曹植「種葛篇」と陸機の詩

曹植「種葛篇」に「恩紀曠不接(恩紀 曠しく接せず)」という句があります。

あまり見たことがないように感じた表現ですが、
「恩紀」は、比較的用例の多い、当時普通に用いられている語でした。
ところが、「曠不接」という字の並びは意外にも少なく、
漢魏晋南北朝時代を通して、陸機の次の二例が認められるくらいでした。

「贈尚書郎顧彦先二首」其一(『文選』巻24):
 形影曠不接、所託声与音  形影 曠しく接せず、託する所は声と音とのみ。

「為顧彦先贈婦二首」其二(『文選』巻24):
 形影参商乖、音息曠不達  形影 参商のごとく乖れ、音息 曠しく達せず。

陸機のこの二首の詩は、
「形影」「曠不」といった語の共有、
「声与音」と「音息」という語の類似性から見て、
ひとつの詩想でつながっているということは確かだと言えます。

そして、陸機のこの詩想は、
「曠不」という語の共有、離別という共通のテーマから見て、
曹植「種葛篇」に着想を得たものだと判断できます。

いや、曹植の表現に着想を得たというよりは、
強い共感・共鳴から生まれたものだと言った方が近いかもしれません。
自身の詩を磨き上げるために、先人の優れた表現を踏襲したというのではなくて。

曹植は、骨肉の乖離を夫婦のそれに喩えて表現しました。
そして、陸機は、故郷を遠く離れて異郷の西晋王朝に出仕した人です。
曹植が詠じた肉親との隔絶は、我が琴線に触れるテーマであったに違いありません。

なお、『文選』李善注は、如上の表現の類似性には言及していません。
加えて、前述のとおり、この表現は後の時代に継承された形跡が認められません。
まるで曹植と陸機との間でのみ交わされた目くばせのようです。

2024年5月3日

「塵」と「泥」

以前(2024.04.04)、検討したことの続きです。

「七哀詩」で詠じられた「清路塵」と「濁水泥」は、
「九愁賦」では「濁路之飛塵」と「清水之沈泥」とに変容していました。

「七哀詩」は、古詩「西北有高楼」「明月何皎皎」を特に顕著に踏まえています。
「九愁賦」については、丁晏「陳思王年譜」の序文に、*

王既不用、自傷同姓見放、与屈子同悲、乃為九愁・九詠・遠遊等篇、以擬楚騒。
 王は既に用ゐられず、自ら同姓にして見放たるるを傷むこと、屈子と悲しみを同じくし、
 乃ち九愁・九詠・遠遊等の篇を為りて、以て楚騒に擬す。

とあるとおり、自身を屈原に重ねて表現した、『楚辞』の模擬作品だと見られます。

王室と同姓でありながら放逐された屈原、彼に自らの境遇を重ねるということは、
曹操が存命中であった建安年間の曹植には、その必然性がありません。

おそらく、『楚辞』の模擬作品だと言える「九愁賦」が作られたのは、
曹操の没後のことだったと見てほぼ間違いないでしょう。

一方、「七哀詩」は王粲や阮瑀らとの競作であった可能性が高く、
もしそうだとするとその成立は建安年間です。

そして、このふたつの作品の間で、
上述のような「泥」と「塵」との転換が起こっているのです。

建安年間の終焉を境に、大きく変化したものは何かといえば、
それは第一に、曹丕とその弟たちとの関係性でしょう。

しかも、「塵」と「泥」を対比的に示す表現は、
もともとは、古詩にも、『楚辞』にも、無かった要素です。
「七哀詩」や「九愁賦」は、敢えて独自にこの要素を加えているのです。
そこに、作者曹植の詩想の磁場を感じないではいられません。

2024年5月2日

*『曹集詮評』(文学古籍刊行社、1957年)p.216。丁晏にこの言及のあることは、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)pp.37の指摘によって知り得た。

 

陸機「擬明月何皎皎」詩をめぐって

ふと思い立って、概説的な授業の中で、
陸機「擬明月何皎皎」(『文選』巻30)を取り上げることにしました。
『文選』巻29「古詩十九首」其十九「明月何皎皎」に擬した、次のような詩です。

