昨日の続き
曹植の宴の楽府詩「箜篌引」は、
西晋王朝においては「野田黄雀行」のメロディで歌われました。
この「野田黄雀行」という楽曲は、
王僧虔「技録」(『楽府詩集』巻36に引く)には「瑟調」として記録されていますが、
『宋書』楽志三には、「大曲」として収録されています。
(こちらの「楽府関係年表」をご参照ください。)
「大曲」は、広義の「清商三調(平調・清調・瑟調)」に含まれると見てよく、
「清商三調」は、西晋の荀勗が、漢魏の旧歌辞から選定したものである、
よって、「大曲」に属する歌辞の選定やアレンジは、荀勗の手になるものである、
とこれまで考えてきましたが、本当にそう言えるでしょうか。
こちらの「漢魏晋楽府詩一覧」をご覧ください。
『宋書』楽志三に「大曲」として収録された歌辞十五篇は、
『楽府詩集』などに引用されて伝わる「荀氏録」には全く言及が見えません。
他方、同じ『宋書』楽志三に「平調」「清調」「瑟調」として収録される歌辞は、
「荀氏録」に記されたところと多く重なり合っています。
(「荀氏録」所収歌辞の方が、集合体としては大きいですが。)
このことを改めて確認して、少し青ざめました。
ですが、後から考えるに、
『宋書』楽志にいう「大曲」が、現存する「荀氏録」と一篇も重ならないということは、
荀勗が「大曲」の選定をしたのではないということの証明にはなりません。
そのことを記した部分がまるごと、今に伝わっていない可能性も考えられるでしょう。
それではまた。(迷走中)
※「大曲」については、鈴木修次『漢魏詩の研究』(大修館、1967年)p.160,165,211,223,224など、増田清秀『楽府の歴史的研究』(創文社、1975年)p.89―96に詳しい論及がある。
2020年4月2日
鎮魂歌となった宴の歌
本日、「野田黄雀行」の訳注を公開しました。
その第3・4句「利剣不在掌、結友何須多」は論者によって解釈が分かれますが、
私は、大上正美『思索と詠懐(中国古典詩聚花)』(小学館、1985年)に多く拠りました。
伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)とは異なる捉え方です。
さて、過日訳注を公開した「箜篌引」は、
西晋王朝の宮中で、この「野田黄雀行」の曲でも歌われました。
『宋書』巻21・楽志三に収録する「野田黄雀行・置酒」の楽府題の下に、
「箜篌引亦用此曲(「箜篌引」は亦た此の曲を用ゐる)」と記されているとおりです。
では、「箜篌引」はなぜ、「野田黄雀行」のメロディで歌われたのでしょうか。
これは、もともとこのように多彩な演奏様態が取られていたのではなく、
西晋の荀勗によって、このようなアレンジが加えられたと見るのが妥当だと考えます。
以前にも触れたとおり、『宋書』楽志三にはこうあります。
清商三調歌詩 荀勗撰旧詞施用者(荀勗の旧詞を撰して施用する者なり)。
そして、「箜篌引」すなわち『宋書』楽志三所収の大曲「野田黄雀行・置酒」は、
ここにいう「清商三調歌詩」の中に含まれるものと見られます。
明確な論拠を示すことができるかわかりませんが、
もしかしたら荀勗は、宴席の情景を詠じた「箜篌引・置酒高殿上」を、
「野田黄雀行・高樹多悲風」の文脈で捉えなおそうと企図したのかもしれません。
西晋の荀勗の時点からは、曹植の宴席に集った人々の末路はすでに見えています。
その宴席風景を「野田黄雀行」のメロディで歌うとはどういうことか。
詩中の人々、そしてその詩の作者も未だ感知していない悲劇的な未来。
「箜篌引」の歌辞が「野田黄雀行」のメロディで歌われるのを聴く西晋王朝の人々は、
このことを悲痛とともに思い起こさずにはいられなかったはずです。
荀勗のこのアレンジは、曹植に対する鎮魂の意味を帯びていたかもしれません。
(曹植「七哀詩」をアレンジした楚調「怨詩行」と同様に。)
「箜篌引」や「野田黄雀行」の具体的な内容は、訳注稿の方をご覧ください。
それではまた。
2020年4月1日
