応劭『風俗通義』の先行研究
昨日、応劭と曹植との接点について推論を述べました。
そういえば、「曹植作品訳注稿」の中で、
これまでにも応劭の『風俗通義』を語釈に何度か引用したことがあります。
興味を引かれ、この著作物に関する先行研究をCiNiiで調べてみたところ、
道家春代氏に『風俗通義』の訳注稿があることを知りました。
その最初に公刊された「『風俗通義』正失篇訳注稿(上)」に、*
中村璋八、清水浩子訳『風俗通義』(明徳出版社、2002年)への言及が見えます。
そこで本日、この本を所蔵する福岡県立図書館に行って借りてきました。
帰りの地下鉄の中で、その「解説」を読むと、沁み込むように頭の中に入ってきます。
私は曹植の作品を読んでいて応劭に“出会い”ました。
これまでは、語釈に必要な資料としてただ記してきた応劭の著作物ですが、
彼が曹操・曹植父子とほとんど同時代を生きた人であることに思い至ったのです。
その甥である応瑒は建安七子のひとりでもありますし。
こんなふうに、何かと出会うのはこちらの状態何如によります。
最初から応劭に興味を持つということは、自分にはできなかっただろうと思います。
先行研究の数だけ、今の研究者と古人の著作物との出会いがあったのだと思うと、
先行研究への向き合い方にも、これまでとは違うものが生じそうです。
2025年12月3日
*『名古屋女子大学紀要 人文・社会編』第52号、2006年。以下、愆禮篇、過誉篇、十反篇、窮通篇、祀典篇、怪神篇、皇霸篇、聲音篇の訳注が、主に『名古屋大學中國語學文學論集』で発表されている。
応劭と曹魏との接点
曹植「駆車篇」を読んでいます。
王者の封禅について詠ずるその詩の中にこうあります。
歴代無不遵 歴代の王者はみな封禅の規範に従い、
礼記有品程 儀礼について記した書物に、それは具体的に記されている。
古直の『曹子建詩箋』巻4には、
『史記』封禅書にその具体的な儀礼は未詳である旨が記されていることを示し、
曹植のいう「礼記に品程有り」とは、応劭『漢官』に引く馬第伯「封禅儀記」を指すか、
と推定されています。
『後漢書』巻48・応劭伝には、
応劭が袁紹の軍謀校尉を拝命した建安二年(197)当時のこととして、
時始遷都於許、旧章堙没、書記罕存。
劭慨然歎息、乃綴集所聞、著『漢官礼儀故事』。
凡朝廷制度、百官典式、多劭所立。
時に始めて許に遷都し、旧章は堙没し、書記は存すること罕(まれ)なり。
劭は慨然として歎息し、乃ち聞く所を綴集して、『漢官礼儀故事』を著す。
凡そ朝廷の制度、百官の典式、多くは劭の立つる所なり。
と記されています。
建安元年(196)、献帝を許都に迎えたのは曹操で、
曹操は献帝を擁して天下に号令を発する立場を得たのですから、
当時五歳だった曹植も、いずれ応劭の著作に触れる機会があったと想像されます。
その「駆車篇」にいう「礼記有品程」が、
直接的に応劭の『漢官礼儀故事』等を指すかは未詳ですが、
曹魏政権の周辺に、応劭のこうした著作物があったとは言えそうです。
2025年12月2日
視点を変えての論述
先週末、『三国志学会二十周年記念論集』への投稿論文
「曹植と丁氏兄弟」を書き終わりました。
土台となる資料やその解釈内容については、
昨年(2024年)9月7日の六朝学術学会大会での口頭発表を踏襲し、
(こちらから当日の配布資料をご覧いただけます。)
それを新たに組み直したものです。
昨年までの問題意識は次のとおりです。
西晋王朝の宮廷歌曲群「大曲」の中に、「置酒・野田黄雀行」という歌曲がある。
それは、曹植の楽府詩「箜篌引」を、その本来の楽曲「箜篌引」ではなく、
別の歌曲「野田黄雀行」の楽曲に乗せて歌うよう指示するものである。
では、「大曲」の編者はなぜ、かくも複雑な指定を設けたのか。
このような問いを立て、それを糸口として、
西晋王朝で「置酒・野田黄雀行」が演奏されたことの意味を探りました。
その頃、「晋楽所奏「大曲」の編者」*を書いた残響がまだ自分の中にあって、
その続編のつもりで上述のような問いを立てたのでした。
ただ、今回は『三国志』に関連する論文ですから、
焦点を、曹植と丁氏兄弟との関係に当てた方がよいと考えました。
それで、新たに設定したのが次のような問題意識です。
曹操の後継者選びをめぐって、曹操に揺らぎを生じさせたのは、
