「艶歌何嘗行」と曹丕

今日も昨日の続きです。
「艶歌何嘗行」を曹丕の作とする説に、
思わずそうかもしれないと納得しかけた理由について。

この楽府詩の中に、次のような辞句が見えています。

但当在王侯殿上  但だ当(まさ)に王侯の殿上に在り
快独摴蒲六博   快く独(た)だ 摴蒲・六博し
対坐弾碁     対坐して弾碁すべし

「摴蒲」は、すごろくに似たボードゲームです。
日本の奈良時代に流行した「かりうち」がこれに当たるそうで、
奈良文化財研究所で復元されています。
https://www.nabunken.go.jp/research/kariuchi.html

また、「六博」「弾碁」も、宴席で楽しまれたゲームです。

この二つのゲームは、
魏の文帝曹丕の「与朝歌令呉質書」(『文選』巻42)に、
かつて共に楽しんだ南皮での游宴の一コマとして、
「弾碁間設、終以六博(弾碁 間〻設け、終るに六博を以てす)」と、
並べて書き記されています。

また、『世説新語』巧藝篇にはこうあります。

弾棊始自魏宮内、用妝奩戯。*
文帝於此戯特妙、用手巾角払之、無不中。……
 弾棊は魏の宮中で、化粧箱を用いて遊んだことに始まる。
 曹丕はこの遊びに特に巧みで、ハンカチの角で碁を払えば常に的中した。

文帝曹丕が弾棊の名手であったことは、
彼自らがその『典論』(『魏志』巻2・文帝紀裴松之注に引く)に、

余於他戯弄之事少所喜、唯弾棊略尽其巧、少為之賦。
余は他の戯弄の事に於いて喜ぶ所少なきも、
唯だ弾棊のみは略(ほぼ)其の巧みを尽くし、少(わか)くして之が賦を為す。

と述べているとおりです。

このように、曹丕はこうした遊びの名手でした。
だから、これらの遊びを人生の楽しみとして挙げる本詩が、
曹丕の作だと言われれば、そうかもしれないと納得させられたのです。

けれども、当時の多くの人々がこれらの遊びに興じていたはずで、
曹丕のみがそれを楽しんでいたわけではないはずです。
やはり、『宋書』楽志に記されているとおり、
「何嘗・艶歌何嘗行」は詠み人知らずとするのが妥当でしょうか。

2025年12月15日

*ただ、この遊びが魏王朝に発祥するものであるかは未詳で、『世説新語』劉孝標注に引く傅玄の「弾棊賦叙」は、その始まりを前漢成帝の頃としている。

 

「艶歌何嘗行」の作者(承前)

昨日述べたとおり、
晋楽所奏「何嘗・艶歌何嘗行」には、
それを詠み人知らずとする説(『宋書』楽志三)と、
魏の文帝曹丕の作とする説(王僧虔「大明三年宴楽技録」)とがあります。

この曹丕の作とする説を目にしたとき、私はさもありなんと納得しました。

そのように納得した理由を問われれば、
そのひとつとして、この「艶歌何嘗行」が持つ表現的特徴があります。
この楽府詩は、既にある作品を寄せ集めたような部分がひときわ目立ちますが、
それは、曹丕の別の作品にも認められる特徴なのです。

このことを「何嘗・艶歌何嘗行」について端的に示せば、

まず、「但当飲醇酒、炙肥牛(但だ当に醇酒を飲み、肥牛を炙るべし)」は、
晋楽所奏「西門行」(『宋書』楽志三)にいう「飲醇酒、炙肥牛」とほぼ同じです。*1

また、「長兄為二千石、中兄被貂裘、小弟雖無官爵……
(長兄は二千石為り、中兄は貂裘を被り、小弟は官爵無しと雖も……」と、
兄弟三人の羽振りの良さを畳みかけるように詠じている部分は、
清調曲「長安有狭斜行」(『楽府詩集』巻35)にいう
「大子二千石、中子孝廉郎、小弟雖無官爵、衣冠仕洛陽
(大子は二千石、中子は孝廉郎、小弟は官爵無しと雖も、衣冠 洛陽に仕ふ)」と、
発想がたいそう似通っています。

