存されている可能性もあるように思います。

伝存する文献を、時系列に並べて、進化論でもって説明するのではなく、
文献資料とは異なる次元で推移する(あるいは堆積していく)、
口承で伝えられる物語の存在を想定することができるのではないかと考えます。

2025年5月12日

*『白虎通』三綱六紀に、「三綱者、何謂也。謂君臣・父子・夫婦也。六紀者、謂諸父・兄弟・族人・諸舅・師長・朋友也(三綱なる者は、何をか謂ふや。君臣・父子・夫婦を謂ふなり。六紀なる者は、諸父・兄弟・族人・諸舅・師長・朋友を謂ふなり)」と。

王への特別待遇

曹植「聖皇篇」に、次のような句があります。

乗輿服御物  乗輿の服御物、
錦羅与金銀  錦羅と金銀と。
竜旗垂九旒  竜旗 九旒を垂れ、
羽蓋参斑輪  羽蓋 斑輪を参(まじ)ふ。

この中の「竜旗垂九旒」は、
『礼記』楽記篇にいう「竜旂九旒、天子之旌也」を踏まえており、
だとすると、この句は皇帝について描写するものと判断せざるを得ず、
ただ、そうすると前後の文脈から逸脱して不自然である、という問題について、
これを解消し得る史実があったことを、かつてこちらに記しました。

すなわち、後漢の清河孝王慶が、
皇帝に等しい特別待遇を受けていたという事実がそれです。
(『後漢書』巻55・章帝八王伝)

その後、天子の旗である「竜旂」が、
曹植の兄の曹彰に対しても、その死後に下賜されていることを知りました。
『三国志(魏志)』巻19・任城威王彰伝に、
黄初四年に都洛陽で没したことに続けてこうあります。

至葬、賜鑾輅、竜旂、虎賁百人、如漢東平王故事。
 埋葬するとき、鈴のついた天子の車、竜の御旗、近衛兵百人が下賜されたこと、
 漢の東平王の場合と同様であった。

「漢東平王」とは、後漢の東平憲王蒼(『後漢書』巻42・光武十王列伝)のようです。
このことを調べている中で、同様な厚遇をその死後に受けた王として、
前掲の劉蒼の外にも、東海恭王彊(『後漢書』巻2・顕宗孝明帝紀)、
また、先に言及した清河孝王慶も、弔いの際に、
「賜竜旂九旒、虎賁百人、儀比東海恭王」と記されており、
李賢等注にも、それが破格の待遇であったことをこう記しています。

旂有九旒、天子制也。
恭王彊葬、贈以殊礼、升竜旄頭、鑾輅、竜旂、虎賁百人。
 旗に九つの旒(吹き流し)があるのは、天子の制度である。
 恭王彊は埋葬の際、特別な礼として、升竜の旄頭、鑾輅、竜旂、虎賁百人を贈られた。

曹植「聖皇篇」に描かれた諸王の皇帝並みのいでたちは、
たしかに破格の待遇ではありましたが、近い過去には複数の事例が認められました。
そして、先日来注目している清河孝王慶もまた、その皇帝並みの待遇を受けた一人でした。
ただし、曹植「聖皇篇」の詠ずる諸王はまだ亡くなってはいません。
そこが現実とは異なっているところです。

2025年5月11日

陸機と曹植について(継続)

陸機「弔魏武帝文」(『文選』巻60)にこうあります。

信斯武之未喪  信(まこと)に斯の武の未だ喪(ほろ)びず、
膺霊符而在茲  霊符に膺(あた)りて茲に在る。

この表現は、
『論語』子罕篇に見える、
孔子が、匡の地で危険な状況に陥った際に言った言葉、

文王既没、文不在茲乎。……天之未喪斯文也、匡人其如予何。
 文王は既に没すれど、文は茲に在らずや。……
 天の未だ斯の文を喪(ほろぼ)さざるや、匡人 其れ予を如何せん。

