曹植「当欲遊南山行」の制作年代
曹植の「当欲遊南山行」には、彼の政治思想がうかがえます。
では、その成立年代はいつ頃なのでしょうか。
本詩の末尾に、次のような句が見えています。
仁者各寿考 仁ある方におかれては各々長命であらせられますよう。
四坐咸万年 一堂の皆様におかれても、末永い寿命を与えられますよう祈ります。
これは、あきらかに宴席での決まり文句的な科白です。
曹植はその後半生において、
こうした宴席に参列する機会はほとんどありませんでした。
たとえば、かつてこちらで言及したことのある「求通親親表」に、
毎四節之会、塊然独処、 四節の会ある毎に、塊然として独り処り、
左右唯僕隷、所対惟妻子。 左右には唯だ僕隷のみ、対する所は惟だ妻子のみ。
とあるとおりです。
文帝の黄初年間、明帝の太和年間における曹植には、
宴席で自身の抱負を高らかに開陳するようなことはなかったと思われます。
すると、本詩の成立は建安年間と見るのが妥当でしょう。
このことをめぐって、先人たちの説は次のとおりです。
趙幼文は、この作品を明帝期に繋年し、
人材登用に関する主張が、その「陳審挙表」の内容にほぼ合致するとしています。*1
曹海東は、本詩中に、他者を容れない曹丕への批判を含む可能性を指摘しています。*2
徐公持は、前掲の二句にも言及しつつ、本詩を建安年間中の作と推定しています。*3
現実と詩とを直結させることは、
しばしば読みを狭いところに追い込んでしまうものですが、
思うところあって、今敢えてこの問題に踏み込んでみようと考えています。
2025年9月28日
*1 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)巻3、p.425。
*2 曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.251。
*3 徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.250。
『孔子家語』の辞句と曹植詩
昨日も言及した曹植「当欲遊南山行」(05-33)の第一・二句、
「東海広且深、由卑下百川(東海は広く且つ深し、卑きに由りて百川を下らしむ)」は、
王粛『孔子家語』観周に記された、
金人の背面の銘文に見える次の句ととてもよく似ています。*1
江海雖左、長於百川、以其卑也。
江海は低い位置にありながら、百川を束ねているのは、その低さゆえにである。
曹植詩と『孔子家語』とは、
「海」「長」「百川」「卑」を共有していますから、
両者間にはたしかな影響関係が認められるといってよいでしょう。
ただし、難しいのはその両者の関係性です。
曹植(192―232)と王粛(195―256)とは同時代人です。
ですから、もちろん曹植が『孔子家語』を踏まえたはずはありません。
『孔子家語』については、かつて何度か言及したことがありますが、
狩野直喜が次のように述べるとおり、これは王粛によって作られた偽書です。*2
家語の首に粛の序があり、其の序に据ると、孔子の子孫孔猛の家より発見したと、古書の如く粧ふけれども、左伝・国語・荀・孟・二戴等の書を割裂して作った跡は、顕然として掩ふことは出来ない。
このように『孔子家語』が様々な文献の寄せ集めだとするならば、
そのもととなった言葉に、王粛と同様、曹植も触れていた可能性があります。
ちなみに、『史記』巻89・李斯伝に、次のような類似句が見えています。*3
太山不譲土壌、故能成其大、 太山は土壌を譲らず、故に能く其の大を成し、
河海不択細流、故能就其深、 河海は細流を択ばず、故に能く其の深を就(な)し、
王者不却衆庶、故能明其徳。 王者は衆庶を却けず、故に能く其の徳を明らかにす。
これは李斯の上書中にある語であって、
金人の背面に刻み付けられた銘文ではありません。
そして、この辞句は、昨日示した『管子』形勢解とよく似ていますし、
同じような辞句は、この他にも『説苑』尊賢、『韓詩外伝』巻3などにも認められます。
このように見てくると、
ある理想的な君主像を語る言葉がすでに流布していて、
それが様々な人物の発言や著作物に取り込まれたのだと推し測れます。