更に、「上慚滄浪之天、下顧黃口小兒
(上は滄浪の天に慚ぢ、下は黃口の小兒を顧みる)」は、
晋楽所奏「東門行」に見えている「上用倉浪天故、下為黄口小児
(上は倉浪の天を用ての故に、下は黄口の小児の為に)」とよく似ています。*2

これに通ずる作風が、曹丕の「燕歌行」(『文選』巻27)にも認められます。
その特に顕著な部分を示せば、次のとおりです。

「不覚涙下霑衣裳(覚えず 涙下りて衣裳を霑す)」は、
「古詩十九首」其十九(『文選』巻29)にいう「涙下沾裳衣」にほぼ同じ、

「明月皎皎照我牀(明月 皎皎として我が牀を照らす)」は、
同じく「古詩十九首」其十九にいう
「明月何皎皎、照我羅床幃(明月 何ぞ皎皎たる、我が羅の床幃を照らす)」に酷似し、

「牽牛織女遥相望(牽牛 織女 遥かに相望む)」は、
「牽牛星」と「河漢女」との隔絶を詠じた「古詩十九首」其十と、
「古詩十九首」其三の「両宮遥相望(両宮 遥かに相望む)」とを合せたものです。

これらは、いわゆる典故表現とは異なって、
基づいた漢代の古詩を、ほとんどそのまま持ってきて綴り合せています。

「何嘗・艶歌何嘗行」を目にしたとき、想起したのは曹丕のこの作品でした。

けれども、楽府詩そのもの、特に宮廷音楽に組み入れられた歌辞には、
前述のようなパッチワーク的手法がよく用いられています。*3
そうすると、やはりこれは詠み人知らずの歌辞と見るのが妥当でしょうか。
わからなくなってきました。

2025年12月14日

*1「西門行」本辞(『楽府詩集』巻37)は「醸美酒、炙肥牛」に作る。
*2「東門行」本辞(『楽府詩集』巻37)は「上用倉浪天故、下当用此黄口児」に作る。
*3 柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.345―346を参照されたい。

「艶歌何嘗行」の作者

西晋王朝で演奏された「大曲」(『宋書』巻21・楽志三)の中に、
「何嘗」という語に始まる、「艶歌何嘗行」という楽府題の歌辞があります。

『宋書』楽志三では、これを「古詞」(詠み人知らず)としていますが、
『楽府詩集』巻39では、これを魏の文帝曹丕の作としています。

『楽府詩集』は、『古今楽録』に引く王僧虔「大明三年宴楽技録」に、

「艶歌何嘗行」、歌文帝「何嘗」・古「白鵠」二篇。

とあるのに基づいて、この楽府詩を曹丕の作だとしたのでしょう。

“古「白鵠」”とは、「白鵠」という語に始まる古楽府「艶歌何嘗行」で、
「何嘗・艶歌何嘗行」と同じく、「大曲」の中に含まれています。

「何嘗・艶歌何嘗行」は、
文帝曹丕の作か、詠み人知らずか、どちらなのでしょうか。

南朝劉宋の王僧虔による「技録」は、
西晋末の永嘉(307―312)の乱により離散した宮廷音楽が、
劉裕(宋の武帝)によって北方から奪還、復元されて成った記録です。

楽団の離散から大明三年(459)まで約150年の開きがありますので、
王僧虔の「技録」は、西晋の宮廷音楽を完全に再現するものではありません。
とはいえ、最も近い時代の記録として尊重すべきでしょう。

他方、『宋書』楽志は、王僧虔「技録」よりは成立が降りますが、
梁の沈約が、当時において目睹し得る文献をよく吟味して編んだ歴史書で、
魏晋の宮廷音楽の実態を最もよく伝える第一級資料です。*

