阮籍の「磬折」と曹植詩
こんにちは。
一昨日、阮籍は「磬折」という語を、
「詠懐詩」のみならず、「大人先生伝」でも用いていること、
後者のそれは、『韓詩外伝』や『説苑』を踏まえていることを述べました。
本日、再び「詠懐詩」の「磬折」に戻ります。
それは、曹植「箜篌引」に読み込まれた「磬折」と無関係なのでしょうか。
結論から言えば、阮籍は曹植の楽府詩を意識していると私は見ます。
どうしてそのように判断できるのか。
「大人先生伝」中の「或るひと」は、『韓詩外伝』や『説苑』を踏まえて、
世間の規範にきちんと適うことを「磬折」と表現しています。
一方、「詠懐詩」其八に見えている「磬折」は、
今を時めいている「当路子」が、「夸(誇)と名との為に」、
心身を「憔悴」させてまでも、さる相手に向けて行っている動作です。
また「詠懐詩」其十二(『文選』巻23所収十七首の其四)にも、
「悦懌若九春、磬折似秋霜(悦懌 九春の若く、磬折 秋霜に似たり)」とあって、
これもやはり、さる相手に対して腰を折り曲げる所作です。
社会的規範に即する所作をいう「磬折」と、
誰かに対して腰を折り曲げる所作をいう「磬折」とは、
似ているようで、違っています。
これらの「詠懐詩」を収録する『文選』の李善注は、
「磬折」は、次に示す『尚書大伝』(佚)を踏まえたものだと指摘しています。
諸侯来、受命周公、莫不磬折。
諸侯来たりて、命を周公に受くるに、磬折せざるは莫(な)し。
李善は、曹植「箜篌引」(『文選』巻27)の「磬折」についても、
上記と同じ『尚書大伝』を注記しています。
では、曹植と阮籍は、それぞれ独自にこの語を引いたのでしょうか。
更にもう少し考えてみます。
2022年4月6日
「磬折」について再び
こんばんは。
しばらく間が空きました。
またしばらく間が空くかもしれません。
「曹植作品訳注稿」はなんとか継続的に作業を進めていますが、
(昨日、やっと「04-07-1 離友 有序 二首(1)」を公開しました。)
こちらの雑記に毎日書くことはとても難しい。
さて、ずいぶん前にこちらで、
阮籍「詠懐詩」其八ほかに見える「磬折」という語は、
曹植「箜篌引」を意識している可能性があるということを指摘しました。
そのことに関連して、少しばかり追記します。
阮籍は「磬折」という語を、
「大人先生伝」の中でも次のように用いています。
或遺大人先生書曰「天下之貴、莫貴於君子。服有常色、貌有常則、言有常度、行有常式。立則磬折、拱若(則)抱鼓、動静有節、趍歩商羽、進退周旋、咸有規矩。……」
ある人が大人先生にこんな書簡を送った。「天下に君子ほど高貴なものはない。服装、表情、言葉、行動、すべてに恒常的な法則性がある。立てば磬の楽器のように腰を折り、拱手して畏まるさまは鼓を抱え込むようで、所作はリズミカルで、足の運びにはメロディが伴うようで、すべての立ち居振る舞いに節度がある。……」(以上は意訳)
そして、ここに見える「立則磬折、拱若(則)抱鼓」という対句は、
直接的には、次の古典に基づく表現であると言えます。
まず、『韓詩外伝』巻1にこうあります。
古者天子左五鐘、将出、則撞黄鐘、而右五鐘皆応之。馬鳴中律、駕者有文、御者有数、立則磬折、拱則抱鼓、行歩中規、折旋中矩。(『韓詩外伝』巻1)
古は天子は五鐘を左にし、将に出でんとするや、則ち黄鐘を撞き、而して五鐘を右にして皆之に応ず。馬の鳴くは律に中たり、駕する者には文有り、御する者には数有り、立たてば則ち磬折し、拱すれば則ち鼓を抱き、行歩は規に中たり、折旋は矩に中たる。
また、前漢末の劉向『説苑』修文にもこうあります。
書曰「五事、一曰貌」(『尚書』洪範)。貌者、男子之所以恭敬、婦人之所以姣好也。行歩中矩、折旋中規、立則磬折、拱則抱鼓。
書に曰く「五事、一に曰く貌と」(『尚書』洪範)。貌とは、男子の恭敬なる所以にして、婦人の姣好なる所以なり。行歩は矩に中たり、折旋は規に中たり、立てば則ち磬折し、拱すれば則ち鼓を抱く。
阮籍は、大人先生に書簡を送りつけてきた似非儒者に、
ここに示した『韓詩外伝』や『説苑』の語句をほぼそのまま言わせて、
その浅はかさや視野の狭さを、大人先生の口を通して笑い飛ばしているのです。
では、阮籍の「詠懐詩」にいう「磬折」もまた、
