曹植と俗文学
こんばんは。
曹道衡の所論に、*1
曹植の楽府詩「野田黄雀行」は、
『焦氏易林』益之革の、次の句を踏まえているとの指摘があります。
雀行求粒、誤入罟罭。頼仁君子、復脱帰室。
雀が穀物を求めて出歩き、誤って網羅の中に入ってしまった。
幸いにも仁愛溢れる君子のおかげで、またそこから脱出して古巣に帰れた。
福井佳夫の所論にも、*2
曹植の「鷂雀賦」や「野田黄雀行」と酷似する内容のものとして、
前掲『焦氏易林』の記事に加えて、大有之萃にいう次の句も挙げています。
雀行求食、出門見鷂、顛蹶上下、幾無所処。
雀が食物を求めて出歩き、門を出たところで鷂(ハイタカ)に出くわした。
雀はこけつまろびつ飛び上がったり下がったり、ほとんど逃げ場がなくなった。
『焦氏易林』については、
歴史故事への言及という観点から、かつて何度が触れたことがあります。
(直近ではこちらの記事)
その際に注目した歴史故事と、
ここに二人の論者によって指摘された雀の故事とは、
同じ時代、そしておそらくは同質の文脈に属していたものであって、
それを焦延寿が等しくキャッチしたということなのでしょう。
そうした俗文学に根を張りつつ、
他方、漢代以来の上流階級に流布していた文芸にも親しみながら、
それを、思いがけないかたちへと変貌させていかないではいられなかった、
その結果として生まれたのが曹植文学なのかもしれません。
2022年1月13日
*1 曹道衡「魏晋文学」(『曹道衡文集』巻四)p.203
*2 福井佳夫『六朝の遊戯文学』(汲古書院、2007年)第六章「曹植「鷂雀賦」論」p.213―214
※ 本日、先行研究の整理をしていて、沼口勝「曹植の「野田黄雀行」について」(『立教大学国文』第35号、2006年)が、曹植のこの楽府詩と『焦氏易林』とを結びつけて考察していることを知った。(2022年3月3日)
曹植の臨淄への赴任時期(追記)
こんばんは。
曹植が臨淄侯としてその封土へ赴任した時期は、
彼の「責躬詩」には、魏が後漢王朝の禅譲を受けた後だと明示されていました。
ところが、従来の多くの説では、
曹植らが魏の都を離れて各々の任地へ赴いたのは、
曹丕が曹操亡き後を受けて魏王に即位して間もなくのことであったとしています。
さしあたり手元にあったところでは、
張可礼『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)p.173―174
江竹虚撰・江宏整理『曹植年譜』(台湾商務印書館、2013年)p.213―214
邢培順『曹植文学研究』(中国社会科学出版社、2014年)p.45
徐公持『曹植年譜考証(中国社会科学院老年学者文庫)』(社会科学文献出版社、2016年)p.255―256
のいずれもが、曹植の臨淄への赴任を、
曹丕が魏王に即位した年、魏王朝成立以前の時点に繋年しています。
この説は、前掲の「責躬詩」に言うところと矛盾しています。
一方、曹植作品の主だった注釈書、
古直『曹子建詩箋』(広文書局、1976年三版)
黄節註・葉菊生校訂『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)
曹海東注訳・蕭麗華校閲『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)
王巍『曹植集校注』(河北教育出版社、2013年)の中で、
「責躬詩」に関するこの矛盾点に言及するものはひとつもありません。
また、先日取り上げた「請祭先王表」について、
これが、曹植がまだ鄴にいた時の作である可能性に触れたものもありません。
突然の無風状態。
どういうわけなのか、腑に落ちません。
もしかしたらまた勘違いをしているのかもしれません。
2022年1月12日
曹植の臨淄への赴任時期(承前)
こんばんは。
建安年間、すでに臨淄侯であった曹植が、
