敦煌文献における孝子董永

曹植の「鼙舞歌・霊芝篇」には、孝子董永の故事も詠み込まれています。

董永の故事を書き記す古い文献として、
劉向(前77―前6)の『孝子図』(『太平御覧』巻411)、
干宝(?―336)の『捜神記』巻1などがあり、
画像資料としても、漢代の武梁祠に描かれたものがあります。*1

これらの資料と、曹植作品に詠われた董永の故事との間には、
いくつかの微細な相違点が認められますが(こちらに記しています)、
それはまだ小さな違いに過ぎません。

董永の故事は敦煌文献の中にもあって、
昨日示した金岡照光先生の論著の中で詳しく論じられており、*2
(しかも、武梁祠の石刻画像や曹植「霊芝篇」にも言及されています。)
早くには鄭振鐸『俗文学史』第五章「唐代的民間歌賦」に紹介されていますが、*3
それと曹植作品等との違いに少なからず驚かされました。

敦煌文献では、董永が葬って孝養を尽くしたのは、父母です。
曹植「霊芝篇」等では、それは父のみでした。

また、敦煌文献ではその後半、董永と天女との間に生まれた子が登場します。

これらの相違点は、唐代に入り、その社会の変化を背景に生じた要素でしょうか。
それとも、もともとあったものがたまたま唐代に記されたのでしょうか。

2024年12月14日

*1 長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)p.80を参照。
*2 金岡照光『敦煌の文学文献』(大東出版社、1990年)p.517―546を参照。
*3 鄭振鐸著、高津孝・李光貞監訳『中国俗文学史(東方学術翻訳叢書)』(東方書店、2023年)p.170―176を参照。

舜の孝行と農耕(承前)

先にこちらこちらに述べたことについて、
同様のことを指摘する先人の論があったので追記します。

それは、金岡照光『敦煌の文学文献』(大東出版社、1990年)所収
「孝行譚―「舜子変」と「董永伝」」中の「舜孝子伝の原型と構成要素」です。

この論著のp.496に、
『史記』五帝本紀に見える舜の記事が腑分けされた上で、
それらの要素に論究する、青木正児の次のような所論*が紹介されています。

これらは帝堯、帝舜の禅譲と、直接関連なき、親子の間の物語である。青木博士は、こうした物語と、歴山、河浜、雷沢等で農漁業に従事する話は、民間伝説を採用したものではないかと疑っておられる。……

続いて、『孟子』万章上に記された舜の親子関係に触れる記事を挙げ、
その中の、舜の親が子に殺意を持つ二つのエピソードが『史記』にも見えることから、
舜説話の原型に、すでにこの物語は含まれていたと考えることが可能だとされ、
更にこうも述べておられます。

『孟子』のこの部分の記述が、『孟子』の他の文とちがって、古い佚文を反映しているのではないかという疑が、すでに先学によって指摘されている。
(ここにいう「先学」とは、先にも引用されていた青木正児です。)

更に、如上の具体的な検討を通して、次のような見通しが導き出されています。

そもそも孝子説話は、親子関係という本来人間的な関係に発しているものであるため、経史書の伝承とは別に、むしろ民間において流布せる孝子説話の伝承をこそ、重視しなければならないものであろう。

これで霧が晴れました。
曹植「鼙舞歌・霊芝篇」の中に民間文芸が埋もれているとの仮説、
その方向に向かっていくことができると確信しました。

2024年12月13日

*青木正児「堯舜伝説の構成」(脱稿は1926年11月27日。初出は雑誌『支那学』第四巻第二号。『青木正児全集第二巻』(春秋社、1970年)所収『支那文学芸術考』(弘文堂、1942年)に収載)を参照。

曹植の「棄婦篇」と「贈徐幹」

昨日指摘した通り、
曹植「棄婦篇」と徐幹「室思詩」との間には、
ほとんど同一といってよい辞句が共有されています。
そこから想像をたくましくし、もしかしたら「棄婦篇」は、
徐幹を視野に入れることによって読み解けるかもしれないと述べました。

