陸機と曹植、李善の指摘
こんばんは。
以前、こちらに記したことの続きです。
曹植「贈白馬王彪」詩の第一句、
「謁帝承明廬(帝に謁す 承明の廬)」に対して、
『文選』李善注(巻20)は、陸機「洛陽記」を挙げています。
(具体的な文章は、先に記したところをご参照いただければ幸いです。)
他方、この「承明」について、
『三国志(魏志)』巻2・文帝紀の裴松之注に次のようにあります。
諸書記是時帝居北宮、以建始殿朝群臣、門曰承明。
陳思王植詩曰「謁帝承明廬」是也。……
諸書に記す 是の時 帝は北宮に居り、建始殿を以て群臣を朝し、門を承明と曰ふと。
陳思王植の詩に曰く「謁帝承明廬」とは是れなり。……
これによると、「承明」とは、
魏王朝草創期、文帝が群臣を集めた建始殿の門だと説明できます。
ところが、前掲の『文選』李善注は、陸機「洛陽記」を挙げているのでした。
李善注は、『三国志』裴松之注を引かないわけではありません。*
それなのに、なぜ裴松之注ではなくて、陸機の著作なのでしょうか。
李善は、曹植「応詔」詩(『文選』巻20)にも、陸機の同書を引いています。
たまたまだった可能性も否定できませんが、
もしかしたら李善は、曹植と陸機との間につながりのある可能性を、
後世の私たちに向けて示唆しようとしたのかもしれません。
なお、これまでにも何度か、
陸機と曹植との文学的関係性について言及したことがあります。
「陸機と曹植」でサイト内を検索してみて、自分でも思い出した次第です。
2022年10月11日
*『魏志』の部分については、富永一登『文選李善注引書索引』(研文出版、1996年)p.359~360を参照。
黄初三年の曹植(訂正)
こんにちは。
昨日、黄初三年の曹植について、
東郡太守王機らの誣告によって洛陽に出頭したことと、
鄄城侯から鄄城王に爵位を進められたのとでは、
洛陽への出頭の方が先だと推定しました。
ここまでの推定は、概ね妥当だろうと思いますが、
鄄城王として立てられたのは、罪人として赴いた洛陽においてではなく、
洛陽から帰還した先の鄄城であったと見るのがおそらく適切です。
昨日の記述の一番最後は、軽率な判断でした。
ではなぜ、鄄城への帰還後、王位を授けられたと推測されるのか。
「責躬詩」では、このことが明確に示されていません。
ですが、「黄初六年令」に、文帝の計らいを記した次の句、
違百寮之典議、舎三千之首戻、反我旧居、襲我初服、……
百官の典範に則った議論に背いて、首領級の大罪を赦していただき、
私を旧居に戻し、元の輿服を与えてくださって、……
これに拠って、前述のように考えました。
まずは、もとの鄄城侯としての待遇に戻したということです。
鄄城王に立てたのは、その次の段階だったでしょう。
なお、「上責躬応詔詩表」に見える、
文帝からの恩恵を表現する次のようなフレーズ、
不別荊棘者、慶雲之恵也 荊棘を別(わ)けざるは、慶雲の恵みなり。
七子均養者、鳲鳩之仁也 七子をば均しく養ふは、鳲鳩の仁なり。
荊棘のような邪魔者をも差別しないで潤すのは慶雲の恵みです。
七羽の子を分け隔てなく養うのは鳲鳩(カッコウ)の仁愛です。
これは、罪人とされた曹植に対しても、
他の兄弟たちと同等の待遇が与えられたことを言うものでしょう。
『三国志(魏志)』巻2・文帝紀、黄初三年の条に、
三月乙丑(3日)、文帝の弟たちが皆、侯から王へと爵位を進められ、
同年の夏四月戊申(14日)、鄄城侯の曹植が王に立てられた記事が見えています。
前掲「上責躬応詔詩表」の句は、これに対応するものではないでしょうか。
2022年10月8月
黄初三年の曹植
こんばんは。
昨日は、黄初二年における曹植の動向を押さえました。
彼は監国謁者潅均の摘発によって上洛することとなりましたが、
