場を共有する言葉

こんばんは。

曹植の「公讌詩」(『文選』巻20)にいう、

公子敬愛客  公子 客を敬愛し、
終宴不知疲  宴を終ふるまで疲れを知らず。

これと非常によく似た句が、
応瑒「侍五官中郎将建章台集詩」(『文選』巻20)にこう見えています。

公子敬愛客  公子 客を敬愛し、
楽飲不知疲  楽飲して疲れを知らず。

こんなによく似た二つの詩句ですが、
類似句を、この二首以外の詩文や著作に見出すことはできません。

これは、場を共有する詩人たちが、
相互にその詩句を踏襲しあったとは考えられないでしょうか。

また、応瑒の前掲詩にいう、

為且極歓情  そこで、若様のためにしばし宴の喜びを味わい尽くそう。
不酔其無帰  「酔わないうちは帰るでない」と言うではないか。

これとまたよく似た句が、
王粲「公讌詩」(『文選』巻20)に次のとおり見えています。

常聞詩人語  常々『詩経』の言葉にこうあるのを聞いている。
不酔且無帰  「酔わないうちはまあ帰るでない」と。
今日不極懽  今日 歓楽を極めずして、
含情欲待誰  思いを含んで誰を待とうというのか。

ここにいう「詩人の語」とは、
『詩経』小雅「湛露」にいう「不酔無帰(酔はずんば帰ること無かれ)」です。

応瑒も王粲も共にこれを引くのは、
各々が『詩経』に基づく表現をしたとも考えられますが、
それ以外でも、「歓・懽」「極」の語を二人は共有しているので、
いずれかがいずれかの詩句を引き取って詠じた可能性もあるように思います。

このような事例がもっと他にも見つかるとよいのだけれど。

2021年11月15日

論者も現実と向き合う

こんにちは。

安藤信廣『中国文学の歴史』(東方書店、2021年)のまえがきにこうあります。

それぞれの作者は過去の文学的蓄積の上に立ちながらも、
あくまでも自身の現在の課題に向き合っている。

この言葉に、私は非常に深く共感しました。

文学の歴史に論及する論著の中には、
まるで、作者たちはその文学ジャンルを豊かにするために参集した、
というような観点から、それぞれの作家や作品を論じるものが散見します。

けれども、少なくともその作品が誕生したそのとき、
作者自身には、斯界の繁栄に寄与する、といった意図はないのではないでしょうか。

それを、はるかな後世から俯瞰してみれば、
結果として、その作品は、その文学ジャンルに新風を吹き込んだことになるのでしょう。

けれど、私自身は、そうした視点は取りたくないのです。身の丈に合わないから。
(もちろんそうした大局観から説く研究を否定するものではありません。)

以前、こちらでも述べましたが、
私は昔、大江千里の「句題和歌」について論じたことがあります。
そのとき、多くの先行研究が上述のようなスタンスを取り、
千里の「句題和歌」を稚拙であると評価していたことに義憤を感じたものです。
彼は「句題和歌」という新様式を創って和歌文学界に新風を起こそうとしたのではなく、
自分自身を苦境から救い出すために作り出したのが「句題和歌」だった。
そこにきちんと目を止めたいと思ったのです。

なぜそんなことを思ったのか。
それは、大江千里研究が私自身を救うことでもあったからだと思い至ります。
研究者も、完全に客観的な神の視点から論じ得るわけではない、
それぞれが直面している現実があって、それと向き合いつつ論じているのだと思う。
このことは、対象を好き勝手に自分に引き付けて論じることとは違います。

2021年11月12日

再び用いられた言葉

こんばんは。

曹植はわりとよく、自身の言葉を他の作品で重ねて用います。
近作の言葉が、たまたま再び口をついて出てきたケースもあるでしょう。
他方、彼自身が意識的に再び用いたのではないかと思われるような事例もあります。

今読んでいる「責躬詩」(『文選』巻20)に、
文帝曹丕から曹植へ、諸侯の証が下されたことを詠じてこうあります。

冠我玄冕  わたしに黒い冠冕をかぶらせ、
要我朱紱  わたしに朱色の印綬の紐を佩びさせた。

そして、ここに見える「玄冕」と「朱紱」との対句が、
彼の「求自試表」(『文選』巻37)にも、次のとおり見えています。

是以上慙玄冕、俯愧朱紱。
是(ここ)を以て上は玄冕に慚ぢ、俯しては朱紱に愧づ。

「是を以て」とは、その前の記述、
すなわち、自分は三代にわたって魏王朝から手厚い恩寵を受けてきてはいるが、

何の徳も功績も挙げていない、という述懐を受けて言うものです。

「玄冕」は『周礼』夏官・弁師に、
「朱紱」は『礼記』玉藻に、それぞれ出典のある語ですが、
この二つの言葉を対句で用いる例は、漢魏六朝時代で、曹植作品以外には認められません。
更に、曹植作品の中でも、前掲の「責躬詩」と「求自試表」のみです。

