『宋書』楽志三所収「大曲」について
怒涛のような夏が過ぎ去りました。
この間、次々と目の前に迫りくる物事に取り組みながら、
平常心でいつもの作業を進める、ということができませんでした。
それができるだけの底力を身につけたいのですが、
一方で、仕方がないと思う気持ちもあります。
(ただ、もとの態勢に戻るのにエネルギーが要ります。)
さて、八月の終わり、
中国承徳市で行われた楽府学会の国際学術検討会で、
「探討晋楽所奏“清商三調”与“大曲”的関係」と題する発表を行いました。
(このような機会を与えてくださった方々に深く御礼申し上げます。)
その際に提示したスライド資料①、②、③をここに掲載します。
(発表の原稿は、大学時代の友人陳麗蓉さんが翻訳してくれました。感謝。)
結論は、次のとおりです。
(内容の一部は、断片的ながらこの雑記で何度か述べています。)
『宋書』楽志三に連続的に記されている「清商三調」と「大曲」について、
1、これらは、編者・編成時期ともに異なる二つの歌曲群である。
2、「清商三調」は、『宋書』楽志三に示すとおり、確かに荀勗が選定したものである。
3、「大曲」は、「清商三調」の成立後、張華によって編成された可能性が高い。
4、『宋書』楽志三は、この西晋宮廷音楽の最終形態を記録したものである。
その論拠については、スライドにその一部を載せています。
(ただし、史料の具体的な文面等はスペースの関係上、割愛しています。)
2023年9月14日
生きた言葉を掬い上げる
文学作品に語釈をつけていて、
意外と難しいと感じるのが、誰もが知る言葉、
たとえば「崑崙」とか「蓬莱」といった言葉に対する注釈です。
そんな時、頼りになるのが『文選』李善注です。
そして、『文選』李善注に当たるのにとても頼りになるのが、
斯波六郎主編『文選索引』です。
この索引のすごさは、
まず、熟語は項目を立てて提示されていること、
また、一句の中で、その字の占める位置が近似するものや、
句を構成する語の配列が似ているものは、近くにまとめられていることなどです。
要するに、個々の文字を、等質のデータとして処理するのではなく、
生きた言葉としてひとつひとつ丁寧に拾い上げているのです。
そして、そうやってたどり着いた李善注を見ると、
同じ熟語に対しても、それぞれの本文が持つ文脈に即した典故が示されています。
ここにもまた、言葉を血の通った生き物のように扱う手さばきが見えます。
若い頃、李善の記す「已見上文(すでに上文にみゆ)」に、
手を抜いているのかな、などと思っていたのが恥ずかしい限りです。
もし文脈が異なれば、それぞれにふさわしい注を付けるのが李善の流儀なのに。
そこで我に返って眼前の言葉を見るのですが、
どういう注釈を付けたものか、やっぱり明瞭な像を結びません。
李善注への道は遠いです。
斯波六郎先生もはるか彼方の偉人です。
もはや自分は彼らとは異なる世界の住人なのですから、
土台、まったく同じような仕事はできないと観念しています。
ただ、言葉を生きものとして扱うことだけは継承したいと志すのです。
2023年8月4日
『山海経』の比翼の鳥
調べ物で『山海経』を見ていて、
その西山経に次のような記述があることに目が留まりました。
(崇吾之山)有鳥焉、其状如鳧、而一翼一目、相得乃飛、名曰蛮蛮、見則天下大水。
(崇吾の山には)鳥がいて、その形状はカモに似ているが、一翼一目で、二羽が一緒になって始めて飛べる。名を蛮蛮という。この鳥が現れると大洪水が起こる。
これは、ほとんど『爾雅』釈地に見える次の説明と同じものを指すようです。
南方有比翼鳥焉。不比不飛、其名謂之鶼鶼。
南方に比翼の鳥有り。比せずんば飛ばず、其の名 之を鶼鶼と謂ふ。
両者では、西と南という方角に違いがありますが、
『山海経』海外南経の南山の項にも、
比翼鳥在其東。其為鳥青赤、両鳥比翼。
比翼の鳥 其の東に在り。其の鳥為るや青・赤にして、両鳥 翼を比(なら)ぶ。
とあるので、記述が食い違うとまでは言えません。
そして、前掲『爾雅』の郭璞注に次のようにあるのは、
『山海経』の西山経と海外南経とを綴り合せていると見ることができます。
