阮籍のいう「当路子」について

今日も昨日に続いて青木竜一さんにいただいた指摘を踏まえ、
以下のとおり、私なりに咀嚼したところを述べます。

阮籍「詠懐詩・灼灼西隤日」(『文選』巻23所収「十七首」其十四)に、
次のような辞句が見えています。

如何当路子  なんだって官途に就いている連中は、
磬折忘所帰  磬のように腰を折り曲げて権力者に追従し、帰すべき所を忘れているのか。

今、「当路子」をこのように訳したのは、
李善注に指摘する、『孟子』公孫丑章句上にいう次の辞句を踏まえてのことです。

夫子当路於斉、管仲晏子之功、可復許乎。
夫子(孟子)路に斉に当たらば、管仲・晏子の功、復た許(おこ)る可きか。

もちろん、これで十分、詩の趣旨は把握できます。
が、これに加えて、次のような意味も重ねられているのではないか、と。

当時、魏はよく「当塗高」という語で言い表されていました。
一例を挙げれば、『三国志』巻2・文帝紀の裴松之注に引く『献帝伝』に、
延康元年(220)十月九日、太史丞の許芝が、魏王曹丕に向けて、
魏が漢に代わるべき旨を書き連ねたことが記されていて、
その中で許芝は、白馬令李雲の予言めいた語を引き、
これについて、「当塗高者、魏也(当塗高とは、魏なり)」と説明しています。

「塗」は、意味としては「路」に同じです。
しかも、その上に来る語がどちらとも「当」です。
すると、阮籍「詠懐詩」にいう「当路子」に、「当塗」の者、
つまり「魏王朝側の人間」という意味が重ねられていた可能性は大いにあります。

本来は魏に帰すべき人間なのに、
新興権力者である司馬氏側にすり寄っていく者。

客観的に見れば、そうした者たちの中に阮籍その人も含まれています。
本詩を詠じた時点での阮籍の立ち位置はともかくも、
この人であれば、そうしたことを自覚していたと私は見ます。*

2023年11月23日

こちらの拙論「阮籍「獼猴賦」試論」(『日本中国学会報』第38集、1986年)を参照されたい。

訳注稿「贈丁廙」への追記

本日は、曹植「贈丁廙」の、「大国」に対する語釈を追記しました。
今回も青木竜一さんのご指摘によるものです。

「大国」は、魏国を指すと思われますが、
曹操が後漢王朝から魏王の爵位を与えられて成った魏国は、
後漢王朝と併存する、独立性を持つ国家であったと初めて知りました。
曹丕が曹操の後継者として「太子」という名称で呼ばれるようになったことも、
この魏国の成立と連動するものであったと聞きました。

そこで、新たな考察の糸口を与えられたと思ったことがあります。
それは、この直前に見えている句とのつながりです。

「贈丁廙」という詩は、四句ずつひとまとまりを為すと見られますが、
ちょうど中間に位置する次の部分が、これまでどうにもつかめなかったのです。
その原文を、現時点での通釈とともに示せば以下のとおりです。

我豈狎異人  私はどうして関係のない人々に馴れ親しんだりするものか。
朋友与我倶  古なじみの友人たちが私とともにいるのだ。
大国多良材  大国には良き人材が多く現れ、
譬海出明珠  それはさながら海が真珠を生み出すようなものだ。

上の二句については、かつてこちらで言及したことがあり、
その際には、曹植の兄曹丕に対する屈託を示す表現として捉えました。*

けれども、そうすると、これに続く二句とのつながりが見えてきません。

ですが、「大国」が上述のような意味であるとすれば、
自分の身近にいる「朋友」に対して、魏王国の人材登用を称賛し、
そちら側に仕官できるよう励ますという文脈に取れなくもありません。
そして、後半の八句で、丁廙に対して“君子たれ”と告げるわけも理解できます。

この詩は、再考する必要があると思いました。

2023年11月22日

*川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(2022年2月)p.303にもこのことを指摘する。

訳注稿「雑誌六首」其一への追記

先週一週間、東北大学で集中講義を担当しました。
大学院の皆さんと曹植詩を中心とした作品幾篇かを読んでいく中で、
これまで一人で読んでいた時には気付かなかったようなことが多く指摘され、
実に目の覚めるような思いでした。

本日は、歴史学を専攻する青木竜一さんからいただいたご指摘を、
柳川が把握したところとしてアレンジして書き記します。
(もし不正確な記述があれば、柳川の責任です。)

