重ねて昨日への追補
作者が曹植か古辞かで揺れている楽府詩として昨日挙げた「怨歌行」と「君子行」。
両詩歌には、周公旦への言及が認められるという共通点があります。
周の文王の息子、武王の弟であり、武王の跡を継いだ成王を補佐した周公旦は、
魏の武帝曹操の息子、文帝曹丕の弟であり、曹丕の跡を継いだ明帝の代まで生きた曹植と、
その王朝との血縁関係において強い共通性を持っていることは一昨日にも述べました。
実際、曹植の作品の中には、周公旦の事蹟に触れるものが少なくありません。
たとえば、「豫章行」二首(『藝文類聚』巻41、『楽府詩集』巻34)、
また、「求通親親表(親親を通ぜんことを求むる表)」(『文選』巻37)など。
このことは、彼自身がこの古人に対して強い関心を寄せていたことを物語っています。
とすると、逆に、元来が詠み人知らずの歌辞であっても、
周公旦への言及があるということから、曹植に結び付けられたケースもあったと想像されます。
ところで、西晋王朝の宮廷歌曲「清商三調」(『宋書』巻21・楽志三)の中に、
曹植の「七哀詩」(『文選』巻23)に基づく、楚調「怨詩行・明月」がありますが、
その末尾の第七解は、先日来話題にしている「怨歌行」の結び四句をそっくり取り込んだものです。
取り込まれた部分は、宴会歌謡に常套的な言葉を並べたに過ぎないものと見えます。
ですが、「怨歌行」の中核を占めるのは、周公旦の成王輔佐をめぐる出来事を詠ずるものです。
それならば、楚調「怨詩行・明月」には、「怨歌行・為君」の主題も重ねられている、
と見ることもできるかもしれません。
「清商三調」は、西晋の荀勗が旧歌辞から選んで宮廷歌曲に適用したものだ、
と『宋書』楽志には記されています。
楚調「怨詩行・明月」も、荀勗によってアレンジされた作品である可能性が高いでしょう。
他方、同じ荀勗が「怨歌行・為君」を古辞としていたことは昨日述べたとおりです。
こうしてみると、荀勗は古辞「怨歌行」を、曹植の境遇をよく象徴する内容の歌辞と見て、
曹植を追悼する「怨詩行・明月」*に取り込んだと考えることが許されるでしょう。
それではまた。
2020年2月5日
*こちらの学術論文43をご参照いただければ幸いです。
昨日の追補
昨日、「怨歌行」は曹植の作と見るのが最も妥当と述べましたが、
詩の全文を収録する文献がいずれも曹植作としているから、では論証になっていませんね。
曹植に近い時代、西晋の荀勗が「古為君(古辞の“為君”の歌)」としていることには、
一定の注意を払う必要があると思いなおしました。
また、昨日紹介した『楽府詩集』巻41に引く『楽府解題』を改めて示せば次のとおりです。
古詞云「為君既不易、為臣良独難。」
言周公推心輔政、二叔流言、致有雷雨伐木之変。
(以下は、梁の簡文帝の作品などに話題が移るので省略する。)
「怨歌行」の古辞に「君たるは既に易からず、臣たるは良(まこと)に独り難し。」とあるが、
これは、周公旦が誠心誠意、成王を輔政したのに、管叔・蔡叔が根も葉もないうわさを流し、
ついに雷雨が樹木をなぎ倒すという天変が起こった、という趣旨である。
ここに紹介されている「古詞」は、その概要から見て、
『藝文類聚』や『楽府詩集』が曹植作として採録する「怨歌行」に同じと判断されます。
つまり、『楽府解題』は「怨歌行」の全文をとらえて古辞としているのであって、
この点、初めに述べた昨日の推定結論とは相容れないのです。
ただし、『楽府解題』という書物の信憑性については疑問符が付きます。
このことは、かつて中津濱渉氏の論著*を手引きとして調べ、指摘したところです。
(こちらの学術論文17、及び著書4の特にp.299~304をご参照ください。)
さて、仮にもしこの「怨歌行」が曹植の作だとして、
それを、近い時代の人々からして既に古辞と見ていたのはどういうわけでしょうか。
ひとつには、曹植の楽府詩の中には、
世間に流布する諺語をそのまま取り込んだものが少なくないことが挙げられるでしょう。
たとえば、以前取り上げた「当牆欲高行」にいう「衆口可以鑠金」など、
その顕著な例だと言えます。
また、「怨歌行」と同じく、作者が曹植と古辞との間で揺れているものとして、
