曹植「雑詩六首」其六のわからなさ
「曹植作品訳注稿」詩歌篇の見直し作業を始めて、
まだ間もないというのに、問題点が多々出てきて行き詰まっています。
たとえば、「雑詩六首」其六は、同其五とよく似ていて、
しかも両詩は、制作年の明らかな「責躬詩」とも共通項を持っています。
したがって、「雑詩六首」の其六と其五とは、
「責躬詩」の成った黄初四年(223)の作であると推定できる。
そして、その制作地は、当時彼が王として封ぜられていた鄄城だろう。
このように先には考えていました。
しかし、本当にこのように捉えることができるでしょうか。
「雑詩六首」其六に、次のように詠ぜられています。
国讎亮不塞 我が国の仇敵をまことにふさぎ止めることができない以上、
甘心思喪元 私は自らの首を失うことも辞さない思いを抱き続けている。
「甘心思喪元(甘心して元を喪はんことを思ふ)」は、
其五にいう「甘心赴国憂(甘心して国憂に赴かん)」とよく似ています。*1
そして、ここにいう「国の讎(かたき)」は、
其五にいう「呉国為吾仇(呉国は吾が仇為り)」と響き合います。
ならば、其六の詩の中で敵国として詠われているのは呉である可能性が高いでしょう。
ところが、同詩中にいう「撫剣西南望(剣を撫して西南を望む)」について、
多くの注釈者は「西南」を蜀を指すと見るか、もしくは蜀と呉とを指すとしています。
ですが、趙幼文も指摘するように、
黄初四年当時、魏と蜀とは特に敵対する関係にはありません。*2
この年、蜀は劉備を亡くし、意識は内政の方に向いていたのではないかと推察されます。
他方、呉はその前年、長江中流域にまで侵出し、夷陵で劉備を破っています。
このように見てくると、「西南」とは呉を指すと見ざるを得ません。
ところが、魏と呉との位置関係からすると、呉を「西南」と見るには無理があります。
ただし、曹植が王として封ぜられていた鄄城から見れば、
蜀を相手に不穏な動きに出ている呉は、まさに「西南」の方角に位置しています。
ただ、本詩の冒頭には、こうあります。
飛観百餘尺 百尺あまりの、飛ぶがごとき姿の楼観に上り、
臨牖御櫺軒 格子の手すりに寄りかかって窓の外を眺める。
一句目は、「古詩十九首」其三にいう
「両宮遥相望、双闕百餘尺(両宮 遥かに相望み、双闕 百餘尺)」を思わせます。
「飛観」の「観」は、『爾雅』釈宮によれば、宮闕の上に設けられた一対のやぐらです。
これらを踏まえるならば、本詩は洛陽で作られたと見るのが普通でしょう。
しかしながら、洛陽から眺める呉を「西南」の方角にあると見なせるかどうか。
他方、李善がいうように、「雑詩六首」のすべてが鄄城での作だとすれば、
前述のとおり呉を「西南」と見て何ら齟齬は生じません。
ただ、前掲二句に詠われたような立派な建築物が鄄城にあったかどうか。
あるいは黄節がいうように、本詩の成立を建安年間と見る道もあるでしょうか。
それならば、「西南」を蜀と見ることに不都合はありません。
このように、矛盾だらけのように思える「雑詩六首」其六です。
判断は保留にして、明らかとなったところまで記しておくことにしようと思います。
2026年1月9日
*1 なお、「甘」という語単体では、黄初四年作の「責躬詩」にも「甘赴江湘、奮戈呉越(甘んじて江湘に赴き、戈を呉越に奮はん」と見える。
*2 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.66を参照。
曹植「雑詩六首」其四と其一
「南国に佳人有り」と詠い起こす「雑詩六首」其四は、
その美しさが世に顧みられないまま、みすみす時を見送る佳人を詠じ、
一見したところ、一首を通して、昨日述べたような特異な表現は認められません。
世に容れられない人物の嘆きは、中国詩には珍しくないテーマです。
そして、そうした人物の筆頭格といえば、『楚辞』のヒーロー屈原です。
したがって、「佳人」が『楚辞』の言葉を用いて表現されるのも自然なことです。
では、この「佳人」はなぜ南国にいるのでしょうか。
訳注稿にも指摘しているとおり、この冒頭句は、前漢の李延年が、
その妹を武帝に推薦しようと詠じた「北方に佳人有り」云々の歌を思わせます。
ですから、詩としては必ずしも「佳人」は南国にいる必然性はありません。