曹植「雑誌六首」其一(『文選』巻29)に、「方舟」という語が登場します。
この語については、『爾雅』釈水に次のような説明が見えています。
今、これを解説する郭璞注とともに記せば以下のとおりです。
(この資料は、漢賦を研究する木村真理子さんによって提示されました。)

天子造舟 〈郭注:比船為橋(船を比べて橋を為す)。〉
諸侯維舟 〈郭注:維連四船(四船を維連す)。〉
大夫方舟 〈郭注:併両船(両船を併ぶ)。〉
士特舟 〈郭注:単船(単船なり)。〉
庶人乗泭 〈郭注:併木以渡(木を併べて以て渡る)。〉

「雑誌六首」其一の成立年代は、
『文選』李善注や、清朝の陳祚明、民国の黄節らが説くとおり、
黄初四年(223)と見るのが妥当だと柳川も考えます。

すると、当時曹植は、鄄城王(もしくは雍丘王)であって、
身分としては「諸侯」に当たり、『爾雅』によれば「維舟」に乗るはずです。

ところが、この詩を詠ずる人は、自身の乗り物を「方舟」と言っています。
けれども、これに乗るのは、『爾雅』によれば「大夫」のはずで、
曹植自身の現実の身分とは食い違っています。

本詩中の詠じ手を曹植自身と見ることはできない、という立場もあるでしょうが、
そのような論法は本作品には当てはまらないように思いますので、
ここは、曹植が自らの思いを「雑詩」という詩体に乗せて詠じたのだ、
と捉えて話を先へ進めます。

これはどういうことでしょうか。

「諸侯」は、官に就くことができないが、
「大夫」は、官に就いている者を指していいます。

このねじれは、曹植自身の自己認識のあらわれなのかもしれません。
現実としては、魏王朝の官には就けない「諸侯」でありながら、
自身の志向としては、王朝に仕える「大夫」でありたいという引き裂かれた思いです。

なお、同じ「方舟」は、「雑誌六首」其五にも見えています。

以上のことを、訳注稿の語釈に追記しました。
(訳注稿では簡略に記しています。)

2023年11月21日

「現在の研究内容」の更新

本日、本サイトの「現在の研究内容」を更新しました。

自分の考えていることを、人に伝えることはとても難しい。
今日の授業は、過去繰り返し考えてきたことを説明するものだったのですが、
それでも、うまく伝えることができませんでした。
自分の中では自明のことだから、という慢心があったと思います。

「現在の研究内容」もそうです。
いずれ書き直したいとは思っていましたが、
三年ほど前に書いたものが、これほどだめだとは予想を超えていました。
自分の手を十分に離れ切っていないと、人には伝わらないです。
今の自分はすでに、過去の自分からすれば他人です。

今回は、考えのエッセンスを、できるだけ正確に書こうとしました。
具体的な研究内容というには抽象的すぎるかもしれません。
それでも、過不足ない表現をしたつもりです。

2023年9月27日

「ご挨拶」の更新

本日、本サイトの「ご挨拶」を更新しました。

退職まであと一年半、
中国古典文学に特に興味がない人たちにも、
この研究分野の面白さや意義をまっすぐに伝えたいと思い、
授業での話につい熱がこもります。

熱量をかけたからといって、それが皆に届くとは思いませんが、
ひとりくらいは受け止めてくれると信じています。

それで、そんな若い人たちにも理解してもらいたくて、
ほとんど専門用語を使わない、
書いていることに何の衒いもない言葉で、
自分が思うところを正直に、まっすぐに述べました。

現時点での自分の考えを書き留めた感覚です。
また気持ちが変わったら書き改めるかもしれませんが、
しばらくはこのスタンスでいきます。

退職後は、現在勤務している大学から離れて、
大好きな福岡に住み、自由に研究を続けるつもりです。

2023年9月24日

 

晋楽所奏「楚調・怨詩行」の編者について

『宋書』楽志三には、
昨日言及した「大曲」十五篇に続いて、
曹植「七哀詩」に基づく「楚調・怨詩行」一篇が収録されています。

曹植「七哀詩」から「怨詩行」へのアレンジについては、
「晋楽所奏「怨詩行」考 ―曹植に捧げられた鎮魂歌―」と題して論じたことがあります。
その中で、「七哀詩」から「怨詩行」への改変点を指摘した上で、
その改変がなぜ行われたのかを究明し、副題に示すような結論にたどり着きました。