文帝曹丕の取り計らいによって罪を軽減され、
臨淄から洛陽へ向かう途中の延津で安郷侯に任ぜられ、
次いで同年、鄄城侯に遷されたのでした。
では、続く黄初三年の曹植はどのような状況にあったのでしょうか。
『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝によると、
彼はこの年、鄄城王に立てられています。*
他方、「黄初六年令」によると、
この年には、東郡太守の王機らによって讒言されています。
では、曹植が鄄城王に立てられたのと、
王機らの讒言により都に出頭したのとでは、いずれが先だったのでしょうか。
まず、このたびは実際に洛陽へ赴いたと見られます。
「黄初六年令」にいう「我が旧居に反す」「反旋して国に在り」、
また、「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)にいう、
「臣は釁(つみ)を抱きて藩に帰りし自(よ)り、……」から、
一旦は洛陽に上り、罪状を告げられ、赦され、その後に鄄城に戻ったと知られます。
そして、洛陽での出来事を詠じて、
「責躬詩」(『文選』巻20)には、次のようにあります。
赫赫天子 明々と輝ける徳を有する天子、
恩不遺物 その恩沢は万物に対して遺漏がない。
冠我玄冕 わたくしに黒い冠冕をかぶらせ、
要我朱紱 わたくしの腰に朱色の組み紐を佩びさせた。
光光大使 光り輝く大使がやってきて、
我栄我華 わたくしに栄華が届けられた。
剖符授土 割り符を割いて封土を授与し、
王爵是加 これに王の爵位が加えられたのである。
曹植は、王機らに罪状を挙げられて赴いた洛陽で、
鄄城王の位を授けられたと見られます。
2022年10月7日
*こちらの注で述べたとおり、『三国志(魏志)』巻2・文帝紀では、黄初三年夏四月十四日のことと記されている。
黄初二年の曹植(三たび)
こんにちは。
黄初二年、臨淄侯の曹植は、
監国謁者潅均に摘発されて罪を得ましたが、
同母兄の文帝曹丕の取り計らいにより、
まずは安郷侯への貶謫、続いて鄄城侯に遷されることで済みました。
(『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝)
刑罰を軽減されて安郷侯に遷されることになった、
その文帝の計らいに対する感謝を表するのが、
「謝初封安郷侯表」(『曹集詮評』巻7、『藝文類聚』巻51)です。
背景となった経緯はある程度わかっているので、
比較的スムーズに訳注作業が進むかと思っていたところ、
いきなり躓いてしまいました。
それは、冒頭にいう「臣抱罪即道」です。
「罪」はわかります。では「即道」とは何でしょう。
当初、私はこのように捉えていました。
洛陽に出頭して罪状が定まり、臨淄へと戻る帰途に就いたのだろう、と。
曹植に具体的な処罰の内容が申し渡されたのは都の洛陽で、
そこから一旦、臨淄へ戻ることとなったのだろう、
その帰りの途中で、安郷侯への転封が告げられたのだろう、
と、何となく思い込んでいたのでした。
けれど、この捉え方は誤っているのではないか。
そのことを示唆してくれたのは、李善の『文選注』です。
巻20の曹植「上責躬応詔詩表」の李善注に引く『曹(植)集』に、
植抱罪、徙居京都、後帰本国。
植は罪を抱きて、居を京都に徙し、後に本国(鄄城)に帰る。
また、同巻20の曹植「責躬詩」の李善注に『(曹)植集』を引いて、
求出猟表曰、臣自招罪舋、徙居京師、待罪南宮。
出猟を求むる表に曰く、
「臣は自ら罪舋を招き、居を京師に徙して、罪を南宮に待つ」と。
とあり、これらによれば、処罰は都の洛陽で執行されるのであったようです。
他方、「責躬詩」本文にこうありました。
明明天子 聡明なる天子は、
