曹植「鷂雀賦」の制作時期

以前、こちらで曹植の「鷂雀賦」に言及し、
この作品の成立を、魏の黄初二年とする先行研究を紹介しました。

ところがその後、これを黄初三年の作と記す資料があることを、
本学大学院で学ぶ陳詩宇さんから教わりました。

黄初二年と記すのは、
清朝の張仲炘撰『湖北金石志』(出版地・出版者・出版年は不明)で、*
その巻三「鷂雀賦碑」に次のような説明が見えています。

佚。抂枝江県楊内翰宅。係草書。前有隋大業皇帝序云、陳思王魏宗室子也。後題云、黄初二年二月記。〈輿地碑記目〉
佚。枝江県の楊内翰が宅に抂(あ)り。草書に係る。前に隋の大業(605―617年の年号)の皇帝[煬帝]が序有りて云ふ、「陳思王は魏の宗室の子なり」と。後に題して云ふ、「黄初二年二月記す」と。〈『輿地碑記目』〉

「抂」は、「在」の誤記でしょう。下文の『輿地碑記目』からもそれと知られます。
「係」は、現代中国語でいう「是」だと解釈されます。

著者の張仲炘によると、この記述は『輿地碑記目』に拠ったものだといいます。

そこで、宋の王象之撰『輿地碑記目』(奥雅堂叢書)を確認すると、
その巻二「江陵府碑記」に記録された「鷂雀賦碑」に次のようにありました。

在枝江県楊内翰宅。係草書。前有隋大業皇帝序云、陳思王魏宗室子也。後題云、黄初三年二月記。
枝江県の楊内翰が宅に在り。草書に係る。前に隋の大業の皇帝が序有りて云ふ、「陳思王は魏の宗室の子なり」と。後に題して云ふ、「黄初三年二月記す」と。

この『輿地碑記目』に、もし伝写の過程で生じた誤りなどがないのであれば、
『湖北金石志』にいう「黄初二年」は、正しくは「黄初三年」だということになります。

そして、「黄初三年二月」に「記」したのが曹植本人であるならば、
この作品は、その制作時期を踏まえて解釈されることを作者が望んでいることになります。
また、その解釈は、先行研究におけるそれとは少なからず変わってくるはずです。

2024年3月31日

*本書、及び下文の『輿地碑記目』は、東京国立博物館資料館で目睹しました。お世話になった資料館の方々に深く御礼申し上げます。

張華における曹植文学

先日、晋楽所奏「大曲」の撰者を張華と推定する論文を書きました。*1

もしこの拙論が的を得ているとするならば、
「大曲」に曹植の楽府詩「箜篌引」を組み入れた張華は、
魏王朝の一員でありながら不遇な後半生を余儀なくされた曹植に対して、
心を痛め、哀悼の念を抱いていたと推察することができます。*2

けれども、張華が引き寄せられたのは、
必ずしも曹植のこうした悲劇的境遇ばかりではないはずです。

というのは、かつてこちらでも述べたとおり、
張華による宮廷雅楽の歌辞「晋四廂楽歌十六篇」其五(『宋書』巻20・楽志二)に、
「枯蠹栄、竭泉流(枯蠹は栄(はな)さき、竭泉は流る)」とあって、
これが、曹植「七啓」(『文選』巻34)にいう次の句を踏まえると見られるからです。

夫辯言之艶、能使窮沢生流、枯木発栄。
夫れ辯言の艶なるは、能く窮沢をして流れを生じ、枯木をして栄を発(ひら)かしむ。

「七啓」は、曹植が幸福な日々を送っていた建安年間の作です。
その中に見える特徴的な表現を、張華は取り上げて雅楽歌辞に組み入れているのです。

張華は、曹植の様々な作品を読み、その傑出した美に引き付けられていたでしょう。
その一方で、曹植の人柄と、それに見合わない不遇とに心を痛めていた。

曹植に対する同様な眼差しは、同時代の歴史家、魚豢にも認められます。
(このことは、たとえばこちらこちらで述べました。)