そこに何らかの背景があって、敢えてそのような設定がなされたのかもしれません。
また、本詩がもしこの李延年の歌が設ける枠組みを借りているとするならば、
「佳人」は曹植が大切に思っている第三者を指すでしょう。
自身を、屈原のようなヒーローに見立てたと解釈することは困難です。
ところで、「雑詩六首」其一には、
万里の彼方、江湖の広がる南方にいる「之子」が詠じられていました。
「之子」といえば、『詩経』周南「桃夭」にいう、
桃之夭夭 灼灼其華 桃の夭夭たる 灼灼たる其の華
之子于帰 宜其室家 之子 于(ゆ)き帰(とつ)ぐ 其の室家に宜しからん
が想起されますが、
「桃夭」が詠ずるこの輝きに満ちた若々しい美しさは、
曹植「雑詩六首」其四の「佳人」にもそのまま当てはまるものです。
こうしてみると、其四に詠じられた「佳人」は、
其一の「之子」に重なると見ることができるかもしれません。*
ただし、そのような解釈が成り立つには、
「雑詩六首」がひとつのまとまりを成していることが前提となります。
2026年1月5日
*黄節『曹子建詩註』巻1は、そのような捉え方をしている。
特異な表現とその来源
本日、曹植「雑詩六首」其三の訳注を見直しました。
その作業の中で思いついたことを記します。
実は、類似することをかつてこちらで述べたことがあるのですが、
その時に感じたことを正面から捉え直してみました。
この詩は、日本の多くの論者には典型的な閨怨詩と見えるでしょう。*
他方、黄節は本詩に詠われた夫を、呉に出征した曹丕になぞらえたものと捉えています。
これらの見方に対して、第三の方法があり得るのではないかと考えました。
それは、表現上、典型的な閨怨詩にしては突出した要素に目を留め、
そのような表現がなぜ生じたかを考えるという方途です。
本詩の場合、それは最後の四句です。
飛鳥繞樹翔 鳥が樹木の周りをぐるぐると飛翔しながら、
噭噭鳴索群 悲痛な鳴き声を上げて仲間を呼んでいます。
願為南流景 できることならば南へ流れる日の光となって、
馳光見我君 光輝を馳せて我が君にお会いしたいものです。
なぜ鳥は、つれあいではなく、仲間を呼んでいるのでしょうか。
思いを寄せる人のもとへ、なぜ光となって飛んでいきたいと詠ずるのでしょうか。
また、その向かう方角はなぜ南なのでしょうか。
これらは、典型的な閨怨詩としては必須ではない、突出した要素です。
これを、表現の多様性を打ちだそうとしたというふうに捉えるのではなく、
そうした表現を要請する現実が背後にあったと見るのです。
(その現実そのものは、直接的に詠じられているわけではありません。)
作者は現実と格闘する中でそれを言葉に託して表現しないではいられなかった。
表現の特異性、独創性は、その後について出てくるものであって、
はじめから作者はそれを狙ったわけではないのではないか。
少なくとも後半生の曹植についてはそう言えます。
このようなことを、思えば自分は繰り返し言っています。
進歩がないような気もしますが、らせん状に深化していると思うことにします。
(これも繰り返し言っているフレーズのような気がします。)
2026年1月4日
*たとえば、川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(岩波文庫、2022年)p.323にそのような評が見える。
曹植「雑詩六首」其二の押韻
「曹植作品訳注稿」の詩歌作品に、
ある時期から押韻状況を記すようになりました。
今進めている見直し作業の中で、
押韻を記していなかった作品にそれを追記しています。
ここまでまだ数首を見たにすぎませんが、
徒詩には近体詩とほぼ同様の一韻到底が認められるようです。
と思っていたところ、それを大きく踏み越える作品に遭遇しました。
『文選』巻29所収「雑詩六首」の其二です。
本詩は、第一句から第十句まで、きれいに上平声01東韻で押韻しているのに、
最後から二句目に至って、突然上声32晧韻に切り替わります。
しかも、それまでは偶数句末押韻だったのに、
結びの二句は両句とも押韻しています。
なぜ、このような脚韻を配したのでしょうか。
如上の押韻情況から見て、うっかり踏み間違えたとは思えません。
思うに、第一句から十句目までは、転蓬のようにさすらう兵士の物語、
