張華と荀勗

「大曲」を編んだのは誰かという問題について、
仮説の上に仮説を立てるような推論を今しばらく続けます。

さて、「大曲」の編者が仮に張華だとして、
ではなぜ彼は、荀勗撰「清商三調」に重ねて「大曲」を編成したのでしょうか。
そのうちの一篇は、「荀氏録」に瑟調と記された歌辞を「大曲」に移したものであり、
その他の諸篇は、「荀氏録」とは重ならないものです(その多くは瑟調曲)。

そこで、張華と荀勗との関係性を調べてみました。

すると、昨日述べたように、二人は共に宮廷歌曲の歌辞を制作したばかりか、
律呂の検討においても、彼らは仕事を共にしていることが知られました。
『宋書』巻11・律暦志上に次のようが記事が見えています。

  晋泰始十年、中書監荀勗・中書令張華、出御府銅竹律二十五具、部太楽郎劉秀等校試、
  其三具与杜夔及左延年律法同、其二十二具、視其銘題尺寸、是笛律也。
   西晋の泰始十年(274)、中書監の荀勗と中書令の張華は、
   宮中の倉庫に蔵された銅製の律管二十五具を取り出し、
   太楽郎の劉秀らを統括して比較検討したところ、
   その三具は、魏の杜夔や左延年の律法に一致するものであり、
   その二十二具は、銘記された尺寸を調べたところ、笛の律であった。

他方、『晋書』巻36・張華伝には、
張華を荀勗が憎み、外鎮に出したという記事が見えています。
張華は、当世の名望を一身に集めていた、寒門出身の高官であり、
一方の荀勗は、漢代以来の大族に属する、皇帝の恩顧も厚い人物です。
そして、荀勗が張華を追放する直接の契機となったのは、
昨日も触れた武帝司馬炎の弟司馬攸、この人に対する張華の高評価でした。

この他にも、『晋書』巻82・陳寿伝には、
張華が、陳寿(『三国志』の著者)を中書郎に推挙したところ、
荀勗は、張華を忌み嫌い、陳寿を嫉ましく思い、
吏部にほのめかして陳寿を長広太守に飛ばしたとあります。

こうしてみると、張華には、
荀勗撰「清商三調」とは異なる価値観により、
新たな宮廷歌曲群を選定するだけの動機は十分にあったと言えそうです。

2023年5月11日

 

「大曲」の編者(3)

『宋書』楽志三に記されている「大曲」が、
「清商三調」の撰者、荀勗とは別の人物によって編まれたと仮定して、
では、その編者とはいったい誰なのでしょうか。

『宋書』楽志一には、
西晋宮廷音楽の歌辞制定に関わった人物として、
荀勗以外に、傅玄、張華、成公綏の名が記されています。
すなわち、泰始五年(269)のこととして見える、次のような記事です。

  晋武泰始五年、尚書奏使太僕傅玄・中書監荀勗・黄門侍郎張華
  各造正旦行礼及王公上寿酒食挙楽哥詩。
  詔又使中書郎成公綏亦作。
   西晋の武帝(司馬炎)の泰始五年、尚書が奏上して、
   太僕の傅玄・中書監の荀勗・黄門侍郎の張華に
   それぞれ正旦行礼、及び王公上寿、酒食挙楽の歌辞を作らせた。
   詔が下されて、重ねて中書郎の成公綏にも作らせた。

もしかしたら、この三名の中に、
「大曲」を編成した人物がいるのではないでしょうか。
そう仮定して、以下、しばらく推量を進めていくことにします。

さて、ここに登場する人物たちの生没年はそれぞれ次のとおりです。*1
  傅玄  217―278
  荀勗  217?―288
  成公綏 231―273
  張華  232―300

西晋宮廷音楽を司った中心人物は荀勗ですが、
彼は、武帝司馬炎に、その弟の斉王司馬攸を追放するよう仕向けることもしました。
かくして、司馬攸は憤死し(283)、このことは司馬炎をひどく後悔させます。
荀勗は、この一件がもとで王朝の中枢を外れ、晩年を鬱屈の中で過ごすこととなりました。*2

