『焦氏易林』と漢魏詩(承前)
漢代の詠み人知らずの歌辞(古楽府)
「黙黙・折楊柳行」(『宋書』巻21・楽志三)に、こんな句があります。
三夫成市虎 三人の男(の虚言)が市場の虎を出現させ、
慈母投杼趨 (嘘が三たび重なれば)慈母も杼を投げ出して走り去る。
ここには、次の二つの故事が踏まえられています。*
ひとつは、『韓非子』内儲説上、
龐恭が魏王に言った科白の中に見える次のたとえ話、
夫市之無虎也明矣、然而三人言而成虎。
夫れ市の虎無きや明らかなり、然れども三人言はば虎を成す。
もうひとつは、『史記』巻71・甘茂伝、
甘茂が秦の武王に言った科白の中に次のように見えています。
曹参の母に、その息子が殺人を犯したと告げた者が三人となった時、
「其母投杼下機、踰牆而走(其の母は杼を投じ機を下り、牆を踰えて走る)」。
ところがここに、この二つの故事を対で用いている文献があります。
『焦氏易林』巻1「坤之夬」に、
三姦成虎 三人の悪者が(いもしない虎をいると言えば)虎がいることになり、
曽母投杼 (嘘も三たび重なれば)孝行者の曹参の母でさえ杼を投げ出して逃げる。
とあるのがそれです。
前掲の二つの故事が、同じ方向性を指し示していることは確かです。
しかしながら、古楽府「黙黙・折楊柳行」は、
『韓非子』『史記』のそれぞれから故事を選び取ったのだと見るよりは、
もともと二つの故事を対で示す『焦氏易林』から摂取したと見る方が自然でしょう。
また、以前にこちらでも述べたように、
曹植作品にも、この『焦氏易林』を用いたと思われる表現があります。
曹植文学と民間文芸との関係性の深さは、こうした事例からもうかがえます。
2025年9月23日
*古楽府「黙黙・折楊柳行」に関する指摘は、2025年8月31日、第7回『宋書』楽志共同研究会(科研費研究・基盤B「漢魏六朝期の楽府と文学」課題番号:23H00611、代表者:佐藤大志)において、西川ゆみ氏の示された訳注稿による。
『焦氏易林』と漢魏詩
曹植「孟冬篇」に、次のような対句が出てきます。
絶網縦麟麑 網を断ち切って騏驎の子を解き放ち、
弛罩出鳳雛 竹かごを緩めて鳳凰のひなを出してやる。
この「麟麑」という語は見たことがなくて、
ためしに漢籍リポジトリ(https://www.kanripo.org/catalog)で検索したら、
非常に用例の少ない語であることがわかりました。
事実上、曹植のこの楽府詩ともうひとつ、『焦氏易林』巻3「恒之坎」にいう、
麟麑鳳雛、安楽無憂。捕魚河海、利踰徙居。
麟麑・鳳雛は、安楽にして憂へ無し。魚を河海に捕るは、利 居を徙すに踰ゆ。
とあるのみです。
「鳳雛」が「伏竜」と一対で用いられている例は、
『三国志(蜀書)』諸葛亮伝・龐統伝の裴松之注に引く『襄陽記』に見えます。
けれども、「鳳雛」が「麟麑」と対を為す例は、
(伝存資料の限りでは)曹植詩以外では、前掲の『焦氏易林』のみです。
このことは、どう捉えるのが妥当でしょうか。
『焦氏易林』については、これまでにも何度か言及したことがありますが、
(たとえば、直近ではこちら)
なにか、民間に流布していた言葉を多く取り込んでいるような傾向が見て取れます。
そんな『焦氏易林』に由来するかと思われる詩歌が、漢魏の時代には散見します。
たとえば、曹操「惟漢二十二世・薤露」(『宋書』巻21・楽志三)にいう、
沐猴而冠帯 それはまるで猿が正装したような具合で、
智小而謀強 智恵は足らないのに、無謀な計略だけは立派である。
この「沐猴而冠帯」は、『焦氏易林』巻2「剥之随」(或本)にいう、
沐猴冠帯、盗在非位。衆犬共吠、倉狂蹶足。
沐猴 冠帯し、盗みて非位に在る。衆犬は共に吠え、倉狂蹶足す。
を踏まえている可能性が高いと考えます。
『史記』巻7・項羽本紀にいう「人言楚人沐猴而冠耳」よりも、
『焦氏易林』の方がよほど曹操の楽府詩に見える表現に近いでしょう。
曹操も曹植も、『焦氏易林』から言葉を摂取していた可能性があります。
