李陵・蘇武の詩と建安詩
先日、訳注を公開した「送応氏二首」其二の詩には、
前漢の李陵と蘇武の名に仮託された五言詩が明らかに踏まえられています。
(2月18日にも言及した作品群、いわゆる「蘇李詩」です。)
このことについては、かつて拙著(著書№4)で詳しく論じたことがあるのですが、
これを読み返していて、末尾の表現にも蘇武の詩が意識されていることを思い出したので、
本日、該当ページに追記しました。
「蘇李詩」の真偽、及び成立時期の問題については、
曹道衡氏が、確かな結論を出すためには新史料の出現を待つほかないとしています。*1
また、「蘇李詩」は、劉宋の顔延之「庭誥」(『太平御覧』巻586)によって発見され、
以降、本作品に対する言及が増えてくる、と指摘する先行研究もあります。*2。
ですが、建安詩の中には「蘇李詩」を経てこそ成った表現が複数たしかに認められ、
これにより、「蘇李詩」の成立は、少なくとも建安文壇に先んずることは確実だと判断できます。
ところで、率直に言えば、拙著はあまり読まれていないと思うのですね。
ですが、少なくとも漢代の五言詩や楽府詩に論及する場合にはぜひご一読ください。
その上で、批判するなり、通り過ぎるなりしていただければと思う。
それに、自分で言うのもなんですが、かなり面白いですよ。勉強になるというよりも。
そこで、本の宣伝をかねて、上記の部分(ほんの3ページほど)を公開します。
出版は2013年3月ですが、まだ入手できると思います。
興味のある方は、今からでもぜひどうぞ。
ところで、昔の自分の論文を読み返し、正直、今の自分は負けていると思いました。
でも、今だからこそ読み取れるもの、論じられることもあるはずです。
(「送応氏」詩の読みが、前掲論著では間違っていますし。)
そう思って、歩き続けることにします。
それではまた。
2020年2月24日
*1 曹道衡「“蘇李詩”和五言文人詩的起源」(『文史知識』1988年第2期)。
*2 松原朗「蘇武李陵詩考―離別詩の一つの源泉―」(『中国離別詩の成立』研文出版、2003年。初出は『中国詩文論叢』第21集、2002年)。
長いスパンで考える
毎年、高校への出前授業にエントリーします。
それが大学教員としての仕事であるから、というよりは、
高校生に、少しでも中国古典の世界に触れて、面白いと思ってもらいたいから。
とはいえ、高校の方からのオファーはほとんどありません。
以前はそれなりに呼んでいただけましたが、このところはさっぱりです。
本年度は、「異文化体験としての古典学修」と題して次の概要を登録していました。
中国古典『孟子』に由来する日本語「独善」を取り上げて,今と昔,中国と日本との間にある意味の違いや,そのような変質が生じた背景について考察します。古典を学ぶということを,一種の異文化体験と捉え直してみましょう。
自分としては、なかなか面白いテーマだと思うのですが、つまらないでしょうか。
自分が面白いと思うことを話す、というのが基本だと思っているので、仕方がないです。
このたびは、「嚴島に伝わる舞楽の来源」と題して、次の概要を登録しました。
嚴島神社に伝わる舞楽はどこからやって来たのでしょうか。この問題を究明しながら,私たちは,日本列島という東アジアの一隅が,広大な世界とつながっているという事実を知ることになるでしょう。
来年度(今年の4月)、大学全体が再編され、
現在所属している「人間文化学部・国際文化学科」が、
「地域創生学部・地域創生学科・地域文化コース」となりますが、
このことを意識して、出前授業のエントリー内容を考え直したわけでは必ずしもありません。
話の土台となるのは前に行った研究ですし*、授業でも取り上げてきた内容です。
また、大学教育の中での自分の分野の位置づけや役割についても、
もう長いこと試行錯誤を重ねながら考えてきています。
心ある教員は皆そうなのではないでしょうか。
長いスパンで物事をとらえ、若い人にとって根幹となるものをじっくりと育てていく、
それが、社会の中で大学が果たすべき役割なのだと私は思っています。
それではまた。
2020年2月21日
*こちらの[学術論文]№26、№36、及び[報告・翻訳・書評等]№12をご参照いただければ幸いです。
苦境の只中にある天才
本日、[曹植作品訳注稿]に「当牆欲高行」を公開しました。
