凡庸な統治者
昨日の続きです。
父曹操を祭りたいと申し出た曹植に対して、曹丕はこれを許しませんでした。
その根拠は、礼の決まりごとを示す博士たちの上奏文です。
曹丕のこの判断は、本当に統治者としての公正さに発するものであったのか。
こう疑問に感じざるを得ないのは、同時期の彼に次のような言動が残っているからです。
『三国志』巻2「文帝紀」によると、
曹操の没後(220年1月)すぐに魏王となった曹丕は、同年6月、南方へ出征し、
7月、軍は譙(曹氏の出身地)に駐屯し、土地の人々も招いて大宴会を開いています。
その裴松之注に引く『魏書』によると、
宴席には伎楽百戯が設けられ、譙の租税を二年間免ずる令が発布されたといいます。
(生まれ故郷を特別扱いするのは為政者としてどうなのでしょう。)
同裴松之注に引く孫盛(歴史書『魏氏春秋』の著者)の批評では、
父曹操の服喪期間であるにも関わらず宴席を設け、
また、禅譲を受けるや漢帝の娘を後宮に納れた曹丕の行動を取り上げて、
ここに曹魏王朝の短命であった理由があるとしています。
もし、為政者として、礼制度を厳正に執り行おうというならば、
このような行いに出ることはないはずでしょう。
さて、この年の暮れ、曹丕が漢王朝から禅譲を受けたとき、
曹植は、父曹操の思いに応えられなかった自分の不甲斐なさを思って哭したといいます。
ところが、曹丕は後日このことを思い出して左右の者にこう言いました。
「人の心は同じでないものだ。私が皇位に登った時、天下に哭する者がいた。」
(同巻16「蘇則伝」裴松之注に引く『魏略』)
曹植が哭した理由を、曹丕はおそらく取り違えています。
こうしたエピソードからも、
曹丕が曹植の「請祭先王表」を承認しなかった真の理由は、
礼制の堅守とは別のところにあったのではないかと感じられてなりません。
それではまた。
2020年1月15日
似非学者
昨日紹介した曹植「請祭先王表」は、『太平御覧』巻526に引かれています。
そして、そこでは、曹植の上表文に続けて、ことの顛末が次のように記されています。
博士鹿優韓蓋等以為礼公子不得禰先君、公子之子不得祖諸侯、謂不得立其廟而祭之也。礼又曰、庶子不得祭宗。
詔曰、得月二十八日表、知侯推情、欲祭先王於河上。覧省上下、悲傷感切、将欲遣礼以紓侯敬恭之意、会博士鹿優等奏礼如此。故写以下。開国承家、顧迫礼制、惟侯存心、与吾同之。
博士の鹿優・韓蓋等は次のように考えた。礼に、公子は先君を禰(父のみたまや)とすることはできないし、公子の子は諸侯を祖とすることはできない、とあるが、これは、その廟を立てて祭ることはできないという意味である。礼にはまた、庶子(非嫡子)は宗廟を祭ることはできない、ともある。
文帝の詔に曰わく、「月二十八日の表を落手して、侯(臨菑侯である曹植)が推情(?)して、先王を河上に祭りたいと願っていることがわかった。上表を最初から最後まで仔細に読むと、悲傷の思いが切々と迫ってきて、いざ贈り物を送って侯の敬恭の思いを緩和しようとした矢先、ちょうど博士の鹿優等が、礼ではこうなっていると上奏してきた。だから、以下のとおり書す。国を開き家を継いだ者は、礼の制度を厳正に守らねばならない。ただ、侯が心に念じていることは、自分もこれを共有している」と。
魏王として遵守すべき礼制において、曹植の立場で父を祭ることは禁じられている、
だから、その申し出を許すわけにはいかない、と。これは、一見まっとうな判断のように思われます。
ですが、なにか胡散臭さを感じる、それにはいくつかの理由があります。
まず、博士らの提示した「礼」というものの信憑性です。
彼らが根拠にした一つ目の「礼」は、『儀礼』喪服にいう次の部分からの引用です。