また、両作品の成立時期には、かなりの隔たりがあります。
「求自試表」は明帝期の太和二年(228)、
一方「責躬詩」は、文帝期の黄初四年(223)に作られています。
すると、同じ言葉が思わず口をついて出てきたというわけではなさそうです。

「責躬詩」と「求自試表」における「玄冕」「朱紱」の共用は、
多分に意識的になされたものだったのではないだろうか、
そう推測するのは以上のような理由からです。

では、曹植は数年の時を経て、なぜ再びこの二語を持ち出したのでしょうか。

曹植は、かつて文帝曹丕から下された格別の配慮を、
明帝の時代に至るまで、深く心にとめていただろうと思います。
それは、最悪の事態から救い出してくれた兄への感謝でありながらも、
今、自身の能力を発揮する機会が与えられないことへの鬱屈をも含んでいたでしょう。
手厚い待遇を受けながらも、自分にはそれに見合うだけの徳も功もない、
それが耐え難いのだと「求自試表」は訴えています。

2021年11月11日

曹植「責躬詩」札記7

こんばんは。

曹植の「責躬詩」は、先にも触れたように、
兄の文帝曹丕に謝罪する趣旨で書かれたにもかかわらず、
その冒頭部分は、父曹操を尊崇する言葉で埋め尽くされています。

この姿勢は、曹丕が詩の前面に出てくる中盤に至っても伏流しているようです。
たとえば次のような言葉、

赫赫天子、恩不遺物(赫赫たる天子、恩は物を遺さず)。
  明々と光り輝く天子は、その恩沢を万物に広く施して遺漏がない。

「赫赫」は、ただ光り輝くさまを言っているだけではおそらくありません。
その下に「天子」という語が続くことから考えてみても、
ここは『毛詩』大雅「大明」にいう「明明在下、赫赫在上」を踏まえると見られます。
この句について、鄭玄は次のように解釈しています。

明明者文王武王、施明徳于天下、其徴応炤晳見於天。
  明明とは、周の文王・武王が、明徳を天下に施して、
  その証がくっきりと天に現れたことをいうのである。

曹植詩にいう「赫赫たる天子」が、文帝曹丕を指して言うものであることは確実です。
しかしながら、この句がもし上記の『毛詩』を踏まえているとするならば、
それは、周を建てた武王に比せられる曹丕を指しているのみならず、
その背後に、周文王、すなわち曹操の姿が重ねられていることになります。

なお、前掲の『毛詩』大雅「大明」の小序には、
「大明、文王有明徳、故天復命武王也。
(大明は、文王に明徳有り、故に天は復た武王に命ずるなり)」とあります。

もし曹植詩はこの小序まで含めて踏まえていると見るならば、
曹丕が魏の文帝として即位したのは、父曹操に明徳があったからこそだ、
と言っていることになります。

曹植自身、どこまで『毛詩』を意識していたかは不明です。
けれども、前述のように読まれてしまう可能性は確実にあったと言えるでしょう。

2021年11月10日

授業雑感

こんばんは。

先週の授業で柳宗元の「送薛存義之任序」を取り上げたことはこちらでも述べましたが、
本日の授業で、儒家思想の何たるかを学んだ前回の授業内容を振り返りました。
学生たちから提示された、儒家思想への質問疑問に応答していく中で、
現代人の基本的心性が浮かび上がってきたように思います。

まず、現代の若者である学生たちの多くが、
良いことをしても見返りがなければ意味がないと見ている、
また、不遇はすなわち不幸だと考えている、ということがわかりました。

以前にも述べましたが、その作品が後世にまで残るような人物は、多くが不遇です。
けれども、彼らが不幸であったとは必ずしも言えないように思うのです。
なぜそのように感じるのか、少し考えてみました。

ひとつには、彼らは自身の生き方や作品に誇りを持っていたでしょう。
自身への敬意、本当の意味でのプライドです。
(現代日本では、この言葉はマイナスのイメージを伴いますが。)

そして、彼らには、不遇な自己を投影させ得る先人たちがいた、
言い換えれば、不遇な自身を昇華させ得る物語が存在したということです。
(たとえば、讒言を受けて、汨羅の潭に身を投じた忠臣、屈原など)

ひるがえって今、かりに儒家的な考え方から行動したとしても、
おそらく、無関心、あるいは冷笑めいた憐れみをかけられるのが落ちかもしれません。
現代人には、儒家を理想とするような思想はもはや存在しないのですから、
それは当然のことなのでしょう。

現代に、儒家思想をそのまま復活させるべきだとは思えません。
それは、時代的背景が異なるのですから無理筋のことです。
けれども、二千年以上も継承されてきたそれを捨て去るのはあまりにも惜しい。
たとえば、次のような言葉が惜しげもなく転がっているのですから。