ただ、このアレンジを行った人物を、西晋の荀勗かと推測していたことは、
昨日の結論を経て、修正する必要があると今は考えています。

曹植「七哀詩」から「楚調・怨詩行」への改変者が荀勗であろうとの推測は、
荀勗の歌辞選定が、「清商三調」「大曲」「楚調」の全てに及ぶ、
と見通したことから導き出されたものです。

ですが、「大曲」の編者は、荀勗ではなく、張華である可能性の方がはるかに高い、
との結論にたどり着いた以上、先の推測は妥当とは言えません。

むしろ、「大曲」の編者がもし張華であるならば、
それに続く「楚調・怨詩行」一篇もまた、張華によってアレンジされた、
と見る方が、荀勗と見るよりも、はるかに蓋然性が高いでしょう。

それに、張華には、曹植に対する鎮魂の思いを表現する強い動機があります。
一方、荀勗の場合は、それを意識的に回避したとさえ想像されます。

なぜ、そのようなことが言えるのか。
その論拠は、昨日提示したスライド資料の中に示しています。
それは、「大曲」の中に曹植の歌辞が組み入れられている理由を述べた部分ですが、
それよりも更に明確に、「楚調・怨詩行」について当てはまるものです。

2023年9月15日

『宋書』楽志三所収「大曲」について

怒涛のような夏が過ぎ去りました。
この間、次々と目の前に迫りくる物事に取り組みながら、
平常心でいつもの作業を進める、ということができませんでした。
それができるだけの底力を身につけたいのですが、
一方で、仕方がないと思う気持ちもあります。
(ただ、もとの態勢に戻るのにエネルギーが要ります。)

さて、八月の終わり、
中国承徳市で行われた楽府学会の国際学術検討会で、
「探討晋楽所奏“清商三調”与“大曲”的関係」と題する発表を行いました。
(このような機会を与えてくださった方々に深く御礼申し上げます。)

その際に提示したスライド資料をここに掲載します。
(発表の原稿は、大学時代の友人陳麗蓉さんが翻訳してくれました。感謝。)

結論は、次のとおりです。
(内容の一部は、断片的ながらこの雑記で何度か述べています。)

『宋書』楽志三に連続的に記されている「清商三調」と「大曲」について、

1、これらは、編者・編成時期ともに異なる二つの歌曲群である。
2、「清商三調」は、『宋書』楽志三に示すとおり、確かに荀勗が選定したものである。
3、「大曲」は、「清商三調」の成立後、張華によって編成された可能性が高い。
4、『宋書』楽志三は、この西晋宮廷音楽の最終形態を記録したものである。

その論拠については、スライドにその一部を載せています。
(ただし、史料の具体的な文面等はスペースの関係上、割愛しています。)

2023年9月14日

生きた言葉を掬い上げる

文学作品に語釈をつけていて、
意外と難しいと感じるのが、誰もが知る言葉、
たとえば「崑崙」とか「蓬莱」といった言葉に対する注釈です。

そんな時、頼りになるのが『文選』李善注です。
そして、『文選』李善注に当たるのにとても頼りになるのが、
斯波六郎主編『文選索引』です。

この索引のすごさは、
まず、熟語は項目を立てて提示されていること、
また、一句の中で、その字の占める位置が近似するものや、
句を構成する語の配列が似ているものは、近くにまとめられていることなどです。
要するに、個々の文字を、等質のデータとして処理するのではなく、
生きた言葉としてひとつひとつ丁寧に拾い上げているのです。

そして、そうやってたどり着いた李善注を見ると、
同じ熟語に対しても、それぞれの本文が持つ文脈に即した典故が示されています。
ここにもまた、言葉を血の通った生き物のように扱う手さばきが見えます。

若い頃、李善の記す「已見上文(すでに上文にみゆ)」に、
手を抜いているのかな、などと思っていたのが恥ずかしい限りです。
もし文脈が異なれば、それぞれにふさわしい注を付けるのが李善の流儀なのに。

そこで我に返って眼前の言葉を見るのですが、
どういう注釈を付けたものか、やっぱり明瞭な像を結びません。
李善注への道は遠いです。
斯波六郎先生もはるか彼方の偉人です。
もはや自分は彼らとは異なる世界の住人なのですから、
土台、まったく同じような仕事はできないと観念しています。
ただ、言葉を生きものとして扱うことだけは継承したいと志すのです。

