現実からの浮揚

おはようございます。

曹植「上牛表」の訳注稿を公開しました。

最初この作品を読んだとき、
何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。
最後まで読んで、右往左往してやっと腑に落ちたような具合です。

というのも、冒頭で、物の大小とその価値について述べ、
大小の対比が意味を持つことを、具体例を引きつつ論じた後に、
急転直下、この牛を献上したいと申し出るという、
不思議な展開をするからです。

最後の方に「不足追遵大小之制」という句が出てきて、
「制」という言葉にひっかかりを覚え、
それで、冒頭にいう「臣聞物以洪珍、細亦或貴」が、
物品に関するある種の規定を指していたのかと思い至りました。

もしこのように捉えることが妥当であれば、ですが、

献上物に関する現実的な決まり事に出発し、
あっという間に、その現実の向こう側に意識が浮揚していく、
それが、この曹植の文章の分かりにくさであり、魅力だと感じました。

2022年11月30日

仮説の見直し

こんにちは。

現在行っている曹植研究は、
中国の古代から中世への移行期に位置する曹植文学の、
“文学としての自立”を明らかにすることを目的としています。

では、“文学として自立した”作品とはどのようなものなのでしょうか。
それは、次の二つの要素を備えたものであると私は考えます。

まず、作者自身が、自らの内発的動機から創作に至ったものであること。
そして、その作品が見知らぬ他者に届く普遍性を持っていること。

曹植作品の中でも、特に魏朝成立後、不遇な日々の中で作り出されたものは、
この条件を満たしているのではないか、と予測していました。

ですが、この仮説は見直す必要があるように思います。
近い時代の人々に波及した曹植作品を見ると、
必ずしも、その不遇時代の作だとは限らないからです。

たとえば、先にこちらで述べたように、隣接する時代の阮籍「詠懐詩」には、
曹植「箜篌引」の「磬折」という特徴的な語が用いられていますが、
この曹植の楽府詩は、彼の「贈丁廙」詩との類似性から見て、
建安時代の作である可能性が高いと判断されます。*

また、こちらで述べたように、陸機「文賦」(『文選』巻17)には、
曹植「七啓」(『文選』巻34)を踏まえたと見られる対句が認められますが、
「七啓」は、その序文に王粲の名が見えていることから、
明らかに建安時代の作です。

言葉は苦難の中でこそ磨き上げられるという、
手垢にまみれた仮説を立てていたことに恥じ入るばかりです。

曹魏王朝が成立してから後の苦難の中で、
曹植が、その為人を少なからず変形させたことは事実なのですが、
それが彼の言葉にどう影響を及ぼしたのか、よく考え直したいと思います。

また、一口に後世の人々と言っても、
それらの人々と曹植文学との関係性は一様ではありません。
この点も、よく吟味する必要があると思います。

2022年11月29日

*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)は、巻三すなわち明帝期太和年間に繋年している(p.459―462)。

曹植の為人

こんにちは。

先週、曹氏兄弟の間に生じた悲劇は、
当人たちの人柄に帰着させるのではなくて、
魏王朝の制度や組織を背景において考えるべきだと述べました。
けれど、同じ環境の中に投げ込まれたとしても、
その為人によって、その環境が当人に及ぼす影響は変わってくるでしょう。

そこで思うのは、曹植はどのような人柄であったのかということです。
彼は兄曹丕への屈託を抱えている、と以前の私は見ていました。
けれども、このところ曹植の作品を読み進めるにつれ、
かえって彼の純粋さのようなものが際立ってくるのを感じています。
(普通は逆のケースが多いだろうと思うのですが。)

以前に読んだ作品を思い起こしてみても、
彼を曹操の後継者として強く推した丁廙に贈った詩では、
人は善行を積めば必ず余沢に恵まれるのだから、
君は、細かいことに拘泥する俗儒のようにはなってくれるな、と説いていました。
その中に、兄への屈託を感じさせる句を含んでいますが、
本詩を贈る相手への眼差しは真っ直ぐです。

また、「贈王粲」では、
不遇をかこつ王粲の独り言のような詩に彼の焦燥感を感じ取り、
万物を潤す密雲は、あまねく恵みをもたらしてくれるはずだと慰撫していますし、
「贈徐幹」でも、隠者的な生活を送る徐幹に対して、
宝玉のような美質は、いずれきっと世に広く知られることになろうと詠じていました。

その一方で、「贈丁儀王粲」詩は、相手に対して不躾にも思える言葉を含み、
(それは宴席上で作られた諧謔の詩である可能性が指摘されています。*1)
「説疫気」のように、民たちの蒙昧さを嘲笑する文章もありました。