ひそやかな親近感
曹植「箜篌引」に見える「磬折」という語は、
有力者に腰を折り曲げて従うという意味を帯びていると先に述べました。
この「磬折」は、現存する詩歌作品を縦覧する限り、あまり用例を見ない詩語です。*
曹植以前には確認できませんし、
曹植以後では、阮籍「詠懐詩」の中に3例を確認することができるだけです。
(厳密に言えば、曹植「箜篌引」と同じ文脈での用例に限りますが。)
このように用例が少ない中で、
阮籍が「詠懐詩」の複数個所で「磬折」を用いていることは注目に値すると思います。
彼はなぜこの詩語を一再ならず用いたのでしょうか。
今、その一例として、『文選』巻23所収「詠懐詩十七首」其十四を挙げれば次のとおりです。
灼灼西隤日 餘光照我衣
赤々と光を放ちながら西に落ちてゆく夕日、その名残の光が私の衣を照らす。
迴風吹四壁 寒鳥相因依
つむじ風が四方の壁に吹き付けて、寒風に凍える鳥たちは身を寄せ合っている。
周周尚銜羽 蛩蛩亦念飢
こんなときは、周周が羽をくわえ、蛩蛩が飢えを恐れるように、鳥獣でさえ助け合うものだ。
如何当路子 磬折忘所帰
それなのに、なんだって要職にある連中は、腰を折り曲げて帰着すべき本源を忘れているのだ。
豈為夸誉名 憔悴使心悲
どうして虚しい名誉のために、神経をすり減らして悲痛で五臓六腑を傷めつけたりするものか。
寧与燕雀翔 不随黄鵠飛
むしろ卑近な燕雀とともに翔り、大きな鴻鵠になんぞ付き従って飛ぶのはよそう。
黄鵠遊四海 中路将安帰
鴻鵠は四方の大海原に遊ぶが、道の途中で行く手を見失えば、さてどこに帰れようか。
本詩に特に顕著ですが、阮籍「詠懐詩」における「磬折」は、
権力者に媚びへつらい、自身の保身だけに腐心する人間たちの有り様を形容します。
「磬折」という語そのものには本来、負のイメージはなかったはずですが、
(礼儀作法をリアルに書き記す『礼記』での用例が端的に物語っているとおりです。)
それが、曹植「箜篌引」によって屈折を帯びることとなりました。
(これは、『尚書大伝』という出典を指摘した李善注によって示唆されたところです。)
阮籍は、曹植が「磬折」という語に付与したニュアンスを敏感に受け止め、
これを更にデフォルメして用いているように感じられます。
阮籍は、曹植と同様に、
ですが彼とはまた少し違った視角から、
この種の人間をことのほか冷酷に観察していたのでしょう。
ここに、阮籍の曹植に対する敬意とひそやかな親近感とを感じないではいられません。
それではまた。
2020年3月23日
*逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』の電子資料(凱希メディアサービス、雕龍古籍全文検索叢書)によって確認した。
典故の指摘という解釈
曹植「箜篌引」の訳注稿を公開しました。
この作品の中に、「磬折」という語が出てきます。
この語は、たとえば経書の中では、『礼記』曲礼下に、
「立則磬折垂佩(立てば則ち磬折して佩を垂る)」と見えています。
君臣間で物を受け渡しする際の礼儀作法を説いたものです。
語句の説明としては、ここを出典として示すので十分妥当でしょう。
ところが、本詩を収録する『文選』巻27の李善注は、次に示す『尚書大伝』を挙げます。
諸侯来、受命周公、莫不磬折。
天下の諸侯たちがやってきて、周公から命を受け、誰もが腰を折り曲げた。
これを踏まえるとなると、
「磬折」という語は、有力者に対して恭順の姿勢を取るという意味を強く帯び、
それを織り込んだ「磬折欲何求」は、人々のそうした姿勢を軽くいなすニュアンスを帯びてきます。
そして、李善のこの語釈は、彼が本詩の冒頭「置酒高殿上、親友従我遊」に対して、
漢の高祖劉邦をめぐる『漢書』高帝紀下の記述を指摘していることとも響きあっています。
つまり、李善注は曹植「箜篌引」の背景に、
有力者とそのもとに集まる人々という人間模様を浮かび上がらせようとしているのです。
(当時の酒宴には、そうした人間関係はつきものではありましたが。)