このように、資料が伝わった沿革だけを見てくると、
『宋書』楽志の示すとおり「古詞」が妥当と判断されるのですが、
そう言い切るのに少しく躊躇を覚えるのは、
この楽府詩が、いかにも曹丕を彷彿とさせる要素を持っているからです。
(続きます。)

2025年12月13日

*このことについては、柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)第五章第一節・第二節を参照されたい。

曹植「駆車篇」の不可解さ

曹植の「駆車篇」について、不可解さの落穂ひろいです。

たとえば曹海東氏が説くように、
本詩を、明帝の封禅に従う曹植が作成したものだとすると、*
一句目の「駑馬」が、皇帝一行の描写にはそぐわないように感じられます。
それに、先に言及した『魏志』高堂隆伝や『宋書』礼志三を見る限り、
明帝は封禅を行うには至っていないようです。

曹植は、明帝の太和3年(229)、38歳のとき、
雍丘王から東阿王に転じました。東阿は、泰山の東方に位置します。
本詩に詠じられた泰山の光景は、曹植自身が実際に目にしたものなのかもしれません。
ただ、泰山という特別な山に自由に赴くことができたのか、わかりません。

ところで泰山は、五岳の頂点に君臨する山であり、
天下を統一した王者が、天にその功の成ったことを報告する場所であり、
他方、死者の魂が帰っていくとされている場所でもあります。
そうした泰山の持つ様々な要素が、本詩には分散的に現れています。
また、黄帝について、王者としてよりも、その登仙の方に目が向けられています。

本詩のこの捉えどころのなさはどこから来るのでしょうか。
曹魏は天下を統べたのではないから、結局、封禅は行われなかった、

そのことと関わっているのかもしれません。

泰山の頂から「呉の野を望む」というのも、
見果てぬ夢に終わりそうな天下統一を思えばこそなのかもしれません。

2025年12月12日

*曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.260~261。

曹植「駆車篇」と明帝の詔

今日も前日からの続きです。

曹植「駆車篇」における不可解さのひとつとして、
その中盤に出てくる「歴代無不遵、礼記有品程」があります。

この句が指し示す具体的な内容については、
先日こちら(2025.12.02)で推測を述べたところですが、
では曹植はなぜ、ここでこのようなことを言い出したのでしょうか。

その理由が、昨日示した明帝の詔との照合によって見えてきたように思います。
すなわち、明帝自らが『史記』封禅書を引用して詔に記した
「其儀闕不可得記(其の儀は闕けて記すを得可からず)」に対する、
曹植なりの返答と捉えることができるのではないでしょうか。

曹植詩のその後に続く句にいう「封者七十帝」も、
明帝の詔にいう「封禅者七十餘君爾(封禅する者は七十餘君のみ)」に同じです。
これは事実(概数)を記す部分なので、一致するのは当然だとはいえ、
そのような事柄を持ち出しているところに目が留まります。

また、曹植詩にいう「唯徳享利貞」は、
明帝の詔に見える謙遜の辞「吾何徳之修、敢庶茲乎
(吾は何の徳の修むるありてか、敢へて茲を庶(へが)はんや)」に対して、
これに応じ、励ましているようにも捉え得ると考えます。

さらに、曹植詩の中盤に見える「東北望呉野、西眺観日精」について。
なぜ「東北」「西」なのか、不思議でならなかったのですが、*
もし本詩が洛陽の明帝を意識しながら作られたものだとするならば、
泰山は、その「東北」に位置し、「西」は、泰山から見て日没の方角となります。
つまり、「明帝から見て東北の位置にある泰山に登って呉の平原を見渡し、
泰山から西のかた太陽を遠く眺めやる」と解釈できるのではないか。
これはあくまでも想像の域を出ない推論ではありますが、
本詩の中に、もし明帝の視座を置いてみるならば、
少なくとも前掲のごとき奇妙な方角にも、一定の妥当性が生まれます。

