曹植詩のダブル・ミーニング
本日、曹植「種葛篇」の訳注稿を公開しました。
この楽府詩には、明らかに二つの意味が重ねられています。
ひとつは、夫の愛情を失った妻の悲しみ、
そしてもうひとつは、兄曹丕から受けた冷遇に対する曹植の悲嘆です。
なぜ、そのように言えるのか。
根拠の第一は、この詩の第七・八句に示された次の表現です。
窃慕棠棣篇 窃(ひそ)かに棠棣篇を慕ひ、
好楽如瑟琴 好楽 瑟琴の如し。
上の句にいう「棠棣」は、『詩経』小雅の篇名ですが、*1
それをわざわざ明記しているところに強い意図を感じます。
続く句は、その「棠棣」の中に見える次の句を踏まえたものです。
妻子好合 如鼓瑟琴 妻子好合すること、瑟琴を鼓するが如し。
兄弟既翕 和楽且湛 兄弟既に翕(あつ)まりて、和楽し且つ湛(たの)しむ。
このように「棠棣」の詩は、
夫婦和合を歌うとともに、兄弟が集って楽しむさまを詠じているのです。
また、「棠棣」詩全体の趣旨について、
『韓詩』の序は、現行の『毛詩』と同じく、次のように述べています。*2
夫栘、燕兄弟也。閔管蔡之失道也。
夫栘(棠棣に同じ)は、兄弟を燕(うたげ)するなり。
管蔡(周公旦の兄弟、管叔鮮と蔡叔度)の道を失ふを閔(いた)むなり。
このことに注目すると、「種葛篇」の冒頭二句、
種葛南山下 葛を種う 南山の下、
葛藟自成陰 葛藟 自ら陰を成す。
これもまた、『詩経』周南「樛木」に歌われた「葛藟」を意味すると同時に、
『詩経』王風の「葛藟」と題する詩篇をも想起させるものではないかと思えてきます。
王風「葛藟」の趣旨は、『毛詩』小序に(『韓詩』は伝存せず)、こう述べられています。
葛藟、王族刺平王也。周室道衰棄其九族焉。
葛藟は、王族の平王を刺(そし)るなり。周室 道衰へて其の九族を棄つ。
この発見で霧が晴れた、と雀のように小躍りしていたところ、
これらのことはすでに、朱緒曾『曹集考異』巻6にさらりとこう指摘してありました。
此亦不得於文帝、借棄婦而寄慨之辞。
篇中葛藟棠棣皆隠寓兄弟意。
此れも亦た文帝に得られず、棄婦に借りて慨を寄するの辞なり。
篇中「葛藟」「棠棣」は皆 兄弟の意を隠寓す。
相変わらず自分の知識が薄弱なことには恥じ入るばかりですが、
生まれたときから中国古典界にどっぷりと身を置いている者ではない以上、
前述のようにまわりくどく記していくほかありません。
2024年5月22日
*1 現行の『毛詩』では「常棣」に作る。詳細は、本詩訳注稿の語釈を参照されたい。
*2 陳寿祺撰・陳喬樅述『三家詩遺説考』韓詩遺説攷七(王先謙編『清経解続編』巻一一五六所収)を参照。なお、曹植作品における『詩経』が多く『韓詩』に拠っていることについては、こちら(2020.11.27)、(2023.03.13)も併せて参照されたい。
亡国の民の気持ち
先週末、福岡に出向いたとき、
ふと思い立って、九州大学箱崎キャンパス跡地を訪れました。
レンガ造りの工学部の建物以外は何もない、荒野を目の当たりにして、
一瞬、祖国を失った者の思いが自分と重なったような感覚におそわれました。
そこには、白骨もなければ、雑草の生い茂る廃屋もなく、
むしろ、これから何かが建てられていくのであろう囲いなどがあります。
けれど、私にはその光景が、時の趨勢によってなぎ倒された
「大学」の残骸のように感じられてなりませんでした。
それは、大学が移転を余儀なくされた実際の理由とは関わりません。
(それについては、自分は何も知りませんし、言う資格もありません。)
もっと漠然とした、ここ三十年ほど自分も身を以て体験してきた、
基礎的な学問に対する無理解と軽視、のようなものです。
基礎的な学問は、決して社会から切り離された、特権的な領域ではないと思う。
ただそれが社会に還元されるまでの時間的サイクルが異なるだけです。
人間社会には様々な組織や団体がありますが、