を踏まえ、『論語』にいう「文」を「武」に置き換えて、
魏の武帝曹操を最大級に称賛したものです。

加えてここには、曹植「大魏篇(「鼙舞歌五篇」其三)」の冒頭にいう、

大魏応霊符  大魏 霊符に応じ、
天禄方甫始  天禄 方(まさ)に甫始(はじ)まる。

が踏まえられていること、前掲陸機作品の李善注にも指摘するところです。*

では、陸機はどのような経緯で曹植作品に出会ったのでしょうか。

曹植(192―232)の作品は、
彼がその名誉を回復した魏の明帝の景初年間(237―239)に前後して、
意外と速い速度で広範囲に伝播していったと思われます。(かつてこちらで触れました)。
当然、陸機が故郷で研鑽を積んだ時期(呉が滅亡した280年から十年間)、
その作品はすでに呉の地に流入していたと見られます。
とはいえ、陸機における曹植作品の摂取には、
彼の西晋王朝での後見役、張華の存在が非常に大きかったと見られます。
(このことについては、かつてこちらで述べました。)

2025年5月4日

*ただし、李善注に引くところは「大魏膺霊符、天禄方茲始」に作る。これは、本文のテキストに渉って誤ったか。なお、『文選』巻8、孫楚「為石仲容与孫晧書」の「協建霊符、天命既集(霊符に協(とも)に建て、天命既に集(な)る)」に対する李善注には、曹植の同作品を引いて「大魏応(應)霊符、天禄乃始」に作る。「膺」字は、その上半分が「應(応)」と同じであるため、書き誤った可能性もある。

曹植「聖皇篇」に表れた基盤的感情

先日、「聖皇篇」の訳注稿を公開しました。
この歌辞の終盤に、次のような辞句が見えています。

扳蓋因内顧  車の蓋いを引き寄せて振り返り、
俛仰慕同生  頭を垂れたり遠くを仰ぎ見たりして、血を分けた兄弟たちを恋い慕う。

ここに用いられている「内顧」という語は、
『論語』郷党篇にいう次の内容を踏まえていると見られます。

升車、必正立執綏、車中、不内顧、不疾言、不親指。
 乗車するときは、正しい姿勢で立って綱につかまり、
 車中では、よそ見をせず、早口でしゃべりたてたりせず、指差ししたりしない。

『論語』では、折り目正しいふるまいとして、「不内顧」とあります。

他方、曹植「聖皇篇」では、それを反転させています。
すると「内顧」は、車中での所作として規範から外れるという意味を帯びるでしょう。

これに続く句にいう「俯仰」が、
『文選』巻29、蘇武「詩四首」其二にいう
「俛仰内傷心、涙下不可揮」を響かせていることからもうかがえるように、
曹植のこの歌辞には、振幅の大きい感情表現が目立ちます。
それは、特に漢代の詩歌を踏まえた表現に端的に見いだせるものです。

加えて、その感情表現の対象は肉親であって、
決して儒教の説く天下国家ではないということも注目されます。

曹植「聖皇篇」は、漢代「鼙舞歌」五篇の一篇「章和二年中」に基づいて作られました。*
「鼙舞歌」は、宴席で上演されていた芸能ですが(『宋書』巻19・楽志一)、
そうした娯楽的空間で共有されていた基盤的感情の特質が、
「内顧」の一語からも窺い知れるように思います。

作品は、作者の個性、作者の生きた時代のみならず、
当時の人々の基盤的感情を押さえてこそ、始めて読解できる部分がありそうです。

2025年5月3日

*以前、「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として」(『中国文化』第73号、2015年)では、この後漢の「章和二年」に起こった出来事と、曹植「聖皇篇」に詠じられていることとを照合して、本作品が漢代鼙舞歌辞を忠実になぞったものである可能性が高いことを論じた。今回ここに述べたことは、先の拙論とは異なる視点である。

曹植「聖皇篇」札記3

曹植「聖皇篇」の中に、「乗輿服御物」という句が見えます。

これと同一の句が、蔡邕『独断』上に次のように見えています。

乗輿出於律。
律曰、敢盗乗輿服御物、謂天子所服食者也。
天子志尊、不敢渫瀆言之。故託之於乗輿。乗猶載也。輿猶車也。
 乗輿という語は律に由来する。
 律にいう「敢えて乗輿の服御物を盗んだ場合は」は、天子の衣服食物を言っているのだ。
 天子は最高に尊い存在なので、これを口にして冒涜することはとてもできない。だから、
 それを乗輿に託して言うのだ。乗とは載る、輿とは車の意味にほぼ等しい。

曹植は、この律の文をそのまま詩に織り込んだのかもしれません。

というのは、一句を置いて後に続く「竜旗垂九旒」が、
(隔句対とまでは言えませんが、バランスを取る意識は働いているように思います。)
『礼記』楽記にいう「竜旂九旒、天子之旌也(竜旂九旒は、天子の旌(はた)なり)」を
ほとんどそのまま用いているからです。