似鳧。青赤色。一目一翼、相得乃飛。
鳧に似たり。青・赤の色なり。一目一翼にして、相得て乃ち飛ぶ。
郭璞(276―324)は、『山海経』にも注を付けていますから、
このあたりのところはまるで掌を指すようなものだったと想像されます。
それで、この比翼の鳥に『山海経』で出会って立ち止まったのは、
どこかの博物館で、中央アジアあたりの文物としてこの鳥を見た記憶があるからです。
それを見た時も、まるで比翼の鳥だと思った感覚は覚えているのですが、
記憶違い(「羽人」と混線して)かもしれません。
もしその記憶がまぼろしでないのなら、
『山海経』は太古の人々の地理的認識をよく書き留めた書物だと思います。
2023年8月3日
先行研究との分岐点:遊仙詩の生成経緯
過日、五言遊仙詩の生成経緯を考えるに当たって、
漢代の宴席における、神仙を題材とした歌舞劇の上演という視点を提示してみました。
ただ、神仙を詠ずる楽府詩が、漢代宴席で行われるものであったとする説であれば、
矢田博士氏が、陳祚明の説を引用しながら、次のようにまとめています。*
神仙楽府は、貴族などの宴会で歌われた祝頌歌辞として、漢代に初めて登場した。そして、それは主として宴会に招かれた賓客が、その返礼として主人の延命長寿を祈願するために作られた。この点に関しては、清の陳祚明が、最も端的に言及していると思われるので、その説を挙げておく。
合楽於堂者、皆富貴人也。為詞以進者、皆以祝頌也。富貴人復何可祝。所不知者寿耳。故多言神仙。為詞以進者、大抵其客。此客承恩深、故其詞如此。
(『采菽堂古詩選』巻二、善哉行)
今、この陳祚明の説を、私なりに通釈すれば次のとおりです。
表座敷で声を合わせて歌曲を歌うのは、みな富貴の人である。祝辞を作って奉るのは、みなそれで主人を言祝ぐのである。富貴の人に対して、また何を言祝ぐべきか。先が見えないのは寿命だけである。だから、神仙に多く言及するのだ。祝辞を作って奉るのは、大抵その客である。この客は、主人から受けている恩恵の深さ故に、その言葉がこのような様子なのだ。
「合楽」は、『儀礼』郷飲酒礼に見える語で、そこでは『詩経』が合唱されています。
さて、では、こうした先行研究の蓄積に対して、
私の試論が新たに付け加え得る何ものかはあるのでしょうか。
人によっては、宴席というキーワードを共有するのだから、と言って同一視されるでしょう。
ただ、ほんの少し視角をずらせば、事象を一層クリアに捉えることができるのに、
と感じることは割とあって、そのあたりを丁寧に説明したいと考えています。
(この場合は、“宴席という場で演じられた神仙劇”に着目する視点の導入です。)
もちろん、何も付け加えることはないという結果になる可能性もあります。
2023年8月2日
* 矢田博士「曹植の神仙楽府について―先行作品との異同を中心に―」(『中国詩文論叢』9号、1990年)を参照。この論文の概要は、こちらに示したことがある。
歴史上の人物を詠じた作品の制作年代
本日、「曹植作品訳注稿」の「豫章行」其一、其二を公開しました。
徐公持も指摘するように、*1
詩中、多くの聖賢が詠われている中で、
周公旦だけが、其一、其二の双方に登場しています。
其一では、名もなき庶民に対しても分け隔てなく接した人物として、
其二では、骨肉の兄弟である管叔鮮と蔡叔度から流言を飛ばされた人物として。
徐公持は、そうした周公旦と曹植の境遇がよく重なるという理由で、
「豫章行」二篇を、明帝期の作だと見ています。
曹植の兄曹丕の子である明帝曹叡は、周公旦の兄武王の子である成王に、
そして曹植は、立場上、成王を補佐した周公旦に重なるからです。
同じように、趙幼文もまた、本作品を明帝期に繋年しています。*2
私から見ても、この見解は妥当だろうと思います。
ただ、周公旦への言及は、何も晩年の曹植にのみ認められるわけではありません。
かつて指摘したように、曹植の「娯賓賦」では、周公旦は父曹操を指して云うもので、
しかもそれは宴席における曹操の様子をこのように描写しているのであって、
曹操自身も、その「短歌行・対酒」(『文選』巻27)の中で、
かくありたき人物として周公旦を詠じています。