曹植の側近である丁儀・丁翼らの強い後押しである。
曹操の跡を継いで魏王となった曹丕は、同年中に丁氏兄弟を誅殺した。
この一連の動向を、渦中の人であった曹植自身の視点から、
更には、その作品を宮廷歌曲とした西晋王朝の人々の視点から、
重層的に捉えようというのが本稿の眼目である。
今ここに記した問題意識の前半部分は、ほぼ周知の内容です。
ただ、ことの経緯を、史書の記事に加え、本人の作品、当該作品の次の時代における受容、
といった複数の視点から捉えようとした点に新味があるかもしれません。
詩人の人間像や作品は、本人の手を離れてなお独自の展開を遂げてゆきます。
その言葉の受け渡しの有り様にも、曹植の独自性を見ることができます。
曹植文学の歴史的位置を探るためには必要な視点だと考えます。
2025年12月1日
*『九州中国学会報』第62巻(2024年)p.1―15。リンクを貼った論文PDFは、中国・アジア研究論文データベースからダウンロードしたものです。
研究手法における彼我の差(承前)
中日の研究手法の違いを感じたことを記した前の記事に、
間を措いての追記です。
中国での学会発表は、概略次のような内容でした。
a.曹植「種葛篇」「浮萍篇」は典型的な閨怨詩で、
こうした主題は、漢代の宴席で歌われた五言詩には常套的なものである。
b.曹植「種葛篇」「浮萍篇」は、漢代五言詩歌に常套的な表現を多く用いている。
c.他方、これらの曹植作品は、漢代五言詩歌の系譜から外れる部分も持つ。
それは、夫の愛情を失った妻の悲しみに、兄曹丕への感情を重ねていることである。
d.この表現の重層性は、漢代詠み人知らずの古楽府にはなかったものであり、
楽府詩というジャンルに、このように複雑な表現を楽府詩にもたらしたのが曹植であった。
このうち、どの部分が説明不十分だと自ら感じたか。
それはまず、dの部分の「古楽府」「楽府詩」といった言葉です。
このようなジャンル名は、人によってその語が包摂する範囲が異なるのでよろしくない。
前述の概要に記す「漢代詠み人知らずの古楽府」は、
「漢代の宴席で盛行していた、歌辞の作者が不明の歌謡」と改めたいと思います。
ジャンルの概念を議論するより、それが行われた場に焦点を当てた方が通りがよいです。
次には、同じd部分にいう「表現の重層性」です。
曹植作品の場合は、『詩経』の複雑な踏まえ方に突出した特徴があって、
それは、よくある典故表現とは異質なものです。
またそれは、『詩経』六義のひとつである「興」(隠喩)とも異なるものです。
(このことについては、たとえばこちらやこちらでも記しています。)
中国の学者は古くから、どちらかというと表現内容を現実に直結させる傾向が強いので、
それは当たり前の表現手法だ、と片付けられてしまう可能性が高いでしょう。
丁寧な説明を要するところだと感じました。
2025年11月30日
研究手法における彼我の差
先週末、中国の汕頭大学で開催された楽府学会に出席し、
「曹植《种葛篇》《浮萍篇》于文学史上的地位」と題して研究発表を行いました。
内容は、かつてこちらの雑記で考察を重ねてきたものですが、
それを、中国の研究者を前にして説明しながら見えてきたものがあります。
それはまず、研究手法における彼我の差異、懸隔です。
中国の研究者たちの本領は、大量の資料を飲み込んでは咀嚼していく力と、
そこから得たものを結び付け構築していく、強い論理性志向であるように感じます。
一方こちらは、実に微細な気づきから思考を垂直に掘り進めていく。
これは、いつも感じることではありますが、
どちらが手法としてより優れているかといったことではなくて、
あちらとこちらとは基本スタンスが本質的に異なるとしか言いようがありません。
こちらがあちらの真似をしても、たぶん刃こぼれするのがオチでしょう。
自分はこのままこの方法で掘り進めていくしかありません。
するとそのうち、あちらとこちらとが相俟って、何か新しい見地が開けるかもしれません。
こうした点において、中国の研究者の多くは実に鷹揚です。
自らとは異なる手法を取るものの長所を進んで認めようとされるのです。
自分もかくありたいものだといつも感じ入ることです。
他方、今回は自分の説明不足を感じるところがありました。
この点についてはまた後日記します。
