曹植「精微篇」と左延年「秦女休行」

先日訳注を公開した曹植「精微篇」と、
昨日こちらで紹介した左延年「秦女休行」とを並べてみると、
いくつか通底する部分があることに気づきます。

曹植「精微篇」は、秦女休が恩赦に会った場面を切り取ってこう詠じます。

女休逢赦書  女休の赦書に逢ふは、
白刃幾在頸  白刃の幾(ほとん)ど頸(くび)に在るときなり。

左延年「秦女休行」の末尾は、
この場面を、更に鮮明な臨場感をもって次のように描いています。

両徒夾我     両徒 我を夾(はさ)み、
持刀刀五尺餘   刀を持つ 刀は五尺餘り。
刀未下      刀未だ下らざるとき、
朣朧撃鼓赦書下  朣朧として撃鼓あり 赦書下る。

また、曹植「精微篇」には、
勇敢な娘たちと息子たちとを対比させる次のような句が見えています。
(秦女休その人を指していう言葉ではありません。)

多男亦何為  男多きも亦た何をか為さん、
一女足成居  一女 居を成すに足る。
……
辯女解父命  辯女 父の命を解く、
何況健少年  何ぞ況んや健なる少年においてをや。

左延年「秦女休行」にも、これと同質の次のような句が認められます。

兄言怏怏   兄の言 怏怏たり、
弟言無道憂  弟(いもうと)の言 憂ひを道(い)ふ無し。

こうした発想の句は、
緹縈を詠じた班固の詠史詩(『文選』巻36李善注に引く)にも、
次のとおり見えています。*

百男何憤憤  百男 何ぞ憤憤たる、
不如一緹縈  一の緹縈に如かず。

曹植「精微篇」に共通する要素を持つ作品や著作物は、
同時代にも、また前後の時代にも、まだいくらでもあるでしょう。

これらの複数の作品に通底する要素は、
それぞれの作者が創り上げた詩想や表現なのではなくて、
(曹植が強い女性を崇拝していたなどとは言えないことです。)
彼らが生きていた時代の意識下に通底していた感情なのだろうと思います。
(それも、知識人社会の枠に限定されない、民間に広く流布する感情)

そうした時代の底を流れていた感情の分厚い層は、
個々の固有の作者を越えて、彼らの精神的土壌を為していたものでしょう。

ひとりひとりの作者の独自性も、その歴史的位置も、
この分厚い土壌を視野に入れてこそ究明できるのだと考えます。

2024年12月1日

*詩全体の本文、訓み下し、通釈は、昨日も紹介したこちらの拙稿に示してある。

左延年「秦女休行」と漢代宴席文芸

曹植「精微篇」にも登場した女性「秦女休」については、
魏の左延年にも、「秦女休行」と題する次のような楽府詩があります。
今、『楽府詩集』巻61所収の本作品を、私訳とともに示せば次のとおりです。

01 始出上西門   始めて上西門を出たところで、
02 遥望秦氏廬   遥か彼方に秦氏の家を眺めやる。
03 秦氏有好女   秦氏によき娘がいて、
04 自名為女休   彼女は自ら女休と名乗っている。
05 休年十四五   休は年のころ十四五歳で、
06 為宗行報讎   宗家のために仇討をした。
07 左執白楊刃   左手に白楊の刃を握り、
08 右拠宛魯矛   右手に宛魯の矛を押さえて。
09 讎家便東南   仇は東南に身を寄せ、
10 仆僵秦女休   秦女休を倒そうとする。
11 女休西上山   女休は西のかた山に上り、
12 上山四五里   山に上ること四五里。
13 関吏呵問女休  関所の番人が 厳しく女休を問い質せば、
14 女休前置辞   女休は前に進み出て返答する。
15 平生為燕王婦  「その昔は燕王の妻でしたが、
16 於今為詔獄囚   今は詔によって投獄された囚人です。
17 平生衣参差    昔はあれこれと様々に着飾っておりましたが、
18 当今無襟襦    今は襟も襦袢もない有様です。
19 明知殺人当死   人様を殺すことが死罪に当たることは十分に承知しております。
20 兄言怏怏     兄は、鬱々と楽しまないことを言いますが、
21 弟言無道憂    妹(自身)は、泣き言を口にはいたしません。」
22 女休堅辞     女休は堅く心に決めた言葉を述べる。
23 為宗報讎     「宗家のために仇討をし、
24 死不疑       死ぬことは覚悟しております。
25 殺人都市中     人を大都会の真ん中で殺したのですから、
26 徼我都巷西     わたしを街角の西に捕らえてください。」
27 丞卿羅東向坐   役人たちは居並んで東に向かって坐り、
28 女休悽悽曳梏前  女休は痛々しい有様で桎梏を引きずって進み出る。
29 両徒夾我     二人の人夫がわたしを両方から抑え込み、
30 持刀刀五尺餘   刀を持つ、刀は五尺餘り。
31 刀未下      刀がまだ振り下ろされていないとき、
32 朣朧撃鼓赦書下  ドウドウと太鼓を打つ音が響き渡り、恩赦の勅書が下された。