なお、枯木が花を咲かせるという発想は、
『関尹子』七釜篇にも次のとおり見えています。

人之力有可以奪天地造化者、如冬起雷、夏造冰、死屍能行、枯木能華……
人の力の以て天地造化を奪ふ可き者有るは、冬に雷を起こし、夏に冰を造り、死屍の能く行き、枯木の能く華さき……の如きあり

けれども、この発想が、
涸れ沢から水が流れ出るという発想と対で用いられている例は、
今のところ曹植「七啓」以外には見当たりません。
ならば、張華が直接的に踏まえたのは、曹植「七啓」だと見てよいでしょう。

2024年3月28日

*1 『九州中国学会報』第62号(2024年5月)に、「晋楽所奏「大曲」の編者」と題して掲載される予定です。なお、本拙論は、昨年8月27日、中国の承徳で開催された楽府学会第6回年会・第9回楽府詩歌国際学術研討会での口頭発表「探討晋楽所奏“清商三調”与“大曲”的関係」に大幅な加筆修正を加えたもので、発表のスライドはこちらからご覧になれます。
*2 「箜篌引」は建安年間の作ですが、その歌辞を「野田黄雀行」の楽曲に合わせて歌うよう指示しているところに、こうしたことを読み取ることができると考えます。他方、「大曲」の前に置かれている「清商三調」の編者は荀勗であることが確実ですが、彼が曹植作品を取り上げた可能性はほぼ無いと判断されます。詳細は、前掲注の拙論をご覧いただければ幸いです。

晋楽所奏「野田黄雀行」について(承前)

曹植の楽府詩「箜篌引」が、
西晋の宮廷音楽「大曲」の一曲に組み入れられ、
「野田黄雀行」の楽曲に乗せて歌われたことに関して、
清朝の朱乾『楽府正義』巻8には、次のような解釈が見えています。

まず、「野田黄雀行」として、
「置酒高殿上」に始まる歌辞(「箜篌引」)を記した後にこうあります。

楚策荘辛曰、黄雀俯噣白粒、仰棲茂樹。鼓翅奮翼、自以為無患、不知夫公子王孫、左挟弾、右摂丸、将加己乎十仞之上。取義於此、大概在相戒免禍、故与空侯引同。子建処兄弟危疑之際、勢等馮河、情均弾雀。詩但言及時為楽、不言免禍、而免禍意自在言外。意漢鼓吹鐃歌黄雀行、亦此意也。

(『戦国策』)楚策に荘辛曰く、「黄雀は俯しては白粒を噣(ついば)み、仰ぎては茂樹に棲む。翅を鼓し翼を奮ひて、自ら以て患ひ無しと為(おも)ひ、夫の公子王孫の、左に弾を挟み、右に丸を摂(と)りて、将に己に十仞の上より加へんとせるを知らず」と。義を此に取り、大概は相戒めて禍を免れしめんことに在るは、故(もと)より「空侯引(箜篌引)」に同じ。子建は兄弟危疑の際に処りて、勢は「馮河」(『易』泰卦九二爻辞)に等しく、情は弾雀に均し。詩には但だ「時に及びて楽しみを為せ」と言ふのみにして、免禍を言はず、而して免禍の意は自ら言外に在り。意(おも)ふに漢の鼓吹鐃歌「黄雀行」(恐らくは『宋書』巻22・楽志四所収「艾如張曲」を指すか)も、亦た此の意なり。

続いて、「高樹多悲風」を第一句とする「野田黄雀行」を記してこう言います。

自悲友朋在難、無力援求而作。猶前詩久要不可忘四句意也。前以望諸人、此以責諸己。風波以喩険患、利剣以喩済難之権。

自ら 友朋の難に在るも、求めを援(たす)くるに力無きを悲しみて作る。猶ほ前詩の「久要不可忘(久要 忘る可からず)」四句の意のごときなり。前は以て諸(これ)を人に望めども、此は以て諸を己に責む。「風」「波」は以て険患に喩へ、「利剣」は以て難を済(すく)ふの権に喩ふ。