それは、彼らの文学活動が民間芸能と近かったことを物語っているかもしれません。
2025年9月22日
曹植「与楊徳祖書」の主題
昨日からの続きです。
「文学の自覚」を巡って、鈴木虎雄も魯迅もともに言及しているのが、
「文章は経国の大業、不朽の盛事」とうたう曹丕の「典論論文」(『文選』巻52)であり、
これとは一見相対峙するかのようである、“文学は小道”という曹植の主張です。
(もっとも鈴木も魯迅も、これは曹植の本心ではないと言っていますが。)
鈴木虎雄・魯迅の示した曹植の主張は、
彼の「与楊徳祖書」(『文選』巻42)にいう「辞賦小道」に由ります。
けれども、この文章は必ずしも文学評論をその趣旨とするものではありません。
曹植はこの書簡文の中で、楊修に自身の辞賦作品の添削を依頼します。
今往僕少小所著辞賦一通相与。
今 私が年少のころから著した辞賦一束をお送りいたします。
そして、その自作の辞賦について次のように謙遜します。
夫街談巷説、必有可采、撃轅之歌、有応風雅、匹夫之思、未易軽棄也。
そもそも街角での談話にも必ず取るべき何かがあり、
轅を撃って歌う民間歌謡にも風雅に合致するものがありまして、
つまらぬ男の思いにも、軽々しく捨てるわけにはいかないものもあります。
「辞賦小道」は、これに続いて登場するフレーズです。
辞賦小道、固未足以揄揚大義、彰示来世也。
辞賦は小道であって、もとより大義を称揚し、未来に顕彰するには足りないものです。
そして、このことを具体的に展開させて、
揚雄が彫虫篆刻の児戯である辞賦を「壮夫は為さず」としたことと、
藩侯としての地位にある者として、その任務を全うしたいという自身の志が記されます。
加えてこの後に、もし藩侯としての仕事が実を結ばなかった場合は、
著述に尽力したいとの志が語られています。
ここにいう著述とは、
「采庶官之実録、辯時俗之得失、定仁義之衷、成一家之言」
すなわち、思想的、学術的な著述をいいます。
このように見てくると、
曹植のこの書簡文の趣旨が「辞賦は小道」の主張でないことは明白ですし、
(そもそも辞賦に価値がないと思うなら、楊修に添削を依頼したりしないでしょう。)
彼の価値観は、曹丕「典論論文」の趣旨とほとんど重なり合うことが知られます。
2025年9月21日
魯迅と鈴木虎雄
魏における「文学の自覚」をめぐる言説が、
魯迅と鈴木虎雄との間でよく似通っていることは昨日述べました。
その中で、曹植「与楊徳祖書」にいう“文章は小道”に対して、
両者はそれぞれ次のように言及しています。
まず、時期的に先行する鈴木虎雄の評論にはこうあります。*1
曹植の与楊徳祖書には辞賦についての説を為せり。其の言ふ所によれば辞賦を以て小道とし重んずるに足らずとなすに似たり、曰く……
之によれば植は寧ろ文筆よりも直接に事功を樹てんとし、若し事功を樹つるを得ずんば書を著はし一家の言を為さんと言ふなり。然れども是蓋し激するあるの言にして真に辞賦を以て小道取るに足らずとなすに非るべし。彼は寧ろ文学者として成功せるものなり。……
続いて、魯迅の評論を、
昨日に続き、竹内好による通釈で示せば次のとおりです。*2
曹丕は、文章によって名声を千載に残すことができる、と申しましたが、子建(曹植)は反対に、文章は小道で、論ずるに足りない、と言いました。しかし私の考えでは、この子建の論は、たぶん本心ではないと思います。それには、原因が二つあって、第一に、子建は文章がうまい。人といものは、とかく自分のやることには不満で、他人の仕事を羨むものであります。……第二に、子建の目的は政治活動にあったが、政治のほうではあまり志を得られなかったので、それで文章は無用だというようになったのであります。
このように、“文章は小道”をめぐっても、両者の論説はよく似ています。
魯迅が鈴木虎雄の評論に触れていた可能性は非常に高いと言えます。
(あるいは、このことはすでに先人によって指摘されているかもしれません。)
魯迅が日本文学から多くのインスピレーションを得ていたことは、