「君子行」(『楽府詩集』巻32では古辞、『藝文類聚』巻41では曹植の作)も挙げられます。
結局、よくわかりませんでした。
「怨歌行」は曹植の作である可能性が高い、と言うところまでがやっとです。
(表現の特徴から推定することもできるかもしれませんが、今は措いておきます。)
言った先からもう追補。しかも結論は相変わらず見えないまま。
とはいえ、言葉にすれば、ほころびが見え、更にそこから先へころがっていけますから。
それではまた。
2020年2月4日
*中津濱渉『楽府詩集の研究』(汲古書院、1970年)の「引用書考」p.583~585。
楽府詩「怨歌行」の作者
為君既不易 君主であることはもちろん容易くないが、
為臣良独難 臣下であることは実にひとえに困難なことである。
このように歌い起こす曹植の「怨歌行」は、
周公旦の成王輔佐を例に、臣下として誠意を通すことの困難を詠じています。
周公旦については、以前こちらでも触れましたが、
この人物と曹植との間には、その境遇に似通ったところがあります。*1
ですから、この作品を通して、曹植その人に一歩近づけるのではないかと期待できます。
ところが、この楽府詩の作者については、古来さまざまな説があって、
この問題を抜きにしては先へ進むことができません。*2
そこで、いずれの説がより妥当なのか、改めて検討してみました。
この「怨歌行」を曹植の作とするのは、『藝文類聚』巻41、『楽府詩集』巻42です。
(これらの資料の信憑性については過日触れたところです。)
両文献とも、その全22句を採録しています。
これを「魏文帝詩」とするのは『北堂書鈔』巻29で、引用は冒頭の2句のみです。
また、『太平御覧』巻621は「古詩」として同じ2句を引いています。
他方、『楽府詩集』巻41「怨詩行」に引かれた諸文献では、
『古今楽録』に引く王僧虔「技録」に「荀録に載せる所の古「為君」一篇、今は伝わらず」、
『楽府解題』に「古詞に云ふ「為君既不易、為臣良独難」は、周公は推心輔政するも、二叔は流言し、雷雨伐木の変有るを致すを言ふ……」といい、
これらの文献では作者不明の古辞となっています。*3
前掲の「怨歌行」冒頭の二句は、『論語』子路篇に引かれた「人の言」、
「為君難、為臣不易(君為ること難く、臣為ること易からず)」を踏まえていますから、
もしかしたら、この部分のみ、諺的フレーズとして流布していた可能性もあります。
こうしてみると、「怨歌行」の全文を引く古い文献は曹植の作とし、
冒頭の二句のみを引く文献は、曹植以外の作者としている。
以上から、「怨歌行」の作者は、曹植と見ることが最も妥当だと言ってよいでしょう。
なお、明代の『古詩紀』が、上記の「技録」等に従って古辞とすることは措いておきます。
それではまた。
2020年2月3日
*1 矢田博士「境遇類似による希望と絶望―曹植における周公旦及び屈原の意味」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』別冊文学・芸術学編19、1993)を複写依頼中。
*2 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.172~173に論及があるが、決定的な論拠が示されているわけではない。
*3 楽府詩に関する諸文献の成立年代などについては、こちらの資料「楽府関係年表」を参照されたい。
※「怨歌行・為君」の作者については、曹道衡「論『文選』中楽府詩的幾個問題」(『国学研究』第3巻、1995年)に論及がありました。曹道衡氏の所論では、この楽府詩を曹植の作とすることに懐疑的です。(2020.04.03追記)
昨日の訂正
昨日、曹植作品の現存率は意外に高いのではないかと述べたばかりなのに、
もう翌日の今日、訂正です。情けない限りです。
『曹集詮評』巻8「前録自序」(『藝文類聚』巻55では「文章序」に作る)に、こうあります。
……余少而好賦、其所尚也、雅好慷慨、所著繁多。
雖触類而作、然蕪穢者衆。故刪定別撰、為前録七十八篇。
……わたしは少年の頃から賦を好み、その尊ぶものについては、平素から好んで口にしつつ感激し、自身が著したものも大量にある。