朱乾のこの解釈の中には、
どう捉えるべきか、読解に難渋するところがあります。
たとえば、「前以望諸人」の「前」とは、前掲「置酒・野田黄雀行」をいうのか、
それとも、「高樹・野田黄雀行」の中に流れる時間の前部なのか。
このいずれの解釈を取るにせよ、「望諸人」とは具体的に何を指すのか。

読解できない点は残しつつも、
朱乾がこの両歌辞の間につながりを感じ取り、
そこに意味を見出そうとしていることは確かだと言えます。
傾聴に値する解釈であるように私には思われました。

2024年3月27日

 

晋楽所奏「野田黄雀行」について

曹植の「箜篌引」(『文選』巻28)は、
西晋王朝の宮中で「野田黄雀行」の楽曲にのせて歌われました。

『宋書』巻21・楽志三、「大曲」の当該歌辞には、
「野田黄雀行」という楽府題の下に、
「空侯引亦用此曲(空侯引は亦た此の曲を用ふ)」と記されています。
つまり、「箜篌引」は「野田黄雀行」のメロディを用いて歌われることもある、
という言い方で、歌辞と楽曲との関係性を説明しているのです。

これは、『宋書』楽志の編者である沈約において、
曹植のこの歌辞は、一般には「箜篌引」として流布しており、
晋楽所奏「大曲」の一曲としては、「野田黄雀行」のメロディで歌われる、
という認識であったことを示しています。

沈約(441―513)の生きていた南朝当時、
「箜篌引」が「野田黄雀行」として歌われることは、
やや特殊なケースだと認識されていたらしいことがうかがわれます。

では、晋楽所奏「大曲」において、
「箜篌引」を「野田黄雀行」の楽曲で歌うよう指示されているのはなぜか。

この問題については、かつて何度か言及したことがあって、
たとえばこちらで「曹植と張華とを結ぶ糸」の見通しを述べていますが、
これから本腰を入れて検討するつもりです。

2024年3月26日

擬態語の解釈

古楽府「善哉行」(『宋書』巻21・楽志三)の中に、
次のような表現が見えています。

月没参横、北斗闌干。
 月は没して参(オリオン座の三星)は横たわり、北斗は闌干たり。

ここにいう「闌干」は、韻母(母音)を重ねる畳韻語で、様子を音で表現しています。
では、この擬態語はどのような様子を表現しているのでしょうか。

唐代の詩では、涙がはらはらと流れ落ちるさまを表す語としてよく目にします。
白居易「戯題盧祕書新移薔薇」(『白氏文集』巻15、0850)に、

風動翠条腰嫋娜  風が緑の枝を動かせば、その腰はなよやかに揺れ、
露垂紅萼涙闌干  露が紅色の花びらから滴ると、涙がはらはらと流れ落ちるようだ。

とあるのがその一例です。

また、後漢末の蔡文姫(蔡琰)の悲劇を詠じた「胡笳十八拍」第十七拍にいう、
「嘆息欲絶兮涙闌干」の「闌干」も、同じように解釈できます。*1

では、前掲の漢代古楽府「善哉行」にいう「闌干」はどうなのでしょうか。

近人の黄節(1874―1935)の『漢魏楽府風箋』(中華書局、2008年)は、
これに「横斜貌(横斜のさまなり)」という語釈を付け、
余冠英(1906―1995)の『楽府詩選』(人民文学出版社、1997年)は、
これをそっくりそのまま踏襲しています。*2
小尾郊一・岡村貞雄『古楽府』(東海大学出版会、1980年)も、
「ななめに傾く」と注記して、先人の説をさりげなく襲っています。