最後の二句は、その物語を外側から見て(詠じて)いる人の独白ではないでしょうか。
この独白が「古詩十九首」其一に見える表現を用いていることも、
最後の二句がそれまでの句とは異質であることを示唆しているように感じます。
もっとも、まだ多くの曹植詩を調査したわけではないので、
あくまでも思い付きの推測に過ぎないのですが。
2026年1月3日
今とこれから(続き)
曹植の詩には、様々な特徴があって、
それは、それを読む人によっても様々に捉えられるでしょう。
捉え方はひとつに決められるものではありません。
その上で、自分としては、建安年間の曹植詩に散見する、
ある傾向を持った内容に目が留まりました。
それは、曹操の下に集まった人々に対する待遇に、
この時期の曹植は、その詩中で頻繁に言及しているということです。
昨日見直していた「送応氏二首」其二(04-04-2)にもこうありました。
愛至望苦深 愛の至りて望みは苦(はなは)だ深し
豈不愧中腸 豈に中腸に愧ぢざらんや
「愛至」は、こちらから相手に向けられる愛情をいい、
「望苦深」は、相手からこちらに対して求められる要求をいいます。
そして、この句を受けるのが「豈不愧中腸」です。
本詩を詠じた彼は、相手の期待に十分に応えられないことを、
心の底から申し訳なく思い、自身の不甲斐なさを愧じているのです。
このような構図は、曹植の他の詩にも見えていました。
すぐに想起されるのは、「贈王粲」(04-11)、「贈徐幹」(04-09)です。
「美女篇」(05-12)、「棄婦篇」(05-45)にも、同傾向のことが読み取れそうですし、
「野田黄雀行」(05-02)は、その絶望の極限にあっての作でしょう。
また、こちら(2024.06.15)で紹介した楊修「孔雀賦」(『藝文類聚』巻91)には、
如上の詩歌から窺える曹植の心の有り様がよく見て取れます。
このように、複数の作品に、ある主題が通底していることは、
「送応氏二首」其二の訳注稿を作成した2019年当時、
まだ気づいていませんでした。
こうした主題を探っていくことは、
昨日述べた、曹植詩を漢代宴席文芸の系譜上に位置づけることとは別の視角です。
そして、その主題は、曹植の他ジャンルの作品と照らし合わせ、
その足跡を可能な限り再現することにより、更に解像度を増すでしょう。
それは作品論なのか作家論なのか、区別立てする必要はないように思います。
2026年1月2日
今とこれから
昨年末、「曹植作品訳注稿」の詩歌作品について、見直し作業を始めました。
訳注作業を本格的に始めたのは今から六年半ほど前ですから、
今見直していると、修正を要するようなところが多々目に止まりますが、
その一方で、当時の仕事に圧倒されるところも少なくありません。
過去の自分から励まされています。
見直している曹植の詩歌の訳注は、
過去十餘年間に書いてきた建安文学に関する所論と併せて、
ひとまとまりの原稿にしたいと考えています。
曹植の詩歌の訳注と、建安文学に関する論考と、
この両者をひとつにまとめることにどんな意味があるのでしょうか。
後漢末、魏の曹操のもとに形成された建安文壇は、
五言詩がにわかに興隆したところに大きな特徴がありますが、
この事象は、次のことを踏まえてこそ無理なく理解することができます。
すなわち、五言詩は、漢代の宴席を舞台に生成展開してきた文芸であること、
そして、建安詩人たちも基本的に、宴席を場として文学活動を行っていたことです。
つまり、長らく地下水脈を為してきた五言の詩歌が、
一挙に地表に噴出したもの、それが建安詩なのだと私は捉えています。
以上のことは、かつて『漢代五言詩歌史の研究』で論じました。*
建安文学はこのように、漢代宴席文芸の系譜上に位置づけることができると考えますが、
五言詩の新たな展開の諸相については、前著ではまだ論及していません。
後漢末における文学の質的転換を、作品の実態に即して更に明らかにしたい。
そのためには、この時代、特に多くの詩歌を残している曹植を取り上げるのが最善です。
こう考えて、曹植の詩歌の、せめて訳注だけは形にしたいと考えました。
今行っている作業は、漢代五言詩歌史研究の続きです。
2026年1月1日