秋吉收『魯迅 野草と雑草』(九州大学出版会、2016年)が詳述するところですが、
もしかしたら文学作品のみならず、その文学評論においても、
魯迅は日本の論壇に注目し、それらから摂取していたのかもしれません。
彼はどのような文献に目を通していたのでしょうか。
2025年9月20日
*1 鈴木虎雄『支那詩論史』(弘文堂書房、1927年)所収「魏晋南北朝時代の文学論」p.42を参照。本論文の初出は『藝文』1919年10月―1920年3月。
*2 竹内好編訳『魯迅評論集』(岩波文庫、1981年)p.168~169を参照。原文を魯迅「魏晋風度及文章与薬及酒之関係」(『魯迅全集3・而已集』人民文学出版社、1981年)p.504によって示せば、「曹丕説文章事可以留名声于千載;但子建却説文章小道、不足論的。拠我的意見、子建大概是違心之論。這里有両個原因。第一、子建的文章做得好、一個人大概総是不満意自己所做而羨慕他人所為的、……第二、子建活動的目標在于政治方面、政治方面不甚得志、遂説文章是無用了」と。この文章の初出は、国民党政府広州市教育局主催で、1927年7月に広州で開催された広州市立師範学校講堂で行われた開幕式での講演録である。前掲『魯迅全集3』p.517注(2)を参照。
「文学の自覚」をめぐって
過日、魯迅が魏の文学を、
「文学の自覚」という語で文学史的観点から評したことに触れました。
この評語に関して、張朝富氏の論著に次のような指摘がありました。*1
以下、日本語で通釈したものを引用します。
我が国における「文学の自覚」説は、魯迅の「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」に始まる。この文章は、1927年、魯迅が広州で行った講演の原稿であり、後に同じ題名で発表された。
この説を最も早く提示したのは魯迅であるのかどうか。このことについて、ある人は異議を唱えている。というのは、夙に1920年、日本人の鈴木虎雄が、日本の雑誌『藝文』に発表した「魏晋南北朝時代の文学論」の中で、明確に「魏は中国文学の自覚の時代だ」と論じているからである。
張朝富氏が示された鈴木虎雄の評論は、
『支那詩論史』(弘文堂書房、1927年)の第二篇「魏晋南北朝時代の文学論」で、
本書の序によると、初出は1919年10月から翌1920年3月の『藝文』だとのことです。
その第一章は、たしかに「魏の時代―支那文学上の自覚期」と銘打たれ、
この説を裏打ちする具体例として上げられたのが、曹丕の「典論論文」であること、
また、相対立する主張を述べる曹植の「与楊徳祖書」に言及する点も含めて、
鈴木の所論は、魯迅の前掲の文章とまったく一致しています。
魯迅の前掲講演録には、こうあります。*2
ちかごろの見方で申しますと、曹丕の時代というものは「文学の自覚時代」であった、ということができます。あるいは、かれは、このごろよくいう「芸術のための芸術」派でありました。
この言い方からすると、
いわゆる「文学の自覚」は、魯迅自身が創出した評語ではなく、
すでにある程度流布していた「ちかごろの見方」だということになります。
魯迅のいう「ちかごろの見方」とは、
鈴木虎雄の所論を指していうものであった可能性がないとは言い切れません。
2025年9月19日
*1 張朝富『漢末魏晋文人群落与文学変遷―関於中国古代『文学自覚』的歴史闡釈』(巴蜀書社、2008年)p.3を参照。
*2 竹内好編訳『魯迅評論集』(岩波文庫、1981年)p.168を参照。
偏義複詞の「有無」
曹植「鼙舞歌・冬篇」を読んでいて、
「太官供有無」という意味の取れない語に遭遇しました。
「太官」は、宮中の食事を掌る役人のことで、
たとえば『漢書』巻19上・百官公卿表上の顔師古注に、
「太官、主膳食(太官は、膳食を主る)」と説明があるので分かります。
すると、「供」は酒や食事を供給するということなのでしょう。
わからないのが「有無」です。
