古詩と古楽府との関係

昨日触れた「古詩八首」(『玉台新詠』巻1)其六「四坐且莫諠」は、
その内に、古楽府に見える辞句を多く取り込んでいました。

これとは逆に、古楽府が古詩の辞句を取り込んだ事例もあります。

たとえば「西門行」は、その本辞(『楽府詩集』巻37)も
晋楽所奏「大曲」の「西門行」(『宋書』巻21・楽志三)もともに、
「古詩十九首」(『文選』巻29)其十五「生年不満百」から多くを摂取しています。*1

古詩と古楽府との関係性について、
長い間、古楽府が古詩に展開したと見るのがほぼ定説でした。

特に先鋭的な論述として、たとえば白川静は、
「民衆の歌謡」が「新しい文学を生む母胎となる」とし、
古詩は、古楽府を母胎として生まれたのであり、
「古詩から楽府が生まれること」は「ありえない」としています。*2

詠み人知らずの楽府詩である古楽府の中には、
たしかに「民衆の歌謡」との呼称にふさわしいものが多くあります。
ですが、そうではないものもまた少なくありません。

他方、古詩諸篇を精読すれば、
それを一括して後漢時代末の作と見なせないことは明白です。

古楽府を一括して民衆のものとし、
古詩を一括して無名の知識人の作とする、
このある意味わかりやすいレッテルは一旦はがし取って、
個々の作品分析から精査し直した方がよいと私は考えています。

如上の論は、すでに過去の自分が提示したものですが、
今もなお、前掲の定説に依拠した研究は少なくないように思い、
敢えて昔のものを持ち出して紹介する次第です。

2025年10月3日

*1 論の詳細は、昨日紹介した拙論を参照されたい。
*2 白川静『中国の古代文学(二)』(中公文庫、1981年)p.132―133を参照。

詩歌相互の影響関係

『玉台新詠』巻1「古詩八首」其六「四坐且莫諠」は、
昨日取り上げた「古艶歌」との間に明かな類似点が認められます。*

四坐且莫諠  一座の皆様、しばらく静かにして、
願聴歌一言  どうか私の歌うことに耳を傾けてほしい。
請説銅鑪器  銅の香炉について、お話しさせていただこう。
崔嵬象南山  それは南山のように高々と聳えていて、
上枝以松柏  上の枝は松柏をかたどり、
下根拠銅盤  下の根は銅盤に拠っている。
雕文各異類  彫刻を施した文様には様々な種類があって、
離婁自相聯  それらはくっきりと刻まれて連なり合っている。
誰能為此器  誰がこのような器物を作ることができるかといえば、
公輸与魯班  それはかの公輸班や魯班のような名工だろう。
朱火然其中  赤い炎がその中に燃え、
青煙颺其間  青い煙がその間から立ち昇る。
従風入君懐  煙は風に従ってあなたの懐に入り込むが、
四坐莫不歓  一座の皆様は、誰もがそれを喜ばれることだろう。
香風難久居  だが、香しいそよ風はなかなか久しくは留まらず、
空令蕙草残  あとには空しく香草を残すことになるのだ。

本詩と「古艶歌・南山石嵬嵬」との類似性は、
まず、本詩の「崔嵬象南山(崔嵬たること南山に象(に)たり」に顕著です。
「上枝以松柏(上枝は松柏を以てす)」の「松柏」「上枝」も、「古艶歌」に見えています。
「誰能為此器、公輸与魯班(誰か能く此の器を為す、公輸と魯班となり)」は、
「古艶歌」の「誰能刻鏤此、公輸与魯班(誰か能く此を刻鏤せん、公輸と魯班となり)」とほとんど同じです。

では、どちらがどちらに影響を与えたのでしょうか。

実は、前掲の「古詩」には、
昨日挙げた「古艶歌」以外の作品にも類似表現を見い出せます。

たとえば、「豫章行」(『楽府詩集』巻34)にいう、
「上葉摩青雲、下根通黄泉(上の葉は青雲を摩し、下の根は黄泉に通ず)」は、
「古艶歌」の「上枝拂青雲(上枝は青雲を拂ふ)」と酷似していますが、
この両者があわさって、前掲「古詩」にいう、
「上枝以松柏、下根拠銅盤(上枝は松柏を以てし、下根は銅盤に拠る)」
になったのではないかと見られます。

