白居易と『藝文類聚』
昨日言及した『藝文類聚』に関連して、
大学院時代に演習で『白氏文集』を読んだときのことを思い出しました。
担当したのは「放鷹」(『白氏文集』巻1、0039)という諷諭詩です。
本詩は、英明なる天子が英雄を使いこなす要諦を、
狩猟に用いる猛禽、鷹の養い方に託して詠ずるものですが、
全体として、『三国志(魏志)』巻7・呂布伝に、呂布を鷹に喩えていう、
譬如養鷹、飢則為用、飽則揚去。
譬ふれば鷹を養ふが如く、飢うれば則ち用を為し、飽けば則ち揚去す。
これを下敷きにしていると見られます。
また、第一句「十月鷹出籠(十月 鷹は籠を出づ)」は、
馬融「与謝伯世書」(『藝文類聚』巻91)にいう
「晩秋渉冬、大蒼出籠(晩秋 冬に渉り、大蒼 籠を出づ)」を用いています。
私の発表はその線あたりまででおしまいだったのですが、
ある先輩が指摘してくださったのが、
『魏志』呂布伝も、馬融「与謝伯世書」も、
同じ類書『藝文類聚』巻91に採録されているということです。
白居易は、この類書を通じて、鷹にまつわる典故を摂取し、用いたのではないか。
この先輩のコメントに、岡村繁先生も同意されたことを覚えています。
そこで、白居易の編んだ『白氏六帖』巻29、鷹第十一を見ると、
「出籠」や「瑶光」など、『藝文類聚』と重複する辞句を認めることができました。
一方、前掲『魏志』呂布伝の記事に近い語「飢則附人」を挙げ、
その注には、『晋書』巻123・載記(暮容垂)にいう、
垂猶鷹也。飢則附人、飽便高颺、遇風塵之会、必有陵霄之志。惟宜急其羈靽、不可任其所欲。
(暮容)垂は猶ほ鷹なり。飢うれば則ち人に附き、飽けば便ち高颺し、
風塵の会するに遇はば、必ずや陵霄の志有らん。
惟だ宜しく其の羈靽を急にして、其の欲する所に任す可からず。
が挙げられています。
この『白氏六帖』の記事は、微妙に『藝文類聚』とは一致しません。
他方『白氏六帖』のこの巻には、盛唐に成った類書『初学記』に一致する部分も認められます。
『白氏六帖』は、白居易自身の編んだものに後人の追補が加わっているので、
白居易がどのような文献を手元に置いて(集めて)参照していたのか、
この類書から全面的に知ることは難しいのですが、
それでも、最初に記したような事例が幾つか出てくれば、
白居易も、王維と同様に『藝文類聚』を用いていたことが明らかとなるかもしれません。
2025年10月21日
李白と曹植の楽府詩
先日触れた李白の「酬殷明佐見贈五雲裘歌」(宋本『李太白文集』巻7)に、*1
身騎白鹿行飄颻 身は白鹿に騎(の)りて行くこと飄颻たり、
手翳紫芝笑披拂 手には紫芝を翳(かざ)して笑ひつつ披拂す。
とありました。
この両句は、次に示す曹植「飛竜篇」(05-36)の句によく似ています。
乗彼白鹿 彼の白鹿に乗り、
手翳芝草 手に芝草を翳す。
「白鹿」に乗るということだけに注目するなら、
それは、両詩の関係性が密であることの証左にはなりません。
けれども、そのことに「手翳」が組み合わせられているのは、
先秦漢魏晋南北朝詩では、曹植のこの詩のみ、*2
唐代の詩では、李白のこの詩のみです。*3
李白が、曹植の本詩を念頭に置いていた可能性は非常に高いと言えます。
では、李白はどのようにして曹植の詩に出会ったのでしょうか。
唐の読書人必携の書である『文選』にも当該詩は収載されていません。
また、唐人が好んで曹植の別集を読んでいたとは想像しづらいように思います。
そこで、ふと思い至ったのは、
本詩が『藝文類聚』巻42「楽府」に収載されていることです。
多くの楽府詩を作った李白は、当該類書のこの部を活用していたかもしれません。
以前、こちらでも記したのですが、
入谷仙介先生がかつて王維の作品について、
儒教の経典、『文選』、『藝文類聚』を基盤としているようだ、
とおっしゃっていたことを思い出しました。
李白も同様な教養的基盤を持っていた可能性は高いように思います。
2025年10月20日
*1 『李白の作品資料編(唐代研究のしおり9)』(京都大学人文科学研究所、1958年)所収の影印宋刊本(静嘉堂本)『李太白文集』を参照。