実際に当地へ赴いたのはいつのことであったのか、
という問題について、過日ひとつの見方の可能性を述べました。
そこで、先行研究ではどうだったかと調べてみました。
すると、黄初元年(即ち延康元年・220年)、
彼は臨淄ではなくて、鄄城に封じられていたのではないか、
という、更に根底からの再考を迫る論に遭遇しました(正確には再会)。
それは、すでに何度か言及している津田資久論文が紹介する、*1
目加田誠、鄧永康、兪昭初の諸氏による指摘です。
津田論文に引く、先学諸氏の所論が挙げる資料のひとつ、
曹植の「上九尾狐表」(『開元占経』巻116、筆者は未見)に、
「黄初元年十一月二十三日」、曹植が「鄄城県北」で九尾狐に出会った、*2
という記事が見えるというのがそれです。
先に、こちらの注で紹介した趙幼文の説は、これと結論が同じです。
この時期の曹植の足跡には、未解明な部分が多いようです。*3
少なくとも、津田論文に引用された先行研究にはすべて当たった上で、
時間をかけて、もう一度考え直したいと思います。
2022年1月11日
*1 津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)。その注には更に多くの先行研究が列挙されている。
*2 津田前掲論文は、丁寧な校勘により本文が修訂されている。ただ、筆者はそれらの諸文献を未見であるため、このような示し方をした。
*3 植木久行「曹植伝補考―本伝の補足と新説の補正を中心として―」(『中国古典研究(早稲田大学中国古典研究会)』21、1976年)は、この時期の曹植の伝記を再考しようとするものである。再度熟読したい。
曹植の臨淄への赴任時期
こんばんは。
先に、こちらで提示した疑問について、
はやくも修正しなくてはならないことが出てきました。
それは、曹植の「請祭先王表」(07-26)にいう
「臣欲祭先王於北河之上」、及び「計先王崩来、未能半歳」に拠れば、
220年1月に曹操が亡くなって半年もたたない時期に、
曹植はすでに都を離れていることが知られる、という記述です。
この「都」とは、魏王朝の都・洛陽ではなく、魏王国の都・鄴でした。
(すでに当該ページでは修正済みです。)
すると、「北河之上」とは、鄴の付近をいうとはと考えられないでしょうか。
冀州に属する鄴は、たしかに黄河の北方に位置しています。
そして、220年の夏、鄴の付近で、亡き父曹操を祭りたい、と切望する曹植は、
必ずしも臨淄侯として当地に赴任していなければならないわけではない。
かの「請祭先王表」に、「羊豬牛臣自能辦、杏者臣県自有
(羊・豬・牛は臣自ら能く辦じ、杏は臣が県に自ら有り)」とあっても、
その土地にいる必要はなくて、侯として封ぜられている臨淄県から、
杏を調達できるというだけのこととも考えられます。
そう思い直して、振り返って見ると、
『三国志(魏志)』巻19・任城王曹彰の伝において、
「太祖崩(220年1月)、文帝即王位」と、黄初二年(221)の記事との間に、
「彰与諸侯就国」という記述があるからといって、
それが魏王国の時代(~220)のことだとは言い切れません。
後漢王朝から禅譲を受けて魏王朝が成立したのは220年10月のことですから、
その直後に、王朝の藩たるべく任地へ赴くことが求められたと見ることも十分可能です。
また、『魏志』巻19・陳思王植伝におけるこの間の記述は、
魏王曹丕による丁氏兄弟の誅殺の後に、曹植の臨淄への赴任が記されるという順番で、
何ら問題はないということになるかもしれません。
そして、「責躬詩」9・10行目にいう、魏王朝成立後に臨淄へ赴任したという内容は、
史実に即していると見ることができる(仮)ということです。
同じところを右往左往してばかりで、自分の脳力の乏しさが情けないですが、
思い違いをしていた可能性に気づけただけでもよかったです。
2022年1月7日
