曹植の詩と生涯

最近、曹植詩の成立年代をめぐって考察することが多いのですが、
それはなぜだろう、と考えてみました。

詩は詩としてそのまま読めばよいではないか。
それなのに、なぜその成立年代について議論したくなるのか。

それはまず、詩は詩としてそのまま読むことを、曹植作品自体が許さないからです。
曹植詩の不可解さについては、これまでにも何度か言及してきました。
それらの作品における不可解さ――文脈の飛躍や語義とのずれといった様々な綻びは、
現実と照らし合わせて初めて埋めることができる欠落であるように思います。

では、その曹植が直面していた現実とは何か。
それが彼の場合、四十年間という短い生涯の中で目まぐるしく転変しています。

その二十代、すなわち建安年間は、
父曹操が存命中で、彼は建安七子たちとの文学的交流をほしいままにしています。

三十代前半、文帝曹丕の在位した黄初年間は、
朝廷の監視下で言動を厳しく制限され、兄曹丕との関係に揺れ動く日々を送ります。

曹丕と和解して、次の明帝の時代に移ると、
曹植は一転、朝廷の運営に参画することを切望し、積極的な発言も多くなります。
しかし、その願いは叶うことなく、失意の中で亡くなります。

このような生涯の中で、彼の詩はその主題も作風も変容していきます。
彼の詩は、その波瀾に満ちた生涯と不可分の関係にあるのです。

ですから、ある作品が何を言おうとしているのか、その読みを追究すればするほど、
(その詩の文学史的意義を見定めたり、詩としての美質を究明する上でも、)

どうしても成立年代の問題がまとわりついてくるのです。

曹植作品は、不可解さを残したまま伝存しています。
それらは、理解されることを待っているように思えてなりません。

2026年2月20日

「矯志」詩の成立時期

昨日の続きです。
曹植「矯志」詩には、ふたつの「矯」が混在しています。

まず、自らの価値に見合う職務が与えられていないことを不満に思う気持ち、
それが湧き起こるのを「矯めて」、隠棲への志向を表明しています。

他方、君主たる者は人を用いることに意を尽くすべきだとする、
為政者を「矯める」趣旨の辞句も連ねられています。

このことを指摘しつつ想起したのは、
明帝が即位して間もない太和2年頃の曹植の作
「求自試表」(07-06)と「惟漢行」(05-29)でした。

これら明帝期はじめの曹植の作品には、
「矯志」に表れていたふたつの「矯」を認めることができます。

まず、自身を周公旦になぞらえて、明帝を輔佐しようとする思いが、
「惟漢行」には強く表れていると読むことができます。*
これは、君主を戒める「矯」でしょう。

他方、「求自試表」では、
王朝の一員として力を発揮させてほしいとの切望が綴られています。
その中には「尸禄」「素餐」といった語句も用いられており、
これは、「矯志」詩にいう「尸位素餐、難以成居」を想起させます。
ただ、「矯志」詩はその切望を押さえ込んでいますから、
その点では「求自試表」よりも屈折しています。

以上から、「矯志」は明帝期の作だと私は捉えました。
ところが、本詩に対するこのような見方は、他に見当たりません。
趙幼文や徐公持は、黄初年間にこの作品を繋年しています。

曹植作品は、複数の作品を組み合わせることによって初めて、
その背景をも含めて読み解くことができるものが多いように感じます。
その“感じ”が、必ずしも単なる印象ではないことを論述で示す必要があります。

2026年2月19日

*柳川順子「曹植における「惟漢行」制作の動機」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号、2022年)を参照されたい。

曹植「矯志」の不可解さ

曹植の詩には難解なものが少なくありませんが、
「矯志」もそのひとつです。

4年ほど前に読んだときには、
一句一句の意味を、出典に照らして通釈するだけで精一杯でした。
今回、その訳注の見直しをしながら作品全体を通読し、
はじめてその不可解さに気づきました。

解題に「戒めの言葉を詠じた四言詩」と書きはしたのですが、
では、いったい誰に対する戒めなのでしょうか。

4句ずつ一章を為すとして、各章には、
個人的立場について戒めているように見える部分と、
為政者の立場について戒めているように見える部分とがあるようです。
本詩は全体としてどちらに向かって詠じられたのでしょうか。

また、冒頭の一章は、その内に矛盾を内包しているようです。
香しい「芝桂」は魚釣りの餌には適さないといい、
一方、「尸位素餐」では居場所が無いと詠じていますが、
このふたつのことはどのように連結するのか、分かり難く感じます。

