曹植作品の現存率
昨日、現存する曹植作品は、本来の数よりもかなり少ないのだろうと述べました。
ですが、ジャンルによっては、もしかしたら曹植作品の現存率は意外と高いのかもしれません。
晁公武『郡斎読書志』に指摘があったとおり、
『三国志』本伝に記された曹植作品は、「賦・頌・詩・銘・雑論、凡そ百餘篇」です。
今、丁晏『曹集詮評』所収の作品数を数えてみると、
「賦」44篇、「頌」8篇、「詩」33篇*1、「銘」2篇、「雑論」9篇、併せて96篇です。
これは、上記「陳思王植伝」に記されたところとそれほど大きく違うものではありません。
『隋書』経籍志に記された「魏陳思王曹植集三十巻」とは、
上記本伝に記す「百餘篇」に、楽府詩、賛、表、その他の作品を加えたものなのでしょう。
現存する作品で、曹植の文学世界のすべてを把握できるとは考えられません。
ですが、六朝末に成った選集『文選』や、初唐以前に成立していた類書『藝文類聚』『北堂書鈔』、
六朝から初唐までに存在した類書をよく温存している『太平御覧』*2
また、今よりもはるかに多くの作品が残っていた北宋末に編纂された『楽府詩集』、
こうした書物に引かれた曹植作品には、一定の信頼を置いてもよいのだろうと判断できます。
そこに彼の声を聴き取ろうとすることは許されるだろうと思います。
それではまた。
2020年1月30日
*1 同じ詩題のもと、複数の詩篇がある場合は、それぞれ独立した作品として数えた。たとえば、『文選』巻29所収「雑詩」其一~其六は六篇とみなすという具合に。逆に、「贈白馬王彪」を、丁晏は七篇から成る連作詩として採録しているが、『文選』巻24に収録するところに従って、これを一篇として数えた。また、出自が不明瞭な「七歩詩」、詩題も不明な断片的詩篇は除外した。
*2 こちらに注記した勝村哲也氏の一連の論考を参照。
完全ではないという自覚
昨日触れた明版の『陳思王集』は、
現存する諸本の多くとは作品収録の排列が異なっていて、
巻1~4に賦、巻5に頌・賛などの文、巻6に表などの文、巻7に誄などの文、
巻8に楽府詩、巻9に詩、巻10に令などの文、という順番で収録されていました。
たとえば、趙幼文『曹植集校注』が底本にしたという丁晏『曹集詮評』は、
明代の程氏刻本と張溥百三家集本とを基にしているとのことですが、
この『曹集詮評』は、巻1~3が賦、巻4が詩、巻5が楽府詩、その後に文といった具合です。
先日見た『陳思王集』は、いったいどのような系統に位置するものだったのでしょうか。
また、曹植の作品集は明代にまでしか遡れないようなのですが、
それ以前の宋代、書誌学者たちがすでにこの別集の成り立ちに疑義を示しています。*
晁公武『郡斎読書志』巻17は、「曹植集十巻」を著録した上で、
『三国志』巻19「陳思王植伝」に記す「植前後所著賦頌詩銘雑論凡百餘篇」が、
今本(隋唐から巻数が減少)所収の詩文二百篇よりも少ないことを疑問視しています。
陳振孫『直斎書録解題』巻16は、著録する「陳思王集二十巻」について、
二十巻という巻数は、『旧唐書』経籍志や『新唐書』藝文志に一致しているが、
その中には『藝文類聚』『北堂書鈔』『太平御覧』などから採録したものが含まれている、
よって、本書は元来の姿ではないだろうとコメントしています。
曹植集を最初に記録する『隋書』経籍志四には「魏陳思王曹植集三十巻」とありますが、
今見ることができるものは、巻数のみで言えば、その約三分の一です。
曹植に限らず、当時の別集については不明なことばかりです。
だから彼の文学については何も言えない、とあきらめるわけではありません。
現存する作品がすべてではないということを意識する必要がある、と改めて思ったのです。