さて、本作品の中には、漢代宴席文芸との繋がりを想起させる表現が散見します。

1・2句目の歌い出しは、古詩の流れを引く作品にはよく見かけるもので、
たとえば、『文選』巻29「古詩十九首」其十三の冒頭、
「駆車上東門、遥望郭北墓(車を駆る上東門、遥かに郭北の墓を望む)」が挙げられます。
ちなみに、上東門も、左延年が詠じた上西門も、後漢の都洛陽に実在していました。

7・8句目の、左手右手のそれぞれに持つものを取り上げていう表現は、
『史記』刺客列伝(荊軻)に、荊軻が樊於期将軍の首を要求していう誓いの科白、
「臣左手把其袖、右手揕其匈(臣は左手に其の袖を把り、右手に其の匈を揕さん)」、
そして、秦王への謁見が叶った荊軻が、
果たしてその約束どおり、開かれた地図の中から現れた匕首で、
「左手把秦王之袖、而右手持匕首揕之
(左手に秦王の袖を把り、而して右手に匕首を持ちて之を揕す)」
と記されていたことを思わず想起します。

17・18句目に見える、今と昔とを対比させる発想は、
古詩系統の詩歌には割合よく認められるもので、
より原初的な作品から例を挙げれば、*1
『文選』巻29「古詩十九首」其二にいう、
「昔為倡家女、今為蕩子婦(昔は倡家の女為り、今は蕩子の婦為り)」があります。

また、27句目の動作を言い表す表現は、
『史記』項羽本紀に見える、人物たちの動作を記す次のような記述、
「項王項伯、東嚮坐、亜父南嚮坐。亜父者、范増也。沛公北嚮坐、張良西嚮侍
(項王・項伯は、東に嚮かひて坐し、亜父は南に嚮かひて坐す。亜父なる者は、范増なり。
沛公は北に嚮かひて坐し、張良は西に嚮かひて侍る)」に似ています。

30句目の、短い言葉を畳みかけるような表現は、
『史記』刺客列伝(荊軻)の切迫した場面に認められる次のような記述、
「抜剣、剣長、操其室(剣を抜く、剣長し、其の室を操る)」に通ずるものがあります。*2

このように、左延年「秦女休行」は、漢代宴席文芸との共通項を多く持っています。
すると、この楽府詩が漢魏の宴席で楽しまれていたことはほぼ確実と見てよいでしょう。
楽府詩がそのような性格を持つことはもはや常識ではありますが。

なお、今ここに提示した古詩や『史記』所載の歴史故事は、
漢代の宴席という場で、詠じられたり、演じられたりしていた文芸であって、
両者が宴席で出会って誕生したのが、詠史詩という新ジャンルであったと考えられます。*3

2024年11月30日

*1 数ある古詩の中から、より古層に属するものを抽出し得ることについては、柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)の、特に第二章第一節を参照されたい。
*2 『史記』の記述の中に認められる通俗的口承文芸の片鱗については、宮崎市定「身振りと文学―史記成立についての一試論―」(『宮崎市定全集5』岩波書店、1991年。初出は『中国文学報』第20冊、1965年4月)を参照。
*3 拙稿「五言詠史詩の生成経緯」(『六朝学術学会報』第18集、2017年)を参照されたい。

曹植「精微篇」と漢代宴席文芸

一昨日、「曹植作品訳注稿」の「05-43 精微篇(鼙舞歌4)」を公開しました。

この作品は、漢代「鼙舞歌」五篇の「関東有賢女」に当てて作られたと、
『宋書』巻22・楽志四に記されています。

本作品を通して、曹植が最も言いたかったのは冒頭八句でしょう。*1
そのために、いわば材料として用いられたのが第9句から第56句に至る部分で、
その冒頭に置かれたのが、漢代「鼙舞歌」の題名をまるごと用いた「関東有賢女」です。