「娯賓賦」は、ほぼ間違いなく、曹植が幸福であった建安年間の作でしょう。
もしかしたら、周公旦のどの側面に注目しているかという視点から、
彼を詠じた作品の制作年代が割り出せるのかもしれません。
作者がどのような境遇の中にいようが、
歴史上の人物は変わりなくその胸中に居続けているはずですが、
その人物のことを衷心から敬愛し、強く引きつけられるようになるには、
それ相当の経験と、その経験を内面化する心のはたらきが必須だろうと思うからです。
近しい肉親に裏切られた周公旦に思いを馳せるということは、
曹操や親しい文人たちに囲まれていた、建安年間の曹植には起こりそうもありません。
2023年8月1日
*1 徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.412を参照。
*2 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.414を参照。
口頭発表を前に思うこと
八月の終わり、中国河南省の承徳で開催される楽府学会に、
「探討晋楽所奏“清商三調”与“大曲”的関係」と題して口頭発表をします。
『宋書』楽志三所収の「清商三調」と「大曲」とは、
選定者も、選定の時期も異なる二つの歌曲群であることを論証するものです。
「大曲」は、「清商三調」が荀勗によって選定されてから後、
張華によって新たに編成されたものであるというのがその結論です。
はたして、その論拠に妥当性があるでしょうか。
その内容は、断続的にここ何年か考えてきたことなのですが、
原稿を作成するという圧がかかると、それ相当に新しい発見がありました。
人に聞いて理解してもらうためには工夫が必要となります。
そこで、自身の中にもう一人の自身との対話が生まれるからでしょうか。
もっとも、この段階でめぐりあった新しい考えは、
しばらくたゆたっていた時期があればこそ浮かんできたものでしょう。
そしてもうひとつわかったこと。
原稿をネイティブスピーカーの友人に翻訳してもらい、
(外国語による原稿をご自身で書ける人はすごいと思います。)
それを、自分にもわかる平易な言い方に一部変換しながら音読していて、
つくづく、言葉というものは呼吸なのだと体感したことです。
まだ自分に馴染んでいない外国語はふわふわと口先に漂いますが、
その言葉が次第に自身のものとして馴染んでくるにつれ、
それがお腹の底から出てくるようになるのです。
原初的な言葉の起源に触れるような、おもしろい体感です。
2023年7月31日
曹植における歴史故事の摂取
曹植「豫章行二首」其一を読んでいて、
「周公下白屋」にどう語釈を付したものか、困りました。
黄節『曹子建詩註』は、『孔子家語』を挙げています。
たしかに、その賢君篇には次のような文章が見え、曹植詩に合致します。
昔者周公居冢宰之尊、制天下之政、而猶下白屋之士、日見百七十人。
その昔、周公旦は冢宰の高位にあって、天下の政を掌握する立場にあったが、
それでも、貧しい者たちにへりくだり、日々百七十人もの人々に面会した。
けれども、『孔子家語』は、王粛(195―256)の偽書だとされています。
しかも、曹植(192―232)とはほとんど同時代の人です。
そのような書物を、曹植作品の語釈に引くことはできません。
服部宇之吉『孔子家語』(漢文大系)は、
この章が『説苑』尊賢篇に見えることを指摘しています。*
ただ、服部博士も付記するとおり、その文字には異同があって、
曹植詩にもある「下白屋」の文字は、『説苑』の方には見えていません。
そこで、「中國哲學書電子化計劃」の恩恵をいただいて調べたところ、
『論衡』語増篇に、次のような語句がありました。
伝語曰、周公執贄下白屋之士。
伝語に曰く、周公は贄(にえ)を執るも白屋の士に下る、と。
ここにいう「伝語」とは、具体的に何らかの文献を指すのでしょうか。
それとも、世の中に伝わる言葉、くらいの意味なのでしょうか。
黄暉『論衡校釈』(中華書局、1990年)は、
『尚書大伝』、『荀子』堯問篇、『韓詩外伝』巻三、『説苑』尊賢篇にも、
この文章があると注しているのですが、