曹植の詩歌には、
身辺にごろりと転がっているような言葉を、
経書に見えるような言葉と同等に並べて用いるような、
常識を軽々と超える、ざっくりとした自由さがあるように思います。

2025年1月10日

「殿前生桂樹」が象徴するもの

曹植「霊芝篇」が基づく漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」は、
おそらく第一句に、殿前に桂樹が生い出たことを詠ずる歌辞なのでしょう。
ではなぜこのようなことから歌い起こすのでしょうか。

類似句は、たとえば古楽府「相逢狭路間行」(『玉台新詠』巻1)に、

中庭生桂樹  中庭に桂樹を生ず
華燈何煌煌  華燈 何ぞ煌煌たる

と見えていますが、そのことが何を意味するのか、今ひとつわかりません。
(単なる風景描写なのかもしれませんが。)

それで、ふと思い当たったのが、
『漢書』巻27中之上・五行志中之上に引く前漢成帝期の歌謡の中に、
「桂樹華不実(桂樹 華実らず)」とあり、歌辞に続けてこうあることでした。

桂、赤色、漢家象。華不実、無継嗣也。
 桂は、赤色にして、漢家の象なり。華実らずとは、継嗣無きなり。

桂樹がこのようなイメージを伴うとすれば、
「殿前生桂樹」は、漢王朝が後継者に恵まれるよう祈るものかもしれません。

これは、昨日述べたこと(妄想)ともつながるかもしれません。
竇皇后は自身が子に恵まれなかったため、肇(和帝)の育ての母となりましたが、
そのことと、漢の後継者を象徴する「桂樹」とはイメージが重なります。

ただ、これは仮説の上に重ねる仮説です。
しばらくすれば、一笑に付すべきものと化すかもしれません。
いつでも引き返すつもりでいます。

2025年1月9日

もうひとつの「慈母」の意味

曹植の「霊芝篇(鼙舞歌2)」は「孝」を詠じていますが、
そのもととなった漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」も同様であったと見られます。
(曹植「鼙舞歌」は漢代のそれを忠実に再現しようとしたものです。*)

そして、「殿前生桂樹」の背後には、
清河孝王慶にまつわる史実(『後漢書』章帝八王伝)があったと思われます。
このことについては、過日こちらで述べました。

さて、この史実を前掲『後漢書』で確認している時に、
章帝の詔の中に、「慈母」という語のあることに目が留まりました。

この詔は、竇皇后のウソの奏上を信じた章帝が、
皇太子である劉慶を廃し、肇(後の和帝)を太子としたものです。

竇皇后は、劉慶とその母宋貴人を陥れんと誣奏をし、
かくして彼女は、自身の育てた劉肇を皇太子とすることができたのです。

その章帝の詔の中に、
「蓋庶子慈母尚有終身之恩(蓋し庶子の慈母すら尚ほ終身の恩あり)」、
まして、皇后に正しく育てられた肇であれば大丈夫だ、
というくだりがあります。

吉川忠夫訓注『後漢書』第七冊(岩波書店、2004年)は、
この部分に「慈母は育ての母」と説明した上で、
李賢等注に『儀礼』喪服の「慈母如母」を引くことを示しています。

この意味での「慈母」は、まさしく竇皇后そのものです。

ところで、曹植「霊芝篇」の末尾にもこの語がこう見えています。

陛下三万歳  陛下 三万歳、
慈母亦復然  慈母も亦た復た然り。

このように言祝ぐ曹植の歌辞は、
直接的には文帝曹丕と自身の母でもある卞皇后を指すでしょう。

他方、もしかしたらこれに類する文脈で、
漢代「殿前生桂樹」も「慈母」という語を用いていたかもしれないと思いました。

その場合は、清河王劉慶が、和帝と竇皇后を言祝ぐこととなるでしょうか。
劉慶は、和帝とはとても親しい間柄でしたが、
竇皇后は、自身の母を自殺に追い込んだ人なのですから、
これは辛いです。

もっとも、「殿前生桂樹」がこの間のことを詠じているとは限らないし、
そもそも歌辞が史実を直接反映するとも限りませんが。

2025年1月8日

*拙稿「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として」(『中国文化』第73号、2015年)を参照されたい。

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