(以上のことは、まだ確証がないので訳注稿には反映させていません。)

2025年12月11日

*『藝文類聚』巻42に引くところは「車北望呉野」に作りますが、これも意味が通りません。

魏における封禅の儀

昨日言及したように、
黄節・趙幼文・曹海東の各氏は、
曹植「駆車篇」の背景にある史実として、
魏の明帝期に持ち上がった封禅の儀のことを推定しています。
これは実際どのような出来事だったのでしょうか。

『魏志』巻25・高堂隆伝に、次のような記事が見えています。

初、太和中、中護軍蒋済上疏曰、宜遵古封禅。
詔曰、聞済斯言、使吾汗出流足。
事寝歴歳、後遂議修之、使隆撰其礼儀。
帝聞隆没、歎息曰、天不欲成吾事、高堂生舎吾亡也。
 初め、太和中、中護軍の蒋済 上疏して曰く「宜しく古の封禅に遵ふべし」と。
 詔して曰く「済の斯の言を聞けば、吾をして汗出でて足に流れしむ」と。
 事寝(や)みて歳を歴、後に遂に議して之を修めしめ、隆をして其の礼儀を撰せしむ。
 帝は隆の没するを聞くや、
 歎息して曰く「天は吾が事を成すを欲せず、高堂生は吾を舎(す)てて亡くなるなり」と。

蒋済が明帝に、封禅の儀を執り行うよう上疏したところ、
明帝は、これを一旦は退けたものの、後に高堂隆に封禅の書を著述させたのでした。
しかしながら、曹魏王朝の封禅は、結局実現することはありませんでした。

このことは、『宋書』巻16・礼志三に、より詳細に記されています。
そこに引用された明帝の詔は次のとおりです。

聞済斯言、使吾汗出流足。自開闢以来、封禅者七十餘君爾。故太史公曰、「雖有受命之君、而功有不洽、是以中間曠遠者、千有餘年、近数百載。其儀闕不可得記。」*吾何徳之修、敢庶茲乎。済豈謂世無管仲、以吾有桓公登泰山之志乎。吾不敢欺天也。済之所言、華則華矣、非助我者也。公卿侍中・尚書・常侍省之而已。勿復有所議、亦不須答詔也。

蒋済のこの言を聞き、私は冷や汗でいっぱいだ。天地開闢以来、封禅を執り行った君主は七十餘名だけだ。だから司馬遷は『史記』封禅書にこう記している。「天より受命した君主でも、功績が行き渡らなかったりして、そのため遠く隔たっている者は千年餘り、近くの者は数百年、その儀は欠けて記すべくもない。」わたしは何の徳を修めたわけでもないのに、どうしてこれ(封禅)を願ったりしようか。蒋済はどうして、世の中に(封禅を望んだ斉の桓公を諫めた)管仲はおらず、わたしに桓公と同じ志があると思ったのだろうか。わたしはとても天を欺くことなどできない。蒋済の言ったことは、たしかに華やかではあるのだが、わたしを助けるものではない。公卿侍中・尚書・常侍はこれを閲読するのみとせよ。再び議論してはならぬし、答詔を求めてもならぬ。

この中には、曹植「駆車篇」にも見えていた要素が認められます。
たとえば封禅を行った君主の数、君主の徳と封禅との関係、封禅の儀を記した書物のことなど。

曹植が、この明帝の詔を耳にして、
それに対する応答として本詩を作った可能性は十分に考えられるように思います。

2025年12月10日

*『史記』巻28・封禅書は、「雖受命而功不至、至梁父矣而徳不洽、洽矣而日有不暇給、是以即事用希。……每世之隆、則封禅答焉、及衰而息。厥曠遠者千有餘載,近者数百載,故其儀闕然堙滅,其詳不可得而記聞云(受命すと雖も功至らず、梁父に至るも徳洽(あまね)からず、洽きも日に給するに暇あらざる有り、是を以て事に即して用ひらるること希(まれ)なり。……世の隆(さかん)なる每に、則ち封禅して答ふるも、衰ふるに及びては息(や)む。厥の曠遠なる者は千有餘載、近き者は数百載、故に其の儀は闕然として堙滅し、其の詳しきは得て聞を記す可からずと云ふ)」に作る。