もし、「大曲」が荀勗のあずかり知らぬところで編成されたのだとすると、
その編成の時期は、荀勗が失脚した彼の晩年以降になろうかと推し測られます。
そう推量した上で、先の四人の生没年を振り返って見ると、
この時期、傅玄、成公綏はすでに没し、
張華ただ一人が生存しています。

張華についてはすでにこちらでも触れているのですが、
ここで改めて、彼を「大曲」の編成者として推定することができるか、
検討する価値があると思いました。

2023年5月10日

*1 曹道衡・沈玉成編撰『中国文学家大辞典・先秦漢魏晋南北朝巻』(中華書局、1996年)による。
*2 この一連の出来事は、福原啓郎『西晋の武帝 司馬炎(中国歴史人物選3)』(白帝社、1995年)p.170―180に詳しい。また、拙論「晋楽所奏「怨詩行」考 ―曹植に捧げられた鎮魂歌―」(『狩野直禎先生追悼三国志論集』汲古書院、2019年)でも論及した。

「大曲」の編者(2)

昨日の続きです。
『宋書』楽志三所収「大曲」の諸歌辞は、
一篇の例外を除いては、「荀氏録」に記されていません。
その例外は、「荀氏録」に瑟調として記されている「艶歌羅敷行」です。
『宋書』楽志三では、この歌辞は「大曲」に列せられています。

この例外は、とても奇妙であり、また示唆に富んでいます。

「荀氏録」は、「艶歌羅敷行」を瑟調として記録する。
そしてこの歌辞は、『宋書』楽志では「大曲」に属するものとされている。
「大曲」には、王僧虔「技録」では瑟調とされているものが多い。

それではなぜ、「艶歌羅敷行」以外の「大曲」歌辞(瑟調)は、
「荀氏録」の瑟調に記されていないのでしょうか。
具体的には、次の諸篇です。

  01「東門・東門行」古詞
  02「西山・折楊柳行」文帝(曹丕)詞
  04「西門・西門行」古詞
  05「黙黙・折楊柳行」古詞
  06「園桃・煌煌京洛行」文帝(曹丕)詞
  07「白鵠・艶歌何嘗」古詞
  09「何嘗・艶歌何嘗行」古詞
  10「置酒・野田黄雀行」東阿王(曹植)詞
  13「王者布大化・櫂歌行」明帝(曹叡)詞
  14「洛陽行・雁門太守行」古詞

これらの歌辞は、南朝宋の王僧虔「技録」では瑟調曲として記されています。
西晋王朝においても、基本それらは瑟調で演奏されていたでしょう。
「大曲」とは、その曲調による演奏に、多く「艶」「趨」が付く組曲だと捉えられます。

では、これらの歌辞はなぜ、かの「艶歌羅敷行」と同じように、*
「荀氏録」に瑟調として記録されていないのでしょうか。
その理由を、次のように推測してみました。

「大曲」の編成は、荀勗のあずかり知らぬところで行われた。
「艶歌羅敷行」は当初、荀勗によって「清商三調」の瑟調に組み入れられていたが、
その後、「大曲」が編成されたときに、新たにこちらに組み入れ直された。
『宋書』楽志三は、その最終バージョンの西晋宮廷音楽の記録であり、
「荀氏録」は、その当初の構成を伝える資料である。

このように見てくると、『宋書』楽志三にいう「清商三調」と「大曲」とは、
同じ人物によって編成されたとは考えにくいように思います。

2023年5月9日

*「艶歌羅敷行」は、王僧虔「技録」には記録が見えないが、その瑟調には「艶歌何嘗行」「艶歌福鍾行」「艶歌双鴻行」のように、類似する楽府題が複数見え、これらはいずれも同じ瑟曲調の「艶歌」なのだろうと推測される。また、『楽府詩集』巻28所収「陌上桑」に、別名を「艶歌羅敷行」というと注記され、それに続けて引く『古今楽録』に「陌上桑は瑟調を歌ふ」とある。要するに、「艶歌羅敷行」は、「荀氏録」にも言うとおり、西晋から六朝末まで、瑟調曲として演奏されていたと見てよいだろう。

