若き日の傲慢さと繊細さ

先に書いた徐幹の没年について、
曹植の文章の中に参考になるものがありました。

『曹集詮評』巻9に収録する「説疫気」(『太平御覧』巻742)という文章がそれです。
以下、その全文を抄出し、通釈を示します。

建安二十二年、癘気流行、家家有僵尸之痛、室室有号泣之哀、或闔門而殪、或覆族而喪。或以為疫者、鬼神所作。夫罹此者、悉被褐茹藿之子、荊室蓬戸之人耳。若夫殿処鼎食之家、重貂累蓐之門、若是者鮮焉。此乃陰陽失位、寒暑錯時、是故生疫。而愚民懸符厭之、亦可笑。

建安二十二年(217)、疫病が流行し、あちらこちらの家々に、倒れた死体に取りすがって号泣する人々の姿があって、一門残らず死に絶えたり、一族もろとも亡くなったりするような場合もあった。ある者は、疫病は鬼神のしわざだと考えている。だが、そもそもこの病に罹る者はみな、粗末な衣を着て豆の葉を食べ、イバラや蓬でしつらえた家屋に住んでいるような貧しい人たちばかりである。一方、たとえば御殿に住んで多くの鼎を並べて食べ、貂の皮衣や敷物を重ねるような裕福な生活をしている家に、こうした病人はまれである。これは、陰陽がしかるべき位置を見失い、気候が異常な状態となったために、疫病が生じたのである。それなのに、愚かな民はお札を懸けてこれを追い払おうとしているのは、またなんと可笑しなことよ。

この書きぶりから見て、
王粲・陳琳・応瑒・劉楨らの命を一挙に奪った疫病は、
建安二十二年を超えることはなかったと判断してよいように思います。

徐幹の没年を、『中論』序文は建安二十三年と記していたのでしたが、
正しくは二十二年、このあやまりはおそらく伝写の過程で生じたものでしょう。

曹植がこの文章を書いたのは、建安二十二年当時だとして、時に二十六歳。
この年、彼は領邑五千を加増されていますが、
同じ頃、宮殿の司馬門を勝手に開いて外出し、曹操を激怒させています。(『三国志』巻19「陳思王植伝」)
兄の曹丕が魏王の太子に立てられたのは、この年の10月でした。

さて、この文章において曹植は、疫病の広がり方と貧富の差との関係に目を留めています。
非常に繊細、かつ合理的な分析力でもって、民の苦しみに向き合っているのですね。
その一方、彼らを「愚民」と称し、その迷信的な疫病防止策を嘲笑しています。

繊細な才気をたたえた若者にありがちな、初々しい傲岸さを垣間見るようです。

それではまた。

2019年11月21日

※『中論』序文の著者と厳可均が推定する任嘏は、かつて臨菑侯曹植の庶子を務めていたことがあります。このことを示す資料を、先の11月5日のページに追記しました。

正史に五言詩が見えない理由

曹道衡「“蘇李詩”和五言文人詩的起源」(『文史知識』1988年第2期)を再読し、
改めて触発され、自分なりに調べなおして考えたことを記しておきます。

『史記』巻7・項羽本紀に、項羽が四面楚歌に追い込まれた場面を描いてこうあります。

於是項王乃悲歌忼慨、自爲詩曰、
  そこで項王は悲歌忼慨し、自ら次のような詩を作った。
力抜山兮気蓋世、時不利兮騅不逝。
  「力は山を抜き、気は世を覆うほどなのに、時運に見放され、愛馬の騅は進まない。
騅不逝兮可奈何、虞兮虞兮奈若何。
  騅が進まないのをいったいどうしよう。虞よ虞よ、お前をどうしよう。」
歌数闋、美人和之。
  数回繰り返して歌い、虞美人がこれに和した。
項王泣数行下、左右皆泣、莫能仰視。
  項王は数行の涙を流し、左右の者たちも皆泣いて、誰も仰視できなかった。

ここに見えている項羽の詩歌は、○○○兮○○○という九歌型歌謡の様式を示しています。
九歌型歌謡とは、『楚辞』九歌に特徴的な句型を持つ歌謡であって、
前漢時代には、楽器の演奏を伴って盛んに歌われていました。*1
そして、これを記す文献は、しばしば芝居めいた文体をその前後に伴っています。*2

