「八幡八景」文芸の展開
過日、「八幡八景」と悦峰との関わりを通して、
「八幡八景」文芸の展開について、自分なりの考えを述べました。
これに関して、伊藤太氏所論による重要な指摘を転記します。*1
(先にはその重要性を未だ受容できていませんでした。)
伊藤氏は『八幡八景』の二種の稿本「正徳本」「昭和本」を比較し、
昭和本が、正徳本のような「各景ごとに章立てする形式」には則らないことを
次のように述べています。
(昭和本は)題詠の需めに応じて当初作られたそれぞれの「八幡八景」一組の作品集ごとのまとまりを尊重した形で半数近くが構成されている。
より古い正徳本『八幡八景』のみならず、近代の写本である『八幡雄徳山八景』の書誌と内容についても煩雑をいとわず紹介したのは、この昭和本が、正徳本だけではうかがい知ることができない「八幡八景」の当初の姿、いわば原本「八幡八景」諸本の形をかなり忠実に伝えていると判断したからである。
この指摘は、元文四年に『厳島八景』が刊行されて以降、
各々嚴島に奉納された「厳島八景」文芸の、本来の姿が辿れなくなったのを想起させます。*2
さて、先にも述べたように、
この貴重な昭和本『八幡雄徳山八景』の中には、
後に「厳島八景」詩及び詩序を奉納することになる悦峰の名が見えますが、
それに先んずる部分に「黄檗千呆」の名も見えています。
千呆は、黄檗宗万福寺の第六代住持を務めた人物で、
第八代住持である悦峰の先輩に当たります。
ということは、柏村直條と黄檗宗万福寺の僧侶たちとは、
悦峰より前からすでに交友関係を結んでいたということになるでしょう。
柏村直條が悦峰に「厳島八景詩」奉納を依頼したのは、
このような背景があればこそであったのだと納得されました。
柏村直條の為人がしのばれます。
2025年1月2日
*1 伊藤太「「八幡八景」の書誌とその成立過程」(『芸文稿』第16号、2023年)p.7、9を参照。
*2 柳川順子「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)を参照されたい。
「厳島八景畫圖」の奉納(追補)
昨日、六條有藤に「厳島八景畫圖」の奉納を依頼したのは、
柏村直條ではないか、との推測を示しました。
この推測の傍証と成り得る記述を、
「柏亭日記」巻の二、享保十四年の記述の中に見つけることができました。
古文書の会八幡『翻刻柏亭日記(石清水八幡宮蔵)』(古文書の会八幡、2018年)
「五、日記に見る登場人物一覧表」p.97を参照して当たった、
「享保十四己酉 柏亭日記」p.22、26、28、37、39、40、43、45、46の記事です。
それは、書状や詠草のやり取りのみならず、
食物の贈り物に至るまで、日常的な往来を細やかに書き記すものでした。
たとえば、「六條中納言殿へ浅草苔五枚、甘苔三把進上申候」(正月十日)、
「六條家江鮹塩辛一曲、空豆一器」(四月廿六日)、
「六條殿ほしふく一、岩苔一遣ス」(閏九月十三日)といった具合です。
六條有藤が「某の需(もとめ)に応じて自ら其の図を写し」、
これを嚴島神社に奉納したのは、享保六年(1721)十一月のことでした。
前掲の日記は、それより後の享保十四年(1729)のものですが、
六條と柏村との交友は、この年に突如として始まったものではないでしょう。
そうしてみると、柏村直條がかねて親交のあった六條有藤に、
「厳島八景」文芸を盛り立てる依頼をした可能性は十分にあるでしょう。
2025年1月1日
「厳島八景畫圖」の奉納
元文四年(1739)に刊行された『厳島八景』の上巻(12葉目の表)に、
「八景畫圖奥書」として、次のような文章が見えています。*1
安藝州宮島者、神德威霊而天山之絶境也。故従古為畫圖以傳于世。就中取其最勝者、今為八景圖。余固敬其神、且愛其景。今應某需自写其圖、以奉納之、永禱助福云。
享保六稔仲冬十有五 龍作水原判
奉納畫圖 六條中納言有藤卿染筆