衆悪之必察焉、衆好之必察焉。(『論語』衛霊公篇)
  衆人がこれを嫌っていても、必ず(自分の耳目で)精察する。
  衆人がこれを好んでいても、必ず(自分の耳目で)精察する。

これなど、現代にこそ響きわたる言葉だと思います。
この二千数百年前の人の言葉が記され、読み継がれて今に伝わる、
ということは、これは人間にとって普遍的真実だと見てよいのではないでしょうか。

2021年11月9日

仙人になった隠者

こんばんは。

以前、魚豢『魏略』に記された、焦先という人物に触れたことがあります。

『三国志(魏志)』巻11・管寧伝に、
胡昭という、権力者と一定の距離を保ちながら生きた人物の伝が記されていて、
その裴松之注に『魏略』を引き、同類の人として焦先のことが紹介されているのです。
(具体的な内容は、こちらの学術論文№41をご覧いただければ幸いです。)

同裴注には皇甫謐の『高士伝』も引かれていて、
そこでは隠者的な人物として捉えられていた焦先ですが、
このたび、『神仙伝』巻6において、仙人となった焦先に再会しました。
少し長いので、別途こちらに全文を、訓み下し、通釈とともに記しておきます。

現代にもし焦先が生きていたならば、彼は社会の中に居場所が得られたでしょうか。
そうした人のために、隠者という、現実社会に隣接する立ち位置を確保し、
更には、昇仙の道まで用意した中国中世の人々に対して、
私は心の底から感嘆します。

2021年11月8日

 

曹植「責躬詩」札記6

こんばんは。

曹植「責躬詩」をなおも読み進めていますが、
その途上で、また、奇妙なものの言い方に遭遇しました。

49 股肱弗置  股肱は置かれず、
50 有君無臣  君有りて臣無し。
51 荒淫之闕  荒淫の闕、
52 誰弼予身  誰か予が身を弼(たす)けん。

ここにいう「予」と誰なのでしょうか。
普通は、本詩の作者が自身のことを指していると見るのが自然でしょう。

ですが、その前にある「弼」は、先日も示したとおり、
『尚書大伝』に説明するところによると、天子を補佐するものです。

更に、第49句に見える「股肱」も、
『尚書大伝』(『文選』巻五十八、王倹「褚淵碑文」の李善注に引く)にいう、
「元首明哉、股肱良哉。元首、君也。股肱、臣也」から判断して、
君主を補佐する臣下を言うのだと思われます。

その「股肱」が不在であるのを、続く句で「君有りて臣無し」と言っています。
第52句は、この流れを受けて出てきたものでしょう。

このように見てくると、「予」を曹植とするわけにはいかなくなります。
曹植は、「股肱」に補佐される「君」ではないし、
「弼」という行為を臣下から受ける「天子」ではないのですから。

他方、これに先立つ第46句には「哀予小臣(予小臣を哀れむ)」と見え、
ここにいう「予」すなわち「小臣」は、紛れもない曹植自身を指しています。
そんな表現の後に、一転今度は自分を君主扱いするとは不自然です。

すると、第52句にいう「予」は、当代の天子、文帝だということになるのでしょうか。
仮にもしそうだとして、ではなぜ曹植はここで、
「予」という第一人称で、兄の立場を代弁しているのでしょうか。

どうにも釈然としません。

2021年11月5日

現実と対峙する文学

こんにちは。

先日の授業で、柳宗元「送薛存義之任序」を読みました。
こちらに原文と通釈を挙げておきます。)
下定雅弘氏がその著書に「逆境を生き抜いた美しき魂」*と題したように、
私もこの人物のあり様を非常に美しいと感じます。
ですから、いつも心を込めて話をします。

ただ、それが学生たちに届いたかどうか。
けれども、それは仕方がないのかもしれない、とふと思いました。

柳宗元は高級官僚です。
たとえ官界で挫折して左遷されてはいても、
彼には国家経営の一端を担っているという自覚があります。

だから、行政職に就いている人には、この文章はきっと響くだろうと思います。
けれども、私たち一般人、ましてまだ社会に出てすらいない学生たちにはどうでしょう。

彼は今どのような境遇にあるか、
当時の官界がどのような状況であったか、
これをもし自分の環境に置き換えてみるとしたらどういうことなのか。
そうした変換なくしては、心の底から彼の文学を理解することはできないと思います。

他方、これを挫折の文学という観点から読むことはできそうです。
(もっとも、その魂は損なわれておらず、むしろ磨かれていると感じますが)
その上で思うのは、中国文学は、現実社会と文学との対峙の歴史でもあるということです。
ではなぜ文学者はいつも不遇なのか。現実的に満たされた人物の文学はないのか。
ずっと心にひっかかっている疑問です。