*2 逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1983年)に基づく電子データ『先秦漢魏晋南北朝詩、文選』(凱希メディアサービス、雕龍古籍全文検索叢書)を用いて検索。
*3 台灣師大圖書館【寒泉】古典文獻全文檢索資料庫(https://skqs.lib.ntnu.edu.tw/dragon/)の『全唐詩』を用いて検索。
白い鹿に乗る仙人(承前)
昨日挙げた吟嘆曲「王子喬」に、
白鹿に乗って雲中に遊ぶ王子喬の姿が歌われていました。
ところが、劉向『列仙伝』巻上に記された王子喬は、
七月七日、緱氏山の頂に白鶴に乗って現われ、人間世界に別れを告げます。
そこで、仙人の乗り物として白鹿が登場するのはどういう経緯なのか、
中國哲学書電子化計画(https://ctext.org/zh)で先秦両漢時代の文献を検索してみたところ、
瑞祥として現れる「白鹿」は比較的多く見られる中、
やっと厳忌の「哀時命」(『楚辞』巻14)に次のような句が見い出せました。
与赤松而結友兮 赤松子(仙人)と友となり、
比王僑而為耦 王子喬と肩を並べる。
使梟楊先導兮 梟楊(山の神)に先導させ、
白虎為之前後 白虎がその前後を守る。
浮雲霧而入冥兮 雲霧に浮かんで奥深いところへ入り、
騎白鹿而容与 白鹿に乗ってゆったりと進みゆく。
これについて、王逸の注にはこうあります。
言己与仙人俱出、則山神先導、乗雲霧、騎白鹿、而游戯也。
言ふこころは 己 仙人と俱に出づれば、則ち山神 先導し、雲霧に乗り、白鹿に騎り、而して游戯するなり。
ここでの白鹿は、「己」と仙人たちが乗るものであって、
王子喬だけが白鹿と直に結び付けられているわけではありません。
ただ、白鹿が仙人にまつわる乗り物として詠じられていることは確かです。
厳忌(荘忌)は、前漢景帝期、枚乗や鄒陽らと梁の孝王の学友となった人物ですから、*
『列仙伝』の著者である前漢末の劉向よりも先んずることになります。
そうしてみると、王子喬にまつわる伝説や歌謡において、
その乗り物が白鹿か白鶴か、一本の線上に位置づけることはできないと言えそうです。
2025年10月19日
*曹道衡・沈玉成編撰『中国文学家大辞典:先秦漢魏晋南北朝巻』(中華書局、1996年)p.172を参照。
白い鹿に乗る仙人
一昨日触れた曹植「飛竜篇」について、
この詩に登場する「二童」は「白鹿」に乗っています。
「白鹿」が仙人の乗り物として登場する漢魏の詩歌としては、
吟嘆曲「王子喬」(『楽府詩集』巻29)に
「王子喬、参駕白鹿雲中遨(王子喬、白鹿に参駕して雲中に遨ぶ)」、
古楽府「長歌行」(『楽府詩集』巻30)に「仙人騎白鹿(仙人 白鹿に騎る)」、
曹操「駕六竜・気出倡」(『宋書』巻21・楽志三)に
「乗駕雲車、驂駕白鹿(雲車に乗駕し、白鹿に驂駕す)」とあるのが挙げられます。
このように「白鹿」に乗った仙人は、
そういえば、白居易作品の中には見かけたことがないように思い、
平岡武夫・今井清『白氏文集歌詩索引』(同朋舎、1989年)に当たってみたところ、
やはりこの意味での「白鹿」は見当たりませんでした。
(彼の詩で詠じられる仙人の乗り物といえば、まず想起されるのは鶴です。)
また他方、「寒泉」(https://skqs.lib.ntnu.edu.tw/dragon/)によって、
『全唐詩』におけるこの語の用例を検索してみたところ、
盧照鄰、王昌齢、李白、銭起らの作を拾い上げることができました。
その一端を挙げれば、李白「酬殷明佐見贈五雲裘歌」(『全唐詩』巻167)に、
自身を仙人に見立ててこう詠じている例が挙げられます。
身騎白鹿行飄颻 私は白い鹿に騎乗してひらりひらりと進みゆき、
手翳紫芝笑披拂 手には紫芝をかざして、笑いながらゆらゆら揺らす。
けれども、白居易もその時代に含まれる中唐以降、
白い鹿に乗った仙人は、詩歌の中にほとんど現れなくなります。
これはどういうわけでしょうか。
先の李白詩の例は、仙人自体を描いているのではなく、
あくまでも自身の有り様をそれに見立てて詠じているものです。