安芸の州 宮島は、神徳威霊にして天山の絶境なり。故に古より画図を為して以て世に伝ふ。就中(なかんづく)其の最勝たる者を取りて、今八景の図と為す。余は固(まこと)に其の神を敬し、且つ其の景を愛す。今 某の需(もとめ)に応じて自ら其の図を写して、以て之を奉納し、永く助福を祷ると云ふ。
享保六年(1721)仲冬(11月)十有五 龍作水原判【未詳】
奉納画図 六條中納言有藤卿染筆
本文中に「某の需に応じて」とあるのは、
石清水八幡宮の神職、柏村直條からの依頼に、
六條有藤が応じたことをいうのではないかと考えます。
すでに述べているとおり、*2
「厳島八景」の事実上の撰者は柏村直條だと見て間違いありません。
そして、その構想にあたって彼がまず念頭に置いたのは、
彼がかつて編成した「八幡八景」であり、
その「八幡八景」は、和歌、漢詩、発句、絵画からなる総合文芸でした。*3
柏村直條は「八幡八景」をひとつのひな型として「厳島八景」の総体を思い描いていた、
だからこそ彼は、公家たちの八景和歌が成って奉納された後も、
里村家に発句を、公家たちに漢詩を、更にこの六條有藤に絵図を奉納するように、
熱心に働きかけを続けたのではないかと推察します。
柏村直條を魅了した宮島の景観。
宮島の美を見出し、その総合文芸としての具現化に動いた柏村直條。
両者のエネルギーが実を結んで誕生したのが「厳島八景」ではないかと考えます。
2024年12月31日
*1 高橋修三「翻刻『厳島八景』」(『宮島の歴史と民俗』11号、1994年)を参照。句読点はこちらで随時打ち、訓み下しはすべて当用漢字に改めた。一部に送り仮名を改めたところがある。『厳島八景』(松半舎、 元文四年)は、早稲田大学図書館により公開されている。https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he01/he01_01300/index.html
*2 柳川順子「悦峰の「厳島八景詩序」と柏村直條」(『宮島学センター年報』第3・4号、2013年)、同「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)で論じた。
*3 竹内千代子・小西亘・土井三郎『石清水八幡宮『八幡八景』を読む』(昭英社、2023年)、伊藤太「「八幡八景」の書誌とその成立過程」(『芸文稿』第16号、2023年)を参照。
「八幡八景」と悦峰
「厳島八景」の成立は、
公家たちによる和歌が奉納された、正徳五年(1715)五月と見てよいでしょう。
以降、八景題による和歌、漢詩、発句等が各方面から奉納されました。
その中でも早い時期の作品として、
黄檗宗万福寺の第八代住持、悦峰の詩序を冠する
僧侶たち(悦峰を含む)による八景詩(『芸藩通志』巻31)があります。
悦峰「厳島八景詩序」の記述から割り出すと、
その奉納は、享保元年(1716)頃のことであったと推定されます。*1
さて、この悦峰は、『八幡八景』にも、
「黄檗山悦峰」として、次のような漢詩が収載されています。
閑雲朝日鎖雄峰 閑雲 朝日 雄峰を鎖(とざ)し
多少楼台興最濃 多少の楼台 興ること最も濃き
移得祝融山頂翠 移し得たり 祝融 山頂の翠
永為玉柱万年松 永く玉柱の万年の松為らん
「八幡八景」は、
石清水八幡宮神職の柏村直條が八景の題詠を有栖川幸仁親王に乞い、
太上皇(霊元)の定めを経て、
元禄六年(1693)冬十二月、歌詩図画共に成りました。*2
東京都立中央図書館加賀文庫に稿本二種があり、
一本は、正徳六年(1716)に山田直好が筆写した『八幡八景』、
一本は、昭和九年(1934)に筆写した『八幡雄徳山八景』、
今、仮に前者を正徳本、後者を昭和本と称すると、
正徳本所収作品はすべて、昭和本の中に包摂されるといいます。*3
悦峰の漢詩は、この昭和本の方に収載されています。
さて、悦峰(1655―1734)は、
1686年、32歳で、長崎の興福寺に招かれて来日し、