『孔子家語』と曹植「当欲遊南山行」との間に認められる表現の近似性は、
その背後に、こうした諺語めいた辞句の存在を想定してはどうだろうかと考えます。
2025年9月27日
*1 このことは、古直『曹子建詩箋』(広文書局、1976年三版)巻4/22aの指摘によって知り得た。
*2 狩野直喜『中国哲学史』(岩波書店、1953年第一刷、1981年第十八刷発行)p.307を参照。
*3 前掲の古直『曹子建詩箋』を参照。
曹植の政治思想
少しずつ進めている「曹植作品訳注稿」、
本日より「当欲遊南山行(「欲遊南山行」に当つ)」(05-33)に入りました。
その最初の四句はこうです。
東海広且深 東の海は広くしかも深い。
由卑下百川 自身の低さによって幾多の川を引き入れるからだ。
五岳雖高大 五岳は高く大きくそびえているけれど、
不逆垢与塵 塵芥のごとき卑小なものを拒んだりはしない。
これを見て真っ先に想起したのが、
曹操「対酒・短歌行」(『宋書』楽志21・楽志三、『文選』巻27)の次の句です。
山不厭高 山は土の堆積により高さが増すのを拒まず、
海不厭深 海は水の増加により深さが増すのを拒まない。
周公吐哺 周公は食事も中断して客人を迎えたが、
天下帰心 これでこそ天下の人民はなつくのだ。
こうした表現内容の近似性からは、
曹植が父曹操をどれほど敬愛していたかがうかがわれます。
曹植は、曹操のこのような政治思想を理想としていたのかもしれません。
前掲の曹操「短歌行」の上二句について、
『文選』李善注は、『管子』形勢解の次の一節を注に挙げています。
海不辞水、故能成其大。 海は水を辞せず、故に能く其の大を成す。
山不辞土、故能成其高。 山は土を辞せず、故に能く其の高を成す。
明主不厭人、故能成其衆。 明主は人を厭はず、故に能く其の衆を成す。
士不厭学、故能成其聖。 士は学を厭はず、故に能く其の聖を成す。
黄節『曹子建詩註』は、前掲「当欲遊南山行」の句について、
李善が曹操「短歌行」に注したのと同じ『管子』形勢解を注に挙げています。
もしかしたら黄節は、両者の近さに気づいていたのかもしれません。
2025年9月26日
曹植「鼙舞歌」五篇の訳注を終えて
本日、やっと曹植「孟冬篇」の訳注を終えました。
(多々あろうかと思われる不備や誤りは随時訂正していきます。)
本詩は、曹植「鼙舞歌」五篇の其五で、
皇帝の狩猟とその後に催される饗宴の様子を描く楽府詩です。
ただ、狩猟とはいっても、実際に野外で行われるそれの実写というより、
やや芝居がかった筆致の描写であるように感じられます。
たとえば、直近ではこちらに記した、慶忌や孟賁のような勇者の様子を描写する、
「張目決眥、髪怒穿冠(目を張りて眥を決し、髪は怒りて冠を穿つ)」が挙げられます。
彼らがもし実際に狩猟に従事している勇者たちならば、
このように見得を切っている暇はないのではと思ってしまうところですが、
これは、現実の彼らの様子がどのようであるかとは関わりなく、
作者がそのように表現したということです。
曹植の描写の筆致は、非常に作り込まれた印象を読者に与えます。
このことは、たとえば張衡の「西京賦」(『文選』巻2)に特徴的な表現、
特に皇帝の狩猟や宴席風景を描く辞句がよく摂取されていることからもうかがえます。
曹植「孟冬篇」は彼の「鼙舞歌」五篇のひとつですから、
他の四篇の「鼙舞歌」と同じく、宴席という場での披露を前提としていたでしょう。
その序にも「成下国之陋楽(下国の陋楽と成す)」と記されているとおりです。
この作品群は、どのような要素から成り立っているでしょうか。
そこから、当時の宴席芸能の有り様を、総体として推し測ることができるでしょう。
2025年9月25日
曹植「孟冬篇」と漢代宴席文芸
曹植「鼙舞歌・孟冬篇」の語釈と本文訓み下しを終え、
やっと本詩の全体像が見渡せるところにまでたどり着きました。
本詩は、曹植の他の「鼙舞歌」と同じく、
宴席芸能としての漢代「鼙舞歌」の作風を踏襲していると推測できます。*1
その一斑として、次のようなことも挙げられます。
『宋書』巻22・楽志四所収の本詩に、
「当狡兎(「狡兎」に当つ)」と注記されています。
このことからすると、
漢代の「鼙舞歌・四方皇」には、*2
