豊饒な言葉の海を湛えた人

曹植が好んで言及する周公旦と延陵季子(呉王季札)は、
いずれもその境遇が曹植に似ています。

周公旦については過日も何度か言及したとおりですし(たとえばこちら)、

呉王季札は、兄弟の最年少でありながら王位を継承させられそうになったのを固辞し、
延陵に封ぜられたという人で(『史記』呉太白世家、劉向『新序』節士篇)、
ある時期までの曹植にとっては、自身の行動の指針ともなった人物だと言えます。
彼は、魏王曹操の後継をめぐって、兄曹丕との間に長らく緊張関係を抱えていましたから。

境遇の類似から来る親近感と尊敬の気持ちから、
曹植は彼らのことを幾度もその作品の中に登場させたに違いありません。

他方、彼らはいずれも、漢代画像石によく描かれる人物たちです。*
(画像石とは、陵墓や祠堂の壁面に線刻された図像で、かつて何度か言及しています。)
このことは、彼らの逸話が当時ポピュラーなものであったことを物語っています。

つまり、周公旦や延陵季札は、曹植が敬愛してやまない先人であったと同時に、
当時の広範な一般の人々にとっても、非常に身近な歴史上の人物であったということです。

曹植はその作品に、通俗的な故事成語の類をわりとよく引きますが、
周公旦や延陵季子への言及は、そうした曹植文学の特質の現れと見ることもできるでしょう。
彼は、古今雅俗が混然一体となった豊饒な言葉の海から、
思いに釣り合う辞句が自然と湧き上がってくるのを、次々と掬い上げていったのでしょう。

それではまた。

2020年2月19日

*かつて、『中国画像石全集』全八巻(山東美術・河南美術出版社、2000年)に拠って調査した結果を添付しておきます。正確さには欠けますが、大勢は把握できます。また、こちらの学術論文№38では、この問題に関わる先行研究にも触れています。

表現の類似と制作年代

複数の作品に、非常によく似た表現が見えている場合、
それらの作品相互の関係性は、どう捉えるのが最も妥当でしょうか。

一方が特に広く認知された作品である場合は、
もう一方は、この人口に膾炙した作品を意識して踏まえたと見るべきでしょう。
中国古典文学に常套的な、いわゆる典故表現はこれに該当します。

漢代詠み人知らずの五言詩である古詩や、
李陵・蘇武の名に仮託された五言詩(いわゆる蘇李詩)は、
後漢末の建安詩人たちの五言詩とその表現が非常によく重なります。
これに拠り、これらを近い時代の産物と見る論がかつては大勢を占めていました。
ですが、実はこの三者は、建安詩が古詩や蘇李詩を踏まえたものである、という関係です。
(さらに言えば、蘇李詩は古詩中の特別な一群の上に成り立っています。)
詳細は、こちらの著書№4をご覧いただければ幸いです。

では、同じ詩人の作の中で、同一句を含んでいる場合はどうなのでしょう。

曹植の「薤露行」「送応氏二首」其二とは、「天地無窮極」という句を共有しています。
短絡的に、だから両詩は同じ頃の作だ、と言えないのは当然ですが、
だからといって、表現の類似が制作年代と全く無関係とも言えないように思います。

おそらく、類似句だけを見つめていたのでは何も出てこないのでしょう。
しばらく考えてみます。

それではまた。

2020年2月18日

先行研究の少ない作品

考察中の曹植の「薤露行」と「惟漢行」について、
これを正面から取り上げた先行研究は、CiNiiやCNKIで検索する限りは見当たりません。

魏晋南北朝期を代表する詩人として、曹植には幾多の先行研究があります。
それなのに、なぜ上記の二作品は等閑視されてきたのでしょうか。

中国の詩人のほとんどは、儒家思想の体現を志しているといってよいでしょう。
自身の知力を存分に発揮して為政者を補佐し、人々の生活の安定に寄与するという志です。
ところが、後世にまで記憶される詩人の多くは、この理想から外れる生涯を余儀なくされています。

