曹操が宝刀に託したもの

昨日の続きです。
曹操はなぜ文治の思想を子供たちに託そうとしたのでしょうか。

本日「曹操の事跡と人間関係」の修正作業を進めていて、
次のような記事に目が留まりました。

『三国志』巻38「蜀書・許靖伝」裴松之注に引く『魏略』に載せる、
魏の王朗が、蜀の許靖に送った書簡がそれです。
(その中に、曹操が劉備と親交がありながら対立したのはその本意ではない、とあります。)

前掲「許靖伝」によると、
許靖の兄は、潁川の陳紀に師事して、袁渙、王朗、華歆らと親しく、
許靖は、華歆、王朗、陳羣(陳紀の子)らと書簡のやり取りをしています。
彼らは、曹操が丞相から魏公となること(魏の建国)を強く後押しした人々です。

そして、前掲『魏略』に引く王朗の書簡の内容から、
彼らの交友関係が、魏王朝が成立した後も続いていたことが知られます。
こうしたことが、三国間の外交の安定に寄与していたのでしょう。

曹操は、いずれこのような時代が来ると見越して、
宝刀を作り、学術文芸を愛する息子にそれを贈ろうとしたのではないでしょうか。

その契機を曹操に与えたのは、たとえば上述の袁渙がその一人であるかもしれません。
彼は、大方の知識人と同じく、曹操と対等の立場を取りつつ文治の重要性を説き、
曹操はそれに耳を傾けています。(『三国志』巻11「袁渙伝」)

ただ、こうした曹操の姿勢は、晩年に近づくに従って微妙にバランスを失っていきます。
すると、昨日言及した「百辟刀令」が示されたのは、案外早期なのかもしれません。
曹丕が五官中郎将・丞相副、曹植が平原侯、曹豹(林)が饒陽侯に封ぜられた、
建安16年(211)からそれほど下ってはいない時期ではないかと。
曹操が魏公となったのはそのわずか2年後のことです。

それではまた。

2019年10月22日

 

 

曹操の文治志向

曹植の「宝刀賦」(『太平御覧』巻346)の序文にこうあります。

建安中、家父魏王乃命有司造宝刀五枚。
三年乃就、以龍虎熊馬雀為識。
太子得一、
余及余弟饒陽侯各得一焉。

其余二枚、家王自杖之。

建安年間中(196―220)、我が父魏王(曹操)は、役人に命じて宝刀五枚を作らせた。
三年の歳月が経って出来上がり、龍、虎、熊、馬、雀でもって目印を付けた。
太子(曹丕)が一枚を与えられ、
自分と我が弟である饒陽侯(曹林、又の名を豹)がそれぞれ一枚ずつ与えられた。

その残りの二枚は、父が自ら保持した。

これに対応する内容のことは曹操も記していて、
「百辟刀令」(『藝文類聚』巻60)に、次のようにあります。

往歳作百辟刀五枚、
適成、先以一与五官将、
其余四、吾諸子中有不好武而好文学、将以次与之。

去る年、百辟の刀五枚を作り、
ちょうど出来上がったところで、まず一枚を五官中郎将(曹丕)に与え、
その残りの四枚は、我が子らの中で、軍事を好まず学問を好む者に順次与えていこう。

まず、曹植が曹丕を「太子」と称しているのは、
厳密には、曹操の令にいう「五官将」が正しいでしょう。
曹植の賦の序文は、後日記されたか、後人が改めた可能性もあります。

すると、曹操が如上のことを行ったのは、
曹丕が五官中郎将となった建安16年(211)から、
太子に立てられた建安22年(217)までの間となるでしょう。

その曹操が言う「武を好まずして文学を好む」にはっとさせられました。

曹操はまた「内誡令」(『太平御覧』巻345)ではこう言っています。

百錬利器、以辟不祥、摂服奸宄者也。
百錬の利器(武器)は、不祥事を斥け、邪悪な者を正し服従させるものである。

武器は、やむを得ず行使するものであって、それ自体を目的としてはならない、
そう家族に対して戒めているのですね。

曹操はこの間、丞相から魏公(213年)、魏王(216年)へと地歩を固めてゆきますが、
並行して、南へ呉の孫権を伐ちに行ったり、西へ漢中の張魯を降しに行ったりしています。
それでも、武ではない、文による統治を、子どもたちに託そうとしている、
その志の高さに少なからず驚かされました。