李善は、古今の知識には通じているが、自身は文章が作れないため、
世間の人々に「書簏」と呼ばれていたそうです(『新唐書』巻202・文芸伝中・李邕伝)。
「書簏(本箱)」とは、よく文学的感性に乏しい人を揶揄して用いられますが、
はたして李善にこのあだ名はふさわしいものであったかどうか。
文人としても知られる呂向(『文選』五臣注の五人の注釈者の一人)は、
この部分に対して次のような注を付けています。
磬折、曲躬也。言君子以謙徳曲躬於人、固無所求。
磬折とは、曲躬なり。言ふこころは君子は謙徳を以て人に曲躬し、固より求むる所無きなり。
君子は謙譲の美徳で人にへりくだり、もとより何も求めないのだ、という解釈です。
この読みによるならば、本詩中で腰を折り曲げている人々は、無欲で立派な君子たちです。
李善注は、典故を指摘するのみにとどめられる場合が多い。
ですが、彼の感受性は、詳しく解釈を施す五臣に比べてどうでしょう。
少なくともこの詩に関しては、
李善の方が、はるかに深い解釈に踏み込んでいたように私には感じられます。
それではまた。
2020年3月21日
即興と自家類似
曹植作品は、彼の他の作品との間でその辞句を少なからず共有しています。
本日訳注を施した「箜篌引」にも、幾つかの事例が見出せました。
「贈丁廙」や「贈徐幹」といった作品との間に同一句や類似句が見出せたりすると、
そこから「箜篌引」の成立年代が推し測れるのではないかと思ったりもします。
丁廙は曹丕が魏王となった年(220)に、徐幹は建安22年(217)に亡くなっているので、
それと近い時期に本詩も作られたのではないかという見通しです。
他方、文帝期(黄初年間)の作である「大魏篇(鼙舞歌)」との間にも、
本詩は同一句を共有しています。
すると、建安年間の最末期頃の成立という仮説が立つかもしれません。
そもそも、同じような辞句が随所に現れるとはどのような場合なのでしょうか。
曹植は沈思黙考型の文人ではなく、
即興で言葉が次々にあふれ出てくるようなタイプの詩人であったようです。
そうした人の場合、
比較的最近生まれた表現が、
まだ彼の記憶の中に残っている間に、
別の作品にも顔を出すということがあるかもしれません。
自身の表現をなぞるというよりも、
また、何かを意図して過去の自分の表現を踏まえるというのでもなくて。
どうでしょうか。*
それではまた。
2020年3月19日
*趙幼文『曹植集校注』(人民出版社、1984年)は、本詩を明帝期の作と推定しています。
注釈が持つ時代性
昨日、古典の原典と、現代日本語による訳注とについて、
最近、前者のみならず、後者をも参照するようになったことを書きました。
ですが、日本語による訳注を参照しては誤る場合もあります。
それはこういうことです。
たとえば『文選』所収の作品を読むとしましょう。
初唐の李善による『文選』注は、作者が意識したであろう古典を指摘しているので、
李善注に従って本文を読解してゆけば、近いところまでたどりつけます。
ところが、李善が指摘する古典が難解すぎてよく読めない、
そこで、現代日本語による訳注を手掛かりに、李善注に示された古典を読解するとしましょう。
その場合、その現代の訳注が何に依拠しているかが問題となるのです。
たとえば儒教の経典のような古典中の古典には、歴代の学者が注釈を施しています。
そして、現代人による訳注が、そのいずれの時代の注釈に拠っているのか、
このことに注意する必要があると思うのです。
そうでなければ、その古典を踏まえた作品は、作者が思い描いた本来の姿を見せてはくれません。
たとえば、近世宋代の注釈に拠って古典を解釈し、
それに基づいて、その古典を踏まえた中世六朝期の作品を読み解くことは不可でしょう。
以上のことは、とても当たり前のことのように思われるかもしれません。
けれども、同質の誤りを無意識のうちに犯している場合もないではないと思います。
たとえば、李善注の少し後に出た『文選』五臣注。