01 安寝北堂上  北の座敷で静かに横になっていると、
02 明月入我牖  明るい月の光が私の部屋の窓に入ってくる。
03 照之有餘暉  月光は窓のあたりをいっぱいに照らしているけれども、
04 攬之不盈手  これをすくい取ろうとすれば掌中からすり抜ける。
05 涼風繞曲房  涼やかな風は、奥まった部屋のあたりを吹きめぐり、
06 寒蝉鳴高柳  秋の蝉は、高く伸びた柳の樹上で鳴いている。
07 踟蹰感節物  立ち止まって季節の風物に感じ入る。
08 我行永已久  私はもうずいぶんと長く郷里を離れている。
09 遊宦会無成  異郷で仕官してもうまくいくことはないかもしれない。
10 離思難常守  離れて暮らす辛さを、いつまでも持ちこたえることはできない。

この詩が基づいた古詩「明月何皎皎」は、次のとおりです。

01 明月何皎皎  明月のなんと皎皎と輝いていることだろう。
02 照我羅床幃 それは私の寝台のとばりを照らし出す。
03 憂愁不能寐 深い愁いに囚われて寝付かれず、
04 攬衣起徘徊 衣を手に取って、起き上がってあちらこちらと歩き回る。
05 客行雖云楽 旅ゆくことは楽しいと言われはするが、
06 不如早旋帰 やっぱり早く家に帰る方がよいに決まっている。
07 出戸独彷徨 戸口を出てひとりでさ迷い歩いてみるけれど、
08 愁思当告誰 この愁いの気持ちを、さていったい誰に告げられよう。
09 引領還入房 首を伸ばして彼方を見やり、また戻ってきては部屋に入ると、
10 涙下沾裳衣 涙が流れてしとどに衣装を濡らすのである。

陸機「擬古詩」については、かつて論じたことがあるのですが、*1
その中でこの詩を中心的に取り上げることはしていません。
そこで、改めてこの作品を読み直してみて、その美しさに打たれました。
そして、これは、陸機が故郷に残してきた妻を思う詩ではないか、と直感しました。

なぜそう感じ取ったのか。

直接的には、第8句の「我行」です。
この詩を詠じている人が、「私の旅」と言っている。
そして、この時代だと、旅に出ているのはほぼ男性と決まっています。
(詩の中の詠じ手と作者とを重ねることについて、今は議論を措いておきます。)

この語句について、岩波文庫『文選 詩篇(六)』(2019年)p.164には、

自分たちを別離させているこの旅。夫の旅を夫婦で共有するものとしていう。

との注記が施されています。

「我」にはたしかにこのような意味があります。
ただ、同じ「我」が第2句にも見えていて、そこでは個としての一人称です。
けれども、一詩の中で、意味を一致させる必要はない、という考えも成り立ちます。
困りました。(直感した、と先ほどは言ったのに。)

前掲の岩波文庫をはじめ、一般に陸機のこの模擬詩は、
女性の視点から詠じられた古詩をそのまま踏襲するものと捉えられているようです。
そのような解釈に沿わせるために、岩波文庫は上記のような注を付けたのかもしれません。
ただ、古詩「明月何皎皎」を男性の視点から詠じたものとする解釈もあります。
それに依るならば、前掲のように注する必要はなくなるのでしょうか。

ひとつ参考になるかと思うのは、
宮体詩ばかりを集めた六朝末の選集『玉台新詠』が、
古詩「明月何皎皎」は採録しているけれども(枚乗「雑詩九首」其九として)、
陸機「擬明月何皎皎」は採録していないということです。
『玉台新詠』の編者である徐陵はおそらく、
古詩「明月何皎皎」を女性の側から詠じられた閨怨詩、
陸機のこの詩を、男性側の立場から詠じたものと捉えたのでしょう。*2

陸機「擬古詩」をめぐって、もう少し行きつ戻りつしてみます。

2024年4月29日

*1 柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)pp.445―482。この部分の論考は、拙論「陸機「擬古詩」試論」(『筑紫女学園大学国際文化研究所論叢』第2号、1991年)に大幅な加筆修正を加えたものである。
*2 このことは、前掲の拙著p.136の注(32)、p.481の注(23)に言及している。