ですが、ずっと継承されてきたこの語釈には、根拠が示されていません。
根拠を探し出そうとしても、案外こうした文脈での「闌干」は用例が少ないのです。*3

他方、この語が形容する対象は異なりますが、
左思「呉都賦」(『文選』巻5)に、黄金や珠玉の豊富さを描写して、
「金鎰磊呵、珠〓[石+非]闌干(金鎰は磊呵たり、珠〓は闌干たり)」とあります。
ここから類推して、「善哉行」で北斗七星を形容していう「闌干」を、
「きらきらと縦横に光を放つさま」と解釈することはできないでしょうか。
星の光と、金や玉の輝きとは、硬質の美という点で共通するように感じられます。
ただ、北斗七星から、奔放にまき散らされる光のイメージはやや浮かびにくくもあって。

擬態語はイメージを言い表す言葉なので、
当時を生きる人間ではない以上、語釈に難渋して当然かとも思います。

2024年2月16日

*1 この表現を根拠に、この作品の成立を唐代と判断する論者がいる。入矢義高「紹介「胡笳十八拍」論争」(『中国文学報』13、1960.10)p.133、137を参照。
*2『漢語大詞典』も、本詩を曹植の作とした上でこれを襲っている。
*3 古楽府「満歌行」(『宋書』楽志三所収「大曲」)には「攬衣起瞻夜、北斗闌干(衣を攬りて起きて夜を瞻れば、北斗は闌干たり)」という句が見えている。だからといって、的確な語釈には直結しない。

同時代人の捉えた語意

曹植集に紛れ込んだ古楽府「善哉行」(『宋書』巻21・楽志三)の、
第一句「来日大難」にいう「来日」について、

『漢語大詞典』(1冊目/p.1298)は、
この「善哉行」を挙げて、〈往日、過去的日子〉と説明しています。

この解釈の直接的な根拠となったのは、
続けて引かれる李白「来日大難」(『李太白文集』巻5)に、
清の王琦(四部備要『李太白全集』巻5)がこう注していることでしょう。*

来日、謂已来之日、猶往日也。
 来日とは、已に来たるの日を謂ひ、猶ほ往日のごときなり。

李白の本作品は以下のとおり、明らかに古辞「善哉行」を踏まえています。
そして、その内容はたしかに王琦の説くとおり、過去を指して言うように読めます。

来日一身 携糧負薪  来日 一身、糧を携へ 薪を負ふ。
道長食尽 苦口焦唇  道は長く食は尽き、口 苦(にが)く 唇 焦げたり。
今日酔飽 楽過千春  今日 酔飽、楽しみは千春を過ぐ。
仙人相存 誘我遠学  仙人 相存して、我を誘ひて遠く〈仙術を〉学ばしめんとす。
……

ですが、古楽府「善哉行」の「来日」を、
『漢語大詞典』に従って、本当に過ぎ去った日々と解釈してよいでしょうか。

というのは、晋楽所奏の古辞「善哉行」を耳にしたに違いない陸機が、
その「短歌行」(『文選』巻28)の中で、次のような対句を提示しているからです。

来日苦短 去日苦長  来たる日 苦(はなは)だ短く、去る日 苦だ長し。
今我不楽 蟋蟀在房  今 我 楽しまずんば、蟋蟀 房に在らん。

ここに見えている「来日」は、「去日」と対句である以上、
これから自分に訪れるであろう日々を指して言っていることは確実です。
『漢語大詞典』も、これを挙げて〈未来的日子〉と解しています。

なお、陸機の前掲句の、特に一句目が、
曹植「当来日大難(「来日大難」に当つ)」にいう
「日苦短、楽有餘(日は苦だ短く、楽には餘り有り)」を踏まえていることは、
『文選』李善注も指摘しているとおりです。*

李白(701―762)と陸機(261―303)とは、生きた時代が遠く隔たっています。
西晋王朝の宮中で歌われた古楽府「善哉行」にいう「来日」の意味は、
その歌曲が流れる空気の中にいた、同時代人の陸機の方が、
より的確に捉えていると見てよいだろうと思います。

2024年2月14日

*ただし、現行の李善注は、「曹植苦短篇曰、苦楽有餘(曹植の「苦短篇」に曰く、「苦楽 餘り有り」と)」とあって、楽府題からして現存作品とは異なっている。

 