思いのほか、曹植は無垢な人だったのかもしれません。
だから、特に若かった建安年間には不用意な言動を繰り返しましたし、
明帝期に入ると、自分を魏王朝における周公旦と位置付けたりもしたのでしょう。*2

そんな人物に対して、
曹丕のような資質の人は恐れを感じるかもしれません。
彼の残忍さは、この不安感から生じたように思われてなりません。

2022年11月28日

*1 龜山朗「建安年間後期の曹植の〈贈答詩〉について」(『中国文学報』第42冊、1990年10月)を参照。
*2 拙論「曹植における「惟漢行」制作の動機」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号、2022年3月)pp.145―157をご覧いただければ幸いです。

 

曹植と魏朝皇帝との間

こんばんは。

曹植は、曹魏王朝の皇族でありながら、
一生涯、王朝運営に関わることはできませんでした。

けれども、文帝曹丕、明帝曹叡ともに、
曹植の進言に対しては、そのたびに丁寧に応答しています。

たとえば、文帝の黄初四年(223)、
曹植の「責躬詩」「応詔詩」及びそれを奉る上表文に対して、
「嘉其辞義、優詔答勉之(其の辞義を嘉し、優詔もて答へ之を勉まし)」ました。

また、明帝の太和三年(229)、
肉親どうしの交流を求める曹植の「求通親親表」に対して、
「已勅有司、如王所訴(已に有司に勅して、王の訴ふる所の如くす)」と詔しています。
上表文中の「臣伏以為犬馬之誠不能動人、譬人之誠不能動天」を引き取って、
「何言精誠不足以感通哉(何ぞ言へるや 精誠は以て感通せしむるに足らずと)」とまで、
自身の叔父である曹植の屈託を汲みとろうとしているのです。
続いて奉られた「陳審挙表」に対しても、
明帝は「輒優文答報(輒ち優文もて答報す)」という対応でした。

以上は、『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の記載ですが、
これ以外にも、曹植と文帝・明帝とを有形無形につなぐやり取りはあったでしょう。
たとえば、先に何度か取り上げた「黄初六年令」からもそう推察されます。

また、曹植が「贈白馬王彪」詩の中で謗る相手は、文帝ではなく役人ですし、
「吁嗟篇」は、焼けただれても「願与株荄連(願はくは株荄と連ならんことを)」と詠じます。

このように、強い骨肉の情で結ばれているようであるのに、
彼らはなぜ断絶を余儀なくされたのでしょうか。

口先ばかりで、何も具体的な手立てを取ろうとしなかった文帝や明帝。
どんなに冷遇されても、肉親に対する一途な愛情と信頼感を失わなかった曹植、
あるいは、信頼するふりをして内心は肉親を憎んでいた曹植。

そんなふうに、個人の資質や人格に帰着させて評するのではなく、
彼らを取り巻く魏王朝ならではの背景から考察する必要があると思います。

その上で、人間の様々な思惑から作り出された制度や組織が、
個人をどのように疎外し、追い込み、破壊するのかを明らかにしたい。

2022年11月24日

自分はここにいる。

こんにちは。

明日から始まる中国語の授業の準備をしていて、
つくづく今は語学学習に適した環境に恵まれていると実感しました。
ネット上にいくらでもすばらしい教材が無償で提供されているのですから。

ひるがえって古典研究の方面はどうだろう。
中国文学の歴史を俯瞰してみたとき、
古代、中世、近世、最近世と、それぞれの時代に、
新しい社会的状況の出現を背景に新しい文学ジャンルが生まれ、
それは清新な勢いを持っている時にこそが輝いているように感じます。

ひるがえって自分が取り組んでいる中世初期の文学はどうだろう。
正直なところ、この分野の研究にそれほどの活況があるとは感じません。
やはり研究の世界でも、その時々に勢いのあるジャンルがあるように思います。

それでは、中世文学に魅力がないのか、
その時代を対象とする文学研究は活力に欠しいものばかりなのか、
と問われれば、それは違うと言うことができます。

人が集まるところには、その分エネルギーが集まります。
けれども、大勢の人が通り過ぎた後にこそ、
自分のペースで作品を読み込んでゆくことができるとも言え、
その速度とリズム感は、文学研究にふさわしいもののように感じます。

様々な歩幅と志向性でそれぞれが真摯に探究している、
そうした世界の一角に自分も身を置いている、
という感覚を見失ってはだめだと思う。

そして、学問の世界の外には、更にまた様々な世界が広がっていて、
それらの中には、非常に面白い、強い輝きを放っているものも多くあります。
が、それらに対しても、卑下したりしてはだめだと思う。