同類の事物に触れて作ったとはいえ、雑然と乱れているものが多い。だから、余計なものを削って本文を定め、分類して編集し、前録七十八篇とした。
ここに曹植自身が記している「七十八篇」とは、現存する賦作品の二倍近い数です。
また、趙幼文『曹植集校注』(人民出版社、1984年)にも指摘するとおり、
ここに「前録」という以上、必ずや「後録」があったはずです。
趙幼文が批判的に引いていた清朝の姚振宗『隋書経籍志攷証』*では、
「魏陳思王曹植集三十巻」に対して、非常に詳細な考証が為されていました。
よく読んで、顔を洗って出直したいと思います。
それではまた。
2020年1月31日
*『二十五史補編』(中華書局、1955年)第四冊、p.5709~5710に収載。
曹植作品の現存率
昨日、現存する曹植作品は、本来の数よりもかなり少ないのだろうと述べました。
ですが、ジャンルによっては、もしかしたら曹植作品の現存率は意外と高いのかもしれません。
晁公武『郡斎読書志』に指摘があったとおり、
『三国志』本伝に記された曹植作品は、「賦・頌・詩・銘・雑論、凡そ百餘篇」です。
今、丁晏『曹集詮評』所収の作品数を数えてみると、
「賦」44篇、「頌」8篇、「詩」33篇*1、「銘」2篇、「雑論」9篇、併せて96篇です。
これは、上記「陳思王植伝」に記されたところとそれほど大きく違うものではありません。
『隋書』経籍志に記された「魏陳思王曹植集三十巻」とは、
上記本伝に記す「百餘篇」に、楽府詩、賛、表、その他の作品を加えたものなのでしょう。
現存する作品で、曹植の文学世界のすべてを把握できるとは考えられません。
ですが、六朝末に成った選集『文選』や、初唐以前に成立していた類書『藝文類聚』『北堂書鈔』、
六朝から初唐までに存在した類書をよく温存している『太平御覧』*2
また、今よりもはるかに多くの作品が残っていた北宋末に編纂された『楽府詩集』、
こうした書物に引かれた曹植作品には、一定の信頼を置いてもよいのだろうと判断できます。
そこに彼の声を聴き取ろうとすることは許されるだろうと思います。
それではまた。
2020年1月30日
*1 同じ詩題のもと、複数の詩篇がある場合は、それぞれ独立した作品として数えた。たとえば、『文選』巻29所収「雑詩」其一~其六は六篇とみなすという具合に。逆に、「贈白馬王彪」を、丁晏は七篇から成る連作詩として採録しているが、『文選』巻24に収録するところに従って、これを一篇として数えた。また、出自が不明瞭な「七歩詩」、詩題も不明な断片的詩篇は除外した。
*2 こちらに注記した勝村哲也氏の一連の論考を参照。
完全ではないという自覚
昨日触れた明版の『陳思王集』は、
現存する諸本の多くとは作品収録の排列が異なっていて、
巻1~4に賦、巻5に頌・賛などの文、巻6に表などの文、巻7に誄などの文、
巻8に楽府詩、巻9に詩、巻10に令などの文、という順番で収録されていました。
たとえば、趙幼文『曹植集校注』が底本にしたという丁晏『曹集詮評』は、
明代の程氏刻本と張溥百三家集本とを基にしているとのことですが、
この『曹集詮評』は、巻1~3が賦、巻4が詩、巻5が楽府詩、その後に文といった具合です。
先日見た『陳思王集』は、いったいどのような系統に位置するものだったのでしょうか。
また、曹植の作品集は明代にまでしか遡れないようなのですが、
それ以前の宋代、書誌学者たちがすでにこの別集の成り立ちに疑義を示しています。*
晁公武『郡斎読書志』巻17は、「曹植集十巻」を著録した上で、
『三国志』巻19「陳思王植伝」に記す「植前後所著賦頌詩銘雑論凡百餘篇」が、
今本(隋唐から巻数が減少)所収の詩文二百篇よりも少ないことを疑問視しています。
陳振孫『直斎書録解題』巻16は、著録する「陳思王集二十巻」について、
二十巻という巻数は、『旧唐書』経籍志や『新唐書』藝文志に一致しているが、
その中には『藝文類聚』『北堂書鈔』『太平御覧』などから採録したものが含まれている、
よって、本書は元来の姿ではないだろうとコメントしています。
曹植集を最初に記録する『隋書』経籍志四には「魏陳思王曹植集三十巻」とありますが、