曹植「責躬詩」の概要と背景
こんばんは。
曹植「責躬詩」の不明点を挙げて、その分からなさを分析していく中で、
岩盤のようだったこの作品も、ようやくその輪郭をたどれるようになりました。
以下、その概要と背景となっている出来事を示してみます。
01 於穆顕考 時惟武皇 02 受命于天 寧済四方 03 朱旗所払 九土披攘 04 玄化滂流 荒服来王」
⇒父であり魏の高祖である武帝曹操の偉業を称賛する。
05 超商越周 与唐比蹤 06 篤生我皇 奕世載聡 07 武則粛烈 文則時雍 08 受禅于漢 君臨万邦」
⇒武帝曹操・文帝曹丕の二代で築かれた魏王朝の偉業を称賛する。
09 万邦既化 率由旧則 10 広命懿親 以藩王国」
⇒魏王朝の成立後、皇帝の弟たちに王朝の藩となるよう命じられたことをいう。
11 帝曰爾侯 君茲青土 12 奄有海浜 方周于魯 13 車服有輝 旗章有叙 14 済済雋乂 我弼我輔」
⇒王朝の藩となるよう命じられ、赴任する場面を描写する。
15 伊余小子 恃寵驕盈 16 挙挂時網 動乱国経」17 作藩作屏 先軌是隳 18 傲我皇使 犯我朝儀」
⇒臨淄侯であった時、監国謁者潅均にその傲慢なふるまいを報告されたことをいう。
19 国有典刑 我削我黜 20 将寘于理 元兇是率」21 明明天子 時惟篤類 22 不忍我刑 暴之朝肆」
⇒魏王朝の刑法により処罰されかけたとき、文帝の計らいで罪を免れたことをいう。
23 違彼執憲 哀予小臣
⇒文帝の計らいで、罪を減じられ、安郷侯に任命されたことをいう。
24 改封兗邑 于河之浜
⇒まもなく安郷侯から鄄城侯に改封されたことをいう。
25 股肱弗置 有君無臣 26 荒淫之闕 誰弼余身」
⇒鄄城侯であった時、東郡太守の王機らから誣告されたことをいう。
27 煢煢僕夫 于彼冀方 28 嗟余小子 乃罹斯殃」
⇒王機らの誣告により、鄄城から都洛陽に出頭したことをいう。
29 赫赫天子 恩不遺物 30 冠我玄冕 要我朱紱」31 光光大使 我栄我華 32 剖符授土 王爵是加」
⇒都洛陽で、文帝の計らいにより、鄄城侯から鄄城王に爵位を進められたことをいう。
33 仰歯金璽 俯執聖策 34 皇恩過隆 祗承怵惕」
⇒手厚い待遇に対する謝意と畏れとを述べる。
35 咨我小子 頑凶是嬰 36 逝慙陵墓 存愧闕庭」
⇒武帝や文帝を前にして、自身の頑固で傲慢な態度に恥じ入る気持ちを述べる。
37 匪敢傲徳 寔恩是恃 38 威霊改加 足以没歯」
⇒文帝に対して、その恩恵にすがりたいという気持ちを述べる。
39 昊天罔極 生命不図 40 常懼顛沛 抱罪黄壚」
⇒文帝から受けた恩恵に報いることができないのではないかとの恐れを述べる。
41 願蒙矢石 建旗東岳 42 庶立毫氂 微功自贖」43 危躯授命 知足免戻 44 甘赴江湘 奮戈呉越」
⇒文帝への恩返しとして、呉への出陣を志願したいと述べる。
45 天啓其衷 得会京畿 46 遅奉聖顔 如渇如飢 47 心之云慕 愴矣其悲 48 天高聴卑 皇肯照微」
⇒上京した洛陽で、文帝曹丕との対面を切望する気持ちを述べる。
(こちらでは、通釈と共に、概要を示しました。訳注稿と併せてご覧いただければ幸いです。)
こうしてみると、
かなりの分量の言葉を費やして表現されている出来事や思いと、
さらりと流して記されているだけの出来事と、かなりの落差があるようです。
さらりと流されていて、詩の表現面ではその意味が不明瞭だった部分も、
「黄初六年令」など曹植の他の文章と突き合わせることにより、かなり分かってきました。
史実と食い違う表現は、この「責躬詩」が文学作品である以上、当然ありますが、
それでもそれは、『三国志』陳思王植伝に明記されていないところを補って余り有るものです。
歴史家・陳寿は、そのことを分かっていて本作品を引用したのかもしれない、
そんな穿った見方もしてみたくなるような、現実と地続きの作品でした。
