王への特別待遇

曹植「聖皇篇」に、次のような句があります。

乗輿服御物  乗輿の服御物、
錦羅与金銀  錦羅と金銀と。
竜旗垂九旒  竜旗 九旒を垂れ、
羽蓋参斑輪  羽蓋 斑輪を参(まじ)ふ。

この中の「竜旗垂九旒」は、
『礼記』楽記篇にいう「竜旂九旒、天子之旌也」を踏まえており、
だとすると、この句は皇帝について描写するものと判断せざるを得ず、
ただ、そうすると前後の文脈から逸脱して不自然である、という問題について、
これを解消し得る史実があったことを、かつてこちらに記しました。

すなわち、後漢の清河孝王慶が、
皇帝に等しい特別待遇を受けていたという事実がそれです。
(『後漢書』巻55・章帝八王伝)

その後、天子の旗である「竜旂」が、
曹植の兄の曹彰に対しても、その死後に下賜されていることを知りました。
『三国志(魏志)』巻19・任城威王彰伝に、
黄初四年に都洛陽で没したことに続けてこうあります。

至葬、賜鑾輅、竜旂、虎賁百人、如漢東平王故事。
 埋葬するとき、鈴のついた天子の車、竜の御旗、近衛兵百人が下賜されたこと、
 漢の東平王の場合と同様であった。

「漢東平王」とは、後漢の東平憲王蒼(『後漢書』巻42・光武十王列伝)のようです。
このことを調べている中で、同様な厚遇をその死後に受けた王として、
前掲の劉蒼の外にも、東海恭王彊(『後漢書』巻2・顕宗孝明帝紀)、
また、先に言及した清河孝王慶も、弔いの際に、
「賜竜旂九旒、虎賁百人、儀比東海恭王」と記されており、
李賢等注にも、それが破格の待遇であったことをこう記しています。

旂有九旒、天子制也。
恭王彊葬、贈以殊礼、升竜旄頭、鑾輅、竜旂、虎賁百人。
 旗に九つの旒(吹き流し)があるのは、天子の制度である。
 恭王彊は埋葬の際、特別な礼として、升竜の旄頭、鑾輅、竜旂、虎賁百人を贈られた。

曹植「聖皇篇」に描かれた諸王の皇帝並みのいでたちは、
たしかに破格の待遇ではありましたが、近い過去には複数の事例が認められました。
そして、先日来注目している清河孝王慶もまた、その皇帝並みの待遇を受けた一人でした。
ただし、曹植「聖皇篇」の詠ずる諸王はまだ亡くなってはいません。
そこが現実とは異なっているところです。

2025年5月11日

陸機と曹植について(継続)

陸機「弔魏武帝文」(『文選』巻60)にこうあります。

信斯武之未喪  信(まこと)に斯の武の未だ喪(ほろ)びず、
膺霊符而在茲  霊符に膺(あた)りて茲に在る。

この表現は、
『論語』子罕篇に見える、
孔子が、匡の地で危険な状況に陥った際に言った言葉、

文王既没、文不在茲乎。……天之未喪斯文也、匡人其如予何。
 文王は既に没すれど、文は茲に在らずや。……
 天の未だ斯の文を喪(ほろぼ)さざるや、匡人 其れ予を如何せん。

を踏まえ、『論語』にいう「文」を「武」に置き換えて、
魏の武帝曹操を最大級に称賛したものです。

加えてここには、曹植「大魏篇(「鼙舞歌五篇」其三)」の冒頭にいう、

大魏応霊符  大魏 霊符に応じ、
天禄方甫始  天禄 方(まさ)に甫始(はじ)まる。

が踏まえられていること、前掲陸機作品の李善注にも指摘するところです。*

では、陸機はどのような経緯で曹植作品に出会ったのでしょうか。

曹植(192―232)の作品は、
彼がその名誉を回復した魏の明帝の景初年間(237―239)に前後して、
意外と速い速度で広範囲に伝播していったと思われます。(かつてこちらで触れました)。
当然、陸機が故郷で研鑽を積んだ時期(呉が滅亡した280年から十年間)、
その作品はすでに呉の地に流入していたと見られます。
とはいえ、陸機における曹植作品の摂取には、
彼の西晋王朝での後見役、張華の存在が非常に大きかったと見られます。
(このことについては、かつてこちらで述べました。)