前掲「古詩」とその他の作品とが類似表現を共有する例として、

たとえば「従風入君懐(風に従ひて君が懐に入る)」は、
前漢末の班婕妤の作と伝えられる「怨歌行」(『文選』巻27)にいう
「出入君懐袖、動揺微風発(君の懐袖に出入して、動揺して微風発す)」を思わせます。

この他、詩歌ではありませんが、前漢末の劉向「薫鑪銘」(『藝文類聚』巻70)には、
先にも言及した「上枝以松柏、下根拠銅盤」を想起させる
「上貫太華、承以銅盤(上は太華を貫き、承くるに銅盤を以てす)」という句が見えており、
また、「朱火然其中、青煙颺其間(朱火其の中に然え、青煙其の間に颺がる)」に似た、
「朱火青煙(朱き火に青き煙)」といった句も見えています。

このように、あるひとつの作品に、複数の作品の影響が認められる場合、
それらの関係性はどのように捉えるべきでしょうか。

それは、この「あるひとつの作品」は「複数の作品」から表現を摂取して成った、
と、このように捉えるのが最も妥当だと私は考えます。

今ここで挙げた具体的作品を例に言うならば、
『玉台新詠』所収「古詩八首」其六は、
「古艶歌」、「豫章行」、班婕妤「怨歌行」、劉向「薫鑪銘」等々、
様々な作品が同時に見渡せる地点(つまりかなり時代が下ってから)に立ち、
それらから幾つかの表現を摂取し、綴り合せ、ひとつの詩歌に織りあげたものである、
というふうに捉えるということです。

前述の大原則は、かなり汎用性の高い分析方法だという実感を持っています。
建安詩と漢代詩歌との関係性も、この方法を用いて比較的精度の高い推定が可能です。

2025年10月2日

*拙論「漢代古詩と古楽府との関係」(『日本中国学会報』第62集、2010年。『漢代五言詩歌史の研究』創文社、2013年に収載)を参照されたい。

本歌と詩人の替え歌

昨日取り上げた曹植の「当欲遊南山行」について、
黄節は、次に示す「古艶歌」(『藝文類聚』巻88)との共通点を指摘しています。
(この詩歌の訓み下しは、本詩訳注稿の余説をご参照ください。)

南山石嵬嵬  南山には、巨石がごつごつと聳え立ち、
松柏何離離  松柏のなんと盛んに連なり合っていることか。
上枝拂青雲  上の枝は青い大空を払うほどに伸び、
中心十数囲  中心の幹は十数囲もあろうかという太さだ。
洛陽発中梁  洛陽から棟木に充てる木が求められ、
松樹窃自悲  松の樹はひそかに逃れられぬ定めと自らを悲しんだ。
斧鋸截是松  斧や鋸でこの松を切り倒し、
松樹東西摧  松の樹は東と西とに打ち砕かれてしまった。
持作四輪車  それでもって四輪の車を作り、
載至洛陽宮  伐採した木を載せて洛陽宮に届ける。
観者莫不歎  これを見物する者は誰もが感嘆の声を上げて、
問是何山材  「これはどちらの山の材木か」と問う。
誰能刻鏤此  誰がこれに彫刻を施せるかといえば、
公輸与魯班  公輸や魯班のような名工である。
被之用丹漆  これに深紅の漆を塗り被せ、
薫用蘇合香  焚き染める薫りは蘇合香。
本自南山松  もとは南山の松であったが、
今為宮殿梁  今では宮殿の梁である。

たしかに黄節の言うように、
曹植「当遊南山行」とこの「古艶歌」との間には、
太い幹をもつ巨木、それで乗り物を作ること、匠の技への言及など、
いくつかの類似する要素が認められます。

けれども、両者のテーマは異なっていて、
「古艶歌」は、南山で切り出された巨木が都の宮殿の梁となったこと、
曹植「当欲遊南山行」は、個々人の特性を活かす人材登用の重要性を説いています。

では、両者はまったく無関係だと言い切れるでしょうか。

楽府詩の制作において、
その本歌がまだ実際に歌われている歌謡であった場合、
活きている楽曲に合わせて、しばしばその歌辞は自由に作られます。
他方、その楽曲がすでに失われている場合、
新しい歌辞は、伝存する本辞や楽府題の示すテーマに沿って作られます。

今、「欲遊南山行」という題名の楽府詩は伝存しませんが、
当時、もし前掲の「古艶歌」が別名「欲遊南山行」として流布していたならば、
(「古艶歌」に「欲遊南山」という語が含まれていないのが難点ですが)