(他の唐の詩人たちの場合は、道士とやり取りする詩が目につきます。)
一方、漢魏詩に歌われた白鹿に乗る仙人たちは妙にリアルです。
漢魏の人々も、神仙を現実世界のものとは信じていなかったにも拘わらず、
歌辞となった途端に、それはまるで現実に存在するものであるかのように詠じられます。
数百年を隔てた漢魏と唐代と、時代の隔絶を感じます。
2025年10月18日
二人の仙人
本日読み始めた曹植「飛竜篇」(05-36)に、
「晨に太山に遊び」、「忽として二童に逢ふ」とあります。
ここにいう「二童」は、実は仙術を体得した「真人」なのですが、
このことを説明するために、朱乾『楽府正義』巻12は、任昉『述異記』を挙げています。
今、それを「増訂漢魏叢書」所収『述異記』巻下によって示せば次のとおりです。
湘州栖霞谷、昔有橋順二子、於此得仙。服飛竜一丸、千年不飢。
故魏文詩曰、西山有仙童、不飲亦不食、即此也。
湘州の栖霞谷に、昔橋順の二子有り、此に於いて仙たるを得。飛竜一丸を服して、千年飢えず。
故に魏文の詩に曰く「西山に仙童有り、飲まず亦た食せず」とは、即ち此れなり。
これとほとんど同じ記事が、
『太平御覧』巻45に引く『顔脩内伝』という書物に次のとおり見えています。
橋順、字仲産、有二子曰璋、曰琮。師事仙人盧子基於隆慮山栖霞谷、教二子清虚之術、服飛竜薬一丸、千年不飢。魏文帝詩曰、西山有双童、不飲亦不食、謂此也。
橋順、字は仲産、二子有り 璋と曰ひ、琮と曰ふ。、仙人の盧子基に隆慮山栖霞谷に於いて師事し、(盧子基は)二子に清虚の術を教へ、(二子は)飛竜薬一丸を服して、千年飢えず。
魏の文帝の詩に曰く「西山に双童有り、飲まず亦た食せず」とは、此れを謂ふなり。
『述異記』や『顔脩内伝』に言及された魏の文帝曹丕の詩とは、
「西山・折楊柳行」(『宋書』巻21・楽志三)のことで、こう詠じられています。
西山一何高、……上有両仙童、不飲亦不食。与我一丸薬、光耀有五色。
西山一に何ぞ高き、……上に両仙童有り、飲まず亦た食せず。我に一丸薬を与へ、光耀五色有り。
二人の仙人は、曹植「苦思行」(05-23)にも描かれており、
玉樹に纏わる緑蘿の下に、二人の「真人」がいて、翅を挙げて翻っています。
これらの仙人たちは、すべて橋順の二人の子に収斂される存在なのでしょうか。
『述異記』と『顔脩内伝」とが、同じ源に発していることは明らかです。
ただ、曹丕や曹植の詩歌に詠われた二人の仙人が、橋順の二子を指しているのかが不明です。
あるいは、こうした仙人は多く二人でいるものなのでしょうか。
神仙のことになると、とたんに視界がぼんやりしてきます。
古典的な文献も、明瞭に見えているというわけではないのですが、
少なくとも調べていけばいつかはたどり着けるところがあると思えるのです。
その点、神仙や口承の故事などは、博覧強記ではない自分には非常に難しいと感じます。
2025年10月16日
宴席詩歌と夜を疾駆する車
本日、曹植「当車以駕行」(05-35)の訳注稿を公開しました。
過日、その時点での不明点を列挙した作品です。
その後、いくつかの疑問点は氷解しました。
「主人離席」と「顧視東西廂」についてはまだ曖昧なところを残していますが、
今のところ、次のように考えています。
「主人」がもともと着席していたのは「玉殿」で、
その「玉殿」の両脇にある「東西廂」に大勢の賓客が座している。
だから、「主人」は中央の「玉殿」にある自身の座を離れ、
左右東西に広がる空間いっぱいに居並んでいる賓客たちの方に向かって、
(その遊宴空間には、管弦の調べが鳴り響き、鼙舞や鐸舞が披露されています。)
「お楽しみはこれからだ」と告げているのではないか、と。
ところで、本詩の題名は、「車以駕行」の替え歌であることを示しています。
「車以駕」とは、車に乗って出かけることを意味するでしょう。
遊宴が夜にわたり、車を連ねて園内を疾駆する情景は、
たとえば、曹植「公宴」(04-01)にも描かれているところです。
本詩の「主人」は、席を離れて、居並ぶ賓客たちに向き直り、
車を飛ばして夜の宴に突入しようと誘っているのではないでしょうか。