さて、『史記』本文には、虞美人が項羽の歌に続けて和した詩句が記されていません。
この部分には、唐の張守節『史記正義』が次のように注しています。

『楚漢春秋』云、「歌曰、漢兵已略地、四方楚歌声。大王意気尽、賤妾何聊生。」

 「漢軍はすでに楚の地を略奪し、四方から楚歌の声が聞こえてきます。
  大王様はすっかり意気消沈して、私は何をたよりに生き延びればよいのでしょう。」

前漢初期の陸賈が撰した『楚漢春秋』は、虞美人の歌をこう記していたのですね。

張守節が生きていた盛唐の時代、『楚漢春秋』は伝存していました。*3
彼が目睹した『楚漢春秋』には、たしかに虞美人のこの五言歌謡が記されていて、
それは、項羽の先の詩歌に続けて引用されていたのかもしれません。

『史記』は『楚漢春秋』を多く踏まえたといいますが(『漢書』巻62・司馬遷伝の賛)、
ではなぜ司馬遷は、虞美人の歌をこの書から採録しなかったのでしょうか。

同様なことは、『漢書』巻97下・外戚伝下(班倢伃)にも認められます。
趙飛燕姉妹のために後宮を退いた彼女が自らを傷んで作った賦は引かれていますが、
(そのうち「重ねて曰く」以下は九歌型歌謡の形を取っています。)
彼女が作ったと伝えられている五言の「怨歌行」(『文選』巻27所収)は見えません。

正史に引かれていないから偽作だと決めつける論者もいますが、
正史であるがゆえに引かれなかった可能性も大いにあるのではないでしょうか。
五言詩型は、漢代当時、まだ正統的な文学様式としては認められていなかったからです。
(詳しくは拙著『漢代五言詩歌史の研究』(著書4)をご覧いただければ幸いです。)

また、司馬遷『史記』は、女性に対して拒否的な態度を取っているとも見られます。*4

文献に記されて残っていないからといって、それが存在しなかったことにはならないし、
正史のような書物にばかり信頼を寄せるのも危いものだと思います。

それではまた。

2019年11月20日

*1 藤野岩友『巫系文学論(増補版)』(大学書房、1969年。初版は1951年)の「神舞劇文学」pp.168―172に指摘する。
*2 拙著『漢代五言詩歌史の研究』pp.109―114も併せて参照されたい。
*3 盛唐当時の図書目録を踏襲する『旧唐書』巻46・経籍志上には「楚漢春秋二十巻 陸賈撰」、宋代に成った『新唐書』巻58・藝文志二には「陸賈楚漢春秋九巻」とあって、後者の方が『隋書』巻33・経籍志二や『漢書』巻30・藝文志に記す巻や篇の数と一致している。『旧唐書』に著録するそれは、あるいは一時的に行われていた増補版だろうか。もしそうであるならば、上に述べたことは抜本的に考えなおさなくてはならない。
*4 宮崎市定「『史記』の中の女性」(岩波文庫『史記を語る』、岩波書店『宮崎市定全集24』に収載。初出は『信濃毎日新聞』1979年5月19日)を参照。

遠くからの便り

先日の公開講座においでになった方から教えていただいた本、
若林力『江戸川柳で愉しむ中国の故事』(大修館書店、2005年)が、遠く米沢の古書店から届き、
その中に、「山形県能楽の祭典」9月8日(日)入場無料のちらしが入っていました。

演目は、仕舞「葵上」、連吟「俊寛」、舞囃子「胡蝶」、こども狂言「盆山」、とあります。

もう期日は過ぎているので、ちらしの役割は終えていますし、
自分には縁の薄い日本の古典芸能ばかりなのですが、
こうした芸能を楽しむ人々が住む町に、あこがれの気持ちを持ちました。

六条御息所の怨霊の呪いや、離島に取り残される僧侶の怒りと絶望があれば、
梅の花と戯れる蝶の妖精の喜びと感謝、盆栽を盗もうとした男へのからかい等もある。
感情表現が陰に陽に全開だなあと興味深くちらしを読みました。

そして、届いた古書には書き込みがありました。
古書としての価値は下がると聞きますが、前の持ち主と話をしているようで楽しい。

送られてきた本体もまた、江戸の人々が中国の故事とたわむれている様子がうかがえる、
読むこと、知ることの愉しみがたくさん詰まっていそうな本です。
そういえば、自分は古典とこんなふうに付き合ったことがないかもしれません。
(いつもそれは全力で取り組む相手であって、それが私には面白くてたまらないのですが。)
このような新しい楽しみをひとつ分けていただき、ありがたいことです。