2025年5月4日

*ただし、李善注に引くところは「大魏膺霊符、天禄方茲始」に作る。これは、本文のテキストに渉って誤ったか。なお、『文選』巻8、孫楚「為石仲容与孫晧書」の「協建霊符、天命既集(霊符に協(とも)に建て、天命既に集(な)る)」に対する李善注には、曹植の同作品を引いて「大魏応(應)霊符、天禄乃始」に作る。「膺」字は、その上半分が「應(応)」と同じであるため、書き誤った可能性もある。

曹植「聖皇篇」に表れた基盤的感情

先日、「聖皇篇」の訳注稿を公開しました。
この歌辞の終盤に、次のような辞句が見えています。

扳蓋因内顧  車の蓋いを引き寄せて振り返り、
俛仰慕同生  頭を垂れたり遠くを仰ぎ見たりして、血を分けた兄弟たちを恋い慕う。

ここに用いられている「内顧」という語は、
『論語』郷党篇にいう次の内容を踏まえていると見られます。

升車、必正立執綏、車中、不内顧、不疾言、不親指。
 乗車するときは、正しい姿勢で立って綱につかまり、
 車中では、よそ見をせず、早口でしゃべりたてたりせず、指差ししたりしない。

『論語』では、折り目正しいふるまいとして、「不内顧」とあります。

他方、曹植「聖皇篇」では、それを反転させています。
すると「内顧」は、車中での所作として規範から外れるという意味を帯びるでしょう。

これに続く句にいう「俯仰」が、
『文選』巻29、蘇武「詩四首」其二にいう
「俛仰内傷心、涙下不可揮」を響かせていることからもうかがえるように、
曹植のこの歌辞には、振幅の大きい感情表現が目立ちます。
それは、特に漢代の詩歌を踏まえた表現に端的に見いだせるものです。

加えて、その感情表現の対象は肉親であって、
決して儒教の説く天下国家ではないということも注目されます。

曹植「聖皇篇」は、漢代「鼙舞歌」五篇の一篇「章和二年中」に基づいて作られました。*
「鼙舞歌」は、宴席で上演されていた芸能ですが(『宋書』巻19・楽志一)、
そうした娯楽的空間で共有されていた基盤的感情の特質が、
「内顧」の一語からも窺い知れるように思います。

作品は、作者の個性、作者の生きた時代のみならず、
当時の人々の基盤的感情を押さえてこそ、始めて読解できる部分がありそうです。

2025年5月3日

*以前、「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として」(『中国文化』第73号、2015年)では、この後漢の「章和二年」に起こった出来事と、曹植「聖皇篇」に詠じられていることとを照合して、本作品が漢代鼙舞歌辞を忠実になぞったものである可能性が高いことを論じた。今回ここに述べたことは、先の拙論とは異なる視点である。

曹植「聖皇篇」札記3

曹植「聖皇篇」の中に、「乗輿服御物」という句が見えます。

これと同一の句が、蔡邕『独断』上に次のように見えています。

乗輿出於律。
律曰、敢盗乗輿服御物、謂天子所服食者也。
天子志尊、不敢渫瀆言之。故託之於乗輿。乗猶載也。輿猶車也。
 乗輿という語は律に由来する。
 律にいう「敢えて乗輿の服御物を盗んだ場合は」は、天子の衣服食物を言っているのだ。
 天子は最高に尊い存在なので、これを口にして冒涜することはとてもできない。だから、
 それを乗輿に託して言うのだ。乗とは載る、輿とは車の意味にほぼ等しい。

曹植は、この律の文をそのまま詩に織り込んだのかもしれません。

というのは、一句を置いて後に続く「竜旗垂九旒」が、
(隔句対とまでは言えませんが、バランスを取る意識は働いているように思います。)
『礼記』楽記にいう「竜旂九旒、天子之旌也(竜旂九旒は、天子の旌(はた)なり)」を
ほとんどそのまま用いているからです。