諸侯之子、称公子。公子不得禰先君。
公子之子、称公孫。公孫不得祖諸侯。
諸侯の子は、公子と称す。公子は先君を禰とするを得ず。
公子の子は、公孫と称す。公孫は諸侯を祖とするを得ず。
先の博士らは、これを不自然なかたちで切り取って提示していました。
そもそも、曹植は曹丕の弟、曹操の子であって、魏国の諸侯の子ではありません。*
「又曰」として引かれた「礼」は、『礼記』喪服小記の次の部分が最も近いでしょう。
庶子不祭祖者、明其宗也。
庶子が祖を祭らざるは、その宗を明らかにするなり。
ですが、この前の部分には、
諸侯の庶子(非嫡子)で後世に始祖となった者を「祖」といい、
その「祖」を引き継いでゆく者のことを「宗」という旨が記されています。
更にその前には、庶子が王となった場合のことについての記述が見えています。
鹿優らは、曹植が父曹操を祭ることは礼制に照らして不可であることを言うために、
上記の『儀礼』や『礼記』を引用しているのだと思われますが、
判断内容の根拠とするには文脈がずれています。
そんな博士の言うことを、待ってましたとばかりに聞き入れる曹丕。
むしろ博士らは、曹丕の心中を忖度して上奏したかとさえ勘繰ってしまいます。
なお、博士の鹿優や韓蓋は、『三国志』にその名が見えません。
当代一流の儒学者というには足りない人々のようです。
それではまた。
2020年1月14日
*厳密にいえば、当時はまだ後漢王朝が存続しているので、魏王国は諸侯という位置づけになるのかもしれない。すると、曹操が「諸侯」だとして、その子である曹丕も曹植も、「諸侯之子」すなわち「公子」であって、「先君を禰するを得ず」となる。(2020.01.17追記)
亡き父への思い
曹操が亡くなった220年(建安25年、延康元年、黄初元年)、
父の後を継いで魏王となった曹丕に向けて、曹植は次のような上表を奉っています。
『曹集詮評』巻7所収「請祭先王表(先王を祭らんことを請ふ表)」です。
少し長くなりますが、全文を紹介します。
臣雖比拝表、自計違遠以来、有踰旬日、垂竟夏節方到、臣悲感有念。
先王公以夏至日終、是以家俗不以夏日祭、至於先王、自可以令辰告祠。
臣雖卑鄙、実禀体於先王。
自臣雖貧窶、蒙陛下厚賜、足供太牢之具。
臣欲祭先王於北河之上。
羊豬牛臣自能辦、杏者臣県自有。
先王喜食鰒魚、臣前以表、得徐州臧覇鰒二百枚、足以供事。
乞請水瓜五枚、白柰二十枚。
計先王崩来、未能半歳。臣実欲告敬、且欲復尽哀。
わたくしは先ごろ上表いたしましたとはいえ、自分で計算してみしたところ、上表文が手を離れてから、もう十日を過ぎ、ついに夏が到来する季節になろうとしておりまして、わたくしは悲しみのあまりこのことが思われてなりません。
先の王公(曹操の父、曹嵩)は夏至の日に逝去されたので、このため我が家の習慣として夏には先祖を祭りませんが、先の王(曹操)に至って、ご自身で良き時を選んで祭祀を執り行うことを可とされました。
わたくしは卑しい田舎者ではありますが、実に先王から身体を受け継いだ人間です。
わたくしは貧しいとはいえ、陛下から手厚い下賜を蒙りましたおかげで、お供え物は十分にございます。
わたくしは先王を黄河の北のほとりでお祭りしたいと存じます。
羊・豚・牛はわたくしが自分で用意できますし、アンズはわたくしの県にございます。
先王はアワビがお好きでいらっしゃいましたが、わたくしは先に上表により、徐州の臧覇からアワビ二百枚を手に入れましたので、十分お供えすることができます。
どうか水瓜五枚と白柰(ナシ)二十枚をお恵みくださいますようお願い申し上げます。