曹植がその本歌に含まれる要素から幾つかを選び取り、
そこから自由に詩想を展開させた可能性も無いとは言い切れません。

そうすると、「当欲遊南山行」で詠じられているのは、
曹植自身の強い思いに発する政治思想だと捉えられることになります。

もっとも、黄節自身も記しているように、
曹植の模擬対象が前掲「古艶歌」であったかどうか分からないのですが。

2025年10月1日

曹植「当欲遊南山行」の制作年代(承前)

本日、「当欲遊南山行」(05-33)の訳注作業を終えました。

読解を終えて、やはりこれは建安年間の作と見るのが妥当だと感じました。
狩野直喜先生の学風である「心得の学」に倣って言えば。

では、どうして自分はそのように感じたのか。

それは、本詩の内容が一筋の美しい倫理観に貫かれており、
ためらいや屈折、そうした倫理観に至った紆余曲折が見えないからです。

若い曹植が心を砕いたことのひとつとして、
曹操のもとに集った人々への待遇という問題がありますが、*1
そうしたテーマが、何の衒いもなくまっすぐに詠まれている作品です。

また、表現的技巧の面から見ても極めて素直です。

まだ挫折を知らない曹植が、
父曹操の主催する魏王国の盛大なる宴席で、
その若々しい抱負を披露したのが本詩ではないかと考えます。
その点、同じ曹植の「薤露行」(05-10)と制作の背景が近いかもしれません。*2

2025年9月30日

*1 たとえばこちらをご参照ください。
*2 「薤露行」については、拙論「曹植における「惟漢行」制作の動機」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号、2022年)で論究しています。

狩野直喜の曹植文学論

狩野直喜『魏晋学術考』(筑摩書房、1968年)に、
曹植の文学について論述しているところがあります(第十六から十八)。

吉川幸次郎が受講したというそれらの論を、
タイムスリップした潜りの学生になったつもりで読んでみました。

その十八「曹植(三)―七哀詩と雑詩」で、狩野先生はこう述べられます。

一体、詩を解するには、二方面よりせざるべからず。一は文字に顕はれたる意味よりするもの、二は文字の裏面に含むもの、即ち文字は或事柄を述ぶれども、そは唯比興の為めに言ふた丈で、本意は別にありとし、その方よりするものなり。

つまり、詩においては、
文字どおり表現されている事柄の裏側に、
その文字どおりの事柄を喩えに、別の内容を表現している場合があって、
詩を解釈するには、そうした両面からの読みが必要だ、と。

その上で、曹植の「七哀詩」や「雑詩」は、
男女の愛情に重ねて、曹丕との君臣関係を詠ずるものだと論じておられます。

これは、私がかつて曹植「種葛篇」「浮萍篇」について述べたことと、
(その一端を挙げるならば、こちらこちら
基本的にほとんど同じ解釈方法を取っていると言えます。

では、どこが異なっているのでしょうか。

狩野先生は、前述のような表現手法は、夙に『詩経』や『楚辞』にあるとされています。

それに対して私論の方は、曹植作品が踏まえた『詩経』それ自体から、
「種葛篇」「浮萍篇」がダブルミーニングの詩であることを明らかにしたものです。
それは、『詩経』に常套的な表現手法である「比」や「興」とは別物です。

先人は、中国学に対する圧倒的な学識に基づいて、
「心得の学」(吉川幸次郎による跋にいう)をもって論じられました。

そうした蓄積の薄弱な私は、
清朝や民国の先人たちに多くのことを教わりながら、
あわせて情報処理的ツールを駆使して調査する方法を取りました。

こうした方法によって、研究の精度は上げられます。
けれども、本当は私も「心得の学」を目指したいと思っています。
同書の吉川幸次郎による跋にいう、
「前人の言に完全に共感しないかぎり、にわかにそれに従わない」姿勢です。

2025年9月29日

曹植「当欲遊南山行」の制作年代

曹植の「当欲遊南山行」には、彼の政治思想がうかがえます。
では、その成立年代はいつ頃なのでしょうか。

本詩の末尾に、次のような句が見えています。

仁者各寿考  仁ある方におかれては各々長命であらせられますよう。
四坐咸万年  一堂の皆様におかれても、末永い寿命を与えられますよう祈ります。

これは、あきらかに宴席での決まり文句的な科白です。

曹植はその後半生において、
こうした宴席に参列する機会はほとんどありませんでした。
たとえば、かつてこちらで言及したことのある「求通親親表」に、

毎四節之会、塊然独処、  四節の会ある毎に、塊然として独り処り、
左右唯僕隷、所対惟妻子。 左右には唯だ僕隷のみ、対する所は惟だ妻子のみ。

とあるとおりです。
文帝の黄初年間、明帝の太和年間における曹植には、
宴席で自身の抱負を高らかに開陳するようなことはなかったと思われます。
すると、本詩の成立は建安年間と見るのが妥当でしょう。

