昨日の続き(曹植と「韓詩」)

曹植における『詩経』摂取が「韓詩」によるものであったことは、
彼の他の作品からも示唆されるところです。

昨日の続きで、『詩経』周南「漢広」を踏まえる表現として、

たとえば、「七啓」(『文選』巻34)に見える次の句があります。

  然後采菱華、擢水蘋、弄珠蚌、戯鮫人、
  諷漢広之所詠、覿游女於水浜。
   それから、菱の花を摘み、浮草を抜き、真珠貝を弄び、人魚と戯れる。
   「漢広」に詠ずる詩句を諷誦し、漢水のほとりで水辺に遊ぶ女神に対面する。

「九詠」(『曹集詮評』巻8)にも、次のようにあります。

  感漢広兮羨游女  「漢広」の詩に感じ入り、その漢水の女神にあこがれる。
  揚激楚兮詠湘娥  「激楚」の歌声をあげ、「湘娥」の詩を詠ずる。
  臨回風兮浮漢渚  つむじ風に臨んで、漢水の渚にただよい、
  目牽牛兮眺織女  牽牛を目にし、織女を眺めやる。

また、同作品には次のような辞句も見えています。

  尋湘漢之長流  湘水や漢水の長大な流れをたどり、
  採芳岸之霊芝  芳しい岸辺の霊芝を摘む。
  遇游女於水裔  漢水の水辺で女神に出会い、
  采菱華而結詞  菱の花を摘んで、言葉を結わえつける。

「洛神賦」(『文選』巻19)にもこうあります。

  従南湘之二妃  南方の湘水の娥皇と女英を従え、
  携漢浜之游女  漢水のほとりの女神を連れにする。

ここに挙げた「漢広」の「遊女」は、
毛伝・鄭箋の『詩経』解釈によるのではなく、
『韓詩』によって、漢水の女神を指すのだと見られます。

2023年3月14日

 

曹植における『韓詩』の援用(2)

この題(特に「援用」という言葉)はしっくりこないのですが、
以前(2020年11月27日)にこう題して書いたので、それを踏襲します。

曹植が『詩経』を韓詩によって摂取しているらしい例が、
本日公開した「妾薄命 二首(1)」の中にも見い出されました。
それは、『詩経』周南「漢広」に出る「漢女」という語です。

この語の用例として、馬融「広成頌」(『後漢書』巻60上)に、
広成苑での舟遊びを描写して「湘霊下、漢女游(湘霊下り、漢女游ぶ)」とあり、
李賢等の注に、詩云「漢有游女(漢に游女有り)」とあります。

ところが、現存する『毛詩』を見ても、
毛伝には「漢の上(ほとり)の游女」とあり、
鄭箋には「賢女雖出游流水之上……(賢女の流水の上に出游すと雖も……)」と言い、
そのどこにも「湘霊(湘水の女神)」と並ぶような要素がありません。

対を為す「湘霊」について、李賢等注は『楚辞』九歌「湘夫人」を挙げており、
これとのバランスから見ても、ここは『詩経』が妥当なのですが。

曹植の「妾薄命」でも、「漢女」と「湘娥」とが並んでいて、
「湘娥」は前掲の「湘霊」と同じく、湘水に没した娥皇ら姉妹を言いますから、
この「漢女」が女神であることはほぼ間違いありません。

それで、陳喬樅『三家詩遺説考』(『清経解続編』巻1150)を見たところ、
その韓詩遺説攷一「漢広」の条に、「漢女」は漢水の女神だとする韓詩の説を記していました。

訳注稿の「漢女」の語釈は、この清朝の学者によって導かれたものです。

2023年3月13日

 

再び曹植が示唆してくれた。

以前(2019.08.05)、「曹植が示唆してくれた。」と題して、
原初的古詩(こちらをご参照ください)が誕生した場のひとつは、
後宮の女性たちを交えた宮苑内の水辺であった、ということの傍証が、
曹植「七啓」によって示されたことを書いておきました。