「鼙舞歌」は、発祥は不明ですが、
漢代にはすでに宴席文芸として行われていたといいます(『宋書』楽志一)。

その漢代の宴席を彩った文芸の一端として、
曹植「精微篇」の中盤を占める四つの故事を見ることができます。
それは、宗家の仇討を敢行した女性たち、父の窮地を救った娘たちを歌い上げるもので、
男尊女卑、親と子、長幼の序といった、儒教社会を成り立たせている規範を、
豪快にひっくりかえす要素がふんだんに盛り込まれています。

おそらく、曹植にはそのような痛快な女性たちを称揚する意図はなく、
彼女たちの物語は、漢代「鼙舞歌」の内容をそのまま踏襲する部分であったでしょう。

曹植は当時、自身の思いを自由に表現することが困難な状況にありました。
そのため、前代の歌謡を引き写しにして身を守る必要があったと推し測られます。
それが結果として、漢代「鼙舞歌」復元の手がかりを残してくれることになりました。*2

曹植「鼙舞歌・精微篇」を織物にたとえて見てみると、
その文様としては、自身の境遇に奇跡が起こることへの希求が、
その地の部分には、漢代宴席で上演されていた勇敢な女性たちの物語が、
それぞれに浮かび上がってくるようです。
その見え方は、どこにピントを合わせるかによって変わってくるように思います。

作者の意図を探るのは、織物の文様に注目することに当たるでしょう。
当時の一般的な人々の感情を探るには、地の部分に着目することから着手できそうです。

2024年11月28日

*1 林香奈「曹植「鼙舞歌」小考」(『日本中国学会創立五十年記念論文集』1998年、汲古書院)に指摘する。
*2 柳川順子「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として」(『中国文化』第73号、2015年)を参照されたい。

作品の歴史的出没

本日、「曹植作品訳注稿」の「門有万里客」(05-30)を公開しました。

本詩の題名とよく似た楽府題に「門有車馬客行」がありますが、
本訳注稿の解題では、両者の関係性に関わる次のような内容は載せませんでした。

瑟調曲「門有車馬客行」を収載する『楽府詩集』巻40に引く、
陳の釈智匠『古今楽録』によると、
劉宋の王僧虔「大明三年宴楽技録」には、
「門有車馬客行」は、曹植の「置酒」一篇を歌う、と記されている。
(つまり、同じ曹植の「門有万里客」の方には言及がない。)
清朝の朱乾はこのことを疑問視し、
もし「門有車馬客行」と「門有万里客」とが同趣旨なのであれば、
瑟調曲「門有車馬客行」の歌辞として、「門有万里客」を歌えばよいのであって、
なにも「置酒」(『文選』巻27所収「箜篌引」)を歌う必要はないではないか、とした上で、
「門有車馬客」は古題で、曹植は古題から新題「門有万里客」を引き出したのだとする。
(『楽府正義』巻8「門有万里客」)

以上の内容を曹植「門有万里客」の解題から外したのは、
この問題は、作品そのものとはそれほど深く関わらないと判断したからですが、
けれどもひとつひっかかりを覚える点があって、それをこちらに記しておくことにします。

王僧虔が大明三年(459)に魏晋の宴楽の「技録」を復元的に作成した際、
「門有車馬客行」の本辞が失われていたことは確かでしょう。
では、曹植の「門有万里客」の伝存状況はどうだったのでしょうか。

書物の場合、ある時期、忽然と現れたものは偽書の可能性が高い、
と目録学方面の本で読んだことがあるように思います。
では、作品の場合はどうでしょうか。

「門有万里客」は、完全なかたちではない作品のように見えますが、
それが、唐代初めに成った『藝文類聚』巻29に「曹植詩」として収載されています。

たとえば、王僧虔や釈智匠の目には触れないところで実は本詩は伝わっており、
それを、初唐の官撰の類書『藝文類聚』の編纂者が目睹し、書き留めた、
ということは考えられないでしょうか。

出版と同時に、ほぼ均一にその書物が伝播していく現代とは異なって、
ある時代の、ある人々が目にしなかった書物や作品であっても、
後の時代の、ある人々が手に取る機会を得た可能性は、
十分にあるのではないかと考えます。