それらがすべて同じ価値観、同じ時間的サイクルで動いたらどうなるか。
そこに豊かな未来があるようにはとても思えません。
大学というものは、世間とは異なる存在のしかたを保持してこそ、
社会に対して真の貢献ができるのだと思います。
もっともそれは、旧来の学問の中に安住することでは決してありません。
ひとりひとりの研究者は常に自らを更新し続けています。
また、自分たちの社会的地位を守ろうとしているわけでもありません。
(よくこのような決めつけられ方をしたものですが。)
話が茫漠と広がっていくばかりなのはよろしくありません。
また具体的な考察へ戻りたいと思います。
「祖国」は失われたけれど、恩師の教えは常に心の中にあります。
岡村繁先生から学んだことを次世代の方々へ繋いでいく、
そのために自分にできるのは、真っ当な論文を書くということに尽きます。
立派な論文は書けなくても、姿勢として真っ当なものは目指せます。
2024年5月14日
潜魚と飛鳥(承前)
曹植「情詩」(『文選』巻29)に見える、
水底に潜む魚と、飛翔する鳥との対句について、
それを、自適の境遇にあるものを詠じた表現だと言えるかどうか。
このような躊躇を覚えたのはまず、
前回述べた、阮籍「詠懐詩」から遡っての捉えなおしによるものです。
そしてもうひとつ、曹植自身の「公讌詩」(『文選』巻20)に、
次のような対句が見えているからです。
潜魚躍清波 水底に潜んでいた魚は清らかな波間に躍り上がり、
好鳥鳴高枝 可愛い鳥が高い枝の上でさえずっている。
この句が詠ずるもの自体は、庭園の中のありふれた風物だと思われます。
たとえば、曹丕「善哉行・朝游」(『宋書』巻21・楽志三)にも、
宴の情景の中に「淫魚」と「飛鳥」とが詠じられています。
ただ、魚と鳥とが共に、曹植「情詩」にも登場していて、
そこでは、魚も鳥も、人間から距離を取った場所に身を置いている、
そこに、「公讌詩」と「情詩」との間を隔てる質的な相違を感じたのです。
「情詩」にそこはかとない影を感じたのは、
その冒頭句「微陰翳陽景(微陰 陽景を翳ふ)」にも由来します。
この句が描く情景は、文選巻29「古詩十九首」其一にいう、
「浮雲蔽白日(浮雲は白日を蔽ふ)」を思わせますが、
この古詩にいう「浮雲」と「白日」とは、
漢代、「邪佞の忠良を毀つを喩」えたものと捉えられていました(李善注)。
「情詩」と「古詩十九首」其一との共通項として、
帰ってこない「遊子」が詠じられていることも挙げられます。
以上のことが少し引っ掛かったので、訳注稿には追記しておきました。
けれど、詮索しすぎなのかもしれず、また後日、削除することになるかもしれません。
2024年5月7日
潜魚と飛鳥
曹植「情詩」(『文選』巻29)に、次のような対句が見えています。
游魚潜淥水 遊泳する魚は清らかな水の底に身を潜め、
翔鳥薄天飛 飛翔する鳥は天にも届かんばかりに高く飛ぶ。
この表現について、『文選』李善注は、
「言得所也(所を得るを言ふなり)」と解釈しています。
ですが、曹植のこの辞句をこのように捉えることが妥当かどうか。
というのは、阮籍「詠懐詩」其七十六に、*1
次のような対句があることを想起させられたからです。
綸深魚淵潜 釣り糸が深く垂れて、魚は淵の底に潜み、
矰設鳥高翔 いぐるみが設けられて、鳥は高く飛翔する。
阮籍のこの表現は、
『荘子』大宗師にいう
「且汝夢為鳥而厲乎天、夢為魚而没於淵
(且つ汝 夢に鳥と為りて天に厲(いた)り、夢に魚と為りて淵に没す)」
及び、これに対する郭象注、
「言無往而不自得也(言ふこころは 往きて自得せざるは無きなり)」
を念頭に置いたものではないか、と黄節は指摘します。*2
たしかに、『荘子』のこの部分を踏まえるとするならば、
阮籍の前掲の詩句は、自由自在な境地を詠じたものだと捉えられます。