同じことを、曹植「妾薄命」(『曹集詮評』巻5)も示唆してくれています。
それは、この作品中に見える次のような対句です。

仰汎龍舟緑波  振り仰いでは龍をかたどった舟を緑の波間に浮かべ、
俯擢神草枝柯  うつむいては霊草の枝を摘む。

「龍舟」は、宮苑内での舟遊びを詠ずる場面によく登場する語で、
そこにはしばしば、舟に乗り込む後宮の女性たちの姿が描かれています。*1

それと対を為して描写されているのが、霊草の枝を摘み取る所作です。
これは、次に示す古詩「渉江采芙蓉」の前半を想起させます。

渉江采芙蓉  江を渉って、ハスの花を摘む。
蘭沢多芳草  ながめれば、蘭の沢には香り草がたくさん生い茂っている。
采之欲遺誰  これらを摘んで、誰に送り届けようとするのか。*2
所思在遠道  思いを寄せるあの人は、はるかに遠い道を旅している。

この詩は、数ある古詩の中でも、原初的な位置を占めると目されるものです。*3

さて、前掲の曹植「妾薄命」の二句は、
「仰」「俯」という語で結びあわされているので、
舟遊びと、霊草を摘むこととが、同じ場での一連の動作なのだと知られます。

すると、宮苑内で舟遊びをする傍らで、
水辺の草花を折り取って、遠くにいる人へ贈る所作をする女性がいる、
そのような情景がこの曹植詩の二句から浮かび上がってきます。

曹植の楽府詩「妾薄命」は、
その中に、古詩が誕生した場を想起させる情景を織り込んでいると言えます。
それが、眼前に展開しているものか、それとも想像上のものかはわからないのですが。

2023年3月10日

*1 たとえば、班固の「西都賦」(『文選』巻1)に昆明池に浮かべる舟を描いて、「於是後宮乗輚輅、登龍舟(是に於て後宮は輚輅に乗り、龍舟に登る)」とある。
*2 『楚辞』九歌「山鬼」にいう「折芳馨兮遺所思(芳馨を折りて思ふ所に遺らん)」を踏まえる。原初的古詩は、『楚辞』の中でも九歌の辞句を集中的に取り込んでいる。
*3 数ある古詩から、どのようにして原初的古詩を抽出できるのか。詳細は、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)の、特に第二章第一節を参照されたい。

宴席歌謡と建安詩

古詩は、その展開経緯と成立時期をある程度たどることができますが、
古楽府(古詩と似たところのない)の方は、ほとんど手がかりがつかめません。
(古詩と似た古楽府については、こちらをご覧ください。)

曹植「雑詩」にいう「出亦無所之、入亦無所止」は、
次に示す『太平御覧』巻25所引「古楽府歌詩」の中によく似た句を見い出せます。
この古楽府はいつ頃に成ったのでしょうか。

01 秋風蕭蕭愁殺人 秋風がひゅーひゅーと吹いて、私を酷く悲しくさせる。
02 出亦愁、入亦愁 家から出ても悲しく、入っても悲しい。
03 胡地多飆風   胡の地にはつむじ風がしょっちゅう吹き起こり、
04 樹木何修修   樹木のなんとざわざわと吹きなぶられていることか。
05 離家日趨遠   家を出た私は故郷から日ごとに遠ざかり、
06 衣帯日趨緩   衣や帯は日ごとに緩くなってきた。
07 心思不能言   心中の思いはとても言葉に出しては言えず、
08 腸中車輪転   はらわたの中は車輪が回転しているかのようだ。

このうち、05・06「離家日趨遠、衣帯日趨緩」は、
『文選』巻29「古詩十九首」其一にいう、
「相去日已遠、衣帯日已緩(相去ること日に已て遠く、衣帯日に已て緩し)」に、
表現も内容もとてもよく似ています。

また、07「心思不能言」は、
『玉台新詠』巻1「古詩八首」其七に見える、
「悲与親友別、気結不能言(親友と別るるを悲しみ、気結ぼれて言ふ能はず)」と
よく似た辞句を共有しています。