そのように述べたのは、
「贈徐幹」詩に、徐幹を描いたと見られる次の句、

顧念蓬室士  振り返って粗末な草堂に暮らす人物に思いを致せば、
貧賤誠足憐  その貧賤のあり様にはまことに憐憫を禁じ得ない。
薇藿弗充虚  のえんどうや豆の葉では空腹を満たせないし、
皮褐猶不全  粗末な皮衣では身体を十分に覆うこともできない。

これと、「棄婦篇」に見える次の句、

棲遅失所宜  世間から離れて居場所を失い、
下与瓦石并  身を落として瓦や石などと共にいる。

この両者が重なって見えたからです。

もちろん、表現そのものはそれほど似ていません。
けれども、「棄婦」という当時としてはよくあるテーマの詩の中に、
かなり唐突に現れるこの句は、ただ単に「棄婦」を詠じたようには見えません。
それよりも、前掲の「贈徐幹」の方に近い感触があります。

「棄婦篇」も「贈徐幹」詩も読み難い作品で、
これまでにも何度か取り上げて考察したことがあります。
読み難い作品をかけあわせると、かえって謎が氷解する場合もあります。

2024年12月11日

曹植「棄婦篇」と徐幹

昨日、曹丕「雑詩」にいう「展転不能寐」が、
徐幹「室思詩」にまったく同じ句として見えていることを示しました。

この徐幹の詩句「展転不能寐」に学んだかと見られる表現が、
曹植「棄婦篇」にも次のように見えています。

反側不能寐  転々と寝返りを打って眠られず、
逍遥於前庭  前庭をぶらぶら歩き回る。

曹植詩の「反側」は、先に本詩の語釈で示したとおり、
『毛詩』周南「関雎」にいう「輾転反側」を踏まえたものです。

この『詩経』の句「輾転反側」のうち、
徐幹は「輾転」の方を用いて「展転不能寐」と、
曹植は「反側」の方を用いて「反側不能寐」と詠じています。
曹植は、徐幹の詩を意識しつつ、それをわずかにずらしたのかもしれません。

「不能寐」というフレーズの方は、
『文選』巻29「古詩十九首」其十九にいう「憂愁不能寐」以来、
建安詩人たちの作品には少なからず見いだせるものです。
けれども、これが「輾転」「反側」と結びついている点では、
現存作品を見る限り、この時代、徐幹、曹丕、曹植の三人に限られます。

以前、曹植「棄婦篇」の分かり難さについて書きましたが、
もしかしたら、徐幹という人物を介して解けてくることがあるかもしれません。

2024年12月10日

伝統的語釈の盲点

曹丕の「雑詩二首」(『文選』巻29)其一に、こうあります。

展転不能寐  転々と寝返りをうって寝つかれず、
披衣起彷徨  衣を羽織り、起き上がってあちらこちらと歩き回る。
彷徨忽已久  あちらこちらと歩き回るうち、いつしか時はすっかり過ぎていて、
白露沾我裳  白露が私の着物の裾を濡らしている。

ここに挙げた句のうち、
1行目は、徐幹「室思詩」(『玉台新詠』巻1)に、同一句がこう見えています。

展転不能寐  転々と寝返りをうって寝つかれず、
長夜何綿綿  長い夜のなんと連綿と続いてゆくことか。
躡履起出戸  はきものをつっかけて、起き上がって戸口を出て、
仰観三星連  天を仰いで三星の連なっているのを見つめる。

また、曹丕の前掲詩4行目によく似た句が、
王粲「七哀詩二首」其二(『文選』巻23)にこう見えています。

迅風拂裳袂  疾風が吹いて衣の裾や袂を払い、
白露沾衣襟  白露が降りて衣の襟を濡らす。
独夜不能寐  ひとりで過ごす夜は寝つかれず、
攝衣起撫琴  衣を整えて、起き上がって琴をつまびく。

これほど相互によく似た句は、それほど多くはありません。
前後の文脈から見ても、曹丕の作品がこの両詩に学んでいることは明確です。

曹丕は、彼を取り巻く建安文人たちから多くを薫陶を受けていたはずで、
その証が、酷似する表現として、彼の作品中に刻印されているように感じられます。

ですが、『文選』李善注は、これら同時代の作品には触れていません。
伊藤正文氏の「曹丕詩補注稿」でも同様です。*

唐代の李善注をはじめ、一般的な語釈の付け方としては、
取り上げる価値のある表現は、先行する古典的作品に典拠をもつものであって、
近い時代の作品どうしの継承関係については、ひとまず置いておく、
という基本姿勢が不文律で共有されているような気がします。

