三三七のリズム
曹植「平陵東」は、古辞「平陵東」と句数が違っているが、
同じメロディに載せられる歌辞であったかもしれないと昨日述べました。
これは、次に示すように、句の構成という観点からの推測です。
まず、曹植の歌辞の、本文のみを再掲します。
閶闔開、天衢通、被我羽衣乗飛龍。
乗飛龍、与仙期、東上蓬莱采霊芝。
霊芝採之可服食、年若王父無終極。
次に、本辞である古辞「平陵東」です。
平陵東、松柏桐、不知何人劫義公。
劫義公在高堂下、交銭百万両走馬。
両走馬、亦誠難、顧見追吏心中惻。
心中惻、血出漉、帰告我家売黄犢。
両方とも、中核を為しているリズムは三・三・七、
これは、漢魏晋の民間歌謡には割合多く認められるものです。*1
そして、その基層に流れているのは八拍、*2
いわゆる三々七拍子と同じ調子で空白の一拍が入る、と考えてみる。
すると、このリズムは漢語として非常に安定的なリズムを刻むことが感知されます。
さて、三・三・七を1サイクルと見るならば、
曹植の歌辞はこれを3回、古辞は4回繰り返したかたちだということです。
すると、この歌辞の両方を載せるメロディの外枠は、それほど無理なく導き出せるでしょう。
1サイクルがひとつのまとまりを持つメロディだったのであれば、
両者の隔たりは、同じメロディを何度繰り返すかという違いだけになります。
そうでなければ、たとえば、曹植の歌辞の最後の二句を反復して歌い、
本辞のメロディ全体に沿わせたという可能性もあるでしょう。
以上のように考えて、
曹植「平陵東」は、本辞のメロディのみを踏襲する、
その本辞が本来持っていた挽歌としての内容には踏み込まない歌辞であった、
という推論は成り立ち得ると判断しました。
大前提として、曹植の「平陵東」を平静に読んで、特に屈託を感じ取れなかったこともあります。
神仙を詠ずることが、現実世界への批判やそこからの遁走を意味するようになるのは、
いつ頃、どのようなことを契機とするのか、丁寧に考えていきたいです。
それではまた。
2019年12月17日
*1 たとえば、杜文瀾『古謡諺』(中華書局、1958年)p.65、66、69、77、86、95、98、99、100、106、108、109、111、115、116、120、135に採録されている歌謡を挙げることができる。
*2 古川末喜『初唐の文学思想と韻律論』(知泉書館、2003年)第Ⅲ編第四章「中国の五言詩・七言詩と八音リズム」(初出は『佐賀大学教養部研究紀要』第26巻、1994年)を参照。
若き貴公子の歌なのか
曹植の「薤露行」「惟漢行」は、曹操「薤露」を踏まえるものでした。
曹操「薤露」は、魏王朝の宮廷歌曲「相和」の中の一曲です。
では、曹植は他の「相和」にも独自の歌辞を作っているのかといえば、
上記の2篇以外では、次にあげる「平陵東」のみです。
閶闔開 天門が開き、
天衢通 天上界の大通りが眼前にひらけ、
被我羽衣乗飛龍 羽衣を着せ掛けられた私は、飛ぶ龍に乗る。
乗飛龍 飛ぶ龍に乗って、
与仙期 私は仙人と約束をしているのだ、
東上蓬莱采霊芝 東のかた蓬莱山に上って霊芝を取ろうと。
霊芝採之可服食 霊芝はこれを取って服食するがよい、
年若王父無終極 すると、東王公のように無限の長寿となるのだ。
魏朝で歌われた古辞「平陵東」は、
前漢末、王莽に抵抗して挙兵し、殺害された翟義(『漢書』巻84・翟方進伝附翟義伝)を悼み、
その門人が作ったと伝えられています(『楽府詩集』巻28に引く西晋・崔豹『古今注』)。
ところが、曹植のこの楽府詩には、そうした内容は継承されていません。
ご覧のとおり、曹植は「平陵東」という楽府題を掲げながら、
その内容は、もっぱら神仙世界を詠ずるものです。
この点では、彼の「薤露行」と同じスタンスを取ると言えるかもしれません。
それは、挽歌としての内容を消し去り、もっぱら輔政や著作への抱負を詠じていたのでした。
曹操の「薤露」と句数を同じくしていること、そこから推測されることについても、
すでに先に述べたとおりです。
曹植の「平陵東」は、