けれども、どうしてもそこで立ち止まってしまうのは、
その魚や鳥の自由が、「綸深」「矰設」からの脱出であるからです。
単純に悠々自適の境地に遊んでいるわけがない。
では、それに先行する曹植「情詩」の方はどうでしょうか。
そこには、釣り糸や巧妙に仕掛けられた“いぐるみ”は見えていません。
ただそれでも、潜る魚や飛ぶ鳥を、自由や自適の象徴と見ることには躊躇を覚えます。
それはなぜか。その理由を少し掘り下げてみようと思います。
2024年5月6日
*1 作品番号は、黄節『阮歩兵詠懐詩註』(人民文学出版社、1984年)に拠った。
*2 黄節の前掲書p.92を参照。
曹植「種葛篇」と陸機の詩
曹植「種葛篇」に「恩紀曠不接(恩紀 曠しく接せず)」という句があります。
あまり見たことがないように感じた表現ですが、
「恩紀」は、比較的用例の多い、当時普通に用いられている語でした。
ところが、「曠不接」という字の並びは意外にも少なく、
漢魏晋南北朝時代を通して、陸機の次の二例が認められるくらいでした。
「贈尚書郎顧彦先二首」其一(『文選』巻24):
形影曠不接、所託声与音 形影 曠しく接せず、託する所は声と音とのみ。
「為顧彦先贈婦二首」其二(『文選』巻24):
形影参商乖、音息曠不達 形影 参商のごとく乖れ、音息 曠しく達せず。
陸機のこの二首の詩は、
「形影」「曠不」といった語の共有、
「声与音」と「音息」という語の類似性から見て、
ひとつの詩想でつながっているということは確かだと言えます。
そして、陸機のこの詩想は、
「曠不」という語の共有、離別という共通のテーマから見て、
曹植「種葛篇」に着想を得たものだと判断できます。
いや、曹植の表現に着想を得たというよりは、
強い共感・共鳴から生まれたものだと言った方が近いかもしれません。
自身の詩を磨き上げるために、先人の優れた表現を踏襲したというのではなくて。
曹植は、骨肉の乖離を夫婦のそれに喩えて表現しました。
そして、陸機は、故郷を遠く離れて異郷の西晋王朝に出仕した人です。
曹植が詠じた肉親との隔絶は、我が琴線に触れるテーマであったに違いありません。
なお、『文選』李善注は、如上の表現の類似性には言及していません。
加えて、前述のとおり、この表現は後の時代に継承された形跡が認められません。
まるで曹植と陸機との間でのみ交わされた目くばせのようです。
2024年5月3日
「塵」と「泥」
以前(2024.04.04)、検討したことの続きです。
「七哀詩」で詠じられた「清路塵」と「濁水泥」は、
「九愁賦」では「濁路之飛塵」と「清水之沈泥」とに変容していました。
「七哀詩」は、古詩「西北有高楼」「明月何皎皎」を特に顕著に踏まえています。
「九愁賦」については、丁晏「陳思王年譜」の序文に、*
王既不用、自傷同姓見放、与屈子同悲、乃為九愁・九詠・遠遊等篇、以擬楚騒。
王は既に用ゐられず、自ら同姓にして見放たるるを傷むこと、屈子と悲しみを同じくし、
乃ち九愁・九詠・遠遊等の篇を為りて、以て楚騒に擬す。
とあるとおり、自身を屈原に重ねて表現した、『楚辞』の模擬作品だと見られます。
王室と同姓でありながら放逐された屈原、彼に自らの境遇を重ねるということは、
曹操が存命中であった建安年間の曹植には、その必然性がありません。
おそらく、『楚辞』の模擬作品だと言える「九愁賦」が作られたのは、
曹操の没後のことだったと見てほぼ間違いないでしょう。
一方、「七哀詩」は王粲や阮瑀らとの競作であった可能性が高く、
もしそうだとするとその成立は建安年間です。
そして、このふたつの作品の間で、
上述のような「泥」と「塵」との転換が起こっているのです。
建安年間の終焉を境に、大きく変化したものは何かといえば、
それは第一に、曹丕とその弟たちとの関係性でしょう。
しかも、「塵」と「泥」を対比的に示す表現は、