曹植の詩歌には、
身辺にごろりと転がっているような言葉を、
経書に見えるような言葉と同等に並べて用いるような、
常識を軽々と超える、ざっくりとした自由さがあるように思います。

2025年1月10日

「殿前生桂樹」が象徴するもの

曹植「霊芝篇」が基づく漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」は、
おそらく第一句に、殿前に桂樹が生い出たことを詠ずる歌辞なのでしょう。
ではなぜこのようなことから歌い起こすのでしょうか。

類似句は、たとえば古楽府「相逢狭路間行」(『玉台新詠』巻1)に、

中庭生桂樹  中庭に桂樹を生ず
華燈何煌煌  華燈 何ぞ煌煌たる

と見えていますが、そのことが何を意味するのか、今ひとつわかりません。
(単なる風景描写なのかもしれませんが。)

それで、ふと思い当たったのが、
『漢書』巻27中之上・五行志中之上に引く前漢成帝期の歌謡の中に、
「桂樹華不実(桂樹 華実らず)」とあり、歌辞に続けてこうあることでした。

桂、赤色、漢家象。華不実、無継嗣也。
 桂は、赤色にして、漢家の象なり。華実らずとは、継嗣無きなり。

桂樹がこのようなイメージを伴うとすれば、
「殿前生桂樹」は、漢王朝が後継者に恵まれるよう祈るものかもしれません。

これは、昨日述べたこと(妄想)ともつながるかもしれません。
竇皇后は自身が子に恵まれなかったため、肇(和帝)の育ての母となりましたが、
そのことと、漢の後継者を象徴する「桂樹」とはイメージが重なります。

ただ、これは仮説の上に重ねる仮説です。
しばらくすれば、一笑に付すべきものと化すかもしれません。
いつでも引き返すつもりでいます。

2025年1月9日

もうひとつの「慈母」の意味

曹植の「霊芝篇(鼙舞歌2)」は「孝」を詠じていますが、
そのもととなった漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」も同様であったと見られます。
(曹植「鼙舞歌」は漢代のそれを忠実に再現しようとしたものです。*)

そして、「殿前生桂樹」の背後には、
清河孝王慶にまつわる史実(『後漢書』章帝八王伝)があったと思われます。
このことについては、過日こちらで述べました。

さて、この史実を前掲『後漢書』で確認している時に、
章帝の詔の中に、「慈母」という語のあることに目が留まりました。

この詔は、竇皇后のウソの奏上を信じた章帝が、
皇太子である劉慶を廃し、肇(後の和帝)を太子としたものです。

竇皇后は、劉慶とその母宋貴人を陥れんと誣奏をし、
かくして彼女は、自身の育てた劉肇を皇太子とすることができたのです。

その章帝の詔の中に、
「蓋庶子慈母尚有終身之恩(蓋し庶子の慈母すら尚ほ終身の恩あり)」、
まして、皇后に正しく育てられた肇であれば大丈夫だ、
というくだりがあります。

吉川忠夫訓注『後漢書』第七冊(岩波書店、2004年)は、
この部分に「慈母は育ての母」と説明した上で、
李賢等注に『儀礼』喪服の「慈母如母」を引くことを示しています。

この意味での「慈母」は、まさしく竇皇后そのものです。

ところで、曹植「霊芝篇」の末尾にもこの語がこう見えています。

陛下三万歳  陛下 三万歳、
慈母亦復然  慈母も亦た復た然り。

このように言祝ぐ曹植の歌辞は、
直接的には文帝曹丕と自身の母でもある卞皇后を指すでしょう。

他方、もしかしたらこれに類する文脈で、
漢代「殿前生桂樹」も「慈母」という語を用いていたかもしれないと思いました。

その場合は、清河王劉慶が、和帝と竇皇后を言祝ぐこととなるでしょうか。
劉慶は、和帝とはとても親しい間柄でしたが、
竇皇后は、自身の母を自殺に追い込んだ人なのですから、
これは辛いです。

もっとも、「殿前生桂樹」がこの間のことを詠じているとは限らないし、
そもそも歌辞が史実を直接反映するとも限りませんが。

2025年1月8日

*拙稿「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として」(『中国文化』第73号、2015年)を参照されたい。