時惟篤類 身内の者に手厚く対処しようと思われた。
不忍我刑 わたくしを処罰して、
暴之朝肆 その身を朝廷や市場に晒すには忍びなかったのである。
ここから推し測るに、
曹植は、都の雑踏の中に罪人としての身を晒さずに済んだ、
(安郷侯、次いで鄄城侯への転封に振り替えられたことによって)
と見ることが十分に可能です。
「謝初封安郷侯表」の冒頭、
「即道」とは、上京の旅路に就いたのだと捉え直します。
結局、黄初二年時点での曹植は、洛陽には至っていないと思われます。
(たったこれだけのことにほとんど半日かかってしまいました。)
2022年10月6日
昔のメモに救われたこと
こんにちは。
十年ほど前の手帳をなんとなく読み返していたら、
次のようなメモが目に入りました。
「みんなの意見」というものは案外正しい。
ただし、その集団の英知を最大限に引き出すためには、
次の三つの条件を満たす必要がある。
1、集団内の各人は、自ら進んで考え、各々の結論に辿り着くこと。
2、問題に明確な答えがある場合で、最終的には現実と照合できること。
3、集団内の全員が同じ問題に対して答えること。
問題意識の正しい共有をいう3は当然のことでしょう。
2は、“正しい”結論のない現代社会の諸問題には当てはまらないかもしれません。
一方、その意外性もあって、非常に強く惹きつけられたのが、1の条件です。
各人がそれぞれ様々に考えてこそ、より正しい解に近づけるというのは、
「集団」という言葉から想起されるイメージとは違っていました。
これは、レン・フィッシャー著、松浦俊輔訳
『群れはなぜ同じ方向を目指すのか?:群知能と意思決定の科学』
(2012年、白揚社)によって得た知見で、
ちょうど担当していた「共生社会論」の中で紹介したのでした。
あのとき受講していた学生さんたちの中で、
誰か一人でも、この話の内容を覚えている人はいるだろうか。
たとえいなかったとしても、ほかならぬ今の自分が元気づけられました。
2022年10月5日
監国謁者潅均の密告
こんにちは。
先週、やっと「黄初六年令」の訳注稿を公開することができました。
続けて「写灌均上事令」(『太平御覧』巻593)を読み始めたところですが、
どう読むのが妥当なのか、考えあぐねている部分があります。
孤前令写灌均所上孤章、三台九府所奏事……
この「灌均所上孤章」の部分を、
続く「三台九府所奏事(三台九府が奏せし所の事)」との対応関係から捉えて、
「灌均が上(たてまつ)りし所の孤が章」と読んだのですが、
それでよいものか、今一つ自信がありません。
(かといって、「灌均が孤を上せし所の章」と読むのでは落ち着きません。)
『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝には、
監国謁者潅均、希指奏「植酔酒悖慢、劫脅使者」。
監国謁者の潅均、希指して奏すらく「植は酒に酔ひて悖慢たり、使者を劫脅す」と。
という記事が見えていて、
この令の題目にいう「灌均上事」とは、おそらくこのことを指すのでしょう。
歴史書の記事には撰者の手が加わっていますから、
もちろん、これだけに依拠するわけにはいかないのですが、
この記事は、曹植の行動についてその不備を摘発するものであって、
曹植自身の「章」すなわち詩文の不適切さを摘発しているものではない、
そのことに、少しひっかかりを覚えるのです。
もし本当に、監国謁者潅均が曹植の詩文を朝廷に奉り、
その不穏当さを糾弾したのであれば、それはいずれの作品だったのでしょうか。
2022年10月3日
平賀周蔵の為人
こんばんは。
今日も、江戸時代の安芸の国の漢詩人、平賀周蔵について。
以前、こちらで紹介した「遊嚴島留宿視遠連日」詩(『白山集』巻三)の直前には、