数えてみれば、先王の崩御から、まだ半年も経っておりません。わたくしは心から父に対する敬愛の気持ちを告げ、また哀悼の意を尽くしたく存じます。
供物の内容が極めて具体的に示されているところに、
曹植の亡き父をお祭りしたいという気持ちの強さが切々とうかがえます。
また、魏王曹丕に対する謝意も示されています。
ですが、この上表は曹丕に許可されることはありませんでした。
その理由については、また明日に。
2020年1月13日
兄への貢ぎ物
曹植は、兄の文帝曹丕にいくつかの貢ぎ物をしています。
『曹集詮評』巻7所収「献文帝馬表」「上先帝賜鎧表」「上銀鞍表」からこのことが知られます。
そこに日付は記されていませんが、後ほど引用する上表の文面から、
曹丕が文帝として在位した黄初年間(220―226)の献上と見て間違いないでしょう。*1
以下に、上記の三篇を紹介します。
「献文帝馬表(文帝に馬を献ずるの表)」(『藝文類聚』巻93)
臣於先武皇帝世、得大宛紫騂馬一匹。形法応図、善持頭尾。
教令習拝、今輒已能。又能行与鼓節相応。謹以表奉献。
わたしは先の武皇帝の時代に、大宛の赤馬一匹を手に入れました。
肉や骨格の脈は絵図に示された名馬さながらで、頭や尾はすばらしい均衡を保っています。
教化してお辞儀を習わせたところ、今はすっかりできるようになりました。
また、太鼓のリズムに合わせて歩むこともできます。
謹んでこれを献上することを表します。
「上先帝賜鎧表(先帝の賜りし鎧を上るの表)」(『太平御覧』巻356)
先帝賜臣鎧、黒光明光各一領、両当鎧一領、環鎖鎧一領、馬鎧一領。
今代以昇平、兵革無事。乞悉以付鎧曹。
先帝がわたしに下された鎧の黒光と明光の各一領、裲襠の鎧一領、環鎖の鎧一領、馬の鎧一領。
今は天下泰平で、戦争もない時代です。
何卒これらをすべて、鎧を管轄する部署に納めさせてください。
「上銀鞍表(銀の鞍を上るの表)」(『初学記』巻22)
於先武皇帝世、効此銀鞍一具。初不敢乗、謹奉上。*2
先の武帝の御代に、この銀の鞍一具を授けられました。
もったいなくて一度も乗っておりません。これを謹んで献上いたします。
名馬に鎧に銀の鞍。
これらはすべて、曹丕・曹植の父である武帝曹操から下賜されたものです。
そして、これを所有していると、何かと嫌疑をかけられる可能性を持つものばかりです。
上文にいう「今の代は昇平なるを以て、兵革事無し」という語が物語るように、
曹植は、これらの宝物を文帝曹丕に差し出すことによって、
反乱など起こすつもりはないことを示し、以て我が身を守ろうとしたのかもしれません。
先に言及した、曹植の異母弟、曹袞の慎み深さに通じるものを感じます。
ただ、曹植は“先の皇帝”と連呼して大丈夫だったのでしょうか。
宝物の献上も、かえって兄の地雷を踏むことになったかもしれないと思わされます。
皇帝としての力量においても、父から受けた愛情においても、
曹丕はおそらく、コンプレックスのかたまりだったと想像されますから。
それではまた。
2020年1月11日
*1 趙幼文『曹植集校注』(人民出版社、1984年)、徐公持『曹植年譜考証(中国社会科学院老年学者文庫)』(社会科学文献出版社、2016年)もこの年代の作と見ている。
*2「効」字、『初学記』は「勅」に作る。おそらくは字形の類似による誤り。今、『太平御覧』巻358に拠って改める。
拙論への追補(2)
昨日、大学院の授業で曹植の鼙舞歌「聖皇篇」を読んでいたところ、
交換留学生から次のような質問を受けました。
曹植のこの楽府詩は、章和二年中に起こった出来事を踏まえているということだが、
その20句目「皇母懐苦辛」、これは後漢時代のことを言っているのか。
言われてみればたしかに、