1707年、53歳で、万福寺の住持に命ぜられ、長崎から京都に移りました。
すると、「八幡八景」の成立当初(1693)、
悦峰はまだ、長崎の興福寺にいたということになります。
ならば、悦峰による「雄徳山松」の漢詩は、
一旦「八幡八景」が成立した後に寄せられたのでしょう。
こうした八景文芸の広がりは、
冒頭に記した「厳島八景」のそれを想起させます。
悦峰の詩を含む昭和本が、
正徳本に比べてはるかに収載作品数が多いのは、
「八幡八景」文芸の展開を示唆しているように思われます。
2024年12月30日
*1 柳川順子「悦峰の「厳島八景詩序」と柏村直条」(『宮島学センター年報』第3・4号、2013年)を参照されたい。なお、「柏村直條」を正しく表記せず、このように当用漢字を安易に用いていることを、伏しておわびし、今後は改めることと致します。
*2 『翻刻柏亭日記(石清水八幡宮蔵)』(古文書の会八幡編集・発行、2013年輪読開始、2017年輪読終了、2018年発行)p.80を参照。
*3 伊藤太「「八幡八景」の書誌とその成立過程」(『芸文稿』第16号、2023年)p.7に指摘する。
曹植「聖皇篇」札記1
昨日、曹植「聖皇篇(鼙舞歌1)」の語釈に取り掛かったところ、
さっそく壁に突き当たりました。
その五・六句目に、次のような句があります。
三公奏諸公 三公の奏すらく 諸公は、
不得久淹留 久しく淹留するを得ず、と。
これは、新しい皇帝が即位したことに伴って、
最高位の大臣三者の奏上により、
藩国を守るべき諸侯は、久しく都に留まることが許されなくなった、
ということを指すと見てよいでしょう。
「聖皇篇」は漢代「鼙舞歌」の「章和二年中」に基づいていますが、
この章和二年(88)に起こった出来事がまさしくそれです。
章帝の崩御に伴い、その兄弟たち諸王は各々の国に就くこととなりました。
また、先日指摘したとおり、
これと同一の出来事が、和帝の崩御した翌年(106)にも起こっています。
さらに、今「聖皇篇」を詠じている曹植もまた、
曹丕が魏の文帝として即位した時に、他の兄弟たちとともに封土に赴いています。
ではなぜ「諸侯」ではなく「諸公」なのでしょうか。
封ぜられた土地に赴き、王朝の藩(まがき)となるのは諸侯の任務ですから、
「諸侯(すなわち諸王)」と記されてもよいところです。
不思議に思っていたところ、
朱緒曾『曹集考異』巻六にこのような指摘がありました。
「三公奏諸公、不得久淹留」とは、
魏王(曹操)の葬られし後、諸侯みな国に就くをいうなり。
其の時、丕は未だ諸弟の爵を進めて王と為さず。故に「諸公」と称するなり。
疑問がほどけたように感じました。
たしかに文帝曹丕が弟たちの爵位を王に進めたのは黄初三年(222)で、
曹植らがそれぞれの封土に赴いた黄初元年(もしくはその翌年)より後のことです。
それで、曹植がもし
「諸侯」と「諸公」とをこのように弁別して用いていたとするならば、
「聖皇篇」は、彼が身を置く曹魏王朝の現実と接触する内容をもつことになります。
一方で、この歌辞の内容と同一の出来事は、
後漢王朝の時代、少なくとも二度までも繰り返されていて、
「聖皇篇」では、この歴史的事実もまた丁寧に写し取られている印象があります。
すると、この作品は、歴史的事実と今の現実との双方に触れているようです。
右往左往した挙句、ひどく当たり前のところに帰着しました。
ただし、歌辞の半ば以降、「諸王」という語が二箇所出てきます。
呼称がこのように転換している理由は今後考えます。
本日の札記が無意味となる可能性もありますが、
あれこれ考えて試行錯誤してこそ研究は面白いのだと思っています。
2024年12月27日
曹植と成公綏
本日、曹植作品訳注稿「霊芝篇(鼙舞歌2)」を公開しました。
この作品の「乱(歌いおさめ)」の冒頭に、
「聖皇君四海(聖なる皇帝は天下四海に君臨し)」という句がありますが、
これとまったく同一の句が、
『宋書』楽志二所収の、西晋王朝の宮廷歌謡、