これまでに[日々雑記]で触れたことのある作品から順次公開しようと思っておりますが、
改めて訳注というかたちに整えるには、かなりの手直しが必要だと痛感します。
(雑記では気楽に書いていられたのですが。)
この楽府詩「当牆欲高行」には、
『楚辞』という古典に由来する表現も、俗諺も、混然一体となって注ぎ込まれています。
また、『楚辞』とともにかなり強く意識しているように思われたのが、
前漢の辞賦作家、鄒陽の「獄中上書自明(獄中にて上書し自ら明らむ)」(『文選』巻39)です。*
表現のみではなく、この上書が持つ文脈をも踏まえていると感じました。
『三国志』巻19「陳思王植伝」によると、
彼は十歳あまりで『詩経』『論語』『楚辞』及び漢代の辞賦作品、数十万言を諳んじ、
かつて、父曹操に「代作してもらったのか」と問われると、
「言葉が出れば「論」となり、筆を下せば「章」となります」云々と答えたといいます。
当時の議論は、対句的均衡のとれた美しい言語の応酬といった様相でしたし、
「章」は、文(あや)なす言語芸術作品の意であって、今の「文章(散文)」とは異なります。
このように、美しい言葉が即興で次々にあふれ出てくる、
そこには雅俗の区別はなく、正統的な古典も民間に流布する俗諺も同列に用いられる、
これが、恵まれた環境の中で培われた、曹植の言語表現のあり様でしょう。
「当牆欲高行」は、そんな曹植が苦境の只中で詠じた作品です。
それではまた。
2020年2月20日
*古直『曹子建詩箋』巻4に指摘されている。
豊饒な言葉の海を湛えた人
曹植が好んで言及する周公旦と延陵季子(呉王季札)は、
いずれもその境遇が曹植に似ています。
周公旦については過日も何度か言及したとおりですし(たとえばこちら)、
呉王季札は、兄弟の最年少でありながら王位を継承させられそうになったのを固辞し、
延陵に封ぜられたという人で(『史記』呉太白世家、劉向『新序』節士篇)、
ある時期までの曹植にとっては、自身の行動の指針ともなった人物だと言えます。
彼は、魏王曹操の後継をめぐって、兄曹丕との間に長らく緊張関係を抱えていましたから。
境遇の類似から来る親近感と尊敬の気持ちから、
曹植は彼らのことを幾度もその作品の中に登場させたに違いありません。
他方、彼らはいずれも、漢代画像石によく描かれる人物たちです。*
(画像石とは、陵墓や祠堂の壁面に線刻された図像で、かつて何度か言及しています。)
このことは、彼らの逸話が当時ポピュラーなものであったことを物語っています。
つまり、周公旦や延陵季札は、曹植が敬愛してやまない先人であったと同時に、
当時の広範な一般の人々にとっても、非常に身近な歴史上の人物であったということです。
曹植はその作品に、通俗的な故事成語の類をわりとよく引きますが、
周公旦や延陵季子への言及は、そうした曹植文学の特質の現れと見ることもできるでしょう。
彼は、古今雅俗が混然一体となった豊饒な言葉の海から、
思いに釣り合う辞句が自然と湧き上がってくるのを、次々と掬い上げていったのでしょう。
それではまた。
2020年2月19日
*かつて、『中国画像石全集』全八巻(山東美術・河南美術出版社、2000年)に拠って調査した結果を添付しておきます。正確さには欠けますが、大勢は把握できます。また、こちらの学術論文№38では、この問題に関わる先行研究にも触れています。
表現の類似と制作年代
複数の作品に、非常によく似た表現が見えている場合、
それらの作品相互の関係性は、どう捉えるのが最も妥当でしょうか。
一方が特に広く認知された作品である場合は、
もう一方は、この人口に膾炙した作品を意識して踏まえたと見るべきでしょう。
中国古典文学に常套的な、いわゆる典故表現はこれに該当します。
漢代詠み人知らずの五言詩である古詩や、
李陵・蘇武の名に仮託された五言詩(いわゆる蘇李詩)は、
後漢末の建安詩人たちの五言詩とその表現が非常によく重なります。
これに拠り、これらを近い時代の産物と見る論がかつては大勢を占めていました。
ですが、実はこの三者は、建安詩が古詩や蘇李詩を踏まえたものである、という関係です。
(さらに言えば、蘇李詩は古詩中の特別な一群の上に成り立っています。)
詳細は、こちらの著書№4をご覧いただければ幸いです。