*こうした捉え方は、あまり聞きなれないものではないでしょうか。どういうことだろうと思われた方は、柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)をご覧ください。
離縁された妻の罪
「古詩為焦仲卿妻作」(『玉台新詠』巻1)は、
意地悪な姑に夫との間を裂かれ、婚家を追われた蘭芝が、
実家に戻ってから、再婚を迫られて入水し、
別れた夫も自死したという悲劇を詠じたものです。
その中に、蘭芝が婚家から得た罪ということを巡って、
実家に戻った蘭芝と母親との間で次のようなやり取りがなされています。
汝今何罪過。不迎而自帰。蘭芝慚阿母。児実無罪過。
「お前は今ごろ何の罪を得て、迎えもしないのに自分で帰ってきたのかい。」
蘭芝は恥じ入って母にいう。「私は本当に何の罪も犯してはおりません。」
嫁ぎ先の家を追われる時の蘭芝の科白にもこうあります。
謂言無罪過。供養卒大恩。
私には罪はないと思い、舅姑にお仕えしてご恩返しを全うしようとしました。
では、蘭芝の「罪過」とは何でしょうか。
彼女を追い出した姑は、彼女の有り様を次のように咎めています。
此婦無礼節、挙動自専由。
この嫁は礼節をわきまえず、自由勝手なふるまいをする。
このように、蘭芝が婚家を追われたのは、“罪を犯した”という理由からでした。
(もちろん、それは何の理由にもなっていないのですが。)
先ごろ私は曹植「種葛篇」「浮萍篇」「閨情」詩に関して研究発表を行ったのですが、
そこで述べたことのひとつを、ここに訂正しなくてはなりません。
夫に棄てられた妻の嘆きは、漢魏詩においてそれほど珍しいテーマではないが、
そこに、罪を得た妻が、終日謹んで務めに励むという要素が加わる例があったかどうか。
という部分です。
「罪を得た妻」という要素は、前掲の「為焦仲卿妻作」詩にはあります。
本当に罪を犯したのではありませんが、それを理由に彼女は婚家を追われています。
曹植の「浮萍篇」や「閨情」詩に見える罪を得るという要素は、
漢魏詩にはたしかに存在しています。
曹植詩の場合は、そうした要素が、彼自身の受けた監視と陥れられた罪に重ねられている、
と読める(そう読めると確信できるまで検討する必要はありますが)、
そこに、従前の、あるいは同時代の他の作品との違いがあるかもしれません。
以上の間違いと訂正を、試行錯誤の跡として記しておきます。
2025年12月28日
黄節の探索経路
先日から話題にしている「何嘗・艶歌何嘗行」は難解で、
その冒頭の言葉からうまく読めません。
何嘗快独無憂 何ぞ嘗(かつ)て快にして 独(た)だ憂ひ無き
但当飲醇酒 但だ当(まさ)に醇酒を飲み
炙肥牛 肥牛を炙(あぶ)るべし
この後半はわかります。
「もっぱら芳醇な酒を飲み 肥えた牛肉を炙って食らうことだ」と。
では、その前にある第一句は、まずどう切ればよいのでしょうか。
前掲の読み下し方とは異なって、
黄節は「快独」をひとつながりの語と捉え、「快絶」のような意味だとし、
それに関連して提示されるのが、東晋・張湛による『列子』の注
「独者極高極妙而無隣之意(独とは極めて高く極めて妙にして隣無きの意なり)」です。
「独」は、たしかにこのとおりの意味だとは思います。
ただ、それが熟語の下に来て、上の語を強調するような例があるかどうか。
そこで、『佩文韻府』(巻90下・一屋)に当たってみました。
この工具書では、下に来る字を同じくする熟語が並んでいますから。
すると、唯一このような意味合いとして取れそうなものが、
黄節の挙げていた『列子』張湛注でした。
黄節も「何嘗・艶歌何嘗行」の第一句に困り果て、
『佩文韻府』に当たったのではないか。
そして、想定した語義に最も近い『列子』張湛注を採ったのではないか。
その探索の経路が見えたような気がしました。
なお、『佩文韻府』が示す注の一文は、
『列子』天瑞篇の張湛注には見当たりませんでした。
そして、『佩文韻府』に引く『列子』の本文(こちらは確認できます)、
「不生者疑独、不化者往復(不生者疑独、不化者往復)」では、
「疑独」が「往復」と対応関係にありますから、
「独」を「疑」を下から修飾する語と見ることはできません。
この『列子』本文を、黄節は引いていません。
2025年12月26日
*『漢魏楽府風箋(黄節詩学選刊)』(中華書局、2008年)p.232を参照。