(具体的なところは、日々雑記[曹植「責躬詩」への疑問]1~6などをご覧ください。)
なお、史実と食い違う未解明部分については、今後も考察を継続したいと思っています。
2022年1月6日
曹植「責躬詩」への疑問6
こんにちは。
昨日検討したとおり、
こちらのファイルの29行目以降には、
彼が鄄城侯から鄄城王に爵位を進められたことが詠じられています。
ところが、この後に続く35・36行目、
「咨我小子、頑凶是嬰。逝慙陵墓、存愧闕庭」という句が見えています。
(訓み下し等については、こちらの訳注稿をご覧ください。)
これは、鄄城王となって後、また何らかの罪を犯したということなのでしょうか。
「黄初六年令」に記されたところでは、
鄄城王に任命されて帰国後、黄初四年(223)に雍丘王へ移るまでの足掛け二年間、
蟄居して、東郡太守の王機らも罪状を挙げられなかったとあります。
このことは、「上責躬応詔詩表」の中にも、
「臣自抱釁帰藩、刻肌刻骨、追思罪戻、昼分而食、夜分而寝」と述べられていました。
(訓み下し等については、こちらの訳注稿をご覧ください。)
けれども、その後のことについて、「黄初六年令」にこうあります。
及到雍、又為監官所挙、亦以紛若、於今復三年矣。
雍丘に至ってから、再び監国官に落ち度を検挙されて、このことでも混乱を来たし、
今(黄初六年の現時点)に至るまでまた三年が経過した。
曹植が雍丘王に移されたのは、
『魏志』巻19・陳思王植伝の記述によれば、
黄初四年、曹植や曹彰、曹彪ら兄弟が朝廷に参内した直前のことです。
すると、前掲の「責躬詩」にいう「咨我小子、頑凶是嬰」とは、
「黄初六年令」にいう「雍に到るに及びて、又た監官の挙ぐる所と為る」でしょうか。
それとも、曹植が自己認識として「頑凶」だと言っているだけなのか、
あるいはその両方でしょうか。
『魏志』本伝の裴松之注に引く『魏略』に、
「初植未到関、自念有過、宜当謝帝……
(初め植未だ関に到らざるとき、自ら過有るを念じ、宜しく当に帝に謝すべしとす……)」
とあることからすれば、
曹植は自主的に、文帝曹丕に謝罪したいと考えたように感じられます。
2022年1月5日
曹植「責躬詩」への疑問5
こんにちは。
今日もまた曹植「責躬詩」についてです。
昨日取り上げた部分(特に「冀方」をめぐる検討)に続く、
こちらの29・30行目「赫赫天子、恩不遺物。冠我玄冕、要我朱紱」は、
曹植が、鄄城侯から鄄城王に爵位を進められたことを指すと見るのが妥当でしょう。*
ただし、これは「冀方」すなわち魏の都洛陽に赴いてのことであったのか、
つまり、27行目「于彼冀方(彼の冀方に于(ゆ)く)」にスムーズにつながる内容なのか、
確認する必要があると思いました。
というのは、続く31・32行目に「光光大使、我栄我華。剖符授土、王爵是加」とあって、
鄄城王への任命が、使者を通して行われているように詠じられているからです。
結論から言えば、
曹植は本当に都洛陽へ赴いたのであり、任命はそこで為されたと見られます。
まず、先日来言及している「黄初六年令」に、
黄初四年(223)、鄄城王から雍丘王に移されたことを示す「及到雍」に先んじて、
「反旋在国、揵門退掃、形景相守、出入二載」とあること、
つまり、あるところから鄄城に戻っていることが記されていることです。
あるところとは、この文脈から見て、洛陽を措いてほかには考えられません。
また、前掲の29行目「赫赫天子、恩不遺物」に対して、
『文選』李善注は次のように注しています。
(この項、先に訳注稿を公開した際には落としていたので、本日新しく補いました。)
謂至京師、蒙恩得還也。
植求習業表曰、雖免大誅、得帰本国。
京師に至りて、恩を蒙り還るを得たるを謂ふなり。
(曹)植の「求習業表」に曰く、「大誅を免れ、本国に帰るを得たりと雖も」と。
こうしてみると、