 

「大曲」の編者(1)

曲調ごとに歌辞を並べる「清商三調」と違って、
「大曲」とはいわば組曲、その演奏様式による区分だと見られます。

「清商三調」と「大曲」とは、
このように次元を異にする歌辞群なので、
両者の間に幾つかの異質性が見い出せたとしても、
それが直ちに、それぞれの編者が別人であるという結論にはつながりません。

たとえば増田清秀氏は、昨日述べたように
何のためらいもなく「大曲」の編者を荀勗としていますが、
それはごく自然ななりゆきだとは言えると思います。
『宋書』楽志三において、
「清商三調」には「荀勗撰旧詞施用者」と記されているけれど、
隣接する「大曲」には何の記述も見えていないのですから。

では、なぜ「大曲」の編者が荀勗ではないかもしれないと疑われるのか。

先にこちらで、『楽府詩集』に引く『古今楽録』が、
荀勗による晋楽所奏の歌辞目録「荀氏録」に言及していることを述べました。

この「荀氏録」と「大曲」とを比べたとき、
それぞれに記された歌辞のほとんどは重なりません。
ところが、一篇のみ「羅敷・艶歌羅敷行」という例外があります。
この歌辞は、「荀氏録」に瑟調として記されていながら、
『宋書』楽志では、「清商三調」の瑟調ではなく、「大曲」として記録されています。

これはどういうことでしょうか。
この食い違いについて、もう少し考えてみます。

同じところを何度も行きつ戻りつしているようですが、
それは、まだ自分の中にある考えが形を成す以前の状態だということです。
ここは、頭の中にあることを現在進行形で書き出す場ですから、
これでよいのだと考えることにします。

2023年5月8日

「大曲」と「清商三調」との相違点

昨日述べたように、「清商三調」には荀勗の編集意識が認められます。
では、これに続けて記される「大曲」はどうでしょうか。

「大曲」として『宋書』楽志三に記されるのは以下の歌辞です。

  01「東門・東門行」古詞
  02「西山・折楊柳行」文帝(曹丕)詞
  03「羅敷・艶歌羅敷行」古詞
  04「西門・西門行」古詞
  05「黙黙・折楊柳行」古詞
  06「園桃・煌煌京洛行」文帝(曹丕)詞
  07「白鵠・艶歌何嘗」古詞
  08「碣石・歩出夏門行」武帝(曹操)詞
  09「何嘗・艶歌何嘗行」古詞
  10「置酒・野田黄雀行」東阿王(曹植)詞
  11「為楽・満歌行」古詞
  12「夏門・歩出夏門行」明帝(曹叡)詞
  13「王者布大化・櫂歌行」明帝(曹叡)詞
  14「洛陽行・雁門太守行」古詞
  15「白頭吟」古詞

これらの歌辞を、同書所収「清商三調」諸篇と比較してみたとき、
幾つかの点で、両者の違いに気づかされます。

「大曲」を縦覧して目にとまるのは、
まず、詠み人知らずの歌辞(古詞)が多いこと、
「清商三調」には無かった曹植の歌辞が入っていること、
「清商三調」の大部を占めていた曹操・曹丕の歌辞が、相対的に少ないこと、
記された歌辞の中に、「艶」「趨」といった付記が頻見すること、*1
「与櫂歌同調(櫂歌と調を同じくす)」と記された「白頭吟」のように、
元来の曲調とは異なる曲調で歌うように指定されているものがあることです。

『宋書』楽志三に「大曲」として収載されている歌辞のうち、
その大部分が、王僧虔「技録」では瑟調曲とされていることは先にも述べました

ですが、「大曲」の中にも、「白頭吟」のように、
王僧虔「技録」では、瑟調ではなく、楚調とされているものもあります。
反対に、王僧虔が瑟調として記録し、西晋当時、確実に存在していたはずの歌辞、
たとえば「飲馬長城窟行」など、「大曲」に入っていないものもあります。
つまり、「大曲」と瑟調曲とは、重なるものではないのです。