それではまた。
2020年1月29日
*興膳宏・川合康三『隋書経籍志詳攷』(汲古書院、1995年)を手引きとして調査した。
何も思いつかない日
今日は何も書くことを思いつかない日です。
そんな日はあって当たり前なのに、ちょっと物足りない、
と感じるのは、自分が相手のことを、研究対象と見ているからでしょう。
今日は何も収穫がなかった、というふうに感じているのですね。
過日、内閣文庫で明版の『陳思王集』を閲覧しましたが、
この出版者は、曹植のことを同じ世界に住むちょっと前の人くらいに思っている、
と、その序を書き写しながら感じました。
前近代の人々のコメントを見るたびに、そう感じます。
彼らと自分とは、すでに住む世界が違っている、これは厳然たる事実です。
ですが、古人を“研究対象”と見るのは、相手に失礼だし、浅薄で傲慢なことですね。
本当は理解が及んでいないものを、自分の掌中に載せたつもりでいるのですから。
ところで、東京へ行く機会があれば、
必ず国立博物館の東洋館に立ち寄ることにしています。
何か目当てがあってもなくても、様々な文物に再会するために向かいます。
古い時代の物や言葉には、すぐにはぴんと来ないものが多いです。
彼らはなかなかこちらに心を開いてはくれません。
ですが、ちょっと風変わりな隣人と思って付き合っていけば、
そのうち知り合いに、更には友人になることもできるかもしれません。
それではまた。
2020年1月28日
中央アジアの羽人
東京国立博物館の東洋館で開催中の特別展、
「人、神、自然~ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界~」を観覧し、
その中の「精霊像」(中央アジア/バクトリア・マルギアナ複合、BC3200~BC2700年頃)に驚きました。
背中に羽を生やし、入れ物を手にしたその中央アジアの精霊の姿が、
漢代の、筒のような容器を両手で持っている羽人と非常によく似ていたからです。*1
漢代の羽人は、その容貌が同時代の他の塑像とは著しく異なっています。
とがった鼻、長い耳、後ろに流した髪、細長い手足を持つそれは、
むしろ、先の中央アジアの「精霊像」や、
それと同系らしい同地域の「女性像」(BC2300~BC2000年)と似ています。
紀元前後1世紀頃の漢代の羽人と、先の精霊像とでは、時代がかけ離れていますが、
出土した文物は氷山の一角であって、それ以外の時代に存在しなかったわけではないでしょう。
中央アジアの精霊は、長い歳月を経て東方の中国にもたらされ、
その見慣れない姿かたちがそのまま、羽人として定着したのではないかと想像しました。
この羽人の姿は、漢代詠み人知らずの歌辞「長歌行」(『楽府詩集』巻30)を想起させます。
仙人騎白鹿 仙人は白い鹿に乗って、
髪短耳何長 髪は短く、耳はなんと長いことだろう。
導我上太華 私を導いて西方の太華山に登り、
攬芝獲赤幢 霊芝を摘み、赤幢(薬の材料?)を捕獲した。
来到主人門 主人の門までやってくると、
奉薬一玉箱 奉薬を入れた玉の箱をひとつ捧げる。
主人服此薬 主人はこの薬を飲むと、
身体日康彊 身体が日ごとに健康になっていく。
髪白復更黒 髪の白かったのがまたより一層黒くなって、
延年寿命長 寿命が長く伸びるのだ。*2
神仙は、古代中国人が脳内で作り上げた空想物ではなく、
西方の彼方からもたらされた見知らぬものを、彼らなりに受容した成果物なのでしょう。*3
それではまた。
2020年1月27日
*1『世界美術大全集 東洋編2 秦・漢』(小学館、1998年)p.60、94(解説はp.342)に見える。