もっとも、曹操のことですから、何か現実的な目論見があったのかもしれませんが。

それではまた。

2019年10月21日

どんなに貧弱に思えても

中国の楽府学会で発表する翻訳原稿を見直していて、
言語にはそれぞれ、それが扱う最適な大きさや形があるものだと感じました。
中国語に姿を変えた自分の原稿はまるで、
広い堂の中で、ひどく繊細な踊りを踊っているような感じです。
同僚の中国人の先生に訳していただいたのですが、
どう翻訳すればよいか、苦慮するところが多々あったとうかがいました。

以前、半年足らずほど中国で勉強していたとき、
異なる言語間でも通じる研究とはどのようなものかと考えました。
そのとき、自分の中で真っ先に却下されたのが、いわゆる文学研究でしたが、
このたびの会で試みるのは、そのような方向の研究発表です。

ちなみに、CNKIで中国の論文を検索してみると、
曹植の文学を取り上げた論文は3000件を超えるというのに、
彼の「七哀詩」とそれに基づく「怨詩行」とを中心的に論じたものは0件。
日本にはそうしたテーマの論文が複数件あるのに、です。
これは、彼我で興味関心の方向性が異なっていると言うほかありません。

そんな状況下で、果たして所論を理解してもらえるでしょうか。

ですが、今思うのは、
相手方の研究手法に従うのではなく、
彼我の折り合う中間地点に立つのでもなく、
自分にしかできない研究を全力でやろうということです。
それがどんなに貧弱に思えても、
自身の持ち味を活かしきったときはじめて、
誰かの手に届き得る研究成果となるのだと考えています。

それではまた。

2019年10月18日

私は木こり

自分の考えを表明した後、たいてい「しまった」と思います。
考えは目の前にまるごと見えていたはずなのに、
言葉はいつもそこにたどりつけません。
いつも何かが足りない。

でも、発した言葉は、すでにもう私のものではないから、
(言葉は私と人との間にあるものなのだから、)
少し言い足りないくらいがちょうどよいのかもしれません。
欠損部分があればあるほど、そこに人が関わりやすくなるでしょう。

場違いなことを言ってしまったなあと恥ずかしくなるとき、
私は木こりだと思うことにしています。

『詩経』大雅「板」に、こう歌われています。

我言維服  私の言葉に、さあ耳を傾けておくれ。
勿以為笑  どうか笑いものにはしないでおくれ。
先民有言  昔の偉い人も言っているではないか。
詢于芻蕘  何かあれば、木こりにきいてみよと。

人間である以上、よほどの極悪非道でない限り、
どんな者にも汲むべき何らかの意見はあるだろうという考え方ですね。

自分を木こりだと思っていれば、何も恥ずかしくなることはありません。

それではまた。

2019年10月17日

 

奇妙な贈答詩

『文選』巻24所収の曹植「又贈丁儀王粲」は奇妙な詩ですが、
この作品について、龜山朗氏は、示唆に富む、実にスリリングな論を展開しておられます。*
その中から、特に納得させられた点を以下に記します。

その前に、まず本詩の全文を挙げておきましょう。

従軍度函谷  従軍して函谷関を越え、
駆馬過西京  馬を駆り立てて西京をよぎる。
山岑高無極  切り立つ山々は限りなく高くそびえ、
涇渭揚濁清  濁った涇水、澄んだ渭水はそれぞれの波を揚げて流れていた。
壮哉帝王居  壮大なることよ、帝王の居所は、
佳麗殊百城  その佳麗さは幾多の都城とは一線を画する。
円闕出浮雲  円闕は浮雲から突き出てそびえ、
承露槩泰清  承露盤は天上界に届かんばかりであった。
皇佐揚天恵  皇帝を補佐する方(曹操)は皇帝からの恩恵を高く掲げて、
四海無交兵  四海の内で兵器を交えて戦うことは無くなった。
権家雖愛勝  兵法家は勝利に執着するものだとはいえ、
全国為令名  国をまるごと温存させることをこそ名誉だと見なす。
君子在末位  立派な人士であられる君たちはその末位に位置しているから、
不能歌徳声  従軍して主君の徳を歌い上げることはできなかった。
丁生怨在朝  そのため、丁君は朝廷の内で寂しい思いを抱え、
王子歓自営  王氏は自らの生活に楽しみを見出している。
歓怨非貞則  だが、歓楽も哀怨も、規範とすべき正道ではなくて、
中和誠可経  中和の状態こそが、誠に則るべき道である。

