原典の読解と翻訳の閲覧
曹植作品に見える典故表現の原典に当たる際、
最近になって、日本語による訳注本をも参照するようになりました。
こんなことは至極当たり前のことなのかもしれませんが、
私はこれまで、たとえば儒教の経典だったら「十三経注疏」所収のものをまず見て、
翻訳や日本語による注釈などは努めてこれを見ないようにしてきたのです。
最近、こうした先人の研究成果を参照するようになって、多くのことを教えられています。
読み解くことを省力化しているのではなくて、先達に教えを受けていると思えばいいのですね。
このように、ある意味傲慢な態度でこれまでやってきたのですが、
(太古の昔から伝わる古典を自力で読めるはずだと思っているわけですから。)
若い頃から訳注本にすぐ手を伸ばすことを自ら禁じてきたことはあまり後悔していません。
時にとんでもない誤解をするし、得られた知識の量も比較的少ないと思いますが、
古典を素手でつかむという体験はやっぱり何物にも代えがたいものです。
それに無知なりに原典を読んできたある種の飢餓感があればこそ、
先達の教えをありがたく受けることができます。
そういえば、大学時代の『文選』李善注の演習で、
ある同学が、人名をそれと知らずに、なんとか意味のある文に訳したことがあります。
その時、恩師の岡村繁先生は破顔一笑され、それでいいのや、と言われた。
また、本文の通釈がなかなか適切なところに着地しないときに、
はじめて先行する訳注本を学生に確認させ、その是非をコメントされていました。
定説をひっくり返す先生の新見地は、このような地道な研究から生まれたと思っています。
それではまた。
2020年3月17日
叔父と甥
曹植「怨歌行」について、その作者を明帝曹叡だとする説があります。*
(この作品の作者説をめぐっては、以前にも少し考えてみたことがありますが、それとは別に。)
『宋書』巻22・楽志四、「漢鼙舞歌五篇」に続けて示された「魏鼙舞歌五篇」の最後に、
「為君既不易」という、曹植「怨歌行」の第一句と同じ詩題が挙がっており、
これらの鼙舞歌辞について、陳の釈智匠『古今楽録』(『楽府詩集』巻53に引く)が、
漢曲五篇:一曰「関東有賢女」、二曰「章和二年中」、三曰「楽久長」、四曰「四方皇」、五曰「殿前生桂樹」、並章帝造。
魏曲五篇:一曰「明明魏皇帝」、二曰「大和有聖帝」、三曰「魏暦長」、四曰「天生烝民」、五曰「為君既不易」、並明帝造、以代漢曲。其辞並亡。
と記し、「為君既不易」を含む魏の鼙舞歌辞の作者を「明帝」としていることに拠ります。
もっともこれは、明帝の治世下で作られた、と捉える方が妥当かもしれません。
(後漢の鼙舞歌辞が「章帝造」とされているのと同様に。)
それで、少し引っかかったのが、「其の辞は並びに滅ぶ」と記されていることです。
六朝末の時点で本当にその歌辞がすべて散逸していたのか、
それとも陳の釈智匠がたまたま目睹できなかっただけなのかは不明ですが、
もし如上の記述が事実であるならば、
魏の鼙舞歌辞として歌われた「為君既不易」は、
同じ句を冒頭に置く曹植「怨歌行」とは別ものだということになります。
曹植「怨歌行」は現在に至るまで伝わっているのですから。
(より端的には、陳に近い初唐の類書『藝文類聚』巻41に引かれて伝存が確認できます。)
もし仮に上述のとおりだとして、
別の歌辞でありながら第一句を共有しているとはどういうことでしょうか。
曹植「怨歌行」と魏「鼙舞歌・為君既不易」とが同じ古辞に基づいた、
もしくは、曹植「怨歌行」がアレンジされて魏の鼙舞に用いられ、それが亡びた、
あるいは、魏の鼙舞歌辞を曹植「怨歌行」が取り込み、曹植作品のみが後世に伝わった、
等々、いろいろな仮説が立つとは思います。
が、これ以上は遡れません。
ただ、それでも興味を惹かれるのは、
これが曹植と明帝曹叡とのつながりの一端を示しているように感じられるからです。
(二人の関係については、以前にも少し考えてみたことがあります。)
ちなみに、曹植が名誉を回復し、その作品が大切に保存されることとなったのは、