この常識を外してみると、見えてくるものが少なくなさそうです。

2024年12月9日

*伊藤正文「曹丕詩補注稿(詩・闕文・遺句)」(『神戸大学教養部紀要』第25号、1980年)を参照。

舜の孝行と農耕(訂正)

舜が親に孝養を尽くしたということと、
彼が農耕に従事したということとを同時に述べる文献は少ない、
と、本日昨日述べましたが、これを訂正します。

こうした内容の記述は、『孟子』万章章句上、
「舜往于田、号泣于旻天。何為其号泣也
(舜は田に往き、旻天に号泣す。何為れぞ其れ号泣するや)」以下に見え、
その趙岐注には、「謂耕于歴山之時(歴山に耕す時を謂ふ)」との解説があります。

先に私は「歴山」をキーワードにして諸テキストを検索しただけで、
そこから先を掘り下げていませんでした。

『孟子』の記述は、黄節『曹子建詩註』に指摘されていました。

本当に恥ずかしい。
自分の研究の底の浅さと、昔の研究者の底力を痛感しました。

2024年12月5日

曹植「霊芝篇」の原資料(承前)

曹植「霊芝篇」に登場する孝行息子の舜について、
孝の要素が農耕とあわせて記述される例はそれほど多くありません。

その数少ない例として、昨日『焦氏易林』と『列女伝』とを挙げました。
この両文献の関係について、思い至ったことを記しておきます。

『焦氏易林』の著者である焦延寿は、前漢中期の人で、
『漢書』巻88・儒林伝には、その易学について次のように記されています。

京房受易梁人焦延寿。延寿云嘗従孟喜問易。
会喜死、房以為延寿易即孟氏学、翟牧・白生不肯、皆曰非也。
至成帝時、劉向校書、考易説、以為諸易家説……大誼略同、唯京氏為異、
党(儻)焦延寿独得隠士之説、託之孟氏、不相与同。

京房 易を梁人焦延寿に受く。延寿云ふ「嘗て孟喜に従ひて易を問ふ」と。
会(たまたま)喜死し、房は以て延寿の易は即ち孟氏の学なりと為すも、
翟牧・白生は肯んぜず、皆曰く非なりと。
成帝の時に至りて、劉向は書を校し、易の説を考ずるに、
以為らく 諸の易家の説……大誼は略(ほぼ)同じきも、唯だ京氏のみ異と為す、
もし焦延寿 独り隠士の説を得て、之を孟氏に託せば、相与に同じからず。

これによると、焦延寿の易学は諸家と比べてかなり特異なもので、
「隠士の説を得て」成った可能性もあると、劉向に指摘されていたようです。
「隠士」とは、在野に埋もれて生きる知識人、という意味で捉えることができるでしょう。
もしそうであるならば、その『焦氏易林』の記述の中には、
民間に流布する言い伝えなどがふんだんに含まれているかもしれません。
(先行研究の中には、すでにこうした視角から論じたものがあるかもしれません。)

他方、『列女伝』賢明伝「周南之妻」に見えていた孝子舜の故事は、
この「周南の妻」が語った言葉の中に登場するものでした。
つまり、この時点で、この話はすでに世間に流布していたということになります。
劉向が『列女伝』を編纂した際、この部分に手を加えたという可能性も否定できませんが、
他の見方として、前漢末まで伝えられてきた彼女の故事の中に、
舜が農耕によって親に孝養を尽くしたという故事がすでに埋め込まれていた、
と見ることも不可能ではありません。

前漢の『焦氏易林』と『列女伝』という両文献の中に、
そろってこの故事が援用されていることについて、
どちらかがどちらかを継承したという関係を想定することよりも、
両文献の成立の根底に、広く世の中で共有されていた言い伝えを想定した方が、
実態に近い、より明瞭な像を結ぶように感じられます。