曹植「聖皇篇」札記2

曹植「聖皇篇」は、漢代「鼙舞歌」の「章和二年中」をなぞりつつも、
曹植自身が直面している魏王朝の時代を背景としているらしい。
そのことを窺わせる事例を、先に示しました。
それと同様な事例を今日も示します。

それは、これから王が封国に赴く段を描写する次のような部分です。

便時舎外殿  良き時を待って外の御殿に逗留すれば、
宮省寂無人  宮中の官庁はひっそりとして人の気配もない。
主上増顧念  主上はいよいよ篤く気にかけてくださり、
皇母懐苦辛  皇母はひどく辛い思いを抱く。

もしこの歌辞が、本当に章和二年中の出来事を詠じているのならば、
「主上」である和帝劉肇は当時十歳です。
「皇母」は、和帝の生みの母梁貴人を死に追いやった、育ての母竇皇后です。
「主上は顧念を増し、皇母は苦辛を懐く」にはあまり馴染みません。
もし、章和二年の事が繰り返された延平元年(106)を背景とするのであれば、
(このことは先にこちらで述べました。)
当時帝位にあった殤帝劉隆は生後間もない乳児です。
(『後漢書』巻4・孝和孝殤帝紀)

ですが、これを曹魏王朝初期の出来事であると見るならば、
「主上」たる文帝曹丕は三十四歳、
「皇母」は、曹丕と曹植の生みの母、卞皇太后です。
前掲詩句での描写は、まさしく二人のあり様に合致するものでしょう。

曹植の「聖皇篇」は、
随所に後漢時代の出来事を彷彿とさせる描写をちりばめながら、
曹魏王朝当代のことを詠じていると言えそうです。

これはひどく当たり前のことのように思われるでしょうか。
しかし、作品の詠ずる内容が作者の直面していた現実と重なるのは、
必ずしも自明のことではありません。

2025年1月7日

「八幡八景」文芸の展開

過日、「八幡八景」と悦峰との関わりを通して、
「八幡八景」文芸の展開について、自分なりの考えを述べました。

これに関して、伊藤太氏所論による重要な指摘を転記します。*1
(先にはその重要性を未だ受容できていませんでした。)

伊藤氏は『八幡八景』の二種の稿本「正徳本」「昭和本」を比較し、
昭和本が、正徳本のような「各景ごとに章立てする形式」には則らないことを
次のように述べています。

(昭和本は)題詠の需めに応じて当初作られたそれぞれの「八幡八景」一組の作品集ごとのまとまりを尊重した形で半数近くが構成されている。

より古い正徳本『八幡八景』のみならず、近代の写本である『八幡雄徳山八景』の書誌と内容についても煩雑をいとわず紹介したのは、この昭和本が、正徳本だけではうかがい知ることができない「八幡八景」の当初の姿、いわば原本「八幡八景」諸本の形をかなり忠実に伝えていると判断したからである。

この指摘は、元文四年に『厳島八景』が刊行されて以降、
各々嚴島に奉納された「厳島八景」文芸の、本来の姿が辿れなくなったのを想起させます。*2

さて、先にも述べたように、
この貴重な昭和本『八幡雄徳山八景』の中には、
後に「厳島八景」詩及び詩序を奉納することになる悦峰の名が見えますが、
それに先んずる部分に「黄檗千呆」の名も見えています。

千呆は、黄檗宗万福寺の第六代住持を務めた人物で、
第八代住持である悦峰の先輩に当たります。

ということは、柏村直條と黄檗宗万福寺の僧侶たちとは、
悦峰より前からすでに交友関係を結んでいたということになるでしょう。

柏村直條が悦峰に「厳島八景詩」奉納を依頼したのは、
このような背景があればこそであったのだと納得されました。
柏村直條の為人がしのばれます。

2025年1月2日

*1 伊藤太「「八幡八景」の書誌とその成立過程」(『芸文稿』第16号、2023年)p.7、9を参照。
*2 柳川順子「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)を参照されたい。

「厳島八景畫圖」の奉納(追補)