他者がいる。そして、自分はここにいる。

2022年11月23日

定型文に拠りつつ

こんにちは。

やっとひとつ、新しい「曹植作品訳注稿」を公開できました。
黄初三年(222)、鄄城王に立てられたことへの謝意を記す上表文、
「封鄄城王謝表(鄄城王に封ぜられて謝する表)」(『曹集詮評』巻7)です。

この文章の結びに、次のようにあります。

雖因拝章陳答聖恩、下情未展。
(章を拝するに因りて聖恩に陳答すと雖も、下情未だ展べず。)

ここにいう「陳答」は、用例の少ない語です。
ですが、前掲句の「拝章」「陳」「情」を一連としたかたちでは、
当時の公的文書の中に複数箇所、同一のフレーズを見出すことができます。
たとえば、『三国志(魏志)』及びその裴松之注に引くところでは、
巻2・文帝紀の裴注に引く、魏王曹丕の後漢献帝に対する上書、
巻9・曹洪伝の裴注に引く『魏略』に記す、曹洪の文帝曹丕に対する上書、
巻11・管寧伝に載せる、文帝に対する管寧の上疏文等々に、
「拝章陳情(章を拝して情を陳ぶ)」と見えています。

「拝章陳情」は、当時におけるこの種の文章の常套句だったのでしょう。

もしかしたら曹植は、この定型文に依拠しながらも、
敢えてそこから少し外れる表現を取ることで、
「聖恩」すなわち皇帝からの恩沢に、返礼を述べるということ、
「下情」すなわち自身の心情は、十分には言い尽くせていないということを、
明瞭に打ち出そうとしたのかもしれません。

2022年11月22日

文学研究雑感

こんにちは。

「文学研究」とは大きく出たものですが、
週末、少し思うところがあったので記しておきたいと思います。

先週は、曹植作品の、続く時代における受容について記すことが多くありました。
そこで、こうした視点からの研究について、先行事例を探してみたところ、
山東大学の博士学位論文(2014年11月30日発表)、
王津氏による「唐前曹植接受史」と題する研究がありました。

もしかしたら、自分の考えていることは既に論じられているのではないか、
と少しどきどきしながら入手しましたが、縦覧したところ重ならないようでした。
仔細に見ていけば、すでに指摘されていることもあるかもしれません。
ですが、基本的に研究の立脚点に違いがあると感じました。

一般に、中国の論文は、巨視的に文学史を把握する力が強いと感じます。
高いところから通史的に俯瞰するような力強いスタンスです。
(清朝考証学は、これとはかなり異質ですが。)

一方、自分がやっていることといえば、地を這うような読解が基本です。
漢語を母語としない以上、そうするほかありません。
そうした地面すれすれの視点から見えてきたものを拾い上げて、
それらがいつしか有機的に結び合って何らかのことを語り始めるまで、
ゆっくりと熟成を待つような、たいそう迂遠なものです。

こんなに違うと、自分の研究は現代中国の研究者たちに届かないかもしれない。
けれども、それはそれで仕方がないことかと思っていますし、
ここで流されると、自身にとってすら無意味なものになってしまいます。

他方、授業の準備の一環として、
入矢義高『洛陽伽藍記』(平凡社・東洋文庫、1990年)を見ていて、
その「東洋文庫版あとがき」に打ち震える思いがしました。

「ふと立ち寄った小さな古本屋で」見付けた「呉若準『集証』の影印本」を、
「その面白さに牽きこまれて、とうとう徹夜して読み了えた。」
「本を読むことの楽しさにこれほど没入できたのは、私にとっては滅多にない経験で、
その時の興奮を今でも懐かしく思い起こすことができる。」

こんな歓喜をいつか自分も味わえるようになりたい。
それを念じつつ日々精進したいと思います。

2022年10月17日

史料としての文学作品

こんにちは。

魏の基礎を築いた曹操の子であり、魏の文帝曹丕の弟である曹植は、
いわば曹魏王朝を構成する要人のひとりであるはずですが、
そうした彼の具体的な足取りについては、意外と不明瞭な点が少なくありません。

特に、兄の曹丕が、曹操の後を継いで魏王となった延康元年(220)から、
後漢王朝の禅譲を受けて、魏の初代皇帝として即位した黄初元年(220)を経て、
その生涯を終える黄初七年(226)に至る間の曹植の動向については、
複数の研究者が『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の記述内容に異を唱えており、
つまりそれは、この間の曹植の事績が未詳であることを意味しているでしょう。