「相和」の一曲として宮中で歌われた古辞とは句の数が異なっていますが、
もし、長短を調整することができる構成の歌曲であったのならば、
「相和・平陵東」と同じメロディに載せるべく作られた歌辞なのかもしれません。
特別な宮廷歌曲「相和」の一曲にこうした歌辞を載せたということに、
魏王国の中で、自由気ままに振る舞う若き貴公子の姿を垣間見るようです。
もっともこれは私見であって、本詩の成立年代は不明です。
趙幼文『曹植集校注』は、魏の明帝の太和年間に繋年していますし、
曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)は、本詩の背後に鬱屈した気を読み取ろうとしています。
それではまた。
2019年12月16日
曹植の二篇の「薤露」ふたたび
昨日に続き、これも以前に言及したことがあるのですが、
「相和」曲中の「薤露」に対して、曹植はふたつの歌辞を作成しています。
ひとつは「薤露行」、
もうひとつは、曹操「薤露」の第一句から楽府題を取った「惟漢行」。
「薤露行」の成立年代について、
趙幼文『曹植集校注』(人民出版社、1984年)は、明帝の太和年間の作と推定しています。
治世の才能を発揮する機会に恵まれない曹植が、文筆活動に注力しようと詠じている、
それは、文学創作を軽視していた青年期の彼から一転している(意訳)、というのがその根拠です。
古直(1885―1959)『曹子建詩箋』は、曹操在世中の建安年間と推定しています。
輔政への抱負、そして、それが叶えられない場合は著述で身を立てたいと詠ずる本詩の内容は、
彼の「与楊徳祖書」(『文選』巻42)と重なり合う、というのがその根拠です。
楊修(字は徳祖)は、曹植の腹心の友でしたが、建安24年(219)、曹操に殺されました。
これについて、私見としては建安年間と見る方に賛成です。
古直の論に付け加えるには根拠薄弱ですが、この詩はなにか明るいのです。
人居一世間 人が一世の間に身を置いて、
忽若風吹塵 あっという間に終わりを迎えることは、風に吹かれる塵のようだ。
という厭世的な内容の辞句にしても、表現としては漢魏の詩歌には常套的なものであって、
この時代の宴席に通奏低音として流れていた情感だと言えます。
句数が曹操の「薤露」と同じ16句で、同じメロディに合わせて作られた可能性もあります。
「薤露」の歌が宴席で歌われていたことは先にも述べたとおりです。
他方、「惟漢行」の成立年代については、
趙幼文、黄節(1873―1935)『曹子建詩註』は明帝期と推定しています。
(古直には特に言及がないようです。)
建安年間と見る評者もいますが、黄節がそれを非としていて、妥当だと私も思います。
というのは、「惟漢行」は、魏王朝に入ってから作られたことが明らかな曹植の作品と、
類似する表現を少なからず共有しているのです。
もし、「惟漢行」が「薤露行」の後に作られたのだとするならば、
曹植はなぜ、曹操の「薤露」に依拠する「惟漢行」を重ねて作ったのでしょうか。
このことについて、もう少し考察を続けたいと思います。
それではまた。
2019年12月13日
再考の種をもらった
以前にも述べたことがありますが、
西晋の傅玄に「惟漢行」という楽府詩があります。
魏王朝の「相和」十七曲の一つ「薤露」に、武帝曹操が歌辞を寄せた「惟漢二十二世」、
これに基づいたことを楽府題に明示する傅玄「惟漢行」ですが、
その内容は、かの鴻門の会のドラマティックな場面を詠ずるものでした。
これは、西晋時代、曹操の「薤露」が宮中で歌われなかったからこそ許されたことでしょう。
こうした内容を、昨日の授業で交換留学生に話していたところ、
傅玄が魏の時代にこの楽府詩を作ったという可能性はないか、との質問を受けました。
傅玄(217―278)は西晋の人とされていますが、
たしかに、司馬炎が魏から受禅した265年12月の時点で彼はすでに49歳、
司馬懿が曹爽を殺して魏王朝における実権を掌握した249年時点で33歳ですから、
傅玄は青壮年期を、司馬氏が魏王朝を骨抜きにしていく時間の中で過ごしたことになります。