では、同じ詩人の作の中で、同一句を含んでいる場合はどうなのでしょう。
曹植の「薤露行」と「送応氏二首」其二とは、「天地無窮極」という句を共有しています。
短絡的に、だから両詩は同じ頃の作だ、と言えないのは当然ですが、
だからといって、表現の類似が制作年代と全く無関係とも言えないように思います。
おそらく、類似句だけを見つめていたのでは何も出てこないのでしょう。
しばらく考えてみます。
それではまた。
2020年2月18日
先行研究の少ない作品
考察中の曹植の「薤露行」と「惟漢行」について、
これを正面から取り上げた先行研究は、CiNiiやCNKIで検索する限りは見当たりません。
魏晋南北朝期を代表する詩人として、曹植には幾多の先行研究があります。
それなのに、なぜ上記の二作品は等閑視されてきたのでしょうか。
中国の詩人のほとんどは、儒家思想の体現を志しているといってよいでしょう。
自身の知力を存分に発揮して為政者を補佐し、人々の生活の安定に寄与するという志です。
ところが、後世にまで記憶される詩人の多くは、この理想から外れる生涯を余儀なくされています。
「薤露行」や「惟漢行」は、曹植の儒家的な志に密接に連なる作品です。
それが、文学作品としてつまらないかどうか、私には評価をするだけの力はありません。
ただ、自分たちにも通底するような普遍性をそこに見出すことはなかなか難しい。
だから、論じる人が少ないのでしょうか。
数少ない例として、小守郁子「曹植論Ⅰ」*が、「惟漢行」の本文を引用して論じ、
その前には曹操の「薤露」を承けた「薤露行」への論及も見られます。
今自分が取り組んでいることと、取り上げる文献資料は多く共通しています。
ですが、その用い方やつなげ方が異なっている。つまり、論としては別物になりそうです。
それではまた。
2020年2月17日
*『曹植と屈原 付「風骨」論』(小守郁子、1989年)所収。初出は『名古屋大学文学部研究論集』69号、1976年3月)。
愛情に恵まれすぎた人
昨日、長かった曹植「七啓」のテキスト入力がやっと終わりました。
(今更ながらの作業であろうことは承知の上です。)
丁晏纂・葉菊生校訂『曹集詮評』(文学古籍刊行社、1957年)の句読点に従って全443句、
初めて見るような漢字も多く出てくるし、何を言っているのかさっぱりわからない。
そこで、せめて概略だけでもと思い、集英社・全釈漢文大系『文選』の訳注を開いてみると、
目に飛び込んできたのは、最後の部分です。
曹植は、父曹操を絶賛していました。
人間社会からかけ離れたところに隠居していた玄微子に対して、
鏡機子は曹操のことを指して「天下 穆清にして、明君 国に莅(のぞ)む」といい、
この言葉に、それまで躊躇していた玄微子が始めて心を動かした、という急転直下の結末です。
この作品は、その序に、王粲にも同じ「七」作品を作らせたと記されています。
王粲は、建安13年(208)、曹操が荊州を下したときに曹魏の幕下に入り、
建安22年(217)、疫病によって亡くなっていますから、
「七啓」の成立年代は、広く見積もって、曹植の年齢で17歳から26歳までとなります。
(こちらの「曹植関係年表」を併せてご参照いただければ幸いです。)
この間の最末期、曹植は不届きな行動によって父曹操に見放されますが、
そこへ至るまでの間、彼はその才能と飾らない人柄により、父の愛情を独占していました。
「七啓」に見える上述のような父(主君)曹操への傾倒ぶりは、
その年齢の若さによるのでしょうが、自身が受けた愛情の大きさゆえにでもあったでしょう。
政治的にうまく立ち回らんがための巧言、とは読み取りにくいように感じます。
兄の曹丕が文帝として即位して後、曹植は黄初六年(225)の令に、*
「吾は昔、人を信ずるの心を以て、左右を忌むこと無し」と述べていますが、
誠にそのとおり、彼は青少年時代、愛情に恵まれすぎた人であったのかもしれません。
それではまた。
2020年2月15日
*『曹集詮評』巻8所収。影弘仁本『文館詞林』巻695(古典研究会、1969年)p.430は「自試令」に作る。
小さな存在、大きな自由
「曹植作品訳注稿」の公開を始めました。
巻4「公宴」「侍太子坐」「元会」、巻5「薤露行」「平陵東」「惟漢行」を上げています。