「清商三調」と「大曲」とは、
それぞれ別の観点から編成された歌辞群だと見るべきでしょう。
では、「大曲」の編者は誰でしょうか。
増田清秀氏は、ごく自然に、それは荀勗だと見ていますが、*2
本当にそのように捉えることは妥当でしょうか。

2023年5月7日

*1 増田清秀『楽府の歴史的研究』(創文社、1975年)p.93―96に詳しい論考がある。
*2 増田前掲書p.90、91、92に、「櫂歌行」「白頭吟」「東門」のアレンジを荀勗によるものとした上での論述が見えている。

「清商三調」における荀勗の編集意識

昨日の続きです。
『宋書』楽志三所収の「清商三調」が、
西晋の荀勗によって編成された歌曲群だということは、
たとえば、その瑟調曲の諸歌辞から端的に推し測ることができます。

というのは、ここに取られた八篇のすべてが「善哉行」だからです。
ここに引かれた魏の武帝・文帝・明帝の歌辞、及び詠み人知らずの歌辞が、
すべて同じメロディ「善哉行」で歌われるということです。

王僧虔による「大明三年宴楽技録」を見る限り、
瑟調曲には、南朝において多くの楽府題(メロディ)が現存していたようですが、
『宋書』楽志三に記された晋楽所奏「清商三調」の瑟調曲歌辞は、
そのごく一部を取り上げているに過ぎないのです。

王僧虔「技録」がどこまで魏晋の実態を伝えているかは未詳ですが、
それでも、このような作品採録は、どう見ても偏っていると言わざるを得ません。

また、平調曲や清調曲における楽府題の並べ方も目を引きます。
今、楽府題のみを取り出して列記してみると、
平調曲は、「短歌行」「燕歌行」「短歌行」「燕歌行」「短歌行」、
清調曲は、「秋胡行」「苦寒行」「秋胡行」「董桃行」「塘上行」「苦寒行」です。
楽府題(メロディ)を中核として諸歌辞を整然と並べるのではなく、
複数の歌辞を連ねて、そこからある文脈を引き出そうとしているかのようです。

このように、『宋書』楽志三の「清商三調」は、
その三調のいずれにも、荀勗の編集意識がはたらいているように看取されます。
そして、それらはすべて「荀氏録」に記されたところに包摂されます。

2023年5月6日

晋楽所奏「清商三調」と広義の「清商三調」

西晋王朝で演奏された「清商三調」は、
荀勗が、あまたある漢魏のこの種の楽曲歌辞の中から、
幾篇かを選り抜いて編成した歌辞群であることを昨日述べました。
つまり、『宋書』楽志三にいう「清商三調」とは、
ある特定の歌辞群を、限定的に指す固有名詞のそれであって、
西晋時代に存在したこの種の楽曲歌辞を総称するものではないと言えます。

他方、南朝における「清商三調」はそうではありません。
劉宋の王僧虔による「大明三年宴楽技録」は、
当時伝存していた漢魏の「清商三調」を網羅的に記録したものでしょう。*1
これを今、広義の「清商三調」と呼んで、荀勗撰のそれとは区別しておきます。

晋楽所奏「清商三調」と広義の「清商三調」とをこのように捉えると、
荀勗の歌辞目録「荀氏録」と王僧虔「技録」とが食い違っていることも納得できます。

今、『楽府詩集』に引く両資料を並べて示せば、次のとおりです。
いずれも、『楽府詩集』の編者郭茂倩が引く、陳の釈智匠『古今楽録』からの記述です。

まず、「平調曲」(『楽府詩集』巻30)に引く『古今楽録』から。
王僧虔「大明三年宴楽技録」、平調有七曲。一曰「長歌行」、二曰「短歌行」、三曰「猛虎行」四曰「君子行」、五曰「燕歌行」、六曰「従軍行」、七曰「鞠歌行」。
「荀氏録」所載十二曲、伝者五曲。武帝「周西」「对酒」、文帝「仰瞻」、並「短歌行」、文帝「秋風」「別日」、並「燕歌行」、是也。其七曲今不伝。文帝「功名」、明帝「青青」、並「長歌行」、武帝「吾年」、明帝「双桐」、並「猛虎行」、「燕趙・君子行」、左延年「苦哉・従軍行」、「雉朝飛・鞠歌行*2」、是也。