当たってみたところ、同文を見つけることはできませんでした。
『論衡』にいう「伝語」とは、特定の文献をいうのではなく、
様々な書物に引かれて流布する物語、くらいの意味なのだと思われます。
もしそうだとすると、曹植の歴史故事摂取の一端が想像できそうです。
彼は、書物に拠る以上に、口承による歴史物語を耳から吸収していたのかもしれません。
2023年7月1日
*高尚挙・張浜鄭・張燕『孔子家語校注』(中華書局、2021年)にも同様の記述が見えている。服部宇之吉博士の研究成果が中国の研究者にも用いられたのだろうか。
宴席文芸としての遊仙詩
過日、五言遊仙詩の生成過程について推論しました。
その後しばらく、このテーマで考察することはなかったのですが、
先日、曹植「遊仙」詩の次の冒頭句に目が留まりました。
人生不満百 人の一生は百年に満たないのに、
戚戚少歓娯 くよくよと思い悩んで歓楽を味わうことも稀である。
意欲奮六翮 いっそ翼を奮い立たせて、
排霧凌紫虚 立ち込めた霧を払いのけ、紫の虚空を凌駕したいものだ。
このような辞句と発想は、
次に示す詩(『文選』巻29「古詩十九首」其十五)を彷彿とさせます。
生年不満百 人生は百年にも満たないのに、
常懐千歳憂 いつも千年の愁いを抱えている。
昼短苦夜長 昼は短く、夜はあまりにも長すぎる。
何不秉燭遊 ならばどうして燭を手にして遊ばないのか。
為楽当及時 楽しいことをするのに時機を失ってはならない。
何能待来茲 どうして来年まで待っていられよう。
愚者愛惜費 愚か者は散財するのを惜しんで、
但為後世嗤 ただ後世の笑いものとなるのが落ちだ。
仙人王子喬 永遠を生きる仙人の王子喬とは、
難可与等期 とても同じようには長生きできないのだから。
この古詩は、宴で歌われた詩歌と見てよいでしょう。
そもそも古詩は、宴席という場で展開してきた文芸ジャンルです。*
そんな古詩に酷似する辞句を、同じく冒頭に置く曹植の前掲詩は、
この古詩と同様に、宴席を舞台に詠じられたと見ることができるかもしれません。
ただ、両者は同じ人生無常への慨嘆を起点としながらも、
その先に向かう方向が異なっているように見えます。
古詩は、現世での享楽にはしり、しかも仙人の非現実性に言及しています。
一方、曹植「遊仙」詩は、現実の対極にある仙界へと飛翔するのです。
けれども、両者の方向性は、まったく異質だと言えるかどうか。
というのは、神仙は宴席で披露される芸能の題材ともなっていたからです。
(このことは、かつてこちらで述べました。)
2023年6月30日
*柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)をご覧いただければ幸いです。
無題
丁晏纂『曹集詮評』を底本とする、
曹植の全作品テキストの校訂がひととおり終了しました。
少しずつ作業を進めてきたので、
最初の頃と終盤とでは、表記の仕方などにかなり揺れがあります。
それで今、再度の見直し作業を行っています。
その中で、丁晏も見落としている佚文が、
厳可均によって拾い上げられている事例に目が留まりました。
それは、司馬彪『続漢書』郡国志三の劉昭注補に引かれた「禹廟讃」の、
厳可均によれば、その序文です(文体から見て至当です)。
厳可均はどのようにしてこの佚文を見つけたのだろうか。
こうした細かい作業を基礎とする研究は、今後も存続していけるのだろうか。
こんな、まるで別方向に引き裂かれるような思いが浮かびました。
岡村繁先生のもとで学んでいた院生の頃、
演習の後だったか、先生が感嘆交じりに悔しがったことがあります。
それは、『文心雕龍』のある辞句が、
たしか『韓非子』の一節と、言葉の組み合わせ方で非常によく似ている、
そのことを、先生の恩師である斯波六郎博士が指摘していたことに対してです。
(おそらく「文心雕龍札記」に記されていることだったかと思います。)*
辞句の直接的な影響関係なら、調べれば突き止めることは可能ですが、
言葉の配置というか、ものの言い方となると、経験こそがものをいう世界です。
「ちょうどこの頃、斯波先生は『韓非子』を読んでいたんや。」