ところで、曹植「霊芝篇」は、
ここまで検討してきた「尽孝於田隴」という句の前後に、
「父母頑且嚚(父母は頑にして且つ嚚なり)」、
「烝烝不違仁(烝烝として仁に違はず)」といった句を配しています。
前者は、『尚書』堯典の記述に基づく表現ですし、
後者の「烝烝」「不違仁」は、『尚書』堯典、『論語』雍也に見える語です。
そうした古典籍に由来する辞句の間に、
民間伝承由来かと思われる故事が織り交ぜられている。
曹植文学を文化史上に位置づける上で、このことに興味が引かれます。

2024年12月5日

曹植「霊芝篇」の原資料(見通し)

曹植の「鼙舞歌・霊芝篇」には、
親孝行で知られる人物たちが列挙されています。
その最初に詠じられているのは五帝のひとりである舜で、
本詩中に「尽孝於田隴(孝を田隴に尽くす」という句が見えています。

舜が歴山で耕作に従事していたことについては、
「中國哲學書電子化計劃」https://ctext.org/pre-qin-and-han/zhで検索すると、
実に多くの文献にこのことが言及されているのを概観できます。*1

ところが、その農作業が「孝」と結びつけられている例は多くありません。
上記のサイトでの検索結果をすべて挙げれば、次の三例のみです。

『列女伝』賢明伝「周南之妻」には、この女性の科白の中にこうあります。

「昔舜耕於歷山、……。非舜之事,而舜為之者,為養父母也。」
(昔 舜は歷山に耕し、……。舜の事に非ず、而して舜之を為すは、父母を養ふ為なり。)

『焦氏易林』観之、観(観 観に之く)には、次の句が見えています。

「歷山之下、虞舜所処。躬耕致孝、名聞四海。
(歷山の下、虞舜の処る所なり。躬(みづか)ら耕して孝を致し、名は四海に聞こゆ。)

逆に、『越絶書』呉内伝は、舜が継母の殺意から逃れたことについて、

「舜去、耕歷山。三年大熟、身自外養、父母皆饑。
(舜は去りて、歷山に耕す。三年にして大いに熟し、身自(みづか)ら外に養ひ、父母は皆饑う。)

と記し、これを「舜に不孝の行ひ有り」としています。

なお、武梁祠の画像石に彫り込まれた榜題にはこうあります。*2

帝舜名重華、耕於歴山、外養三年。
帝舜 名は重華、歴山に耕し、外に養はるること三年なり。

「外養」「三年」という語が、
『越絶書』呉内伝に共通している点で注目されます。

曹植「霊芝篇」の原資料は、
上述のような文献や画像石から探っていけるかもしれません。

2024年12月4日

*1 たとえば、『説苑』雑言、同反質、『韓詩外伝』巻七、『新序』雑事、『論衡』自紀、『墨子』尚賢中、同尚賢下、『韓非子』難一、『管子』版法解、『呂氏春秋』孝行覧・慎人、『史記』五帝本紀、『越絶書』外伝枕中、『塩鉄論』貧富に見えている。
*2 『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)p.66を参照。

『列女伝』弁通伝「趙津女娟」と九歌型歌謡

曹植「精微篇」に登場する娘のひとり「女娟」は、
『列女伝』弁通伝「趙津女娟」にその事跡が記されています。
その中で彼女は、失態を犯した渡し守の父を死罪から救い出した後に、
君主の趙簡子と共に船に乗り、次のような歌を歌います。

升彼舸兮面観清  かの船に乗って、目の当たりに清らかな水面を眺めれば、
水揚波兮杳冥冥  水は波を高くあげて、果てしなく広がっています。
祷求福兮醉不醒  父は祈りを捧げて福を求めた挙句、酔っぱらって意識を失い、
誅将加兮妾心驚  誅伐がいざ加えられることとなって、私の心は恐れおののきました。
罰既釈兮瀆乃清  罰はすでに許され、罪の汚れもなんとか清められました。」
妾持楫兮操其維  わたくしは楫を手に持ち、船のともづなを操ります。
蛟龍助兮主将帰  みずちや龍は航行を助け、君主はいざ凱旋しようというところ。
呼来櫂兮行勿疑  さあ、船をこぎましょう。行く手にためらいはご無用です。」