以下は、龜山氏の所論からの覚書です。

この作品の奇妙な点として、特に次の二点が挙げられる。
第一に、二人に宛てた贈答詩であること。これは当時としても異例である。
第二に、最後の六句が、丁・王の二人に対して礼に失するということ。

だが、本詩を次のように捉えるならば、これらの疑問は氷解するのではないか。

この詩は曹操が催す宴席で披露されたものである。
この詩の名目上の宛先は丁儀・王粲だが、
重要なのは、本詩の鑑賞者は曹操とその宴席に集った人々だということである、と。

特定のひとりに宛てた贈答詩では、非常に細やかな心遣いを表す曹植ですが、
この詩のある種のぶしつけさは、宴席での戯れ、ということですね。

龜山氏の所論は、こうした推論に続けて、
本詩と王粲「従軍詩」其一(『文選』巻27)との関連性にも踏み込んでいます。

宴席を舞台とした贈答詩という着眼点には、深く納得させられました。
『文選』所収の本詩の題が「又贈……」となっていること、
李善が指摘する、当時伝存していた曹植集が「答……」に作るのは、
本詩が他の贈答詩とは異質のものであることを示唆しているかもしれません。
そこに何度かの往還、リアルタイムでの応酬があった可能性も垣間見えるようです。

それではまた。

2019年10月16日

*龜山朗「建安年間後期の曹植の〈贈答詩〉について」(『中国文学報』第42冊、1990年10月)を参照。

未知の世界の捉え方

大阪の国立民族学博物館で「驚異と怪異」展を見てきました。

不思議な生き物を、それが生息する地域とともに記録した『山海経』、
これが、中国の伝統的図書分類法では史部地理類に位置付けられるのが不思議でしたが、
こうした世界観は必ずしも不思議ではないということに気づかされました。

聞いたことはあるが、実際には見たことのないものを、
なかったことにはせず、よく知っている世界の、その向こうに位置付ける、
未知の世界を、地理学的観点から、我が世界観の一隅に引き入れる、という発想が、
洋の東西を問わず存在することがわかったからです。

およそ人間は(大きく出ますが)、未知のものと出会ったとき、
それを、時間軸の、たとえば遠い過去、あるいは未来に位置付けるのではなく、
(ただし、チベット仏教の占いでは、暦という時間軸を加えて図式化するそうですが。)
あくまでも空間的に把握しようとするものなのだなあ、と。
自然科学誕生以前の彼らの心中を想像するに、恐怖と好奇心の坩堝だったことでしょう。

さて、もと地理書として位置づけられていた前掲の『山海経』は、
現代の、たとえば『中国叢書綜録』では、子部小説家類に分類されています。
では、この書物は、いつ頃、地理書から小説家類へと捉えなおされたのでしょうか。

宋元の間の馬端臨『文献通考』では、新旧『唐書』と同じ史部地理類ですが、
元代に編纂された『宋史』では、子類・五行類に位置付けられています。
ところが、明代の焦竑『国史経籍志』ではまた、史部地里(方物)に戻っています。
というか、この間、書物の捉え方がまだ揺れ動いていたということでしょう。
清朝の『四庫全書総目』に至れば、現在と同じ、子部小説家類に位置付けられます。

この間の推移をざっと通覧した限りでは、
『山海経』を地理書と捉える見方はかなり長く続いたことが知られます。

たとえば、今は志怪小説とみなされる『捜神記』は、
『旧唐書』経籍志(唐代)と『新唐書』藝文志(宋代)との間で、
史部雑伝類から子部小説家類に移されるという大きな変化を通過していますが、
これに比べると『山海経』の変化はずいぶんと緩やかだという印象を持ちました。
明代あたりの人々は、私たちと近いようでいて、実はかなり異質な世界の住人だったのですね。

(専門外の人間が当たり前のことばかりを書いているかと思います。お許しください。)

それではまた。

2019年10月15日

 

建安年間の曹植と「友」

昨日取り上げた曹植「贈王粲」は、
特定の誰かに宛てて書かれたわけではない王粲の詩を、
自分に向けられたものとして受け止め、新たな詩を紡ぎだしています。
そこに、「文学」と呼びうるような普遍性を見出そうとしたのが昨日言及した拙論です。