成公綏「晋四箱歌十六篇・雅楽正旦大会行礼詩十五章」其六の冒頭に見えています。
「聖皇」「君(君臨する)」「四海」は、
それぞれ単独の語としては、決して珍しいものではありません。
けれども、この三つの言葉を組み合わせた例は、
漢魏晋南北朝時代の現存作品を見る限り、曹植と成公綏のみです。
成公綏による雅楽歌辞については、
こちらでも述べたように、同作品の其の四にも曹植作品の影響が認められました。
成公綏は、西晋王朝の「雅楽正旦大会行礼詩」制作において、
曹植を意識していた可能性があると言えます。
また、かつてこちらでも述べたとおり、
張華による宮廷雅楽の歌辞「晋四廂楽歌十六篇」其五(『宋書』楽志二)にいう
「枯蠹栄、竭泉流(枯蠹は栄(はな)さき、竭泉は流る)」は、
曹植「七啓」(『文選』巻34)にいう、
「夫辯言之艶、能使窮沢生流、枯木発栄」を踏まえたものと見られます。
こうしてみると、西晋王朝の宮廷音楽には、
なにか、曹植に対する意識の磁場のようなものがありそうだと感じます。
ただ、たまたまこうした事例が伝存しただけという可能性もあります。
恣意的な見方をしないよう、しばらく読解に注力します。
2024年12月25日
曹植「聖皇篇」再考
以前、曹植の「鼙舞歌・聖皇篇」を読んでいた時、
その19句目から28句目に、どうにも解せない部分を残していました。
その時の通釈を、原文と併せて以下に示します。
19 主上増顧念 主上は諸王を顧慮する気持ちを募らせ、
20 皇母懐苦辛 皇母は苦辛の思いを胸に抱く。
21 何以為贈賜 何をもって下賜の品としたかといえば、
22 傾府竭宝珍 宮中の蔵を傾けて珍しい宝物をありったけ贈ったのだった。
23 文銭百億万 金銭は百億万、
24 采帛若煙雲 彩なす布帛は雲か霞のように。
25 乗輿服御物 輿に乗った皇帝陛下は御物を身に付けている、
26 錦羅与金銀 錦の薄物と金銀と。
27 龍旗垂九旒 龍の御旗は天子を表するふきながしを垂れ、
28 羽蓋参斑輪 羽飾りを付けた車蓋に、文様を施した車輪が入り混じる。
問題となるのは、25句目から28句目までです。
何が問題なのか、先日来言及している拙論からそのまま以下に抄出します(注は省略)。
「龍旗垂九旒」は、『礼記』楽記篇にいう「龍旂(旗に同じ)九旒、天子之旌也(龍旂九旒は、天子の旌なり)」を明らかに踏まえており、その主体は君主であると判断せざるを得ない。とすると、その前に見える「乗輿」も天子の意で取るのが妥当だろう。この四句の描写は、先立つ句「主上増顧念」との間に奇妙なねじれを生じている。離散を余儀なくさせる諸王に顧慮しつつ、豪華に飾り立てた姿で彼らを送り出すこの人物は、いったいどういう表情をしているのだろうか。しかも、このねじれは明瞭にそれと知覚されないよう、聞き手に対して巧みな誘導が為されているようにも感じ取れる。この部分の前には諸王への手厚い下賜を言い、続く第四段落では直ちに、君主の厚恩に感じ入り、国に対する忠誠を誓う諸王に目が転じられているからである。
この論文を書いていた当時は、曹植の兄、文帝曹丕を悪者と決めつけていたので、
(論文にあるまじき憤慨とともに)このような書き方をしているのですが、
この解釈だとやはり文脈を素直にたどることは難しくなります。
このねじれが、『後漢書』章帝八王伝(清河孝王慶)によって解けました。
そこには、次のような記述が見えていたのです。
まず、和帝が崩御すると、清河王劉慶は悲嘆のあまり病を発しました。
そしてその翌年、諸王はそれぞれの封国に赴いたのでしたが、
この記述の後に、次のような文が続いています。
鄧太后特聴清河王置中尉・内史、
賜什物皆取乗輿上御、以宋衍等並為清河中大夫。
鄧太后は特に清河王に中尉・内史を置くを聴(ゆる)し、
什物を賜ふに皆乗輿の上御を取り、宋衍等を以て並びに清河中大夫と為す。
このように、清河王劉慶は、鄧太后によって特別な待遇を受け、
