訳注稿「雑誌六首」其一への追記
先週一週間、東北大学で集中講義を担当しました。
大学院の皆さんと曹植詩を中心とした作品幾篇かを読んでいく中で、
これまで一人で読んでいた時には気付かなかったようなことが多く指摘され、
実に目の覚めるような思いでした。
本日は、歴史学を専攻する青木竜一さんからいただいたご指摘を、
柳川が把握したところとしてアレンジして書き記します。
(もし不正確な記述があれば、柳川の責任です。)
曹植「雑誌六首」其一(『文選』巻29)に、「方舟」という語が登場します。
この語については、『爾雅』釈水に次のような説明が見えています。
今、これを解説する郭璞注とともに記せば以下のとおりです。
(この資料は、漢賦を研究する木村真理子さんによって提示されました。)
天子造舟 〈郭注:比船為橋(船を比べて橋を為す)。〉
諸侯維舟 〈郭注:維連四船(四船を維連す)。〉
大夫方舟 〈郭注:併両船(両船を併ぶ)。〉
士特舟 〈郭注:単船(単船なり)。〉
庶人乗泭 〈郭注:併木以渡(木を併べて以て渡る)。〉
「雑誌六首」其一の成立年代は、
『文選』李善注や、清朝の陳祚明、民国の黄節らが説くとおり、
黄初四年(223)と見るのが妥当だと柳川も考えます。
すると、当時曹植は、鄄城王(もしくは雍丘王)であって、
身分としては「諸侯」に当たり、『爾雅』によれば「維舟」に乗るはずです。
ところが、この詩を詠ずる人は、自身の乗り物を「方舟」と言っています。
けれども、これに乗るのは、『爾雅』によれば「大夫」のはずで、
曹植自身の現実の身分とは食い違っています。
本詩中の詠じ手を曹植自身と見ることはできない、という立場もあるでしょうが、
そのような論法は本作品には当てはまらないように思いますので、
ここは、曹植が自らの思いを「雑詩」という詩体に乗せて詠じたのだ、
と捉えて話を先へ進めます。
これはどういうことでしょうか。
「諸侯」は、官に就くことができないが、
「大夫」は、官に就いている者を指していいます。
このねじれは、曹植自身の自己認識のあらわれなのかもしれません。
現実としては、魏王朝の官には就けない「諸侯」でありながら、
自身の志向としては、王朝に仕える「大夫」でありたいという引き裂かれた思いです。
なお、同じ「方舟」は、「雑誌六首」其五にも見えています。
以上のことを、訳注稿の語釈に追記しました。
(訳注稿では簡略に記しています。)
2023年11月21日
「現在の研究内容」の更新
本日、本サイトの「現在の研究内容」を更新しました。
自分の考えていることを、人に伝えることはとても難しい。
今日の授業は、過去繰り返し考えてきたことを説明するものだったのですが、
それでも、うまく伝えることができませんでした。
自分の中では自明のことだから、という慢心があったと思います。
「現在の研究内容」もそうです。
いずれ書き直したいとは思っていましたが、
三年ほど前に書いたものが、これほどだめだとは予想を超えていました。
自分の手を十分に離れ切っていないと、人には伝わらないです。
今の自分はすでに、過去の自分からすれば他人です。
今回は、考えのエッセンスを、できるだけ正確に書こうとしました。
具体的な研究内容というには抽象的すぎるかもしれません。
それでも、過不足ない表現をしたつもりです。
2023年9月27日
「ご挨拶」の更新
本日、本サイトの「ご挨拶」を更新しました。
退職まであと一年半、
中国古典文学に特に興味がない人たちにも、
この研究分野の面白さや意義をまっすぐに伝えたいと思い、
授業での話につい熱がこもります。
熱量をかけたからといって、それが皆に届くとは思いませんが、
ひとりくらいは受け止めてくれると信じています。
それで、そんな若い人たちにも理解してもらいたくて、
ほとんど専門用語を使わない、
書いていることに何の衒いもない言葉で、
自分が思うところを正直に、まっすぐに述べました。
現時点での自分の考えを書き留めた感覚です。
また気持ちが変わったら書き改めるかもしれませんが、
しばらくはこのスタンスでいきます。
退職後は、現在勤務している大学から離れて、
大好きな福岡に住み、自由に研究を続けるつもりです。