ですが、「曹操の事跡と人間関係」の修正作業を行う中で、
建安年間、曹植を取り巻いていた現実を、もっと踏まえる必要があると考え直しました。

王粲の「雑詩」は、もちろん文学サロンの仲間たちに朗誦されたでしょうが、
もしかしたら、彼は曹植に直接、それとなくその作品を差し出した可能性があると考えます。

王粲が、荊州の劉表から曹操のもとにやってきたのは208年、
そこから彼が病で亡くなる217年までの間、
曹操から圧倒的な愛情を注がれていたのは曹植です。
217年、曹丕が太子に決定するまで、そんな情況が続いていました。
このことは、『三国志』の随所に認めることができます。

してみると、王粲が上述のような振る舞いに出たとしても不思議ではありません。
彼はとても出世欲の強い人でしたから。(こちらの第三章をご覧いただければ幸いです。)

他方、曹植はそうした人々に対して、詩中、多く「友」と語りかけています。
その「友」に対する語りかけ方を、もっと丁寧に読み解きたいと思いなおしました。

以上のことも、留学生からの質問に触発されて生まれた問題意識です。
感謝。

それではまた。

2019年10月10日

 

私にはあなたが必要だけれど

王粲「雑詩」(『文選』巻29)に応えた、曹植の「贈王粲」(『文選』巻24)。
この作品についてはかつて論じたことがありますが(学術論文№31)、
本日、新たに思いついたことがあります。

少し長くなりますが、この二首の詩を提示します。
まず王粲の「雑詩」から。

日暮遊西園  日が暮れて西園に遊び、
冀寫憂思情  憂鬱な気分を洗い流したいと思った。
曲池揚素波  湾曲する池は白い波を揚げ、
列樹敷丹栄  列をなす樹木には一面紅い花が咲いている。
上有特棲鳥  その上にただ一羽で棲む鳥がいて、
懐春向我鳴  連れ合いを求める彼女は、私に向かって鳴き声を上げた。
褰袵欲従之  私は衣を持ちあげてこの鳥に従っていこうとしたが、
路嶮不得征  路が険しくて赴くことができない。
徘徊不能去  行きつ戻りつして立ち去ることができず、
佇立望爾形  その場に立ち尽くしておまえの姿を眺めやっていた。
風飈揚塵起  そこに、塵を巻き上げて突風が起こり、
白日忽已冥  白日は忽然と薄暗がりに包まれた。
迴身入空房  私は身を翻して空っぽの寝室に戻り、
託夢通精誠  夢に託して真心を送り届ける。
人欲天不違  人が強く願うことに、天は必ず応えてくださるのだから、
何懼不合并  一緒になれないのではないかなどと、何を心配することがあろうか。

これに応えた曹植の詩は次のとおりです。

端坐苦愁思  正座していると憂いに気持ちが押しつぶされそうになり、
攬衣起西遊  上着を手に取り、起き上がって西の方へ遊びに出た。
樹木発春華  樹木は春の花を開き、
清池激長流  清らかな池は勢いよく途切れなく流れている。
中有孤鴛鴦  その中に一羽の鴛鴦がいて、
哀鳴求匹儔  悲しげに鳴きながら連れ合いを求めている。
我願執此鳥  私はこの鳥を捕まえたいと思ったが、
惜哉無軽舟  残念なことに、そこまで漕ぎだす小舟がない。
欲帰忘故道  帰ろうとしたが、もと来た道を忘れてしまっていて、
顧望但懐愁  周囲を見渡しながら、ひたすら憂いを抱くばかりだ。
悲風鳴我側  悲しげな音を上げる風が私の傍らを吹き過ぎて、
羲和逝不留  白日は過ぎゆくばかりで留まりもしない。
重陰潤万物  恵みの雨をもたらす雲は万物を潤すのだから、
何懼沢不周  どうして恩沢が行き渡らないことを心配する必要があろう。
誰令君多念  いったい誰があなたにあれこれと思い悩ませ、
自使懐百憂  自ら様々な憂いを抱くようにさせるのか。

このように、王粲の詩と曹植の詩とは、
同じ語句を用いながら、敢えて違いを打ち出しているところが少なくありません。
そのうち、本日はじめて理解できたように思えたのは、鳥の描き方です。

王粲の描く、樹木の上で鳴いている鳥は、おそらく曹操を指すでしょう。
他方、曹植が描くのは池の中にいる鴛鴦であって、王粲の描くそれとは重なりません。
では、曹植が描く鳥は何を暗示しているのか。それは王粲だと見るのが妥当でしょう。