更に、この句を含む07・08「心思不能言、腸中車輪転」は、
『楽府詩集』巻62「悲歌行」の末尾にもまったく同一の句が見えています。

以上に挙げた「悲歌行」と二首の古詩は、類似表現を共有していません。
すると、前掲「古楽府歌詩」は、これらの古詩・古楽府の後に成ったかもしれません。

この論法は、一昨日(3月7日)の[古詩と建安詩]と同じです。
ただ違うのは、「古詩八首」其七と「悲歌行」は、成立時期が未詳だということです。

他方、前掲「古楽府歌詩」の03・04「胡地多飆風、樹木何修修」は、
『宋書』巻21・楽志三・「塘上行」にいう、
「辺地多悲風、樹木何修修(辺地悲風多し、樹木何ぞ修修たる)」に酷似し、
しかも、「塘上行」のこの句の直前には
「出亦復苦愁、入亦復苦愁(出でても亦た復た苦だ愁へ、入りても亦た復た苦だ愁ふ)」とあって、
これは前掲「古楽府歌詩」の「出亦愁、入亦愁」と、明らかな影響関係を持っています。

『宋書』楽志三所収「塘上行」は、
西晋王朝で演奏された「清商三調」のうちの清調曲なので、
宮廷音楽として整えられる段になって、この古歌を取り込んだのかもしれません。

このように見てくると、
もし、曹植「雑詩」が前掲「古楽府歌詩」を踏まえているのだとしたら、
両者の成立時期はかなり近接しているかもしれないと思えてきます。
「古楽府歌詩」が、上記のとおり、複数の詩歌を踏まえており、
そうだとすれば、その成立はそれほど古くはないだろうと見られるからです。

先に示した「古楽府歌詩」は、
『古詩紀』巻7にも「古歌」として収載されており、
その「古歌」では、「入亦愁」の下に次の句が入っています。

座中何人誰不懐憂 ここにいる人で、誰が憂いを抱いていないものか。
令我白頭 私も憂いですっかり白髪頭となった。

もし前掲「古楽府歌詩」がこの「古歌」と同一作品であるなら、
「座中」という言葉から、それは宴席で歌われる歌謡であったと推測できます。
そうした歌は、瞬く間に口承で広まっていくものでしょう。
曹植は、宴席で耳にした流行歌謡の一節を、自らの詩に取り込んだのかもしれません。

2023年3月9日

古詩と建安詩

先日、訳注稿を公開した曹植の「雑詩」は、
解題にも記したとおり、漢代の古詩・古楽府を随所に踏まえています。

こうした特徴から、従来しばしば、
建安詩と古詩とは同時代の産物と見られてきました。

けれども、この通説は必ずしも絶対的なものではありません。
そのことを、ほかならぬ、このたび訳注を施した詩を例に説明します。
(詩の本文や訳注は、こちらをご覧ください。)

一句目「悠悠遠行客」は、
『文選』巻29「古詩十九首」其三にいう「人生天地間、忽如遠行客」を踏まえます。

五句目「浮雲翳日光」は、
同上「古詩十九首」其一にいう「浮雲蔽白日、遊子不顧反」を思わせます。

六句目「悲風動地起」は、
同上「古詩十九首」其十二に、「迴風動地起」という類似句が見えています。

そして、以上三首の古詩は、相互に表現上明らかな影響関係が認められません。
このことは何を意味するでしょうか。

それは、前掲三首がすでに成立している時点で、
それらを組み合わせて曹植「雑詩」が成立したということです。

曹植「雑詩」から、複数の古詩が派生したとは考えにくいし、
(曹植のこの詩はそこまで古典的な作品だとは言えません。)
曹植詩と三首の古詩とが同時代の産物とも考えにくい。
(作品相互の影響関係が、上述のとおり不均衡ですから。)

そうではなくて、かなりの数の古詩が出そろった段階に位置する曹植が、
それらの中から自由に取捨選択し、組み合わせて本詩が成ったと見る方が自然です。

この基本的な考え方は、
拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)の中で用いています。

2023年3月7日

再出発

しばらくおかしなことになっていたこちらの個人サイトですが、
最悪の状態からは脱することができました。
(これから少しずつ復旧作業を進めてまいります。)