使者が曹植に王の爵位を授けたのは、都洛陽においてであって、
そこから遠く離れた土地へ使者が派遣されたというわけではないようです。
昨日も言及した、曹植「求出猟表」(『文選』李善注に引く佚文)に、
「臣自招罪舋、徙居京師、待罪南宮」とあったように、
たとえば「南宮」など、洛陽城内の一角に留め置かれていたところへ、
使者が遣わされてきたのだと見ることができるかもしれません。
こうした措置が、他の兄弟たちにも取られたのか、
それとも、罪人扱いされていた曹植に対してのみであったのかは未詳です。
2022年1月4日
*『三国志(魏志)』巻2・文帝紀、黄初三年夏四月戊申(14日)の条に、このことが記されている。これに先んずる同年三月乙丑(3日)には、曹植の兄弟たちが、侯から王へと爵位を進められことが記されている。
曹植「責躬詩」への疑問4
こんにちは。
今日も曹植「責躬詩」への疑問を記します。
こちらの27・28行目「煢煢僕夫、于彼冀方。嗟余小子、乃罹斯殃」について。
まず、「斯(こ)の殃(わざわい)」とは、昨日述べたとおり、
東郡太守王機らの誣告により、朝廷に罪を得たことを指すでしょう。
それは「枉げて誣白する所」(曹植「黄初六年令」)であったがゆえに、
この災禍に「罹る」と表現されているのだと思われます。
その結果、曹植は「煢煢たる僕夫と、彼の冀方に于(ゆ)く」こととなったのです。
では、ここにいう「冀方」とはどこを指すのでしょうか。
それは、魏王朝が成立して新しく都が置かれた洛陽を指すと考えられます。
(『尚書』五子之歌を踏まえてこう判断できます。詳細は訳注稿をご覧ください。)
けれども、『文選』李善注は次のとおり、
「冀方」は、冀州に属する、魏王国の都であった鄴を指すとしています。
植集曰、詔云、知到延津、遂復来。求出猟表曰、臣自招罪舋、徙居京師、待罪南宮。
然植雖封安郷侯、猶住冀州也。時魏都鄴。鄴、冀州之境也。
植集に曰く、
詔に云ふ「延津に到るを知りて、遂に復た来たる」と。
出猟を求むる表に曰く「臣は自ら罪舋を招き、居を京師に徙して、罪を南宮に待つ」と。
然れば植は安郷侯に封ぜらると雖も、猶ほ冀州に住むなり。
時に魏は鄴に都す。鄴は、冀州の境なり。
「延津」とは、曹植が異例の措置として罪を減ぜられ、安郷侯に封ぜられた場所です。
(詳細は、訳注稿の「違彼執憲、哀予小臣」の語釈をご参照ください。)
この李善注のうち、次の点が私にはまだ理解できていません。
・「詔」の内容が理解できない。特に末尾には何か欠落があるのではないかと疑われる。
・「詔」と「求出猟表」とはどのような関係にあるのか。
・「求出猟表」にいう「京師」「南宮」を、李善はなぜ鄴だと判断したのか。
・李善は「時に魏は鄴に都す」としているが、この判断の根拠は何か。
なお、前掲の“「冀方」とは洛陽をいう”の説は、
李善が、上記の注に続けて、「一に云ふ」として引くものです。
他方、黄節『曹子建詩註』もまた、
別紙に示すとおり、「冀方」とは鄴をいうとしています。
「冀」という文字はすなわち「冀州」を指しているのだという前提に立って、
あとは、行政地理上、「鄴」が「冀州」に属するということを示しているだけです。
民国時代の黄節も、唐代の李善も、
深い学識に基づく的確な注釈で読者を導いてくれますが、
このたびの「冀方」に対する解釈には、納得することができませんでした。
ただ、「冀方」が魏王朝の新しい都洛陽を指すのだとしても、
曹植はなぜこのような言い方をしたのか、判然としているわけではありません。
2022年1月3日
曹植「責躬詩」への疑問3
こんにちは。
曹植「責躬詩」への疑問、
今日は、こちらの25・26行目にいう、
「股肱弗置、有君無臣。荒淫之闕、誰弼余身
(股肱は置かれず、君有りて臣無し、荒淫の闕、誰か予が身を弼けん)」についてです。
これらの句は、いつの時点でのことを指して言っているのでしょうか。