「有りや無しや」ではまったく意味が通じません。
そこでふと思い出したのが、かつて読んだ白居易詩の表現でした。
「寄微之」詩(『白氏文集』巻10、0496)に、次のような句が見えています。
努力各自愛 努力して各ゝ自愛し、
窮通我爾身 我と爾との身を窮通せん。
ここにいう「窮通」は、
この語が通常意味する困窮と栄達とではなく、
もっぱらその「通」の方、栄達することの方を意味しています。
すると、前掲白詩の二句を通釈すれば、
「各々自らを大切にし、君と私との未来が開けるよう、がんばろう」
のようになるでしょう。
曹植「孟冬篇」の「有無」もこれと同じように捉えて、
「ありったけのもの」という意味に取ることはできないでしょうか。
以上のことは、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.279に、
有無、偏義複詞、此処只取其「有」義、謂宮中所有的酒肉飯食。
と指摘されていることに導かれたものです。
2025年9月18日
曹植「種葛篇」「浮萍篇」の文学史的意義(承前)
曹植の楽府詩を文学史的に捉えようとしたとき、
その前段階に位置しているのは、言うまでもなく漢代の文学です。
では、その漢代、文学はどのようであったと捉えるのが妥当でしょうか。
漢代は、辞賦と四言詩が主流であった時代です。
ですから、魏の建安文壇における五言詩歌の勃興は特筆すべきことでした。
けれども、この現象は突如として起こったわけではありません。
漢代文学の表舞台で、辞賦や四言詩が盛行していたのに並行して、
いわばその裏で、宴席という娯楽的空間を充たしていたのが五言詩歌です。
漢末に位置する建安文壇は、この漢代宴席文芸の発展的後継者であると言えます。*
曹植の楽府詩も、その初めは建安文人たちとの交流の中で育まれました。
そしてその後半生、友からも兄弟たちからも切り離された境遇の中で作られたのが、
先日来話題にしている楽府詩「種葛篇」「浮萍篇」です。
だとすると、曹植のこれらの作品の文学史的意義は、
漢代宴席文芸である古楽府と対置させてこそ浮かび上がってくるはずです。
曹植作品が持つ、意図的に構えられたダブルミーニングという特徴は、
漢代の詠み人知らずの古楽府にはおおよそ認められないものです。
(ただし、民間歌謡が持つ言葉遊び的なダブルミーニングは除きます。)
また、漢代、自ら表立って楽府詩に手を染める知識人はいませんでした。
(曹操の楽府詩制作がどれほど斬新なことであったことか。)
楽府詩という、宴席で共有されてきた詩歌ジャンルの枠組みに、
きわめて個人的な思いを、緻密な意図をもって載せた曹植の上記二作品は、
楽府詩史上、初めて現れ出たものであったと言えます。
曹植の楽府詩「種葛篇」「浮萍篇」は、
漢代宴席文芸からの系譜上に於いて捉えるのが妥当だと考えます。
2025年9月17日
*柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)第六章「建安文壇の歴史的位置」を参照されたい。曹操の楽府詩制作の歴史的意義についても論じている。
曹植「種葛篇」「浮萍篇」の文学史的意義
先日書いたことの続きです。
曹植の「種葛篇」「浮萍篇」は、
夫の愛情を失った女性の悲しみを詠ずる典型的な閨怨詩であると同時に、
兄の曹丕に対する曹植の思いが重ねられた詩でもあります。
このことは、これまでにも指摘してきたとおり、
主に『詩経』の踏まえ方を通して、明確にそれと知られますが、
それは夙に、朱緒曾、黄節、古直といった人々が指摘しているところです。
すでに先人が指摘しているのであれば、
これらの楽府詩が二重の意味を持つことを論じる意味はないでしょうか。
それがそうでもありません。
というのは、こちらには、曹植作品を文学史上に位置づける、
魏の文学の新しさを、曹植の前掲二作品を通して明らかにする、という、
先人にはなかった視座があるからです。