それではまた。

2019年11月18日

日本人ならではのやり方で

中国広州で開かれた楽府歌詩国際学術研討会に参加してきました。

この楽府学会は(中国の学会がすべてそうなのかは知らないけれど)、
参加者全員(80名を超える人数)があらかじめ論文を主催校に送り届け、
印刷されて冊子(今年は全3冊)となったそれを用いて、グループ別に全員が発表し、
さらに、全員が司会とコメントを交替で担当します。
(司会者とコメンテーターとを分けるのはよい方法だと思いました。)
そして、最後の全体会で行われる、班別討論の統括は、若手研究者が担当します。

中国の人々の中にも、どちらかといえば内向的という人もいるはずですが、
ひとたび壇上に立てば、どんな人も堂々と自分の意見を開陳します。
言葉を発することが楽しくてたまらないという様子で、呼吸とともにびっしりと話す。
批判されても、ひるまず、くさらず、休憩時間も議論を続け、
そして、その後はお互いにからっとしています。

私は「曹植《七哀詩》与晋楽所奏《怨詩行》―献給曹植的鎮魂歌」と題して発表しました。*
研究方法は、彼らのそれとは異質なものだったはずですが、受け止められたと感じました。
誤解されることなく、こちらの考察内容はほぼ伝わったようだ、という意味です。
(曹植の陵墓の地理的環境について、詳しく教えてくださった方もいらっしゃいます。)
そして、だからこそ、一部に問題点があるとのコメントもいただきました。
漢魏の五言詩歌史をどう把握するか、私の考えは中国の定説とはかなり違っていますから。

総じて、オープンで、公平で、陽性の人々だという印象を強く持ちました。
この学会に参加するのは3回目でしたが、そうした印象はいよいよ増してきています。
彼らのこうした美質には心底敬愛の気持ちを持ちます。
と同時に、自分は自分ならではのやり方でいこう、との思いも強くしました。
そうしてこそ、中国人研究者と対等に交流できるのだと思います。
(あと、中国語をなんとかしなければなりませんが。)

それではまた。

2019年11月15日

*『狩野直禎先生追悼三国志論集』(汲古書院、2019年9月)所収「晋楽所奏「怨詩行」考―曹植に捧げられた鎮魂歌―」を再編成して成ったものです。

強引に民から辛苦を奪う

『三国志』及びその裴松之注には書き留められていない曹操の事跡として、
彼が次のような令を出していることを記しておきます。*

それは、寒食(冬至から百五日目に火を用いた食事を断つ)という慣習を禁ずる令で、
隋・杜台卿撰『玉燭宝典』二月の項に、次のように引かれています。

 魏武明罰令云、聞太原上党西河雁門、冬至後一百有五日、皆絶火寒食、云為介之推。夫之推、晋之下士、無高世之徳。子胥以直亮沈水、呉人未有絶水之事。至於之推独為寒食、豈不偏乎。云有廃者乃致雹雪之災、不復顧不寒食。郷亦有之也。漢武時、京師雹如馬頭、寧当坐不寒食乎。且北方冱寒之地、老少羸弱将有不堪之患。令書到、民一不得寒食。若有犯者、家長半歳刑、主吏百日刑、令長奪一月俸。

 魏の武帝(曹操)の「明罰令」にいう。聞いたところ、太原・上党・西河・雁門の各地では、冬至以降の一百有五日、すべて火を断って寒食(火で温めない冷たい食事)し、それは介之推のためだという。そもそも介之推は、晋の下級士人で、卓越した徳を持っているわけでもない。伍子胥は真っ正直な精神を持ちながら水に沈んだが、呉人は水を絶つようなことをしてはいない。ところが、介之推についてのみ寒食をするとは、なんと偏っていることよ。また、廃止したら雹雪の災いを引き寄せるから、寒食しないではいられない、と言うものがある。だが、昔にもこのようなことがあった。漢の武帝の時、都で馬の頭ほどの大きな雹が降ったのだ(『漢書』巻27中之下「五行志中之下」に記す元封三年十二月の出来事)。それならむしろ何もせず寒食しない方がよくないか。そもそも北方の凍てつく土地で、老人や幼児、身体の弱い者たちは寒食に耐えられない心配がある。令書が到着したら、民はいっさい寒食してはならない。もし違反した場合は、家長は半歳の刑、主吏は百日の刑、令長は一月の減俸とする。