このことをめぐって、先人たちの説は次のとおりです。

趙幼文は、この作品を明帝期に繋年し、
人材登用に関する主張が、その「陳審挙表」の内容にほぼ合致するとしています。*1

曹海東は、本詩中に、他者を容れない曹丕への批判を含む可能性を指摘しています。*2

徐公持は、前掲の二句にも言及しつつ、本詩を建安年間中の作と推定しています。*3

現実と詩とを直結させることは、
しばしば読みを狭いところに追い込んでしまうものですが、
思うところあって、今敢えてこの問題に踏み込んでみようと考えています。

2025年9月28日

*1 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)巻3、p.425。
*2 曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.251。
*3 徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.250。

『孔子家語』の辞句と曹植詩

昨日も言及した曹植「当欲遊南山行」(05-33)の第一・二句、
「東海広且深、由卑下百川(東海は広く且つ深し、卑きに由りて百川を下らしむ)」は、

王粛『孔子家語』観周に記された、
金人の背面の銘文に見える次の句ととてもよく似ています。*1

江海雖左、長於百川、以其卑也。
江海は低い位置にありながら、百川を束ねているのは、その低さゆえにである。

曹植詩と『孔子家語』とは、
「海」「長」「百川」「卑」を共有していますから、
両者間にはたしかな影響関係が認められるといってよいでしょう。

ただし、難しいのはその両者の関係性です。

曹植(192―232)と王粛(195―256)とは同時代人です。
ですから、もちろん曹植が『孔子家語』を踏まえたはずはありません。

『孔子家語』については、かつて何度か言及したことがありますが、
狩野直喜が次のように述べるとおり、これは王粛によって作られた偽書です。*2

家語の首に粛の序があり、其の序に据ると、孔子の子孫孔猛の家より発見したと、古書の如く粧ふけれども、左伝・国語・荀・孟・二戴等の書を割裂して作った跡は、顕然として掩ふことは出来ない。

このように『孔子家語』が様々な文献の寄せ集めだとするならば、
そのもととなった言葉に、王粛と同様、曹植も触れていた可能性があります。

ちなみに、『史記』巻89・李斯伝に、次のような類似句が見えています。*3

太山不譲土壌、故能成其大、  太山は土壌を譲らず、故に能く其の大を成し、
河海不択細流、故能就其深、  河海は細流を択ばず、故に能く其の深を就(な)し、
王者不却衆庶、故能明其徳。  王者は衆庶を却けず、故に能く其の徳を明らかにす。

これは李斯の上書中にある語であって、
金人の背面に刻み付けられた銘文ではありません。

そして、この辞句は、昨日示した『管子』形勢解とよく似ていますし、
同じような辞句は、この他にも『説苑』尊賢、『韓詩外伝』巻3などにも認められます。

このように見てくると、
ある理想的な君主像を語る言葉がすでに流布していて、
それが様々な人物の発言や著作物に取り込まれたのだと推し測れます。

『孔子家語』と曹植「当欲遊南山行」との間に認められる表現の近似性は、
その背後に、こうした諺語めいた辞句の存在を想定してはどうだろうかと考えます。

2025年9月27日

*1 このことは、古直『曹子建詩箋』(広文書局、1976年三版)巻4/22aの指摘によって知り得た。
*2 狩野直喜『中国哲学史』(岩波書店、1953年第一刷、1981年第十八刷発行)p.307を参照。
*3 前掲の古直『曹子建詩箋』を参照。

曹植の政治思想

少しずつ進めている「曹植作品訳注稿」、
本日より「当欲遊南山行(「欲遊南山行」に当つ)」(05-33)に入りました。

その最初の四句はこうです。

東海広且深  東の海は広くしかも深い。
由卑下百川  自身の低さによって幾多の川を引き入れるからだ。
五岳雖高大  五岳は高く大きくそびえているけれど、
不逆垢与塵  塵芥のごとき卑小なものを拒んだりはしない。

これを見て真っ先に想起したのが、
曹操「対酒・短歌行」(『宋書』楽志21・楽志三、『文選』巻27)の次の句です。

山不厭高  山は土の堆積により高さが増すのを拒まず、
海不厭深  海は水の増加により深さが増すのを拒まない。
周公吐哺  周公は食事も中断して客人を迎えたが、
天下帰心  これでこそ天下の人民はなつくのだ。