同じことは、第二章についても言えます。
磁石は、鉄を引き寄せ、金を引き寄せることはない、とはまるで、
価値ある者が捨て置かれていることを言っているかのように読めますが、
これに続けて、「大朝」の人材登用において「愚」は挙げられないといいます。

これらの句の中で、曹植その人の立場はどこに置かれているか。
それは、「芝桂」「金」であり、「尸位素餐」「愚」であるかと思われます。

もしそうした比定が成り立つのであれば、
これは、ほとばしる自身の慷慨を矯めようとした言葉なのかもしれません。

けれども詩の後半、「矯」の対象は為政者へと移るようです。
このように、戒めが方々に散っているというところに、
本詩の主題を探る糸口が隠されていそうです。

2026年2月18日

「朔風」の成立時期に関する諸説

「朔風」詩の成立時期については、その解題に並記したように諸説あります。
ここで、個々の説の具体的な内容を示せば次のとおりです。

趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.175は、
本詩を建安22年(217)以降の作と推定しています。
建安21年(216)から翌年の曹操の東征に曹植は従軍していない、
(『三国志(魏志)』巻5・后妃伝(甄皇后)裴松之注に引く『魏略』)
それが本詩にいう「思彼蛮方」の意味するところだとし、
また、この時、曹植はまだ鄴にいなかった(『文選』巻56「王仲宣誄」)、
だから詩中、魏の都を懐かしむと詠じているのだとしています。

黄初4年(223)とする元・劉履『風雅翼』の説は昨日紹介しました。

同じ説を取る徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.321は、
詩中にいう「昔我同袍、今永乖別」は、洛陽での兄曹彰の死去をいうと捉え、
本詩と「贈白馬王彪」詩との類似性から黄初4年説を取っています。

黄初6年(225)と推定する黄節『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)p.46ー49は、
詩中にいう「昔我初遷、朱華未希」は、初めて雍丘王となった黄初4年7月以降、
「今我旋止、素雪云飛」は、3年後の黄初6年正月のことだとしています。
また、文帝曹丕が黄初6年3月・8月、呉に出征していることを挙げ、
この東征への意欲を詠じている可能性もあるとしています。

諸家がみな参照している清の朱緒曾『曹集考異』(金陵叢書)は、
太和2年(228)、曹植が浚儀から再び雍丘に転封した時の作だと推定しています。
詩中にいう「昔我同袍、今永乖別」は、兄文帝曹丕の崩御を指すとし、
また「游非我隣」は、「求通親親表」(『文選』巻37)の辞句に等しいと捉えています。

古直『曹子建詩箋』(広文書局、1976年三版)巻2/18b、
余冠英『三曹詩選』(人民文学出版社、1956年)p.94、
曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.163ー165、
張可礼『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)p.218もこれに従っています。

『文選』巻29「朔風詩」の五臣注(李周翰)にいう、
「時に東阿王、藩に在りて、北風に感じて帰らんことを思い、故に此の詩有り」は、
曹植が東阿王となった太和3年以降の作と推定していることになりますが、
特に成立年代に的を絞った考究ではないように看取されます。

こうしてみてくると、先人の説と一口にいってもその論法は様々で、
すべてが確かな根拠に基づいているわけでもないようです。

2026年2月17日

「朔風」解題の追補

曹植「朔風」詩(04-15)の解題で、
(未見)としていた元・劉履の『風雅翼』について、
九大中央図書館で「四庫全書珍本六集」所収のものを確認してきました。
長らく開いていた穴を塞ぐことができて、ほっとしています。

劉履はこの詩の成立を黄初四年(223)と推定していますが、
これがどのような理路で導き出されたものなのか、
以下にかいつまんで紹介します。

まず「魏都」は、魏王国の都であった鄴のことで、
曹丕が洛陽に都を置いてからも、鄴は王業の礎として機能し続けた。

曹丕は弟たちを警戒して各藩国に赴かせて朝見を許さなかったが、
黄初四年、曹植は始めて雍丘から上洛し、帰途、曹彪との同行が阻止された。

「朔風」詩は雍丘に戻ってから作られた。
故に、冒頭で魏の都を思い、あわせて曹彪のいる南方を思いやったのだ。

以上の劉履の所論について、
「雍丘」は、「鄄城」とするのが妥当と考えますが、*
それ以外については、かつてこちらで述べたことと大筋で同じです。

ただ、劉履は、本詩中の「子」「爾」「君」はすべて曹丕を指すと見ています。
そこが私見とは異なる点です。

2026年2月16日

*曹植は上洛時、まだ雍丘王とはなっていなかったと見られます。このことについては、たとえばこちらをご参照いただければ幸いです。

押韻から分かること

曹植作品訳注稿の詩歌作品について、
ある時期からその押韻情況を記すようになりました。
(今のところ、徒詩は『切韻』系の音韻体系に沿っていると言えます。)