その中には、もしかしたら唐人ならではの解釈かと思われるものも含まれています。
ですが、私たちはあまり深く考えず、それを参照して難解な本文を理解したりもしています。
(李善注に比べて、五臣注はわかりやすくかみ砕いて解釈してくれますから。)
本文に収斂していくことを旨とするはずの注釈でさえ、
その注釈者が生きた時代固有の価値観を帯びているものだと思います。
そのことに意識的でないと、作者自身が思い描いた表現世界から乖離してしまうでしょう。
もっとも、作品の解釈は読者の側にゆだねられているという考え方もあります。
私は、こと古典文学に関しては、まず対象に寄り添ってこそ面白くなるという考えです。
それではまた。
2020年3月18日
原典の読解と翻訳の閲覧
曹植作品に見える典故表現の原典に当たる際、
最近になって、日本語による訳注本をも参照するようになりました。
こんなことは至極当たり前のことなのかもしれませんが、
私はこれまで、たとえば儒教の経典だったら「十三経注疏」所収のものをまず見て、
翻訳や日本語による注釈などは努めてこれを見ないようにしてきたのです。
最近、こうした先人の研究成果を参照するようになって、多くのことを教えられています。
読み解くことを省力化しているのではなくて、先達に教えを受けていると思えばいいのですね。
このように、ある意味傲慢な態度でこれまでやってきたのですが、
(太古の昔から伝わる古典を自力で読めるはずだと思っているわけですから。)
若い頃から訳注本にすぐ手を伸ばすことを自ら禁じてきたことはあまり後悔していません。
時にとんでもない誤解をするし、得られた知識の量も比較的少ないと思いますが、
古典を素手でつかむという体験はやっぱり何物にも代えがたいものです。
それに無知なりに原典を読んできたある種の飢餓感があればこそ、
先達の教えをありがたく受けることができます。
そういえば、大学時代の『文選』李善注の演習で、
ある同学が、人名をそれと知らずに、なんとか意味のある文に訳したことがあります。
その時、恩師の岡村繁先生は破顔一笑され、それでいいのや、と言われた。
また、本文の通釈がなかなか適切なところに着地しないときに、
はじめて先行する訳注本を学生に確認させ、その是非をコメントされていました。
定説をひっくり返す先生の新見地は、このような地道な研究から生まれたと思っています。
それではまた。
2020年3月17日
叔父と甥
曹植「怨歌行」について、その作者を明帝曹叡だとする説があります。*
(この作品の作者説をめぐっては、以前にも少し考えてみたことがありますが、それとは別に。)
『宋書』巻22・楽志四、「漢鼙舞歌五篇」に続けて示された「魏鼙舞歌五篇」の最後に、
「為君既不易」という、曹植「怨歌行」の第一句と同じ詩題が挙がっており、
これらの鼙舞歌辞について、陳の釈智匠『古今楽録』(『楽府詩集』巻53に引く)が、
漢曲五篇:一曰「関東有賢女」、二曰「章和二年中」、三曰「楽久長」、四曰「四方皇」、五曰「殿前生桂樹」、並章帝造。
魏曲五篇:一曰「明明魏皇帝」、二曰「大和有聖帝」、三曰「魏暦長」、四曰「天生烝民」、五曰「為君既不易」、並明帝造、以代漢曲。其辞並亡。
と記し、「為君既不易」を含む魏の鼙舞歌辞の作者を「明帝」としていることに拠ります。
もっともこれは、明帝の治世下で作られた、と捉える方が妥当かもしれません。
(後漢の鼙舞歌辞が「章帝造」とされているのと同様に。)
それで、少し引っかかったのが、「其の辞は並びに滅ぶ」と記されていることです。
六朝末の時点で本当にその歌辞がすべて散逸していたのか、
それとも陳の釈智匠がたまたま目睹できなかっただけなのかは不明ですが、
もし如上の記述が事実であるならば、
魏の鼙舞歌辞として歌われた「為君既不易」は、
同じ句を冒頭に置く曹植「怨歌行」とは別ものだということになります。
曹植「怨歌行」は現在に至るまで伝わっているのですから。
(より端的には、陳に近い初唐の類書『藝文類聚』巻41に引かれて伝存が確認できます。)