傅玄は、西晋王朝の雅楽の歌辞を多数制作している一方、
後世にいわゆる「清商三調」の歌辞、また宮廷音楽とは無関係の雑曲歌辞も作っています。
(こちらの「漢魏晋楽府詩一覧でデータの並べ替えをしてみていただければ明らかです。)
その中で、魏の宮廷音楽「相和」の、曹操「薤露」に由来する歌辞は異質です。
しかも、そのことを楽府題によって明示している。
傅玄「惟漢行」を、その成立年代も含めて、
彼の魏王朝に対する見方と合わせて考え直したいと思います。
それではまた。
2019年12月12日
曹植作品と漢代画像石
曹植の作品の中には、
漢代画像石との関わりを視野に入れてこそ理解が進むと思われるものが、
先週取り上げた諸々の画賛以外にもいくつかあります。
そのひとつが、楽府詩「当牆欲高行」(『楽府詩集』巻61)です。
龍欲升天須浮雲 龍が天に上ろうとするならば浮揚する雲が必要だし、
人之仕進待中人 人が官職を得ようとするならば有力な仲介者が必要だ。
衆口可以鑠金 衆人の口は金をも融かすと言うとおり、
讒言三至、慈母不親 讒言が三たびやってくれば、慈母も子から遠ざかる。
憤憤俗間、不辯偽真 紛々と乱れた俗世間の人々には、真偽を見分けることができない。
願欲披心自説陳 なんとか心の中を打ち明けて、自ら釈明したいと願っているが、
君門以九重 君主のいます宮殿の門は幾重にも閉ざされていて、
道遠河無津 道は遠く、河には渡し場がないという有様だ。
この楽府詩には、『楚辞』を踏まえた痕跡が随所に認められます。
(具体的には、こちらの学会発表№17の発表原稿p.5―6をご覧ください。)
そうした中で異彩を放っているのが、
第四・五句の「讒言三至、慈母不親」という表現です。
これは、孝行息子で知られる曾参とその母の故事を踏まえるもので、
文献資料としてしばしば挙げられるのは、次に示す『戦国策』秦策二の記事です。*1
昔者曾子処費、費人有与曾子同名族者而殺人、人告曾子之母、曾子之母曰、吾子不殺人。織自若。有頃、人又曰、曾参殺人。其母尚織自若也。頃之、一人又告之曰、曾参殺人。其母懼、投杼踰牆而走。夫以曾参之賢与母之信也、而三人疑之、則慈母不能信也。
昔、曾子が費にいたとき、費の人で曾子と族名が同じ者が人を殺した。人々は曾子の母にこのことを告げた。曾子の母は、「我が子は人殺しなどしません」と言って、それまでと変わりなく機織りを続けた。しばらくして、人がまた「曾参が人を殺した」と言った。その母はなおも平然と機織りをしていた。しばらくして、ある人がまた「曾参が人を殺した」と告げた。その母は恐れおののき、杼(ひ)を投げ出し、垣根を飛び越えて逃げた。そもそも曾参の賢明さとその母の深い信頼があっても、三人がこれを疑わせると、慈母でさえ信じることができなかったのだ。
ただ、ここには、曹植の詩にあった「讒言三至、慈母云々」という表現が見当たりません。
しかも、ここに見える曾参の母の故事は、実はそれ自体を中心的に取り上げて記すものではなく、
将軍甘茂が、秦の武王から信頼を勝ち取るために、たとえ話として持ち出したに過ぎません。
ところが、これとほとんど一致する辞句が、
山東嘉祥県武梁祠西壁の「曾母投杼」の図像の下に、「讒言三至、慈母投杼」と見えています。*2
以上のことは、どう解釈するのが妥当でしょうか。
まず、曾参母子の信頼関係をテーマに語られていた故事が古くからあったとして、
『戦国策』に記された甘茂のたとえ話はそれを用いたのでしょう。
このことは、この故事がよほど広く人々の間に知れ渡っていたのでなければ不可能です。
にも拘わらず、この故事そのものを中心に据えて記す文献は現存しないようです。
口承文芸は、一部の例外を除いては、基本こうしたものなのでしょう。
画像石の隅に刻まれた「讒言三至、慈母投杼」と、
曹植の楽府詩に見える「讒言三至、慈母不親」との近似性は、
語られていた同一の物語の断片が、それぞれに掬い上げられた結果ではないかと考えます。
(このことは前掲の学会発表で述べましたが、諸注釈書に指摘がないので、ここに示しました。)