少し時間がかかりそうですが、倦まず弛まず作業を進めていきたいと思います。
今日は「平陵東」の訳注を整えて公開したのですが、
これまで「平陵」とは何で、どこにあるのか、知らないままだったことに気づきました。
公開するとなると、わかったつもりで流すことができなくなります。
とはいえ、こうした情報は、ネットで調べればすぐに出てきます。
それを手掛かりに、提示すべき文献にも比較的容易にたどり着くことができます。
ですが、問題はそこから先であって、
長安近郊に位置する、前漢の昭帝の陵墓(平陵)が、
なぜ、王莽に抵抗して非業の死を遂げた翟義を追悼する歌の題と結びつくのか、
そのことに意味があるのかないのか、さっぱりわかりませんでした。
知識は簡単に手に入っても、
それを血肉化し、そこから考察を広げていくにはそれ相当の時間がかかります。
でも、そうしたことに打ちひしがれるのではなくて、
自分の小ささを自覚し、そこからスタートすればよいのだと思います。
私はそこに大きな自由を感じます。
それではまた。
2020年2月13日
曹植の希望の星
文献複写の依頼をしていた矢田論文が届きました。*
拝読してとても面白かったので、その概要を私なりに記してみます。
曹植の詩には、表現上、屈原作とされる「離騒」「九章」等の影響が少なからず認められる。
だが、曹植はその作品の中で屈原その人に言及することは稀である。
これはなぜか。
屈原は、楚王の同族として忠義を尽くしたが、讒言のために自殺に追い込まれた人物である。
曹植も、魏王室の一員として現実参画を強く希求しながら、その望みは叶えられなかった。
この点において、曹植は屈原と境遇が非常によく似ている。
他方、曹植の詩によく言及される周公旦は、
一時的に讒言されて周王朝から退けられることはあったものの、
最終的には、実の叔父として周の成王をよく輔佐し、周の基礎を築いた人物である。
周公旦と曹植も、その王室との血縁関係において多く重なり合う。
曹植は、その境遇において、屈原にも、周公旦にも類似する部分を持っている。
にもかかわらず、屈原には無関心を装い、周公旦の不遇には多く言及している。なぜか。
現実参画への望みを最後まであきらめなかった曹植にとって、周公旦は希望の星であった。
他方、悲劇的な最期を遂げた屈原のような人生は、彼にとって絶望を意味している。
曹植が屈原に背を向けたのは、こうした彼自身の内面的事情によるだろう。
曹植が、自身を周公旦と重ね合わせ、そこに希望をつないでいたという指摘、
全面的に賛成です。
2020年2月12日
*矢田博士「境遇類似による希望と絶望―曹植における周公旦及び屈原の意味」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』別冊文学・芸術学編19、1993年)
言葉のリレー
昨日、思わず引用した「絶望の虚妄なること、まさに希望と相同じ」は、
魯迅の散文詩集『野草』に収録された「希望」(1925年1月1日)からの言葉です。
絶望之為虚妄、正与希望相同。
この語が、ハンガリーの詩人Petofi Sandor(ペテーフィ・シャーンドル) に由来することは、
詩の本文においても作者自らが記しているところですが、
『魯迅全集』第2巻(人民文学出版社、1981年)p.179の注釈により、※
彼が友人(凱雷尼・弗里傑什)に宛てた書簡の中に、この趣旨の言葉が見えることを知りました。
この東欧の詩人であり革命家であるペテーフィ(1823―1849)の言葉に、
中国が近代に突入する時代を、戦いつつ切り開いた魯迅(1881―1936)が深く共鳴した、
だからこそ、魯迅はその散文詩の一隅にペテーフィの言葉を引用したのでしょう。
そして、現代の私たちは、ペテーフィや魯迅をそれほど深く知らなくても、
各自の境遇の中で、この言葉はまさしく自分に向けられたものだ、とばかりに受け留めています。
このような言葉のリレーはもちろん古い時代にもあって、
(というより、魯迅はこうした中国文学の大きな流れの上に登場したとも言えます。)
人から人へ、言葉が手渡され、広がっていく筋道を丁寧にたどることこそが、
真の文学史研究なのだと私は考えています。
それではまた。
2020年2月11日
※魯迅や近代文学の研究分野では、この後も陸続と研究書等が出ているかと思います。