「皇母」である竇太后は、和帝を生んだ梁貴人を死に追いやり、彼の育ての母となった人です。
そして、和帝の後見役となった竇太后は、和帝の父である章帝の妻であって、
各国へ赴くことになった諸王とは、直接的な強いつながりがあるわけではありません。
彼女ら一派はむしろ、諸王が都にいてはやりにくい、と感じていた可能性もあるでしょう。
そうした「皇母」が「苦辛を懐く」とは、やや不自然です。
(もちろん、一般論としては成り立ちますが。)
他方、これが魏王朝のことを暗示しているとするならば、「皇母」は卞皇后です。
彼女は、諸王を封土に赴かせる文帝の母であり、諸王の母でもあるので、
このことに対して「苦辛を懐く」のは当然でしょう。
曹植の「鼙舞歌」五篇は、すでに拙論で論じたとおり、
漢代鼙舞歌辞という枠組みに依拠して作られたものではありますが、
その中には、直接的には魏王朝を指していると思われる表現がまだ埋もれていそうです。
それではまた。
2020年1月9日
曹植とその異母弟
昨日、魏の文帝治世下における曹植の境遇について述べました。
曹植が、実の兄である文帝曹丕からどれほど酷い仕打ちを受けたかということは、
曹植に次ぐ文学的才能に恵まれた彼の異母弟、曹袞の言動からも推し測ることができます。
(以下、『三国志』巻20「武文世王公伝(中山恭王袞)」による。)
曹植が、監国謁者の灌均にその過失をあげつらわれ、朝廷から処分を受けた黄初二年(221)、
爵位を進められて公となった曹袞は、慶賀する臣下たちにこう言います。
夫生深宮之中、不知稼穡之艱難、多驕逸之失。諸賢既慶其休、宜輔其闕。
自分はそもそも宮中の奥で生まれて、農作業の苦労も知らず、驕慢の過失も多い。
諸賢におかれては、我が幸いを慶賀された上は、どうか我が欠点を補佐していただきたい。
また、同じ頃、属官の文学と防輔が彼の美点を称揚したところ、
曹袞は恐れおののき、朝廷にそのような奏上をした彼らを譴責しました。
彼はなぜそこまで自身の輝きをひた隠しにしようとしたのか。
それは、文帝曹丕にあらぬ嫌疑をかけられたくなかったからでしょう。
曹袞は、明帝の青龍三年(235)、曹植が没して三年後に亡くなりますが、
その死を前に、跡継ぎの息子に次のような戒めを残しました。
少し長いのですが、全文を引きます。
汝幼少、未聞義方、早為人君、但知楽、不知苦。不知苦、必将以驕奢為失也。接大臣、務以礼。雖非大臣、老者猶宜答拝。事兄以敬、恤弟以慈。兄弟有不良之行、当造膝諫之。諫之不従、流涕喩之、喩之不改、乃白其母。若猶不改、当以奏聞、并辞国土。与其守寵罹禍、不若貧賤全身也。此亦謂大罪悪耳、其微過細故、当掩覆之。嗟爾小子、慎修乃身、奉聖朝以忠貞、事太妃以孝敬。閨闈之内、奉令於太妃、閫閾之外、受教於沛王。無怠乃心、以慰予霊。
お前は幼くて、まだ正しき道を聞いていないうちに、早くも人君となったので、ただ楽しみを知っているだけで、苦労を知らない。苦労を知らないと、必ずや自分勝手なふるまいによって失敗することになるのだ。大臣に接する際は、礼儀作法に努めよ。大臣でなくとも、年季の入った年長者には答礼をするがよい。兄に仕えるには敬意をもって、弟をいつくしむには慈愛の心をもってせよ。兄弟に良からぬ振る舞いがあったら、膝を突き合わせてこれを諫めるべきだ。諫めても相手が従わないなら、涙を流して諭せ。諭しても改まらないなら、そのときはその母親に申せ。もしそれでも改まらないならば、朝廷に奏聞すべきで、あわせて国土に別れを告げよ。寵愛にしがみついて禍に罹るくらいなら、貧賤の境遇で身を全うした方がよいのだ。これはまあ大罪悪の場合を言ったまでで、その微細な過失は、もちろんこれを庇ってやらねばならぬ。ああ、なんじ小子よ、慎んでその身を修めて、聖なる朝廷には忠誠心をもってお仕えし、母上には孝敬の気持ちをもって仕えよ。奥御殿の中では母上の命に従い、門の外では、沛王(曹袞の兄、曹林)に教えを受けよ。怠け心を起こすことなく励み、それによってわたしの霊魂を慰めてくれ。