「狡兎」という語が含まれていた可能性が高いと言えます。
ちょうど、「当関東有賢女」と注記された曹植「鼙舞歌・精微篇」に、
「関東有賢女」という句がまるごと含まれているように。
そして、曹植「孟冬篇」中に見える「翟翟狡兎(翟翟たる狡兎)」という句は、
先日来何度か言及している『焦氏易林』の、巻4「未済之師」にいう、
「狡兎趯趯(狡兎は趯趯たり)」に近似しています。
「翟」は「趯」と音が近いので、
「翟翟」「趯趯」は、擬態語として同義と見てよいでしょう。
『焦氏易林』は、民間芸能に由来する言葉を豊富に含んでいるようです。
すると、「孟冬篇」もそうした雰囲気を濃厚にまとっている可能性が高いと言えます。
2025年9月24日
*1 柳川順子「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として」(『中国文化』第73号、2015年)を参照されたい。
*2 曹植「孟冬篇」が漢代の「鼙舞歌・四方皇」に当てて作られたと推定できることについては、「大魏篇(鼙舞歌3)」(05-42)の解題を参照されたい。
『焦氏易林』と漢魏詩(承前)
漢代の詠み人知らずの歌辞(古楽府)
「黙黙・折楊柳行」(『宋書』巻21・楽志三)に、こんな句があります。
三夫成市虎 三人の男(の虚言)が市場の虎を出現させ、
慈母投杼趨 (嘘が三たび重なれば)慈母も杼を投げ出して走り去る。
ここには、次の二つの故事が踏まえられています。*
ひとつは、『韓非子』内儲説上、
龐恭が魏王に言った科白の中に見える次のたとえ話、
夫市之無虎也明矣、然而三人言而成虎。
夫れ市の虎無きや明らかなり、然れども三人言はば虎を成す。
もうひとつは、『史記』巻71・甘茂伝、
甘茂が秦の武王に言った科白の中に次のように見えています。
曹参の母に、その息子が殺人を犯したと告げた者が三人となった時、
「其母投杼下機、踰牆而走(其の母は杼を投じ機を下り、牆を踰えて走る)」。
ところがここに、この二つの故事を対で用いている文献があります。
『焦氏易林』巻1「坤之夬」に、
三姦成虎 三人の悪者が(いもしない虎をいると言えば)虎がいることになり、
曽母投杼 (嘘も三たび重なれば)孝行者の曹参の母でさえ杼を投げ出して逃げる。
とあるのがそれです。
前掲の二つの故事が、同じ方向性を指し示していることは確かです。
しかしながら、古楽府「黙黙・折楊柳行」は、
『韓非子』『史記』のそれぞれから故事を選び取ったのだと見るよりは、
もともと二つの故事を対で示す『焦氏易林』から摂取したと見る方が自然でしょう。
また、以前にこちらでも述べたように、
曹植作品にも、この『焦氏易林』を用いたと思われる表現があります。
曹植文学と民間文芸との関係性の深さは、こうした事例からもうかがえます。
2025年9月23日
*古楽府「黙黙・折楊柳行」に関する指摘は、2025年8月31日、第7回『宋書』楽志共同研究会(科研費研究・基盤B「漢魏六朝期の楽府と文学」課題番号:23H00611、代表者:佐藤大志)において、西川ゆみ氏の示された訳注稿による。
『焦氏易林』と漢魏詩
曹植「孟冬篇」に、次のような対句が出てきます。
絶網縦麟麑 網を断ち切って騏驎の子を解き放ち、
弛罩出鳳雛 竹かごを緩めて鳳凰のひなを出してやる。
この「麟麑」という語は見たことがなくて、
ためしに漢籍リポジトリ(https://www.kanripo.org/catalog)で検索したら、
非常に用例の少ない語であることがわかりました。
事実上、曹植のこの楽府詩ともうひとつ、『焦氏易林』巻3「恒之坎」にいう、
麟麑鳳雛、安楽無憂。捕魚河海、利踰徙居。
麟麑・鳳雛は、安楽にして憂へ無し。魚を河海に捕るは、利 居を徙すに踰ゆ。
とあるのみです。
「鳳雛」が「伏竜」と一対で用いられている例は、
『三国志(蜀書)』諸葛亮伝・龐統伝の裴松之注に引く『襄陽記』に見えます。
けれども、「鳳雛」が「麟麑」と対を為す例は、
(伝存資料の限りでは)曹植詩以外では、前掲の『焦氏易林』のみです。
このことは、どう捉えるのが妥当でしょうか。
『焦氏易林』については、これまでにも何度か言及したことがありますが、
(たとえば、直近ではこちら)