もし仮に上述のとおりだとして、
別の歌辞でありながら第一句を共有しているとはどういうことでしょうか。
曹植「怨歌行」と魏「鼙舞歌・為君既不易」とが同じ古辞に基づいた、
もしくは、曹植「怨歌行」がアレンジされて魏の鼙舞に用いられ、それが亡びた、
あるいは、魏の鼙舞歌辞を曹植「怨歌行」が取り込み、曹植作品のみが後世に伝わった、
等々、いろいろな仮説が立つとは思います。
が、これ以上は遡れません。
ただ、それでも興味を惹かれるのは、
これが曹植と明帝曹叡とのつながりの一端を示しているように感じられるからです。
(二人の関係については、以前にも少し考えてみたことがあります。)
ちなみに、曹植が名誉を回復し、その作品が大切に保存されることとなったのは、
明帝の末年、景初中(237―239)の詔によってでした。(『三国志』巻19・陳思王植伝)
それではまた。
2020年3月16日
* 逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1983年)巻6、p.426に指摘する。
著者を知りたくなる論文
出自未詳の蘇李詩を追いかけている中で、
にわかに気になってきたのが『古文苑』という総集のことです。
この書物は、『文選』や歴史書には見えない作品を多く収録しています。
ですから、これまで私は、その信憑性を深く吟味することもなく便利に用いてきました。
ですが、それでよかったのか。
この書物が収録する作品はどこから採られたものなのか。
『古文苑』の素性を知りたいと、自分なりに調べてみましたが、今ひとつ埒が明かない。
ところが、本日、次の論文に出会いました。
阿部順子「『古文苑』の成書年代とその出所」(『日本中国学会報』第53集、2001年)です。
実に多くのことを教えられました。
(学会報が出たときに、なぜすぐに読まなかったのか、過去の自分を叱りたい。)
その考証は非常に精緻で、論の背後にどれほどの調査や考察が為されていることか。
そして、論を運ぶ文章がまた硬質で美しい。
このような論文を書かれたのはどんな人かとCiNiiで検索してみると、
阮籍に関する論考もおありのようです。
自分との接点をひとつ見つけてうれしくなりました。
面識のない執筆者に強くひきつけられる感覚は、実に久しぶりのことでした。
自分もしっかりしないと。
それではまた。
2020年3月12日
先人のご教示
先週、右往左往した結果、結局わからなかった蘇李詩の真偽について、
鈴木修次『漢魏詩の研究』(大修館書店、1967年)に詳しい論及がありました。
第二章・第四項の四「伝蘇武・李陵詩考」の、特にp.326~330です。
鈴木氏も、馮惟訥『古詩紀』が『文選』所収詩のみを蘇武・李陵の作とし、
『古文苑』に引かれている諸作品を「擬蘇李詩十首」として収録することを捉えて、
「注意するにあたいする」と記されています。(p.326)
さらに、このことに関する但し書きとして、
蘇李詩が『藝文類聚』『北堂書鈔』『初学記』といった類書に引用される場合、
上記の『文選』所収詩と『古文苑』所収詩の間に特段の区別がなされていないことも、
公平に指摘されています。
先に紹介した拙論(学術論文№28)は、『文選』所収作品に限定して論じたものですが、
そのように範囲を狭く区切ったのは、この先人の論から示唆を受けてのことでした。
(注でそのことを記しながら、すっかり忘れていました。)
ただし、鈴木氏は『古文苑』所収の蘇李詩を擬古的な作品だと断言してはいませんから、
私の注記はやや的外れというか、武断に過ぎるというか。。。
(私の至らなさは言うまでもないことなので措いておくことにします。)
鈴木先生の本は、示唆に富む指摘やヒントを惜しげもなく分け与えてくださいます。
そして、それを一度読んだからといって、こちらがすべてを咀嚼しているとは限りません。
ご教示を受け取れる時が熟するのを、ゆったりと待ってくださっているのだと思います。
それではまた。
2020年3月11日