彼の境遇を知る我々には、もはやこれを通り一遍の訓戒と見ることはできません。
それは、彼の実人生から導き出された、千金の重みを持った処世の知恵なのだと思います。
ところで、これにやや遅れて、阮籍や嵆康ら竹林の七賢が現れました。
そして、その後まもなく魏王朝は西晋王朝に取って代わられ、
当時を生きる知識人の多くが、司馬晋という新興勢力の傘下に入っていきます。
この大多数の人々の動向と竹林七賢の登場とは、一見相容れない事象のようにも思えます。
ですが、上述のごとき魏王朝草創期の状況を踏まえると、
この二つの潮流は、実は同じ根から生じたものではないかと思えてきます。
先に取り上げた袁準や傅玄も、同じ時代を生きた人々でした。
それではまた。
2020年1月8日
拙論への追補(1)
曹植の「鼙舞歌」五篇(『宋書』楽志四)の、特に「聖皇篇」に注目して、
それが、失われた漢代鼙舞歌辞を復元する手がかりとなり得ることをかつて論じました。
(こちらの学術論文№39)
その論拠となったのは、以下のようなことです。
曹植の「聖皇篇」は、漢代の鼙舞歌辞「章和二年中」に相当する。
「章和二年中」は、楽府詩の通例から言って、その歌辞の第一句であろう。
すると、この漢代の鼙舞歌辞は、章和二年中に起こった出来事を歌うものだと推測される。
『後漢書』や『資治通鑑』等の歴史書に拠って調べてみると、
章和二年、まさしく曹植「聖皇篇」の内容と重なり合う出来事が起こっている。
すなわち、和帝(10歳)の即位に伴い、章帝の兄弟たちが封国に赴くこととなったのである。
曹植の「聖皇篇」は、漢代の鼙舞歌辞「章和二年中」を忠実に襲ったものだろう。
このことは、文帝治世下における曹植の、軟禁同然の境遇からも首肯されるものである。
さて、曹植の散文に目を通していると、この推論を裏付けるような記述によく遭遇します。
次に示す「写灌均上事令」(『太平御覧』巻593)*は、その中でも顕著な例です。
孤前令写灌均所上孤章、三台九府所奏事、及詔書一通、置之座隅。
孤欲朝夕諷詠、以自警誡也。
わたしは先ごろ、灌均が朝廷に奏上したわたしの詩文、朝廷の各省庁が奏上した事、
及び詔書一通を書き写させて、これを座右に置いた。
わたしは朝夕にこれを諷詠し、もって自らの戒めとする所存だ。
灌均は、監国謁者。文帝曹丕におもねって、曹植の過失を逐一あげつらいました。
そんな人間が奏上した曹植の作品は、読み方次第でいくらでも処罰の対象となったでしょう。
「三台九府」からの奏上は、曹植の言動に対する検討結果を述べるものでしょう。
そして、これらを受けての「詔書」は、曹植に対する処分内容を記したものなのでしょう。
ところで、前掲の曹植の文章は、それが公にされることを前提とした「令」です。
罪(ほぼ無実)を反省し、文帝への忠誠心を公に言明するよう強要されたようなものです。
曹植の「鼙舞歌」は、このような境遇の中で作られたのでした。
そして、その序にいうように、これら五篇の歌辞は彼の封国で実際に演奏されました。
ですから、曹植はこの作品の中で、その心中を生の言葉で表現することは決してなかったと言えます。
曹植の「鼙舞歌」五篇の冒頭に置かれた「聖皇篇」。
聖なる皇帝とは、文帝曹丕を指します。
しかも、「聖皇」なる語は、その五篇の歌辞すべてに見えています。
文帝万歳、ですね。