曹植「七哀詩」の制作年代(疑念)

昨日、以下のような推測を述べました。

曹植「七哀詩」がもし王粲や阮瑀らとの競作であった場合、
その制作年代は、建安13年(208)から17年(212)に絞り込まれる。

この間で、曹植が兄曹丕と自身とを、
「清路の塵」と「濁水の泥」のように感じることがあったとすれば、
それは、建安16年(211)、曹丕が五官中郎将・丞相副となったことだろう、と。

これは、詩の世界を、現実と密接に関わるものとして捉える見方です。

しかし、このような見方を推し進めていった場合、
たとえば、前掲の対句の直前にある次のような表現はどう捉えられるでしょうか。

君行踰十年  あなたは旅行くこと十年を超え、
孤妾常独棲  身寄りのない私はいつも一人ぼっちで暮らしている。

まず、曹丕と曹植とが、十年以上も離れ離れになっていたことはありません。
また、仮に本詩の成立を211年だとして、その十年前は、曹丕が15歳、曹植は10歳、
この年齢では、前掲のような比喩表現はあまりしっくりきません。

けれども、徐公持は、この「踰十年」に着目し、
「君」と「妾」とを、君臣関係になぞらえたものと捉え直した上で、
本詩の成立を、明帝期の太和五年(230)と推定しています。*

直観的に、それはどうなのだろう、と感じるのですが、
この感覚はどこから来るのか。

もうしばらく判断を保留にしておきます。

2024年4月27日

*徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.387。

曹植「七哀詩」の制作年代(承前)

曹植の「七哀詩」がもし、
王粲や阮瑀のそれと同じ機会に作られたものであるならば、
その制作年代は自ずから絞り込まれてきます。

王粲は、建安13年(208)、荊州から曹操の幕下に降り、
同22年(217)、疫病によって没しました。
阮瑀は、司空たる曹操に仕え(時期の詳細は未詳)、
建安17年(212)に没しています。

すると、王粲、阮瑀、曹植の三人が一堂に会する機会は、
広く見積もって、208年から212年の間となります。

他方、「七哀詩」には、次のような特徴的な表現がありました。

君若清路塵   君は清路の塵の若く、
妾若濁水泥   妾は濁水の泥の若し。

これは、黄節が評していたとおり、
曹植自身を「泥」、兄の曹丕を「塵」と表現したものと見られます。

表現を現実に結びつけて解釈する必要はない、という考え方もあるでしょうが、
そうした見方をするには、この表現はあまりにも突出しています。
今ここで詳しく論ずることは省略しますが。

さて、では、前述の五年間の中で、
曹植が、兄曹丕との距離を強く意識するようなことはあったでしょうか。

それは、建安16年(211)、
曹丕が五官中郎将・丞相副となり、
曹植が平原侯に封ぜられたことではなかったかと考えます。
時に、曹丕は25歳、曹植は20歳でした。

これを機に、曹丕は事実上の太子、曹操の後継者となります。*
一方、曹植は後漢王朝から侯に任命されたということになるのでしょう。
これを機に、曹植は兄との間に少し隔たりを感じるようになった可能性はあります。

たとえば、「侍太子坐(太子の坐に侍る)」(04-02)です。
以前、この詩に対してかなりひねくれた解釈をしたことがありますが、(2019.07.17)
それは、その詩中に、曹丕を冷ややかに眺めるようなまなざしを感じたからです。
(ただ、その当否は、今もって判断できません。)

もっとも、この反発心はむしろ、兄に甘え、いどみかかるような、
いかにも弟らしい心理であっただろうと想像します。

2024年4月26日

*津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年)を参照。こちらの雑記(2020.09.23)にも記す。