その前に並ぶ句は、おおよそ次のように捉えることができます。
(詳細は、訳注稿をご覧いただければ幸いです。)
23行目「違彼執憲、哀予小臣」は、特別に受刑を免れて、安郷侯に封ぜられたこと、
24行目「改封兗邑、于河之浜」は、すぐに安郷から鄄城へ封土を移されたこと。
すると、これに続く前掲の四句は、鄄城での出来事だと見られます。
実際、鄄城侯に封ぜられた黄初二年(221)から翌年にかけて、
曹植は東郡太守の王機らから誣告され、朝廷に罪を得ていることが、
彼自身による「黄初六年令」の中に確認できます。
(訳注稿は未完性ですが、原文と訓み下しをこちらに提示しておきます。)
鄄城は、東郡太守の配下にある土地です。*
曹植の動向を逐一監視し、その落ち度を数え上げるのは容易なことだったでしょう。
こう捉えることが妥当であるならば、
前掲の四句の中で、曹植は自身を「君」といい、
君主を補佐する「股肱」はおらず、君主を「弼(たす)」ける臣下がいない、
と言っていることになります。
この言い方は、罪を得た者として、少し傲岸なようにも感じられます。
けれど、本詩11行目に、文帝の命として「君茲青土(茲の青土に君たれ)」とあるので、
この時に封ぜられた青州の臨淄侯を指して言うばかりでなく、
封を改められた鄄城侯をも「君」と称することに何ら不都合はないのでしょう。
もし、上述のような理路が通っているならば、
ここに、この時点での曹植のあり様のありのままを窺うことができそうです。
2021年12月31日
*黄節『曹子建詩註』(中華書局香港分局、1973年)p.25に、「鄄城属東郡、王機為東郡太守、誣子建、是子建時為鄄城侯也(鄄城は東郡に属し、王機は東郡太守為り、子建を誣せるは、是れ子建時に鄄城侯為るなり)」と指摘している。
曹植「責躬詩」への疑問2
こんにちは。
判然としないところの多い曹植「責躬詩」について、
本日もその不明点を記します。
(訳注稿もあわせてご覧ください。)
原文・通釈ファイルの14行目「済済雋乂、我弼我輔」について、
以前、こちらで疑問を提示したことがあります。
「輔」「弼」という語は、元来が天子に対する輔佐をいう。
すると、「我」を曹植自身をいうものと捉え、
「済済たる雋乂」が自分を補佐する、と解釈することはできない。
「我」とは、天子である曹丕のことを指すのだろうか。
ただ、そうしてみると、また別の困難が持ち上がってくるのでした。
この問題について、
13・14行目「車服有輝、旗章有叙。済済雋乂、我弼我輔」をすべて、
諸侯たちが任地へ赴く出発の場面を描写したものだと捉えてはどうかと考えてみました。
これから各地へ出発してゆく曹丕の弟たち、
彼らの一行が、それぞれの「車服」や「旗章」を輝かせながら整然と並び、
一方、これを見送る側に、天子を補佐する優れた臣下たちがずらりと居並んでいる、
という情景を描いたものではないかと捉えたのです。
この解釈は、曹植「聖皇篇」に見える次のような表現から連想したものです。*
すなわち、「諸王」の任地への出発を描いたところに、
貴戚並出送 帝王の親族たちはこぞって見送りに出てきて、
夾道交輜輧 道の両側に、四面にとばりを垂れた車をひしめかせている。
車服斉整設 諸王たちに下賜された車や衣服はうち揃って整列し、
韡曄耀天精 きらきらと日の光に輝いている。
とあるのがそれです。
諸王の出発を見送る人々の中に、「貴戚」ばかりではなく、
天子の周りを固める「済済たる雋乂」がいた可能性はないでしょうか。
ただ、諸王や諸侯が任地へ赴く際、
具体的にどのような情景がそこに広がっていたのか、
私には今一つ正確な把握ができていません。
2021年12月30日
*この作品については、かつてこちらの学術論文№39で論じたことがあります。あわせてご参照いただければ幸いです。ただし、前掲部分の「韡曄」の訓み下しが誤っていました。「韡曄として」とすべきでした。