それによって新たに気づいたことを何度か述べてきましたが、
本日見直しを始めた「矯志」詩(04-16)にも、そうしたことがありました。

この詩は、偶数句末に押韻し、四句ごとに換韻していきます。
ところが途中で二箇所、押韻上、前後から切り離されたような二句一韻があって、
これによって、そこに失われた二句があるらしいことが推測されます。

朱緒曾『曹集考異』(金陵叢書丙集之九)巻5に、
「済済唐朝、万邦作孚」の前、及び「道遠知驥、世偽知賢」の後に、
八文字分の□(空白)を置いて、「厳上空八格」「厳空八格」と注するのは、
押韻から割り出されたことであったかと始めて気づきました。

その失われた二組の二句ひとまとまりのうち、
一組は、『文選』李善注に引く本詩の佚句によって補うことが可能です。
このことを指摘する黄節の説を、本詩の余説に引いています。
(なお、本詩訳注の見直し修正作業は未完です。)

2026年2月13日

曹植「朔風」詩の成立時期

何度も同じところを行ったり来たりしています。
昨日、曹植「朔風」詩の主題や背景についてこう推定しました。

本詩は、遠く離れた南方にいる人(曹彪)への思いを詠じたもので、
その背後には、二人の君主であり兄である曹丕への届かぬ思いがあるだろう、と。

書いた後、何の根拠も提示していなかったことに思い至りました。

それは主に、以前こちらで述べたように、
本詩が「雑詩六首」其一との間に、表現面での共通点を多く持つことです。

加えて、「爾」と呼びかけられている南方の人は詩人と対等の関係、
他方、「君」という呼称は通常、詩人から見て上位に位置する人物を指します。

以上のことを念頭に置いた上で、
最も蓋然性の高いところを探っていった結果が上述の推定でした。

もしこの推定が大きく外れていないのならば、
本詩の成立時期は、黄初四年(223)と見るのが最も妥当だと考えます。

曹彪が南方にいた時期と曹植の足跡とを照らし合わせ、
そのように推量するのが最も無理がないように思われたからです。

曹植と曹彪とが特に親密になったのは、同年、共に上洛した頃かと見られますが、
特にその帰途、同宿を阻止されたことが大きな契機となったと想像されます。
(曹植の心中は、「贈白馬王彪」詩に詠じられているとおりです。)

この黄初四年以降で、曹彪が南方にいたのは実質黄初六年までの三年間です。

この間、曹植が「今我旋止、素雪云飛」と言い得るのは、
鄄城に戻った黄初四年の晩秋あたりくらいしか、該当する時期がありません。

黄初四年の末、曹植は雍丘王に遷りますが、*
それから、雍丘に在任していた黄初七年までの期間において、
彼がどこかへ行って戻ってきたという足跡を確認することができないのです。
(もっとも自分が資料を目睹していないだけなのかもしれません。)

ただ、前掲の「今我旋止」云々の前には、
「昔我初遷、朱華未希」とあって、これが分かりません。
曹植が鄄城侯に遷されたのは黄初二年(222)、
その地の王となったのは黄初三年ですが、その季節は不明です。
「昔、私が遷ったばかりの頃、深紅の花はまだ散っていなかった」とは、
何か具体的な出来事に直結しているわけではないのか、
それとも、それを辿るだけの資料が残されていないだけなのか。

2023年2月12日

*曹植が雍丘王に任命された時期については、こちら(2026.01.27)をはじめ、これまでに何度か検討してまいりました。

曹植「朔風」詩の冒頭句再考

曹植「朔風」詩の冒頭四句について、
昨日、川合康三氏の解釈に触発されて考えたことを述べました。

ただ、「朔風」から「魏都」を懐かしむのは分かるにしても、
「代馬を騁せて」「北に徂かん」というからには、
今でもそこには、強く心を惹かれる具体的な何ものかがあるのだろう。
「南に翔らん」と詠じるその先に、心を寄せる人がいるように。
ではそれは何なのだろうか。

そんなふうに、その後もつらつら考え続けていたところ、
ふと、こういうことだったではないかと思い至ったことがあります。
それは、魏都、鄴の西方三十里、曹操の葬られた高陵。*1
それを曹植は思い起こし、そこに駆けていきたいと願ったのではないでしょうか。