曹植「七哀詩」の制作年代をめぐって

昨日の続きとして。
「七哀詩」と題する作品は、建安七子のひとり阮瑀にもあります。
『藝文類聚』巻34・人部十八・哀傷に、「魏の阮瑀の七哀詩に曰く」として引く、
「丁年難再遇(丁年は再びは遇ひ難し)」に始まる一首、
それに、続いて「又詩に曰く」として引くものも、
もしかしたら「七哀詩」かもしれません。
というのは、その後に「魏の王粲の七哀詩に曰く」として引くもの、
それに続けて「又詩に曰く」として引くものの併せて二首が、
『文選』巻23に、王粲の「七哀詩二首」として採録されているからです。
『藝文類聚』における阮瑀詩の引用の仕方が、王粲のそれと同じ体裁なので、
このように推測することも可能かと考えました。

さて、そのように題目を共有する複数の作品がある場合、
多くは、場を同じくして競作された作品群であろうかと考えられます。

では、曹植「七哀詩」も、王粲や阮瑀らとの競作だと見ることができるでしょうか。

先行研究を通覧すると、
本詩を曹丕と曹植との関係性に結びつけて解釈するものが多く、
その代表的なものが、黄節によるこちら(2022.08.30)の指摘です。
趙幼文が本詩を黄初年間に繋年しているのは、これに基づくかと思われます。*1
また、徐公持は別の観点から、本詩の制作時期を明帝の太和5年と推定しています。*2
曹海東は、本詩を曹丕との関係性に結びつける先人の説に一定の妥当性は認めながらも、
制作年代にまでは踏み込もうとしていません。*3
これらの説は、少しずつ立脚点を異にしてはいますが、
いずれも、本詩が建安文人たちとの競作であった可能性には言及がありません。

一方、伊藤正文は、「七哀」という詩の題目について諸説を紹介し、
これに続けて、次のようなコメントを付しています。*4

なお、この詩の制作年代は不明。
曹植が雍丘にいたときとか、文帝時代の作とかの説もあるが、
いずれも憶測の域を出ない。

そして、この後に、王粲・阮瑀にも「七哀詩」があることを記しています。

このような記し方からして、もしかしたら伊藤氏は、
本詩が競作されたものである可能性に目を向けていたかもしれません。
(前述の曹海東氏にも、その可能性がないではありません。)

明日につなぎます。

2024年4月25日

*1 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)巻2、pp.313―314。
*2 徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.387。
*3 曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)pp.122―124。
*4 伊藤正文『曹植』(岩波・中国詩人選集、1958年)pp.117―120。

『文選』所収作品の配列

曹植の「七哀詩」は、『文選』巻23に収録されています。
そして、その後に王粲「七哀詩」が続きます。

この配列について、李善は次のように注記しています。

贈答、子建在仲宣之後、而此在前、誤也。

「贈答詩」(『文選』巻23・24)では、曹植の作品は、王粲の後に並んでいる。
ところが、ここ「七哀詩」では、王粲の前に置かれている。誤りである。

これとほぼ同じ指摘が、『文選』巻20所収「公讌詩」にもこう見えています。

贈答・雑詩、子建在仲宣之後、而此在前、疑誤。

このことは、かつてうっかり二度も記していましたので、
詳しくはそちらをご覧いただければ幸いです。(2019.07.02)(2021.11.18

では、「贈答詩」や「雑詩」(『文選』巻29)と、
「公讌詩」や「七哀詩」との分岐点はどこにあるのでしょうか。

「贈答詩」は、作者によって、詩を贈る相手は様々です。
「雑詩」は、基本的に対自的なスタンスで作られることが多い作品です。
つまり、作者としては、個々人であると言えます。

一方、「公讌詩」は宴という共通の場で共に作られるものです。
作者は、個々人というよりも、むしろ場であるとさえ言えるでしょう。

「七哀詩」の配列が「公讌詩」のそれに準ずることは、
その創作の場が、「公讌詩」に類するものであった可能性を示唆すると考えます。

曹植の「七哀詩」は、『文選』李善注に複数箇所引かれており、
その中には、『文選』所収作品ではない、次のような佚文も見えています。*

南方有鄣気、晨鳥不得飛。(巻28/21a李善注)
 南方に鄣気有り、晨鳥 飛ぶを得ず。

膏沐誰為容、明鏡闇不治。(巻31/3b李善注)
 膏沐 誰が為に容(かたちづく)らん、明鏡 闇(くら)くして治めず。

すると、二首が収載される王粲と同様、曹植にも複数の「七哀詩」があって、
そのうちの一首が『文選』に採られたのだろうと推察されます。

そして、曹植や王粲による複数の「七哀詩」は、
「公讌詩」と同様、ある機会や場を共有して作られた詩群として、
『文選』に先行する選集類で、ひとつにまとめられていた可能性がある。