2023年9月24日
晋楽所奏「楚調・怨詩行」の編者について
『宋書』楽志三には、
昨日言及した「大曲」十五篇に続いて、
曹植「七哀詩」に基づく「楚調・怨詩行」一篇が収録されています。
曹植「七哀詩」から「怨詩行」へのアレンジについては、
「晋楽所奏「怨詩行」考 ―曹植に捧げられた鎮魂歌―」と題して論じたことがあります。
その中で、「七哀詩」から「怨詩行」への改変点を指摘した上で、
その改変がなぜ行われたのかを究明し、副題に示すような結論にたどり着きました。
ただ、このアレンジを行った人物を、西晋の荀勗かと推測していたことは、
昨日の結論を経て、修正する必要があると今は考えています。
曹植「七哀詩」から「楚調・怨詩行」への改変者が荀勗であろうとの推測は、
荀勗の歌辞選定が、「清商三調」「大曲」「楚調」の全てに及ぶ、
と見通したことから導き出されたものです。
ですが、「大曲」の編者は、荀勗ではなく、張華である可能性の方がはるかに高い、
との結論にたどり着いた以上、先の推測は妥当とは言えません。
むしろ、「大曲」の編者がもし張華であるならば、
それに続く「楚調・怨詩行」一篇もまた、張華によってアレンジされた、
と見る方が、荀勗と見るよりも、はるかに蓋然性が高いでしょう。
それに、張華には、曹植に対する鎮魂の思いを表現する強い動機があります。
一方、荀勗の場合は、それを意識的に回避したとさえ想像されます。
なぜ、そのようなことが言えるのか。
その論拠は、昨日提示したスライド資料の中に示しています。
それは、「大曲」の中に曹植の歌辞が組み入れられている理由を述べた部分ですが、
それよりも更に明確に、「楚調・怨詩行」について当てはまるものです。
2023年9月15日
『宋書』楽志三所収「大曲」について
怒涛のような夏が過ぎ去りました。
この間、次々と目の前に迫りくる物事に取り組みながら、
平常心でいつもの作業を進める、ということができませんでした。
それができるだけの底力を身につけたいのですが、
一方で、仕方がないと思う気持ちもあります。
(ただ、もとの態勢に戻るのにエネルギーが要ります。)
さて、八月の終わり、
中国承徳市で行われた楽府学会の国際学術検討会で、
「探討晋楽所奏“清商三調”与“大曲”的関係」と題する発表を行いました。
(このような機会を与えてくださった方々に深く御礼申し上げます。)
その際に提示したスライド資料①、②、③をここに掲載します。
(発表の原稿は、大学時代の友人陳麗蓉さんが翻訳してくれました。感謝。)
結論は、次のとおりです。
(内容の一部は、断片的ながらこの雑記で何度か述べています。)
『宋書』楽志三に連続的に記されている「清商三調」と「大曲」について、
1、これらは、編者・編成時期ともに異なる二つの歌曲群である。
2、「清商三調」は、『宋書』楽志三に示すとおり、確かに荀勗が選定したものである。
3、「大曲」は、「清商三調」の成立後、張華によって編成された可能性が高い。
4、『宋書』楽志三は、この西晋宮廷音楽の最終形態を記録したものである。
その論拠については、スライドにその一部を載せています。
(ただし、史料の具体的な文面等はスペースの関係上、割愛しています。)
2023年9月14日
生きた言葉を掬い上げる
文学作品に語釈をつけていて、
意外と難しいと感じるのが、誰もが知る言葉、
たとえば「崑崙」とか「蓬莱」といった言葉に対する注釈です。
そんな時、頼りになるのが『文選』李善注です。
そして、『文選』李善注に当たるのにとても頼りになるのが、
斯波六郎主編『文選索引』です。
この索引のすごさは、
まず、熟語は項目を立てて提示されていること、
また、一句の中で、その字の占める位置が近似するものや、
句を構成する語の配列が似ているものは、近くにまとめられていることなどです。
要するに、個々の文字を、等質のデータとして処理するのではなく、
生きた言葉としてひとつひとつ丁寧に拾い上げているのです。
そして、そうやってたどり着いた李善注を見ると、
同じ熟語に対しても、それぞれの本文が持つ文脈に即した典故が示されています。
ここにもまた、言葉を血の通った生き物のように扱う手さばきが見えます。