*2 本文は、『楽府詩集』(中華書局、1979年)p.442~443の校訂に従う。
*3 大形徹「中国の死生観に外国の図像が影響を与えた可能性について―馬王堆帛画を例として―」(日本道教学会『東方宗教』第110号、2007年)からの啓発による。
明帝を戒めた天災
曹植の「惟漢行」(『楽府詩集』巻27)は、次のような句を含んでいます。
全20句のうち、第7句から第10句までです。
行仁章以瑞 君主が仁政を行えば、天は瑞祥によってそれを顕彰し、
変故誡驕盈 天変地異によって、君主の驕慢を戒める。
神高而聴卑 天の神は高い位置にありながら下々の者たちの声に耳を傾け、
報若響応声 それに応報するさまは、響きが声に応じるかのようだ。
為政者は天子(天帝の子)であって、
人間世界の良し悪しは天帝の知るところとなり、
それに対する応報は、天候の良し悪しとなって現れるという考え方。
これは、中国古典の世界では普遍的にある発想です。
ですが、これにまさしく符合する出来事が実際にあったことを、
曹海東注譯・蕭麗華校閲『新譯曹子建集』(三民書局、2003年)に教えられました。
『三国志』巻25「楊阜伝」に引くその上書に、
先ごろ、突発的な大雨と異常な雷電で、鳥雀が多数死んだこと、
天地神明は為政者を子とみなし、政に不適切なことがあれば天災で譴責するのだ、
ということが述べられている。
そして、楊阜が上書した出来事が起こったのは、
『宋書』巻30「五行志一」の記事から、明帝の太和元年(227)秋であることが知られる。
このようなことに基づき、曹海東氏は、曹植「惟漢行」の成立を太和元年と推定しています。
耳を傾けるべき指摘、忘れないように記しておきます。
それではまた。
2020年1月23日
語られる言葉の揺れ
曹植「鼙舞歌・霊芝篇」には、様々な孝行息子たちが登場します。
頑迷な父、口やかましい母に孝養を尽くした虞舜。
親の前で幼児のごとく振る舞い、母の笞が痛くなくなったといって泣く伯瑜。
亡き親をかたどった木人に仕え、これを凌辱した隣人を殺して処刑されようというとき、
木人が涙を流すという超常現象が生じて罪を免れた丁蘭。
父の葬式を出すためにこしらえた借金に苦しんでいたところを、天の織女に救われた董永。
さて、曹植が詠ずるこうした孝子の物語には、
現存する文献に記されたそれとは少しく異なっている部分があります。
まず伯瑜について。
彼が、母の笞に痛みを感じなくなり、親の老いを悟って泣いたことは、
たとえば『説苑』建本篇に記されたところとよく重なります。
ですが、七十歳にして幼児のようななりで親を楽しませたというエピソードは、
師覚授『孝子伝』(『太平御覧』巻413)などでは、老莱子のこととして記されています。
また董永の借金苦について。
曹植の歌では、「責家填門至(借金取りが家にたくさん押し掛けた)」とありますが、
劉向『孝子図』(『太平御覧』巻411)などでは、彼に金銭を貸したのは雇い主ひとりであり、
しかも、彼は孝行者の董永に対して非常に好意的な人物として描かれています。
一方、虞舜の故事については、『尚書』堯典に記されたところが丁寧に踏襲されています。
また、詩歌の後半に見える「蓼莪」(『詩経』小雅)や「凱風」(同邶風)は、
その詩の趣旨をきちんと踏まえた上での援用が為されています。
曹植はこのように、古典に対する確かな教養を身に付けていた人です。
すると、上記の2件を、曹植の記憶違いと言い切ってよいものか、ためらいが生じます。
曹植の詠ずる孝子物語が、現存する文献と食い違っていることをどう捉えるか。
まず、こうした物語は、口承文芸として複数のバージョンが出回っていたでしょう。