あくまでも可能性ではありますが、
以上に述べたことから、こうした見通しは成り立つように思います。

2024年4月24日

*富永一登『文選李善注引書索引』(研文出版、1996年)を手引きとして確認した。このこと自体の指摘は、多くの先人たちによって夙に為されている。

曹植作品と阮籍「詠懐詩」

阮籍の「詠懐詩」が、曹植作品の影響を深く受けていることは、
かつて「磬折」という語を核として論じたことがあります。*
今日また両者の類似表現に遭遇しました。

阮籍「詠懐詩十七首」其四「昔日繁華子」(『文選』巻23)の次の句、

携手等歓愛  手を携へて歓愛を等しくし、
宿昔同衣裳  宿昔 衣裳を同じくす。

これが、曹植「種葛篇」(『玉台新詠』巻2)に見える次の句、

歓愛在枕席  歓愛 枕席に在り、
宿昔同衣衾  宿昔 衣衾を同じくす。

これとたいそうよく似ています。

たまたま似ただけだとも考えられますが、
「宿昔同衣○」という言葉の並びは、
現存する諸作品を網羅的に検索する限りでは、この両作品のみに見えるようです。
この句の前に、「歓愛」という語が用いられている点でも同じですから、
阮籍が曹植の表現を取り込んだ可能性は十分あるように思います。
(もちろん全くの見当違いである可能性も多分にあります。)

それで、よくわからないのが、
前掲の阮籍の詩にいう「等」という語の意味です。
何を等しくすると言っているのでしょうか。
二人の「歓愛」の程度が等しいのか、
それとも「携手」が「歓愛」に等しいと言っているのか。
多くの翻訳者は、「等」を「ともにする」と捉えているようですが、
それでよいのか、少し躊躇を覚えています。
「等」には、「ともがら」という語義もあるので、
そこから敷衍させて捉えるならば、
何も怪しむには当たらないところなのかもしれませんが。

2024年4月23日

* 拙論「曹植文学の画期性―阮籍「詠懐詩」への継承に着目して―」(『中国文化』80号、2022年)。こちらでご覧いただけます。ただし、この中で私は大間違いなことを述べています。ご注意ください。

曹植「雑詩六首」に対する李善注

曹植の作った「雑詩」と呼び得る作品は、
そのうちの五首が、『玉台新詠』巻2に収載されています。

ところが、この「雑詩五首」のうち、
其一「明月照高楼」は、『文選』では巻23に「七哀詩」として採られ、
其三「微陰翳陽景」は、『文選』巻29に「情詩」として収載されています。
(このことは、すでにこちらでも述べました。)

一方、『文選』所収「雑詩六首」には含まれない、
『玉台新詠』所収「雑詩五首」の其四「攬衣出中閨」詩は、
『藝文類聚』巻32に「魏陳王曹植詩」として引かれ、
その後に「又曰」として前掲の「明月照高楼」「西北有織婦」が続いています。
ということは、六朝末から初唐にかけての時代、
曹植のこれらの作品を包括して「雑詩」と捉える見方がたしかにあったのでしょう。

ですが『文選』は、曹植の「七哀詩」「雑詩」「情詩」を区別しています。
これは、『文選』が拠った先行する選集がそうであったということを意味します。
ではなぜ、それらの選集は、曹植のこの種の作品をこのように括っていたのでしょうか。

このことを探る上で、手掛かりになるかもしれないのが、
「雑詩六首」について、『文選』李善注に記された次のようなコメントです。

此六篇、並託喩傷政急、朋友道絶、賢人為人窃勢。
別京已後、在郢城思郷而作。
 此の六篇は、並びに託喩して傷む、
 政の急にして、朋友は道絶え、賢人は人の勢を窃(ぬす)むところと為るを。
 京(洛陽)に別れて已後、郢城(鄄城)に在りて郷を思ひて作るなり。