若い頃、李善の記す「已見上文(すでに上文にみゆ)」に、
手を抜いているのかな、などと思っていたのが恥ずかしい限りです。
もし文脈が異なれば、それぞれにふさわしい注を付けるのが李善の流儀なのに。
そこで我に返って眼前の言葉を見るのですが、
どういう注釈を付けたものか、やっぱり明瞭な像を結びません。
李善注への道は遠いです。
斯波六郎先生もはるか彼方の偉人です。
もはや自分は彼らとは異なる世界の住人なのですから、
土台、まったく同じような仕事はできないと観念しています。
ただ、言葉を生きものとして扱うことだけは継承したいと志すのです。
2023年8月4日
『山海経』の比翼の鳥
調べ物で『山海経』を見ていて、
その西山経に次のような記述があることに目が留まりました。
(崇吾之山)有鳥焉、其状如鳧、而一翼一目、相得乃飛、名曰蛮蛮、見則天下大水。
(崇吾の山には)鳥がいて、その形状はカモに似ているが、一翼一目で、二羽が一緒になって始めて飛べる。名を蛮蛮という。この鳥が現れると大洪水が起こる。
これは、ほとんど『爾雅』釈地に見える次の説明と同じものを指すようです。
南方有比翼鳥焉。不比不飛、其名謂之鶼鶼。
南方に比翼の鳥有り。比せずんば飛ばず、其の名 之を鶼鶼と謂ふ。
両者では、西と南という方角に違いがありますが、
『山海経』海外南経の南山の項にも、
比翼鳥在其東。其為鳥青赤、両鳥比翼。
比翼の鳥 其の東に在り。其の鳥為るや青・赤にして、両鳥 翼を比(なら)ぶ。
とあるので、記述が食い違うとまでは言えません。
そして、前掲『爾雅』の郭璞注に次のようにあるのは、
『山海経』の西山経と海外南経とを綴り合せていると見ることができます。
似鳧。青赤色。一目一翼、相得乃飛。
鳧に似たり。青・赤の色なり。一目一翼にして、相得て乃ち飛ぶ。
郭璞(276―324)は、『山海経』にも注を付けていますから、
このあたりのところはまるで掌を指すようなものだったと想像されます。
それで、この比翼の鳥に『山海経』で出会って立ち止まったのは、
どこかの博物館で、中央アジアあたりの文物としてこの鳥を見た記憶があるからです。
それを見た時も、まるで比翼の鳥だと思った感覚は覚えているのですが、
記憶違い(「羽人」と混線して)かもしれません。
もしその記憶がまぼろしでないのなら、
『山海経』は太古の人々の地理的認識をよく書き留めた書物だと思います。
2023年8月3日
先行研究との分岐点:遊仙詩の生成経緯
過日、五言遊仙詩の生成経緯を考えるに当たって、
漢代の宴席における、神仙を題材とした歌舞劇の上演という視点を提示してみました。
ただ、神仙を詠ずる楽府詩が、漢代宴席で行われるものであったとする説であれば、
矢田博士氏が、陳祚明の説を引用しながら、次のようにまとめています。*
神仙楽府は、貴族などの宴会で歌われた祝頌歌辞として、漢代に初めて登場した。そして、それは主として宴会に招かれた賓客が、その返礼として主人の延命長寿を祈願するために作られた。この点に関しては、清の陳祚明が、最も端的に言及していると思われるので、その説を挙げておく。
合楽於堂者、皆富貴人也。為詞以進者、皆以祝頌也。富貴人復何可祝。所不知者寿耳。故多言神仙。為詞以進者、大抵其客。此客承恩深、故其詞如此。
(『采菽堂古詩選』巻二、善哉行)
今、この陳祚明の説を、私なりに通釈すれば次のとおりです。
表座敷で声を合わせて歌曲を歌うのは、みな富貴の人である。祝辞を作って奉るのは、みなそれで主人を言祝ぐのである。富貴の人に対して、また何を言祝ぐべきか。先が見えないのは寿命だけである。だから、神仙に多く言及するのだ。祝辞を作って奉るのは、大抵その客である。この客は、主人から受けている恩恵の深さ故に、その言葉がこのような様子なのだ。
「合楽」は、『儀礼』郷飲酒礼に見える語で、そこでは『詩経』が合唱されています。
さて、では、こうした先行研究の蓄積に対して、
私の試論が新たに付け加え得る何ものかはあるのでしょうか。
人によっては、宴席というキーワードを共有するのだから、と言って同一視されるでしょう。
ただ、ほんの少し視角をずらせば、事象を一層クリアに捉えることができるのに、
と感じることは割とあって、そのあたりを丁寧に説明したいと考えています。