2023年8月4日

『山海経』の比翼の鳥

調べ物で『山海経』を見ていて、
その西山経に次のような記述があることに目が留まりました。

(崇吾之山)有鳥焉、其状如鳧、而一翼一目、相得乃飛、名曰蛮蛮、見則天下大水。
(崇吾の山には)鳥がいて、その形状はカモに似ているが、一翼一目で、二羽が一緒になって始めて飛べる。名を蛮蛮という。この鳥が現れると大洪水が起こる。

これは、ほとんど『爾雅』釈地に見える次の説明と同じものを指すようです。

南方有比翼鳥焉。不比不飛、其名謂之鶼鶼。
南方に比翼の鳥有り。比せずんば飛ばず、其の名 之を鶼鶼と謂ふ。

両者では、西と南という方角に違いがありますが、
『山海経』海外南経の南山の項にも、

比翼鳥在其東。其為鳥青赤、両鳥比翼。
比翼の鳥 其の東に在り。其の鳥為るや青・赤にして、両鳥 翼を比(なら)ぶ。

とあるので、記述が食い違うとまでは言えません。

そして、前掲『爾雅』の郭璞注に次のようにあるのは、
『山海経』の西山経と海外南経とを綴り合せていると見ることができます。

似鳧。青赤色。一目一翼、相得乃飛。
鳧に似たり。青・赤の色なり。一目一翼にして、相得て乃ち飛ぶ。

郭璞(276―324)は、『山海経』にも注を付けていますから、
このあたりのところはまるで掌を指すようなものだったと想像されます。

それで、この比翼の鳥に『山海経』で出会って立ち止まったのは、
どこかの博物館で、中央アジアあたりの文物としてこの鳥を見た記憶があるからです。
それを見た時も、まるで比翼の鳥だと思った感覚は覚えているのですが、
記憶違い(「羽人」と混線して)かもしれません。

もしその記憶がまぼろしでないのなら、
『山海経』は太古の人々の地理的認識をよく書き留めた書物だと思います。

2023年8月3日

先行研究との分岐点:遊仙詩の生成経緯

過日、五言遊仙詩の生成経緯を考えるに当たって、
漢代の宴席における、神仙を題材とした歌舞劇の上演という視点を提示してみました。

ただ、神仙を詠ずる楽府詩が、漢代宴席で行われるものであったとする説であれば、
矢田博士氏が、陳祚明の説を引用しながら、次のようにまとめています。*

神仙楽府は、貴族などの宴会で歌われた祝頌歌辞として、漢代に初めて登場した。そして、それは主として宴会に招かれた賓客が、その返礼として主人の延命長寿を祈願するために作られた。この点に関しては、清の陳祚明が、最も端的に言及していると思われるので、その説を挙げておく。

合楽於堂者、皆富貴人也。為詞以進者、皆以祝頌也。富貴人復何可祝。所不知者寿耳。故多言神仙。為詞以進者、大抵其客。此客承恩深、故其詞如此。
(『采菽堂古詩選』巻二、善哉行)

今、この陳祚明の説を、私なりに通釈すれば次のとおりです。

表座敷で声を合わせて歌曲を歌うのは、みな富貴の人である。祝辞を作って奉るのは、みなそれで主人を言祝ぐのである。富貴の人に対して、また何を言祝ぐべきか。先が見えないのは寿命だけである。だから、神仙に多く言及するのだ。祝辞を作って奉るのは、大抵その客である。この客は、主人から受けている恩恵の深さ故に、その言葉がこのような様子なのだ。

「合楽」は、『儀礼』郷飲酒礼に見える語で、そこでは『詩経』が合唱されています。

さて、では、こうした先行研究の蓄積に対して、
私の試論が新たに付け加え得る何ものかはあるのでしょうか。

人によっては、宴席というキーワードを共有するのだから、と言って同一視されるでしょう。
ただ、ほんの少し視角をずらせば、事象を一層クリアに捉えることができるのに、
と感じることは割とあって、そのあたりを丁寧に説明したいと考えています。
(この場合は、“宴席という場で演じられた神仙劇”に着目する視点の導入です。)

もちろん、何も付け加えることはないという結果になる可能性もあります。

2023年8月2日

* 矢田博士「曹植の神仙楽府について―先行作品との異同を中心に―」(『中国詩文論叢』9号、1990年)を参照。この論文の概要は、こちらに示したことがある。

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