※曹植「駆車篇」が魏の明帝の時に起こった封禅の儀の事案を背景とする作品であることは、夙に朱乾『楽府正義』巻12に指摘されていた(2025.12.11)。

成立背景の探究を求める詩

本日、「駆車篇」の訳注稿を公開しました。

本文を訓み下し、通釈をしてみても、
依然として趣旨の分かり難い詩であることには変わりありません。
むしろより一層、不明な部分が際立ってきました。

なぜそのようなことを言い出したのか分からない、
また、詩のみでは意味が完結しない等々、不明瞭な点が多い作品は、
その背景を視野に入れてやっと解釈が可能となる場合が多いように感じます。

本詩の成立背景として、
黄節、趙幼文、曹海東の各氏は、
魏の明帝の太和年間に、蒋済が上書した封禅の儀のことを挙げています。*1

他方、徐公持は本詩を建安年間の作としています。*2
これは、曹操の長寿を祈念し、言祝ぐ詩として解釈するものです。

不明な部分を洗い出し、掘り下げていけば、
そこから、その成立背景を絞り込んでいけるかもしれません。

2025年12月9日

*1 黄節『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)p.109、趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.406、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.260~261を参照。
*2 徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.250を参照。

曹魏と黄帝

昨日、曹操の楽府詩「駕六竜・気出倡」に言及して、
それが詠ずる仙界を行く王者の有り様は、黄帝を想起させることを述べました。

そういえば、五行相生説によると、魏は土徳です。

『三国志(魏志)』巻2・文帝紀の裴松之注に引く『献帝伝』に、
給事中博士蘇林・董巴の上表を載せてこうあります。

魏之氏族、出自顓頊、与舜同祖。……
舜以土徳承堯之火、今魏亦以土徳承漢之火、
於行運、会于堯舜授受之次。
 魏の氏族は、顓頊より出で、舜と祖を同じくす。……
 舜は土徳を以て堯の火を承け、今魏も亦た土徳を以て漢の火を承け、
 行運に於いて、堯舜授受の次に会す。

他方、黄帝も土徳です。

『藝文類聚』巻11の「黄帝軒轅氏」に引く『春秋内事』に、
「軒轅氏以土徳王天下(軒轅氏は土徳を以て天下に王たり)」といい、

また、曹植「黄帝賛」(『藝文類聚』巻11)にも、
「土徳承火、赤帝是滅(土徳もて火を承け、赤帝は是れ滅す)」とあります。

このように、曹魏と黄帝とは同じ土徳です。

だから、曹操はその「気出倡」で、
黄帝を思わせる足跡を取る王者を詠じたのかもしれません。
ただ、曹操の時点ではまだ、後漢王朝は魏に取って代わられてはいませんから、
黄帝軒轅氏の名は表に出すことはできなかっただろうと思います。

曹植の仙界を詠ずる詩歌に、黄帝軒轅氏への言及が見えることも、
上述のことと何らかの関係があったのかもしれません。

2025年12月8日

神仙と覇王

今日も昨日の続きです。
曹植「駆車篇」には、仙界へ赴く黄帝が詠じられていました。

では、神仙を詠ずる遊仙詩の類に、黄帝はよく登場するのでしょうか。
曹植の「仙人篇」には、次のとおり見えています。

不見軒轅氏  見よ、黄帝軒轅氏が、
乗竜出鼎湖  竜に乗って鼎湖から飛び立った。
徘徊九天上  遥かな上空、九天の上を行きつ戻りつしながら、
与爾長相須  「君のことをいつまでも待っているよ」と告げて。