今見ることができるものは、巻数のみで言えば、その約三分の一です。
曹植に限らず、当時の別集については不明なことばかりです。
だから彼の文学については何も言えない、とあきらめるわけではありません。
現存する作品がすべてではないということを意識する必要がある、と改めて思ったのです。
それではまた。
2020年1月29日
*興膳宏・川合康三『隋書経籍志詳攷』(汲古書院、1995年)を手引きとして調査した。
何も思いつかない日
今日は何も書くことを思いつかない日です。
そんな日はあって当たり前なのに、ちょっと物足りない、
と感じるのは、自分が相手のことを、研究対象と見ているからでしょう。
今日は何も収穫がなかった、というふうに感じているのですね。
過日、内閣文庫で明版の『陳思王集』を閲覧しましたが、
この出版者は、曹植のことを同じ世界に住むちょっと前の人くらいに思っている、
と、その序を書き写しながら感じました。
前近代の人々のコメントを見るたびに、そう感じます。
彼らと自分とは、すでに住む世界が違っている、これは厳然たる事実です。
ですが、古人を“研究対象”と見るのは、相手に失礼だし、浅薄で傲慢なことですね。
本当は理解が及んでいないものを、自分の掌中に載せたつもりでいるのですから。
ところで、東京へ行く機会があれば、
必ず国立博物館の東洋館に立ち寄ることにしています。
何か目当てがあってもなくても、様々な文物に再会するために向かいます。
古い時代の物や言葉には、すぐにはぴんと来ないものが多いです。
彼らはなかなかこちらに心を開いてはくれません。
ですが、ちょっと風変わりな隣人と思って付き合っていけば、
そのうち知り合いに、更には友人になることもできるかもしれません。
それではまた。
2020年1月28日
中央アジアの羽人
東京国立博物館の東洋館で開催中の特別展、
「人、神、自然~ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界~」を観覧し、
その中の「精霊像」(中央アジア/バクトリア・マルギアナ複合、BC3200~BC2700年頃)に驚きました。
背中に羽を生やし、入れ物を手にしたその中央アジアの精霊の姿が、
漢代の、筒のような容器を両手で持っている羽人と非常によく似ていたからです。*1
漢代の羽人は、その容貌が同時代の他の塑像とは著しく異なっています。
とがった鼻、長い耳、後ろに流した髪、細長い手足を持つそれは、
むしろ、先の中央アジアの「精霊像」や、
それと同系らしい同地域の「女性像」(BC2300~BC2000年)と似ています。
紀元前後1世紀頃の漢代の羽人と、先の精霊像とでは、時代がかけ離れていますが、
出土した文物は氷山の一角であって、それ以外の時代に存在しなかったわけではないでしょう。
中央アジアの精霊は、長い歳月を経て東方の中国にもたらされ、
その見慣れない姿かたちがそのまま、羽人として定着したのではないかと想像しました。
この羽人の姿は、漢代詠み人知らずの歌辞「長歌行」(『楽府詩集』巻30)を想起させます。
仙人騎白鹿 仙人は白い鹿に乗って、
髪短耳何長 髪は短く、耳はなんと長いことだろう。
導我上太華 私を導いて西方の太華山に登り、
攬芝獲赤幢 霊芝を摘み、赤幢(薬の材料?)を捕獲した。
来到主人門 主人の門までやってくると、
奉薬一玉箱 奉薬を入れた玉の箱をひとつ捧げる。
主人服此薬 主人はこの薬を飲むと、
身体日康彊 身体が日ごとに健康になっていく。
髪白復更黒 髪の白かったのがまたより一層黒くなって、
延年寿命長 寿命が長く伸びるのだ。*2
神仙は、古代中国人が脳内で作り上げた空想物ではなく、
西方の彼方からもたらされた見知らぬものを、彼らなりに受容した成果物なのでしょう。*3
それではまた。
2020年1月27日
*1『世界美術大全集 東洋編2 秦・漢』(小学館、1998年)p.60、94(解説はp.342)に見える。
*2 本文は、『楽府詩集』(中華書局、1979年)p.442~443の校訂に従う。