そこで今、曹植自身の文学作品「責躬詩」を中心的に取り上げて、
彼自身の言葉に依拠しつつ、その背後にある事実を明らかにしたいと考えています。

それで、「責躬詩」を論じる先行研究を探してみたのですが、
日本にも、中国にも、中心的に取り上げたものは見当たりませんでした。
探し方が悪いという可能性も否定できませんが、
表現的にも内容的にも堅苦しさばかりが先に立つ本詩は、
曹植文学を論じるには物足りない素材だと思われたのでしょうか。
あるいは、この作品から読み取れることは周知の事実なのでしょうか。*
そもそも文学作品を事実の推定に用いること自体、ナンセンスなのでしょうか。

なお、黄初年間の曹植に関する先行研究を読む中で、
以前「黄初六年令」に附した訳注に不備があることに気づきました。

本作品の語釈の「東郡太守王機」で、
“「王機」という人物については未詳。”としていたのを、次のように改めました。
“「王機」は、西晋王朝成立の元勲であり、曹魏の国史『魏書』の撰者である王沈の父。津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』三八号二〇〇五年一二月)の注(22)を参照。”

この重要な指摘を見落としていました。

2022年10月14日

*たとえば、比較的新しく刊行された岩波文庫の『文選 詩篇(一)』(2018年)pp.101―118、川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(2022年2月)pp.337―354では、本詩に詠われたことの事実関係について、特に問題視してはいないような印象を受ける。

曹植と西晋宮廷文人たち

こんばんは。

以前こちらで言及した応貞「晋武帝華林園集詩」(『文選』巻20)に、
次のような表現が見えていました。

玄沢滂流  玄沢 滂(あまね)く流れ、
仁風潛扇  仁風 潛(ひそ)かに扇(あふ)ぐ。

これは、李善注にも指摘するとおり、
曹植の「責躬詩」にいう次の表現を明らかに踏まえています。

玄化滂流  玄化 滂(あまね)く流れ、
荒服来王  荒服 来王す。

いずれも、自然に恩沢を敷き広げる為政者の善政をいうもので、
文脈を踏まえた上での辞句の援用だと言えます。

また、『宋書』楽志二所収の、西晋王朝の宮廷歌謡、
成公綏「晋四箱歌十六篇・雅楽正旦大会行礼詩十五章」其四にいう

嘉禾生 穂盈箱  嘉禾生じ、穂は箱に盈つ。

これは、曹植「魏徳論謳」(『藝文類聚』巻85)にいう

猗猗嘉禾 惟穀之精  猗猗たる嘉禾は、惟れ穀の精なり。
其洪盈箱 協穂殊茎  其れ洪(おお)いに箱に盈ち、穂を協(あは)せ茎を殊にす。

を踏まえているでしょう。
「嘉禾」と「盈箱」とをセットで援用しているのですから。

西晋王朝の宮廷文人たちと曹植とは、
意外に強い結びつきを持っていたのかもしれません。
そうした事例は、
これまでに何度か言及したことがありますが、
前掲の表現もこれに加えることができそうです。

なお、こうした気づきは、こちらの共同研究によって得られたものです。

2022年10月13日

曹植と諸葛亮

こんにちは。

『曹集詮評』巻9「漢二祖優劣論」の校勘をしていて、
『金楼子』巻4・立言篇九下に、次のような記事があるのを知りました。

諸葛亮曰、曹子建論光武、将則難比於韓周、謀臣則不敵良平。
時人談者亦以為然。
吾以此言誠欲美大光武之徳、而有誣一代之俊異。何哉。……

 諸葛亮曰く、曹子建 光武を論ずるに、
 将は則ち韓(韓信)周(周勃)に比(なら)び難く、
 謀臣は則ち良(張良)平(陳平)に敵(かな)はず、と。
 時人の談ずる者も亦た以て然りと為す。
 吾は以(おも)へらく 此の言は誠に光武の徳を美大せんと欲するも、
 而も一代の俊異を誣(そし)るところ有り。何ぞや。……

曹植(192―232)と諸葛亮(181―234)とは、同時代の人です。
その諸葛亮が、光武帝に対する曹植の批評を取り上げて論じています。
また、同時代人の談論も、曹植の批評に同意するものが多い、と記しています。

魏王朝に罪人扱いされていた曹植が名誉を回復し、
その百余篇の作品が、王朝の内外に副蔵されることとなったのは、
景初年間(237―239)中に発布された詔によるものですが、
(『三国志(魏志)』巻十九・陳思王植伝)

『金楼子』に記されているのはそれ以前のことです。

もし、この記事が事実を記しているのだとするならば、*
曹植の作品は、彼の存命中から広範な人々に読まれていたことになります。
しかも、魏とは敵対関係にあった蜀にまで伝播していたことを意味するでしょう。

曹植自身が感じていたであろう閉塞感とは正反対の、
思いのほか開けた空気に、何か、非常に意外な感じを受けました。

2022年10月12日

*清・厳可均『全三国文』は、諸葛亮のこのコメントを採録していない。

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