『藝文類聚』巻4、『初学記』巻4、『太平御覧』巻30にも、この一部が引かれています。

常識に縛られず、北方地域における寒食を廃止せよと命じた令なのですが、
その語り口や刑の中身がかなり強引です。
強引に、民から苦しみを取り去ろうとしているところ、惹かれます。
優しい口調で民をだまし、絞り上げるのとは正反対のことをしているのですね。

曹操は、あざといだけの人だったのではないのではないかと思わされる逸話です。

それではまた。

2019年11月7日

*梁・宗懍原著、守屋美都雄訳注、布目潮渢・中村裕一補訂『荊楚歳時記』(平凡社・東洋文庫、1978年)、中村裕一『中国古代の年中行事 第一冊 春』(汲古書院、2009年)を参照。

新しく知ることの愉しみ

先週、公開講座で曹植と父曹操との関係についてお話ししました。
熱心に耳を傾けてくださる方々に勇気づけられ、毎年楽しみにしている講座です。
ただ、今年は少し自分の問題意識に引き付け過ぎました。
講座の前や後に、ご自身で本を買って読んだり調べたりする方々もいらっしゃる、
だから、この方面を概括するようなものを紹介すればよかった、と後から気づきました。

来年度も曹植の文学を取り上げるつもりなので、次の機会には、
吉川幸次郎の「三国志実録 曹氏父子伝」「同 曹植兄弟」を紹介しようと思います。
いずれも『吉川幸次郎全集7』(筑摩書房、1968年)所収です。*

吉川幸次郎がこれらを執筆していた頃と今とを比べると、
私たちの置かれた研究環境がどれほど便利で快適であるかが痛感されます。
この大先学が行論中しばしば渇望される工具書や、佚文をも網羅した文献集成の類が、
今はほとんど誰の手にも届くかたちで公開されているのですから。
だから、私たちは氏の所論を乗り越えていけるはずだし、
おそらく氏もそれを望んでいらっしゃるのではないでしょうか。

また、公開講座のような場においても、
大学者の書いた本を踏襲してのお話ばかりでなく、
至らぬ研究者ががんばって考察した成果もまた歓迎されると感じています。

公開講座においでになったある方がこうおっしゃいました。
新しく何かを知ることが、何よりも生きていくためのエネルギーになるのだ、と。
この言葉に非常に勇気づけられました。

それではまた。

2019年11月6日

*初出は、「曹氏父子伝」が1956年1~12月『世界』、「曹植兄弟」が1958年1~12月『新潮』に全6回で掲載。後に単行本『三国志実録』として、筑摩書房から1962年に出版され、現在も古書店で入手可能なようです。

徐幹の没年をめぐって

先日の「徐幹の足跡」に関連しての追記です。

彼の没年について、
無名氏による「徐幹『中論』序」は、次のように記しています。

年四十八、建安二十三年春二月、遭厲疾大命殞頽、豈不痛哉。
(四十八歳、建安二十三年(218)春二月、ひどい疾病に襲われて亡くなった。実に痛ましいことだ。)

この序文の著者は、続く次の記載内容から、徐幹に極めて近しい人物だと知られます。*1

余数侍坐、観君之言、常怖篤意自勉、而心自薄也。何則自顧才志、不如之遠矣耳。
(余はしばしば側に侍り、そなたの言葉を観ずるに、常に畏敬し、篤い意思を持って自ら励みつつ、心の中では自分に劣等感を抱いていた。なぜならば、自ら才能や志を顧みるに、そなたには遠く及ばないからである。)

このような人物がその執筆者であるならば、
徐幹の没年に関する前掲の記述には信憑性があると言えるでしょう。

他方、同じ時代の曹丕「与呉質書」(『文選』巻42)にはこうあります。

昔年疾疫、親故多離其災。徐・陳・応・劉、一時倶逝。
(その昔、疫病によって親類や古馴染みが多くその災禍に罹った。徐幹・陳琳・応瑒・劉楨はいっぺんに連れだって逝去してしまった。)

『三国志』巻21「王粲伝」は、彼らの没年を建安22年と記し、続けて曹丕のこの文章を引いています。

では、彼らが一斉に亡くなった建安22年とはどのような年だったのでしょうか。
前年(216)の10月、曹操は呉の孫権討伐に出発、
翌年の建安22年正月、居巣に陣取り、同年3月には引き上げています。