ここにいう「郷」は、狭い意味での郷里ではなく、
仲間、ともがらを喩える語としてと捉えるのが妥当でしょう。*1

李善はこのように、
「雑詩六首」はすべて、現王朝に対する批判を婉曲に表現しており、
曹植が洛陽から鄄城に帰還して後に、朋輩を思って作った詩群だと捉えています。

ただ、この李善注に対しては、
清の胡克家が次のように疑義を呈しています(『文選考異』巻5)。

案此三十字、於善注例不類、必亦并善於五臣而如此。
其中兼多譌錯、各本尽同、無可校正。
何校、郢改鄄。陳同。
 案ずるに此の三十字、善注の例に類せず、必ずや亦た善を五臣に并せて此くの如し。
 其の中には兼ねて譌錯多きも、各本尽く同じければ、校正す可き無し。
 何(何焯)が校は、郢を鄄に改む。陳(陳景雲)同じ。

前掲の李善注について、胡克家はこのように、
李善注を五臣注と併せた際に、このような注が李善注に混入したと見ています。

けれども、先行研究によると、五臣注本系テキストには題注はなく、
だとすれば、前掲の胡克家の見方は成り立たないとの指摘が為されています。*2

もしかしたらこれは、李善の子、李邕の注記である可能性もあります。
李邕による『文選』注は、父のそれとは異なって、
「事に附して義を見(あらは)す」(『新唐書』巻202・文芸伝中)ものであり、
李善もこれを否定し去ることができず、両注は並び行われたといいます。*3

唐代初期には、私達には目睹できない資料もあったはずですから、
通常の体例とは異なるこの李善注も、何らかの根拠を持っていたのかもしれません。

2024年4月22日

*1『礼記』緇衣に「君子之朋友有郷、其悪有方(君子の朋友には郷有り、其の悪には方有り)」、鄭玄注に「郷・方、喩輩類也(郷・方は、輩類を喩ふるなり)」と。
*2 兪紹初・劉群棟・王翠紅点校『新校訂六家注文選』(鄭州大学出版社、2013年)p.1897の校勘記を参照。
*3 岡村繁「『文選集注』と宋明版行の李善注」(『加賀博士退官記念中国文史哲学論集』1979年、講談社)、「『文選』李善注の編修過程―その緯書引用の仕方を例として―」(『東方学会創立四十周年記念東方学論集』1987年、東方学会)を参照。両論文とも、岡村繁『文選の研究』(1999年、岩波書店)に収載。

曹植「雑詩六首」と「情詩」

『文選』巻29所収の曹植による五言「雑詩六首」は、
その直前に、曹植の四言「朔風詩一首」があり、
その直後には、曹植の五言「情詩一首」が続いています。

「微陰翳陽景(微陰 陽景を翳ふ)」に始まる「情詩」は、
『玉台新詠』巻1では、曹植「雑詩五首」の三首目として収載されています。

では、『文選』はなぜ、
この「微陰翳陽景」詩を「雑詩六首」に組み入れなかったのでしょうか。
同じ五言詩であり、しかも同時期の選集『玉台新詠』は「雑詩」としているのに、
「情詩」として別立てにしているのには、何らかの根拠があったはずです。

『文選』という作品選集は、
すでにある選集から、更に秀作を選りすぐったものと見られますが、*
その先行する選集で、「雑詩六首」と「情詩」とは別の詩群に属していたのでしょうか。

もしそうだとすると、両者がそれぞれに属する詩群はどう異なっていたのでしょうか。

そもそも「雑詩」とは何か。
この問題については、かつて触れたことがあります。(2021.02.21)

また、曹植の「雑詩」という作品群についても、
二度ほど考察したことがあります。(2020.06.23)(2020.07.11)

けれども、それらは十分な検証に基づくものとは言えません。

今、「情詩」と「雑詩六首」との分岐点に注目し、
曹植「雑詩六首」の輪郭を明らかにできないかと考えています。

2024年4月19日

*岡村繁「『文選』編纂の実態と編纂当初の『文選』評価」(『日本中国学会報』第38集、1986年、『文選の研究』(岩波書店、1999年)に収載)を参照。

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