三国魏の時代には、従前にはなかった文学的動向が生じました。
この時代の文学の新しさは、しばしば「文学の自覚」といった言葉で表されます。*
けれども、この視点は主に、文学評論を対象とした研究での話のようです。
魏の文学が画期的である所以を、もっと具体的に明らかにできないか。
前掲二首の楽府詩に着目することは、そうした新しい視点になり得ると考えます。
(続く)
2025年9月16日
*魯迅「魏晋風度及文章与薬及酒之関係」(『魯迅全集3・而已集』人民文学出版社、1981年)p.504に、「用近代的文学眼光看来、曹丕的一個時代可説是“文学的自覚時代”、或如近代所説是為芸術而芸術(Art for Art’s Sake)的一派」と。
研究方法の流行り廃り(改め)
昨日、研究手法に流行り廃りもない、と言ったばかりですが、
その後ふと思い至ることがありました。
そういう自分も、その大きな流行り廃りの中にいるじゃないか、と。
私は、作品の表現を通して、その作者が何を思っていたのかを探究したい。
こうした興味関心の持ち方は、自分が研究対象としている時代の人々には希薄でした。
自分は、作品を通して作者の魂に触れることに引かれますが、
このような視角からのアプローチは、大枠、近代以降のうねりの中にあるものでしょう。
その中で、これを乗り越え、別の方向を模索する研究が登場してきている、
それが、昨今の研究動向なのかもしれません。
今を時めく主流的研究手法とは、要するに、
その時代の基本的なものの捉え方、大枠に沿っているということです。
大事なのは、その大きな枠組みの中に自身が位置していて、
時代の思潮から多かれ少なかれ影響を受けていることに自覚的であるかどうか。
そこが慎重を期するところなのだと思い直しました。
清朝考証学の先達たち、明代、唐代、更に遡って六朝期の先達たちも、
やはりそれぞれの時代特有の傾きと盲点とを持っています。
けれども、そうしたものを差し引いてもなお残るものがあります。
それが、たとえば『文選』李善注のような、典故表現の指摘だったりします。
自己流の解釈は、時代が移ろえば、また忘れ去られるかもしれません。
けれども、学術的な指摘というものは残ると考えます。
2025年9月15日
研究方法の流行り廃り
研究方法に流行り廃りもない、と私は思っているのですが、
どうも事実としてあるらしいと認めざるを得ないことに遭遇しました。
曹植に「浮萍篇」「種葛篇」という楽府詩があります。
この両作品は、かつて何度か言及しているとおり、典型的な閨怨詩です。
閨怨詩とは、夫と離別した女性の悲しみを詠ずる詩で、
漢代の宴席では、こうした内容を持つ五言詩や楽府詩が盛行しました。
そうした漢代宴席文芸の末裔である建安文壇でも同様であって、
曹植の作品もその系譜上に置いて理解できます。
けれども、そのような典型的な閨怨詩に、
兄弟の離別を重ね合わせているのが曹植の前掲作品です。
(詳細は、たとえばこちらをご覧ください。)
それは、読者側が想像力を働かせて創出した解釈ではなく、
その作品が表現上踏まえている『詩経』の意味を押さえることによって、
自ずから立ち現れてきたものなのです。
古典に基づくこうした典故表現について、
たとえば清朝の朱緒曾『曹集考異』、
黄節(1874―1935)の『曹子建詩註』、
古直(1885―1959)の『曹子建詩箋』には、
的確な内容の指摘が多く、しばしば重要な示唆を受けます。
けれども、最近の研究動向を見ると、
(特に現代中国では)こうした視点からの研究はあまり見かけません。*
古典に沿って小さな自分を措いて読んでいると、
作品は時として思いもよらなかった姿を現してくれます。
自分の予測を越えてくるそれに遭遇したときは身震いします。
たとえ流行っていなくても、
自分が本当に面白いと思う道を進むだけのことです。
2025年9月14日
*他方、台湾の曹海東『新訳曹子建集』は、上述の伝統的研究方法を継承しているように見受けられます。私もこちらに左袒する者です。