王粲は、建安22年の春、曹操の呉への出征に従う途上に没した、と本伝に記されています。
陳琳が同じく呉への出征に従軍したことは、その「檄呉将校部曲文」から推測できます。*2

また、『三国志』巻15「司馬朗伝」に、次のような記載があります。

司馬朗(司馬懿の兄)は建安22年、呉へ出征し、
居巣まで来たところで、軍士の間に疫病が大流行した。
司馬朗は自ら巡回視察して医薬を施したが、急病のために卒した。

こうしてみると、この年に文人たちが一斉に逝去したのは、従軍先でのことだったようです。
すると、徐幹は同時期には亡くなっていなかった可能性が高いでしょう。
彼はこの時すでに曹操幕下から退いて、『中論』執筆に専念していたのですから。

ただ、「建安二十三年」の「三」は、実は「二」であったかもしれません。
後世、伝写の過程で誤ったとは大いにあり得ることでしょう。
それに、疫病というものはあっという間に伝染するのでしょうから、
多くの人々が亡くなった従軍先の居巣から離れた場所にいたはずの徐幹であっても、
押し寄せる疫病の災厄を免れることは難しかったのではないでしょうか。
約1年間のタイムラグは、少し大きすぎるような気がします。

徐幹の没年はいずれの年か、結局わかりませんでした。

それではまた。

2019年11月5日

*1 厳可均『全三国文』巻55は、この無名氏を、同時代の儒者、任嘏ではないかと推測しています。孫啓治『中論解詁』(中華書局、2014年)p.395は、厳可均の説を紹介しながら、これを非としています。
 もし『中論』序文の著者が任嘏であるならば、彼はかつて臨菑侯庶子を務めたことがある(『三国志』巻27「王昶伝」裴松之注引『任嘏別伝』)人物ですから、徐幹とは曹植のもとで親密な交流を持つに至った可能性もあります。(2019.11.20追記)

*2 杜志勇校注『孔融陳琳合集校注(建安文学全書)』(河北教育出版社、2013年)p.179を参照。

※ 徐幹の事蹟、特にその没年については、興膳宏編『六朝詩人伝』(大修館書店、2000年)p.60~61、林香奈氏による「徐幹」注三に、先行研究に関する詳細な紹介があります。(2020.04.10追記)

晋楽所奏「怨詩行」に関する付記

ずいぶん前に取り上げた晋楽所奏「怨詩行」について、ひとつ付記しておきます。

この楽府詩が曹植「七哀詩」をベースにしていることはすでに述べたとおりですが
このように、徒詩を楽府詩にアレンジして宮廷歌謡としたケースは、
『宋書』楽志三を見る限りでは、他に見当たりません。
ここに収録されているのは、もともと楽府詩であったものです。

曹植の作品は、「野田黄雀行・置酒」が「大曲」に取られていますが、
これは、曹植の楽府詩(『文選』巻27では「箜篌引」と題す)の歌辞をほぼ踏襲しています。
他方、「怨詩行」の場合は「七哀詩」の辞句の一部を大きく変えていました。

また、楚調「怨詩行」は『宋書』楽志の中で、平調、清調、瑟調、大曲と続く末尾に付記されており、
しかも、楚調はこの歌辞一篇のみです。

以前、この楽府詩は、曹植に捧げられた鎮魂歌であると同時に、
司馬炎に排斥された司馬攸への追悼歌でもあったのではないかとの考えを述べました。

この推論は、上述のような本歌辞の特殊性から見ても、一定の妥当性を持つように思います。
西晋王朝の他の宮廷歌謡(いわゆる「清商三調」)とは別に、
ある強い思いから新たに作られ(アレンジ)、後からそっと添えられたような印象です。

それではまた。

2019年11月4日

わからなくなってきました。

先日来読んでいる曹植「贈徐幹」は、やっぱりわかりにくい詩です。
中でも特にわかりにくいのは詩の構成です。
昨日書いたことで、もうさっそく、それは少し違うと思うことが出てきました。
(書けば自分の考えの不備が現れてきます。書くことが考察を前に進めてくれます。)

たとえば、「第7~12句は宮殿の有り様、13~18句は貧困の中で著述に励む人の描写」は、
厳密にいえば、第7・8句と第9~12句、第13~16句と第17・18句となるでしょう。
そして、それがそれぞれ第6句「小人」と第5句「志士」とにつながっている、
つまり、「志士」をa、「小人」をbとするならば、
a⇔b、〔b’+B〕⇔〔A+a’〕という構成を取るのではないかという考えです。