2025年11月18日
経験と表現
過日も言及したことですが、
曹植「盤石篇」の終盤に、次のような句が見えています。
南極蒼梧野 南は蒼梧の野の果てまでも心を飛ばし、
游眄窮九江 視線を遠く左右に流して九江を見極める。
中夜指参辰 夜中には参星や商星を指さして、
欲師当定従 行く先を見定める指標としよう。
「参」は、西南方向に位置する宿(星座)、
「辰」は、東方に位置する商星すなわち心宿をいい、
ここでは、方角を知るための指標となる二つの星座を意味しています。
ところが、同じこの二つの星座が、
曹植の別の作品では離別の象徴として用いられています。
すなわち、「種葛篇」(05-27)に、
昔為同池魚 昔は同じ池に棲む魚だったのに、
今為商与参 今は商星と参星のように遠く隔たっている。
在昔蒙恩恵 その昔、恩愛の恵みを賜り、
和楽如瑟琴 琴瑟の音が響きあうように、和やかに睦み合っていた。
何意今摧頽 ところが、思いがけなくも私は今ぼろぼろに落ちぶれて、
曠若商与参 あなた様とはまるで商星と参星のように遠く隔てられている。
とあるのがそれです。
商星(辰)と参星とを、このような意味で用いる例は曹植以前に既にあって、
たとえば、蘇武「詩四首」其一(『文選』巻29)にこうあります。
昔為鴛与鴦 昔は一対のおしどりのように仲睦まじかったのに、
今為参与辰 今は参星と商星とのように離れ離れだ。
李陵・蘇武の名に仮託された五言詩、いわゆる蘇李詩は、
建安詩人たちに非常によく親しまれており、曹植もそのひとりです。
ところが、曹植は「盤石篇」において、
「参」「辰」を取り上げながら、離別という意味とは無関係に詠じています。
同じ事物を見ても、それにどのようなイメージを付与するか、
そこには、作者の経験というものが否応なく関与してくるように感じます。
言葉を紡ぎ、磨き上げていく文学作品は、
その言葉を知識として知っているだけでは創り上げられない。
作者の経験が、言葉に彫りを入れ、磨きをかけて成るのだと思います。
だから、独自性を持つ表現は、作者の生を探ってこそ感じ取れると考えます。
2025年11月9日
曹植「盤石篇」の成立年代
本日、曹植作品訳注稿「盤石篇」(5-37)を公開しました。
通釈をし、最後に解題を書く段に至って、
本作品が曹植後半生の作ではないだろうことを確信しました。
その判断の最後の駄目押しとなったのは、
本詩が、『文選』巻12の李善注に「斉瑟行」として引かれていることです。
かつてこちらで述べたように、
「斉瑟行」として伝わる曹植作品に「白馬篇」「名都篇」「美女篇」がありますが、
いずれも華やかな雰囲気をもつ楽府詩です。
それと同じ音色で歌われるのが「盤石篇」だとすると、
その歌辞が醸し出す雰囲気とあいまって、
本詩は、建安年間の作と見るのが最も妥当であるように思います。
詳しくは、本詩訳注稿をご参照ください。
2025年11月8日
曹植「盤石篇」が難解であるわけ
曹植「盤石篇」の訳注に取り掛かって、
もうかれこれ2週間が過ぎ去ろうとしています。
本日、ひととおりの語釈を終え、あと残っているのは通釈と解題です。
本詩の読解がこれほど難儀なことになろうとは予想外でした。
自分はなぜこの詩を分かり難いと感じるのか。
論者によって、その趣旨の捉え方がかくも異なるのはなぜなのか。
少し立ち止まって考えてみました。
本詩は、後半生の作とほぼ確定される作品との間に、
曹植作品を特徴づけるような言葉を、複数共有しています。
その最たるものとして「蓬」「参辰」「吁嗟」を挙げることができます。
「蓬」は、転々と国替えされた曹植の後半生を象徴する語で、
「雑詩六首」其二や楽府詩「吁嗟篇」において印象的に描かれています。
「参」と「辰(商)」とは、同じ天に同時には現れない星座で、
兄弟や夫婦の離別の喩えとして「種葛篇」や「浮萍篇」に用いられています。
「吁嗟」は、これをそのまま題名とした前掲の楽府詩があります。
そのような言葉を織り込んで詠じながらも、
そこには、後半生の作品に目立つ影はほとんど認められません。
そして一方、巨大な鯨を登場させたり、吹き上げる風に乗って一挙千里と船出したり、
表現が大仰で、しかもどこか陽気な雰囲気を纏っているように感じられます。
本詩を後半生の作と見ることに躊躇を覚えるのは、実にこのためです。