下賜される品々は皆、天子の持ち物であったということが記されています。
先に示した曹植「聖皇篇」における奇妙な表現は、
実に、劉慶に対するこの異例の厚遇から来るものだったのではないでしょうか。
もしそうだとすると、
「聖皇篇」とそれが基づく「章和二年中」には再考が必要です。
この両作品は、後漢の章和二年中の出来事に強いつながりをもちつつも、
その章帝期の出来事が繰り返された、和帝期の出来事をも詠じている可能性があります。
なんとなく腑に落ちないところには、
やっぱりそれ相当の理由が潜んでいるものだと思いました。
そして、そのようなところには新たな知見を拓き得る鍵が隠されています。
2024年12月19日
漢代「鼙舞歌」相互の連関性
昨日指摘したように、
曹植「霊芝篇」の内容や詩中での『詩経』の引用は、
『後漢書』章帝八王伝(清河孝王慶)の記述とよく重なります。
曹植の「鼙舞歌」が、漢代のそれを忠実になぞっているものと仮定して、
(なぜそう仮定できるのかについては、昨日の注をご覧ください。)
曹植「霊芝篇」が基づいた漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」は、
前掲『後漢書』に記された史実と深く関わっている可能性がありそうです。
このことに加えて、少し付記しておきたいことがあります。
それは、昨日取り上げた『後漢書』章帝八王伝(清河孝王慶)の中に、
曹植の別の「鼙舞歌」、「聖皇篇」を連想させる記事が見えていることです。
まず、和帝の詔(昨日引用)に示された次のような辞句です。
選懦之恩、知非国典、且復須留。
優柔不断な恩情は、国典に反すると分かっているが、まあしばらく逗留させよ。
これは、曹植「聖皇篇」に見える、次のような描写を彷彿とさせます。
侍臣省文奏 侍臣たちは、その文面を精査して上奏したけれども、
陛下体仁慈 陛下はもともと優しい人柄であるから、
沈吟有愛恋 骨肉への愛着からあれこれと考え込んでしまって、
不忍聴可之 大臣たちの上奏に耳を傾けてこれを許可するのに忍びない。
再び『後漢書』の記述に戻って、
和帝の兄弟たちは、上記の詔によって都での逗留が許されていたのでしたが、
和帝崩御の翌年(106)、「諸王は国に就く」こととなりました。
これには、強い既視感を覚えます。
曹植「聖皇篇」が基づいた漢代「鼙舞歌」の「章和二年中」、
その章和二年(88)に起こった出来事が、今またここで繰り返されているのです。
(詳細は、昨日の注をご覧ください。)
このようにみてくると、
漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」と「章和二年中」とは、
何か密接な繋がりを持っているのではないかと思えてなりません。
2024年12月18日
曹植「鼙舞歌」と漢代「鼙舞歌」
曹植「鼙舞歌」は、基本的に漢代「鼙舞歌」を襲うものだと考えます。
ただ、五篇の全てが本当にそうだと言えるのかと問われれば、
躊躇するところも正直ありました。
漢代の「章和二年中」に当てられた「聖皇篇」はほぼ確実にそう言えます。*
同じく漢代「鼙舞歌」の「関東有賢女」に当てられた「精微篇」も、
その内に「関東有賢女」という句をそのまま含んでおり、
その関東の賢女と同類の故事が本詩中に列挙されていることから、
「精微篇」が「関東有賢女」を踏襲していることはほぼ確実と見てよいでしょう。
では、それ以外はどうでしょうか。
本日、上記の二篇に加えて「霊芝篇」もまた、
漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」を踏襲するという見通しを得ました。
きっかけは、孝子故事が列挙される「霊芝篇」の中に、
次のような辞句が見えていたことです。
蓼莪誰所興 「蓼莪」は、誰がこれを暗喩で詠じたのか、
念之令人老 この詩を繰り返し思えば、私はすっかり老け込んでしまう。
退詠南風詩 退居して南風の詩を詠ずれば、