その人らしい詩

曹植作品訳注稿は、本日「善哉行」に入りました。

といっても、この作品は、『宋書』巻21・楽志三をはじめとして、
歴代の文献では、詠み人知らずの古辞とされています。*
このことについて、丁晏『曹集詮評』巻五には次のようにあります。

此篇張無之。楽府三十六御覧四百十均作古辞、程誤収入、提要已加駁正。
惟藝文四十一引為植作、今姑存之。然細味詩意、乃漢末賢者憂乱之詩、似非子建作也。

この篇、明の張溥「漢魏六朝百三名家集」所収『陳思王集』には見えていない。
『楽府詩集』巻36、『太平御覧』巻410はともにこれを古辞としているが、
明の万暦年間の休陽程氏刻本十巻は、誤ってこれを採録していて、
このことは『四庫全書総目提要』巻148、集部・別集類の、
「曹子建集十巻」においてすでに論駁是正されている。
ただ、『藝文類聚』巻41に引くところでは曹植の作となっているので、
今とりあえずはこの篇を残しておく。
けれども、仔細に詩の趣旨を吟味してみると、
どうやらこれは漢末の賢者が乱世を憂える詩であって、
曹植の作品ではないように思われる。

では、この「善哉行」は、どこが曹植らしくないのでしょうか。

曹植には、本詩の第一句「来日大難」を題目に示す楽府詩「当来日大難」があります。
両者の比較を通して、曹植らしさというものが明らかになるかもしれません。

2024年2月12日

*漢魏晋時代の俗楽系宮廷歌曲を最もよく保存する『宋書』楽志三も、「来日大難」に始まるこの「善哉行」を、「清商三調」瑟調の「古詞」として採録している。

魏晋時代の押韻

本日、曹植「丹霞蔽日行」の訳注稿を公開しました。

今回から、脚韻についても調べ、記入していくことにしました。
すでに公開している訳注稿にも追記していく予定です。

近体詩が成立する以前のこの時代ではあるのですが、
後に『切韻』系韻書に集約されていくような音韻の体系が、
この頃すでに認められるらしいということを、
参加している『宋書』楽志の読書会の中で知りました。
そこで、それを曹植作品においても検証してみようと思ったのです。

韻目は、北宋初めに成った『広韻』に依って示しますが、
これはあくまでも目安として記すにすぎません。

『広韻』で「同用」とされず、
『平水韻』で同じ韻目とはなっていなくても、
また、小川環樹先生が「古詩通押」としていないものも、*1
曹植においては通じて押韻しているらしいものは、「、」でつなぎ、
韻が切り替わっていると見なせるものについては、「。」で区切っています。

おそらく、先人の研究成果を追認する結果となるだろうと予測されますが、*2
曹植という、この時代としては比較的多くの作品を残している人物の作品全体を通して、
当時の押韻情況を確認することには意義があろうかと思います。

2024年2月11日

*1 小川環樹「唐詩の押韻 および韻書」(『中国詩人選集』別巻『唐詩概説』岩波書店、1958 年第 1 刷、1979 年第 20 刷に収載)を参照。この一覧表を打ち出したものを、こちらに公開しています。
*2 門外漢の手元にあるものとして、于安瀾『漢魏六朝韻譜』(河南大学出版社、2015年)、羅常培・周祖謨『漢魏晋南北朝韻部演変研究』(中華書局、2007年)。

書き替えの足跡

今読んでいる曹植「丹霞蔽日行」は、かなり異同の多い作品です。

中でもその第7・8句目、底本(『曹集詮評』巻5)では、
「漢祚之興、秦階之衰(漢祚 之れ興こり、秦階 之れ衰ふ)」ですが、

唐代初めの類書『藝文類聚』巻41に引くところでは、
「漢祖之興、階秦之衰(漢祖の興こるは、秦の衰へるに階る)」となっています。
(『楽府詩集』巻37も同じなのは、『藝文類聚』を襲ったのでしょうか。)