そのうちのひとつを取り上げて、曹植は「鼙舞歌・霊芝篇」に詠じた。
そして、各種の孝子伝類の著者たちもまた、たまたま自身の耳に入った物語を書き留め、
それらの孝子伝のうちのいくつかが、たまたま現在にまで伝わった。
だから、曹植の詠ずるところと伝存する文献に記すところとの間に間々違いが見られるのだ。
と、このように捉えてはどうでしょうか。
そういえば、「二桃殺三士」の故事についても、
曹植の「古冶子等賛」と『晏子春秋』の記事との間には小さな食い違いがありました。
「霊芝篇」に詠われた伯瑜や董永と、同様に見ることができると思います。
それではまた。
2020年1月22日
文学者の人生と作品
六朝末、梁代の文学評論集、劉勰『文心雕龍』の才略篇には、
曹丕・曹植兄弟の優劣や持ち味の違いについて、次のような論及が見えています。*
今、その内容をかいつまんで示します。
曹丕はなかなかの才能の持ち主であるのに、昔から曹植には遠く及ばないとされてきた。
とはいえ、二人は異なる個性を持っているのであって、曹丕もまた凡庸ではない。
ただ、世俗の毀誉褒貶は、とかく付和雷同するものであって、
曹丕は、地位が高かったことを理由に、その才能への評価が低められ、
曹植は、不遇であったという理由で、その文学的評価が高められることとなった。
これは、行き届いた精確な評価であるとは言えない。
興味深いのは、ここで疑問視されている“世俗の毀誉褒貶”(原文では「俗情抑揚」)です。
まず、不遇な者に肩入れする判官びいきを、自分もしていないか検証すべきだということ。
そしてもう一つ、ここに劉勰が述べていることを契機として考えたいと思ったのが、
文学者の人生にかかる負荷とその作品の完成度との関係についてです。
社会的に不遇な文学者は、必ずその作品が光り輝くというわけではもちろんありません。
ですが、後世にまで残る作品は、どういうわけか不遇な人の手になるものが多い。
これは、現実参加を旨とする中国文学ならではの現象なのでしょうか。
それとも、広範な社会に認められる普遍の法則なのでしょうか。
劉勰はそれを「俗情」の付和雷同と断じているのですが、本当にそう言えるかどうか。
それではまた。
2020年1月21日
*興膳宏『詩品(中国文明選13・文学論集)』(朝日新聞社、1972年)p.144から教示を受けた。また、『文心雕龍』の読解に当たっては、同氏による訳注(一海知義・興膳宏『陶淵明 文心雕龍(世界古典文学全集)』筑摩書房、1968年)を参考にした。
古典的評論からの啓発
曹氏兄弟が創作活動を行った、後漢末の建安年間から魏王朝成立後にかけての時代、
古詩や古楽府(漢代の詠み人知らずの詩歌)を踏まえる詩作は、
当時の詩人であれば誰もが行っていたことです。
だから、いきおい表現は似てくる。
それでも、曹植の文学的力量は群を抜いていたと見てよいのだろうと思います。
漢魏六朝の詩人たちを、上中下に格付けして批評する鍾嶸『詩品』は、
曹植を上品に置き、「粲として今古に溢れ、卓爾として群れず」と高く評価しています。
そして、その詩風の源は『詩経』の国風から派生すると記しているのですが、
このように『詩経』から直接流れ出ると位置づけられているのは、
漢代詠み人知らずの古詩と、この曹植のみです。
他方、同じ『詩品』において、曹丕の詩は中品に置かれ、
李陵の詩に来源し、王粲のスタイルにも影響を受けたものと記されています。
『詩品』上品に、李陵の詩は『楚辞』から、王粲の詩は李陵から派生すると評していますから、
曹丕の詩は、『楚辞』系の優れた作品の亜流のような位置にあると言えるでしょう。
ここに、『詩経』の直系と評された曹植との落差が歴然として見えます。