灑涙満褘抱 流れる涙がひざ掛けに満ちる。
「蓼莪」は、『詩経』小雅の中の一篇で、
その小序には、「孝子は養を終ふるを得ざるのみ」という状況になるまで、
民人たちを疲弊させている幽王を非難する詩だと解説されています。
「南風詩」とは、『詩経』邶風「凱風」を指していい、
その小序には、「凱風」は孝子を賛美する詩だと、その主題が示されています。
この二篇の詩が、孝子を列挙する「霊芝篇」に登場するのはごく自然ですが、
それらを併せて用いている例が、『後漢書』巻55・章帝八王伝(清河孝王慶)に引く、
和帝(在位88―105)の詔の中にも次のように見えていたのです。
諸王幼稚、早離顧復、弱冠相育、常有蓼莪、凱風之哀。
諸王(和帝の兄弟たち)は幼い頃に父母の手から引き離され、
成人後は自分(和帝)が面倒をみているが、
彼らはいつも「蓼莪」や「凱風」の悲哀を抱いている。
『後漢書』本伝によると、
清河王劉慶は、理不尽な死を遂げた母親を終生思い続けました。
もしかしたら、曹植「霊芝篇」が拠った漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」は、
こうした史実や前掲の和帝の詔とつながりを持っていて、
そのために、歌辞中に「蓼莪」「凱風」を含んでいたのではないか。
ならば、孝子故事を列挙して詠ずる曹植「霊芝篇」もまた、
漢代「鼙舞歌」を忠実になぞっていることになります。
2024年12月17日
*拙稿「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として」(『中国文化』第73号、2015年)を参照されたい。
民間説話における「母」への傾き
孝行息子たちの故事は、
『法苑珠林』巻49・忠孝篇に、感応縁として十五験が引かれています。*1
その中には、曹植「鼙舞歌・霊芝篇」にも言及されていた
舜、丁蘭、董永、伯瑜の記事も見えています。
このうち、意表を突かれたのが丁蘭の故事です。
晋の孫盛『逸人伝』(『初学記』巻17)をはじめとして、
丁蘭は、父母を失い、木で親の像を作ってこれに仕えたとされています。
ところが、『法苑珠林』に記されているところでは、
「年十五喪母、刻木作母事之、供養如生」となっています。
木に彫られ孝養を尽くされるのは、両親ではなく、母親のみなのです。
これに続く記述も、前掲の『逸人伝』とはまるで違っています。
孝子丁蘭は、後漢の武梁祠画像石にも刻まれていますが、
その銘には「丁蘭二親終歿、立木為父、隣人假物、報乃借与」とあって、
木彫りの像がつくられたのは、父親のみと記されています。*2
これを見て想起させられたのが、過日言及した董永の故事です。
劉向『孝子図』や曹植「霊芝篇」では、彼が我が身を売って葬ったのは父でしたが、
敦煌文献では、それが父母となっていたのでした。
漠然とした感触ですが、
民間文芸の中枢に近づくほど、「母」の存在が大きくなっていくようです。
曹植「鼙舞歌・精微篇」などでも詠じられていた、
父親を窮地から救い出す勇敢な娘たちの物語も併せて想起されます。*3
時代が下るにつれ、母が父に替わってその存在感を増していくのか、
それとも、もともと民間では母なる存在が大きかったところ、
知識人の手に成る文献では、儒教的規範により父が重んぜられて記されたのか、
今は結論を急ぐことはしないでおこうと思います。
2024年12月16日
*1 この資料のあることは、金岡照光「敦煌本「董永伝」試探」(『東洋大学紀要 文学部篇』第20号、1966年)によって教えられた。
*2 長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)p.77、張道一『漢画故事』(重慶大学出版社、2006年)p.124を参照。
*3 下見隆雄『儒教社会と母性―母性の威力の観点でみる漢魏晋中国女性史』(研文出版、1994年)第八章は、彼女たちの言動を母性発揮という視点から捉える。