次に、「清調曲」(同巻33)に引く『古今楽録』から。
王僧虔「技録」、清調曲有六曲。一「苦寒行」、二「豫章行」、三「董逃行」、四「相逢狭路間行」、五「塘上行」、六「秋胡行」。
「荀氏録」所載九曲、伝者五曲。晋・宋・斉所歌、今不歌。武帝「北上・苦寒行」、「上謁・董桃行」、「蒲生・塘上行」、「晨上」「願登」並「秋胡行」、是也。其四曲、今不伝。明帝「悠悠・苦寒行」、古辞「白楊・豫章行」、武帝「白日・董桃行」、古辞「相逢狭路間行」、是也。

最後に、「瑟調曲」(同巻36)に引く『古今楽録』から。
王僧虔「技録」、瑟調曲有「善哉行」「隴西行」「折楊柳行」「西門行」「東門行」「東西門行」「却東西門行」「順東西門行」「飲馬行」「上留田行」「新成安楽宮行」「婦病行」「孤子生行」「放歌行」「大墻上蒿行」「野田黄爵行」「釣竿行」「臨高台行」「長安城西行」「武舍之中行」「雁門太守行」「艶歌何嘗行」「艶歌福鍾行」「艶歌双鴻行」「煌煌京洛行」「帝王所居行」「門有車馬客行」「墻上難用趨行」「日重光行」「蜀道難行」「櫂歌行」「有所思行」「蒲坂行」「採梨橘行」「白楊行」「胡無人行」「青龍行」「公無渡河行」。
「荀氏録」所載十五曲。伝者九曲。武帝「朝日」「自惜」「古公」、文帝「朝遊」「上山」、明帝「赫赫」「我徂」、古辞「来日」、並「善哉」、古辞「羅敷・艶歌行」、是也。其六曲、今不伝。「五岳・善哉行」、武帝「鴻雁・却東西門行」、「長安・長安城西行」、「双鴻」「福鍾」並「艶歌行」、「牆上・牆上難用趨行」、是也。

曲名のみを記す王僧虔「技録」と、
歌辞の冒頭の辞句も併せて記す「荀氏録」という違いは置いておくとしても、
曲名だけからも、両者間にかなりの食い違いがあることは明らかです。

荀勗の選した晋楽所奏「清商三調」よりも、
王僧虔が記した広義の「清商三調」の方が、多くの楽曲を録している、
このような現象が生じたわけを、私は前述のように捉えます。

ちなみに、荀勗が宮廷音楽を掌ったのは泰始九年(273)、
王僧虔の「技録」にいう「大明三年」とは西暦459年です。
楽曲そのものは、王朝の滅亡と楽人たちの流浪を経てもなお、
二百年近くの時を超えて、思いのほか多くが伝わっていたようです。

2023年5月5日

*1 増田清秀『楽府の歴史的研究』(創文社、1975年)p.105には、「私は瑟調曲に限って、僧虔の分類が便宜的なもので、宮廷と関連のない民間の古歌をも包括していると判断する」とあって、私見とはやや異なる捉え方が為されている。
*2「鞠歌行」、『楽府詩集』所引『古今楽録』が示す「荀氏録」は、「短歌行」と記す。今、蘇晋仁・蕭煉子『宋書楽志校注』(斉魯書社、1982年)p.214の案語に従って改める。

 

「清商三調」の語が指す範囲

目下の検討課題は、
西晋宮廷音楽における「大曲」の位置を、
「清商三調」との関係性に焦点を絞って明らかにすることです。

その際、あらかじめ明確にしておく必要があると考えるのは、
「清商三調」という語が指し示す範囲です。

というのは、「清商三調」という言葉は、
時代によって、その輪郭がかなりの振幅で動くように看取されるからです。

昨日も示したとおり、
『宋書』楽志三は、「清商三調」を定義して、
「荀勗の旧詞を撰びて施用せる者」と説明していました。

しかし、この西晋宮廷楽団は、王朝の滅亡(311)とともに散逸し、
北方の異民族系諸国を流浪した後、南朝宋の武帝によって奪還されました(417)。
この約百年間の空白は、西晋時代の原形をかなり損なったと想像されます。