(この場合は、“宴席という場で演じられた神仙劇”に着目する視点の導入です。)
もちろん、何も付け加えることはないという結果になる可能性もあります。
2023年8月2日
* 矢田博士「曹植の神仙楽府について―先行作品との異同を中心に―」(『中国詩文論叢』9号、1990年)を参照。この論文の概要は、こちらに示したことがある。
歴史上の人物を詠じた作品の制作年代
本日、「曹植作品訳注稿」の「豫章行」其一、其二を公開しました。
徐公持も指摘するように、*1
詩中、多くの聖賢が詠われている中で、
周公旦だけが、其一、其二の双方に登場しています。
其一では、名もなき庶民に対しても分け隔てなく接した人物として、
其二では、骨肉の兄弟である管叔鮮と蔡叔度から流言を飛ばされた人物として。
徐公持は、そうした周公旦と曹植の境遇がよく重なるという理由で、
「豫章行」二篇を、明帝期の作だと見ています。
曹植の兄曹丕の子である明帝曹叡は、周公旦の兄武王の子である成王に、
そして曹植は、立場上、成王を補佐した周公旦に重なるからです。
同じように、趙幼文もまた、本作品を明帝期に繋年しています。*2
私から見ても、この見解は妥当だろうと思います。
ただ、周公旦への言及は、何も晩年の曹植にのみ認められるわけではありません。
かつて指摘したように、曹植の「娯賓賦」では、周公旦は父曹操を指して云うもので、
しかもそれは宴席における曹操の様子をこのように描写しているのであって、
曹操自身も、その「短歌行・対酒」(『文選』巻27)の中で、
かくありたき人物として周公旦を詠じています。
「娯賓賦」は、ほぼ間違いなく、曹植が幸福であった建安年間の作でしょう。
もしかしたら、周公旦のどの側面に注目しているかという視点から、
彼を詠じた作品の制作年代が割り出せるのかもしれません。
作者がどのような境遇の中にいようが、
歴史上の人物は変わりなくその胸中に居続けているはずですが、
その人物のことを衷心から敬愛し、強く引きつけられるようになるには、
それ相当の経験と、その経験を内面化する心のはたらきが必須だろうと思うからです。
近しい肉親に裏切られた周公旦に思いを馳せるということは、
曹操や親しい文人たちに囲まれていた、建安年間の曹植には起こりそうもありません。
2023年8月1日
*1 徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.412を参照。
*2 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.414を参照。
口頭発表を前に思うこと
八月の終わり、中国河南省の承徳で開催される楽府学会に、
「探討晋楽所奏“清商三調”与“大曲”的関係」と題して口頭発表をします。
『宋書』楽志三所収の「清商三調」と「大曲」とは、
選定者も、選定の時期も異なる二つの歌曲群であることを論証するものです。
「大曲」は、「清商三調」が荀勗によって選定されてから後、
張華によって新たに編成されたものであるというのがその結論です。
はたして、その論拠に妥当性があるでしょうか。
その内容は、断続的にここ何年か考えてきたことなのですが、
原稿を作成するという圧がかかると、それ相当に新しい発見がありました。
人に聞いて理解してもらうためには工夫が必要となります。
そこで、自身の中にもう一人の自身との対話が生まれるからでしょうか。
もっとも、この段階でめぐりあった新しい考えは、
しばらくたゆたっていた時期があればこそ浮かんできたものでしょう。
そしてもうひとつわかったこと。
原稿をネイティブスピーカーの友人に翻訳してもらい、
(外国語による原稿をご自身で書ける人はすごいと思います。)
それを、自分にもわかる平易な言い方に一部変換しながら音読していて、
つくづく、言葉というものは呼吸なのだと体感したことです。
まだ自分に馴染んでいない外国語はふわふわと口先に漂いますが、
その言葉が次第に自身のものとして馴染んでくるにつれ、
それがお腹の底から出てくるようになるのです。
原初的な言葉の起源に触れるような、おもしろい体感です。
2023年7月31日