「薤露行」や「惟漢行」は、曹植の儒家的な志に密接に連なる作品です。
それが、文学作品としてつまらないかどうか、私には評価をするだけの力はありません。
ただ、自分たちにも通底するような普遍性をそこに見出すことはなかなか難しい。
だから、論じる人が少ないのでしょうか。

数少ない例として、小守郁子「曹植論Ⅰ」*が、「惟漢行」の本文を引用して論じ、
その前には曹操の「薤露」を承けた「薤露行」への論及も見られます。
今自分が取り組んでいることと、取り上げる文献資料は多く共通しています。
ですが、その用い方やつなげ方が異なっている。つまり、論としては別物になりそうです。

それではまた。

2020年2月17日

*『曹植と屈原 付「風骨」論』(小守郁子、1989年)所収。初出は『名古屋大学文学部研究論集』69号、1976年3月)。

愛情に恵まれすぎた人

昨日、長かった曹植「七啓」のテキスト入力がやっと終わりました。
今更ながらの作業であろうことは承知の上です。)
丁晏纂・葉菊生校訂『曹集詮評』(文学古籍刊行社、1957年)の句読点に従って全443句、
初めて見るような漢字も多く出てくるし、何を言っているのかさっぱりわからない。
そこで、せめて概略だけでもと思い、集英社・全釈漢文大系『文選』の訳注を開いてみると、
目に飛び込んできたのは、最後の部分です。

曹植は、父曹操を絶賛していました。
人間社会からかけ離れたところに隠居していた玄微子に対して、
鏡機子は曹操のことを指して「天下 穆清にして、明君 国に莅(のぞ)む」といい、
この言葉に、それまで躊躇していた玄微子が始めて心を動かした、という急転直下の結末です。

この作品は、その序に、王粲にも同じ「七」作品を作らせたと記されています。
王粲は、建安13年(208)、曹操が荊州を下したときに曹魏の幕下に入り、
建安22年(217)、疫病によって亡くなっていますから、
「七啓」の成立年代は、広く見積もって、曹植の年齢で17歳から26歳までとなります。
こちらの「曹植関係年表」を併せてご参照いただければ幸いです。)

この間の最末期、曹植は不届きな行動によって父曹操に見放されますが、
そこへ至るまでの間、彼はその才能と飾らない人柄により、父の愛情を独占していました。

「七啓」に見える上述のような父(主君)曹操への傾倒ぶりは、
その年齢の若さによるのでしょうが、自身が受けた愛情の大きさゆえにでもあったでしょう。
政治的にうまく立ち回らんがための巧言、とは読み取りにくいように感じます。

兄の曹丕が文帝として即位して後、曹植は黄初六年(225)の令に、*
「吾は昔、人を信ずるの心を以て、左右を忌むこと無し」と述べていますが、
誠にそのとおり、彼は青少年時代、愛情に恵まれすぎた人であったのかもしれません。

それではまた。

2020年2月15日

*『曹集詮評』巻8所収。影弘仁本『文館詞林』巻695(古典研究会、1969年)p.430は「自試令」に作る。

小さな存在、大きな自由

「曹植作品訳注稿」の公開を始めました。
巻4「公宴」「侍太子坐」「元会」、巻5「薤露行」「平陵東」「惟漢行」を上げています。
少し時間がかかりそうですが、倦まず弛まず作業を進めていきたいと思います。

今日は「平陵東」の訳注を整えて公開したのですが、
これまで「平陵」とは何で、どこにあるのか、知らないままだったことに気づきました。
公開するとなると、わかったつもりで流すことができなくなります。

とはいえ、こうした情報は、ネットで調べればすぐに出てきます。
それを手掛かりに、提示すべき文献にも比較的容易にたどり着くことができます。

ですが、問題はそこから先であって、
長安近郊に位置する、前漢の昭帝の陵墓(平陵)が、
なぜ、王莽に抵抗して非業の死を遂げた翟義を追悼する歌の題と結びつくのか、
そのことに意味があるのかないのか、さっぱりわかりませんでした。

