王朝にとっての脅威
先日来、幾たびも言及している曹植「雑詩六首」其二は、
彼の別の詩「吁嗟篇」にとてもよく似ています。
「吁嗟篇」は、『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注に、
曹植が「常に琴瑟の調を為して歌った」ものとして記されている楽府詩です。
そのためか、無意識のうちに「雑詩六首」其二も、
曹植の度重なる転封を背景とする作品なのだろうと思っていました。
ですが、李善注(『文選』巻29)にいうように、
もし「雑詩六首」がすべて黄初四年(223)の作であるならば、
当時、曹植はまだそれほど多くの転封を経験しているわけではありません。
一方、少なくとも「雑詩六首」其一はその人を詠じていると推定できる、
白馬王(当時は呉王)曹彪は、この時点ですでに何度も転封を命じられています。
もしかしたら、其二も曹彪のことを思い浮かべながら作られたのか。
という当て推量から、『三国志(魏志)』巻20・武文世王公伝を縦覧してみました。
すると、曹彪のように苦しい転封を重ねた人物はそれほど多くはなく、
中山恭王曹袞が、平郷、東郷、賛、北海と転封しているのが目につくくらいです。
曹袞は、賛侯から公へと爵位が進められたのを慶賀する属官を厳しく戒めた人です。
(曹袞については、こちらの雑記をはじめ、これまで何度か言及しました。)
このことは、彼を取り囲む監視体制の酷薄さを物語っているでしょう。
他方、明帝の幼馴染として非常に寵愛された燕王曹宇や、
文帝に幼い弟として可愛がられた趙王曹幹のような者たちもいます。
黄初四年に、洛陽で命を落とした曹彰、
洛陽からの帰途、同宿を禁じられた曹植と曹彪、
加えて、極めて慎重にその身を慎んだ曹袞といった人々は、
どこか王朝に脅威を感じさせるものを持っていたのかもしれません。
2026年2月5日
親愛の情と無遠慮
昨日も述べたように、曹植は自身の作品に曹丕の詩を取り込んでいます。
してみると、曹植は兄曹丕に対して親愛の情を抱いていたと言ってよいでしょう。
嫌悪し軽蔑する人間の言葉を用いたりはしないでしょうから。
とはいえ、一方で曹植は「贈丁廙」詩の中でこう詠じています。
我豈狎異人 私はどうして関係のない人々に馴れ親しんだりするものか
朋友与我倶 古なじみの友人たちが私とともにいるのだ
この詩は宴席の情景を詠じたものですが、
その中に見えている前掲の句は、『毛詩』小雅「頍弁」にいう
爾酒既旨、爾殽既嘉。豈伊異人、兄弟匪他。
爾(そ)の酒は既に旨(うま)く、爾の殽(さかな)は既に嘉(よ)し。
豈に伊(こ)れ異人ならんや、兄弟にして他に匪(あら)ず。
を踏まえつつ、『毛詩』の「兄弟」を、「朋友」に差し替えたものです。
ここで宴席を共にしているのは「朋友」であって「兄弟」ではないと言っているのです。
また、「贈丁儀」詩において、曹植は舌鋒鋭く為政者を批判していますが、
その為政者とは、曹丕と比定するのが最も妥当だと考えます。
これらの作品からは、曹植の、兄曹丕に対する無遠慮な反発心が見て取れます。
一方で、兄への親愛の情が推し測られるような作品があるというのに。
これはどういうことでしょうか。
思うに、親愛の情が双方にとって揺るぎないものと感じられるとき、
人は安心して相手に甘え、無遠慮になれるのかもしれません。
ですが、それが片思いであるとき、あるいは相手の気持ちが見えないとき、
人は却って居住まいを正すもののように思われます。
2026年2月4日
曹植の詩と曹丕の詩
先日、黄節の指摘に啓発されて、
曹植「雑詩六首」其二の結び「去去莫復道、沈憂令人老」が、
曹丕「雑詩二首」其二の結び「棄置勿復陳、客子常畏人」に学んだ可能性を述べました。
その後、「贈白馬王彪」詩の訳注を見直していて、
「棄置莫復陳(棄て置きて復たは陳ぶる莫かれ)」という、
まさしく曹丕の前掲句にほぼ同じ句のあることに行き当たりました。
これに類似する句は、『文選』巻29「古詩十九首」其一にも、
「棄捐勿復道(棄捐して復た道ふこと勿かれ)」と見えていますから、
曹丕・曹植ともに、この古詩に基づいたのだという見方も十分成り立つでしょう。
しかしながら、前掲の曹丕の「雑詩」と曹植の「雑詩」とは、