明帝の末年、景初中(237―239)の詔によってでした。(『三国志』巻19・陳思王植伝)
それではまた。
2020年3月16日
* 逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1983年)巻6、p.426に指摘する。
著者を知りたくなる論文
出自未詳の蘇李詩を追いかけている中で、
にわかに気になってきたのが『古文苑』という総集のことです。
この書物は、『文選』や歴史書には見えない作品を多く収録しています。
ですから、これまで私は、その信憑性を深く吟味することもなく便利に用いてきました。
ですが、それでよかったのか。
この書物が収録する作品はどこから採られたものなのか。
『古文苑』の素性を知りたいと、自分なりに調べてみましたが、今ひとつ埒が明かない。
ところが、本日、次の論文に出会いました。
阿部順子「『古文苑』の成書年代とその出所」(『日本中国学会報』第53集、2001年)です。
実に多くのことを教えられました。
(学会報が出たときに、なぜすぐに読まなかったのか、過去の自分を叱りたい。)
その考証は非常に精緻で、論の背後にどれほどの調査や考察が為されていることか。
そして、論を運ぶ文章がまた硬質で美しい。
このような論文を書かれたのはどんな人かとCiNiiで検索してみると、
阮籍に関する論考もおありのようです。
自分との接点をひとつ見つけてうれしくなりました。
面識のない執筆者に強くひきつけられる感覚は、実に久しぶりのことでした。
自分もしっかりしないと。
それではまた。
2020年3月12日
先人のご教示
先週、右往左往した結果、結局わからなかった蘇李詩の真偽について、
鈴木修次『漢魏詩の研究』(大修館書店、1967年)に詳しい論及がありました。
第二章・第四項の四「伝蘇武・李陵詩考」の、特にp.326~330です。
鈴木氏も、馮惟訥『古詩紀』が『文選』所収詩のみを蘇武・李陵の作とし、
『古文苑』に引かれている諸作品を「擬蘇李詩十首」として収録することを捉えて、
「注意するにあたいする」と記されています。(p.326)
さらに、このことに関する但し書きとして、
蘇李詩が『藝文類聚』『北堂書鈔』『初学記』といった類書に引用される場合、
上記の『文選』所収詩と『古文苑』所収詩の間に特段の区別がなされていないことも、
公平に指摘されています。
先に紹介した拙論(学術論文№28)は、『文選』所収作品に限定して論じたものですが、
そのように範囲を狭く区切ったのは、この先人の論から示唆を受けてのことでした。
(注でそのことを記しながら、すっかり忘れていました。)
ただし、鈴木氏は『古文苑』所収の蘇李詩を擬古的な作品だと断言してはいませんから、
私の注記はやや的外れというか、武断に過ぎるというか。。。
(私の至らなさは言うまでもないことなので措いておくことにします。)
鈴木先生の本は、示唆に富む指摘やヒントを惜しげもなく分け与えてくださいます。
そして、それを一度読んだからといって、こちらがすべてを咀嚼しているとは限りません。
ご教示を受け取れる時が熟するのを、ゆったりと待ってくださっているのだと思います。
それではまた。
2020年3月11日
やっぱり不分明な蘇李詩
昨日、李陵詩「晨風鳴北林」を、三国魏以降の作ではないかと推量しました。
ですが、なぜその作者名が伝わっていないのかが不審です。
この頃になると、すでに五言詩は知識人の表現様式として市民権を得ているからです。
たとえば、『文選』巻30・31に収められた「擬古詩」は、
西晋の陸機、東晋の陶淵明、劉宋の劉鑠らが署名付きで発表したものです。
ならば、前掲の李陵詩はやはり、
それほど下った時代ではない、後漢あたりの作なのでしょうか。
それなら、『文選』巻29所収の蘇李詩とはそれほど隔たっていないことになります。
ですが、『文選』所収の李陵「与蘇武三首」や蘇武「詩四首」と、
“出自未詳”の李陵「録別詩」や蘇武「答詩」(いずれも『古文苑』巻8)とは、