(もし「明灯」が車上にあるならば、それが風で消えないか心配ではありますが。)
2025年10月15日
宴席詩歌における「主人」
曹植「当車以駕行」の不可解さについて述べた昨日の続きです。
「主人離席」の「主人」を、
黄節は、『儀礼』燕礼にいう「主人」すなわち「宰夫」か、
もしくは曹植自身のことか、と解釈していました。
そこで、曹植作品における「主人」を当たってみたところ、
「闘鶏」(05-04)に、
主人寂無為 主人は、ひっそりとした心持ちで何もすることが無く、
衆賓進楽方 そこで賓客たちは楽しみの方法を進言した。
「妾薄命 二首(2)」(05-07-2)に二箇所、
主人起舞娑盤 主人は起き上がってひらりひらりと舞を舞う。
能者宂触別端 舞い上手の者たちは手持無沙汰で、楽器に手を触れたりなどしている。
客賦既酔言帰 客が「もうすっかり酔いました。さて帰りましょう」と詠ずれば、
主人称露未晞」 主人は「いや、まだ露はかわいていませんよ」と唱える。*
とありました。
以上を見る限り、「主人」とは、客人への供応を掌る「宰夫」ではなく、
宴の主催者である人物だと捉えるのが妥当です。
そして、前掲「妾薄命」には「主人起舞娑盤」とあって、
宴の主催者自らが起き上がってひらりひらりと舞を舞っていました。
これが「離席」ということなのかもしれません。
なお、これに関連しては、曹植の別の作品「侍太子坐」(04-02)にいう、
翩翩我公子 ひらりひらりと軽快な我が公子、
機巧忽若神 その技芸の巧みさはまるで神業だ。
といった辞句も思い起こされます。
(ただし、宴の「主人」が「我が公子」であることが前提になりますが。)
こうしてみると、曹植「当車以駕行」にいう「主人離席」は、
供応の司「宰府」が、客人をもてなすために席を離れると見るよりも、
宴の主催者が、宴席を離れるのだと解釈する方がはるかに自然だと思われます。
(なお、宴の主催者が、作者である曹植かどうかはまた別の問題です。)
この一句をめぐって、黄節が『儀礼』を引いて詳細に注しているのは、
「主人」が「離席」するというところにひっかかりを覚えたからかもしれません。
曹植の他の詩に出てくる「主人」には、特にこのように詳細な注解は施されていませんから。
では、続く句で「顧視東西廂」とあるのは、
席を離れた「主人」が東西の廂をふり返ってみるということでしょうか。
その場合、ふり返ってみるとはどういうわけでしょうか。
2025年10月14日
*『毛詩』小雅「湛露」を踏まえる宴席での常套句。詳細は当該詩の訳注稿を参照されたい。
曹植「当車以駕行」の不可解さ(承前)
一昨日、曹植「当車以駕行」の不可解さを挙げましたが、
それらの箇所について、先人がどう注釈しているか当たってみました。
「主人離席」の「主人」について、黄節はこう注しています。
(説明の仕方はこちらでアレンジを加えています。)
賓客の歓待について詳細に記す『儀礼』燕礼に、
「賓」の動作に対応させて「主人」の所作が記されているが、
その鄭玄注に「主人とは、宰夫なり」とあることから、
本詩にいう「主人」も「宰夫」すなわち賓客への供応を司る者であろう。
ただ、魏の宴会儀礼においても、「主人」が「宰夫」を指すのか、
あるいは曹植の自称なのかは不明である、と。
その上で、「主人離席」とは、
同『儀礼』燕礼にいう「賓拝酒、主人答拝(賓 酒を拝し、主人 拝に答ふ)」
すなわち、賓客への対応時のことをいうのだとしています。
これなら、「主人が席を離れる」ことに不可解さはありません。
この場合は、宴席の主催者とは別に「主人」がいるということになるでしょうか。
2025年10月13日
曹植「当車以駕行」の不可解さ
先日来取り上げている「当車以駕行」は、
奇妙に感じるところの多い詩です。
まだ訳注稿は完成していませんが、
その本文と書き下しのみを示せば次のとおりです。
(宋本系テキストとの異同については反映させていません。)
01 歓坐玉殿 玉殿に歓坐し、
02 会諸貴客 諸貴客に会す、
03 侍者行觴 侍する者は觴を行(まは)し、
04 主人離席 主人は席を離る。
05 顧視東西廂 顧みて東西の廂を視、