「大人先生伝」が踏まえた前掲の古典のみを踏まえているのでしょうか。
この点について、もう少し考えてみます。
2022年4月4日
曹植の作品目録
こんにちは。
曹植の息子、曹志について、
かつてこちらで言及したことがあります。
その時は『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く『志別伝』に拠りましたが、
西晋の武帝司馬炎に一目置かれた曹志は、『晋書』にも伝が立てられています。
その巻50・曹志伝に、曹植に関わる次のような記事が見えています。*
司馬炎が、「六代論」(『文選』巻52に曹冏の作として収載)を取り上げて、
曹志に「これは君の先王の作なのか」と問うたのに対する彼の返答、
先王有手所作目録、請帰尋按。
先の王には手ずから作成した目録がございますので、帰って確認させてください。
これにより、曹植が自身の作品を大切に保管していたことが知られます。
曹植はその晩年に当たる明帝期の太和二年(228)、
「求自試表」に次いで著した文章(『三国志(魏志)』本伝裴注引『魏略』)において、
三つの不朽(立德、立功、立言)のうち、「立言」のみを外しています。
つまり、文学作品によって後世に名を残すということを、
当時の曹植は、それほど強く意識していなかったと表面上は認められるのです。
ですが、曹植が自ら作品目録を作成していたことを知って、
彼の文学への思いを、そんなふうに単純化することはできないと思い直しました。
それに、上記『魏略』に引く文章にも、その最後に次のようにあります。
嗚呼、言之未用、欲使後之君子知吾意者也。
ああ、言葉(「求自試表」で述べた言葉)が用いられないなら、
(せめて)後世の君子に、
私の思い(自ら試されんことを求める真意)を知ってほしいと願うものである。
2022年3月9日
*この記事は、曹道衡「魏晋文学」(『曹道衡文集』巻四)p.209によって教えられた。
曹植「応詔詩」札記4
おはようございます。
一昨日、曹植「応詔詩」の訳注稿を公開しました。
訳注作業をしながら気づいたことなどを、今日も書き留めます。
本作品において、『詩経』のある一句の一部分を引きながら、
典拠となった詩篇の文脈が意識されている可能性のある句を先に示しました。
このほか、『詩経』の一句をそのまま引いている事例もあります。
先行研究も夙に指摘している次の二例です。
第32句「再寝再興(再(すなは)ち寝ね再ち興く)」は、
『詩経』の秦風「小戎」の中の一句、
結びの第48句「憂心如酲(憂心 酲するが如し)」は、
小雅「節南山」の一句をそのまま用いたものです。
これらは、『詩経』の文脈を反映していると考えるのが自然だろうと思います。
ただ、典故とそれを踏まえた曹植詩との関係は屈折しています。
第32句が踏まえる秦風「小戎」のこの句の前には、
「言念君子(言(われ)は君子を念ふ)」という句がありますが、
この『詩経』の句と曹植詩とは直結しません。
曹植詩の方は、この句の前に「騑驂倦路(騑驂は路に倦み)」とあって、
険しい道をゆきなやむ添え馬のことを詠じており、
これと、「再寝再興(寝ても覚めても)」とはまっすぐにはつながらないのです。
しかも、『詩経』では、「君子を念う」のは、従軍する夫を思う妻の側です。
岩波文庫『文選 詩篇(一)』に指摘するとおり、*
この句には、曹植の曹丕に対する思いが伏流しているのだろうと私も思います。
では、曹植はなぜそれをこのような方法で隠微に表現したのでしょうか。
一方、曹植詩の結びに用いられた小雅「節南山」の前掲句は、
その後に「誰秉国成(誰か国の成(たひ)らかなるを秉(と)らん)」と続きます。
岩波文庫『文選』は、この典故を指摘した後、
「その文脈を意識して用いたとすれば曹丕に対する微意を含むことになる。」
と付記しています。
一首の結びに『詩経』の句をそのまま用いている、
そこには、曹植の強い思いがあったと考えないわけにはいきません。
ただ、それがどのような思いなのかは、もう少し検討してみないとわかりません。
2022年3月5日
*『文選 詩篇(一)』(岩波文庫、2018年)p.126を参照。
曹植「応詔詩」札記3
こんばんは。