辞句の類似性のみならず、結句に至って換韻する点でも共通していました。
そして、「贈白馬王彪」詩と曹丕の前掲詩とがほぼ同一の句を共有しているのです。
この他、曹植「雑詩」其一の「孤雁飛南遊(孤雁 飛びて南に遊ぶ)」は、
曹丕「雑詩二首」其一にいう「孤雁独南翔(孤雁 独り南に翔る)」とよく似ています。
これらのことを考え合わせると、
曹植は曹丕の作品を愛誦し、よく取り込んでいると見てよいように思います。
このことは、特に曹植「雑詩六首」の捉え方に影響する可能性があるかもしれません。
2026年2月3日
「艶歌・翩翩堂前燕」雑感
昨日言及した古楽府「艶歌・翩翩堂前燕」は、次のような詩です。
翩翩堂前燕 ひらりひらりと座敷の前に飛ぶ燕、
冬蔵夏来見 冬は隠れていて、夏がやってくると現れる。
兄弟両三人 兄弟が二三人、
流宕在他県 故郷を離れた土地をさすらっている。
故衣誰当補 古びた着物は誰が継ぎ当てしてくれようか。
新衣誰当綻 新しい着物は誰が繕ってくれようか。
頼得賢主人 幸いなことに賢明なるご主人にめぐり会い、
覧取為我䋎 その方は綻んだ着物を手に取って、私のために繕ってくださった。
夫壻従門来 かの婿殿は門から入ってくると、
斜柯西北眄 身を斜めにして妻のいる西北の方を横目で見る。
語卿且勿眄 君に語って聞かせよう。まあとりあえず横目で見るのは止めよ。
水清石自見 水が清らかに澄めば、石は自ずから現れるというものだ。
石見何累累 石のなんと累々と重なって見えていることか。
遠行不如帰 遠い土地を旅ゆくよりは、家に帰る方がずっとよい。
「石見何累累」とは、潔白が証明されたということをいい、
潔白ではあるけれども、疑われるよりは「遠行不如帰」ということでしょう。
この古楽府を読んで、夫婦の力関係に興味を引かれました。
ここでは、妻の方が「賢主人」と称せられ、
夫はといえば、こそこそと妻のあらぬ不貞を疑う小人物という設定です。
その夫に話しかけているのは「遠行」の人でしょうか、
その人に、「卿」と呼びかけられています。
この二人称については、かつてこちらで検討したことがありますが、
この場合も、どちらかというと相手をやや軽んずるニュアンスがあるようです。
民間文芸の類には、このように堂々たる女性がしばしば登場します。
(このことは、曹植「鼙舞歌・精微篇」に関連して幾つか指摘したことがあります。)
古楽府「艶歌・翩翩堂前燕」にも、そうした事情が垣間見えるように思います。
それからもうひとつ、
「西北」は、女性のいる方角を示す語として古楽府にも見える、
つまりは、非常に基層的な発想に基づく語であるということがわかりました。
2026年2月2日
曹植「雑詩六首」其二について(追記)
以前、こちらに書いたことについて追記します。
曹植の「雑詩六首」其二は、末尾二句に至って換韻します。
このことについて、黄節がこう指摘していました。
この様式は、曹丕の雑詩「西北有浮雲」(『文選』巻29)と同様であり、
それは、古楽府「艶歌・翩翩堂前燕」に由来するものだろう、と。
「艶歌・翩翩堂前燕」は、たしかに換韻については黄節の指摘どおりですが、
表現様式については、それほどの関係性は見出せませんでした。
一方曹丕の「西北有浮雲」詩の結句は、換韻のみならず、表現までもよく似ています。
(本詩の全文は、こちらをご覧ください。)
棄置勿復陳 棄て置きて復た陳(の)ぶること勿(な)かれ
客子常畏人 客子は常に人を畏る
曹植が曹丕の詩に学んでいるのか、
それとも、こうした様式は珍しくないものなのでしょうか。
曹丕のこの雑詩は、
結句以外にも曹植「雑詩六首」其二と似通った要素を持っています。
それは、風が自分を吹き飛ばし、ある所に至らしめるという内容の次の句です。
惜哉時不遇 惜しい哉 時に遇はず
適与飄風会 適(たまたま)飄風と会ふ
吹我東南行 我を吹きて東南に行かしめ
行行至呉会 行き行きて呉会(呉・会稽)に至る
曹丕・曹植の両詩の間に何らかの影響関係があったのかどうか、
これだけでは何とも言えないのですが、通り過ぎることができないでいます。
2026年2月1日
回り道の思考
昨日は、少しばかり意味不明のことを書きました。