なにか、民間に流布していた言葉を多く取り込んでいるような傾向が見て取れます。
そんな『焦氏易林』に由来するかと思われる詩歌が、漢魏の時代には散見します。
たとえば、曹操「惟漢二十二世・薤露」(『宋書』巻21・楽志三)にいう、
沐猴而冠帯 それはまるで猿が正装したような具合で、
智小而謀強 智恵は足らないのに、無謀な計略だけは立派である。
この「沐猴而冠帯」は、『焦氏易林』巻2「剥之随」(或本)にいう、
沐猴冠帯、盗在非位。衆犬共吠、倉狂蹶足。
沐猴 冠帯し、盗みて非位に在る。衆犬は共に吠え、倉狂蹶足す。
を踏まえている可能性が高いと考えます。
『史記』巻7・項羽本紀にいう「人言楚人沐猴而冠耳」よりも、
『焦氏易林』の方がよほど曹操の楽府詩に見える表現に近いでしょう。
曹操も曹植も、『焦氏易林』から言葉を摂取していた可能性があります。
それは、彼らの文学活動が民間芸能と近かったことを物語っているかもしれません。
2025年9月22日
曹植「与楊徳祖書」の主題
昨日からの続きです。
「文学の自覚」を巡って、鈴木虎雄も魯迅もともに言及しているのが、
「文章は経国の大業、不朽の盛事」とうたう曹丕の「典論論文」(『文選』巻52)であり、
これとは一見相対峙するかのようである、“文学は小道”という曹植の主張です。
(もっとも鈴木も魯迅も、これは曹植の本心ではないと言っていますが。)
鈴木虎雄・魯迅の示した曹植の主張は、
彼の「与楊徳祖書」(『文選』巻42)にいう「辞賦小道」に由ります。
けれども、この文章は必ずしも文学評論をその趣旨とするものではありません。
曹植はこの書簡文の中で、楊修に自身の辞賦作品の添削を依頼します。
今往僕少小所著辞賦一通相与。
今 私が年少のころから著した辞賦一束をお送りいたします。
そして、その自作の辞賦について次のように謙遜します。
夫街談巷説、必有可采、撃轅之歌、有応風雅、匹夫之思、未易軽棄也。
そもそも街角での談話にも必ず取るべき何かがあり、
轅を撃って歌う民間歌謡にも風雅に合致するものがありまして、
つまらぬ男の思いにも、軽々しく捨てるわけにはいかないものもあります。
「辞賦小道」は、これに続いて登場するフレーズです。
辞賦小道、固未足以揄揚大義、彰示来世也。
辞賦は小道であって、もとより大義を称揚し、未来に顕彰するには足りないものです。
そして、このことを具体的に展開させて、
揚雄が彫虫篆刻の児戯である辞賦を「壮夫は為さず」としたことと、
藩侯としての地位にある者として、その任務を全うしたいという自身の志が記されます。
加えてこの後に、もし藩侯としての仕事が実を結ばなかった場合は、
著述に尽力したいとの志が語られています。
ここにいう著述とは、
「采庶官之実録、辯時俗之得失、定仁義之衷、成一家之言」
すなわち、思想的、学術的な著述をいいます。
このように見てくると、
曹植のこの書簡文の趣旨が「辞賦は小道」の主張でないことは明白ですし、
(そもそも辞賦に価値がないと思うなら、楊修に添削を依頼したりしないでしょう。)
彼の価値観は、曹丕「典論論文」の趣旨とほとんど重なり合うことが知られます。
2025年9月21日
魯迅と鈴木虎雄
魏における「文学の自覚」をめぐる言説が、
魯迅と鈴木虎雄との間でよく似通っていることは昨日述べました。
その中で、曹植「与楊徳祖書」にいう“文章は小道”に対して、
両者はそれぞれ次のように言及しています。
まず、時期的に先行する鈴木虎雄の評論にはこうあります。*1
曹植の与楊徳祖書には辞賦についての説を為せり。其の言ふ所によれば辞賦を以て小道とし重んずるに足らずとなすに似たり、曰く……
之によれば植は寧ろ文筆よりも直接に事功を樹てんとし、若し事功を樹つるを得ずんば書を著はし一家の言を為さんと言ふなり。然れども是蓋し激するあるの言にして真に辞賦を以て小道取るに足らずとなすに非るべし。彼は寧ろ文学者として成功せるものなり。……
続いて、魯迅の評論を、
昨日に続き、竹内好による通釈で示せば次のとおりです。*2