文字で記されて残っているものだけがすべてではない。
文字に記されてはいないけれど、そこにあったと想定されるものを視野に入れた方が、
はるかに自然な歴史的推移を思い描くことができる場合があるように思います。

2024年9月24日

 

曹植の放埓

曹植は、建安22年(217)以降、
父曹操の寵愛を失うような行動が目立ってきます。

『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝に、その頃のこととして、
天子専用道路を車で通り、勝手に司馬門を開かせて外へ出たことが記され、

その裴松之注に引く『魏武故事』には
曹操の失望を物語ってあまりある、次のような令が載せられています。

始者謂子建、児中最可定大事。
 始めは、子建が子どもたちの中で最も大事を決断できる者だと思っていた。

自臨菑侯植私出、開司馬門至金門、令吾異目視此児矣。
 臨菑侯曹植が勝手に外へ出て、司馬門を開き金門に至るということをしてから、
 わたしはこれまでとは異なる目でこの子を視るようになった。

こうした記述から窺える曹植の人物像は、
建安年間に書かれた曹植自身の作品との間にかなりの落差があります。
そのことが長らく不思議で、腑に落ちないままでした。

ですが、この時期の曹植を取り巻く人々の動向を見るうちに、
もしかしたらこういうことではないか、と思い至ったことがあります。
それはこういうことです。

建安21年(216)、当代の名士で、曹植と姻戚関係もある蔡琰が、
曹操から死を賜るという事件が起こりましたが(『三国志(魏志)』巻12・崔琰伝)、
それは、曹植の腹心である丁儀の讒言によるものです(同巻12・徐奕伝裴注引『傅子』)。

丁氏兄弟の暗躍は、曹操が魏王となったこの頃、とみに酷くなっています。
(彼らの所業については、こちらこちらに記しています。)

すると、先に記した曹植の放埓は、ここに起因する可能性がないでしょうか。
たとえば、「贈丁翼」詩などから読み取れるように、
曹植は丁氏兄弟に対して、真っ当な君子たれと励ましてきましたが、
その誠意を裏切るような彼らの悪事を知って深い落胆を覚え、
自暴自棄になったのではないか、と思ったのです。

けれども、このような捉え方はきれいごとに過ぎるかもしれません。
『魏志』本伝には、それ以前の時期についても、
「任性而行、不自彫励、飲酒不節(性に任せて行ひ、自ら彫励せず、飲酒節あらず)」
と、曹植の放縦な素行が記されています。
もともとあった奔放不羈の性情に、悪いめぐり合わせが絡みついて、
前述のような不埒なふるまいに及んだのかもしれません。

2024年8月6日

詩想と様式

以前にもこちらの雑記で述べたとおり、
曹植の「種葛篇」「浮萍篇」には、夫婦の離別に兄弟の決裂が重ねられています。
これらの作品から、魏の文帝として即位して後の兄曹丕に対する、
曹植の思いを探ることができるでしょう。

一方、同じ黄初年間の曹植には、
臣下(鄄城王)の立場から、魏の文帝としての曹丕に対して献上された、
「責躬詩」「応詔詩」のような作品もあります。

また他方、曹丕が父曹操の跡を継ぐ以前の建安年間、
曹植は、魏王国で開催される宴の様子を描写する「娯賓賦」「侍太子坐」詩の中で、
第三者の立場から、「公子」としての兄の様子を描き出しています。

加えて、曹植は同じ建安年間、
王粲や阮瑀らと同じ場で競作されたと思われる「七哀詩」の中で、
自分と曹丕とを離別した夫婦になぞらえて詠じています。

これらの作品に現れる、曹植の曹丕に対するスタンスは一様ではありません。
それは、時期の違いということばかりではなくて、
それを詠ずる様式の違いにも大きく由っているように思います。

曹植は兄曹丕のことをどのように思っていたのか。
このことを探るためには、時期を追って、詠じられた内容を見ていくだけでは不十分で、
個々の作品が備えている枠のようなものを視野に入れる必要があると考えます。
枠とは、場合ごとに選択的に用いられる作品様式といったことです。
そして、その枠は、曹植自らが選び取った場合もあれば、
そうでない場合もあって、その弁別も不可避です。

2024年8月5日

庭園の内から外へ

過日、曹植「浮萍篇」の冒頭句について、
これを寄る辺なき者の表象と見てもよいのだろうか、と記しました。
これについて、そのように見ることはできるかもしれない、と今は考えています。
それは、次に述べるような理由によります。