ふたたび、曹植文学作品の訳注や、
日々の研究で気づいたことなどを記していきます。

自分との約束は、人との約束と同じくらい大切にしたいです。

2023年2月1日

現実からの浮揚

おはようございます。

曹植「上牛表」の訳注稿を公開しました。

最初この作品を読んだとき、
何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。
最後まで読んで、右往左往してやっと腑に落ちたような具合です。

というのも、冒頭で、物の大小とその価値について述べ、
大小の対比が意味を持つことを、具体例を引きつつ論じた後に、
急転直下、この牛を献上したいと申し出るという、
不思議な展開をするからです。

最後の方に「不足追遵大小之制」という句が出てきて、
「制」という言葉にひっかかりを覚え、
それで、冒頭にいう「臣聞物以洪珍、細亦或貴」が、
物品に関するある種の規定を指していたのかと思い至りました。

もしこのように捉えることが妥当であれば、ですが、

献上物に関する現実的な決まり事に出発し、
あっという間に、その現実の向こう側に意識が浮揚していく、
それが、この曹植の文章の分かりにくさであり、魅力だと感じました。

2022年11月30日

仮説の見直し

こんにちは。

現在行っている曹植研究は、
中国の古代から中世への移行期に位置する曹植文学の、
“文学としての自立”を明らかにすることを目的としています。

では、“文学として自立した”作品とはどのようなものなのでしょうか。
それは、次の二つの要素を備えたものであると私は考えます。

まず、作者自身が、自らの内発的動機から創作に至ったものであること。
そして、その作品が見知らぬ他者に届く普遍性を持っていること。

曹植作品の中でも、特に魏朝成立後、不遇な日々の中で作り出されたものは、
この条件を満たしているのではないか、と予測していました。

ですが、この仮説は見直す必要があるように思います。
近い時代の人々に波及した曹植作品を見ると、
必ずしも、その不遇時代の作だとは限らないからです。

たとえば、先にこちらで述べたように、隣接する時代の阮籍「詠懐詩」には、
曹植「箜篌引」の「磬折」という特徴的な語が用いられていますが、
この曹植の楽府詩は、彼の「贈丁廙」詩との類似性から見て、
建安時代の作である可能性が高いと判断されます。*

また、こちらで述べたように、陸機「文賦」(『文選』巻17)には、
曹植「七啓」(『文選』巻34)を踏まえたと見られる対句が認められますが、
「七啓」は、その序文に王粲の名が見えていることから、
明らかに建安時代の作です。

言葉は苦難の中でこそ磨き上げられるという、
手垢にまみれた仮説を立てていたことに恥じ入るばかりです。

曹魏王朝が成立してから後の苦難の中で、
曹植が、その為人を少なからず変形させたことは事実なのですが、
それが彼の言葉にどう影響を及ぼしたのか、よく考え直したいと思います。

また、一口に後世の人々と言っても、
それらの人々と曹植文学との関係性は一様ではありません。
この点も、よく吟味する必要があると思います。

2022年11月29日

*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)は、巻三すなわち明帝期太和年間に繋年している(p.459―462)。

曹植の為人

こんにちは。

先週、曹氏兄弟の間に生じた悲劇は、
当人たちの人柄に帰着させるのではなくて、
魏王朝の制度や組織を背景において考えるべきだと述べました。
けれど、同じ環境の中に投げ込まれたとしても、
その為人によって、その環境が当人に及ぼす影響は変わってくるでしょう。

そこで思うのは、曹植はどのような人柄であったのかということです。
彼は兄曹丕への屈託を抱えている、と以前の私は見ていました。
けれども、このところ曹植の作品を読み進めるにつれ、
かえって彼の純粋さのようなものが際立ってくるのを感じています。
(普通は逆のケースが多いだろうと思うのですが。)