曹植「応詔詩」には、
随所に『詩経』の辞句が用いられています。
彼はどこまで、もとの『詩経』の文脈を意識しているのでしょうか。
たとえば、洛陽へ向かう途上の情景を描写した第27句、
「遵彼河滸(彼の河の滸(ほとり)に遵(したが)ひ」の「河滸」について、
『毛詩』王風「葛藟」に「綿綿葛藟、在河之滸(綿綿たる葛藟、河の滸に在り)」、
その毛伝に「水厓曰滸(水厓を滸と曰ふ)」とあることを、
『文選』李善注(巻20)は指摘しています。
けれど、李善は語句の説明をしただけだとしてしまってよいものかどうか。
というのは、『毛詩』王風「葛藟」に当たってみると、
この後に、次のような句が続いているからです。
「終遠兄弟、謂他人父(終に兄弟に遠ざかり、他人を父と謂ふ)」。
これを踏まえて解釈するならば、
「葛藟」の繁茂する「河滸」は、分断された骨肉のイメージを伴ったはずです。
曹植は、このイメージを自身の詩に重ねるため、「河滸」の語を用いたのかもしれません。
「遵彼河滸」の「彼」が、そのことを示唆しているように感じます。
「あの」葛かずらが茂る「河の滸」、とわざわざ指し示しているのですから。
いや、それはただ単に語調を整えただけだ、
特に意味のない虚詞に意味を見出そうというのは考えすぎだ、
という人もいるかもしれませんが。
2022年3月2日
曹植「応詔詩」札記2
こんばんは。
昨日に続き、曹植「応詔詩」に関して考えたことです。
第36句「指日遄征」の「指日」を、
先行する訳注では、特段の注記がないか、
あるいは「定められた期日を厳守して」のような意味で捉えています。*1
それを、文字どおり、現実に、
「太陽を目指して」と取ることはできないでしょうか。
本詩が作られた黄初四年(223)当時、
曹植が封ぜられていたのは、鄄城(山東省)、もしくは雍丘(河南省)で、*2
そこから都の洛陽に向かいつつ「日を指す」となると、
太陽は西方に懸かっていることになります。
それは、これから西の地平線に向かって落ちてゆく白日です。
曹植の詩歌には、西に傾く太陽を、時間的切迫感とともに詠ずるものが少なくありません。
『文選』所収作品では、たとえば次のような詩句を挙げることができます。
○「贈徐幹」(巻24)に、
「驚風飄白日、忽然帰西山(驚風 白日を飄(ひるがへ)し、忽然として西山に帰る)」、
○「贈白馬王彪」(巻24)に、
「白日忽西匿(白日 忽として西に匿(かく)る)」、
○「箜篌引」(巻27)に、
「驚風飄白日、光景馳西流(驚風 白日を飄(ひるがへ)し、光景 馳せて西に流る)」
という具合に。
そして、こうした詩想は、漢魏の作品に少なからず認められます。
たとえば、
○『文選』巻24、「贈徐幹」曹植の李善注に引く「古歩出夏門行」に、
「行行復行行、白日薄西山(行き行きて復た行き行き、白日は西山に薄(せま)る)」、
○劉向「九歎・遠逝」(『楚辞章句』巻16)に、
「日杳杳而西頽兮、路長遠而窘迫(日は杳杳として西に頽れ、路は長く遠くして窘迫す)」、
○秦嘉「贈婦詩」(『玉台新詠』巻9)に、
「曖曖白日、引曜西傾(曖曖たる白日、曜(ひかり)を引きて西に傾く)」、
○王粲「従軍詩五首」其三(『文選』巻27)に、
「白日半西山、桑梓有餘暉(白日は西の山に半ばして、桑梓には餘暉有り)」、
○曹丕「寡婦詩」(『藝文類聚』巻34)に、
「妾心感兮惆悵、白日急兮西頽(妾が心は感じて惆悵す、白日は急にして西に頽る)」
という具合に。
曹植の詠じた「指日」という詩語は、
『漢語大詞典』に挙げられた用例などを見ると、
後世、たしかに「遠からず、期日までに」といった意味を持つようになっています。
この語が次第にそうした意味を帯びて熟していったのも、
漢魏の時代、「白日」が上述のようなイメージを纏っていたからかもしれません。
ちなみに、潘岳「関中詩」(『文選』巻20)に、
曹植のこの詩句をほぼそのまま踏襲して、
「指日遄逝(日を指して遄(すみ)やかに逝く)」とあります。*3
曹植のこの表現は、当時にあっても際立って印象深いものだったのでしょう。
2022年3月1日