なにか質感が違うように感じられてなりません。
南宋の章樵は、前掲『古文苑』の注において、
北宋の蘇軾の説(李陵「答蘇武書」を擬作とする唐の劉知幾の説を引く)を紹介した上で、
李陵の書簡や蘇武の詩などがみな擬作で真偽を弁別できないのならば、
これらの数篇については言うまでもない、と述べています。
章樵が目睹した文献では、上述の二群の蘇李詩は区分されていたのでしょうか。
明代に成った『古詩紀』では、
巻2には、『文選』と同じく蘇武「詩四首」と李陵「与蘇武詩三首」を収め、
巻10には、「擬蘇李詩十首」と題して「李陵録別詩八首」「蘇武答詩二首」を収録しています。
「擬蘇李詩」は、『古文苑』から採ったものでしょう。
いわゆる蘇李詩と総称される作品群は、
今のところ、これを腑分けし得る確かな手掛かりが見当たりません。
行きどまりの壁に突き当たりました。
この問題は、しばらく寝かせておきたいと思います。
それではまた。
2020年3月6日
再び出自未詳の李陵詩について
先週話し始めた“出自未詳の李陵詩”に再び立ち返って、
なぜ件の詩を比較的新しいと感じたのか、その理由のひとつを示します。
曹植「七哀詩」と同一句「明月照高楼」を共有する次の対句、
05 明月照高楼 明月 高楼を照らし、
06 想見餘光輝 餘りある光輝を見んことを想ふ。
この下の句を見たとき、まず思い浮かべたのが、
次に示す古詩「凛凛歳云暮」(『文選』巻29「古詩十九首」其十六)です。
独宿累長夜 独り宿して長き夜を累ね、
夢想見容輝 夢に想ひて容輝を見る。
一人で過ごす宿で長い夜を重ねているうちに、
私は夢にあなたを想い、あなたはその輝かんばかりの姿を現した。
“輝き”と“想”“見”といった語が組み合わさったとき、
その“輝き”とは、思いを寄せる相手の容貌と解釈するのが妥当だと思われます。
また、「想見」という語に限れば、
楽府詩「塘上行」(『宋書』巻21・楽志三ほか)にも次のような句が見えています。
念君去我時 君が我を去りし時を念ひ、
独愁常苦悲 独り愁へて常に苦悲す。
想見君顔色 君が顔色を想見すれば、
感結傷心脾 感は結ぼれて心脾を傷ましむ。
あなたが私のもとを去ったときのことを繰り返し思い、
ひとりぼっちで愁いに沈み、いつもひどい悲しみに打ちのめされています。
あなたのお顔を思い浮かべると、
感情の糸が結ぼれて、心臓脾臓が傷めつけられます。
さて。前掲の古詩「凛凛歳云暮」は、
以前に述べた特別な古詩群には属さない、比較的新しい時代の後続作品です。*
また、「塘上行」の作者は、
『宋書』楽志では魏武帝(曹操)、
『玉台新詠』巻2では甄皇后(魏文帝曹丕の皇后)とされています。
要するに、冒頭に示した“出自未詳の李陵詩”の対句は、
魏の皇族たちによる詩歌や、比較的後出の古詩と近しい表現を共有しています。
この現象を、件の“李陵詩”から複数の漢魏詩が派生したものと見るか、
それとも、件の“李陵詩”が、複数の漢魏詩から表現を取り込んだのだと見るか。
私は後者の方だと考えました。
そして、件の“李陵詩”を、魏よりも更に下った時代の作だと見ました。
このことについては、明日も続けて考えます。
それではまた。
2020年3月5日
*柳川『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)第四章第三節(初出はこちらの学術論文№29)を参照されたい。
四種類の『詩経』
中国最古の詩集であり、儒教の経典でもある『詩経』は、
かつて四種類のテキストが行われていました。
魯詩、斉詩、韓詩(一昨日の注で触れた三家詩)に加えて、
現在唯一伝存している毛詩です。*1
テキストにより、解釈を異にしている部分もあります。
(王先謙『詩三家義集疏』に詳しい。)
漢代詠み人知らずの五言詩、古詩の原初的作品群の作者たちが学んだのは韓詩、*2
以前触れた、後漢順帝の皇后となった梁妠が学んだのも韓詩、
一昨日紹介した陳喬樅の説によると、曹丕「又清河作」詩が拠ったのは斉詩、