2021年11月4日

*下定雅弘『柳宗元―逆境を生き抜いた美しき魂』(勉誠出版、2009年)

論文への書評

こんばんは。

前漢後期の王褒(?―前61)に、「僮約」という諧謔的な作品があります。
その内容をかいつまんで紹介すれば次のとおりです。

王褒に酒を買いに行くよう命じられた奴隷が、
これを拒否し、明文化された仕事以外はしないと言い張る。
そこで、王褒は証文を作成し、奴隷のやるべき仕事の逐一を書き連ねた。
これを一読した奴隷は、酒を買いに行く方がずっとましだったと泣き言を言った。

この文章に関する先行研究を探していて驚きました。

宇都宮清吉「僮約研究」(『名古屋大学文学部論集』5・史学第二、1953年)
この“論文”に対して、翌年、翌々年と相次いで“書評”が発表されていることです。
西村元佑氏による書評は、1954年、『史林』37(2)に、
守屋美都雄氏によるそれは、1955年、『法制史研究』1955(5)に掲載されています。

まず、論文に対する書評というものを、私は初めて目にしました。
これは、宇都宮氏の論考を心待ちにしている人々がいたということでしょう。
そしてその書評が、批評対象に対する深い理解と敬意にあふれていることに打たれました。

ここに、学術界のひとつの理想形を見たような気がします。

書評は二篇ともオンラインですぐに入手できたのですが、
宇都宮清吉論文は、文献複写を依頼しました。
届いたら、心して読もうと思います。

2021年11月2日

曹丕と博士たち

こんばんは。

魏の文帝の黄初二年、曹植は朝廷からの使者に対して悪態をつき、
それが監国謁者潅均によって告発されました。

先週末、ここでも触れたように、
『文選』巻20、曹植「責躬詩」の李善注に引く佚書『曹植集』には、
この時の朝廷での議論について次のように記しています。

博士等議、可削爵土、免為庶人。
博士等の議すらく、爵土を削り、免じて庶人と為す可し。

このような議論を受けた曹丕は、
結局、次のような詔を出してこれを退けています。
それを記す『魏書』(『魏志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く)にこうあります。

植、朕之同母弟。
朕於天下無所不容、而況植乎。
骨肉之親、舎而不誅、其改封植。
  植は、我が同母弟である。
  わたしは天下のすべてを容認する。まして骨肉の植はなおさらだ。
  肉親は、その罪をひとまず置いて、誅することはない。それ植の封土を改めよ。

『魏志』本伝の記述によれば、この寛大な措置は、
彼らの母、卞太后の特別な計らいによるものであったようですが、
いずれにせよ、この詔により、曹植は臨淄侯から安郷侯に移されただけで済みました。

この一連の出来事は、別の次のようなエピソードを想起させます。

それは、曹操の崩御した年、曹植は曹丕に、亡父を祭らせてほしいと上表しましたが、
博士たちの議論により、曹丕はその申し出を許可しなかったという出来事です。

『太平御覧』巻526に引く当該「請祭先王表」は、
件の上表文に続けて、ことの顛末を次のように記しています。
(この資料はこちらでも提示しました。通釈はそちらをご参照ください。)

博士鹿優韓蓋等以為礼公子不得禰先君、公子之子不得祖諸侯、謂不得立其廟而祭之也。礼又曰、庶子不得祭宗。
詔曰、得月二十八日表、知侯推情、欲祭先王於河上。覧省上下、悲傷感切、将欲遣礼以紓侯敬恭之意、会博士鹿優等奏礼如此。故写以下。開国承家、顧迫礼制、惟侯存心、与吾同之。
博士の鹿優・韓蓋等は以為(おもへ)らく 礼に公子は先君を禰するを得ず、公子の子は諸侯を祖するを得ずとは、其の廟を立てて之を祭るを得ざるを謂ふなり。礼に又た曰ふ、庶子は宗を祭るを得ず、と。
詔に曰く、月二十八日の表を得て、侯が情を推して、先王の河上に祭らんと欲するを知る。上下を覧省すれば、悲傷感切にして、将に礼を遣りて以て侯が敬恭の意を紓(ゆる)めんと欲せしとき、会(たまたま)博士の鹿優等 礼は此くの如しと奏す。故に以下を写す。国を開き家を承くるは、礼制を顧迫すべし、惟れ侯が心に存するは、吾と之を同じうす。

二つの出来事は、結果は異なりますが、
次の点に類似性が認められるように思いました。
すなわち、曹植の言動に対して、
曹丕が心情的に同意しようとする一方、
博士たちがこれを冷徹に阻止しようとするという構図です。

博士たちと曹丕とは、どのような力関係にあったのでしょうか。
曹氏兄弟の関係性を再考する上で、このことが関わるかもしれないと思いました。

2021年11月1日

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