*1 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.77に、「日を天子または都のたとえとして用いたと考えたい。また時間の推移をあらわすものと考えることも可能だ」とあるのが他とはやや異なる解釈である。
*2 『魏志』巻19本伝には、「(黄初)四年、徙封雍丘王。其年、朝京都(これに続けて、いわゆる「上責躬応詔詩表」「責躬詩」「応詔詩」が引かれる)」と記され、これはいずれとも取り得る記し方である。このことについては、かつてこちらでも検討したが、なお未詳である。
*3 花房英樹『文選 三』(集英社・全釈漢文大系、1974年)p.70、79に指摘する。
曹植「応詔詩」札記1
こんにちは。
曹植「応詔詩」(『文選』巻20)を読んでいて、目に留まったことを記します。
この詩は、先に読んだ「責躬詩」と同じく、
黄初四年(223)、文帝曹丕に呼び寄せられて上京した際に献上されたもので、
『魏志』巻19・陳思王植伝にも収録されています。*1
詩中には、都洛陽へ赴く途上の情景や心情が細やかに描き出されていますが、
終盤に差し掛かった32句目以降に、次のような表現が見えています。
33 将朝聖皇 これから聖なる皇帝に謁見しようというのだから、
34 匪敢晏寧 とても平穏な気持ちではいられない。
35 弭節長騖 手綱をしっかりと抑えて長い道のりを馳せ、
36 指日遄征 西へ懸かる白日を目指して、速やかに進んでゆく。
34句目の「弭節(節を弭す)」について、李善注は、
『楚辞』離騒にいう「吾令羲和弭節兮(吾は羲和をして節を弭せしむ)」を挙げ、
王逸注によれば、それは馬の走行を抑えてゆっくり行くことを意味します。
ところが、そうすると、下に続く「長騖(長く騖(は)す)」とも、
次の句の「遄征(遄(すみ)やかに征く)」とも矛盾します。
このことを踏まえて、どう解釈したものでしょうか。
伊藤正文氏は「弭節」を、時には車を止めて休息するという意に解釈しています。*2
また、近年刊行の岩波文庫『文選』では、下に続く「長騖」と併せて、
「緩歩したり疾駆したりを繰り返して前進すること」と説明されています。*3
いずれも、「弭節」と「長騖」とを別の方向性を持つ動作と捉えている点では同じです。
ですが、ここは、その矛盾をそのままに捉えることはできないでしょうか。
この一句を、手綱を引き絞りつつ、長い道のりを疾走したことをいうものと捉え、
はやる気持ちと、それを努めて落ち着かせようとする、
引き裂かれた気持ちの現れと見る解釈です。
2022年2月28日
*1 『魏志』本伝には、両詩を献上する文章(『文選』巻20には「上責躬応詔詩表」と題して収録)に続けて、「責躬詩」「応詔詩」の順で収載されている。
*2 この矛盾については、伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.76~77に詳しく論じられている。
*3 川合康三・富永一登・釜谷武志・和田英信・浅見洋二・緑川英樹訳注『文選 詩篇(一)』(岩波文庫、2018年)p.126を参照。
先人との出会い
こんにちは。
何かと出会うのには時機があるとつくづく思います。
昨日、『詩経』関係の論著を図書館から借りてきました。
そして帰宅後、それとは別の、同じ著者による本があることに気づきました。
目加田誠著『詩経』(日本評論社、1943年)という、長い歳月を経たたたずまいの本。*1
自分で買ったのではなくて、ある方からいただいたものです。
学生時代、いつも目加田誠先生の眼差しの下で勉強していました。
研究室の壁に、先生の肖像写真が掛かっていたのです。
けれど、先生の著書に対しては近づこうともしませんでした。
若さとは無知で傲慢で粗野なものだと思います。
六朝期末の五言詩評論、鍾嶸『詩品』の上品に、
曹植の詩は、『詩経』国風にその源流があると論じられています。
たしかに、彼の詩には『詩経』に由来する語が頻見します。
けれども、今、そうした表現を精査する際、
多くは、完本の伝わる『毛詩』に拠らざるを得ません。
伊藤正文氏がつとに指摘しているとおり、*2
曹植は、「韓詩」によって『詩経』を学んだようですが、
その彼が捉えていた『詩経』的文学世界を、
政治的な色彩の濃い『毛詩』によって推し測っているのが現状です。
しかし、目加田誠の『詩経』研究によって、