こうした表現内容の近似性からは、
曹植が父曹操をどれほど敬愛していたかがうかがわれます。
曹植は、曹操のこのような政治思想を理想としていたのかもしれません。

前掲の曹操「短歌行」の上二句について、
『文選』李善注は、『管子』形勢解の次の一節を注に挙げています。

海不辞水、故能成其大。  海は水を辞せず、故に能く其の大を成す。
山不辞土、故能成其高。  山は土を辞せず、故に能く其の高を成す。
明主不厭人、故能成其衆。 明主は人を厭はず、故に能く其の衆を成す。
士不厭学、故能成其聖。  士は学を厭はず、故に能く其の聖を成す。

黄節『曹子建詩註』は、前掲「当欲遊南山行」の句について、
李善が曹操「短歌行」に注したのと同じ『管子』形勢解を注に挙げています。
もしかしたら黄節は、両者の近さに気づいていたのかもしれません。

2025年9月26日

曹植「鼙舞歌」五篇の訳注を終えて

本日、やっと曹植「孟冬篇」の訳注を終えました。
(多々あろうかと思われる不備や誤りは随時訂正していきます。)

本詩は、曹植「鼙舞歌」五篇の其五で、
皇帝の狩猟とその後に催される饗宴の様子を描く楽府詩です。

ただ、狩猟とはいっても、実際に野外で行われるそれの実写というより、
やや芝居がかった筆致の描写であるように感じられます。

たとえば、直近ではこちらに記した、慶忌や孟賁のような勇者の様子を描写する、
「張目決眥、髪怒穿冠(目を張りて眥を決し、髪は怒りて冠を穿つ)」が挙げられます。

彼らがもし実際に狩猟に従事している勇者たちならば、
このように見得を切っている暇はないのではと思ってしまうところですが、
これは、現実の彼らの様子がどのようであるかとは関わりなく、
作者がそのように表現したということです。

曹植の描写の筆致は、非常に作り込まれた印象を読者に与えます。
このことは、たとえば張衡の「西京賦」(『文選』巻2)に特徴的な表現、
特に皇帝の狩猟や宴席風景を描く辞句がよく摂取されていることからもうかがえます。

曹植「孟冬篇」は彼の「鼙舞歌」五篇のひとつですから、
他の四篇の「鼙舞歌」と同じく、宴席という場での披露を前提としていたでしょう。
そのにも「成下国之陋楽(下国の陋楽と成す)」と記されているとおりです。

この作品群は、どのような要素から成り立っているでしょうか。
そこから、当時の宴席芸能の有り様を、総体として推し測ることができるでしょう。

2025年9月25日

曹植「孟冬篇」と漢代宴席文芸

曹植「鼙舞歌・孟冬篇」の語釈と本文訓み下しを終え、
やっと本詩の全体像が見渡せるところにまでたどり着きました。

本詩は、曹植の他の「鼙舞歌」と同じく、
宴席芸能としての漢代「鼙舞歌」の作風を踏襲していると推測できます。*1
その一斑として、次のようなことも挙げられます。

『宋書』巻22・楽志四所収の本詩に、
「当狡兎(「狡兎」に当つ)」と注記されています。
このことからすると、
漢代の「鼙舞歌・四方皇」には、*2
「狡兎」という語が含まれていた可能性が高いと言えます。
ちょうど、「当関東有賢女」と注記された曹植「鼙舞歌・精微篇」に、
「関東有賢女」という句がまるごと含まれているように。

そして、曹植「孟冬篇」中に見える「翟翟狡兎(翟翟たる狡兎)」という句は、
先日来何度か言及している『焦氏易林』の、巻4「未済之師」にいう、
「狡兎趯趯(狡兎は趯趯たり)」に近似しています。

「翟」は「趯」と音が近いので、
「翟翟」「趯趯」は、擬態語として同義と見てよいでしょう。

『焦氏易林』は、民間芸能に由来する言葉を豊富に含んでいるようです。
すると、「孟冬篇」もそうした雰囲気を濃厚にまとっている可能性が高いと言えます。

2025年9月24日

*1 柳川順子「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として」(『中国文化』第73号、2015年)を参照されたい。
*2 曹植「孟冬篇」が漢代の「鼙舞歌・四方皇」に当てて作られたと推定できることについては、「大魏篇(鼙舞歌3)」(05-42)の解題を参照されたい。

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