4句ひとまとまりと、2句ひとまとまり、それらがどう構成されているのか、
練り上げられた結果であるのか、それとも即興でこうなったのか。

また、「志士」と「小人」との対句の前に置かれた風景描写は、
やはり純然たる叙景であるとは言い難く、
風景を写実的に描く作風が生まれていないこの時代の表現である以上、
叙景であると同時に、人的世界の何らかの状況を比喩しているのだろうと思わざるを得ません。

別に、先人の注釈に、次のような興味深い指摘がありました。
古直『曹子建詩箋』巻1にいう、

「慷慨有悲心、興文自成篇」「良田無晩歳、膏沢多豊年。亮懐璵璠美、積久徳愈宣」等の句を吟味するに、この詩は、おそらく徐幹の『中論』に因って発せられているのではないか、

との指摘で、
古直はこう述べた上で、『中論』の中のいくつかの記述を列挙しています。

徐幹という詩人を、思想家としての側面から捉え直し、
その上で、曹植のこの詩をあらためて読んでみたいと思いました。

それではまた。

2019年11月2日

「志士」と「小人」

曹植「贈徐幹」詩の解釈の続きです。
昨日は引用しなかった、冒頭から18句目までは以下のとおりです。

01 驚風飄白日  激しい風が白く輝く太陽を吹き飛ばし、
02 忽然帰西山  太陽はあっという間に西方の山へ帰っていった。
03 円景光未満  月はまだ満月の光をたたえてはおらず、
04 衆星粲以繁  あまたの星が燦然とびっしりと輝いている。
05 志士営世業  志士は、先祖代々受け継いできた仕事に精を出し、
06 小人亦不閑  小人もまた、閑居して不善を為しているわけではない。
07 聊且夜行遊  まあとりあえず夜の散歩にでかけ、
08 遊彼双闕間  かの向かい合う宮城の門のあたりをぶらついてみた。
09 文昌鬱雲興  文昌殿はうっそうと雲が湧きあがるように建ち、
10 迎風高中天  迎風観は高くそびえて天に届かんばかりだ。
11 春鳩鳴飛棟  春鳩は、飛翔するかのごとき高い棟木の間に鳴き交わし、
12 流飆激櫺軒  渦を巻いて流れる風は、連子窓を備えた長廊に激しく吹き付ける。
13 顧念蓬室士  振り返って粗末な草堂に暮らすそなたに思いを馳せれば、
14 貧賤誠足憐  その貧賤のあり様にはまことに憐憫を禁じ得ない。
15 薇藿弗充虚  ゼンマイやアカザは空腹を満たさないし、
16 皮褐猶不全  粗末な皮衣では身体を十分に覆うこともできない。
17 慷慨有悲心  そなたは悲憤慷慨の思いをかかえ、
18 興文自成篇  それを美しい言葉に紡げば自ずから作品に結実する。

このうち、第7~12句は宮殿の有り様、13~18句は貧困の中で著述に励む人の描写です。

その前に置かれた「志士」と「小人」は、これに対応すると見ることができるでしょう。
すなわち、宮殿にいる「小人」と、その外にわび住まいしている「志士」です。

「志士」は、誰もが認めるとおり、徐幹その人を指すに違いありません。
では、「小人」とは誰か。
『集注本文選』に引く『文選鈔』は、これを曹植その人だと解釈しています。
冒頭4句を叙景と見て、第7・8句の行動の主体を「小人」と見るならば、それが自然でしょう。
4句目までを時代状況の比喩と見るならば、「小人」を文字どおりに取ることも可能でしょうが、
そうすると、第7・8句が浮き上がってしまいます。

また、本詩の成立は、曹植が数々の失態により父曹操の寵愛を失った頃だと推定できますが、
そのような状況の中にある人が、他者のことを「小人」呼ばわりするのは不自然です。
さらに言えば、これは謙遜語でもなく、曹植の自己認識なのかもしれません。

このように見てくると、詩の後半における徐幹への語りかけ方にも納得がいきます。
相手への敬愛を詠じつつも、若干の距離を感じさせる表現(第25・26句)となっていたのは、
自身がこうした状況に陥っていたからではないでしょうか。

それではまた。

2019年11月1日

1 68 69 70 71 72 73 74 75 76 82