「文」は、やはり広い意味での飾りであることは間違いないと思います。
ただ、古代中世においては、言葉は多く音声を根幹とするものだったはずであり、
それで、「文」は多分に音楽的要素を持つ、などとわかったふうなことを書きました。
恥ずかしい限りです。
とはいえ、思えば言葉は、書かれ読まれる時代となってからも、
それが口から発せられ、気を震わせて伝わるものだった名残はあるように思います。
理屈でのみ組み立てられた論説文などは、私にはなかなか腹落ちしません。
そもそも、昨日なぜこのようなことを書いたかと言えば、
詩歌と、作者が口にしていたであろう日常的な言葉とは別次元のものであって、
こんな詩歌を作る人だからその為人はこうだったのだろうとか、
こんな詩歌は、社会のこのような現実を反映しているに違いないとか、
そのように、詩作品と作者や社会とを直結させることはできないと心したかったのです。
先日来、詩を通じて史実や作者の為人が明らかとなる等々と述べてきたので、
それには但し書きが必要だと思ったのです。
このように思考が抽象的な方向へ向かうのは、
曹植詩の訳注稿の見直し作業が思いのほか難航しているからでもありますが、
(こなすべき作業の前に立ちすくむとき、そんな隙間ができます。)
上述のことが自分にとっては考えないではいられないテーマであることも確かです。
2026年1月31日
「文」とは何だろう
これまでにも何度か言及した言葉として、
『春秋左氏伝』襄公二十五年に記された次の句があります。
不言誰知其志、言之無文、行而不遠。
言はずんば誰か其の志を知らん、之を言ふに文無くんば、行きて遠からず。
これは、鄭の子産が、その文辞によって、覇者である晋の詰問をくぐりぬけ、
陳への侵入について晋から容認を取り付けた、という出来事に対する孔子の評語です。
ですが、元々この辞句が置かれていた文脈を越えて、
今にも通じる普遍性を持つ語として、私は事あるごとに思い出します。
(それが古典というものなのでしょう。)
さて、前掲の句を平たく言うならば、
心中の思いは、言葉で言い表さなければ伝わらないが、
それが「文」を伴わなければ遠くまで届かない、ということです。
この「文」とは何なのでしょうか。
「文」は、「毛詩序」(『文選』巻45)にもこう見えています。
情発於声、声成文、謂之音。
情 声に発し、声 文を成す、之を音と謂ふ。
ここで述べられていることは、前掲の孔子の語に重なるように思われます。
「情」は、孔子のいう「志」に、「声」は「言」に重なるでしょう。
そして、「声」が「文」を伴って音楽となるのだとあります。
更にまた、六朝期における「文」「筆」の違いをも想起させます。
「筆」は、韻律美が特に意識されていない作品です。
「文」は、語句のレベルでの修辞ということに留まらず、
もっと音楽的な要素を持つ言葉をイメージした方が近いのかもしれません。
詩歌や辞賦がそれに当たるでしょうか。
言葉が韻律やリズムを伴うとき、
それは人の心の中にまっすぐ入ってきて共振します。
詩を対象とするのならば、そこまで認識してこその論だと思います。
2026年1月30日
「思無邪」の詩人
『論語』為政篇にある言葉、
子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪。
(子曰く、詩三百、一言以て之を蔽はば、曰く思い邪無し。)
曹植の詩を読めば読むほどに思い起こされるのが、
『詩経』の特質を、孔子が一言で言い表したこの言葉です。
『詩品』上品の曹植の項で、鍾嶸は曹植の詩を
「其源出於国風(其の源は国風に出づ)」と評していますが、
「国風」は、『詩経』の中でも特に「思無邪」の雰囲気の濃い詩群です。
この鍾嶸の評語は、表現的作風を言うばかりではなく、
その表現を生み出す作者の本質的為人をも包摂しているのではないでしょうか。
たとえば「贈白馬王彪」詩では、
自分と異母弟曹彪との間を裂く邪悪な者はあくまでも役人であって、
王朝の頂点に君臨しているはずの兄曹丕の方に憎悪が向かうことはありません。
「吁嗟篇」でも同じように、
彼は転々と封土を遷され、魏王朝に冷遇され続ける境遇の中で、
なおも骨肉の情を厚く信じ、我が身を滅ぼしてでも共にいたいと詠っています。