06 糸竹与鞞鐸 糸竹と鞞鐸とあり。
07 不酔無帰来 酔はずんば帰り来たること無かれ、
08 明灯以継夕 明灯 以て夕に継ぐ。
この詩は宴席を描写していることには違いありません。
それなのに、5句目で「東西廂」を「顧視」しているのはどういうわけでしょうか。
「東西廂」は宴席が設けられる場として、
たとえば曹操「駕六竜・気出倡」(『宋書』巻22・楽志三)にも、
「東西廂、客満堂。主人当行觴(東西廂、客 堂に満つ。主人は当に觴を行すべし)」と見えています。
その宴の場を遠くから振り返って眺めているとは。
その「東西廂」を「顧視」しているのは、
4句目で「離席」した「主人」なのだろうと見られますが、
ではなぜ「主人」は「離席」したのでしょうか。
その「主人」と本詩を詠じている人とは、どのような関係にあるのでしょうか。
自身を「主人」と称しているのか、自分以外の人物を指して「主人」と言っているのか。
また、7句目にいう「不酔無帰来」は、
『毛詩』小雅「湛露」にいう「厭厭夜飲、不酔不帰(厭厭たる夜飲、酔はずんば帰らず)」に基づく、
宴席で客人が引き留められる時の常套句で、
王粲「公讌詩」(『文選』巻二十)に「不酔且無帰」、
応瑒「侍五官中郎将建章台集詩」に「不酔其無帰」との類似句が見えていますが、
曹植の本詩句の末尾には「来」が付いている、これは何を言い表そうとしているのでしょうか。
訳注稿ができる頃には、これらの疑問点もいくらかは晴れているか、
それともますます霧中に入り込んでいるかわかりませんが、
考察の中途経過のメモを残しておきます。
2025年10月11日
漢魏詩の基本リズム
曹植「当車以駕行」の第一句は、
丁晏『曹集詮評』では「歓坐玉殿」に作りますが、
宋本『曹子建文集』及び『楽府詩集』は「坐玉殿」の三字に作ります。
本詩の様式について、丁晏は、
「上四句は四言、下四句は五言、又一変格なり」と注記しています。
「又」と言っているのは、
本詩の前に収載する「当事君行」の様式について、
「一句は六言、一句は五言にして合韻(一韻到底)なり。別に是れ一格なり」
と記していることを受けての注記だと思われます。
「当事君行」も「当車以駕行」も、
破格ではあるものの、ひとつの様式ではあるということでしょう。
そこで立ち止まらざるを得ないのは、
少なくとも宋代に行われていた曹植作品では、
「当車以駕行」の一句目は三言であるという事実です。
三言と四言とは、おそらく同じリズムに乗るのではないでしょうか。
というのは、昨日言及した曹丕「大牆上蒿行」では、
次のとおり、三言の句に四言の句が続いているからです。
排金鋪、坐玉堂、風塵不起、天気清涼。
奏桓瑟、舞趙倡、女娥長歌、声協宮商、感心動耳、蕩気回腸。……
金鋪を排し、玉堂に坐せば、風塵 起きず、天気 清涼なり。
桓瑟を奏し、趙倡舞ひ、女娥は長歌し、声は宮商に協ひ、
心を感ぜしめ耳を動かし、気を蕩ぜしめ腸を回す。……
古川末喜氏によって提起された、
「中国の韻文の根底には共通して八音リズムが流れている」との説は、*
古楽府を含めた漢魏詩の様々な作品の中に、その実例を見ることができます。
一句を構成する文字だけがメロディに乗っているのではなく、
そのメロディには、空白の拍も乗っていると考えてみたらどうでしょうか。
曹丕の「大牆上蒿行」は、
前掲の三言、四言に加えて、五言、七言、六言までもが混在する楽府詩です。
これらの長短不揃いに見える句が、
すべて、安定的な八音のリズムに乗っているのだとしたら、
曹植の「当車以駕行」も、
一句目が三言、その後に四言が、更に五言が続くと考えられなくもありません。
ただ、これはやはり破格と感じられる。
だから、明代の(あるいは宋から明に至る時代の)人々が、
「坐玉殿」に「歓」の一字を付け足して、「歓坐玉殿」と四言に揃えた、
という可能性も否定できないように思います。
2025年10月10日
*古川末喜『初唐の文学思想と韻律論』(知泉書館、2003年)第Ⅲ編第四章「中国の五言詩・七言詩と八音リズム」(初出は『佐賀大学教養部研究紀要』第26巻、1994年)を参照。