語感をつかむこと
「何嘗・艶歌何嘗行」について以前こちらに書いたことで、
たいへんな間違いをしていたのでここに改めます。
それは、本作品の後半に見える次の句です。
少小相触抵 少小 相触抵し
寒苦常相随 寒苦 常に相随(したが)ふ
このうちの「触抵」を、私は先には「身近に触れ合って」と訳していました。
この熟語を「触」と「抵」とに分けて、
それぞれの語義から推測して前掲のような誤訳をしていたのでしたが、
これでは、この「触抵」という言葉の語感に合致しません。
この熟語の用例として、たとえば『焦氏易林』観之大壮にこうあります。
心志不良、昌披妄行。触抵墻壁、不見戸房。
心志は良からず、昌披として妄行す。墻壁に触抵して、戸房を見ず。
心の状態がよろしくなくて、めちゃくちゃな振る舞いをする、
塀や壁にぶつかって、肝心の家屋が目に入っていない、
という、これは占筮の言葉です。
このような語の用いられ方から見て、
これは「身近に触れ合う」ではなく「ぶつかる」であること明らかです。
どうしてこのような間違いをしたのか。
その根底に、これは曹氏兄弟の少年時代のことだという思い込みがあり、
そこでそれ以上踏み込んで調べるのを止めてしまったのでした。
気を付けなければなりません。
そして、言葉というのは、その語義だけではなくて、
それが持つ質感まで感じ取った上で、その意味を把握することです。
理屈が先行すると、この感触というものがないがしろにされてしまいます。
それでは本当にわかったことにはなりません。
気を付けなければなりません。
2025年12月25日
「吾」と「卿」
一昨日、「何嘗・艶歌何嘗行」を夫婦の物語として訳し直してみました。
前半の「艶」は夫を主人公として一人称で、
後半の「趨」は妻を主人公として一人称で語る設定としています。
ところが、訳していく中で、困った問題に遭遇しました。
それは、後半の次の句に登場する呼称です。
吾中道与卿共別離 吾は中道に卿と共に別離す
ここに見える「吾」と「卿」とは誰を指すのでしょうか。
昨日示した別訳では、これを妻から夫への呼びかけと見ています。
けれども、そのような設定で読むと無理が生じるのです。
「卿」は通常、立場が上の者から下の者に対して呼びかける二人称です。
これを逆転させる場合もありますが、それは例外的なことです。
たとえば『世説新語』惑溺篇に次のようにあります。
王安豊婦、常卿安豊。安豊曰、婦人卿婿、於礼為不敬、後勿復爾。
婦曰、親卿愛卿、是以卿卿。我不卿卿、誰当卿卿。遂恒聴之。
王戎の妻はいつも王戎を卿(お前さん)と呼んでいた。
王戎は言った。「妻が夫を卿と呼ぶのは礼儀にもとる。今後再びそう呼んではならぬ。」
妻は言った。「卿に親しみ卿を愛しているから、卿を卿と呼ぶんだ。
私が卿を卿と呼ばずに、誰がいったい卿を卿と呼ぶのか。」
かくして常にそう呼ぶことを聞き入れた。
『漢語大字典』第1冊(p.318)は、この『世説新語』に続けて、
「為焦仲卿妻作」詩(『玉台新詠』巻1)に見える「卿」の例を挙げています。
これは、先に述べた通常の場合と例外的な場合とのどちらでしょうか。
「為焦仲卿妻作」に当たってみたところ、
「卿」を、妻から夫への呼称として用いている例はひとつもなく、
ほとんどの場合は、夫が妻をこの二人称で呼んでいます。
(夫婦間での呼称でない場合も、立場の上下が逆転する例はありません。)
そのうち、次の3例は「吾」と「卿」とが一緒に登場します。
卿但暫還家。吾今且報府。
君はしばらく実家に帰っていなさい。私はこれから役所に報告にいくから。
誓不相隔卿。且暫還家去。吾今且赴府。不久当還帰。
絶対に君を遠ざけたりしないから、しばらくは家に帰っていなさい。
私はこれから役所にいくが、遠からず必ず帰ってくるから。
卿当日勝貴。吾独向黄泉。
君はきっと日増しに高貴な身分となるのだろう。私はひとり黄泉の国に向かうよ。
(元妻が太守の家に嫁入りすることとなったことを聞いた元夫の科白)
このように見てくると、
前掲の「吾中道与卿共別離」を妻の科白と見ることは困難です。
このことを踏まえた上で、
この楽府詩全体を、夫婦の物語として読み解くことはできるか、
もう少し考え直してみたいと思います。
2025年12月24日