作品の基底にあるこの為人が、
感情においても言葉においても、高水準で均衡の取れた、
鍾嶸の絶賛する、曹植ならではの作風に結実しているのでしょう。
当初、私はそれを心から理解するということができませんでした。
どこかで、曹植は兄への不信感を募らせていたはずだと思い込んでいたのです。
実際、そう読めなくもない表現も散見します。
ですが、詩歌作品のほぼ全てを読んだ今、それは違うと感じています。
曹植の詩に散見する、兄曹丕に対する批判めいた言辞も、
その底に流れる感情にもっと耳を澄ませる必要があると考えます。
もっとも、辞賦や散文にも目を通し終わった時、
曹植文学の全体像は、更にまた形を変えているかもしれません。
2026年1月29日
個人サイト雑感
昨日、日本学術振興会から、
科研費研究実績報告書の「研究データのメタデータ情報」に修正が必要、
との通知を受けました。
具体的には、本サイトで公開している、
「曹植の全作品テキストと校勘」(電子資料の中のひとつ)と、
「曹植作品訳注稿」について、
“リポジトリ情報”が記されていないという不備です。
「リポジトリ」というと、
一般には所属機関で運営されているものが思い浮かびます。
けれども、上記の公開データは個人で保管・管理していますので、
どのように書けばよいのかわからず、空欄のまま提出していたのでした。
こうした公開方法は、あまり一般的ではないのかもしれません。
とはいえ、この個人サイト自体、科研費研究の一環として作ったものです。
(課題番号:19K00376「中国中世初期における文学の質的転換に関わる研究」)
それは、計画書に記していた取り組みであり、予定どおりの成果です。
他方、個人のサイトに上記のような研究成果を公開することは、
研究機関に所属しておられる方々には、あまりそぐわないかもしれません。
毎年、所属機関から求められる研究業績には、数え上げることが難しいですから。
(私は、近いうちに退職することが明らかだったので敢行しましたが。)
ただ、このあまり一般的ではないかもしれない研究(公開)方法は、
確実に、自分にとっては大きな推進力になっています。
退職後も、長く研究活動を行い、発表できます。
個人のサイトだとはいえ、自分としては「研究室」なのだと考えています。
2026年1月28日
作品から史実へ
作品から史実が明らかとなることがあります。
曹植詩の訳注稿を見直していて、
とても小さなことですが、目に留まったところを記しておきます。
「贈白馬王彪」詩の冒頭にこうあります。
謁帝承明廬 承明門の側にある宿舎で皇帝陛下に謁見し、
逝将帰旧疆 さあこれからもと居た封土に帰るのだ。
ここにいう「旧疆」は、鄄城を指すと見られます。
『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝には、
黄初二年(221)に、臨淄侯から安郷侯への貶爵、次いで鄄城侯への改封が、
同三年(222)4月(文帝紀による)に、鄄城王に立てられたことが記されています。
これによると、すでに足掛け三年を過ごしている鄄城を、
「旧」と称することに何ら無理はありません。
ところが、前掲の記述のすぐ後に続けて、
「四年、徙されて雍丘王に封ぜらる」「その年、京都に朝す」とあります。
この記述だと、雍丘王に封ぜられたのが、
黄初四年(223)のいつなのか、また、上洛との前後関係が明確ではありません。
記述の順番は、事が起こった順番に従うとする見方を取るならば、
そして、この歴史書の記述のみに依拠して事の推移を推し測るのならば、
雍丘王に封ぜられ、その後に上洛したと見ることも、あるいは可能かもしれません。
しかしながら、「贈白馬王彪」詩を読めばこの可能性は消えます。
最近移ったばかりの雍丘に帰国することを、「帰旧疆」とは言わないでしょう。
『文選』巻24所収の本詩について、
李善は「時に植は雍丘に封ぜらると雖も、仍ほ鄄城に居る」と注していますが、
これは、歴史書の記述が、本詩に詠われたことと食い違うと見た李善が、
苦肉の策で注した解釈だったのだろうと想像します。
なお、ここに記したことと関連する過去の雑記として、
こちらもご参照いただければ幸いです。
2026年1月27日