以前、曹植「情詩」(『文選』巻29)に見える対句、
「游魚潜淥水、翔鳥薄天飛(游魚は淥水に潜み、翔鳥は天に薄(せま)りて飛ぶ)」に、
彼の「公讌詩」(『文選』巻20)にいう次の対句、
「潜魚躍清波、好鳥鳴高枝(潜魚 清波に躍り、好鳥 高枝に鳴く)」を対置させ、

「情詩」に詠じられた魚と鳥は、
人間世界から離れた場所に身を移そうとしている点で、
「公讌詩」の魚や鳥が庭園内に遊ぶのとは対照的であることを指摘しました。

「浮萍篇」の冒頭に置かれた浮き草も、
鳥や魚と同じく、もともとは庭園内の池に漂う風物であったものです。
そのことは、過日こちらで示した曹丕「秋胡行」や何晏の詩から明らかです。

しかし、鳥や魚がその安穏の場から離脱したように、
浮き草も、園内の池からその外にある江湖に漂うことになったのを、
曹植が詩中で詠じたのだと見ることは不可能ではありません。
その解釈は、王褒「九懐・尊嘉」とその王逸注を踏まえるものとなります。

庭園内からその外へ、その居場所を移して漂う浮き草は、
魏王朝の成立と同時に封地に赴くことを命ぜられ、
以降、転々とその国を移されることとなった曹植と重なります。

しかも、それは王朝からの離脱ではなく、諸侯や王としての立場ですから、
「浮萍篇」の冒頭にいう「浮萍寄清水」と何ら矛盾しません。

2024年8月3日

曹丕も示唆してくれた。

ずいぶん前のことになりますが、
曹植の「七啓」や「妾薄命二首」其一といった作品が、
古詩に関する私論の傍証となり得ることを記したことがあります。

すなわち、
「古詩十九首」其六(『文選』巻29)の如き原初的古詩は、
後宮の女性たちを交えた宮苑内の水辺で誕生したと推定されるが、
そうした情景を再現するような描写が、前掲の二つの作品に認められる、
という内容の、こちらこちらの雑記です。

本日、曹丕「秋胡行」(『藝文類聚』巻41、『楽府詩集』巻36)にも、
同様な描写が、より明瞭に見えていることに気づいたので、
今、ここにその全文を訳出しておきます。

汎汎淥池  さらさらと流れる清らかな池の水、
中有浮萍  その中に水草が浮かんでいる。
寄身流波  それは、流れる波に身を寄せて、
随風靡傾  風に吹かれるがままに靡いている。
芙蓉含芳  芙蓉(ハス)は芳香を含み、
菡萏垂栄  菡萏(ハス)は花びらを垂れている。
朝采其実  朝にはその実を摘んで、
夕佩其英  夕べにはその花を身に帯びる。
采之遺誰  これを摘んで誰に送り届けるかといえば、
所思在庭  思いを寄せるあの人は庭にいる。
双魚比目  比目の魚は目をならべ、
鴛鴦交頸  鴛鴦は首を交えている。
有美一人  ひとりの美しい人がいて、
婉如青陽  そのたおやかさは春の日のようだ。
知音識曲  音曲をよく知っていて、
善為楽方  音楽の演奏に長けている。

ことに、第9・10句目「采之遺誰、所思在庭」は、
「古詩十九首」其六にいう「采之欲遺誰、所思在遠道」のほとんど引き写しです。
こうした表現が、宴の催されている庭園内の一角に見えているのです。

実は、この作品の本文と読み下しは、
比較的最近、こちらに記していたのですが、
その時には、「浮萍」に目を奪われていて、
そこに古詩的世界が再現されていることに気づいていませんでした。
一点に集中すると、他のものが目に入らなくなります。
集中と散漫と、どちらも大事だと思いました。