「除夕、赴嚴島途中」と題する、次のような詩が収載されています。
優游吾独是 悠悠自適とは、私だけがこれであり、
心跡両相親 心と行いと、両方がぴったりと適っているのである。
寒候仍除夕 寒い天候で、今なお大晦日だが、
煙容已立春 靄の立ち込める景色は、すでに立春である。
風涛行望島 風にあおられて逆巻く波を、超えてゆきつつ島を望み、
海駅不迷津 海の駅に、渡し場を見失うことはない。
笑彼都人士 笑止千万、かの都の人たちは、
栖栖誤此身 あくせくと忙しくして、その身を誤っている。
宮島に向かって漕ぎ出だした舟に乗る彼は、
このように、俗塵にまみれてあくせくと奔走する人々を笑っています。
そして、その俗世とは逆の世界にあったのが、宮島とその土地の風流人であったようです。
中国古典文学の世界では、
隠遁志向はおおよそ常に現実批判と表裏一体のものですが、
江戸時代の日本の場合はどうでしょうか。
素人の素朴な感覚に過ぎませんが、
少なくとも、平賀周蔵という人物についていえば、
彼は、ただ単なる脱俗的風流人であったというだけのようには感じられません。
なぜそう感じるのか。
それは、彼と赤松滄洲との関係が念頭にあるからかもしれません。
その『白山集』序における赤松滄洲の筆致から、*
二人の間には、非常に強く響き合うものがあったと感じ取れます。
この赤松滄洲という儒者は、
たとえば岩波『日本古典文学大辞典』によりますと、
主君に対しても諫言を憚らない気骨のある人物であったらしく、
学問の自由を制限する寛政異学の禁に対しても、厳しくこれを批判したといいます。
そのような人と価値観を同じくし、すっかり意気投合したというのですから、
平賀周蔵もまた、静謐な雰囲気の中に、強い意志を秘めた人であったのだろうと想像されます。
2022年9月13日
*『白山集』は、国立公文書館デジタルアーカイブ(https://www.digital.archives.go.jp/)で閲覧・ダウンロードできます。平賀周蔵の姿を描いた月僊による図画も、その中に収められています。
風流を支えた素封家
こんばんは。
明後日の公開講座で、
「安芸国の漢詩人、平賀周蔵が詠じた宮島遊覧」と題して話します。
これまでにもこちらで何度か言及したことのある話題ではあるのですが、
このたび準備をする中で、改めて気づかされたことがあります。
それは、平賀周蔵らの超俗的な交遊を支えた、当島の豊かな民間人の存在です。
こちらで紹介した「夏日陪滄洲先生遊嚴島過飲壺中菴」詩の末尾に、
次のような句が見えていました。
歓興何辞酔 感興が高じては、どうして酔いしれるのを辞退しようぞ。
素封有酒泉 無官のご大臣は酒の湧き出る泉をお持ちだ。
この「素封」は、こちらで紹介した「題嚴島壺中庵」詩に、
仙醞醸来誰得同 仙界の美酒が出来上がって、これを誰と共に酌み交わせるだろうか。
主人高興有壺公 主人は、かの壺公のいることをたいそう喜んだ。
として登場する「主人」でしょう。
美酒を醸造し、共に飲む仲間として「壺公」のいることを嬉しそうに想起しています。
「壺公」は、こちらで推定したとおり、広島在住の医師、笠坊文珉でしょう。
平賀周蔵は、自身のよき理解者であり友人である笠坊文珉を通じて、
赤穂の赤松滄洲と懇意になり、三人連れ立って宮島を訪れ、
「壺中庵」で酒宴をほしいままにしています。
その草庵の主で、酒を無尽蔵に提供している「素封」が、
三人の超俗的な遊びの背後を支えていることに思い至りました。
このような人物が具体的に誰であったのか、
壺中庵はどこにあったのか、等々、
お心当たりのある方々がいらっしゃるかもしれません。
宮島当地で開催される公開講座が楽しみです。
2022年9月12日
自身の座標の相対化
こんにちは。