知識は簡単に手に入っても、
それを血肉化し、そこから考察を広げていくにはそれ相当の時間がかかります。

でも、そうしたことに打ちひしがれるのではなくて、
自分の小ささを自覚し、そこからスタートすればよいのだと思います。
私はそこに大きな自由を感じます。

それではまた。

2020年2月13日

曹植の希望の星

文献複写の依頼をしていた矢田論文が届きました。*
拝読してとても面白かったので、その概要を私なりに記してみます。

曹植の詩には、表現上、屈原作とされる「離騒」「九章」等の影響が少なからず認められる。
だが、曹植はその作品の中で屈原その人に言及することは稀である。
これはなぜか。

屈原は、楚王の同族として忠義を尽くしたが、讒言のために自殺に追い込まれた人物である。
曹植も、魏王室の一員として現実参画を強く希求しながら、その望みは叶えられなかった。
この点において、曹植は屈原と境遇が非常によく似ている。

他方、曹植の詩によく言及される周公旦は、
一時的に讒言されて周王朝から退けられることはあったものの、
最終的には、実の叔父として周の成王をよく輔佐し、周の基礎を築いた人物である。
周公旦と曹植も、その王室との血縁関係において多く重なり合う。

曹植は、その境遇において、屈原にも、周公旦にも類似する部分を持っている。
にもかかわらず、屈原には無関心を装い、周公旦の不遇には多く言及している。なぜか。

現実参画への望みを最後まであきらめなかった曹植にとって、周公旦は希望の星であった。
他方、悲劇的な最期を遂げた屈原のような人生は、彼にとって絶望を意味している。
曹植が屈原に背を向けたのは、こうした彼自身の内面的事情によるだろう。

曹植が、自身を周公旦と重ね合わせ、そこに希望をつないでいたという指摘、
全面的に賛成です。

2020年2月12日

*矢田博士「境遇類似による希望と絶望―曹植における周公旦及び屈原の意味」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』別冊文学・芸術学編19、1993年)

言葉のリレー

昨日、思わず引用した「絶望の虚妄なること、まさに希望と相同じ」は、
魯迅の散文詩集『野草』に収録された「希望」(1925年1月1日)からの言葉です。

絶望之為虚妄、正与希望相同。

この語が、ハンガリーの詩人Petofi Sandor(ペテーフィ・シャーンドル) に由来することは、
詩の本文においても作者自らが記しているところですが、

『魯迅全集』第2巻(人民文学出版社、1981年)p.179の注釈により、※
彼が友人(凱雷尼・弗里傑什)に宛てた書簡の中に、この趣旨の言葉が見えることを知りました。

この東欧の詩人であり革命家であるペテーフィ(1823―1849)の言葉に、
中国が近代に突入する時代を、戦いつつ切り開いた魯迅(1881―1936)が深く共鳴した、
だからこそ、魯迅はその散文詩の一隅にペテーフィの言葉を引用したのでしょう。

そして、現代の私たちは、ペテーフィや魯迅をそれほど深く知らなくても、
各自の境遇の中で、この言葉はまさしく自分に向けられたものだ、とばかりに受け留めています。

このような言葉のリレーはもちろん古い時代にもあって、
(というより、魯迅はこうした中国文学の大きな流れの上に登場したとも言えます。)
人から人へ、言葉が手渡され、広がっていく筋道を丁寧にたどることこそが、
真の文学史研究なのだと私は考えています。

それではまた。

2020年2月11日

※魯迅や近代文学の研究分野では、この後も陸続と研究書等が出ているかと思います。

 

深さと普遍

先週末には、自分に呪いをかけるようなことを書いてしまいました。
私は中国古典文学の存続に危機意識を持ってはいますが、絶望はしておりません。
絶望の虚妄なること、まさに希望と相同じ、です。

自分が触れたことのない仕事に携わっている人の奥義を聞くのが大好きです。
世の中にこんな仕事があったのか、と驚くばかりでなくて、
ある世界を真摯に生きている人だからこそ感得することができる境地、
それを語る言葉は例外なく面白く、またそれはすべての分野に通じるものがあると感じます。