もともとは、古詩にも、『楚辞』にも、無かった要素です。
「七哀詩」や「九愁賦」は、敢えて独自にこの要素を加えているのです。
そこに、作者曹植の詩想の磁場を感じないではいられません。
2024年5月2日
*『曹集詮評』(文学古籍刊行社、1957年)p.216。丁晏にこの言及のあることは、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)pp.37の指摘によって知り得た。
陸機「擬明月何皎皎」詩をめぐって
ふと思い立って、概説的な授業の中で、
陸機「擬明月何皎皎」(『文選』巻30)を取り上げることにしました。
『文選』巻29「古詩十九首」其十九「明月何皎皎」に擬した、次のような詩です。
01 安寝北堂上 北の座敷で静かに横になっていると、
02 明月入我牖 明るい月の光が私の部屋の窓に入ってくる。
03 照之有餘暉 月光は窓のあたりをいっぱいに照らしているけれども、
04 攬之不盈手 これをすくい取ろうとすれば掌中からすり抜ける。
05 涼風繞曲房 涼やかな風は、奥まった部屋のあたりを吹きめぐり、
06 寒蝉鳴高柳 秋の蝉は、高く伸びた柳の樹上で鳴いている。
07 踟蹰感節物 立ち止まって季節の風物に感じ入る。
08 我行永已久 私はもうずいぶんと長く郷里を離れている。
09 遊宦会無成 異郷で仕官してもうまくいくことはないかもしれない。
10 離思難常守 離れて暮らす辛さを、いつまでも持ちこたえることはできない。
この詩が基づいた古詩「明月何皎皎」は、次のとおりです。
01 明月何皎皎 明月のなんと皎皎と輝いていることだろう。
02 照我羅床幃 それは私の寝台のとばりを照らし出す。
03 憂愁不能寐 深い愁いに囚われて寝付かれず、
04 攬衣起徘徊 衣を手に取って、起き上がってあちらこちらと歩き回る。
05 客行雖云楽 旅ゆくことは楽しいと言われはするが、
06 不如早旋帰 やっぱり早く家に帰る方がよいに決まっている。
07 出戸独彷徨 戸口を出てひとりでさ迷い歩いてみるけれど、
08 愁思当告誰 この愁いの気持ちを、さていったい誰に告げられよう。
09 引領還入房 首を伸ばして彼方を見やり、また戻ってきては部屋に入ると、
10 涙下沾裳衣 涙が流れてしとどに衣装を濡らすのである。
陸機「擬古詩」については、かつて論じたことがあるのですが、*1
その中でこの詩を中心的に取り上げることはしていません。
そこで、改めてこの作品を読み直してみて、その美しさに打たれました。
そして、これは、陸機が故郷に残してきた妻を思う詩ではないか、と直感しました。
なぜそう感じ取ったのか。
直接的には、第8句の「我行」です。
この詩を詠じている人が、「私の旅」と言っている。
そして、この時代だと、旅に出ているのはほぼ男性と決まっています。
(詩の中の詠じ手と作者とを重ねることについて、今は議論を措いておきます。)
この語句について、岩波文庫『文選 詩篇(六)』(2019年)p.164には、
自分たちを別離させているこの旅。夫の旅を夫婦で共有するものとしていう。
との注記が施されています。
「我」にはたしかにこのような意味があります。
ただ、同じ「我」が第2句にも見えていて、そこでは個としての一人称です。
けれども、一詩の中で、意味を一致させる必要はない、という考えも成り立ちます。
困りました。(直感した、と先ほどは言ったのに。)
前掲の岩波文庫をはじめ、一般に陸機のこの模擬詩は、
女性の視点から詠じられた古詩をそのまま踏襲するものと捉えられているようです。
そのような解釈に沿わせるために、岩波文庫は上記のような注を付けたのかもしれません。
ただ、古詩「明月何皎皎」を男性の視点から詠じたものとする解釈もあります。
それに依るならば、前掲のように注する必要はなくなるのでしょうか。