岡村繁「駢文」という概説的な論文があります。*
貴族が社会の主導権を握った六朝時代の産物、四六駢儷文について、
具体例に拠りつつ、この文体の本質が、実に分かりやすく説明されています。
(分かりやすくても、内容は一切薄められていません。)
四字句・対句を基本に、韻律美に配慮し、典故表現を多用する駢文は、
当時の貴族たちにとっては一般的な実用文でした。
けれども、このような駢文は、現代において、
自身の知識をひけらかす、知的俗物の文体であるかのように言われがちです。
(駢文も、古文も、白話による俗文学も、近代以降の文学も、
本来、それぞれの時代の人々に応じた文体であって、その間に優劣はないはずですが。)
この見方は、今自分が立脚しているところから過去を断ずるものです。
自身が依拠するのとは別の座標が存在するということに思い至っていないのです。
(だから、私は古人の作品に対して“評価”ということをしたくありません。)
つい自身が身を置く座標軸に拠ってものを考えてしまう、
誰もが持つこの盲点に対して、岡村先生は鋭敏な感覚をお持ちだったように感じられます。
だから、私たち学生は、実にフラットな雰囲気のもと伸び伸びと学ぶことができた。
当時はそれを当たり前のことのように享受していたのですが、
(最初に、学問とは自由なものだと体感できたことはたいへんな幸運でした。)
おそらくそれは、先生ご自身が様々な体験の中から獲得された価値観を、
努力して具現化されたものであったのだろうと思います。
そのことを時々思い起こします。
2022年9月9日
*『文学概論(中国文化叢書4)』(大修館書店、1967年)p.120─133。
『文選』李善注と緯書
こんばんは。
昨日言及した『文選』李善注の緯書引用に関連して、
岡村繁「『文選』李善注の編修過程―その緯書引用の仕方を例として―」*
を読み直しました。
この論文は、その標題が明示するとおり、
緯書引用のあり様に着目し、それを手掛かりとして、
重層的に行われた『文選』李善注の編修過程を明らかにしようとしたものです。
その概略を紹介すれば次のとおりです。
『文選』李善注は、複数回にわたる修訂を重ねて成ったものである。
『古籍叢残』所収の敦煌出土『文選』李善注は、その初注本だと推定できる。
李善注の編修過程を明らかにするには、初注本と現行本との違いに着目すればよい。
だが、現行本から、李善自身による修訂部分を識別することは難しい。
そこで着目されるのが、李善注における緯書の引用である。
なぜならば、緯書は李善が生きていた初唐以降、流伝が途絶えたからである。
(緯書の引用は、ほぼ確実に李善自身によるものと考えられる。)
かくして、敦煌本『文選』李善注と現行の李善単注本とを比較した結果、
李善注の編修過程について、次のようなことが明らかとなった。
・初期段階の李善注は、まず類書などの活用により典故の指摘をしている。
・その後、広範な読書を通じて蓄積された知識をもとに、逐次補填が為されていった。
本論文の内容を、私は大学院生だった頃に講義で聴きました。
その講義は、たしか国語の教免関係科目に指定されていたためでしょうか、
最初は、国語国文学研究室の学生さん方も大勢聴講していましたが、
回を追うごとに受講生の数が減っていきました。
(先生ご自身、そのことを少し気にされているような風でした。)
その時にはその価値を受けとめることができなくても、
後になって腑に落ちる、長い時をおいて感動が押し寄せるということがあります。
人数は少なくとも、どこかに必ず理解者はいるものだと思います。
2022年9月8日
*岡村繁『文選の研究』(岩波書店、1999年)第六章(p.291―310)。初出は『東方学会創立四十周年記念東方学論集』(東方学会、1987年)。