とはいえ、鍾嶸は今から約千五百年前、六朝末、梁代の人です。
彼は、当世にはびこる軽薄な詩風への反発から『詩品』を執筆したといいます。*
だから、『詩品』の評価を絶対視することはできません。
それでも、今はもう見ることのできない作品にも触れての評価であることは貴重です。
古典的詩評からの啓発を大いに受けながら、
自分なりの方法で、曹植作品の文学的価値を明らかにしたいと思います。
それではまた。
2020年1月20日
*興膳宏『詩品(中国文明選13・文学論集)』(朝日新聞社、1972年)の解題を参照。
詩人の言葉の肌触り
このところ、曹丕の悪行をずいぶん書き立ててきましたが、
元来この人は、ただ器が小さいというだけだったのだろうと思います。
そんな小人物が、人の上に立つことになったのが魏王朝の不幸のひとつだったと言えるでしょう。
このことを付記しておこうと思ったら、もうすでにそうした趣旨のことを書いていました。
螺旋を描くことができなくて、同じところをぐるぐるしているこの頃です。
曹丕の詩歌には、人口に膾炙する既存の言葉が散見します。
たとえば、『文選』巻27所収の「燕歌行」など、その顕著なものでしょう。
なにかこう、自身の中に言葉を紡ぎあげる統合力のようなものが強く働いていない。
だから、手垢のついた言葉の切り貼りになってしまっているのですね。
(偉そうに人の評価などして恥ずかしい限りですが。)
岡村繁「建安文壇への視角」(『中国中世文学研究』第5号、1966年)は、
曹丕の手紙文の中に、時としてその文章力の底を露呈させる拙さが見えることを指摘しています。
私にはまだ、作品の言葉の肌触りから何かをつかむことができるほどの力がありません。
ある時、岡村先生は、西晋の陸機の詩文は非常に美しいのだとおっしゃった。
自分もいつか、それが本当に感じ取れるようになりたいと希求しつつ、未だ果たせていません。
それではまた。
2020年1月17日
恩人を祭った曹操
昨日の補足です。
曹丕に認められなかった曹植「請祭先王表」、
曹植が願ったのは、あくまでも先の魏王曹操に対する孝敬と親愛の情に発する祭祀であって、
国や家の宗廟祭祀を執り行いたいと言っているわけではないでしょう。
個人的な心情から物故者を祭る例はいくらでもあります。
たとえば、建安7年(202)、曹操は橋玄を睢陽に祭りました。(『三国志』巻1「武帝紀」)
橋玄はかつて、若き無名の曹操の才能をいち早く見抜いた人物です。(同裴松之注に引く『魏書』)
この恩人に報いるべく、曹操は使者を派遣し、大牢の犠牲を捧げて祀ったのです。
そして、自ら祀文を作り、橋玄との思い出と感謝の念を綴っています。(同裴注引『褒賞令』)
この他、曹操は建安2年(197)、張繍との戦いで没した将士たちを淯水のほとりで祀っています。
(同上『魏書』)
また、曹操は、建安21年(216)、宗廟に漢中征伐の報告をする際、
伝統的な作法にこだわる必要はないとの趣旨の令を発布しています。(同上『魏書』)
そのような父に衷心から共鳴する曹植であればこそ、上述の願い出も為されたに違いありません。
なお、曹丕が皇帝として先の武帝を祭ったのは、黄初2年(221)6月のことでした。
都の宗廟が未完成であったため、洛陽の建始殿で、家人の礼のごとく祭ったと記録されています。*
(同巻2「文帝紀」裴松之注に引く『魏書』)
それではまた。
2020年1月16日
*魏王朝の宗廟が始めて成ったのは、『三国志』巻3「明帝紀」に、太和3年(229)11月のことと記す。なお、同裴松之注によると、天子としての七廟の制度(『礼記』王制篇)が定められたのは、更にその後の景初元年(237)であった。(2020.01.17追記)