*3 大形徹「中国の死生観に外国の図像が影響を与えた可能性について―馬王堆帛画を例として―」(日本道教学会『東方宗教』第100号、2007年)からの啓発による。
明帝を戒めた天災
曹植の「惟漢行」(『楽府詩集』巻27)は、次のような句を含んでいます。
全20句のうち、第7句から第10句までです。
行仁章以瑞 君主が仁政を行えば、天は瑞祥によってそれを顕彰し、
変故誡驕盈 天変地異によって、君主の驕慢を戒める。
神高而聴卑 天の神は高い位置にありながら下々の者たちの声に耳を傾け、
報若響応声 それに応報するさまは、響きが声に応じるかのようだ。
為政者は天子(天帝の子)であって、
人間世界の良し悪しは天帝の知るところとなり、
それに対する応報は、天候の良し悪しとなって現れるという考え方。
これは、中国古典の世界では普遍的にある発想です。
ですが、これにまさしく符合する出来事が実際にあったことを、
曹海東注譯・蕭麗華校閲『新譯曹子建集』(三民書局、2003年)に教えられました。
『三国志』巻25「楊阜伝」に引くその上書に、
先ごろ、突発的な大雨と異常な雷電で、鳥雀が多数死んだこと、
天地神明は為政者を子とみなし、政に不適切なことがあれば天災で譴責するのだ、
ということが述べられている。
そして、楊阜が上書した出来事が起こったのは、
『宋書』巻30「五行志一」の記事から、明帝の太和元年(227)秋であることが知られる。
このようなことに基づき、曹海東氏は、曹植「惟漢行」の成立を太和元年と推定しています。
耳を傾けるべき指摘、忘れないように記しておきます。
それではまた。
2020年1月23日
語られる言葉の揺れ
曹植「鼙舞歌・霊芝篇」には、様々な孝行息子たちが登場します。
頑迷な父、口やかましい母に孝養を尽くした虞舜。
親の前で幼児のごとく振る舞い、母の笞が痛くなくなったといって泣く伯瑜。
亡き親をかたどった木人に仕え、これを凌辱した隣人を殺して処刑されようというとき、
木人が涙を流すという超常現象が生じて罪を免れた丁蘭。
父の葬式を出すためにこしらえた借金に苦しんでいたところを、天の織女に救われた董永。
さて、曹植が詠ずるこうした孝子の物語には、
現存する文献に記されたそれとは少しく異なっている部分があります。
まず伯瑜について。
彼が、母の笞に痛みを感じなくなり、親の老いを悟って泣いたことは、
たとえば『説苑』建本篇に記されたところとよく重なります。
ですが、七十歳にして幼児のようななりで親を楽しませたというエピソードは、
師覚授『孝子伝』(『太平御覧』巻413)などでは、老莱子のこととして記されています。
また董永の借金苦について。
曹植の歌では、「責家填門至(借金取りが家にたくさん押し掛けた)」とありますが、
劉向『孝子図』(『太平御覧』巻411)などでは、彼に金銭を貸したのは雇い主ひとりであり、
しかも、彼は孝行者の董永に対して非常に好意的な人物として描かれています。
一方、虞舜の故事については、『尚書』堯典に記されたところが丁寧に踏襲されています。
また、詩歌の後半に見える「蓼莪」(『詩経』小雅)や「凱風」(同邶風)は、
その詩の趣旨をきちんと踏まえた上での援用が為されています。
曹植はこのように、古典に対する確かな教養を身に付けていた人です。
すると、上記の2件を、曹植の記憶違いと言い切ってよいものか、ためらいが生じます。
曹植の詠ずる孝子物語が、現存する文献と食い違っていることをどう捉えるか。
まず、こうした物語は、口承文芸として複数のバージョンが出回っていたでしょう。
そのうちのひとつを取り上げて、曹植は「鼙舞歌・霊芝篇」に詠じた。
そして、各種の孝子伝類の著者たちもまた、たまたま自身の耳に入った物語を書き留め、
それらの孝子伝のうちのいくつかが、たまたま現在にまで伝わった。
だから、曹植の詠ずるところと伝存する文献に記すところとの間に間々違いが見られるのだ。
と、このように捉えてはどうでしょうか。
そういえば、「二桃殺三士」の故事についても、
曹植の「古冶子等賛」と『晏子春秋』の記事との間には小さな食い違いがありました。
「霊芝篇」に詠われた伯瑜や董永と、同様に見ることができると思います。
それではまた。
2020年1月22日