したがって、南朝に入ってからの記録に見える「清商三調」には、
西晋時代のそれから外れる部分もあるだろうことを念頭に置く必要があります。

たとえば、『宋書』楽志一では、次のような文脈に「三調」が登場し、
そこに記された「(清商)三調」は、前掲の定義よりもやや広範囲を指すようです。

ひとつは、南朝の「呉歌雑曲」を列記し、それらを、
当初は徒歌であったが、後に管弦の伴奏が被せられるようになったもの、
と説明し、これらとの対比において、「三調」を次のように定義するくだりです。

  又有因弦管金石造哥以被之。魏世三調哥詞之類、是也。
   また別に、管絃や金石の楽器が奏でる楽曲にあわせて歌を作り、
   そうしてできた歌辞に、楽曲の伴奏を被せるものがある。
   曹魏の時代の「三調」歌辞の類がこれである。

もうひとつは、南朝劉宋の昇明二年(478)、尚書令の王僧虔が、
雑舞の類に金石の楽器の伴奏を付けるべきかという問題について上奏し、
あわせて「三調」の歌辞を論じたと記されている部分です。
その上表文の中に、次のようにあります。

  今之清商、実由銅雀、魏氏三祖、風流可懐、京洛相高、江左彌重。
   今の世の清商曲は、実に魏の銅雀台で歌われた諸歌曲に由来するもので、
   魏王朝の三祖(曹操・曹丕・曹叡)が興した気風は深く敬慕され、
   西晋の都洛陽で尊崇され、南朝では愈々重んぜられている。

このように、『宋書』楽志一に記された「(清商)三調」は、
『宋書』楽志三にいう、荀勗が選定した歌辞という要素を含んでいません。

三種の曲調(平調・清調・瑟調)を広く指す南朝の「清商三調」と、
漢魏の三調の諸歌辞から、荀勗が選んで制定した宮廷歌曲「清商三調」とは、
区別して論じる必要があると考えます。
そうしないと、論点が定まらなくなりそうです。

2023年5月4日 

西晋宮廷歌曲群「大曲」の位置

これまで、ここで何度か考究を試みたことのある、(直近ではこちら
西晋王朝の宮廷歌曲「清商三調」と「大曲」との関係について、
現時点での見解をまとめる作業に入ろうと考えています。

以前、「相和」と「清商三調」との違いを明らかにしたことがあります。*1
そこでは、主に「相和」の輪郭を描き出すことに力点を置きました。
そして、魏晋の宮廷音楽の実態を知る上で最善の資料は、
北宋末に郭茂倩が編纂した『楽府詩集』よりも、
南朝梁の初め頃に成った沈約『宋書』楽志であることを示しました。

この『宋書』楽志三において、
「相和」の諸歌辞が示された後に続くのが「清商三調」で、
その下に、次のような説明が付せられています。

  荀勗撰旧詞施用者。
   荀勗が旧詞[漢魏の歌辞]から選り抜いて(宮廷歌曲に)用いたものである。

続けて、「清商三調」の諸歌辞が「平調」「清調」「瑟調」に分けて列記され、
その後に示されるのが「大曲」十五篇、及び「楚調」一篇です。

この「清商三調」と「大曲」との狭間には、本質的に峻別すべき段差があるのか、
それとも、たとえば「平調」と「清調」との違い程度に過ぎないのか。

『宋書』楽志三所収の「大曲」はすべて、
南朝の王僧虔「技録」に「瑟調」として記されているものです。
こちらをあわせてご覧ください。)

この「大曲」の歌辞群に続くのは「楚調」で、
「楚調」は南朝において、平・清・瑟の「清商三調」に連なると目されていたようです。
『文選』巻28、謝霊運「会吟行」の李善注に引く沈約『宋書』にこうあります。

  第一平調、第二清調、第三瑟調、第四楚調、第五側調。然今三調、蓋清平側也。
   第一に平調、第二に清調、第三に瑟調、第四に楚調、第五に側調である。
   しかし今でいう三調とは、おそらく清調・平調・側調であろう。