にもかかわらず、これを精読すれば、その小さな綻びから曹植の本心がにじみ出てきます。
密告者の灌均には、その微妙な部分は読み取れなかったのでしょう。
それではまた。
2020年1月7日
*「写」の字、『太平御覧』は「説」に作る。今、厳可均『全三国文』巻14に従って改める。
時代の変わり目を生きた人
魏王朝(厳密にいえば文帝曹丕*1)の諸王に対する冷酷な処遇を批判した袁準、
彼はその「自序」の中で、自らの立ち位置を次のように述べています。
以世事多険、故常恬退而不敢求進。
世の出来事に険阻なことが多かったため、常に栄利とは距離を置き、敢えて出世を求めなかった。
(『三国志』巻11「袁渙伝」裴松之注に引く『袁氏世紀』)
袁準が阮籍や嵆康と付き合いがあった、もしくは関わりを持とうとしたのは、
彼のこのような現実認識と、その中で自らの生き方を模索したことに由来するのでしょう。
彼は、嵆康に対しては、琴曲「広陵散」を学びたいと願い出て拒絶されました。
(『世説新語』雅量篇、『晋書』巻49「嵆康伝」)
また、阮籍との間には、次のようなエピソードが残っています。
司空の鄭沖が、司馬昭に晋公受諾を勧める文章*2を阮籍に求めに行ったとき、
阮籍は袁準の家にいて、二日酔いの状態であった、と。
(『世説新語』文学篇)
嵆康は、魏の元帝の景元四年(263)*3、呂安事件に連座して司馬昭に殺されました。
鄭沖に上記の文章を書かされた阮籍も、嵆康と同じ年に没しています。
他方、袁準は、西晋王朝の初代皇帝である武帝司馬炎の泰始年間(265―274)、
その俊才が買われて給事中(皇帝の顧問)となりました。
(前掲『世説新語』文学篇の劉孝標注に引く荀綽『兗准州記』)
この閲歴は、前掲の「自序」にいうところとは少し食い違っていますね。
魏王朝から西晋王朝に移行していく時期、
人はそれぞれに思うところあって生きる道を選択していったのでしょう。
以前にも触れた、荀彧や荀攸を輩出した荀氏一族も同じです。
阮籍を読んでいた学生時代、曹魏が司馬晋に簒奪されるという側面ばかりを見ていましたが、
現実はもっと複雑だったのだろうと今は考えています。
それではまた。
2020年1月6日
*1 先にも取り上げた、魏の明帝の太和五年(231)八月の詔(『三国志』巻3「明帝紀」)から明らかである。
*2 阮籍「為鄭沖勧晋王牋(鄭沖の為に晋王に勧むるの牋)」は『文選』巻40所収。
*3 嵆康の没年については、景元三年(262)とする説もある。今、曹道衡・沈玉成編『中国文学家大辞典・先秦漢魏晋南北朝巻』(中華書局、1996年)、興膳宏編『六朝詩人伝』(大修館書店、2000年)に従っておく。
※「阮籍関係年表」を一部訂正しました。間違いをご指摘くださった方、ありがとうございます。訂正がこんなに遅れてしまって恥ずかしい限りです。
魏王朝に向けられた目
魏王朝が諸王親族に対して冷酷であったことについて、
『三国志』巻20「武文世王公伝」裴松之注に引く『袁子』にも次のような記述が見えます。
(前略)県隔千里之外、無朝聘之儀、隣国無会同之制。
諸侯游猟不得過三十里、又為設防輔監国之官、以伺察之。
王侯皆思為布衣而不能得。
既違宗国藩屏之義、又虧親戚骨肉之恩。
……諸侯王は千里の外に隔てられ、朝廷からの招聘の沙汰もなく、隣国どうし会合する制度もなかった。
諸侯は出遊に三十里を超えてはならず、加えて防輔・監国の官が設けられ、彼らの動向を見張った。
王侯たちは皆平民になりたいと思ったけれども叶わなかった。
これは、諸侯が朝廷の守りとなるという大義に違うばかりか、親戚骨肉の恩情にも欠ける仕打ちだ。
『袁子』は、『隋書』経籍志・子部・儒家類に著録されている『袁子正書』で、