『楚辞』九歌と同じ句型を持つこの種の歌謡は、
漢代において、実際に楽器の演奏を伴って歌われていました。*1

そして、この句型の歌謡は、『史記』に限っても、
巻86・刺客列伝(荊軻)に「風蕭蕭兮易水寒、壮士一去兮不復還」、
巻7・項羽本紀に「力抜山兮気蓋世、時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何、虞兮虞兮奈若何」、
巻8・高祖本紀に「大風起兮雲飛揚、威加海内兮帰故郷、安得猛士兮守四方」等、
少なからぬ箇所に見えていますが、
それらの多くが、演劇のト書きを思わせるような記述を伴っています。
たとえば、「悲歌忼慨」「泣数行下」のような紋切り型、
「撃筑」「起舞」「為変徴之声、……復為羽声忼慨」「歌数闋、美人和之」のように、
歌謡や舞踊の上演に関わることを説明するような辞句がそれです。*2

こうしてみると、九歌型の歌謡を伴っている『列女伝』は、
その原資料に、演劇的要素を持つ口承文芸が含まれていたのかもしれません。

そして、同じ様式の歌謡を含む他の文献も、
こうした視角から見れば、更に多くの示唆を与えてくれるように思います。

2024年12月2日

*1 藤野岩友『巫系文学論(増補版)』(大学書房、1969年。初版は1951)所収「神舞劇文学」に指摘する。
*2 柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.109―114を参照されたい。

曹植「精微篇」と左延年「秦女休行」

先日訳注を公開した曹植「精微篇」と、
昨日こちらで紹介した左延年「秦女休行」とを並べてみると、
いくつか通底する部分があることに気づきます。

曹植「精微篇」は、秦女休が恩赦に会った場面を切り取ってこう詠じます。

女休逢赦書  女休の赦書に逢ふは、
白刃幾在頸  白刃の幾(ほとん)ど頸(くび)に在るときなり。

左延年「秦女休行」の末尾は、
この場面を、更に鮮明な臨場感をもって次のように描いています。

両徒夾我     両徒 我を夾(はさ)み、
持刀刀五尺餘   刀を持つ 刀は五尺餘り。
刀未下      刀未だ下らざるとき、
朣朧撃鼓赦書下  朣朧として撃鼓あり 赦書下る。

また、曹植「精微篇」には、
勇敢な娘たちと息子たちとを対比させる次のような句が見えています。
(秦女休その人を指していう言葉ではありません。)

多男亦何為  男多きも亦た何をか為さん、
一女足成居  一女 居を成すに足る。
……
辯女解父命  辯女 父の命を解く、
何況健少年  何ぞ況んや健なる少年においてをや。

左延年「秦女休行」にも、これと同質の次のような句が認められます。

兄言怏怏   兄の言 怏怏たり、
弟言無道憂  弟(いもうと)の言 憂ひを道(い)ふ無し。

こうした発想の句は、
緹縈を詠じた班固の詠史詩(『文選』巻36李善注に引く)にも、
次のとおり見えています。*

百男何憤憤  百男 何ぞ憤憤たる、
不如一緹縈  一の緹縈に如かず。

曹植「精微篇」に共通する要素を持つ作品や著作物は、
同時代にも、また前後の時代にも、まだいくらでもあるでしょう。

これらの複数の作品に通底する要素は、
それぞれの作者が創り上げた詩想や表現なのではなくて、
(曹植が強い女性を崇拝していたなどとは言えないことです。)
彼らが生きていた時代の意識下に通底していた感情なのだろうと思います。
(それも、知識人社会の枠に限定されない、民間に広く流布する感情)

そうした時代の底を流れていた感情の分厚い層は、
個々の固有の作者を越えて、彼らの精神的土壌を為していたものでしょう。

ひとりひとりの作者の独自性も、その歴史的位置も、
この分厚い土壌を視野に入れてこそ究明できるのだと考えます。

2024年12月1日

*詩全体の本文、訓み下し、通釈は、昨日も紹介したこちらの拙稿に示してある。

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