それではまた。
2019年12月11日
*1 張道一『漢画故事』(重慶大学出版社、2006年)p.70―71を参照。
*2 張道一前掲書、及び長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)p.74を参照。
書き続けること
昨日は、書けませんでした。
先週末、嚴島神社宝物名品展で、横山大観「屈原図」を見たので、
(思ったよりも大きく〈132.7×289.7㎝〉、灰色を帯びた緑が瑞々しい絵でした。)
この絵が東京美術学校を追われた岡倉天心を表徴したものとされていることをめぐって、
思うところを書きたいと考えていたのです。
明治時代、不遇失意の人に屈原を重ね合わせて表現するという発想があったこと、
屈原という中国古典の英雄は、つい最近まで日本人の心の中にも普通に生きていたのだということ。
また、師の後を追い、自らも辞職するという行動に出る人々がいたことへの感嘆も。
ですが、岡倉天心が職を追われることになった経緯を知ると、その気持ちが萎えました。
横山大観『大観画談』(日本図書センター、1999年)に、「美術学校紛擾事件の真相」の条があり、
菱田春草の絵の評価をめぐる教官相互の対立に、ことの発端があったことが記されています。
そして、これに続けて述べられているのが「日本美術院の誕生と私の「屈原」」です。
明治の人々の精神は、世間に流布するゴシップとは別次元に高く飛翔してしていたのでしょう。
ですが、さる内実を知らされると、なんだか門前で追い払われたように感じました。
自分ごときが感想を書くことなど笑止千万と思わされてしまいました。
「屈原図」の背後に上記の事件があることは、わかる人にはわかったでしょう。
ただ、公開の場でそのことが長らく明らかにされてこなかったのは、
この事件が内包する灰汁が抜けきるまで、それなりの時間が必要だったからではないでしょうか。
***
日々書き続けたいのは、これが自分にとっての自主トレーニングだから。
ある水準に達していないと公開できない、と考えると、ほとんどが没になりますし、
その判断にもまたエネルギーを使うことになってしまいますから。
それではまた。
2019年12月10日
描かれた列女伝
漢代、列女伝・孝子伝・列士伝・列仙伝の類は、
図画とともに伝えられていた可能性が極めて高いことを昨日述べました。
こうした図画入りの伝を、
多くの論者は、儒教的規範を広めるためのものと捉えています。
儒教が国家の教えとしてすでに定着していたこの時代、これは順当な解釈でしょう。
ただし、目を留めたく思うのは、そうした文物が持つニュアンスです。
後漢の順帝の皇后となった、梁商のむすめ梁妠について、
『後漢書』巻10下・皇后紀下には次のような記録が見えています。
少善女工、好史書、九歳能誦『論語』、治『韓詩』、大義略挙。
常以列女図画置於左右、以自監戒。
幼少の頃から女性としての仕事をよくこなし、歴史書を好み、九歳にして『論語』が暗誦し、『韓詩』(『詩経』解釈の一派)を学び、それらの概略を理解していた。
常に列女の図画を身近に置いて、自らを戒めるよすがとしていた。
この後に、彼女が十三歳で後宮に入ったという記述が続いていることから、
先に示した記事は、それ以前のことを述べるものだと知られます。
つまり、「列女図画」は、少女にも親しみやすい文物であったということですね。
また、後漢の光武帝について、
『後漢書』巻26・宋弘伝には次のような逸話が記されています。
弘当讌見、御坐新施屏風、図画列女、帝数顧視之。*1
弘正容言曰、「未見好徳若好色者。」帝即為徹之、笑謂弘曰、「聞義則服、可乎。」*2
宋弘が光武帝に宴見(くつろいだ場での謁見)したとき、そこに新たに屏風が設けられ、列女の図画が描かれていて、皇帝は何度も振り返ってそれらの絵に見入っていた。
弘が顔つきを正して、「未だ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ず」と言うと、皇帝は即座にこれを撤収して、笑って弘にこう言った。「義を聞きて則ち服す、これでよろしいか。」