このように言っていた先生の声を今も覚えています。
そんな風に、ある時、ある言葉と出会うことで見出されるものごとがある、
(この場合は劉勰が韓非子の言葉をどこかで意識しながら文章の美を論じた可能性)
その僥倖には、日頃の地道な研究の積み重ねがあってこそめぐり会えるのだ、
ということを、ぼんやりとした院生なりに感じました。
あの頃、自分は学問の本質に触れていたのだと今だからわかります。
当時はその有難さに今ひとつ気づいていませんでした。
思えば、このように時間と労力を要する作業は軽視されがちな昨今です。
これから就職する人や働き盛りの人には、それも仕方がないのかもしれません。
けれども、退職まで残り少なくなった自分には、
このような研究姿勢を誰に憚ることもなく持つことができます。
もちろん退職後も研究を楽しんで続けます。
2023年6月29日
*斯波六郎『六朝文学への思索』(創文社、2004年)収載。
「大曲」選定者の価値観
「清商三調」を選定した荀勗は、
後漢の司空荀爽を曾祖父に持つ名家の出身で、
大将軍曹爽の掾をはじめ、曹魏王朝に仕えていましたが、
西晋時代に入ると、武帝司馬炎のもとで王朝の中枢を掌握し続けました。*1
(『晋書』巻39に本伝あり)
このような人物の撰に成る「清商三調」が、
多く魏の武帝・文帝・明帝の歌辞によって占められているのは、
その経歴から推測される彼の価値観からして、ある意味とても腑に落ちることです。
では、一方の「大曲」はどうでしょうか。
その特徴は、先にこちらでも大雑把に述べたところですが、
その一曲目「東門行」にして、すでに「清商三調」との異質性が際立っています。
今、『宋書』楽志三に拠って、その本文と通釈を示せば次のとおりです。
出東門、不顧帰。来入門、悵欲悲。盎中無斗儲、還視桁上無懸衣。」一解
拔剣出門去、児女牽衣啼。它家但願富貴、賤妾与君共餔糜。」二解
共餔糜、上用倉浪天故、下為黄口小児。今時清廉、難犯教言。君復自愛莫為非。」三解
今時清廉、難犯教言。君復自愛莫為非。行、吾去為遅。平慎行、望君帰。」四解
東の門を出て、家には戻らぬ覚悟であった。
戻ってきて門を入れば、悲痛で胸は張り裂けそうだ。
瓶の中には一斗の貯えもなく、また振り返って直視すれば横木には懸けた衣もない。
剣を抜いて門を出ようとすれば、子らは衣を引っ張って声を上げて啼く。
「よそ様の家ではただ富貴を願いますが、私はあなたと共に粥をすすっています。
共に粥をすするのは、上は青青とした天のため、下は幼い息子のためです。
今は清廉を守り、教戒を犯してはなりません。どうか自重され非行に走られませんよう。
今は清廉を守り、教戒を犯してはなりません。どうか自重され非行に走られませんよう。」
「行くぞ。俺は出発が遅かったくらいだ。」
「どうかお気をつけて。お帰りを待ち望んでおります。」*2
生活苦のあまり、押し止める妻をも振り切って追いはぎに出て行く男の歌。
このような歌辞を、前述のような経歴を持つ荀勗が選んだとは考えにくいことです。
一方、「大曲」の撰者と推測し得る張華であればどうでしょう。
『晋書』巻36・張華伝によると、彼は寒門出身であり、
それであるがゆえに、不遇な人物の推挙に心を砕いたといいます。
張華のそうした境遇や人柄を考え合わせると、
あるいは彼が、この歌辞を選んで、宮廷歌曲用にアレンジし、
「大曲」の第一曲目に演奏するよう設定したのではないかという仮説は、
それほどあり得ない話ではないと言えるかもしれません。
ただし、これはあくまでも傍証であって、
まず、『宋書』楽志三にいう「清商三調」「大曲」と「荀氏録」との照合が先です。
この論述の順番が入れ替わると、途端に根拠のない妄想に成り下がります。
2023年5月14日
*1 荀氏一族の歴史的位置については、丹羽兌子「魏晋時代の名族―荀氏の人々について―」(中国中世史研究会編『中国中世史研究―六朝隋唐の社会と文化―』東海大学出版会、1970年)を参照。
*2 『楽府詩集』巻37所収の本辞については、田中謙二『楽府 散曲(中国詩文選22)』(筑摩書房、1983年)p.26―34に詳細な解釈が為されている。