曹植がその父曹操を生涯敬愛していたことは、
たとえば彼の晩年、明帝期の作と推定される「惟漢行」にも明らかです。*2

今、本詩の制作年代は措いておくとしても、
その背景に、南方にいる人(おそらくは異母弟の曹彪)への思い、
そして、君主であり兄である曹丕への届かぬ思いがあることは確かです。
そうすると、詩の冒頭、今は亡き父曹操に思いを馳せることから歌い起こされるのは、
兄弟間の離別と分断とを詠ずる本詩の内容に奥行きを与えるものだと言えますし、*3
詩の構成としても、考え抜かれた末の自然な巧みさがあるように感じます。

2026年2月11日

*1 『元和郡県図志』巻16・河北道、相州、鄴県の条に「魏武帝西陵、在県西三十里(魏の武帝の西陵(高陵)は、県の西三十里に在り)」と。
*2 柳川順子「曹植における「惟漢行」制作の動機」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号、2022年)を参照されたい。
*3 曹操の家庭教育は、兄弟間の協力体制の育成を企図するものであった可能性がある。柳川順子「曹氏兄弟と魏王朝」(『大上正美先生傘寿記念三国志論集』汲古書院、2023年)を参照されたい。

※「懐魏都」は、鄴に葬られた武帝曹操への思慕をいうとの説は、夙に朱緒曾『曹集考異』巻5に示されていました。ここに追記します。(2026.02.17)

過去への飛翔か

曹植の「朔風」詩は、やっぱり難解です。
けれども、五年前には参照できなかった先行研究
川合康三氏編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』に啓発されるところが多く、*
先学との対話から解きほぐされていくものがありそうです。

この詩はその冒頭、「朔風」をよすがに「魏都」を懐かしむと詠じています。
この「魏都」がどこを指すのか、これも解釈の定まらないところですが、
魏王国の都、鄴と捉えることは十分可能だと気づかされました。
川合前掲書p.289―390にこうあります。

冒頭の北・南へ行きたい思いは、洛陽・呉とすれば、朝政・征伐への参加を願うものになるが、鄴都・寿春とすれば、過去の交遊の場を懐かしみ、曹彪を思慕するという私的な思いになる。7・8(句目)の鳥とともに翔て行きたいといのは、思う人のもとへ飛んで行きたいという常套表現なので、ここでは後者の方向で解する。

この中の「過去の交遊の場を懐かしみ」に意表を突かれました。
私は、この詩の作られた当時の北方を、当然のように思い浮かべていたからです。

冒頭四句が過去を懐かしむ表現だとして、
続く四句は現在、南方に身を置いている人への思慕を詠じています。
すると、すぐに飛んで行きたい先には、時間的なずれが生じることになります。
北方は過去、南方は現在、これらを並置して、その両方に思いを寄せているのですから。
(厳密に言えば、飛んで行きたい北方とは、なつかしい思い出の地ですが。)

もう少し考えてみます。
他にも未解明のところが多く残っています。

2026年2月10日

*川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(岩波文庫、2022年)

「朔風」詩の再読

曹植「朔風」詩の再読を始めました。
本詩の訳注は、2021年3月11日に公開したと記していますから、
ほとんど5年ぶりに読み直すことになります。

当時もその難解さに右往左往していましたが、
そのとき絞り出した仮説めいたものは妥当であったのか。
時を隔てて、再びまっさらな気持ちで対面しようと思っています。

さて、解題を見直してさっそく頭を抱えています。
本詩の成立年代に対して、実に様々な説が立てられているのです。
詩の本文を熟読すれば、自ずからしかるべき結論に着地できるのでしょうか。
依然として、成立年代については未詳と記すことになるかもしれません。
けれども、それを検討する必要はないとは言えません。

曹植もそこに属する前近代の中国知識人、
あるいはそれと地続きの世界を生きていた中国の研究者たちが、
喧々諤々、それを究明しようとしているのです。
すると、曹植自身もその詩の背景を強く意識していたに違いありません。

彼らの生きていた座標の中に自分も入って検討したいと思います。

また、本詩は『詩経』のスタイルに倣った四言詩であるのに、
『文選』では、多く五言詩を収める「雑詩」の部類に入っています(巻29)。
「雑詩」というジャンルの境界線を見極める上でも、
本詩は重要な意味を持つでしょう。
(このことについてはすでにこちらで述べています。)

積み残しを置いていきながら、
再びそこに戻ってきて考察できるのは、
いくらでもやり直しのできるこの場ならではの良さです。

2026年2月6日

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