光武帝は、列女伝が記す教訓的な故事の内容よりも、
絵が描き出す彼女たちの凛々しく麗しい姿に魅了されたのですね。
絵図を伴う列女伝は、こうした享楽的な雰囲気の中でも受容されていたのでしょう。
更に、こうした女性たちは、曹植の「鼙舞歌・精微篇」(『宋書』巻22・楽志四)にも詠じられ、
今は伝わらない漢代の「鼙舞歌・関東有賢女」も、同様の内容を持っていたと推測されます。
(詳しくは、こちらの学術論文№39をご参照ください。)
鼙舞は、漢代の宴席で演じられていた舞踊です(『宋書』巻19・楽志一)。
すると、図画を伴う列女伝の内容は、そうした場にもよく馴染むものであったと言えるし、
その中には、語り物として上演されていた故事もあるかもしれない。
ここまでが、現時点で明言できることです。
それではまた。
2019年12月7日
*1 「施」字は、『藝文類聚』巻69に引く『東観漢記』に拠って補った。
*2 「未見好徳若好色者」は、『論語』子罕篇にいう「子曰、吾未見好徳如好色者也」を踏まえ、「聞義則服」は、『論語』述而篇にいう「……聞義不能徙也、……是吾憂也」をもじったもの。『論語』を援用しながらの戯れの応酬である。
漢代画像石に描かれた歴史故事
漢代画像石には、現世での宴席風景を描くものが多く、
「二桃殺三士」や「荊軻刺秦王」などの歴史故事は、しばしばその一角に見えています。
これは、宴席で上演されていた様子をそのまま写し取ったものだろう、
とかつて推定したことはこちらでも述べました。
ですが、画像石の中には、昨日も言及した武梁祠のように、
歴史的人物の図像をびっしりと並べるタイプのものが一方にあり、
これは、現実の建造物に描かれた絵画を写し取ったものであろうと推定されています。*
(曹植の画賛も、こうした図像群に対して寄せられたものだと見られます。)
漢代画像石に描かれた歴史故事、と一口に言っても、
実は、前掲のタイプと、後者のタイプとがあったのではないでしょうか。
武梁祠に描かれた人物たちの故事がすべて、宴席芸能として上演されていたかは疑問です。
では、祠堂の内壁をうずめる人物たちは、当時どのようなかたちで伝えられていたのでしょうか。
この問題について、
変文のような絵物語として行われていたと推論したことがあるのですが(学術論文42)、
これも、一部にそうした例があるにせよ、すべてがそうだとは言い切れませんね。
ただ、漢代当時、歴史的人物が図像とともに伝えられていたことは確実です。
『漢書』藝文志・諸子略・儒家類には、『列女伝頌図』という書名が見えていますし、
『太平御覧』巻411には、かの董永の故事を記す文献が、『孝子図』として引かれています。
また、『隋書』経籍志・史部・雑伝類には、漢代、阮倉なる人物が列仙図を作り、
これを契機に、劉向が列仙・列士・列女の伝を作ったと記されています。
かつて論じたことに但し書きを付したいのは、
そうした図像に、もれなく語りの芸能が付いていたとは断言できないということです。
それではまた。
2019年12月6日
*このことは、清朝の瞿中溶が、その『漢武梁祠画像考』序において夙に指摘しています。
曹植が見ていた絵画(再び)
曹植の画賛に取り上げられた様々な人物の図像のうち、
「二桃殺三士」の故事を描くものに焦点を絞り、
それが宴席芸能であった可能性を、このところ論じてきました。
ここで再び、曹植の画賛に立ち返ってみます。
「二桃殺三士」は、なるほど宴席で演じられていたかもしれません。
ですが、曹植が賛を寄せた図像のすべてにそれは言えることなのでしょうか。
曹植の画賛に謳われた一連の人物たちは、
たとえば、過日も触れた武梁祠にずらりと描かれた人物の画像石や、
後漢の王延寿「霊光殿賦」(『文選』巻11)に描写された宮殿内の絵画の有様と重なります。
また、曹植が宴席で、一世の文化人邯鄲淳に披露して見せたことのひとつに、
「羲皇以来賢聖名臣烈士の優劣の差を論ず」ということがありましたが、