2024年8月1日

飛ぶ鳥を詠ずる詩の系譜

『藝文類聚』巻90、鳥部上・玄鵠の項に、
曹植、何晏、阮籍の詩が三首連続で収載されていますが、
これらの詩は、次の二つの点で共通しています。

第一に、詠じられているのが一対の鳥であること。

曹植の詩(『曹集詮評』巻4には「失題」として収載)には、
「双鵠倶遨遊、相失東海傍(双鵠 倶に遨遊し、相失す 東海の傍)」と、

何晏の詩には、以前こちらに引用したとおり、
「双鶴比翼遊、群飛戯太清(双鶴 翼を比べて遊び、群飛して太清に戯る)」と、

阮籍の詩(黄節『阮歩兵詠懐詩注』では其43、異同あり)には、
「鴻鵠相随去、飛飛適荒裔(鴻鵠 相随ひて去び、飛び飛びて荒裔に適く)」とあります。

これらの詩が共有している一対の鳥という要素は、
『藝文類聚』で曹植詩の前に引かれた古詩(『玉台新詠』巻1ほか古楽府「双白鵠」)が、
つれあいの病のためにともに飛ぶことができなくなった鳥の夫婦を詠っているのと、
同じ系統に属していると見ることができます。

けれども、第二の共通項は、漢代無名氏の詩歌には認められません。
それは、先の三首の詩が、鳥の飛翔を、網羅から逃れるためだと詠じていることです。

曹植詩にいう、
「不惜万里道、但恐天網張(万里の道は惜しまず、但だ恐る天網の張られたるを)」、

何晏詩にいう、
「常恐天網羅、憂禍一旦并(常に恐る 天網に羅りて、憂禍 一旦并さるるを)」、

阮籍詩にいう、
「抗身青雲中、網羅孰能制(身を抗す 青雲の中、網羅 孰か能く制せんや)」、

これらはいずれも、一対の鳥の飛翔を、網羅からの脱出と重ねています。*1

こうした要素は、前掲の漢代古詩(古楽府)には認められません。

曹植の表現は、隣接する時代の詩人たちにたしかな影響を及ぼしていますが、
ここに示した作品も、その一連の系譜を伝える事例だと言えます。
しばしばその特異性が指摘される阮籍「詠懐詩」ですら、
その来源を遡れば、曹植の表現にたどり着くことが少なくありません。*2

2024年7月30日

*1 同じ発想は、嵆康の「五言古意」詩にも読み取ることができる。興膳宏「嵆康の飛翔」(『乱世を生きる詩人たち 六朝詩人論』研文出版、2001年収載。初出は『中国文学報』16、1962年4月)を参照。ただし、興膳氏の所論は、阮籍や嵆康の詩と建安詩との間には質的な隔たりがあると捉えている。
*2 柳川順子「曹植文学の画期性―阮籍「詠懐詩」への継承に着目して―」(『中国文化』80号、2022年)にその一端を示した。

「浮萍篇」と「吁嗟篇」

曹植「浮萍篇」は、夫の愛情を失った女性の悲しみを詠ずる楽府詩です。
その冒頭に置かれた次の二句、

浮萍寄清水  浮萍 清水に寄り、
随風東西流  風に随ひて東西に流る。

これを見て、まず私は、浮き草を、寄る辺なきものの表象だと捉え、
詩中の彼女は、これに自身を重ねているのだと考えました。

けれども、先日言及した何晏の詩(『藝文類聚』巻90)では、
天がける鳥との対比で、むしろ寄る辺あるものとして浮き草を詠じていました。

また、曹丕の「秋胡行」(『藝文類聚』巻41)は、
庭園の池の中に漂う浮き草を詠じていて、これは流浪の表象などではありません。

他ならぬ曹植の「閨情」詩にも、こうあります。

寄松為女蘿  松に寄せて女蘿と為り、
依水如浮萍  水に依りて浮萍の如し。

ここでは、「女蘿」「浮萍」とも同じ方向性を示し、
何かにすがって生きる植物として詠じられていると見るのが普通でしょう。

それなのに、自分はなぜ「浮萍篇」を見たときに、
その浮き草を、寄る辺なき、根無し草だと捉えたのでしょうか。

その理由の第一は、本詩の語釈にも示したとおり、
これが王褒「九懐・尊嘉」とその王逸注を踏まえていると見られることです。

ですが、もうひとつの理由として、
本詩と「吁嗟篇」との間に認められる表現の類似性があることに思い至りました。

「風」によって「東西」に流される「浮萍」の有様が、
「吁嗟篇」に詠じられた「転蓬」を想起させると感じたのです。

ただ、「浮萍篇」の第一句には「浮萍寄清水」とあります。
「清水」に「寄る(身を寄せる)」と言っている以上、
この詩に詠じられた浮き草は、本当に寄る辺なき境遇の表象だと言えるのか。
「吁嗟篇」との類似性という漠然とした感覚だけではなんとも弱い。
要再考です。

2024年7月29日

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