沈約が「三調」をこのように捉えていた根拠は不明ですが、
当時、平・清・瑟・楚・側の五調が同系統と見られていたことは確かと言えるでしょう。

そうしてみると、「大曲」は「清商三調」の瑟調に連続的につながり、
更に「大曲」は、続く楚調「怨詩行」に無理なくつながることになります。
つまり、『宋書』楽志三所収の「清商三調」「大曲」「楚調」はすべて、
西晋王朝においては一連の歌曲群として扱われていたのであり、
だとすると、その編者は、
『宋書』楽志三に「清商三調」の編者として記される西晋の荀勗であろう、
とかつては考えていました。*2

ただ、この推測はどうにも荀勗の為人と重なりません。
(この疑念については、拙論*2でも触れました。)
それで、この問題を考え直す必要があると感じてきたのです。

2023年5月2日

*1 拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年2月)第五章第一節・第二節を参照されたい。この節のもとになったのは、「『宋書』楽志と『楽府詩集』―その「相和」「清商三調」の分類を巡って―」(『広島女子大学国際文化学部紀要』第11号、2003年2月)、「魏朝における「相和」「清商三調」の違いについて」(『九州中国学会報』第41巻、2003年5月)。
*2 拙論「晋楽所奏「怨詩行」考 ―曹植に捧げられた鎮魂歌―」(『狩野直禎先生追悼三国志論集』汲古書院、2019年9月)に、このように推論した。

若者曹植の放埓

先に指摘した、二十代半ば(建安年間)の曹植の様子からすると、
その三十歳(黄初二年)の時、監国謁者潅均によって摘発された言動は事実であり、
潅均の文帝曹丕に対する阿諛によるものとばかりは言えないかもしれません。

『三国志(魏志)』巻19・陳思王曹植伝にいう、
「酒に酔って放埓にふるまい、使者を脅しつけた(植酔酒悖慢、劫脅使者)」は、
それに類する言動が、建安年間のことを記した部分にも多々認められます。

たとえば、建安二十四年(219)、曹仁(曹操の従弟)が関羽に包囲されたとき、
曹操は曹仁救出のため、曹植を南中郎将・行征虜将軍に任命し、訓戒を与えようとしたが、
曹植は酔っぱらっていて、命を受けることができなかったという逸話。

この『三国志(魏志)』本伝の記述に関して、
裴松之注に引く『魏氏春秋』には次のようにあります。

  植将行、太子飲焉、偪而酔之。王召植、植不能受王命、故王怒也。
   植 将に行かんとして、太子(曹丕)焉(これ)に飲ましめ、偪(せま)りて之を酔はしむ。
   王(魏王・曹操)は植を召すも、植は王命を受くる能はず、故に王は怒るなり。

『魏氏春秋』(『隋書』経籍志・史部・古史類)は、
歴史家として定評のある孫盛(『晋書』巻82に伝あり)の著書であって、
口さがない連中のうわさ話を興味本位で集めたような「小説家」ではないでしょう。
それでも、この記述の前半、曹丕が曹植を陥れたことをいう逸話は、
その真偽を保留にしておくのが適切だろうと思います。*

曹植は生来、規範に沿ったふるまいを為すことが困難な人だったのかもしれません。
加えて、血気盛んな若者にとって、自律的な生活態度の保持は高いハードルだったでしょう。
二十代(建安年間)の曹植作品は、こうしたことを視野に入れて読む必要がある、
それなのに、彼が生身の若者であったことをつい忘れます。

2023年5月1日

*西晋時代には、初代皇帝である武帝司馬炎の、同母弟・司馬攸に対する冷遇事件が広く知られており、その関係性が曹丕と曹植とを想起させるため、歴史書等における曹氏兄弟の記述に歪みが生じたと指摘されている。津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年3月)、津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)、矢田博士「曹植の「七哀」と晋楽所奏の「怨詩行」について―不可解な二箇所の改変を中心に―」(『松浦友久博士追悼記念中国古典文学論集』研文出版、2006年)を参照。

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