ひとつ参考になるかと思うのは、
宮体詩ばかりを集めた六朝末の選集『玉台新詠』が、
古詩「明月何皎皎」は採録しているけれども(枚乗「雑詩九首」其九として)、
陸機「擬明月何皎皎」は採録していないということです。
『玉台新詠』の編者である徐陵はおそらく、
古詩「明月何皎皎」を女性の側から詠じられた閨怨詩、
陸機のこの詩を、男性側の立場から詠じたものと捉えたのでしょう。*2
陸機「擬古詩」をめぐって、もう少し行きつ戻りつしてみます。
2024年4月29日
*1 柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)pp.445―482。この部分の論考は、拙論「陸機「擬古詩」試論」(『筑紫女学園大学国際文化研究所論叢』第2号、1991年)に大幅な加筆修正を加えたものである。
*2 このことは、前掲の拙著p.136の注(32)、p.481の注(23)に言及している。
曹植「七哀詩」の制作年代(疑念)
昨日、以下のような推測を述べました。
曹植「七哀詩」がもし王粲や阮瑀らとの競作であった場合、
その制作年代は、建安13年(208)から17年(212)に絞り込まれる。
この間で、曹植が兄曹丕と自身とを、
「清路の塵」と「濁水の泥」のように感じることがあったとすれば、
それは、建安16年(211)、曹丕が五官中郎将・丞相副となったことだろう、と。
これは、詩の世界を、現実と密接に関わるものとして捉える見方です。
しかし、このような見方を推し進めていった場合、
たとえば、前掲の対句の直前にある次のような表現はどう捉えられるでしょうか。
君行踰十年 あなたは旅行くこと十年を超え、
孤妾常独棲 身寄りのない私はいつも一人ぼっちで暮らしている。
まず、曹丕と曹植とが、十年以上も離れ離れになっていたことはありません。
また、仮に本詩の成立を211年だとして、その十年前は、曹丕が15歳、曹植は10歳、
この年齢では、前掲のような比喩表現はあまりしっくりきません。
けれども、徐公持は、この「踰十年」に着目し、
「君」と「妾」とを、君臣関係になぞらえたものと捉え直した上で、
本詩の成立を、明帝期の太和五年(230)と推定しています。*
直観的に、それはどうなのだろう、と感じるのですが、
この感覚はどこから来るのか。
もうしばらく判断を保留にしておきます。
2024年4月27日
*徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.387。
曹植「七哀詩」の制作年代(承前)
曹植の「七哀詩」がもし、
王粲や阮瑀のそれと同じ機会に作られたものであるならば、
その制作年代は自ずから絞り込まれてきます。
王粲は、建安13年(208)、荊州から曹操の幕下に降り、
同22年(217)、疫病によって没しました。
阮瑀は、司空たる曹操に仕え(時期の詳細は未詳)、
建安17年(212)に没しています。
すると、王粲、阮瑀、曹植の三人が一堂に会する機会は、
広く見積もって、208年から212年の間となります。
他方、「七哀詩」には、次のような特徴的な表現がありました。
君若清路塵 君は清路の塵の若く、
妾若濁水泥 妾は濁水の泥の若し。
これは、黄節が評していたとおり、
曹植自身を「泥」、兄の曹丕を「塵」と表現したものと見られます。
表現を現実に結びつけて解釈する必要はない、という考え方もあるでしょうが、
そうした見方をするには、この表現はあまりにも突出しています。
今ここで詳しく論ずることは省略しますが。
さて、では、前述の五年間の中で、
曹植が、兄曹丕との距離を強く意識するようなことはあったでしょうか。
それは、建安16年(211)、
曹丕が五官中郎将・丞相副となり、
曹植が平原侯に封ぜられたことではなかったかと考えます。