昨日、六條有藤に「厳島八景畫圖」の奉納を依頼したのは、
柏村直條ではないか、との推測を示しました。

この推測の傍証と成り得る記述を、
「柏亭日記」巻の二、享保十四年の記述の中に見つけることができました。

古文書の会八幡『翻刻柏亭日記(石清水八幡宮蔵)』(古文書の会八幡、2018年)
「五、日記に見る登場人物一覧表」p.97を参照して当たった、
「享保十四己酉 柏亭日記」p.22、26、28、37、39、40、43、45、46の記事です。

それは、書状や詠草のやり取りのみならず、
食物の贈り物に至るまで、日常的な往来を細やかに書き記すものでした。
たとえば、「六條中納言殿へ浅草苔五枚、甘苔三把進上申候」(正月十日)、
「六條家江鮹塩辛一曲、空豆一器」(四月廿六日)、
「六條殿ほしふく一、岩苔一遣ス」(閏九月十三日)といった具合です。

六條有藤が「某の需(もとめ)に応じて自ら其の図を写し」、
これを嚴島神社に奉納したのは、享保六年(1721)十一月のことでした。

前掲の日記は、それより後の享保十四年(1729)のものですが、
六條と柏村との交友は、この年に突如として始まったものではないでしょう。

そうしてみると、柏村直條がかねて親交のあった六條有藤に、
「厳島八景」文芸を盛り立てる依頼をした可能性は十分にあるでしょう。

2025年1月1日

「厳島八景畫圖」の奉納

元文四年(1739)に刊行された『厳島八景』の上巻(12葉目の表)に、
「八景畫圖奥書」として、次のような文章が見えています。*1

安藝州宮島者、神德威霊而天山之絶境也。故従古為畫圖以傳于世。就中取其最勝者、今為八景圖。余固敬其神、且愛其景。今應某需自写其圖、以奉納之、永禱助福云。

享保六稔仲冬十有五  龍作水原判
 奉納畫圖  六條中納言有藤卿染筆

安芸の州 宮島は、神徳威霊にして天山の絶境なり。故に古より画図を為して以て世に伝ふ。就中(なかんづく)其の最勝たる者を取りて、今八景の図と為す。余は固(まこと)に其の神を敬し、且つ其の景を愛す。今 某の需(もとめ)に応じて自ら其の図を写して、以て之を奉納し、永く助福を祷ると云ふ。

享保六年(1721)仲冬(11月)十有五 龍作水原判【未詳】
 奉納画図  六條中納言有藤卿染筆

本文中に「某の需に応じて」とあるのは、
石清水八幡宮の神職、柏村直條からの依頼に、
六條有藤が応じたことをいうのではないかと考えます。

すでに述べているとおり、*2
「厳島八景」の事実上の撰者は柏村直條だと見て間違いありません。
そして、その構想にあたって彼がまず念頭に置いたのは、
彼がかつて編成した「八幡八景」であり、
その「八幡八景」は、和歌、漢詩、発句、絵画からなる総合文芸でした。*3

柏村直條は「八幡八景」をひとつのひな型として「厳島八景」の総体を思い描いていた、
だからこそ彼は、公家たちの八景和歌が成って奉納された後も、
里村家に発句を、公家たちに漢詩を、更にこの六條有藤に絵図を奉納するように、
熱心に働きかけを続けたのではないかと推察します。

柏村直條を魅了した宮島の景観。
宮島の美を見出し、その総合文芸としての具現化に動いた柏村直條。
両者のエネルギーが実を結んで誕生したのが「厳島八景」ではないかと考えます。

2024年12月31日

*1 高橋修三「翻刻『厳島八景』」(『宮島の歴史と民俗』11号、1994年)を参照。句読点はこちらで随時打ち、訓み下しはすべて当用漢字に改めた。一部に送り仮名を改めたところがある。『厳島八景』(松半舎、 元文四年)は、早稲田大学図書館により公開されている。https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he01/he01_01300/index.html
*2 柳川順子「悦峰の「厳島八景詩序」と柏村直條」(『宮島学センター年報』第3・4号、2013年)、同「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)で論じた。
*3 竹内千代子・小西亘・土井三郎『石清水八幡宮『八幡八景』を読む』(昭英社、2023年)、伊藤太「「八幡八景」の書誌とその成立過程」(『芸文稿』第16号、2023年)を参照。

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