しかし、現存する先秦漢魏晋南北朝の詩歌を縦覧する限り、*
黄帝と神仙の双方に言及する詩は、
晋・曹毗「黄帝賛」(『藝文類聚』巻11)、
梁・劉緩「遊仙」(『文苑英華』巻225)が目に留まるくらいです。

そうした中、曹植に前掲の二作品があるのは突出しています。
これはどういうことでしょうか。

ふと想起されたのは、
曹操「駕六竜・気出倡」(『宋書』巻21・楽志三)に、
六頭の竜が引く車に乗って、仙界を歴遊する王者が詠じられていたことです。

この曹操の楽府詩には、黄帝軒轅氏の名こそ見えていませんが、
一篇の詩の中に、天下を統べる王者を象徴する「駕六竜」といった句が、
「泰山」「仙人玉女」「赤松」「驂駕白鹿」等々の語句と同居しているところに、
神仙となって飛翔する黄帝の姿が二重映しとなっているように感じられてなりません。

2025年12月7日

*逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1983年)に基づくデータベース『先秦漢魏晋南北朝詩』(凱希メディアサービス・雕龍全文検索閲読器)を用いて検索。

黄帝の属性(承前)

昨日の続きです。
黄帝には本来、神仙的属性はなかったようであるのに、
前漢の武帝に取り入ろうとする公孫卿が、申公なる者の書を引用して、
次のようなことを語っています(『史記』巻28・封禅書)

封禅七十二王、唯黄帝得上泰山封。
 封禅せるは七十二王なれど、唯だ黄帝のみ泰山に上りて封ずるを得たり。
……
中国華山・首山・太室・泰山・東莱、此五山黄帝之所常游、与神会。
黄帝且戦且学僊。患百姓非其道者、乃断斬非鬼神者。百餘歳然後得与神通。
 中国の華山・首山・太室・泰山・東莱、此の五山は黄帝の常に游び、神と会する所なり。
 黄帝は且つ戦ひ且つ僊を学ぶ。百姓の其の道を非とする者を患ひ、乃ち鬼神を非とする者を断斬す。
 百餘歳にして然る後に神と通ずるを得たり。

他方、『史記』巻1・五帝本紀の、黄帝に関する記述部分には、
黄帝のみが、泰山に登って封の儀を執り行うことができたとは書かれていません。
また、黄帝が中国の全土を転戦したことは、
「遷徙往来無常処(遷徙往来して常処無し)」と記されていますが、
そのような動線に並行して神仙の道を学ぶことがあったとは書かれていません。

思うに、方々へ征伐に赴いたという黄帝の動線が、
前掲の『史記』封禅書にいう「此五山黄帝之所常游、与神会」に転じ、
各地を転戦して、手向かう者たちを併合していった足跡が、
前掲の封禅書にいう「患百姓非其道者、乃断斬非鬼神者」に転じたのかもしれません。

『史記』五帝本紀に記されている、

万国和、而鬼神山川封禅、与為多焉。
 万国和し、而して鬼神山川封禅のこと、多と為すを与(ゆる)さん。

すなわち、中国各地を征伐して併合し、鬼神山川への報告が盛大であったとは、
曹植「駆車篇」の前半に記されていることと矛盾なく重なります。

けれども、曹植詩ではその後、
『史記』五帝本紀の記述内容から外れる神仙の要素を加えてゆき、
それは、『史記』封禅書の中でも、漢の武帝に関連する記述部分に見えるものです。

黄帝に対するこのような捉え方は、
曹植の「黄帝賛」「黄帝三鼎賛」(『藝文類聚』巻11)には認められません。
その一方で、「仙人篇」(『藝文類聚』巻42)に見える軒轅氏は仙人めいています。
曹植の中で、黄帝観、神仙観は揺らいでいるように感じられます。

2025年12月6日

1 2 3 4 5 6 7 93