時に、曹丕は25歳、曹植は20歳でした。
これを機に、曹丕は事実上の太子、曹操の後継者となります。*
一方、曹植は後漢王朝から侯に任命されたということになるのでしょう。
これを機に、曹植は兄との間に少し隔たりを感じるようになった可能性はあります。
たとえば、「侍太子坐(太子の坐に侍る)」(04-02)です。
以前、この詩に対してかなりひねくれた解釈をしたことがありますが、(2019.07.17)
それは、その詩中に、曹丕を冷ややかに眺めるようなまなざしを感じたからです。
(ただ、その当否は、今もって判断できません。)
もっとも、この反発心はむしろ、兄に甘え、いどみかかるような、
いかにも弟らしい心理であっただろうと想像します。
2024年4月26日
*津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年)を参照。こちらの雑記(2020.09.23)にも記す。
曹植「七哀詩」の制作年代をめぐって
昨日の続きとして。
「七哀詩」と題する作品は、建安七子のひとり阮瑀にもあります。
『藝文類聚』巻34・人部十八・哀傷に、「魏の阮瑀の七哀詩に曰く」として引く、
「丁年難再遇(丁年は再びは遇ひ難し)」に始まる一首、
それに、続いて「又詩に曰く」として引くものも、
もしかしたら「七哀詩」かもしれません。
というのは、その後に「魏の王粲の七哀詩に曰く」として引くもの、
それに続けて「又詩に曰く」として引くものの併せて二首が、
『文選』巻23に、王粲の「七哀詩二首」として採録されているからです。
『藝文類聚』における阮瑀詩の引用の仕方が、王粲のそれと同じ体裁なので、
このように推測することも可能かと考えました。
さて、そのように題目を共有する複数の作品がある場合、
多くは、場を同じくして競作された作品群であろうかと考えられます。
では、曹植「七哀詩」も、王粲や阮瑀らとの競作だと見ることができるでしょうか。
先行研究を通覧すると、
本詩を曹丕と曹植との関係性に結びつけて解釈するものが多く、
その代表的なものが、黄節によるこちら(2022.08.30)の指摘です。
趙幼文が本詩を黄初年間に繋年しているのは、これに基づくかと思われます。*1
また、徐公持は別の観点から、本詩の制作時期を明帝の太和5年と推定しています。*2
曹海東は、本詩を曹丕との関係性に結びつける先人の説に一定の妥当性は認めながらも、
制作年代にまでは踏み込もうとしていません。*3
これらの説は、少しずつ立脚点を異にしてはいますが、
いずれも、本詩が建安文人たちとの競作であった可能性には言及がありません。
一方、伊藤正文は、「七哀」という詩の題目について諸説を紹介し、
これに続けて、次のようなコメントを付しています。*4
なお、この詩の制作年代は不明。
曹植が雍丘にいたときとか、文帝時代の作とかの説もあるが、
いずれも憶測の域を出ない。
そして、この後に、王粲・阮瑀にも「七哀詩」があることを記しています。
このような記し方からして、もしかしたら伊藤氏は、
本詩が競作されたものである可能性に目を向けていたかもしれません。
(前述の曹海東氏にも、その可能性がないではありません。)
明日につなぎます。
2024年4月25日
*1 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)巻2、pp.313―314。
*2 徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.387。
*3 曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)pp.122―124。
*4 伊藤正文『曹植』(岩波・中国詩人選集、1958年)pp.117―120。