ただ、書かれている物事を現実と結びつける論法に比べて、
これはいかにも根拠薄弱な感覚的判断とされるのかもしれません。
けれども、作品は作者の体験を記した情報ではありません。
“何が”書かれているかということ以上に、
“どう”表現されているかの方にこそ注意を向けたい。
明かな成立年を書き残していないこの時代の作品は、
その内容を原文に即して読み解くことが必須であると同時に、
文学作品を読むとはどういうことなのか、私たちに問いかけてきます。
2025年11月7日
楽府詩中に見える大仰な表現
曹植「盤石篇」の終盤、次のような表現が現れます。
昨日言及した、孔子に問う結びの直前です。
仰天長太息 天を仰いで長く大きなため息をつき、*1
思想懐故邦 故郷への思いをつのらせる。
この上の句を、当初はありふれた表現だと思っていました。
ところが、なんとなく気になって調べてみると、
「仰天」と「太息」とを併せて用いる例はそれほど多くはなく、
それらには、次に示すとおり、ある種の偏りが認められるように思います。
『史記』巻六十九・蘇秦列伝に、
「於是韓王勃然作色、攘臂瞋目、按剣仰天太息曰(是に於いて韓王は勃然として色を作し、臂を攘(まく)り目を瞋(いから)せ、剣を按(おさ)へ天を仰ぎて太息して曰く)」、
同巻八十六・刺客列伝(荊軻)に、
「於期仰天太息流涕曰(於期は天を仰ぎて太息し涕を流して曰く)」、
『呉越春秋』勾践入臣外伝に、
「越王仰天太息、挙杯垂涕、黙無所言(越王仰天太息、挙杯垂涕、黙無所言)」と。
これらの句における「仰天太息」は、
腕まくりして目を怒らせる、涕を流すといった激越な感情表現を伴っています。
そして、その前後には登場人物たちの科白が連ねられています。
こうした表現的特長は、芝居の脚本のようなテキストを想起させます。
もし、曹植が意識的に「仰天」と「太息」とを結びあわせたのなら、
「盤石篇」を、芝居めいた雰囲気を持つ作品として捉える必要があるでしょう。
楽府詩も芝居も、漢代の宴席で行われていた文芸であり、*2
両ジャンルの親和性はもともと高いと言えます。
もっとも、本詩における「仰天」は、
その直前にいう「中夜指参辰(真夜中に星々を指さして)」云々を受けるものであり、
それにたまたま「太息」が連なっただけだという可能性も大いにあります。
このことは、後日、改めて考え直してみたいと思います。
2025年11月6日
*1「太」字、丁晏『曹集詮評』は「歎」に作る。今、宋本、『楽府詩集』巻64に従って改める。
*2 漢代の宴席では、五言詩、楽府詩、身振り手振りを伴う語り物や演劇のような様々な芸能が行われており、場を共有するそれらが相互に乗り入れて生まれた、たとえば詠史詩のような新ジャンルもある。拙論「五言詠史詩の生成経緯」(『六朝学術学会報』第18集、2017年)を参照されたい。
曹植「盤石篇」に登場する孔子
曹植は「盤石篇」の結びで、孔子に言及して次のように詠じます。
乗桴何所志 いかだに乗って どこを目指しておられるのか。
吁嗟我孔公 ああ、我が孔公よ。
この二句は、『論語』公冶長に記された次の故事を踏まえています。
子曰、道不行、乗桴浮于海。従我者其由与。
子路聞之喜。孔曰、由也好勇過我、無所取材。
先生(孔子)がおっしゃった。
「世の中に道が行われないのならば、桴(いかだ)に乗って海に浮かぼう。
私に付き従う者は、それ由(子路)であろうか」と。
子路はこれを聞いて喜んだ。すると先生がおっしゃることには、
「由は、わたしよりも勇を好むが、桴の材料を取るすべを持たないね」と。
「盤石篇」は、「乗桴」という語と孔子とをあわせて用いている点で、
前掲の『論語』を踏まえると見て間違いありません。
ここで、本詩にいう「我が孔公」を、
曹植が付き従っている人物、曹操と比定してはどうでしょう。
そして、『論語』で孔子に付き従っていた子路に、曹植を重ねてみます。
すると、勇気を奮って従軍したはいいけれど、
逆巻く荒波にもまれて肝をつぶし、帰郷への思念を募らせ、
統帥者たる曹操に、先行きへの不安感をぶつける曹植の姿が現れます。
それは悲壮感というより、そこはかとない諧謔を漂わせているかのようです。
なお、ここでは現実との接点を持たない完全な虚構は想定していません。
2025年11月5日