曹丕は、文章によって名声を千載に残すことができる、と申しましたが、子建(曹植)は反対に、文章は小道で、論ずるに足りない、と言いました。しかし私の考えでは、この子建の論は、たぶん本心ではないと思います。それには、原因が二つあって、第一に、子建は文章がうまい。人といものは、とかく自分のやることには不満で、他人の仕事を羨むものであります。……第二に、子建の目的は政治活動にあったが、政治のほうではあまり志を得られなかったので、それで文章は無用だというようになったのであります。
このように、“文章は小道”をめぐっても、両者の論説はよく似ています。
魯迅が鈴木虎雄の評論に触れていた可能性は非常に高いと言えます。
(あるいは、このことはすでに先人によって指摘されているかもしれません。)
魯迅が日本文学から多くのインスピレーションを得ていたことは、
秋吉收『魯迅 野草と雑草』(九州大学出版会、2016年)が詳述するところですが、
もしかしたら文学作品のみならず、その文学評論においても、
魯迅は日本の論壇に注目し、それらから摂取していたのかもしれません。
彼はどのような文献に目を通していたのでしょうか。
2025年9月20日
*1 鈴木虎雄『支那詩論史』(弘文堂書房、1927年)所収「魏晋南北朝時代の文学論」p.42を参照。本論文の初出は『藝文』1919年10月―1920年3月。
*2 竹内好編訳『魯迅評論集』(岩波文庫、1981年)p.168~169を参照。原文を魯迅「魏晋風度及文章与薬及酒之関係」(『魯迅全集3・而已集』人民文学出版社、1981年)p.504によって示せば、「曹丕説文章事可以留名声于千載;但子建却説文章小道、不足論的。拠我的意見、子建大概是違心之論。這里有両個原因。第一、子建的文章做得好、一個人大概総是不満意自己所做而羨慕他人所為的、……第二、子建活動的目標在于政治方面、政治方面不甚得志、遂説文章是無用了」と。この文章の初出は、国民党政府広州市教育局主催で、1927年7月に広州で開催された広州市立師範学校講堂で行われた開幕式での講演録である。前掲『魯迅全集3』p.517注(2)を参照。
「文学の自覚」をめぐって
過日、魯迅が魏の文学を、
「文学の自覚」という語で文学史的観点から評したことに触れました。
この評語に関して、張朝富氏の論著に次のような指摘がありました。*1
以下、日本語で通釈したものを引用します。
我が国における「文学の自覚」説は、魯迅の「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」に始まる。この文章は、1927年、魯迅が広州で行った講演の原稿であり、後に同じ題名で発表された。
この説を最も早く提示したのは魯迅であるのかどうか。このことについて、ある人は異議を唱えている。というのは、夙に1920年、日本人の鈴木虎雄が、日本の雑誌『藝文』に発表した「魏晋南北朝時代の文学論」の中で、明確に「魏は中国文学の自覚の時代だ」と論じているからである。
張朝富氏が示された鈴木虎雄の評論は、
『支那詩論史』(弘文堂書房、1927年)の第二篇「魏晋南北朝時代の文学論」で、
本書の序によると、初出は1919年10月から翌1920年3月の『藝文』だとのことです。
その第一章は、たしかに「魏の時代―支那文学上の自覚期」と銘打たれ、
この説を裏打ちする具体例として上げられたのが、曹丕の「典論論文」であること、
また、相対立する主張を述べる曹植の「与楊徳祖書」に言及する点も含めて、
鈴木の所論は、魯迅の前掲の文章とまったく一致しています。
魯迅の前掲講演録には、こうあります。*2
ちかごろの見方で申しますと、曹丕の時代というものは「文学の自覚時代」であった、ということができます。あるいは、かれは、このごろよくいう「芸術のための芸術」派でありました。
この言い方からすると、
いわゆる「文学の自覚」は、魯迅自身が創出した評語ではなく、
すでにある程度流布していた「ちかごろの見方」だということになります。
魯迅のいう「ちかごろの見方」とは、
鈴木虎雄の所論を指していうものであった可能性がないとは言い切れません。
2025年9月19日
*1 張朝富『漢末魏晋文人群落与文学変遷―関於中国古代『文学自覚』的歴史闡釈』(巴蜀書社、2008年)p.3を参照。
*2 竹内好編訳『魯迅評論集』(岩波文庫、1981年)p.168を参照。