(『三国志』巻21「王粲伝」裴松之注に引く『魏略』)
この史料における記述の有様とも似ています。
そして、この『魏略』では、
上述の人物評論は、哲学談義と文学批評との間に並び、
「俳優の小説数千言を誦す」とは区分されたかたちで記されています。
こうしてみると、当時の図像に描かれている歴史的人物の故事は、
そのすべてが宴席で上演されていたわけではないと見なければなりません。
(このことが、かつての拙論(学術論文38・42)では不分明でした。)
建造物の内部を飾り、
死者の世界に連なる祠堂の内部に再現された人物たちの図像のうち、
その一部が、芸能として語られ、演じられていたということなのかもしれません。
単線として捉えるよりも、
共存する複線をイメージする方が、実態に近いのかもしれません。
それではまた。
2019年12月5日
歴史故事を歌う葬送歌(承前)
楽府詩「梁甫吟」の成立は、宴席においてであっただろうと昨日述べました。
この推定は妥当でしょうか。
「梁甫吟」は、三国蜀の諸葛亮が愛唱したことで知られています。
(『藝文類聚』巻19では、彼の作であるかのような記し方をしています。)
世話になった従父を亡くし、自ら農耕に従事していた彼が、この歌を好んで吟じていたと、
『三国志』巻35・諸葛亮伝には記されています。
そうした歌辞が宴席文芸であったとは、何かしっくりこない印象を持たれるかもしれません。
それでもやはり、この古楽府(詠み人知らずの楽府詩)は宴席で誕生したと見るのが最も妥当です。
そう考え得る根拠を以下に述べます。
まず、便宜上、この楽府詩の本文のみを再掲しておきましょう。
歩出斉城門、遥望蕩陰里。里中有三墳、累累正相似。問是誰家冢、田疆古冶子。
力能排南山、文能絶地理。一朝被讒言、二桃殺三士。誰能為此謀、国相斉晏子。
この1・2句目、及び結びの2句は、次にあげる古詩を明らかに踏まえています。
古詩とは、漢代詠み人知らずの古典的五言詩で、
ここでは、最も閲覧しやすい『文選』巻29所収の「古詩十九首」で示すこととしましょう。
まず、「梁甫吟」の冒頭2句は、次に示す其十三の冒頭2句とよく似ています。
駆車上東門 車を上東門(後漢の都洛陽に実在した城門)に駆り、
遥望郭北墓 遥かかなたに城郭の北に横たわる陵墓群を望む。
また結句は、其五に見える次の2句と同じ措辞を取っています。
誰能為此曲 誰がこの曲を奏でて歌うことができるかといえば、
無乃杞梁妻 それはかの杞梁の妻ではないだろうか。
ここに挙げた古詩はいずれも、
数ある古詩の中でも、特に別格視されてきた一群に含まれるもので、
後漢時代の初めごろには成立していたと推定できます。
(こちらの著書4『漢代五言詩歌史の研究』の第1~3章をご参照いただければ幸いです。)
そうした古詩が、複数、「梁甫吟」という古楽府に流入しているのですね。
このことをどう見るか。
まず、「梁甫吟」から、複数の古詩が派生したとは考えにくいです。
これは、先に述べた、かの特別な一群の古詩が持つ普遍性から見ての判断です。
それよりも、特別な古典的古詩の一群が出そろった段階で、
それらの中から選び取った表現を複数組み合わせて「梁甫吟」が成ったと見る方が自然です。
だとすると、古楽府「梁甫吟」の成立は、後漢時代だと推定できます。
後漢時代、宴席という場では、古詩と古楽府とが出会い、
古詩に似た古楽府、古楽府の歌辞を取り込んだ古詩が陸続と誕生していました。
(詳細は、学術論文30(前掲拙著第5章にも収載)をご参照いただければ幸いです。)
古楽府「梁甫吟」も、こうした文芸的新動向の中で、
「梁甫吟」のメロディと、複数の古詩と、そして歴史故事に基づく語り物文芸という、
宴席という場を共有する、三種の文芸が出会って生まれたものだと推し測ることができます。
なお、以上のことはこちらの学会発表17で概略を述べました。
ですが、中国の研究者の方々にはほぼスルーされてしまいました。
古詩や古楽府の歴史的位置に対する捉え方が異なるので、当然と言えば当然ですが。
それではまた。
2019年12月4日