宋本『曹子建文集』では、「漢祖之興、秦階之衰」です。

どういうわけで、このような異同が生じたのでしょうか。

思うに、まず初めにあったテキストは、おそらく、
『藝文類聚』に記されているのと同じ「漢祖之興、階秦之衰」だったでしょう。

ところが、両句とも下の二字が類似する形を取っているので、
これに合わせて、「漢」と「秦」とを句中の同じ位置に揃えたのではないでしょうか。
この二句が対句を為すのだとすれば、王朝名は同じ位置に来るのが自然ですから。

更に、この詩は王朝の切り替わり、易姓革命を詠じているので、
天から授けられた王朝の命脈をいう「祚」が、「祖」に取って代わられたのでしょう。
この二字は字形が似ていて、少し摩耗すれば容易に「祖」は「祚」になります。

加えて、「階秦」の「階」は語釈を要する難解な字義ですが、
他方、「秦階」は、既視感のある「泰階」という語と字面がよく似ています。
「泰階」は、星座の名であると同時に地上の王朝をも象徴的に表すので、
意味としても文脈に沿っているように見えます。

こうした要素が複合的に重なって、
底本のようなテキストとなったと推測できるように思います。

このように書き替えの足跡を辿ってゆくと、
一貫した傾向として、より理解しやすい方へと流れているように看取されます。

分かりたいという欲求は、人として普遍的な心性なのでしょう。
その普遍の前に立ち止まって、面倒なことを考えるのが研究者なのかもしれません。
常識を破るような新見地は、そうして見つけられるものなのだと思います。

2024年2月9日

母語で書くということ

昨年の夏に行った、中国での口頭発表
「探討晋楽所奏“清商三調”与“大曲”的関係」をもとに、
先日まで、日本語の論文に書き直していました。
昨日、「大曲」の編者なる語がふと出てきたのはそのためです。)

すでに発表原稿があるのだからそれほど時間はかからないだろう、
と思っていたら、とんでもないことでした。

母語で書くとは、手慣れた表現の手段などではなく、
むしろ、考えるための道具だと言った方がよいのではないかと思います。

それは、自身の考察内容を改めて問い返す、
鋭利な刃物で、論の筋目のその奥へと切り込んでいくような作業でした。

発表原稿を準備する段階では気づいていなかった論理の飛躍は目につきますし、
また、本当にそう言い切れるのか、詰めの甘かった部分もありました。

そのような再検討をする中で、新たに知ったこともあります。
(もしかしたら周知のことなのかもしれませんが)

そのひとつが、阮籍の兄の子、阮咸に関する次のような逸話でした。
『宋書』巻19・楽志一にこうあります。*

勗作新律笛十二枚、散騎常侍阮咸譏新律声高、高近哀思、不合中和。
勗以其異己、出咸為始平相。
 荀勗は新しい音律の笛十二枚を作ったところ、
 散騎常侍の阮咸は次のように批判した。
 新律は音調が高く、高きは悲哀に沈む亡国の音に近く、中和の世には合致しない、と。
 荀勗は、彼の主張が自身とは異るという理由で、始平(長安の西方)の相に左遷した。

同様の記事は、『晋書』巻49・阮籍伝付阮咸伝にも次のように見えています。

荀勗毎与咸論音律、自以為遠不及也、疾之、出補始平太守。以寿終。
 荀勗は阮咸と音律を論ずるたびに、自分は彼に遠く及ばないと自ら思い、彼を憎んで、
 都から出して始平太守に就任させた。阮咸は天寿をまっとうした。

荀勗は同様な仕打ちを、張華に対しても(『晋書』巻36・張華伝)、
張華が高く評価した陳寿に対しても行っていますが(『晋書』巻82・陳寿伝)、
阮咸も彼の標的になったとは驚きでしたし、
その理由が、自分とは見解が異なる、自分より優れているからだとは呆れました。
もっとも、彼には彼なりの理由があったのでしょうが。

2024年2月8日

*釜谷武志「六朝の楽府と楽府詩」(課題番号14310203、平成14年度~平成16年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(2))研究成果報告書)p.31注(18)を参照。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 80