少なくとも『毛詩』(毛伝・鄭箋・正義)の呪縛から解き放たれ、
まだ三家詩(斉詩・魯詩・韓詩)が活きていた漢魏の頃の、
曹植が触れていた『詩経』の纏う空気を想像できるようになるかもしれません。
2022年2月18日
*1 目加田誠『詩経』は、1991年、講談社学術文庫として再刊された。このことは、野間文史『五経入門:中国古典の世界』(研文出版、2014年)第四章「詩(毛詩・詩経)」から教わった。
*2 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.22を参照。
先行研究との対話(承前)
こんばんは。
曹道衡は、曹植を政治的野心を持った人物として捉えているようだが、
若い頃の作品を見る限り、そこに現れる曹植の人物像は必ずしもそうではない、
という趣旨の私見を昨日述べました。
これ、実はものすごく常識的なことを今更ながらに言っていると思います。
たとえば、とっくに吉川幸次郎「三国志実録 曹植兄弟」の中に、*
“曹植は兄の曹丕よりもより多く詩人であった”
というふうな言葉が見えていますから。
しかし、吉川幸次郎だから、このような表現が認められるのであって、
自分が同じことを同様の言葉で書くわけにはいきません。
自分としては、その主張を証明するために作品の表現に目を凝らすのではなく、
彼の作品を精読していると、頻繁に立ち止まらせられるのです。
なぜこんなことを唐突に言い始めたのか、
全体として構成がひどくアンバランスではないか、
こんなことを面と向かって言うのはあまりに失礼ではないか、等々。
それをなぜかと考えていけば、思いがけない人物像や事の経緯が垣間見えてくる、
それが私の読み方であり、考察の深め方です。
たいへん面倒くさい話をしているのだろうと思います。
けれども、自分にはこれがとても面白いし考えがいもあるものです。
ただ、学生には卒論ゼミに選んではもらえません。
もちろん自分の研究内容を授業で全開にしたりはしていませんがそれでも。
ちなみに、吉川幸次郎の「三国志実録」は一般の人向けに書かれたものです。
世間の人々も興味を持って読んでいたのかと思うと愕然とします。
2022年2月15日
*『吉川幸次郎全集7』(筑摩書房、1968年)所収。初出は、1958年1~12月『新潮』。
先行研究との対話
こんばんは。
以前にも書いたことがあるような気がしますが、
私は基本的に、作品を読む前に先行研究を読むということをしません。
先行研究は、あくまでも作品について語り合う、対話の相手だと思っています。
人によっては、これはとても傲慢なことと感じられるかもしれません。
ですが、作品そのものに向き合うということにかけては謙虚であると思っています。
(作品を自分の好きなように読んでよいとは思っていないので。)
そんなわけで、今の「対話の相手」は曹道衡と吉川幸次郎です。
いや、「対話の相手」ではなくて、お話を伺うという方が正確ですが。
で、お話を伺いながら、なぜだろう、そうだろうか、と思うことが出てきます。
たとえば、曹道衡の論ずる曹植の人物像について。*
曹道衡論文は、曹植を政治的な野心のある人物であるように捉えています。
けれども、これが私には腑に落ちません。
もっとも、曹植とほぼ同時代の魚豢も、
これに類する批評を彼に対して下しています(『魏志』巻19・陳思王植伝の裴松之注)。
そうすると、それは、仮に同じ時代の中に身を置いていたとしても、
第三者から見た人物像と、作品の中に立ち現れる本人との間には落差があるということでしょうか。
私が向き合いたいと思うのは、この作品中の本人とです。
曹植の晩年の作には、王朝運営への参画を切望する言葉が目立ちますが、
それ以前の、彼がまだ恵まれた境遇にあった建安年間の作、
たとえば「与楊徳祖書」にも、たしかにそうした野心が述べられてはいます。
けれども、それは当時の人としてはごく常識的な姿勢でしょう。
むしろ彼の個性は、文学創作への情熱の方に傾いているように見えます。
本作品の文脈をきちんと押さえて読んでいけば、
そのことを明らかにできるのではないかと考えています。
2022年2月14日
*曹道衡「魏晋文学」(『曹道衡文集』巻四)