以前に読んだ作品を思い起こしてみても、
彼を曹操の後継者として強く推した丁廙に贈った詩では、
人は善行を積めば必ず余沢に恵まれるのだから、
君は、細かいことに拘泥する俗儒のようにはなってくれるな、と説いていました。
その中に、兄への屈託を感じさせる句を含んでいますが、
本詩を贈る相手への眼差しは真っ直ぐです。

また、「贈王粲」では、
不遇をかこつ王粲の独り言のような詩に彼の焦燥感を感じ取り、
万物を潤す密雲は、あまねく恵みをもたらしてくれるはずだと慰撫していますし、
「贈徐幹」でも、隠者的な生活を送る徐幹に対して、
宝玉のような美質は、いずれきっと世に広く知られることになろうと詠じていました。

その一方で、「贈丁儀王粲」詩は、相手に対して不躾にも思える言葉を含み、
(それは宴席上で作られた諧謔の詩である可能性が指摘されています。*1)
「説疫気」のように、民たちの蒙昧さを嘲笑する文章もありました。

思いのほか、曹植は無垢な人だったのかもしれません。
だから、特に若かった建安年間には不用意な言動を繰り返しましたし、
明帝期に入ると、自分を魏王朝における周公旦と位置付けたりもしたのでしょう。*2

そんな人物に対して、
曹丕のような資質の人は恐れを感じるかもしれません。
彼の残忍さは、この不安感から生じたように思われてなりません。

2022年11月28日

*1 龜山朗「建安年間後期の曹植の〈贈答詩〉について」(『中国文学報』第42冊、1990年10月)を参照。
*2 拙論「曹植における「惟漢行」制作の動機」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号、2022年3月)pp.145―157をご覧いただければ幸いです。

 

曹植と魏朝皇帝との間

こんばんは。

曹植は、曹魏王朝の皇族でありながら、
一生涯、王朝運営に関わることはできませんでした。

けれども、文帝曹丕、明帝曹叡ともに、
曹植の進言に対しては、そのたびに丁寧に応答しています。

たとえば、文帝の黄初四年(223)、
曹植の「責躬詩」「応詔詩」及びそれを奉る上表文に対して、
「嘉其辞義、優詔答勉之(其の辞義を嘉し、優詔もて答へ之を勉まし)」ました。

また、明帝の太和三年(229)、
肉親どうしの交流を求める曹植の「求通親親表」に対して、
「已勅有司、如王所訴(已に有司に勅して、王の訴ふる所の如くす)」と詔しています。
上表文中の「臣伏以為犬馬之誠不能動人、譬人之誠不能動天」を引き取って、
「何言精誠不足以感通哉(何ぞ言へるや 精誠は以て感通せしむるに足らずと)」とまで、
自身の叔父である曹植の屈託を汲みとろうとしているのです。
続いて奉られた「陳審挙表」に対しても、
明帝は「輒優文答報(輒ち優文もて答報す)」という対応でした。

以上は、『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の記載ですが、
これ以外にも、曹植と文帝・明帝とを有形無形につなぐやり取りはあったでしょう。
たとえば、先に何度か取り上げた「黄初六年令」からもそう推察されます。

また、曹植が「贈白馬王彪」詩の中で謗る相手は、文帝ではなく役人ですし、
「吁嗟篇」は、焼けただれても「願与株荄連(願はくは株荄と連ならんことを)」と詠じます。

このように、強い骨肉の情で結ばれているようであるのに、
彼らはなぜ断絶を余儀なくされたのでしょうか。

口先ばかりで、何も具体的な手立てを取ろうとしなかった文帝や明帝。
どんなに冷遇されても、肉親に対する一途な愛情と信頼感を失わなかった曹植、
あるいは、信頼するふりをして内心は肉親を憎んでいた曹植。

そんなふうに、個人の資質や人格に帰着させて評するのではなく、
彼らを取り巻く魏王朝ならではの背景から考察する必要があると思います。

その上で、人間の様々な思惑から作り出された制度や組織が、
個人をどのように疎外し、追い込み、破壊するのかを明らかにしたい。

2022年11月24日

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