その著者である袁準は、先にも言及したことのある袁渙の子です。
袁渙は、曹操と対等の立場で意見を述べた人物である一方、
建安18年(213)、曹操に魏公となるべく九錫の受理を勧めた人物の一人です。
(『三国志』巻1「武帝紀」裴注引『魏書』)
このような家系に連なる人物が、魏王朝に対して厳しい目を向けている。
しかもこの袁準は、阮籍や嵆康ともかかわりを持つ人物です。
それではまた。
2019年12月27日
叔父への尊崇
先日来述べてきたように、
曹植ら諸王が始めて元旦の朝会に招かれたのは太和六年、
その前年の八月、明帝は次のような詔を出しています(『三国志』巻3「明帝紀」)。
昔者諸侯朝聘、所以敦睦親親協和万国也。
先帝著令、不欲使諸王在京都者、謂幼主在位、母后摂政、防微以漸、関諸盛衰也。*
朕惟不見諸王十有二載、悠悠之懐、能不興思。
其令諸王及宗室公侯各将適子一人朝。
後有少主、母后在宮者、自如先帝令、申明著于令。
昔、諸侯の朝聘せらるるは、親親を敦睦せしめ万国を協和せしむる所以なり。
先帝は令を著し、諸王をして京都に在らしむるを欲せざるは、謂ふに幼主の位に在り、母后の摂政せるとき、微以て漸(すす)むを防ぎ、これを盛衰に関らしむればなり。
朕惟(おも)ふに諸王に見えざること十有二載、悠悠たるの懐ひありて、能く思ひを興さざらんや。
其れ諸王及び宗室公侯をして各(おのおの)適子一人を将(ひき)ひて朝せしめよ。
後に少(わか)き主有り、母后宮に在るときは、自ら先帝の令の如くすること、申明して令に著す。
他方、同年、曹植は「求通親親表」(『三国志』巻19「陳思王植伝」、『文選』巻37)を奉り、
これに対して明帝は、その返答の詔の結びで次のように述べています。
已勅有司、如王所訴。
已に有司に勅して、王の訴ふる所の如くす。(同「陳思王植伝」)
さて、冒頭に示した明帝の詔と曹植の上表とは、いずれが先行していたのでしょうか。
ほぼ同時にそれぞれが著した、つまり行き違いになってしまったため、
明帝は曹植に、「訴えの件はすでに所管の役人に命じて対応させている」と伝えたのか、
それとも、曹植の上表を受けて冒頭の詔が下され、明帝は重ねて曹植にそのことを伝えたのか。
私にはどうも、後者のように思えてなりません。
何らかの契機がなければ、明帝は諸王を呼び寄せようとは思い至らなかったのではないか、
そして、その契機こそが、曹植の上表だったのではないかとの仮説です。
更に言えば、太和六年の元旦の会に諸王が招かれた前年のこととして、
「其の年の冬、諸王に詔して六年正月に朝せしむ」と「陳思王植伝」に見えていますが、
これも、曹植の「請赴元正表」を受けての詔であった可能性があると考えます。
以上を要するに、
曹植の「求通親親表」を受けて、明帝の太和五年八月の詔が下され、
この詔を受けて、曹植は更に「請赴元正表」を奉り、
この上表を受けて、同年冬の詔が下され、かくして太和六年元旦の朝会が実現した、
このように見ることができるのではないかと思うのです。
曹植と明帝との関係は、曹植と兄文帝との関係とは当然のことながら異なっています。
曹植の「求通親親表」に対する明帝の丁重な返答は、その現れの一斑でしょう。
それではまた。
2019年12月26日
*冒頭に示した明帝の詔にいう「先帝」「幼主」「母后」とは誰を指すのだろうか。「先帝」は文帝曹丕。「母后」が卞皇太后だとすると、「幼主」は後の明帝曹叡か。だが、文帝が即位した220年、曹叡はすでに16歳、幼いとは言えない年齢である。しかも、彼が太子に立てられたのは、文帝最晩年の226年であった。「幼主」とは、特定されない未来の君主か。それとも一般論なのか。