また、陸機「擬行行重行行」が踏まえたのは毛詩であろうことも先に述べたとおりです。
他方、伊藤正文氏は、曹植が学んだのは韓詩だと推定しています。*3
『毛詩正義』の登場により、毛伝・鄭箋の流れが『詩経』解釈の決定版となるまでは、
漢魏晋南北朝時代、斉・魯・韓・毛の四家が並び行われていました。
曹植たちの作品を読む場合、『毛詩』に拠ると意味が通じないこともあり得ます。
このことに注意しておきたく思います。
それではまた。
2020年3月4日
*1 狩野直喜『漢文研究法』(みすず書房、1979年)p.105―115に、詳しくかつわかりやすい解説がある。
*2 こちらの学術論文№21、及び著書№4の第二章第二節を参照されたい。
*3 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)の解説(p.22)を参照。
プロ意識
先日来、研究室の端末の具合が悪く、
これまで普通に使ってきたChinese writerが、
ある日突然、Microsoftの中文入力システムに切り替わっていた。
だから、端末の中に残っているChinese writerをアンインストールして、
言語のオプションとしてMicrosoft Pinyinを正式にダウンロードしようとしたら、
「基本の入力」からして「インストールで問題が発生」と示される、という状態。
現状でもちょっとした入力はできるのですが、
Chinese writerとMicrosoft Pinyinでは入力の操作がかなり違うこともあって、
今とりあえず動いているシステムだが、実は重大な不具合を抱えているのではないか、
それに「問題が発生」を放置しておくのは気持ちが悪い、ということで、
先週末、そして昨日と、学内の専門の方に見ていただきました。
結論としては、「インストールで問題が発生」は解消されなかったのですが、
私としてはとてもありがたく、また、心底打たれました。
なぜこのようなことが発生したのか、
どのような検討が為され、どのような作業が試みられたのか、
詳しく、丁寧に説明してくださったからです。
私にはその内容のすべてを正確に理解することはできなかった。
けれど、そのお話しぶりから、内容の輪郭はおぼろげながら把握できました。
プロフェッショナルを目の当たりにしたと思いました。
振り返って自分はどうなのか。
たとえば、学生たちを相手に授業をするとき、
私は時々、こんな込み入った話をして申し訳ない、と思ってしまいます。
また、学会や研究会などで発言するとき、余計なところに気を使ったりすることもあります。
礼節さえわきまえていれば、本当はプロ意識を全開にしてもよいはずだし、
そうすることは、相手に対する敬意でもあるはずです。
のびのびとそれが全開にできるよう、自分はもっと研鑽をつみたいと思いました。
それではまた。
2020年3月3日
前回の訂正
先に検討した出自未詳の李陵詩について、以下のとおり追記訂正します。
「晨風鳴北林」と詠ずる主体は男性であろう、と、
この句が踏まえる『詩経』秦風「晨風」に依拠して先には推定しました。
それは、この句を見たとき、陸機の「擬行行重行行」(『文選』巻三十)にいう、
王鮪懐河岫 王鮪は河岫を懐ひ、
晨風思北林 晨風は北林を思ふ。
をまず想起したからです。(詳細はこちらをごらんください。)
この対句の下の句は、『詩経』解釈の一派、前漢の毛萇の伝にいう、
先君招賢人、賢人往之、駃疾如晨風之飛入北林。
先君は賢人を招き、賢人は之に往き、駃疾なること晨風の北林に飛び入るが如し。
を踏まえると解釈できます。
そして、前掲の李陵詩にいう「晨風鳴北林」は、この陸機詩の句によく似ています。
だから、先の李陵詩の句について、これを詠じているのは男性知識人だろうと考えたのです。
ですが、『詩経』の「晨風」を踏まえるのはこの詩ばかりではありません。
たとえば、曹丕の「又清河作」詩(『玉台新詠』巻2)には、次のような対句が見えています。
願為晨風鳥 願はくは晨風の鳥と為りて、