自分も、そのような面白さに自身の手で触れたい。

それを、身近な学生たちがどう思うかはまた別問題です。
わかってもらわなくて結構、などと高飛車、あるいは拗ねているのではなく、
ぎりぎりまで言葉を尽くして説明したら、あとはもう相手にゆだねるしかないということです。

さて、3月19日、六朝学術学会の例会で研究発表をすることになりました。
詳細はこちらをご覧ください。概要もこちらにございます。

それではまた。

2020年2月10日

 

中国古典文学は生き残れるのか

昨日は、卒業論文の口頭試問で、8名の副査を務めました。
(今年は、主査つまり卒論の指導をした学生はいなかったので、すべて副査です。)

社会科学的研究が古典文学研究とは異質であることはもとより承知していますが、
今年は特に、日本の現代文学と自身との乖離の大きさに驚き、足元がぐらつくようでした。
近い時代でも、昭和文学なら一読者として好きな作家も何人かいるのですが、
ごく最近の若い作家たちの作品となるとどうにも入っていけません。

こちらが、相手を理解したと言えるところまで辿り着けないということは、
先方もこちらのことを、わけがわからないと感じているでしょう。

道理で、学生たちに、白居易と元稹との応酬詩にあまり興味を持ってもらえないはずです。
他方、志怪小説にはかなりの吸引力があると感じる、そのわけも腑に落ちました。

中国の古典文学は、これから先、日本の人々の中で生き残っていけるのでしょうか。

自分が身を置いているのは、様々な分野と地域が同居する国際文化学科です。
現代社会の縮図のようなこの学科で、自分なりにがんばってきたつもりではあるけれど、
卒論で学生さんたちに選んでもらえない現実は非常にこたえます。

とはいえ、授業をしている中での手ごたえは、それほど悪くはないのです。
絶滅が危惧される珍種の動物を見ているような感じでしょうか。

考察の最先端をライブで示していくことは、
たとえ研究者を養成するのではない本学科のようなところでも、あってよいと感じています。
(もちろん学会発表のようなものを生のかたちで出すことはしませんが。)
そのわくわく感を水で薄めることなく、もともと無関心だった人々をも振り向かせる、

そんな大それた野心をもってやってきましたが、いつまで気力が続くか。

それではまた。

2020年2月7日

東晋時代の「清商三調」

西晋の宮廷歌曲群「清商三調」は、
永嘉の乱(311)で王朝が瓦解し、宮廷楽団が離散して以降、
417年、劉裕(劉宋の武帝)が後秦を滅ぼして魏晋の音楽を奪還するまで、
その楽曲を演奏する楽人たちの多くは、北方の異民族王朝に身を置いていました。*

とはいえ、魏晋の楽をよくする人々の全員が、こうした閲歴をたどったわけではありません。
楽人ではありませんが、「清商三調」を達者に演奏する人は、
東晋時代、北来の貴族(西晋王朝が滅亡して南下してきた)の中にもいました。

たとえば、先日来話題にしている「怨歌行・為君」は、
孝武帝(司馬曜)と謝安の面前で、桓伊が笛を伴い筝を奏でつつ歌っています。
(『世説新語』任誕篇劉孝標注に引く『続晋陽秋』、『晋書』巻81「桓宣伝付桓伊伝」)

そして、前掲『世説新語』の本文、及び前掲『晋書』本伝の前には、
王徽之に呼び止められた桓伊が、笛で「三調」を演奏したという記事が見えています。

考えてみれば当たり前のことなのかもしれませんが、
『隋書』音楽志、『魏書』楽志、『通典』楽典、『旧唐書』音楽志などを見ていただけでは、
自分にはこうした小さな事実を知ることはできなかったと思いました。

桓伊の歌った「怨歌行」の歌辞が上記の『晋書』本伝に記されていることを、
私は『北堂書鈔』巻29の孔広陶の校註によって知り得ました。

それではまた。

2020年2月6日

*拙著『漢代五言詩歌史の研究』(著書4)p.299~300、315を参照されたい。

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