ここまでは、比較的たやすく推測できます。
では、なぜその鳥を、曹植は掴まえたいのにそれができないと詠じているのか。

私はあなたを求めている、と詠われると、
その詩を受け取った人は、とてもうれしくなるでしょうね。

曹植は、王粲の気持ちが曹操に向かっていることは当然知っています。
そのことは、「贈王粲」詩の最後の四句を見れば明らかです。
ですが、そんな王粲に、私はあなたが欲しいのだがそれは叶わぬ夢だ、と詠えば、
我が身の処遇に不安を覚えている王粲は慰められ、元気づけられたのではないでしょうか。

熱心に聞いてくれる留学生に引き出してもらった解釈です。

それではまた。

2019年10月9日

 

側近の悪事

先に記したことの中に誤りがありました。

丁儀が、徐奕と崔琰との間を引き裂いた(巻12「徐奕伝」裴注引『傅子』)というのは誤りで、
正しくは、曹操という明君と、徐奕・崔琰という賢臣との間を、丁儀が引き裂いたということです。

原文は次のとおりです。(実に初歩的な読み誤りで恥ずかしい。)

武皇帝、至明也。
 (武帝曹操は、非常に聡明な君主であった。)

崔琰・徐奕、一時清賢、皆以忠信顕於魏朝。
 (崔琰・徐奕は、時代を代表する清賢で、いずれも魏朝において忠信で名を知られた。)

丁儀間之、徐奕失位而崔琰被誅。
 (丁儀が両者の間を割いて、徐奕は位を失い、崔琰は誅罰を受けた。)

昨日述べた、崔琰の書簡を曲解して貶めたある者(『三国志』巻12「崔琰伝」)とは、
もしかしたら丁儀のことだったのでしょうか。
同巻裴松之注に引く『魏略』も、「与琰宿不平者(崔琰と常々不仲な者)」と記すのみで、
そこに名前は明記されていないのですが、
もし、近い時代の『傅子』に記すところが正しいならば。

丁儀と崔琰との負の接点は証明できませんが、
丁儀らが、徐奕や
毛玠らを陥れたことは公然の事実です。
なぜ彼らはそこまでして曹植を担ぎ上げようとしたのでしょうか。
そして、そうした側近の言動を、曹植はいったいどう見ていたのでしょうか。

それではまた。

2019年10月8日

曹操晩年の狂気

【電子資料】の「曹操の事跡と人間関係」が長いこと「準備中」ですが、
少しずつ確認作業を進めて、今は建安21年(216)、曹操は62歳、
本日、崔琰が亡くなりました。

『三国志』巻12「崔琰伝」によると、

もと袁紹に仕えていた崔琰は、しばしば袁紹を諫めたが聞き入れられず、
官渡での敗戦の後、袁紹の息子たちは争って彼を召し抱えようとしたが、病気を理由にこれを固辞し、
曹操が袁氏を破って冀州牧となると、その招きに応じて別駕従事となった、とあります。

誰に仕えるべきか、崔琰は冷静に見極めたのでしょう。
とはいえ、彼は曹操にただ追従していたわけではありません。

新たに得た冀州の戸籍を調べて、兵士の人数を数え上げる曹操に対して、
崔琰は、まず民をねぎらい、彼らの塗炭の苦しみを救うことが先決だとの苦言を呈しました。
曹操は表情を改めて陳謝し、その場にいた賓客たちは色を失った、とあります。

また、崔琰の兄の娘は曹植に嫁いでいましたが、
春秋の義をもって、長子の曹丕を跡継ぎに推したことは先にも触れました
曹操は、崔琰の私心のない公明正大さに感嘆したといいます。

このような崔琰は、曹操にとってどのような存在だったのでしょうか。

崔琰の書簡を曲解して貶める、ある者の上奏を簡単に信じ、
懲役囚となってもくじけた様子のない崔琰について、
「刑罰を受けていながら、家には賓客を通し、門は市場の人のような賑わいだ。
 賓客に対して虯のような鬚で直視し、まるで怒って目をむいているかのようだ。」
との令を発し、崔琰に死を賜った、と本伝に記されています。

第一級の知識人である人物と、宦官家出身の新興権力者たる曹操。
権力者に対してまったく媚びることをせず、是々非々を貫く崔琰に対して、
曹操は常々言い知れぬ脅威を感じ、劣等感を覚えていたのでしょう。
晩年になるほどに、それが狂気を帯びてくるようです。

それではまた。

2019年10月7日

 

1 68 69 70 71 72 73 74 75 76 80