双飛翔北林 双つながら飛びて北林に翔らんことを。*
これは、かの「晨風」に出る詩語に加えて、
古詩「西北有高楼」(『文選』巻29「古詩十九首」其五)の結び、
願為双鳴鶴 願はくは双鳴鶴と為りて、
奮翅起高飛 翅を奮ひて起ちて高く飛ばんことを。
という対句の発想を織り交ぜて、
女性の立場から、思いを寄せる相手への思慕の情を詠ずるものです。
こうしてみると、『詩経』秦風「晨風」を踏まえると理由だけで、
李陵詩の「晨風鳴北林」は男性の言葉だ、と言い切ることはできなくなります。
そもそも、古詩の流れを汲む魏晋の五言詩歌では、
男性が女性に成り代わって遊戯的に詠ずる閨怨詩は非常に多いですし、
その枠を借りて、男性知識人が君主に向けて自らの思いを表出する作品も少なくありません。
そして、詠ずる主体の不明瞭さは、元来この系統の作品にはよくあることです。
先に述べた李陵詩の分かり難さは、視点の揺らぎにのみ由来するのではない、と考え直しました。
それではまた。
2020年3月2日
*王先謙『詩三家義集疏』巻9には、曹丕のこの詩を『斉詩』(『詩経』テキストの一派。魯詩、韓詩をあわせて三家詩と称する)に依拠するものと指摘する、清朝の陳喬樅の説(王先謙編『清経解続編』巻1141所収『三家詩遺説考』四)を紹介している。この点、拙著p.482の注(31)は追記修正する必要がある。
出自未詳の李陵詩(承前)
“あやしい”改め“出自未詳”の李陵詩について、昨日の続きです。
先に訓み下しのみを提示したその詩を、自分なりに訳出すれば次のとおりです。
01 晨風鳴北林 ハヤブサが北林に鳴き、
02 熠燿東南飛 羽を鮮やかに輝かせて東南に飛んでゆく。
03 願言所相思 思いを寄せるあの人のことを強く思うあまり、
04 日暮不垂帷 日が暮れたというのに帷を降ろすこともしていない。
05 明月照高楼 明月が高楼を照らしているのを眺めつつ、
06 想見餘光輝 あの方の光あふれんばかりのお姿を思い浮かべる。
07 玄鳥夜過庭 玄(くろ)き鳥が夜に庭を訪れて、
08 髣髴能復飛 あたかも再び飛び立つことができそうな様子だ。
09 褰裳路踟蹰 私は裳をかかげて路上で足踏みし、
10 彷徨不能帰 行きつ戻りつ、帰ることができないでいる。
11 浮雲日千里 浮雲は日に千里を飛ぶという、
12 安知我心悲 私の心が痛み悲しむことなど知りもしないで。
13 思得瓊樹枝 なんとか美しい玉の樹の枝を手に入れて、
14 以解長渇飢 それで久しく続いた飢渇の思いを解き放ちたいものだ。
この詩は訳しにくいです。その理由として、
この詩を詠じているのが誰なのか、はっきりしないということがまずあります。
たとえば、次の古典が踏まえられていることからは、詠ずる主体は男性だと判断されます。
01 『詩経』秦風「晨風」;鴪彼晨風、鬱彼北林。
(鴪たる彼の晨風、鬱たる彼の北林。)
13 『詩経』衛風「木瓜」;投我以木桃、報之以瓊瑶。*1
(我に投ずるに木桃を以てす、之に報ずるに瓊瑶を以てせん。)
ところが、次のような典故からは、その主体が孤閨を守る女性かと思わせられます。*2
03 『詩経』衛風「伯兮」;願言思伯、甘心首疾。
06 『文選』巻29「古詩十九首」其十六;独宿累長夜、夢想見容輝。
このように、詠み手の立脚点が浮遊するのは、
この詩のテーマが、詩人の内発的な強い動機に出るものではなく、
たとえば、遊戯的に作られた閨怨詩など、外発的な作品であることを物語っていそうです。
この詩は比較的新しいのではないかと感じたわけは、また改めて考えてみます。
それではまた。
2020年2月28日
*1 李陵詩との前後関係は不明だが、後漢の秦嘉「贈婦詩三首」其三(『玉台新詠』巻一)にも、『詩経』のこの句を踏まえた「詩人感木瓜、乃欲答瑶瓊」という表現が認められる。
*2 同じく李陵詩との前後関係は不明だが、西晋の陸機「為顧彦先贈婦二首」其二に「願保金石躯、慰妾長飢渇」という類似句が認められ、これと同じ文脈で考えるならば、その詠じる主体は女性だと見るのが妥当である。